天草一つの靴 〜小字をゆく〜
【二日目】教良木〜本渡
大平という集落にいる。教良木川に沿った狭い盆地の一角である。
教良木川は二つの水路が集まり、ダムから流れる水を受け、金性寺の辺りで別の流れと一つになる。それから先は川といえるが、それまでは小川に過ぎない。
源流の一本は南から来ている。鷺力という集落に水源があるらしい。もう一本は西から来ている。大山という集落から始まっており、一つの靴は大山の水源を目指して歩く。
Mさん宅を午前8時に出た。奥さんは予告通り早朝に出られたようで不在であった。二日酔いの呆けた頭で朝食を頂き、体が重くなるほど水を入れた。水を入れて薄めねば昨日の焼酎が暴れてしょうがない。手も足も吐息も頭も、全てアルコールに浸かっているように思われた。
大平の盆地に薄い霧がかかっていた。Mさん宅を出た後、ゆるり振り返れば、大平の集落は靄の中にあった。Mさんが家の前で見送ってくれていたが、すぐに霞んでしまった。浦島太郎が竜宮城を出る時、こういった感じを覚えたのではないか。風景も手足の感覚も現実感が欠けているように思われた。
狭い盆地はすぐに終わった。持田、黒仁田、数戸しかない小さな集落を越えると盆地は尽き、それから先は小川に沿った山道であった。霧も尽きた。
県道はこのままゆけばトンネルへ続く。が、一つの靴はトンネルを通らない事を誓っている。左に逸れた。
県道は小川から離れてゆく。狭い道は小川に沿って上ってゆく。これから先、手元の地図は破線になっている。つまり、よく分からないという事だが、小川さえあれば地図から離れない。力強い足取りで前へ進んだ。
人はいない。むろん民家もない。足元も舗装されていない。が、車が通った跡はある。少しゆけば右へ曲がる道があるはずであった。
(そろそろだと思うが?)
(この変じゃなかろか?)
(まさか、これ?)
密林の中に古くは道だったような、道じゃなかったような、よく分からない不自然な茂みがあった。行く事を試みたが、トゲのある植物が狭い空間に飛び出していて、とても前へ進めなかった。人が通った跡もなかった。
(違う、これは行けない)
諦めて細い道を真っ直ぐ進むと軽トラも行けない狭い道になった。次いでバイクも行けない獣道になった。左にあった小川がなくなっていた。現在地が地図で追えなくなった。
「迷ったのでは?」
気付いたがもう遅い。
一つの靴の密かな自慢は戻らない点にある。
「人生は旅」
そう公言している手前、逆走は許されないと自らに言い聞かせている。更に進んでみた。
人の住む雰囲気と光が徐々に失われていった。高まるのは獣の雰囲気と己が鼓動だけである。古くはこの道を木こりが歩いていたと思うが、林業が遠くなり、打ち捨てられたに違いない。
今年は猪による農作物の被害がひどいらしい。特に天草は猪天国という事で、150キロを超えるシシ神様が何頭も見付かったと聞いている。
猪は車で轢いた事がある。阿蘇の山道でぶつかったが、車が大破した割に猪は無傷で走り去った。つまり猪という奴は恐ろしく頑丈で、ぶつかれば必ず負ける。目が合えば突進してくるともいう。熊本では何名かの人が体当たりを食らって死んでいる。アノ巨体が突っ込んでくると思うとそれだけで足がすくむ。
過去、自転車による日本縦断の際、暴走族にテントを囲まれた事がある。あの時と今が同じ心境であるが、彼らは人である。話せば分かる。現に話して解放された。相手が獣では小粋なギャグもモノマネも、全く通じないではないか。
道が更に暗くなった。と、同時に、背後で何か忍び寄る音がした。
「目を合わせない! 走らない! 大声を出さない!」
木こりに聞いた「獣対策・鉄の三条」を呟きながら、一つの靴は真っ直ぐ歩いた。アルコールは完璧に飛んでいた。体中を冷汗が覆っていて、坂道なのに肌寒かった。
「アオーン!」
犬の遠吠えが聞こえた。猪ではない。その事に安堵したが、野犬はもっとまずいのではないか。古い時代、旅人の天敵は狼であった。犬も四捨五入すれば狼になる。ましてやそれが捨て犬の群れであったら人への怒りは想像を絶するものがあるだろう。
「アオアオーン! アオーン!」
遠吠えに応える犬の声がした。応える犬の数が増えている。声が近付いているような気もする。心拍が恐ろしく速い。が、後ろを向いてはいけない。怯えている事を悟られてはいけない。
「悠々と歩くのだ! 鉄の三条、鉄の三条!」
道は分からぬ。逃げ場はない。人気もない。視界も狭く、足場も悪い。群れを成した野犬の気配も近い。どうしようもない状況で、一つの靴はいざとなったら戦う事を覚悟した。重量のある棒を拾った。棒を杖に狭い道を前へ進んだ。退路は野犬が塞いでいる。進むしかない。
「前へ前へ!」
自らを鼓舞した。
視界が開けたところに人の営みが見えた。段々畑であった。天草らしい急斜面の石垣造りで荒れてなかった。
「軽トラの道があるはず!」
一つの靴は初めて走った。道を探して獣道を駆け、車が通りそうな小道を発見した。
「タイヤの跡もある!」
車の痕跡も発見した。車が来てるという事は、この道を辿ればどこかへ出るという事である。
