〜阿蘇での風景〜 執筆:06年1月30日
最初、このページというものを単なる風景写真の羅列にするつもりであった。
が…、写真選定の段階で色々な事をほろほろと思い出してしまい、ついには約半日を写真鑑賞に費やしてしまった。
ほろほろとなってしまったのには、その前段となる理由がある。
阿蘇に住んでいた頃の近所に「華かずら」という雑貨屋があった。
その雑貨屋に年賀状を送ったところ、
「春ちゃん達に華かずらの事を思い出してもらいたくて、ケーキを贈ります」
そう書かれた手紙と共にケーキとカレーパンが送られてきた。
その雑貨屋、ケーキは近所の人がつくったものを売っているのだが、カレーパンは雑貨屋でつくっている。
このカレーパンが観光客に美味いと評判で、つい先日、テレビ局の取材が入った。
「うん! これは美味い! このカレーパン、どういうスパイスを使われてるんですか?」
「別に言うほどのものは使ってません。その辺のスーパーで売ってるカレー粉を使い、普通に揚げているだけです」
取材に訪れたテレビ局はギャフンとなったが、店主の飾らない心意気はテレビを見ていて実に気持ちが良かった。
「近所の子供達が買いに来るので値段は百円にこだわります」
雑貨屋店主がしみじみと語った「この言葉」もいい。
テレビ取材後、カレーパンは売れに売れたようだが、どこぞの店のように「テレビに取材された」という看板を出す事もなく、値段も変えていない。
福山家はこのカレーパンとケーキを「散歩道で買うオヤツ」と位置付け、週一回は食していただろう。
まさしく福山家にとって「阿蘇の味の代表」といえるもので、他に彦しゃんの焼肉、門前町のメンチカツ、木村の豆腐、アゼリアの椎茸、それらが味覚から感じる阿蘇、その代表格となっている。
このページでは「阿蘇での風景」と題し、撮りに撮った阿蘇の風景写真を載せるつもりであったが、華かずらの熱い心意気を受け、
(風景とは景色の事だけを指していない…)
その事に気付いた。
そして、
(他の人が読んでも面白くない福山家だけの風景ページをここに展開したい)
そう思うに至った。
私が阿蘇を拠点とした2004年9月から2005年12月、その美しき大阿蘇の一年四ヶ月を下にまとめ、それをもって福山家のアルバムとしたい。
2004年9月
次女・八恵が生まれて約20日後、俺だけの阿蘇生活が始まった。
この時、福山家の女衆は春日部にいて八恵は入院中だったわけだが、俺は山鹿から1時間半の車通勤。
朝六時には家を出、旭志・鞍岳の麓を抜け二重峠を越えるという走り屋だけが喜ぶルートであった。
道は鬱蒼とした山道がほとんどで、兎、狸、キツネ、野犬、猪、それら獣に会わぬ日はなく、ついには帰りの道で猪を轢き、バンパーが凹む運びとなった。
(これはいかん…、俺も車も駄目になる…)
という事で、平日は内牧のライダーハウス(一泊700円)に泊まるようになった。
変わり者の旅人に囲まれて学生以来の荒々しい暮らし(日記参照)を続けてみたものの、やはり恋しいのは娘達である。
9月25日には我慢できず熊本を発ち、家族が待つ春日部へ向かった。
たっぷり戯れ、じゅうぶん英気を養って山鹿に戻ったつもりだが、
「女達ー、はよ帰ってこいよぉー」
飲み会の時にもそう呟く始末で、寂しがり屋の俺には逆効果だったようだ。
この春日部を発つ瞬間、春が大泣きした話は日記に書いている。
俺の風景に家族は欠かせない。
2004年10月
ライダーハウスで毎日飲み会という実に肝臓に悪い生活を続けていたが、10月9日、ついに家族が帰ってきた。
10月11日、八恵の宮参りと春の七五三のお祝いを鹿央町のマニアックな神社で行った。
