第26話 碧翠楼(2008年5月)

阿蘇谷を流れる川を黒川という。南郷谷を流れる川を白川という。
この二つの清き流れはそれぞれの谷の低いところをゆるりと流れ、立野で合わさって白川となり、それからは勢いを増して大津へ落ち、以後のんびりと旅を続け有明海に注がれる。
熊本が誇る一級河川・白川である。
私はそれを調べるつもりではなかったが、それに沿う古道を調べるために黒川と白川の合わさる場所、立野戸下へ足を運んだ。
現在の阿蘇へゆくメインルートは国道57号線であり、南郷へゆくためには阿蘇大橋のところまで一気に上り、数鹿流の滝を左に見ながら橋を渡る。それから斜面を切り開いてつくった立派な道(国道325号)をゆくのであるが、昭和45年までは阿蘇大橋がない。
人々は阿蘇大橋のずっと下、谷底の岩壁に寄り添うかたちで歩き、小さな石橋で黒川を渡った。
昔の道というものは元からある地形に最小限の手しか加えないというのが大前提で、現在のようにトンネルを掘ったり、長い橋を架けたり、山を切り開くという事はしていない。むろん、土木技術が今日のように成熟していなかった事がその要因であるが、それ以上に文明的な道を人間が欲しておらず、更には山や川に手を付けるなどは田舎の文化圏から見れば神に背く恐れ多き事だったろうと思われる。
が・・・、文明というものは鉄臭くて近寄り難いが、食べるとこの上なく甘い。人はその味に酔った。まず鉄道に酔った。続いて車に酔った。大きな道が走った。高嶺の花だった車が徐々に庶民の目線へ落ちてきた。
文明の重みは日に日に増し、大きな橋ができ、立派な道ができた。立派な道ができる事で車というものの文明的価値は上がり、多くの人がそれを欲し、その事で更なる道ができるという短サイクル循環が始まった。
今、道路特定財源の一般財源化が叫ばれているが、道路特定財源こそ、このサイクルの担い手である。その中にあって、地元の代表と称している一部の利権団体の代表が、
「田舎にはまだまだ道路整備がいるんです、地方は強くそれを望んでおります」
そう叫んでいるようだが片腹痛い。
まず観光地でない田舎において、それを望んでいるのは道路整備の記念碑を建てたがっている政治家とその取り巻きぐらいであろう。その他、善良な村民においては何のメリットもなく、建設後の利用状況においては、道路中央で昼寝ができるほど閑散としており、目で見る無駄として田舎の近代道路ほど確かな事例はない。
「これにあれだけの金ば使うなら年金に回してもらえると良かったとこれ」
記念碑の前で茶飲み話をする老人を私はよく見かける。
で・・・、阿蘇においてはどうか。
混むのは休日だけである。平日においては不相応の大きな道を間違いなく持て余している。地元の代表と称す人間が、週末だけを見て「四車線だ、バイパスだ」と叫ぶのは構わないが、地元の渇望とだけは言って欲しくない。休日のための道路整備という点、地方のためというよりも休日に押し寄せてくる都会人のためと言った方が適当で、古くから住む地元の人間にとっては人の流れと景色が変わるだけで、混乱あっても利は少ない。
そもそも車の数が増し、財源は増える中で道路しか使えないとなってしまえば、新設される道は田舎ばかりになってしまう。むろん、ふんだんに土地があるからで、集落のはずれを通ってしまえば特に反対する人もおらず、知らぬ間に地元が望んでいるという大義名分を立てられやすく、更には老人が多い事も手伝って「病院へ行くための道をつくる」という弱者保護の理屈までが勝手に飛び出す。その結果、年金が払える払えないでもめている国会を尻目に不可侵の予算で道が作られ、古い道は捨てられていく。そもそも道ができても年金取られちゃ病院へ行けないという重大な事実を偉い人は分かっているのだろうか。
俗にいう田舎という場所は歴史的にも耐え忍んだそれが長く、政治の事は触れず気にせず成るようになると構える人が多いのだが、それだけに政治の捌け口を一方的に向けられている気がし、悲しくならざるを得ないのである。