犬の遠吠えが聞こえた。が、先ほどに比べるなら遥かに遠い。ここは人間のテリトリーなのだろう。獣は獣で人との境界を決めていたに違いない。木こりが山へ入らぬようになって何年経つか分からぬが、一つの靴は久々の闖入者だったのだろう。冷汗を拭った。
獣から離れたが、地図からも離れている。車の跡を辿って真っ直ぐ進んでいるが、もしかするとスタート地点に戻るのではないか。
廃屋を見付けた。庭にある梅ノ木が満開で暗い風景に白い光を放っていた。梅の隣には柿の木があった。視界の先は山しかない。地図を見ながら現在地を考えてみたが、さっぱり分からぬ。廃屋に一匹の猫がいた。人が消えて尚、この家を守っているのかもしれなかった。
この辺りの小字は大山というのか上というのか、それもよく分からない。大山であれば旧松島町、上であれば旧栖本町になる。分からぬ尽くしだが、ここに止まっていては獣の餌食になるだろう。軽トラ一台ギリギリ通れる道を真っ直ぐ進み、巨大な道に出た。と、同時に県道34号線という文字列を発見した。涙が出るほど嬉しかった。その場に座り込み、地図に赤字を走らせた。
今これを書きながら、あの時の安堵感を思い出している。地図には「迷う」「野犬」「死にそう」「生きた」「コリゴリ」と書いてあり、以後そういう道に臆病になってしまった。地図はクシャクシャで冷汗に濡れた痕跡もあり、今となっては微笑ましいが、一つ間違えば野犬の餌食であった。
一つの靴は握っている棒をやっと離した。握っていた部分が湿っていて、ほんのり湯気が出ていた。道は曲がり具合から察するに峠を越えたところだと思われる。進行方向ではあるが、かなり遠回りをしてしまった。
行政区が変わった。上天草市から天草市になった。旧町名は栖本町である。大字は河内、小字は上、ちょいと坂を下れば下という小字になる。何ともシンプルな集落名である。上の人、下の人と呼び合いながら共に山河を守ってきたのだろう。
道は河内川に沿って進む。道も広いが川も広い。道沿いにカッパのモニュメントを幾つも発見した。旧町の栖本町にはカッパの名所が多いらしく、県道は栖本町に入った瞬間、河童街道と銘打たれていた。
旧栖本町はカッパで町興しをすべく、かなり張り切ったらしい。川に沿って県道が走っていて、県道沿いに公共工事が集中していた。が、その整備された歩道を歩いているのは一つの靴だけで、この先、海に出るまで、一人も観光客と会わなかった。祭の後の侘しさがここにもあった。
カッパについて考えている。旧栖本町にカッパの民話が多いという事だが、カッパは全国の農村に必ずいて、大して珍しくないように思われる。靴の地元にもカッパはいた。川遊びで足がつかぬところへゆくと、カッパが足を引くと脅された。どこの農村でもカッパは子供の教材であって、良い印象はないように思える。
(カッパで観光客が呼べるのか?)
その事について田舎者である靴はどうも理解に苦しむ。カッパファンというのが世の中に多いとは思われず、カッパの聖地に認定されたところで人口流出に歯止めがかかるとも思えない。何のためカッパにスポットを当てるのか。何でも良かったのではないか。町興しというより公共工事を呼び込むための口実にカッパが選ばれたのではないか。
誰もいない遊歩道を一つの靴が悠々と歩いている。この通行料を頭割すれば幾らになるのか。考えるだけで恐ろしいが、素朴な営みを続けている地元の人は、その事を考えた事があるまい。何度も言うが田舎の公共工事に投資対効果という発想はない。
民話は素朴である。素朴な営みの中から民話は生まれる。カッパは泥臭い政治に担がれるべきではない。至るところに転がっている石のカッパは素朴な心の記念碑かもしれない。石のカッパを置く毎に素朴な営みが削られているのではないか。そもそもカッパは護岸工事を嫌うだろう。河童街道に沿った河内川の護岸は見事に固められていて、どう見てもカッパを追い出しているように見えた。
大原という集落に入った。広い道は丘に沿って小さく回り、河内川と共に西へ進む。丘の方を見ると古びた石垣が組んであった。足元は広々したアスファルトであるが、元々あった古い道にアスファルトを敷いて拡幅したものと思われる。
天草の風景は本当に石が多い。河童にしても垣にしても山にしても、新しいものから古いものまでやたらと石が占めている。この風景は下島も変わらない。海ではなく、石こそ天草の本質ではないか。
少しだけ民家が増えた。地図によると大平、もしくは中の門という集落である。ここで興味深い看板を見付けた。「油すましどん」と書いてあった。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる油すましのモデルになったのが油すましどんらしい。
「何があるのですか?」
通りかかった地元の人に聞いてみると首のない地蔵があるという。
「地蔵が油すましどん?」
よく分からず聞き返したが地元の人もよく分からないらしい。これを書きながらネットで調べてみたが、それに書いてある説明を読んでも意味不明であった。「すまし」というのは天草の方言で「搾る」という意味らしい。ここ河内村はサザンカの実から油を搾っていたようだが、なぜ油を搾る人が妖怪になったのか。肝心な事は書いてない。ただし想像はできる。
