第54話 汗と涙と男と女(2009年8月)

あの涙を見ていなければ、私は仕事に走っただろう。
7月31日午後、村内放送が流れた。裏山中腹にある地獄温泉で宿泊客が行方不明になったらしく、旧長陽村の消防団は現地へ集合せよという。
火事の場合サイレンが鳴るが、今回の呼び出しはサイレンが鳴らなかった。そのため私は呼び出しに気付かなかった。が、団員の電話連絡でそれを知った。知ったならば行かねばならない。平日昼に出動できるメンバーは限られていて、団員の半数近くは村外に勤めている。必然、役場、農協、自営業がその任を負わねばならない。
私は打ち合わせの真っ最中であった。田舎にも高速インターネットが走った今、簡単な会議はネットを通してやってしまう。資料を転送したりしながら、文明的打ち合わせが弾んでいるところに集合の一報であった。
「ドウシタンデスカ?」
モニターに映っている客は問うが、この状況を語ったところで理解されないだろう。都市部の機能は仕事に力点を置く事で成り立っている。が、田舎の理屈はそうではない。モニター先も田舎の人なら、私は状況を説明しただろう。
「人探しの呼び出しが入りました! すいません!」
「それは大変だ! 早く行きなさい!」
たぶん、そういう具合になる。が、都市部にそれが通用するか。通用しないだろう。消防呼び出しで放り投げられた客は怒り狂うに違いない。懇切丁寧に田舎の仕組を説明すれば理解されるかもしれぬが、それをやるなら打ち合わせの終了を急いだ方が早い。呼び出しの電話に「遅れて行く」と回答し、仕事を優先した。
ちなみに現在の消防団は半数以上が勤め人である。また前述したように仕事の位置付けが刻々と変化していて、消防団を優先させるような社会的ゆとりはない。それは土地に密着している農家にもいえる事で、競争社会が広く浸透した昨今、半ボランティアの消防団を平日昼に集合させるのは容易ではない。ただし役場や農協といった行政に近い組織は業務として消防団を出動させる。行政が集合をかけるから強制出動は当たり前であるが、彼らがいなければ平日昼の集合は成り立たないであろう。言い換えるなら平日昼という場面において民間は露骨な損害を被ってしまう。が、そこにいる手前、出なきゃならんし、出る事で村の仕組が成り立っているという事を知っている。だから辛いのである。
ニ時間ほど遅れ、午後三時をちょいと回った頃に到着した。地獄温泉の駐車場が捜査本部になっていて、消防車だけでなく、パトカーも多かった。
地獄温泉は夜峰山の中腹にある。我家からは「ぢごく道」という歴史ある古道が伸びていて、夜峰山の左脇をグングン登っている。登った先が地獄であり、更にゆけば草千里である。
地獄といえば別府であるが、ここの地獄も同じようなもので、つまりは硫黄の世界である。地熱が噴出し、湯が流れ、風景が白い。むろんオナラ臭い。
地獄温泉はここから流れる湯をパイプを通して引いており、古くは武士専用の湯であった。明治以降は湯治場として大いに栄え、最近は大衆迎合の温泉宿になった。全国津々浦々どこの湯治場も同じであるが、マスコミが宣伝し、太い道が通され、知る人ぞ知る秘湯的要素が消えていった。気付けば湯治場と温泉街がゴッチャになり、味も素っ気もなくなってしまった。地獄温泉はそういう世の中にあって辛うじて湯治場に類するらしい。いずれその雰囲気も消えてなくなると思われるが、とりあえず今は湯治場として有名である。
地獄温泉は代々Kという家が取り仕切った。この家がどういう家か分からぬが、地元の資料を見ていると今昔問わず色んなところで名前を見かける。土地の顔だと思われる。武士専用の湯屋を守った家だから士分かも知れず、湯の第一発見者かもしれない。調べてないので分からぬが、明治以降における湯治場の発展を見ると、才覚ある人が家督を継ぎ、地獄温泉を盛り立てたのだろう。
余談になるが、つい先日、実父が還暦を迎えた。この宴をやるに当たって希望の場所を問うたところ「地獄温泉がいい」という回答を得た。華やかな場所よりもヒッソリした場所がいいという実父の好みであるが、そういう眼鏡に適ったのであれば、地獄温泉は今も秘湯といえるのかもしれない。
遅れて駆けつけた私は地獄温泉の駐車場で孤独に待った。知り合いが誰もいなかった。消防団の偉い人に所属分団の行方を聞いてみると山に入っているという。追って遭難するのは避けたかったし、偉い人にも待機を指示された。
良い天気であった。駐車場の下に潰れた国民宿舎があり、その先に南郷谷が見えた。