ちなみに箱物においては更にひどい事態となっており、山林の至るところが文明と失政のゴミ捨て場になっている。書くと長くなるので別の機会に書くが、この点も目に見える現状を大いに踏まえ、そして考えるべき時期にあるんじゃないかと娘のつぶやきを聞きながら思ったりした。
「やま、なきよるばい、かわいそうに」
娘は汚された山に向かってそう言った。何とも素朴な一言であるが、人は元々素朴なのだ。山や川には血が宿り、それそのものが神であるという文化的発想を誰もが持ち、万物を擬人化して敬う。日本という国における文化形成の根源はそれであり、私は今、文化採掘に燃えている。文化を掘り起こす事が社会の硬い手触りを幾ばくか軟らかくしてくれるのではないかと期待しているのである。
話がちょんちょん逸れて申し訳ないが、私は建前の世界を除いたところにおいて最も一般財源化を明日のために期待しているのは役人の次には建設業界だと思って(期待して)いて、この業界ほど政治の不条理、馬鹿馬鹿しさに振り回されている人たちはいないと思っている。一般的な業界において管理職しか触れないでいい政治臭をこの業界は末端までリアルに触れねばならない。
「今日は目立たない公園で昼寝しといて」
「え、なぜですか?」
「ゴチャゴチャ言わずに寝とけばいいの」
「だったら家に帰ります」
「それじゃ駄目なの分かるでしょう、君は馬鹿か?」
私は学生時代にバイト先でこういったやり取りをした事があるが、あれから十年以上経った今も腑に落ちず、嫌な思いが残っている。「徐行」の看板持ちをやった友人に至っては、
「この寒い中、手に看板を持つのは無駄だと思います。看板は立てればいいでしょう。体を動かす仕事にかえてください。看板立てるのは私がやりますから」
そう進言したところ、翌日クビになった。政治の不条理その一例であり、この業界においては今も昔もこういう事が続いている。だからこそ期末に無駄な作業で無駄な人が無駄な時間を過ごさざる得なくなり、その内部にあっては人によって憤りも一入だろうと想像するのである。
話を戻す。南阿蘇の入口、道の話であるが、阿蘇大橋ができる前、道は川に近い場所を通っていた。熊本方面から行くと立野駅から先は岩壁に寄り添う格好で白川沿いの道があり、それが黒川との合流地点まで続く。黒川とぶつかったところで今度は黒川沿いに少しだけ進み、最も川幅の狭いところで石橋を渡る。橋を渡ってすぐのところに広い河原があり、そこに一段上ったかたちで戸下温泉・碧翠楼があったと思われる。碧翠楼から先は七曲と呼ばれる断崖に沿った道を上り、そこから先は栃木という次の温泉地になる。
阿蘇大橋や長陽大橋を使えば一瞬で渡ってしまう道程であるが、昭和40年代までは多くの人や馬車、それに車がこの道を通り、川向こうに見える北向山原始林を今よりもずっと間近に、もっとゆっくり眺めたはずである。
あたかも肉声が聞こえるような生温かい古道は今、人の通過を許していない。落石の危険があるという事で頑丈に封鎖されており、原付バイクで現地へ向かったが、入る隙間は見当たらなかった。が・・・、人間一人は辛うじて通れそうだったので、バイクを置いて徒歩にて進入した。
道は落石を危惧しているだけあって、切り立った崖に沿うかたちであり、アスファルト製の道には幾つもの大きな石が転がっていた。沿道の木は手入れされていないのだろう。伸びるだけ伸びたという感じで昼なのに暗かった。七曲と呼ばれる栃木から下るところは桜の名所だったらしいが、その桜も様々な植物とゴッチャになっていて、あるにはあるが、ものの本に書いてある通りの見事な並木とはいかないようだ。七曲を下りきったところに広い河原があった。上の説明で、
「戸下温泉・碧翠楼があったと思われる」
