第49話 暇人の家(2009年4月)

モノづくりが暇である。
暇だから営業をし、色々やった。やればやるほど赤字になった。嘘みたいに価格が安い。その代わり加工屋さんの見積りも安い。以前の半額である。みんな仕事がなく、少ない仕事を奪い合っている。全ての物価が半額になるか、よほど身になる仕事でなければ飛びついても得るものはない。こういう時はお金のかからない「自分磨き」をするに限る。
従業員がいない気楽さはここにある。固定費が薄いという事は自由が濃いという事である。その点、従業員を抱えておられる経営者はこれから先を読まぬ方がいい。たぶんムカつく。
変な事ばかりしている。暇だから、あえて変な事をしようとしている。家族という愛すべき固定費に頭を下げ、旅に出たり調べものをしたり文章を書いたりしている。機械も作っているが、それはあくまで自分用で、セコい設計を楽しんでいる。こういう時に良いアイデアが出るというのは学者の言だが、今のところそういったものは出ていない。出て欲しいと願っているうちは出てこないのだろう。
大した営業もせず、来た仕事には図面と見積を返し、それで駄目なら諦めている。やって赤字になるなら「自分磨き」という名の変な事をしていた方が有益に思える。
中小企業には補助金が多い。農業機械の試作をしたかったので、計画書を書き、プレゼンをした。事前に視察があり、色々と合格のコツを教わったが、コツに沿えば計画がフィクションになってしまう。色々考えたがフィクションで補助金を貰っても成功する気がしなかった。結果、壇上にいる私が苦笑してしまうほど馬鹿正直なプレゼンをした。見事に落とされた。
どうも私は生きる要領が悪いらしい。学生時代は要領だけで生きていたような感があるが、三十路を越えて要領の悲しさを知ったのかもしれない。正直こそ人生を輝かす最強のツールに思える。馬鹿正直な人は要領が悪いようで実は良い人生を送っている。中途半端が最もいけない。
暇な時、特に燃えるのは調べものである。別に調べなくてもいいが暇だから調べている。暇の恩恵はその点にあって、例えば買った土地の事を調べている。調べてどうするわけでもないが、知らぬより知ってた方がいい。
この地は代々医者の家らしい。佐藤武之さんという高森町の芸術家が「阿蘇の博物館」という本に医者の話と屋敷の事を書いていて、古くは「粋な黒塀見越しの松に」がピッタリはまる見事な構えだったらしい。佐藤武之さんはこの地で少年時代を過ごされたそうで、思い出を地に重ね、母への愛を叫んでおられる。
佐藤武之さんは故人である。奥様が高森町にいらっしゃって現役で司法書士をされている。奥様とはこの家を買う時に接点を持ったが顔見知りとはいえない。顔見知りであれば即座に話を聞けるだろうが、他人ゆえ行くに躊躇する。暇の効能はこの点にあって、暇だから行こうと思った。重い腰が上がった。10キロほど離れているが歩いて伺った。意味なく歩くところにも暇が滲み出ている。
佐藤さんの奥様から見れば、この家は夫の実家にあたる。たまに行く事はあったが詳しい事は分からないらしい。が、一つだけ気になる事があって、医者の家なのに芸術家が続いている、それが不思議でしょうがないという事であった。著名な音楽家や画家を輩出していて、佐藤武之さんだけが異色の自衛隊に進まれた。が、結局は退職された後、高森で芸術家になられた。ナチュラリストの写真家、随筆家といえば佐藤武之さんである。
「あの家はそういう血なんでしょうね」
奥様はそう言って話を終えられたが、その土地に住む者として、もっと続きが聞きたい。
「粋な黒塀の写真など残ってないでしょうか?」
「どんなお医者さんだったのでしょうか?」
矢継早に質問したが、それから先は分からないらしい。
佐藤武之さんの親族を紹介してもらった。大沢さんという方で、高齢ではあるが今も元気に和裁の先生をされておられる。この道の権威らしい。やはり芸術家である。
「その方なら熊本に住んでおられるし何か知っておられるかも」
住所と名前を聞いたので、すぐ手紙を書いた。何と書いたか忘れたが、
「伺いますので話を聞かせて下さい」