地獄温泉に来たのは、これが五度目であった。二度は歴史散策、残りは入浴が目的であった。まさか五度目が人探しになるとは思ってもみなかった。
地獄温泉は近所にある温泉宿の一つであるが、それだけではないように思われる。私の住む下田は古道ぢごく道の入口だし、前述したK家の息子さんは長女の同級生である。更に阿蘇へ来て初めて書いた小説がこの辺りを舞台にしている。題名は「やまんこ」という。阿蘇観光ホテルと国民宿舎の事を書いた。両宿舎とも行政が税金で造り、そのまま山に打ち捨てた。山には「やまんこ」という座敷わらしみたいな神がいて、賑やかな声に目覚めるらしい。目覚め、人と暮らすが、打ち捨てられた後、眠れず泣いている。「やまんこ」は廃墟と化した宿の中で一人孤独に何百年も苦しまねばならない。
山が文明のゴミ捨て場になって久しい。が、山は神であり、人間は山の恵みで生きてきた。政治のポイ捨てが合法投棄となるようでは人の行く末も危うい。しかし「やまんこ」の孤独を嘆き、心痛める人もいる。心の総和が明日を造る。人の世界は半ば騙し合いであるが、結果はリアルである。結果だけは決して騙せない。
昨今の山はモノを考えるには打って付けであり、暇つぶしに最高であった。
所属分団に合流し、捜索に入った。
行方不明になっておられるのは61歳の女性らしい。娘さんと二人で宿に泊まったという事であるが、この日の朝、ふらりと消えたそうな。不明女性は痴呆が入っているという事だったが足腰は健全らしい。趣味は登山だったようで、どこまでも登っていった可能性がある。
不明女性を最後に見たのは道端にテントを張っていた五人組だと思われる。挙動不審な女性に声を掛けたらしい。
「モゴモゴ言いながらアッチに行ったよ」
五人組の証言を基に我々は「アッチ」へ行くが、道は二手に分かれている。地獄へ登る道と下田へ下る道である。とりあえず道に沿って片っ端から探そうという事になり、初日は宿周辺と道のあるところを探した。が、見付からず、日没で打ち切りとなった。
消防団は最初と最後に集合し、偉い人の挨拶を受けるのが通例である。この日もそれがあった。私は行政儀礼が大嫌いなのでソッポを向いていたが、娘さんの挨拶には感動した。
北九州の方らしい。痴呆が入った実母をここまで連れてくるのは大変な作業であったろう。「親孝行をしたい」という強い気持ちが娘さんを支えていたに違いない。が、目を離した隙に実母は消えた。
「どうしていいか分からなくて」
娘さんは泣きながらそう言われた。分かるはずがない。
娘さんは宿に相談された。警察署へ一報が入り、パトカーが集まり、ヘリコプターが飛び、警察犬がやってきた。次いで我々消防団がゾロゾロやってきた。
娘さんの心として、大袈裟になればなるほど小さくならざるを得ない。が、その反面、宿から見える景色は広大で、この大袈裟にすがる以外、方法が見出せなかったであろう。
「すいません、本当にすいません」
娘さんの涙は消防団を本気にさせた。ほんの数分前、
「やっとられん! 帰りちゃー! あちー!」
叫んでいた団員の目に火が灯った。
偉い人の訓示は声がでかいだけで団員に届かず、青い空へ消えた。訓示はこれから呑むであろう酒のツマミにならず、暑苦しいだけであったが、娘さんの濡れた声は男心を震わせた。無言で聞き入り目頭が熱くなった。むろん、酒のツマミになる。
消防団による探索は二日間と決まっていた。キリがないので行政が決めたらしいが、「明日は早朝から終日探索」という指示であった。
私は気合を入れて探したかった。しかし来客の予定があった。更に納期の迫った仕事もあった。正直辛かった。が、見てはいけないものを見てしまった。あの涙を見てしまっては、人の道として探さねばならない。来客だけは断れないので時間を早めた。少しだけ遅れて探索に入った。
山の探索というのは徐々に徐々に凄まじくなる。道が駄目なら山に入り、山が駄目なら谷に入る。草木を刈りながら山深くへ突入した。消防団が行方不明になりそうであった。
団員は消防署員でもなければ自衛隊でもない。運動不足だから午前中でヘトヘトになった。手足の切り傷・擦り傷も多く、満身創痍の感もある。ここまで歩けたのは娘さんの涙によるが、そろそろ涙の力も消えつつある。団員を見渡すに涙の持続力には大きな差があって、私は燃えているが若者は色んな事に苛立っている。一概には言えぬが、年配の方が涙の持続力があるように思え、もしかすると青春との距離感が持続力に影響するのかもしれない。若者は青春の只中にいる。涙を欲していない。我々は涙と感動を欲している。