そう書いたが、何もないのでそう書くより他はなく、写真と風景をつき合わせ、たぶんそうだと認識するに至っている。河原からは南阿蘇鉄道の第一白川橋梁を谷底から見上げる事ができ、一昔前までは鉄道マニアがここに集い、写真を撮りまくっていたという一文にも納得ができた。
戸下温泉であるが、大正15年に書かれた阿蘇郡誌によると「明治15年16年の頃、赤峯氏等の尽力によりて栃木温泉の泉場を引いて浴場を創め、故長野一誠翁の努力によりて暫時発達し来たるが、大正7年より全戸下一円、長野眞一氏によりて経営する事となり、近時著しく面目を改め浴室旅館とも最新の設備を施し、年を追ふて繁栄に向かひつつあり」とあり、源泉は谷上にある栃木温泉のようで、歴史も古くはないらしい。碧翠楼はそこにある唯一無二の宿で、風光明媚とアクセスの良さをウリにしていたようだ。上と同じ阿蘇郡誌の言葉を借りる。
「戸下温泉は黒川白川の合流せる渓谷内にあり。翠巒(緑山の事)四周を囲繞し、両川の清流に臨み、南には北向山高く聳立して夏は碧翠滴るが如く秋は紅葉錦を彩り水容山色風光実に絶佳の土地なり」
「宮地線立野駅より宮崎県道を東十八町、自動車・馬車の便あり。旅館は碧翠楼一軒にして設備最も完備し、浴室は特等湯、普通湯、家族湯の三個あり、間敷(部屋の事)併せて五十を有し、収容人員約三百人、宿料旅籠一円五十銭より五円位、自炊一日八十銭以上、一ヵ年の浴客延人員約三万をこえ、夏季及び観楓期(秋の事)は遊客殊に多し」
更に当時着工したばかりの南阿蘇鉄道についても触れてある。
「近く南郷鉄道開通せば白川峡谷の大鉄橋はこの温泉場より眺められて実に天下の偉観と思はる」
郡誌であるから地元贔屓な感じはするが、大正15年の予想通り、この温泉は煌びやかな昭和初期を辿っている。阿蘇の玄関口という立地も良かったし、初めて見る文明の象徴・鉄道を見上げながら湯に浸かるのは何ともいえぬ心地良さであったに違いない。
ちょうど資料を集めている最中だったので、昭和5年、昭和35年の阿蘇観光ガイドも手元にある。それにも戸下温泉が載っている。大正15年と重複しないところだけを抜粋する。
昭和3年「交通便利なるが故に、日帰りによし、宿泊更に可なり。玉突台(ビリヤードの事)等の設備あり、秋の紅葉、春の桜、恐くは当温泉場の独占と云ふも過褒ではあるまい」「電話各地に通じ、入浴しつつ御用便が出来ます。団体のお方へは五百人迄の設備あり、予め御一報あれば立野駅へ自動車で御出迎へ致します」
昭和35年「おおいかぶさるように繁る原始林をながめながら、河原の温泉プールでの一泳ぎは爽快だ。黒川を眼下に見ながら蛇行する山道、七曲の難コースには桜並木が続き、春の花見から秋の紅葉狩りと行楽には最適」
また、この35年のガイドに広告が載っているが、それによると「完璧の設備を誇る碧翠楼」とあり、小さな字で「夢の竜宮風呂と情緒豊かな五岳風呂」と書いてある。更には新館ができたばかりらしく、「別館三代ホテル(デラックス新館)」と太字で書いてある。何となく賑やかな雰囲気があり、当時の活気が伝わってくる。また昭和3年と35年の設備を比較するにビリヤード台から温泉プールへと大幅な進化を遂げており、業績は順調だったのだろう。
で、これから先は資料がないので想像であるが、昭和45年に阿蘇大橋ができてからは大幅に客が減ったのではなかろうか。人の流れが碧翠楼のある谷底を通らず、遥か上空の赤い橋を流れ始めた。
南郷観光地化の切り札として自動車用に用意された阿蘇大橋は多くの車を南郷へ呼び込んだが、その穴が立派であればあるほど、前にあった小さな穴は一瞬で枯れ果てたのではないか。来客数のデータ等あれば是非見てみたいが、昭和44年と46年で比較すれば雲泥の差があったに違いない。
更にこの阿蘇大橋、その高さにおいて近辺では他の追随を許さないために自殺のメッカになった。地元の消防団に言わせると、かなりの頻度で出動していたらしく、「このおかげで土左衛門を見飽きた」という話まで聞いた。