地名辞典に「草積峠が兵乱の地であった」と書いてある。草積峠は栖本氏と上津浦氏という古い豪族の国境であり、たびたび戦場になった。油すましどんがいる場所は峠の入口にあたる。ある男がサザンカ油を搾っていると気の昂ぶった兵士に殺されてしまった。もしくは流れ矢に当たってしまった。集落ではこの男を不憫に思い、菩提を弔うべく地蔵を置いた。
人の頭は暇である。想像は何よりも楽しい。場所は古戦場だけに様々な想像が許される。時代が下り、誰かがこの地で転んだとする。一人の妄想家が地蔵を指差し、面白おかしく叫んだ。
「油すましどんが油を放ったに違いない! 恐ろしや!」
これにて「妖怪・油すましどん」の出来上がりである。峠へ向かう旅人に油をかけて転ばせる。転ばして何をするわけでもないが、
「滑れ、滑れ! ここを通るものは誰もが滑れぇ!」
そう言って油を振り撒くと思えば小さな地蔵も恐ろしい。油すましどんはそうやって妖怪になったのではないか。
よく分からぬが、地元の人もよく分からぬまま妖怪ブームに便乗すべく「油すましどん」の看板が出た。それは過疎化に歯止めをかけようとした山村の微笑ましさであり、個人的にこういう風景は嫌いじゃない。小さいゆえ愛嬌がある。更に誰もよく分かってないところがいい。学者の手にかかって「こうだ」と決め付けられるより、分からん方がこういうものは素晴らしい。
想像ついでに油すましどんをもう一つ考えたい。草積峠は巡見道とも呼ばれていたらしい。江戸から来た役人が草積峠を越えて河内へやって来ていたそうで、河内の人からすれば村の入口で転がしてやりたかったに違いない。こう見れば油すましどんは正義の味方になる。
勝手気ままに想像できるというのは実に楽しい。学者よ来るな、旅に学者はいらぬ。
道沿いに河内小学校があった。既に閉校しているらしく役場の出張所になっていた。保育園もあった。こちらも閉園しているらしく商工会議所になっていた。
教良木の晩、郵便局長が過疎化を恐れていたが、こういう状態を恐れているのだろう。人がいなくなれば自然現象として公共機関が消えてゆく。郵便局も吸収合併は免れない。道ばかり立派になって石のカッパが増えたとしても、人が減れば集落の灯も消える。
僻地を救うのは文明の機能美ではないだろう。文化的芳香ではないかと思っている。それは何か。うまく言えない。説明できない変なものが文化であり、説明できたら文化じゃない。少し前の日本には変な風習、変な価値観が転がりまくっていて、僻地はそれを自慢に生きてきた。カネで全国津々浦々が均されてしまえば僻地は消えるしかない。都会への憧れだけが増してゆくように思える。
横に伸びた狭い盆地に河内の集落が集まっていた。中の門、大平、中村、竹の内。東から西へ田んぼの中を巨大な道が走っている。左手高台には村の氏神様であろう立派な神社があった。盆地の中で神社や寺を幾つか見たが、いずれも石垣が良い。さすが天草であった。
盆地の終わりで道が細くなった。斜面に古い寺があり、もう片方は川であった。太い道を通しつつも、さすがに寺領を侵すのは村民の良識が許さなかったらしい。
寺の石垣が素晴らしく良い。古びた雰囲気もたまらない。何という寺か分からなかったが、これからもここにあって文明に睨みを利かせて欲しい。ちょっと多めに賽銭を投げた。
道は寺を境に南西へゆく。黒地という谷間の集落を川沿いに歩いた。文明は空間と地主が許せば広く真っ直ぐ走りたがる。旅人として本意ではないが、これしか道がないので立派な歩道を歩かねばならない。
足元はともかく風景はいい。手元の地図に「石の集落」「見渡す限り石垣」とある。平地のない谷間にあって、「絶対負けん!」と言わんばかりに石で斜面に食い付いている。続く段々畑が負けん気の営みを示していて、古い山村の底力を感じた。
中野という集落に入った。川沿いに遊歩道があったので、そちらを歩いてみたが見事に咲いた梅の木が道を塞いで行き止まりであった。袋小路の短い遊歩道に意味はあるのか。ないだろう。たぶん予算が余ったから戯れに作ったものだと思われる。
遊歩道に十字架が落ちていた。大きさは1メートルくらいあり、どう見ても十字架なので地図に記した。後に本渡で天草切支丹館という博物館に寄ったので、その十字架を説明し、地図をコピーし、名刺を渡した。
「調べて連絡致します、もし貴重なものだったら大発見ですよ」
係長と名乗る方がそう言われたが今も電話がない。たぶん無駄足だったのだろう。無駄足だったに違いない。その根拠として阿蘇の原野で同じような十字架を発見した。測量に用いる基準点ではないか。悪い事をした。
一つの靴は河内川から離れない。大字が河内から打田になった。
室町期、打田村は栖本氏の拠点が置かれたらしい。が、それも長くは続かなかったようで、すぐに海沿いの湯船原に移っている。打田村は静かな村である。山城が消えてからというもの平和な時間が積み重なっているに違いない。歩くにはつまらぬが、住むにはこういう場所が良いように思われた。
一つの靴は旧道を歩いている。旧道は河内川の南を通るが、県道は北を通っている。旧道の両脇に民家が多い。町を挙げての河童街道計画の際、道の拡幅に支障があり、北に新道を通したものと思われる。
それにしても天気がいい。少々足が痛いものの、アルコールも完全に抜け、すこぶる良い調子で歩いた。