義母が儀式の途中で蚊と格闘していた印象が強く、八恵の宮参りといえば義母の顔が浮かんでしまう、その事は悲しいが、小さい神社ならではの厚遇ぶりに、
(やはり、参拝するならマニアックなところがいい)
その思いを強くした。
宮参りの後、義母と共に阿蘇での新居を探し、その翌週末も引き続き新居探しを行い、引越しは10月23日という事になった。
義母が阿蘇を田舎だと思わぬよう田舎道を避け、中心部ばかりを通ったものだが、
「娘をこんな田舎に連れて行くの!」
義母は叫び、
「やっぱ山鹿がいいっ!」
道子もそう叫ぶのにはまいった。
この詳細も日記に書いているので、ここでは触れない。
2004年11月
仕事は思い通りに進まなかったが、家族は阿蘇にすぐ馴染んだ。
家から車で10分、仙酔峡からの景色には春も俺も心から蕩けてしまい、「裏山」と名付け、毎週登るに至った。
特に夕暮れ時は素晴らしく、薄赤に染まった外輪山と久住連山が何ともいえない。
また、台所の窓から見える根子岳は朝日にも夕日にもよく映えた。
春は根子岳の事を「ギザギザの山」と呼び、この山に向かって、
「美味しい水、ありがとー!」
そう叫ぶのがマイブームになった。
写真は11月24日早朝、台所からの写真だが、薄っすらと日が昇ると、ついカーテンを開けて根子岳のチェックをする習慣がついてしまった。
ちなみに、この家に移って初の行事として八恵のお食い初めを行った。
2004年12月
生活にも慣れてくると小癪にも春がボーイフレンドを連れてきた。
その名も「しゅん君」、春より年下なのに体格は大きく、おっとりしている。
また、12月に入った途端、寒さが厳しくなった。
氷点下になる事もしばしばで徒歩通勤には辛いものがあったが、そのぶん空気は澄み渡り、見える景色もハッキリしてきた。
夕暮れ時の往生岳も下のように見える日が続いた。
また、ご来光のような神々しい光が見える事も一度や二度ではなく、春と朝っぱらから公園へ行くのが週末の日課になった。
12月も下旬になると本格的に雪が降る事が予想されたので、
「降る前に」
という事で、春と一緒に本格的な登山にも挑戦した。
が…、30分ばかし登ったところで春が泣き出し、結局下山の途についた。
それ以来、春と一緒に高い山へ登ろうとした事はない。
ちなみに、この登山の時、福山家の周辺写真を撮ってみた。
道子は田舎だと言うが、上から見るとなかなか建物が多い。
特に右下には簡保の宿があるためリゾート地のように見えないでもない。
さて…。
12月も終わりに近付いた時、人生初の大雪に見舞われた。
すぐさま近くの観光農場ファームランドに出かけて春と一緒に遊んだが、間違いなく俺の方がはしゃいだ。
この日、道子はコタツから一歩も出てない。
春と俺の絆は深まるばかりである。
2005年1月
元旦は恒例の釈迦院石段登りに参加するが、大晦日の大雪で足元が悪く、例年の三倍近い時間を要した。
阿蘇は厳冬期に入り、どこへも行けないので、のんびりと過ごした。
この時期、春の髪を風呂場でこういう風にしてやるのがブームだったように記憶している。
義母は二ヶ月に一度、欠かす事なく阿蘇へ来てくれているが、この寒い月も来てくれた。
近くのファームランドで書いてもらった似顔絵が爆発的に気に入ったらしく、チラリ覗き見ては、
「ふふっ、むふふふふふ」
長い笑いを見せていた。
はっきり言って不気味であった。
2005年2月
月頭に大雪が降った。
会社は臨時休業になり、春とのんびり雪見の温泉へ出かけた。
昼から酒を片手に温泉というのは何ともいえず、避暑地の冬ならではの醍醐味を味わった気がした。