「自衛隊を使えよー! もう無理ばい!」
若者は苛立った。確かに、この過酷さは自衛隊を使うべきだと思うが、私は過酷ゆえ楽しかった。不謹慎ではあるが、涙のために過酷へ挑戦するというのは男冥利に尽きる極めて美々しい瞬間ではないか。
それにしても丸一日は辛かった。歩きに歩いた団員、休憩といえば寝転がる始末で、横になったら寝てしまいそうであった。夕方になると探すところがなくなり、待機時間が長くなり、本職の警察も明らかにグッタリし始めた。
結局、不明女性は見付からなかった。娘さんが前に立ち、涙のお礼を述べられたが、団員は娘さんの顔が見れなかった。プロセスはどうでもいい。結果として見付かっていないのである。
消防団はこれにて撤収、以後、警察による小規模操作が続くわけだが、娘さんから見れば捜索人数がゴソリと減る。娘さんの目には深いクマが出ていた。眠れないのだろう。不安なのだろう。どうにかしてやりたいが、どうしようもない。消防団による捜索は、これにて打ち切りとなった。
再度、出動要請が来たのはそれから二日後である。行政の気が変わったのかと思ったら、娘さんが消防団の出動費を出したという。幾らになるか分からぬが百人以上が出動する。安くはあるまい。
娘さんは地獄温泉に泊まりっぱなしである。二日ぶりに娘さんを見るが、見事に痩せておられた。宿の人の話によると食事が手に付いてないらしく、実に痛々しかった。
この日は雨であった。娘さんは三度笠と雨合羽を身にまとい、一人捜し歩いておられた。娘さんの顔に並々ならぬ決意が滲み出ていた。
「探し出すまで生きて帰らぬ!」
足取りに気迫がこもっていて、我々も気が引き締まった。
消防団は娘さんに背中を押され、草の中を探し歩いた。自殺の可能性もあるという事で、橋下の深い谷を探そうとしたが土砂降りの雨で中止になった。
その翌々日、また地獄温泉に登った。今度の目的は捜索ではない。実父の還暦祝いであった。私が幹事であり盛り上げねばならなかったが、その心境は複雑であった。宴会の外では、あの娘さんが失踪した実母を探している。もし目の前の両親が失踪したら、私も全財産を投げ打ち探すだろう。
「絶対ない」と言われていた四度目の捜索も行われた。還暦祝いの翌日であった。
「探し尽くして探す場所がない、それでも探そう」
そういう指示で道なき道を突き進んだが、それでも見付からなかった。
最後に挨拶されたのは失踪女性の夫、つまり娘さんの父だと思われる。この方も疲れ果てておられた。娘さんと二人、声なき声を上げ、何度も頭を下げられた。が、私たちは痩せ細った二人の姿を直視する事ができず、ただ下を向くしかなかった。
失踪女性が見付かったのは、それから一週間後であった。白骨化した遺体を警察犬が見付けたらしい。どこで見付けたのか分からぬが、ホッとすると同時に怒りを覚えた。我々は何をやっていたのか。
盆が過ぎた。八月も後半に入った事を驚き、ふと手帳を見た。笑うしかなかった。この半月、人探しと実父の還暦準備、それに郷土の調べものばかりをしていてカラクリ屋の要素が見当たらなかった。モノづくりの仕事が手付かずで残っており、人間臭い仕事を優先した結果であった。
職業は人間の上に乗っかっている。当たり前だがそれに気付かず、人間の仕事が後手になる事例は多い。その点、誇るべき半月といえるかもしれぬが時代に沿うものではない。愛すべき家族は働けと言うだろうし、そうせねば食えない現実もある。
食える食えないで仕事というものを考えれば、食える仕事は世の中や社会(公)への奉仕であり、食えぬ仕事は人生(私)への奉仕ではないか。むろん、どちらもいる。
失踪女性が山に溶けた。その山を見ながら考えた。死に甲乙は付けられぬが、母親としての一生が娘さんの心を高め、ついに再会を果たしたとすれば少なくとも孤独死ではない。大往生といえるのではないか。
カネで買えないものは多い。しかし、それを知るのは末期の時かもしれず、血の通った生き方をするのは、なかなか難しい。が、人は良く死ぬために生きているのかも知れず、良く死ぬための選択は、分かりにくいが大切な事に違いない。
「人道は死ぬことと見つけたり」
どういう心に囲まれて死ぬか、それ即ち、どう生きたかである。
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