第20話 歌う爺様(2008年2月)

氷点下8度、凍てつく寒さの中、「えいや」と布団を飛び出し、いつものように家族五人で食卓を囲み、それから温泉へ向かった。
最近は仕事前に温泉へ行くのがマイブームで、いつもは次女が付いてくる。
しかし今日は保育園で交通教室なるものがあるらしく、女衆は全員揃って保育園に行くという。
テレビではバレンタインの事をヤンヤヤンヤと騒ぎ立てているが、一人っきりの自営業にバレンタインはない。いつもの気分でいつものように起き、いつものように温泉へ出かけた。
ところで福山家が愛してやまない近所の温泉であるが、一番風呂はとてもぬるい。
湯を入れ替え、それから循環加熱するからであって、地元の人が適温というまでには約二時間かかる。番頭の親父が開店一時間前に準備に入っても適温には間に合わないらしく、番頭もそのリズムを改める気はないので、開店九時、適温十時というのは地元の常識になっている。
従って一番風呂はいつもガラガラ。私と次女は気兼ねする事なく歌ったり泳いだりしているのであるが、その日は一人だけ爺様がいた。
(お…、珍しい…)
そう思い、挨拶を交わしたのであるが、その爺様、目をつぶって熱唱している。けっこう大きな声で挨拶をし、ドアも手荒く開けたのだが全く気付いていない。
(入り込んでるな)
そう思い、掛け湯をしようと湯船に手を伸ばした時、
「うにゃっ!」
爺様、仰け反るかたちで私に気付いた。
「あた、なんかい! そーっと入らんでくれ、たまげたぁー!」
爺様はそう言いながら顔をザブザブ洗うと、また歌い始めた。
曲目は「兄弟舟」であった。
「波の〜♪ 谷間に〜♪」
爺様の歌はお世辞にも上手いとは言えない。しかし声量だけは抜群で、私にとっては強烈な雑音であった。珍しく一人で来た事もあって、心底ゆるりとしたかったのであるが、これじゃどうしようもない。
先に体を洗い、爺様が出るのを待った。しかし爺様、一向に上がる気配を見せない。更に曲目が「兄弟舟」オンリーなので耳から離れなくなってきた。某ホームセンターに長時間いた気分である。
たまらず嫌味を言ってみた。
「お上手ですね」
これがいけなかった。
「そぎゃんね、うれしかぁ、実は明日カラオケ大会があるとたい、ちょっと聞きよってくれんね」
爺様の兄弟舟は更に大きな波に乗り、体まで動かし始め、大きく湯船を揺らし始めた。
「俺と〜♪ 兄貴のぉよ〜♪ 夢のぉ揺りかごさぁ〜♪」
(揺りかごはどうでもいいけん、バチャバチャ暴れんでくれー!)
終わらない歌に苛立ちは募るばかり。終いには感想を求められたため、
「もうちょっとコブシを強くされた方が…」
苦し紛れにそう返すと、爺様はもがき苦しむ断末魔の形相で更に暴れながら歌い始めた。
ぬるい湯も長時間入れば温まってくる。今これを書きながらも頭の中では兄弟舟が回っているが、約一時間も兄弟舟を聞き続け、頭の中まで熱を帯びてしまった。
上がる際も、
「なんじゃ、もう上がるとかい? 歌ん聞き苦しかったとか?」
そう問われ、「はい」という言葉を出しては戻し、そして飲み込み、
「明日のカラオケ大会、きっと大盛り上がりですよ」
ニコリ笑い、手はグーのまま湯を後にした。
壁一枚隔てた脱衣所にも爺様の兄弟舟は容赦なく運ばれてくる。壁二枚隔てた廊下にも兄弟舟が薄っすら届いている。
「凄い声量…、爺様とは思えん…」
それだけは感心しながら徒歩四分の家に戻り、「さあ、仕事にかかろう」とパソコンに向かったが、威力爆発、ここにも記憶を通して兄弟舟が運ばれてくる。
「型はぁ古いがぁ〜♪ しけにはぁ強い〜♪」
(むむっ、確かに型は古いが何かが強い…)
「熱いぃこの血はよぉ〜♪ 親父ゆずりだぜぇ〜♪」
(頼むから受け継がないで! 爺様で終わらせて下さい!)
「ああっ! 仕事にならないっ!」
それはまさに強大船。焦れば焦るほど私の思考を占拠するのであった。
生きる醍醐味(一覧)に戻る