息子とキャッチボールをしている父親がいた。その風景を見て、今日が祝日である事に気付いた。祝日なのに河童街道に観光客がいないというのはどういう事か。目と鼻の先は海である。河童街道の終点がそこにあって、なんと一人も観光客に会ってない。
湯船原に入った。今はどうか分からぬが、過去は栖本の中心である。
栖本氏は菊池家の枝族で肥後から派遣され、地の豪族として旧栖本町に定着した。他の天草豪族同様、小西行長・加藤清正連合軍に滅ぼされている。
栖本氏である。天草五人衆の一人ではあるが大した事跡がない。これを書きながらぼんやり年表を眺めているが目に留まるそれがない。あるとすれば鉄砲が普及していない早い時期に鉄砲攻撃を受けた事ぐらいだろう。前にも書いたが隣にいる豪族・上津浦氏(有明町)と仲が悪かったらしい。油すましどんの草積峠は川中島の如く定番の決戦地であったが、そこを越えて突っ走っていると鉄砲三十挺の乱れ撃ちを浴びたらしい。被害者として歴史的先駆といえるが、誇れるものではない。
道が海に差し掛かると左手に小高い丘が見えた。海沿いを国道が走っていて、その上が湯船原城(栖本城)である。丘の麓には天草四ヶ本寺の一つ円性寺と旧郷社の諏訪神社がある。古くはこの地に郡代所も置かれていたらしく、行政が寄り添うかたちで残っていた。
円性寺の山門前に立った。さすが天草四ヶ本寺で最も古いというだけあって、何ともいえぬ味があった。
時計を見た。昼飯には早かったが腹は減っていた。重いリュックにはMさん宅で頂いた握り飯が入っていた。城跡でそれを食おうと踏み込んだが、山門を潜ると猛烈にイチャイチャしているカップルがいた。高校生くらいであろうか。カップルは黄色い服をまとった一つの靴を発見すると足早に上へ逃げた。上の方、つまりそれは靴が行きたい城跡の方向であり、そちらへ行けばカップルを追う事になる。巨大なリュックを背負った怪しげな靴に追われては二人の思い出が台無しになろう。若いカップルに致命傷を与えるのは心苦しく、これも運だと諦め、笑顔で場を離れた。旅の時、人は底抜けに優しくなる。普段の靴なら間違いなく追いかける。
少しだけ国道を歩く。河内川と白州川の合流点を国道が横切っていて、二つの橋を渡らねばならない。二つの橋の真ん中に河童街道(県道)の入口がある。入口は小さな公園になっていて、石碑が政治と公共事業を称えている。相変わらず石のカッパが多い。この近辺、特にカッパが多く、左手奥にはカッパ温泉もあるという。
少子高齢化と人口減少に悩む栖本町をカッパが包んでいる。カッパは町の救世主となったのか。なりうるのか。カッパに託した町の行方を判断するのは住民だが、少なくとも石碑公園は無用の長物に思える。政治の印鑑は住民に何の利益ももたらさない。使えるカネが減るだけである。
硬い国道を足早に去った。国道は真っ直ぐゆけばトンネルに続く。古い道は柿塚という峠を越える。右に逸れ、上久保という集落を抜け、坂を登った。
手元の地図に「柿塚カラス山」と書いてあった。
峠の頂から先を見渡すと凄まじい数のカラスがいて、柑橘畑上空を黒に染めていた。峠の風景は右も左も柑橘類で、先の方に青い海が見えた。海沿いのミカン山というのは風景がどこも似ていて、地図がなければそこが愛媛なのか、和歌山なのか、静岡なのか、それとも天草、天水、芦北なのか、さっぱり分からぬ。広い道から白くて細いコンクリ道が魚の骨みたいに飛び出していて、それぞれの畑へ続いている。山とミカン、時に海。上と下を濃い青に挟まれ、緑の中の橙が風に揺られて踊っている。悪い景色とは言わぬが見飽きている。気は落ちつくが地図がないと道に迷ってしまう。
団塊の世代が興した昭和中期の産物は、どうも個性に欠ける。駅近くの集合住宅、区画整理田園、ミカン畑、その他色々、迷って空を見上げると、そこに団塊の余韻がある。時代の風であろうか。足並を揃える事に価値観を見出した世代なのかもしれない。
柿塚峠にカラスを呼んでいるのは何であろうか。靴は違和感を感じながら歩いている。名前の通り柿の木が多い峠であれば違和感は感じなかったであろう。柿とカラスは茶と羊羹みたいなもので日本人なら間違いなく対になる。が、峠に柿の木は少ない。古くは峠に里塚があって、そこに柿の木が立っていたのかもしれぬが、そういったものも見当たらない。あるのは柑橘類だけで、風景として見慣れているだけに黒いカラスがどうしても気になった。
脳というものは気になり出すと実にしつこい。単に柑橘類に群がっていただけだと思われるが、答えを聞かずば収まらぬ状況だったようで、地図に地元農家の言が書いてあり、その前後も記載してある。
ちょうど農家さんが通りかかったらしい。靴はカラスの事を聞いたそうな。すると、
「知らん、カラスに聞いてくれ」
竹を割ったような即答を得た。「それで気持ち良く峠を下った」とある。
既にこの記憶は消えている。が、この直後、柑橘畑の中で握り飯を食い、食いながら何かを書いた憶えはある。変な事が気になるのは旅の醍醐味であるが、それをわざわざ清書する必要はない。分かっていながら清書し、気持ちのぶり返しを得た。何とも言えぬ良い気分で、いけないだけに癖になる。握り飯の美味さが思い出され、カラス山が地図上で輝き始めた。