そして、この雪解けの後、一斉に生きとし生けるもの、全ての阿蘇が動き出す、その瞬間が何ともいえず逞しく、そして華やか。
それもこの厳しい冬のおかげで知った事、その一つである。
2005年3月
3月5日、前会社の同期・井上和哉が俺の従姉妹と結婚した。
十時間以上も貴重な時間を費やし二人への出しもの(スライドショー)をつくったが、なかなかウケたので良かったと思っている。
3月7日、八恵が再入院。
これに伴い道子は付き添い入院、春を山鹿に預けて俺の阿蘇一人暮らしが始まった。
3月16日、八恵、二度目の手術。
写真は手術室へ入る直前の八恵。
ちなみに八恵の退院は3月19日。
19日以降は家族揃っての阿蘇生活に戻った。
3月28日、猛烈な下痢に苦しみ会社を休んだ。(詳細は日記を参照)
会社に電話を入れても信じてもらえず、俺の信用のなさを痛感。
阿蘇にはじゅうぶん馴染めているつもりだが、まだ会社には馴染めていないようだ。
(俺の会社での挙動…、反省する事が多いのかも…)
その事を知った瞬間であった。
2005年4月
9日、春が幼稚園(年少組)に入園。
こういう時、娘の成長が特に感じられるもので、パリッとした制服に身を包んだ春を見るに胸が熱くなかった事を思い出した。
14日、阿蘇が小噴火。
定時で会社を切り上げ家族揃って見に行くが大した事はなかった。
野次馬としては失敗だったが、別の収穫あり。
夕暮れ時の阿蘇は思った以上に素晴らしく、のんびり青草を食う赤牛を見てても飽きないし、日に沈む米塚もいい。
ここに住める喜びを芯から味わえた瞬間ではなかろうか。
ちなみに月末からは三度目の手術に伴い八恵と道子が入院生活に戻る。
週末は家族でのんびり阿蘇を回ろうという事で波野村荻岳から遠目に阿蘇五岳を眺めたりした。
何もないで有名な波野村から阿蘇方面を眺めると本当に人工物が何もなく、それはそれで貴重な景色なように思われた。
この頃、家から徒歩で行けるところに超マニアックな名所がある事に気付いた。
散歩していて発見した「護王杉」という御神木で、観光客だけでなく地元の人もあまり知らない。(看板は朽ち果てている)
春は「トトロの木」と言って敬っていたが、確かに何か霊的なものが感じられる大木であった。
台風で周辺が荒れている事もそれに拍車をかけているように思われた。
21日、八恵と道子が入院、25日には三度目の手術を行った。
護王杉に何度も頭を下げたからか、手術は無事に成功。
俺と春だけが残った阿蘇には山鹿から恵美子が泊まり込んでくれた。
親族総出のドタバタ生活は月末に入院組が戻ってきた事で終わりを告げた。
2005年5月
この月、俺は28歳になった。
寒かった阿蘇の冬もようやく終わりを感じられるようになってき、何となく福山家も活動的になってきた。
週末は大分の佐伯へ魚を買いに行ったり人吉の友人宅へ飲みに出たりし、病人の八恵を連れてはいたがポジティブに過ごした。
阿蘇の風景も暖かくなってきたからか顕著な変化が現れ始め、夕暮れ時には神々しささえ感じられる真っ赤な空が多く見られ、昼にはこれまた珍しい千切れ雲が多く見られるようになった。
また、月も半ばに入ると裏山の仙酔峡でミヤマキリシマが咲き乱れ、その期間ほぼ毎日、裏山へ足を伸ばした。
ちなみに、隔月で登場の義母もこのピンク色に染まった裏山を見るため、春日部から足を運んでくれた。
俺の祖母曰く、「孫は二度美味しい」らしい。
「会う時も嬉しいばってん、帰る時もホッとするけん嬉しい」
なるほど、我祖母の言葉ながら言い得て妙だと思った。
義母も一度で二度楽しんでいるに違いない。
2005年6月