碧翠楼はこの阿蘇大橋より数百メートル下流になる。上の話からすれば、湯に浸かっていて何気なく川を見たら潰れた人が流れているなんて光景があったりしたのではなかろうか。
とにかく阿蘇大橋の建設は、こと碧翠楼にとってみれば良い事は一つも生まなかったに違いない。
この碧翠楼が姿を消したのは昭和59年である。立野ダム建設の話が本決まりしたらしく、その事で碧翠楼は水の中に沈む運びとなり、立野ダム損失補償交渉妥結調印後、跡形もなく消え失せた。
私は何か少しでも片鱗が残っている事を期待し、封鎖域に突入したわけであるが、本当に何一つ残っていなかった。それは碧翠楼が喜び勇んで立ち去った名残なのかもしれないし、ダム建設というものの几帳面さなのかもしれない。
立野ダムであるが、今も税金を使いながら草葉の陰で運動を進めている。このダムは下流に水を送るためのダムではなく、洪水対策用のダムらしいが、地元住民を始め様々なところから反対運動が上がったために進めたくとも進められない状況にあるようだ。このダム計画のお陰で前述の道は封鎖され、その代わり長陽大橋という煌びやかなまでに立派な橋が黒川を渡っている。橋は皮肉にも周辺を眺めるには格好の場所になってしまい、その事で、
「この景観を壊すなんて、そんな馬鹿な事があるものか!」
地元反対の声に観光客の声までも呼び込むかたちとなった。今現在、工事現場は立野駅の下の方に移っているらしく、白川を渡る格好で簡易的な橋が架けられ、北向山原始林に道が作られている。橋のところには看板があり、「ダム工事に際し、自然を壊さぬよう様々な事に留意している」と書かれ、「切り開いた後にはそこにある植物で緑化を試みる」とか、「ガードレールに緑の布をかけて鳥を刺激しないようにする」とか、よくもまぁ、こんな事を書くねと担当者を褒め称えたくなる事が長々と列記されている。
北向山原始林は原始林であるがゆえ、一切の開発を許さないはずであり、地元の人も足を踏み入れる事がない。言うなればこの森はモノノケ姫に出てくるような神秘的、且つ近寄りがたい森であり、だからこそ国も保護している。保護しているという事は一般庶民が斧を入れようものなら一発で捕まってしまうという事で、我々は遠目に眺めるしか森との接しようがないのであるが、よく見ると国から送り込まれたダム建設集団はその森を切り開き、道をつくっているではないか。
たぶん、地元でこの山を崇拝されていた方は怒り狂われた事だろう。そしてここに駆けつけ、看板を見、唖然としたはずである。
「自然を壊さないようにあんな事やこんな事をやってるから許してね♪」
「うそぉぉぉ!」
踏み入ることすら許されない神々しい森に道をつくっといて、鳥さんに気を使ってますとか言われても、地元の人はズッコケルしかなかったに違いない。目の前で切り開かれているのが現実であり、それを保護すべき人たちが堂々と森林伐採をやっているのだから、地元の崇拝者は泣くに泣けなかったであろう。
とにかく、わけのわからぬ計画のために古いものが次々と死に瀕している。私は古き道を歩きながら、辛うじて石橋が残っている事に安堵し、そこに寝転がったりしたわけであるが、詰めてゆけばそれが文明であった。使い捨てこそ文明の真骨頂であり、大量生産の服を着、パソコンを使い、車に乗ったりするわけだから、ものの大小はあれ、文明の最前線で活動している人々を否定する権限を私は持ち合わせておらず、やれるとすれば方向性の提言ぐらいのものであろう。もし、これらを完全否定できる人間がいるとすれば、山深くで自給自足する仙人のような人だけである。
起き上がった私は川向こうまでゆっくり歩き、そして引き返した。南阿蘇鉄道の橋梁では補修工事がやっており、この道の一部は工事現場の休憩場所になっていた。工事の人たちは命綱もつけずに鉄橋の補修をやっていた。その事を褒め称えると、「綱をつけると腕が鈍る」という切れ味抜群の回答を得た。目も眩むような高さで仕事をしているというのが彼らの誇りであり、命綱をつけてしまえばそこらにいる人と何も変わらないと言うのだろう。