峠を下ると、また国道を歩かねばならない。海に出た。下浦という村である。
下浦は石工の村らしい。江戸時代、佐賀の浪人が技術を伝えたと地名辞典に書いてあるが、想像するに、その浪人は島流しの罪人ではなかったか。南に石場、金焼という集落がある。そこに佐賀の石工が流され、組織化し、郡内の鳥居などを作ったのが下浦石工の始まりではないか。
ちなみに長崎オランダ坂の石畳は下浦産らしい。長崎の景色を天草の石が支えている。
石工という職業が今もあるのか分からない。分からないが、見渡せば石屋が多い。石を切るための巨大な機械が道から見えた。ある石屋さんでチョイと見学させてもらった。石屋もこの不況で暇らしい。変な旅人を追い払う事なく色々と教えてくれた。
仕事の大半は墓石の製作らしい。が、墓石は利益が薄く、価格も数も下落の傾向にあるらしい。石屋の恨み節は力を増す葬儀屋に向けられた。葬儀屋が色んなものを持っていくらしい。
友人に葬儀屋がいる。以前、その友人と呑んだ時、
「葬儀屋の手腕は脚本にある!」
そう力説してくれた。優秀な葬儀屋は人が死ねば迅速に現れねばならない。それから葬儀と坊主と墓を滞りなく遺族へ提供し、カネの臭いを残す事なく颯爽と消える。遺族は泣いていればいい。泣いていれば四十九日が終わり、墓が立ち、いつもの生活が戻っている。
葬儀屋は医者へカネを払う事で登場のスピードを得る。それから取るべきものを取って坊主と石屋へ仕事を回す。良い脚本は細部に渡って書き込まれていて、何となくテンポがいいらしい。客から見ても不測の事態が知らぬ間に片付くとあらば、これ以上ありがたい存在はない。優秀な葬儀屋は医者、客、坊主、石屋、全てに愛され長く続くという理屈であったが、目の前にいる石屋は葬儀屋を憎んでいる。
「昔は良かった」
石屋はその言葉を連発した。「昔」が何を指しているのか、寺か地元の有力者か、それは分からぬ。分からぬが、墓石だけでは食うに食われず、モニュメントの製作などで生き長らえているという。
それにしても今の石材加工は近代的である。石工といえばノミと金槌、その印象が濃いが、それは江戸の域を出ていない。靴の頭は二百年ほど遅れている。今の石材加工は巨大な切断機で切り落とした後、パソコンと繋がった加工機でカタチを出す。それでほぼ仕事が終わる。では、石屋の技術とは何か。最終工程の磨きと調整にあるらしい。その点、金属加工や木工も変わらない。どの分野においても機械化が進んでいる。
石屋は最終工程、特に磨きの難しさを自慢気に語っておられた。しかし技術屋の端くれである靴は、この自慢に深い悲しみを覚えてしまった。機械の進歩によって人間の仕事が削られている。機械がやれる分に関しては組織力と経営力の勝負になる。「墓石は採算が合わん」という嘆きには機械仕事の割合、その高さがあって、小さな石屋が大手の工場に勝てるはずない。当然、手仕事の多い仕事でなければ価格が落ちて赤字になる。
葬儀屋は悪くない。職人の生存権を奪っているのは進歩し続ける道具たちである。それは石屋だけではなく、色んなモノづくりに共通して言える。いずれ自慢の手磨きも機械が食うと思われるが、食われて困らぬよう更なる何かを見出さねばならない。そうせねば林業とチェーンソーの如く、大事なものが消え果ててしまう。良いものを見せてもらった。謝して場を去った。
一つの靴は左に広い海を眺めている。天気はいいが、どうも心が晴れない。石工が離れない。石工が窮し政治に頼るというありがちな展開を想像している。石のカッパが更に増え、老人が病院に通えなくなり、借金が凄い額になった自治体の姿が浮かんで消えない。人が消え、若者が消え、老人だけが残った町に石のカッパが山ほどある。
(恐ろしい・・・)
リアルな想像に冷汗が出た。
恐ろしいといえば、目の前の海に二つの島が浮かんでいる。手前が上血塚島、奥が下血塚島というらしい。面白い名前なので地図に赤丸を付け、「調べる」と書いた。それから二ヶ月放置していた。これを書きながら調べてみた。素晴らしかった。
壇ノ浦合戦に敗れた平家の落武者が源氏の追捕使と戦って血に染まった場所らしい。暗礁多き場所のようで、逃げながら暗礁に乗り上げ、この島に葬られたのかもしれない。
何にせよ、名にロマンがある。こういった由来を旅の後に知ると極めて損した気分になる。事前に知っていたなら海も島も風景も、全て違って見えただろう。カッパの暗い想像もロマンが吹き消してくれたに違いない。損した。
靴は国道を逸れ、下浦の中心に入った。村、本郷という小字になった。古くは陸の要所であろう。道沿いに民家が並んでいて、その大半が古くは商家だと思われる。微かだが賑わいの名残があって、草鞋を脱いで茶店に寄りたくなる雰囲気もある。が、それはあくまで宿場的風景の想像であって、実像はひどく静かである。
一つの靴は道の真ん中を歩いている。車も通らねば人も通らない。色々な街道を歩いたが、古い道の古い要所はどこもこういう風景になっている。賑やかな営みが染み込んでいるくせに、そこはかとなく静かで、吹く風が凛としている。いつも思うがこういう感じは嫌いじゃない。この静かさを個人的に愛している。「もののあわれ」であろうか。