この月は阿蘇に来てから最も精力的に仕事をやった月ではなかったろうか。
月の頭に徹夜の続く超ハードな研修を受け、それを実地で試すべく、「ありとあらゆる事をやった」という事が手帳に書かれている。
この辺りから思うところあって転職の下準備を始めたように記憶している。
そうそう。
阿蘇の景色として重要なものの一つとして牛や馬が信号待ちをしてたり、普通に道を歩いているところも挙げられるだろう。
福山家は近辺では唯一といえる信号付き交差点に位置していたから窓を開けると馬がいるという事がよくあった。
「乗せてくださいー」
俺がお願いしたのに俺だけは乗せてくれず、八恵と道子は乗せてくれた事を今でも俺は根に持っている。
ちなみに、アヒルの行列が交差点を渡っている事もあった。
この点だけでも愛すべき土地といえるだろう。
6月27日、またまた八恵と道子が入院した。
29日には四回目となる大掛かりな手術を行い、これまた無事に成功したから良かったものの、白衣を見ると震えてしまう八恵がそこにはいて、
(これ以上、手術は受けさせたくない)
心の底からそう思った。
術後の八恵は何か作り物のように血の気がなく、目を覚ました時、思わず胸をなで下ろした事を憶えている。
2005年7月
八恵と道子の入院は7月12日まで続いた。
約半月、又もや親族総出で難所を乗り越えるに至ったが、親族への感謝の言葉も八恵が元気に戻ってきた事でどこかへ吹っ飛び、礼を言うのを忘れていたように記憶している。
この場を借りて礼を言っておきたい。
「ありがとうございました」
一年弱、八恵の体に引っ付いていた人工肛門も外れ、後は術後の状態を診ていけばいいそうで、ひとまずは落ち着きを取り戻したというかたちであった。
阿蘇の景色は夏の高原らしく右を向いても左を向いても緑色で、全てがぬるい下界と違い、風だけはひんやりとしていた。
まさに最高の季節を迎え、庭でバーベキューという日も多くなった。
仙酔峡のちょっと上には小さい子も安心して遊べる浅い流れがあり、人も少なく、ちょいと涼むには最高で、ちょくちょく足を運んだ。
友人家族を呼んでここでバーベキューなどもやったが、下手なキャンプ場でやるよりはよほど阿蘇を満喫できる。
下を見下ろせば阿蘇の大カルデラが広がっていて、水は清く冷たく、そして蚊がいない。
夏の仙酔峡、この事を桃源郷というのではなかろうか。
2005年8月
阿蘇は観光地な上に神々の棲む町だから祭りが多い。
至るところで祭りがあり、その、ほぼ全てに福山家は参加している。
また、阿蘇という場所が金をふんだんに持っているのかどうかは分からぬが、季節毎に豪華景品を伴った抽選会がある。
隔月で阿蘇を訪れている義母は五月の抽選会で旅行券十万円分を当て、道子は五万円分の旅行券を当てた。
それを用い、八恵の退院祝いという名目で豪勢な旅行に出かけた。
場所は宮崎。
親族総出で南海の海風を吸い込んだ。
幼稚園でも祭りがある。
春に着物を着せ、家族総出でふらりと出かけた。
写真は春の担任の先生である。
元気がよく奇抜で勢いがあり、実に俺好み・春好みの先生で、この点、阿蘇を去る時の大きな心残りであったが、人の縁の悪い奴はどこへ行っても悪いし、いい奴はいい。
次も恵まれる事を期待するしかなく、春には「すまん」と言うしかない。
ちなみに、この時期の福山家はノッている。
会社の祭りでも一等の液晶テレビを引き当てた。
「まっ、福山さんのところは本当に羨ましい!」
ご近所からそう言われ悪い気はしなかったが、約一年も入退院を繰り返す生活をしていたのだから、それくらいは良かろう。
22日、女衆は埼玉へ里帰りをした。