そう書いたように記憶している。が、不意に大沢さんが我家へ来られた。旅行帰りに立ち寄られたらしい。娘さんの運転であった。
私はジャージ姿であった。高齢の先生を迎えるには極めて失礼な格好であったが、紋付袴に着替えるのもどうかと思われ、半分だけ脱ぎ、またはいた。
(突然の来訪は素の私、素の現況をご覧になりたいのだろう)
前向きに考え、汚い事務所に通し、屋敷の話をうかがった。
手元に乱れ書きの間取り図がある。土地と屋敷の関係はそう変わらぬが、屋敷の広さがぜんぜん違う。今の二倍は広かったと思われる。古くは池もあったらしい。屋敷の囲いも例の「粋な黒塀」であるが、今は貧相な柵である。変わらないのは石柱と巨石、それに古木であるが、石柱は一本欠けている。間隔が狭くて車が通らず、早い時期に抜かれたらしい。抜かれた石柱は畑に埋まっている。
ほんの数十年前、今と変わらぬ入口に観音開きの立派な門があった。黒塀に門構えというだけで古い時代の家格が知れる。私の血とは全く関係ないが、初めて私と関係あるところに家格が生じた。その場所に暮らしている事がたまらなく嬉しい。庶民だから覚える意味なき至福である。
門をくぐると屋敷があり、目の前に玄関が二つあった。立派な左が患者用、右が家族用である。左の玄関をくぐると受付用のカウンターがあって、その奥に板間が広がっていた。板間の脇に階段があって、階段の下は薬入れの棚であった。板間の奥は土間で、そこに台所がある。勝手口もあって、出たところに井戸があったという。屋敷の右は畳敷きである。十畳間が四つあり、それを縁側が囲っていた。
仏壇はどこにあったのだろう、聞くと家の端っこに狭い仏間があって、縁側の行き止まりが仏壇であった。床の間もあったらしいが仏壇と離れている。普通、庶民の家は仏壇の隣に床の間があり、掛け軸や壺が飾ってある。古い家でこの二つが離れているのを見た事がない。気になった。
「宗教は何ですか?」
聞いて驚いた。曹洞宗であった。普通に考えれば家格の高い家で真宗は稀であろう。知り合い全てが真宗であるため、曹洞宗というだけで大沢さんに後光が差した。と、同時にそれで気付いた。だから私の家だけ隣組が決まっておらず、「どこでもいいよ」と言われたのだ。古い時代、集落における隣組は真宗の檀家名簿で振り分けられた。当たり前だが曹洞宗の家は檀家名簿に載っておらず隣組に属していない。
興奮してきた。
「寺はどこですか?」
禅寺を近辺で知らない。聞いてみると高森・含蔵寺と言われた。
「含蔵寺ですか!」
行った事ないが聞いた事ある。南郷で最も古い寺である。鎌倉時代の創建らしい。
「墓はどこですか?」
墓は地獄温泉の登り口にあったらしい。が、阿蘇から離れる際、東京に移されたそうな。通る道なので寄ってみた。草生して何もなかったが、まったく無縁とは思えず誰かがいるような気がした。花など添えて頭を下げた。
話は尽きなかった。黒塀もなく見越しの松もないけれど、長年ここに住まれた大沢さんにはハッキリと黒塀が見えるらしい。大沢さんの回想に古い時代の下田が見え隠れしていた。
春になれば阿蘇下田に市が立つ。そういう時代が確かにあった。地元の消防団で賑わいを復活させようと去年から夏祭りを始めたが、そういう規模ではなく、道全体に出店が連なる最盛期の賑わいが大沢さんの中にある。黒塀の前には飴屋が並んでいた。ゆえ、この市を「アメイチ」と呼んでいたそうな。
「アメイチは、子供心にそりゃぁ楽しみでした」
しんみり語られる姿が実に良かった。身を乗り出して続きを聞いた。
市の前日になると待ちきれぬ男たちが、
「アカヒゲさん、箱ば貸して」
次から次に現れ、出店に使う箱を借りに来たらしい。家では市が近付くと幾つも箱を用意していたらしく、箱を貸すのが春の風物詩になっていたそうな。
大沢さんが発した「アカヒゲさん」が気になった。
街道沿いにあるこの家は磯田家という。先祖代々この地に住んだ古い古い医者で、病人あればカバン抱えて山登り、取るもの取らずまずは診た。それが磯田家の医者だという。
「だからアカヒゲって呼ばれてたんです」
地に慕われた当時の風景が「アカヒゲさん」に滲み出ている。大沢さんは誇らしげに続けられた。