アメリカ人と日本人の違いはここにあるかもしれない。アメリカ人はゴーストタウンを生むが、時間に重点を置く日本人は息の長い街を捨てない。捨てられない。風景を変えたがらない。しがみついて離れない。
古い道に沿う小さな街は村の風景として人の心に定着しているのだろう。先に歩いた栖本の街もそうだったが、巨大な道は郊外に通し、営みの空間は辛うじて旧態の名残を留めている。
街には空き家が目立っていた。通る人もいなかった。しかし、ここに住む人は、この風景を守るため、密な関係を保ち、何かに抗っているのではないか。静かさの中の気品は極めて純度高い日本人の主張に思える。
右手に神社があった。一つは菅原神社で、もう一つは十五社宮と書いてあった。どちらも掃除の手が行き届いていて素通りできなかった。村の氏神は十五社宮らしい。天草を歩いて思ったが十五社宮というのが実に多い。十五社宮とは何か。色んな人に聞いたが確かな答えが得られなかったので、旅が終わった後、図書館で調べた。天草特有のミックス神らしい。
天草の乱後、神社仏閣がほとんど破壊され、氏神のない集落が多く出た。名代官・鈴木重成はそんな集落に「十五社を祀れ」と指示したらしく、その中身は阿蘇十二神に天照、八幡、春日を加えたものらしい。つまり凄く適当な神様で、メジャーなところがミックスしてある。この何でもありな感じは実に日本的でたまらない。更に調べると、その十五神の一部、八幡、春日が神武、綏靖になったりしている。つまり何でもいいらしい。
「氏神がないのは可哀想だけん有名な神様ば混ぜて十五社としよう、これば祈って」
そういう事であり、図書館でこれを調べながら爆笑してしまった。どうりで祈っている人に聞いても十五社の由来を知らないはずで、「そぎゃんた知らん!」という回答は実に的を得ていた。正解がないのが正解であった。
そもそも日本人の根深いところにはシャーマニズムがあって、「こうだ」と定義付けされるより、よく分からん方が性に合ってて祈りやすいのかもしれない。その点、これを考えた鈴木重成は天才であろう。
ちなみに靴の守り神は「オマンマラ様」という。親友の実家が木こりをしていて、その父が山から持ち帰った木を神様とした。木こりが見ても珍しいカタチらしく、実に男らしい。突起が小さく愛嬌があるのもいい。嫁が気に入り、請うて貰い受け、庭の最も目立つところに置いた。今のところ手軽な祈りはこれで足りている。十年もすればオマンマラ様も後光を放ち、メジャーな神になるだろう。それでいい。
再び国道に戻った。平床という集落に入った。これから先、左手は本渡ノ瀬戸である。本渡ノ瀬戸といえば徒歩渡り(かちわたり)が有名である。海ではあるが、その幅は川みたいなもので、干潮時、歩いて渡れたらしい。
一つの靴は150年前を想像している。本渡ノ瀬戸の古い風景である。引いた時には横一線に徒歩(かち)がゆき、満ちた時には縦一線に船がゆく。瀬戸の両側には待つ人の無聊を慰める街があって、大いに賑わったであろう。瀬戸を舞台に男と女のドラマもあったに違いない。
「ほら、水が引いたよ、早く行って、すぐ満ちるよ」
「およねちゃん、次を待とうじゃないか、明日になりゃまた水は引く」
「てっつぁん、嬉しい!」
「今夜も月が綺麗だねぇ、ほら、もう瀬戸に月が浮かんでるよ」
「ほんに綺麗、このまま消えなきゃいいのに」
街というのは人の足が止まる事で高まってゆく。止まらねば必ず寂れる。
東海道を歩いた時、静岡・金谷の老人が酒をチビチビやりながらヤケクソで放った一言が忘れられない。
「大井川の橋をぶっ壊してやりてぇ」
大井川は東海道の難所であって、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と謡われた。が、橋が架かって単なる通過点になった。川の両側には宿場がある。金谷と島田であるが、近代的な橋の登場は両宿場を一気に冷やした。上りの待ちは島田、下りの待ちは金谷、雨でも降れば街から人がはみ出すほど賑わったそうだが、それも遠い昔である。だから金谷の老人は泣いていた。老人は旅館を営んでいるのだろうか、泥酔状態だったが、映画の一齣みたいにカウンターでくだを巻いていた。
「金谷に人がいねぇ、歩いてねぇ、誰か橋をぶっ壊してくれよぉ」
本渡ノ瀬戸は江戸の末期に掘削された。満干問わず船を通すためである。これにて名物・徒歩渡りが瀬戸から消えた。大正になると瀬戸開閉橋が架かり、昭和中期には三次にわたる水路開削、後期になると現在のループ橋が完成した。人や船の流れは飛躍的に速くなった。速くなる毎に両岸の街は寂れ、ドラマも消えた。金谷の叫びが本渡ノ瀬戸にも響いている。
一つの靴は大石ヶ浦、知ヶ崎、加志と小ぶりな集落を越え、瀬戸に着いた。国道は瀬戸の真ん中を走り、海にぶつかって右へゆく。北を向き、国道の右側が古い瀬戸の街である。左側も賑わっているが、そちらは戦後の埋立地である。見るべきものはない。
古い瀬戸をブラリ歩いてみた。やはり予想通りの雰囲気が漂っていた。金谷の老人が出てきそうなアノ雰囲気である。好みとしては場末の酒場で愚痴を聞きたいところであるが、この日は本渡の街中で眠らねばならない。惜しいが雰囲気だけ楽しみ、瀬戸を後にした。