俺だけは仕事があるので時期をずらして26日に移動した。
が…、八恵が高熱を出し、道子はまたも付き添い入院。
帰省中、そのほとんどを暗い病院ですごすハメになった。
八恵を遠方へ連れ出すのは時期早々だったようだ。
そうそう、八月には忘れちゃいけないイベントがあった。
激動の一年を送った八恵が一歳になった。
この時、餅を背負う儀式の他に、色々な物を並べ、その中で好きな物を選ばせ、取った物に才があるというお茶目な儀式があるらしく、それもやってみた。
八恵はカラオケのマイクを選んだが、たぶん、その方面に進む事はあるまい。
何なら道子か義母の鼻歌を聞かせてもいい。
軽い鼻歌でもそれがじゅうぶんに分かってもらえるかと思う。
春が何を選んだかは憶えていない。
たぶん、道子も憶えていまい。
福山家はそういう曖昧な家庭である。
2005年9月
春が水疱瘡にかかり、それが八恵に移った。
俺がひどかったからか春もひどく、八恵に至っては隙間を見つけるのが難しいほどに赤いブツブツが全身を覆った。
会社の仕事は順調で、結果もまぁ残せた方だと思うが、この頃になると精力的に転職活動を始めている。
週末の数日を面接などに費やした。
また、冒頭で書いた雑貨屋・華かずらを家に呼び、懇親会を催したのもこの時期である。
道子に三人目の妊娠が発覚したのもこの月で、2005年9月が次のステージへ向けて動き出した瞬間かもしれない。
この時、入社一年目、阿蘇の山にはススキがちらほらと見え始めている。
2005年10月
2日に春の運動会があった。
この日、隔月来訪の義母が来ていたわけだが、裏山に登ってみると俺も初めて見るような立派な雲海がそこにあった。
10月という月は阿蘇ライダーハウス店主・吉澤氏が言うに「最も雲海発生率の高い月」らしいが、これほどのものは一年を通しても稀らしい。
とにかく良かったし、これほど震えた瞬間は他にない。(景色を見て)
運動会も良かった。
春の徒競走は四人中三位で、四位の男の子は骨折をしており、実質ドベであった。
その凄まじいばかりの遅さに我子の走りながら抱腹絶倒したのであるが、義母も実母も抱腹絶倒、ご近所の人も笑っていた。
俺が笑うのはいいが、人に腹を抱えて笑われると何やら悲しいものがあった。
春の担任の先生は頭にカラフルな何かを引っ付けており(他の先生は普通)、踊りも極めて大袈裟で、他のどの子供より確実に目立っていた。
この先生、
「春ちゃーん、なんしよっとねー!」
団体競技のシッポ取りゲームで声を枯らして叫んでいたのだが、その頭で何を言われても子供は聞く耳を持つまい。
一生懸命というより滑稽さが際立った。
春は開始数秒でシッポを取られ、オロオロしているうちに試合が終了。
踊りは人と違って創作的で面白かったが、
(春の身体能力はそう高いものではない)
その事が確認できた運動会であった。
さてさて、この数日後…。
例の如く台所の窓を開けてみると雲の隙間から根子岳が見えた。
これは実に珍しい絵で、一年以上も根子岳を見続けたが、最初で最後だったろう。
10月も中頃に差し掛かると冷たい風が吹き始めた。
中学時代の友人が地元に店を出すため東京から戻って来たのもこの頃で、毎週末、彼の名が俺の手帳にいる。
彼と会うための往復で二重峠を通るようになり、不思議な感じの阿蘇五岳と出会う事もできた。
話が前後してしまうが、夏くらいからの娘達のブームに「モンスターズインク」がある。
ディズニーの映画であるが春も八恵も大いに気に入り、春に至っては映画の中のセリフを憶えるほどになった。
そんな中、ディズニーオンアイスがモンスターズインクを取り上げ、更に熊本公演があるという話を聞きつけた。