俺しかできない独自性、それこそが職人のエネルギーであり、そういう人間の集まりが維新前の日本におけるモノづくりであった。全てを均し、効率を追い、こういう世の中を確立してしまったが、果たしてそれは良いものかどうなのか。つくり続けねばならない仕組みがあるがゆえ、捨て続けなければならず、この道も聖なる森も消えつつある。
「イノベーションの方向性は果たして?」
そのような事を考えながら、ぼんやり歩いていた私であったが、この直後、肝を冷やす瞬間に出くわした。たぶん、こういう経験をした人はそういないであろう。
背後に轟音が聞こえたと思ったら大量の水が押し寄せてきた。
インディージョーンズなどアドベンチャーものの映画ではよく見るが、日常ではまずありえないだろう。それも渓流歩きをしてて鉄砲水に出くわしたとかなら分かるが、封鎖された道とはいえ舗装されている道を歩いている瞬間の出来事である。
道の上から轟音と共に大量の水が私の方へ駆け下ってくる。私のいる状況を確認すると、片方は聳え立つ崖、もう片方は川へ落ちる崖、逃げ場はない。瞬時に私が考えたのは、何かに掴まらなければ死んでしまうという事であった。俊敏な動きで木へ寄り添い、ダッコちゃん人形のような姿勢でしがみついた。
その瞬間、水は来た。膝から下を一気に濡らした。濁流は私を追い越し、道の先へ駆け進んでゆく。心臓は大太鼓を鳴らすが如く、重低音の乱れ打ちである。
死を覚悟した。が・・・、水量が私を流すほどに増えなかった。長い時間、木にしがみついていたが、水が止まる気配はなく、増す気配もなかったため、木を離れて水に逆らう格好で道を上ってみた。すると崖の上から流れ落ちる水、滝が見えた。水は川の臭いがした。察するに崖の上に小川があり、定期的に放流しているのではあるまいか。上で流す人も下は封鎖されている道という事で安心して流したのかもしれないが、時刻は午後四時、これに流され土左衛門になってしまっては、観光客に醜態を晒す運びとなり、笑うに笑えないところであった。
足元を駆け抜ける水は道を下ってゆき、幾度かのカーブを経て、石橋の脇から黒川に放出されている。私はびしょ濡れの下半身を引きずりながら水と共に歩き、石橋のところへ出た。
石橋には消えそうな文字で「くろかわばし」と刻まれている。明治33年につくられた黒川橋は多くの人を渡しながら碧翠楼の百年を見守ったであろう。
人の手によりつくられた彼は、人の手により静かな日常を強制されている。道をゆく人はなく、ゆくのは私を濡らした水のみである。上空には長陽大橋と阿蘇大橋、彼や碧翠楼をこういった境遇に持っていった張本人が気を張りながら車を渡している。
雑踏や騒音は遠い。彼は鳥のさえずりや川のせせらぎを聞きながら今後も静かな暮らしを営むであろう。そして近い将来、ダムに飲まれるか黒川の増水に飲まれるか、それは分からぬが水の中へ消えてゆくに違いない。
碧翠楼はそこにない。
黒川橋はそこにある。
人の心はどこへゆくのか、それは神のみぞ知る。
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碧翠楼跡地、本当に何もない。




これは跡地上空の長陽大橋から見ている。




草に埋もれている黒川橋。




南郷の玄関、その象徴がご覧の通り。




これは上(長陽大橋)から見た黒川橋。




これは黒川橋から見た長陽大橋。




黒川に差し込む神々しい朝日。




戸下旧道の今・・・。




北向山原生林に架かる鉄橋。碧翠楼はこれを眺めるビューポイントだった。




戸下旧道に取って代わった阿蘇大橋325号線。黒川橋の遥か上をゆく。




この景色の底がダムになるという…、どうしたものか…?