一つの靴はループ橋で本渡ノ瀬戸を渡った。凄まじい数の車である。下島と上島を繋ぐ陸路はこれしかない。歩道が整備されているので危険はないが排気ガスがたまらない。田舎ばかりを歩いてきたのでトラックの黒いオナラが目にしみた。
視線の先に本渡の街が広がっていた。天草随一の都会である。ループ橋を下り、亀川を渡った。右も左も人工物が迫っていて変な笑いが出てきた。
阿蘇から東京へ行くと、羽田で別世界に来たような錯覚を覚える。自然物と人工物はそれだけ雰囲気が違っていて、阿蘇と東京には説明できない違いがある。人間の順応性を感じるのはこの時であって、羽田で変なスイッチが入る。背筋が張って歩くスピードが速くなる。滑稽な事に一つの靴は天草本渡でそのスイッチが入ってしまった。田舎道を歩いてきた事もあるが、頭の方が田舎ばかりを向いていて、不意に現れた都会に脳が驚いてしまった。
国道で北へ向かった。左は古くからの本渡であるが、右は埋立地である。天草随一の都会といえども天草という地は平地が狭い。例外がない。
埋立地へ足を向けた。あまりにも良いペースで歩いたため今日も時間が早い。そもそもこの日は地図で追えば最も歩行距離が短い。従って計画の段階から本渡の街を散策すると決めていて、行くべき場所に赤丸を付けていた。
最初に天草切支丹館を目指した。箱物は旅に適さぬが幾つか調べたい事もあり、お目にかかりたいものもあった。有料であればそっぽを向くが、事前に調べると無料らしい。干拓地の端っこまで歩き、のんびり展示物を眺めた。
ちなみに本来の切支丹館は小高い丘の上にある。街の西に位置し、その一帯に殉教公園、切支丹墓地、明徳寺など観光スポットが集まっている。丘全体が昔の城跡らしい。
一つの靴は殉教公園に登った。箱物建設予定地にブルーシートが張ってあった。ここが本来の切支丹館らしい。が、既に建物はない。遺跡調査をした後、新しい切支丹館を建設するらしい。この流れは公共工事の王道で、普通は地元住民と揉める。調べると、やはり揉めたらしい。揉めたらしいがゴリ押しで突破されたらしく、現在の状況に至っている。どこもかしこも意味不明な公共事業の連続で泣けてくる。政治というのは田舎に行けば行くほど問答無用になっていく。
ブルーシートの脇に細い小道があった。道の先に木山弾正が祀られていた。木山弾正は阿蘇家に仕える城持ちの武将であったが、薩摩島津に攻められると嫁の実家、天草へ逃げてきたらしい。が、数年後、その天草も加藤・小西の連合軍に攻められた。木山弾正は食客であり、恩を返すのはこの瞬間をおいて他にない。本渡城を飛び出し、仏木坂に出、清正に一騎打ちを挑み、組み敷いたらしいが後一歩のところで負けた。日本人は負けっぷりの良い武将が好きである。清正の飛躍と共に弾正も伝説となり、こうして祀られている。
本渡城であるが、木山弾正を祀っている場所が一の丸らしい。ブルーシートの場所が二の丸で、ちょいと下った千人塚が出丸らしい。後世が色んなものを置いて城跡を塗り潰しているが、カタチとしてはそのまま残っている。
この本渡城は天草における勢力争いの旗であった。この旗を取った取られた繰り返すのが天草・中世の歴史であり、位置的にも本渡は天草の中央になる。その点、日本における京都の縮図が天草における本渡と言えるかもしれない。
靴は明徳寺に辿り着いた。少々くたびれた。本堂に上がり、賽銭を投げ、山門を出ると黒い猫がいた。人懐っこい猫で甘い声を出しながら寄ってきた。
山門から石段が伸びていた。猫と石段に座り、街と雲、それに海を眺めた。
明徳寺は禅宗である。向陽山と号すらしい。日当たりがいい。寺領に適す所作ではないが横になった。猫が腹の上に乗ってきた。なかなかの甘え上手で、つい手持ちの菓子を与えてしまった。
寝転がって鈴木重成の事を考えた。この人は天草で「鈴木さま」という神になっているが、天草を出れば知る人はいない。生まれは三河の人である。乱後、荒れ果てた天草を復興すべく代官として現れ、数え切れぬ功績を残した。明徳寺も四ヶ本寺も鈴木重成と縁が深い。寺の由来を見ていると「民心安定を図り鈴木重成が建立」などと書かれているが、存在感抜群の寺で隠れ切支丹を圧したかっただけであろう。鈴木重成、最初の目的は切支丹の完全消滅にある。天草を寺漬けにした後、神へと続く善政を敷いた。
鈴木重成最大の功績は石高半減にある。民衆の苦しみを幕府に説明したが聞き入れられず、「切腹して石高半減を請うた」と至るところに書いてある。が、それは嘘で、死因は単なる病死であろう。諸説あるが病死の論が説得力あるように思える。何にせよ石高半減を鈴木重成が請い続けたのは事実で、結果として息子の代に叶った。死ぬ覚悟で嘆願したというのは間違いあるまい。木山弾正にしてもそうだが、神になるには感動的な死を欲する。鈴木重成が「鈴木さま」という神になる時、切腹というありがたい話が引っ付いたのではないか。
今日の宿は石段の下にある。手元の時計も夕方に近付いてきた。黒猫と別れを惜しみつつ明徳寺を離れた。
通り道に延慶寺があった。覗いてみると兜梅の寺であった。木山弾正の妻・お京が甲冑を身にまとい、敵陣へ向かって走ったが、兜が梅の木に絡まり、身動きがとれなくなった。そこを敵に討たれたそうな。一つの靴はこの話を聞いた時、お京さんがサザエさんに思えた。財布を忘れて笑う人、兜が引っ掛かって死んだ人、共にオッチョコチョイで愛嬌がある。が、それは地元に言えない。天草の人はこの出来事に武家の心を感じたらしい。何とも前向きな想像力で強い地元愛を感じる。土地の名物にされ、歌碑が立ち、女の心意気が詠われていた。