当然、家族で足を運んだ。
感想は…。
まぁ良かったが、毎年行かねばならないというものではないように思われた。
ちなみに、この公演でグッズを購入している。
代表的なものは写真の二つで、精巧なキャラクターコップ(ストロー付き)である。
食卓に耳を傾けてみたい。
「春はね! これから毎日このコップで飲むのー!」
「よし! 俺もビールばこれで飲もう! 高かったけん!」
「使わなきゃねー!」
「ばーば!」
そんな事を言っていたが、この写真以来、一度も使われた事はない。
テレビの上の物置場で、ただの置き物として睨みをきかせている。
2005年11月
転職に際し試験を受けまくったので、幾つかの会社から内定を貰った。
ちょうど景気が良かった事は、
(俺にとっても家族にとっても良かった事だ)
そう思いたい。
もし全て落ちていたなら俺は阿蘇を離れたくとも離れられなかったし、春も大好きな幼稚園を離れる事はなかった。
幾つかの内定先から「これだ!」と思った一社を選び、すぐさま辞表を出した。
それが11月16日である。
辞意が具体的に固まってからは最後の阿蘇を堪能すべく、隙を見つけては裏山に登った。
春にとっては登園前に迷惑だったかもしれぬが嫌々ながらも付いて来てくれ、迷惑そうに俺の言うポーズをとってくれた。
12日には辞表提出前のビックイベントとして奈良の正倉院に春と二人で出かけた。
詳細は「悲喜爛々45」に書いているので、そちらを見て欲しい。
辞表提出後の阿蘇の景色は本当に輝いて見えた。
会社への通勤路、事務所二階からの景色、どれをとっても一級品だったが、いかんせん会社との相性だけが合わなかった。
その事が残念で残念でしょうがなく、残り日数が少なくなるに従って、
「俺のバカ!」
そんな事まで呟くようになってきた。
俺が大金持ちだったら間違いなく近辺の土地を買ってから引っ越したろう。
それくらい、この阿蘇市一の宮町宮地、仙酔峡道路沿いに惚れ込んでいたのだと辞める時に気付いた。
送別会もちょくちょく入ってきた。
協力会社の人たち、関連会社の人たち、現場のパートさん、道子の友達、ご近所さん。
勤務の中心からちょっと距離を置いたところに力点があるというところに悲しいかな「阿蘇での俺」が表れている。
このへんは多分に僻みも入っているので何とも言えないところがあるが、
「阿蘇とは相思相愛だった」
勝手にそう思いたい。
前向きに、前向きに…。
2005年12月
この年の12月は気候史上記録尽くめの月であった。
日本海側の雪も然る事ながら、阿蘇でも頻繁に雪が降った。
初雪は12月4日である。
それから毎週降った。
降れば必ず積もり、夏タイヤの福山家はどこにも行けなくなるのであったが、残り数日で阿蘇を引っ越すのだから、冬タイヤやチェーンを買うのはもったいない。
ひたすら我慢した。
幼稚園の遊戯発表会の日は運良く晴れてくれた。
運動会の日は脇役にならざるを得ない春だったが、遊戯会は見事な存在感を示してくれたと親は勝手に思っている。
特に写真のパンダダンスでの「腰の振り方」が良かった。
速さ、幅、笑顔、共に遠目で見ていて頼もしいものを感じた。
ただ、教室へ春を迎えに行った際、
「これがカイ君です」
と、春が一人の男を俺に紹介したのにはまいった。
更に、そのカイ君という男、
「僕がカイ君です。おっとー、よろしくお願いします」
頭を下げたのにはビックリ。
「百年早いわっ!」
思わず本気で返してしまい、ハッと我に返り、辺りに大人がいない事を確認してしまった。
話はコロリと変わるが、柳川での新居を探すため、家族と恵美子と物件を回った。
