第21話 見とれる爺様(2008年3月)

庭の最も目立つところにひどく年老いた梅の木がある。
引っ越した当初、夫婦揃って枯れ木と思い、地元の人に切ってもらおうとしたところ、
「こん木は生きとりますばい。それにカタチんよか。もったいなかですよ」
そう言われ、ほっといたら花が咲いた。
咲き誇るという感じではないが、ちょろちょろと咲いたまだらな感じが遠目で見ていて実に絵になる。
「切らんで良かった」
「ほんとにねぇ」
夫婦で我身の短慮を嘆いていたところであったが、つい先日こんな事があった。
朝起きて新聞を取ろうと外に出てみると雪が積もっていた。寝る前に天気予報を見たが、それによると終日曇りになっており、予想外の景色に「おお!」と声を荒げてしまった。
その声を受けて、老梅にとまっていたウグイスが飛んでいってしまったらしい。
「らしい」と書いたという事は、誰かにその事を聞いたという運びになるのだが、老梅の前にいた近所の爺様に聞いた。面識のある爺様ではなかったが、早朝に散歩をしているのだから近所の爺様であろう。
挨拶を交わすと爺様はゆっくり頷き、
「よか梅じゃ!」
一言そう言い、続けて現在の状況を説明し始めた。
爺様はこんもりと綿雪が乗った老梅に見とれていたらしい。すると小さなウグイスがやってきたそうな。ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴りきらぬ不器用な「ホケホケ、ホケキョ」を何度も発したらしく、
「ちっちゃかウグイスの可愛かこと可愛かこと、そりゃ良かったですばい」
いとおしげに眺めていたという。
私は爺様至福の瞬間を奪ってしまった事に深い反省を覚え、「すんませんねぇ」と頭を下げたわけだが、
「いやいや、そっじゃなか」
爺様はウグイスの事が言いたいのじゃないという事を色々な言葉を使って長々と説明し、
「春ん鳥は木ば選ぶとですたい、だけん、こん梅は素晴らしか」
それが言いたいのだと強く言い、
「それだけですたい」
有無を言わせぬスピードで背中を見せ、スタコラサッサと去っていった。
爺様とのやり取りはそれだけだったが、爺様の言葉はひどく私の中で尾を引いた。
「見とれとった」と爺様は言ったが、そもそも「見とれる」という感覚を私は的確に捉えられていない。思春期に才色兼備の同級生をボーッと眺めてしまうあの感じであろうか、我子の晴れ舞台を眺めるあの感じであろうか。
いや、それは違う。きっと違うだろう。
もっと穏やかで、もっとふんわりとした感じで爺様は老梅の中に溶け込んでいたのではなかろうか。
「見とれる」とは角膜を通して見るそれではなく、その先にあるもっと鋭敏な部分でのみ捉えられる極めて透明度の高い感覚ではなかろうか。
爺様は老梅を見、そして触れた瞬間、中空へ舞ったはずだ。
「かさかさになったお前さんは今にもなくなってしまいそうだけれども、小さくて可憐な花が今年も咲いた。お前さんは冷たい雪にも耐え忍び、今日は何やらキラキラしよる。孫みたいなウグイスが片言の言葉で何か言いよるが、お前さんにとっちゃぁどうでもいい話…。ふふふ、春ですのぉ…」
そこにある老梅は確かに老梅だけれども、それは「季節の繰り返しで老いてゆく」という人生そのものであって、万物の象徴のように何か透けて見えたりしているのではないか。
(見とれるという感覚、それは何だ?)
心を鎮め、ウグイスの声に耳を澄ましてみた。
聴こえた。
そして風の音が遮った。
続いて嫁の声が聞こえてきた。
「泣いてばかりいるんじゃないよっ! あんたは倉庫に行きなさいっ!」
「ぶえーん! ばかー!」
バチーン! ガラガラ! ガッシャーン!
花の色も鳥の声も風の囁きも全ては騒音の中にある。
爺様の域にはまだまだ遠い。
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庭の最も目立つところにある老梅。




寒さに震える可憐な花を老人はどう見たのか・・・?