梅は八分咲きであった。兜梅の歴史を聞いてもサザエさんしか浮かばぬが、枝振りは素晴らしくいい。見とれていると団体の観光客が来て、兜梅の由来を話し始めた。花に集中したいが説明が聞こえてくる。サザエさんが浮かんでどうもいけなかった。
脳裏にサザエさんが現れた。兜を装着しているが、あの髪型に乗りきれていない。その兜が木に引っ掛かり、
「来週もまた見て下さいね」
そう言っている。サザエさんが槍に刺された。
「んっぱんんっ!」
サザエさんはそう言って死んだ。変な想像が広がって梅に集中できない。仕方なく延慶寺を後にした。
宿に着いた。今晩の宿は普通の民宿であるが、何が凄いって一泊二食四千円である。旅慣れた友人に「天草で気軽に泊まれる宿はどこ?」そう聞いたら、ここを紹介された。
今回の天草旅行は嫁の優しさに支えられている。子供三人、嫁一人、女を残して旅に出るというのは、当人の事はさておき、家族の度量がいる。一つの靴は半年前に予告をし、二ヶ月前から言い続け、嫁が微かに「ウン」と言った瞬間、既に練られた計画を一気に具現化させた。嫁は突如現れた決定事項に言葉を失った。失っているうちに夫は一つの靴になった。
嫁はカネの心配をした。これに対し、男は楽観主義を装う。気になったとしても気になった素振りを見せてはならない。旅と男が揃ったらカネを気にしちゃカッコがつかない。ましてや三十路の旅なので路銀豊かに出ねばならない。若い旅人に会ったなら酒の一つも奢ってやらねば旅が泣く。が、この不景気で出発が危ぶまれるほど路銀のピンチに陥った。これは計算外であった。むろん嫁には伏している。言えば中止になるだろう。言わずに出、二日目の夜を迎えた。
一つの靴は風呂に入った。服も着替えた。サッパリした。夜飯はカウンターで出された。さすが旅慣れた友のオススメだけあってボリューム満点であった。ゴボ天うどんに焼魚、刺身と小鉢、シメはどんぶり飯と続いた。
酒は路銀の関係から呑まぬつもりであった。が、隣に座っている土方のオヤジが美味そうに呑んでいた。長期滞在客らしい。棚からキープを取り出し、実に美味そうに呑んでいる。冬なのにロック。氷が入ったグラスに焼酎を流し、指でカラカラ混ぜ、ゴクリ、音をならして呑んだ。
「つぁー! このために生きてる!」
よりによってセリフがいい。これがビールなら我慢できた。が、オヤジの手元は焼酎であり、汗をかいた後に呑む冬のロックは何物にも代え難い。焼酎の銘柄は「天草」であった。御当地もの、それも米、大人の義務として呑まねばなるまい。仕方なく呑んだ。
「つぁー! 五臓六腑にきますなぁ!」
それから先は旅の醍醐味、名乗らず気取らず疑わず、一夜限り短い酒宴の始まりであった。呑みながら、
「四千円でよくやれますね」
感心したら、宿の主人、実に味ある回答をくれた。雇わない。宣伝しない。気を使わない。ものを買わない。その心掛けで何とか利益が出るものらしい。
「今日出してる食事もね、これとこれが近所の貰いもの。野菜ば買いよったら赤字よ」
楽しげに節約を語る女主人に飾り気が全く見当たらなかった。気分がいい。酒が進んだ。
深夜、少年の声が響いていた。近くに自動車学校があって泊り込んでいるという。翌朝、その少年たちと朝食が一緒になった。
「昨日の晩は元気ん良かったね」
笑いながら話しかけると、宿の主人が少年を叱り始めた。夜は静かにするよう指導していたらしい。少年もちゃんと小言を聞き、頭を下げていた。
「すいませんねぇ、この子たちにとって初めての社会勉強ですから」
女主人の笑顔が実に良かった。旅の宿はこういう宿がいい。また泊まりたくなった。
値段も恐ろしく良かった。呑んで食って泊まったのに六千円でお釣りがきた。六千円は時として重要だが、見方を変えればキャバクラの一時間である。
支払いの時、男主人と初めて接した。夫婦でやられているらしく、昨日の晩もカウンター越しに顔が見えた。何度か話しかけたが全く盛り上がらなかった。寡黙な人かと思っていたが深刻な歴史好きらしい。ちょいと歴史の話をしたら火が点いた。一つの靴はリュックを背負い、体半分、玄関から出ていた。その状態で長い話に突入し、一つのビラを受け取った。
「染岳観音大祭」
そう書いてあった。男主人が言うに本渡で最も熱い祭がそれだという。祭は色々あるが、どれもこれも祭の本質を見失っていて、それは数少ないホンモノの祭だという。
「旧正月の十八日にやるとです。日曜日には合わせません。あたは運のよか。今日が年に一度の祭です」
地図を見た。予定の進行方向から大きく逸れていた。祭に寄ってしまえば大幅なルート変更である。
「行かにゃんですよ、今日のあたは運のよか」
歴史好きの言は熱い。そこまで言われソッポを向くは旅の恥に思えてきた。練った予定を破り去り、一つの靴は山へ向かった。
三日目も快晴、旅日和であった。
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