第17話 独立の醍醐味(2007年12月)

独立して二ヶ月が過ぎた。
おかげ様で想定よりも順調な滑り出しを見せてはいるが、それは売上のみの話である。入金される金額がサラリーマンより多いため、
(うむうむ…、俺もなかなかやるではないか)
何も考えずニヤリ笑っていたものだが、指定の日に「支払い」というものがある。
私の場合、本当に本当に運転資金が少ないため、入金を受けてからの支払いという事で各方面にご理解を頂いている。そのため通帳に記載される額としてはドンと増えた後にシュンとなる格好で、それが毎月末繰り広げられる。
事業を始めてみると想像以上に工具などを揃えねばならず、机や棚などもいる。電気代もドーンと跳ね上がってしまうし、ガソリン代も痛い。ネジ等、小物部品もちょろちょろ買い揃えねばならないし、それらを合算すると支払いは結構な額になってしまう。
「サラリーマン時代の半分ぐらい稼げりゃいい」
そう言って独立したものだが、それすら厳しいのがここ数ヶ月の現実であった。
業務にしても、
「分業は飽きる。仕事は自己完結せにゃつまらん」
サラリーマン時代そう言っていたものだが、実際、営業から設計、経理、購買まで全てをやり、それなりの利益を出そうと思うと、
「こりゃ大変だ」
一人作業の限界を感じざる得ず、利益の割に働き詰めというカタチになってしまう。
更に、これが最も痛手となっているが、猛烈に平日が寂しい。
出張や来客があれば別だが、たいていは一人で仕事をし、一人で仕事を終わり、それから家族のもとへ真っ直ぐ戻る。そういう明け暮れがひたすら続く。「五時から男」を自称していた私としては、それがどうも寂しく、心にポッカリ開いた穴を埋められないでいる。
仕事中も辛い。
工場と関わる仕事が長かっただけに、日中ふと寂しさを覚えれば体は自然と現場へ向かい、パートさんとくっちゃべるのが常だっただけに、今はふとした寂しさの解消法にも苦しんでいる。
そういうわけで…。
「独立して良かった」と思える事が今のところあんまりないのであるが、数日前、
(これはいい…)
プラスドライバー片手にニヤリ独立の醍醐味を味わった事があった。
その日の天気は雨であった。
しとしと雨が降り続く中、私は古巣より発注を受けた設備の組立を行っていたのだが、ふと例の寂しさを覚え、試しに坂本冬美と石川さゆりのベストアルバムを大音量でかけてみた。
窓から見える小高い山々は白く煙っている。降り続く雨は鋼板の屋根に当たり、バチバチと乾いた音を振り撒いている。設備の隣にはストーブがあって、その上の薬缶からはもうもうと湯気が噴出し、窓を白く曇らせている。
私は聴こえてくる音に合わせて鼻歌を歌い、延々と組立作業を行う。
坂本冬美のコブシが私の寂しさを慰め、石川さゆりの卓越した歌唱力が仕事にリズムを与えてくれる。雨と鋼板のハーモニーは絶え間ないやる気を与えてくれ、窓に映る白い山々は溢れ出た余熱を吸い込んでくれる。
ノリノリで作業を続けながら、ふと、そこに徹底的に自由な環境がある事に気付いた。どんなに歌おうとも、どんなに踊ろうとも、お尻を出そうとも誰も叱らない。
「俺は自由だ!」
こんなにも良いリズムで組立作業を終えたのは初めてだった。約半日その作業に没頭したが、まさに踊るような感じで仕事を終え、自画自賛なかなか良いカタチに短時間で仕上がった。
味をしめた私は次に設計作業でも演歌を用いてみたが、これは集中力を欠くようで、どうも合わないようである。
居酒屋、焼酎、冬、日本海、これらに演歌が合うように、歌にも適材適所がある。環境に合う良い組み合わせを探しながら「最高の職場」を模索できるのも独立の醍醐味なのだろう。
そう…。
一長一短は万物の宿命である。宿命ではあるが、悪い事は笑い飛ばし、良い事は過剰に喜ぶ。そうせねば十人に一人が鬱病になる時代、良い時間というものはなかなか過ごせないのかもしれない。
そういえば…。
最近、新聞の政治欄をすっ飛ばすようになってきた。むろんストレスがたまるからであって、他意はない。
「いかん、いかん」
小さい子供が三人もいるのに虚無僧みたいな世捨て思想になりつつある自分を恥じ、今日も慌てて図面を書いたり、ネジを締めたりしている。仕事をしている瞬間だけは阿蘇にいようが一人でいようが現実社会の一員で、それから離れた私はどうも危ない。頭の中が詩人や音楽家みたいに非生産的な方向に傾いてゆく。今は傾いた後に元に戻す作業をしているからモノが作れるが、その戻し作業が長期になかった場合、きっと当たり前のモノは作れなくなってしまうのだろう。
「お…」
今、これを書きながら一人孤独な職場で爆音の放屁に至った。
「誰かに聞いて欲しかった」
そう呟いた私は現実を見ていない。
「誰もいなくて良かった」
そう呟くべきが現実であろう。
さ…、仕事にかかろう…。
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