「そうそう、古い家はね、患者さんたちが建ててくれたんですよ」
地獄温泉の下には木こりの集落がある。木こりは日頃のアカヒゲに報いるため木材を提供したらしい。釘を提供した者もいただろう。労力を提供した者もいたに違いない。何にせよアカヒゲの病院は地に積もった患者の心で建った。それが大沢さんの故郷である。
大沢さんは娘さんに手を引かれ、変わり果てたこの地を優しく眺めておられる。
「そうそう、この石でよく遊んだんです」
指されている巨石は、時を経て、うちの子供が遊んでいる。
「楽しかったです」
大沢さんはそう言って帰られた。が、果たしてこの地を見た事が大沢さんや家族にとって本当に良かったかどうか。何とも言えない。
この土地を手放されたのは平成三年らしい。何かの理由で手放され、その後、四つの家が渡り住んだ。四つの家は磯田家という風景をゴチャゴチャにしてしまったのではないか。
「申し訳ありません」
悪くないのに謝るのは変な感じであるが、半ば反射である。自然に頭が下がった。しかし大沢さんは、
「思ったより変わってません」
そう言われた。目に映ったものを古い記憶が塗り潰したと思われる。確かに故郷(ふるさと)は心であって、景色に寄らないものかもしれない。その点、夜峰山と庭の巨石さえあれば、故郷として事足りる。
故郷とは何か、血とは何か、親とは何か、引き継ぐものとは何か。よく分からぬが私は庶民ゆえ家格に対して敏感である。が、もし、そういうものが親から渡されたとすれば却って邪魔に思えるだろう。金や権力もあればあったで争いや束縛の種になる。謹んで受け取らねばならぬものは百害あって一利なしに思える。
ならば受け継ぐべきものとは何か。分からぬが、分からないなりに分かっている。アカヒゲの歴史を誇らしげに語る大沢さんを見て、そういうものかもしれないと変に納得している。家業が絶えた。屋敷が消えた。阿蘇から離れた。が、この家は第一線の芸術家をふんだんに輩出している。想像の域を出ないが、これぞ故郷アカヒゲの効能ではないか。引き継ぐなら、そういうものがいい。
暇なので色んな事を考え、色々動いた。
後日、高森・含蔵寺に足を運んだ。
住職の奥様であろうか、品のよい女性に大雑把な経緯を説明し、
「アカヒゲ先生の話をご存知ないですか?」
問うてみた。が、明治大正は遠くなりつつある。磯田家は知っているが医者をされていた時代の事は分からないらしい。過去帳に簡単な記録は残っているが、個人情報保護法の関係で家の人にしか出せないとも言われた。さもあろう。謝して場を去ろうとした時、追って含蔵寺の本をくれた。
「含蔵寺の歴史は南郷の歴史ですから」
鎌倉時代から続く含蔵寺は確かに南郷の歴史である。
すぐに読んでみた。またも考えさせられた。難しい世になってきた。敷居が高かった曹洞宗も経済難に喘いでいる。人の心が時間から離れ、寺から離れている。が、それでも「この寺を守ろう」と檀家は言っている。護持会を立ち上げられた。この本はそういう意図で生まれた。
「含蔵寺の歴史は南郷の歴史ですから」
その言葉を反芻した。追える範囲に限定すれば確かに的を得ている。が、人の心へ響くかどうか、それは分からない。歴史の重量は年々軽くなっている。含蔵寺もそれは知っている。だから書いた。書かねば寂れるだけで、人に響かねば寺は消えゆく存在である。
長い時間、境内を歩いた。寺の持つ雰囲気が実に良かった。文明を丁重にお断りしている。
「コンクリートがない、それでいて諦めていない、本当にいい景色ですね」
そう言うと、それが住職のコダワリだと説明してくれた。歩いて固め、野草は生えるに任せるらしい。
「落ちつきます」
「古い山寺ですから」
いい言葉も頂いた。
暇も考えものである。色々調べ、色々考え、色々悩んでいる。
(私みたいな人間が、果たしてここに住むべきか?)
馬鹿な悩みをアカヒゲさんが笑っている。
「気にすんな」
いい家を買ったと思う。しかし胸を張るには精進がいる。
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