第16話 日常温泉(2007年12月)

温泉が近い。
自宅から徒歩四分弱のところに掛け流しの温泉があり、車を使えば五分圏内に十以上の温泉があるため、もう長いこと自宅の風呂に入っていない。
お値段もリーズナブルで村民であれば二百円、子供は小学校まで無料なため、こうも燃料代が上がった今、温泉へ行った方がお得でもある。
そもそも私は温泉街・山鹿の生まれであるため温泉が嫌いでない。
小一時間、ぬるい露天などにダラダラ浸かり、上がる間際、熱い湯へ飛び込む。ぶっ倒れる寸前まで熱いところで我慢し、湯気をもうもうと噴出しながら脱衣所へ駆け込む。汗を拭いているのか湯を拭いているのか、そのよく分からない状態で一気に拭き上げ、湯気を閉じ込めるべく服を着る。すると真冬の寒空、その下にあったとしても長い時間火照りが続き、実に心地よい。
そういう温泉が好きである。(秋冬限定)
が…、子連れだとそうはいかない。たいていの流れとして、私が長女と次女を入れ、嫁が三女を入れるのであるが、ゆるり露天に浸かっていると、
「プリキュア、メタモルフォーゼ! でやっ!」
「やられたー! でも、負けんよー!」
露天を囲む立派な石を舞台に長女と次女の寸劇が始まる。他に客がいなければ勝手にやらせているのだが、やはり誰かいれば親として止めねばならない。
「おい、暴れんなよー!」
一時は止まるがすぐ再開は子供の常で、落ち着く事はない。
壁一枚隔てた女風呂では、
「あー、何してんのよー、あー、もー!」
自由気ままな三女に向けた嫁の叫び声が響いている。
頭と体を洗ってやって、「さぁ、次こそはゆっくり入ろう」と湯船へ向かうが、
「暑いー、上がるー」
「おっとー、飽きたー、上がりたいー」
スタコラサッサ、娘二人は勝手に脱衣所へ向かう始末でぜんぜんゆっくり出来ない。
本来なら湯の質や雰囲気などを入念に考察し、常連の湯となるに相応しいところを模索するのが常であるが、こういう感じゆえ、湯の質や雰囲気は二の次にならざるを得ない。広々している事や人口密度が低い事、洗い場が広い事がポイントの対象となってしまい、今現在、村営の大型温泉施設を行き付けとしている。
長女は保育園から帰ってくると、その足で仕事場へ駆け込み、
「おっとー、今日もおっきい温泉行こー」
叫びたてる始末で、自宅浴場へ続く道は開かずの扉となっている。
温泉というものは非日常の代物であって、だからこそ広々とした湯船に喜んだり、露天の冷たい風に心癒されたりするものであろうが、足繁く通うようになり、それが子供という生活の代名詞と一緒に入るようになったりすると、日用品にならざるを得ない。
「毎日使うものだから、より良いものを」
そうも思うが、子供の声、そして慌しさを受けながら好きだった温泉が置き去りにされつつある。
贅沢な話だが、ある程度の距離を置かねば見えるものも見えないようで、そういうものは世の中にごまんとある。
「嫁よ、ちょいと遠目に俺を見てくれ。日用品にもきっと良さがあるはず」
襖一枚隔てたところから、嫁のイビキが聞こえる。
「日用品」とはなくなる事が想像できない「尊いもの」の呼称であると信じたい。
生きる醍醐味(一覧)に戻る