「口は絶対に出さない」と言っていた恵美子であったが思いっきり口を出していた。
義母も阿蘇の物件を回った時、同様の事を言っていたが頻繁に口出ししていた。
出さないと思っていても出したくなるのが身内というものなのだろう。
会社を辞めたのは12月20日である。
その翌日、12月21日に大雪が降った。
前が見えぬほどの大雪で、どこもかしこも粉雪が縦横に舞っていたがキッチリ飲み会には参加した。
送別会の話は悲喜爛々46で書くが、これほど「阿蘇の最後」に相応しいシチュエーションはないように思われた。
また、幼稚園では春の送別会を開いてくれている。
道子と八恵も参加していいという事で二人とも張り切って参加したわけだが、子供達の真ん中を陣取って先生に写真を撮らせるあたり、
「さすが道子」
としか言いようがない。
会社を辞めて一週間、阿蘇でゆるりと暮らす日々を得た。
その内二日ほどは雪でどこにも出れなかったが、隙を見てビエントのコンサートに出かけたり、凍る滝で有名な古閑の滝を見に行ったりした。
滝までの道中、約1キロを歩かねばならないのだが、そのほとんどが凍りついた道で、春も俺も往生したが、そのぶん辿り着いた時の感動は大きかったように思う。
阿蘇の冬は厳しい。
厳しいがゆえに春が愛しく夏が輝く。
人生もそういうものなのであろう。
引越しの前日、家族揃って外食をしているところに一本の電話がかかってきた。
協力工場の人で、俺の上司ではないのだが引越しの事を気にかけてくれ、
「大丈夫か?」
という電話だった。
居酒屋で飲んでいる旨を伝えると、遅い時間であったが「今から行く」と駆けつけてくれ、腹いっぱいだと言うのに、
「食え、食え、遠慮すっといかんぞ!」
と、ご馳走してくれた。
阿蘇の人であった。
また阿蘇の人といえば、引越しの日、冒頭で書いた華かずらの姉さんがケーキとカレーパンを山ほど抱え、「餞別よ」と言いながら登場。
この日の気温は-10度。
雪こそ降っていなかったが今年一番の寒い日で、これらの人の暖かい気持ちがなかったら寂しがり屋の福山家は凍りついていただろう。
いや、一年四ヶ月という短い期間でさえも阿蘇で暮らせなかったに違いない。
春が近所のしゅん君と最後まで別れを惜しんで何かを語り合っていたのには閉口したが、これも阿蘇での出会いゆえ見逃しやるより他はない。
「最後に」という事で、美味い水道水を飲み、ギザギザの山(根子岳)・そして足繁く通った裏山(高岳)をしばし眺めた。
入間を離れる時もそうだったが、空っぽになった家を見ていると、
(こんなに広かったのか…)
何とも虚しい気持ちになって、様々な思い出が走馬灯のように駆け巡ってきた。
荷物を満載したトラックが出た後、福山家も愛車に乗り込み、住み慣れたばかりの阿蘇を後にした。
一周150キロの外輪山、それを真っ直ぐ横切るかたちの阿蘇五岳、その中にポツンと佇む小さな借家、標高600メートルの生活は終わりを告げた。
山暮らしを続けた人間は保守的になりがちだという。
確かに…。
それを裏付けるように、会社にも地域にも超保守的な人が多く、イライラする事も多かった。
が…、この阿蘇という土地を離れる時、
(保守的にならない方がおかしい…)
そう思う事ができた。
山というものはそれくらい魅力的なもので、皆この山を、この景色を、この水を、この贅沢な時間を護る事に必死なのだ。
地元の人は気付いていないようで、実は深層心理でその事に気付いているのではなかろうか。
それが保守的な民族性の表れではないか、そう思えた。
阿蘇の人も山も気候も本当に良かった。
これが福山家の一年四ヶ月、阿蘇での風景である。
風景は柳川に続く。
〜 終わり 〜