第97話 東京下町散策記1(2014年6月) 二年前、東京ラブストーリーにハマり、鈴木保奈美が好きになった。それから保奈美で暮らし、今やっと衣替えの時期を迎えた。 「男はつらいよ」である。 再放送をたまたま見た。たまたま見たのが第11話「寅次郎忘れな草」リリー初登場の回でまさに大当たり。涙が止まらなかった。 「あぶくみたいなもんだね」 流れ流れの生活をサラリ「あぶく」と言っちゃうリリー。重い美学を背負っちゃって、どうにもこうにもうまくいかない寅さん。優しいおいちゃん。泣かせるおばちゃん。嗚呼さくら。 「たまらーん!」 既に放送が終わっていた1から10話をレンタルし、一気に見た。12話以降は毎週欠かさず見るよう努め、嫁や子にも見せた。 最初はみんな食い付いた。が、彼女たちに言わせると展開が単調で退屈らしい。開始15分で嫁が寝た。30分で三女と長女が寝た。毎度、次女だけ付き合ってくれるけれど、泣き所が分からないらしい。 結局一人になった。 放送は土曜夕方にある。その時間帯は大抵酔っ払ってるから、録画し、日曜の夜に見ている。現在36話まで放送され、残り12話。終わった後の虚脱を考えると今から胃が痛い。 とにかくハマった。ハマったからには色んな事をちゃんとしたい。携帯等、設定変更が利く物に関しては音や絵を切り替えた。一例を挙げると、嫁からの着信音が「さくらのテーマソング」になった。パソコンの壁紙も倍賞千恵子(若かりし頃)に切り替わった。 ソフトの切替も顕著であった。口癖が「それを言っちゃぁおしまいよぉ」になり、嫁の名も「道子」から「さくら」に替わった。鼻歌も常に寅さん系を口ずさむようになった。その影響で子供たちも色んな事を覚え始めた。 「姓は福山、名は八恵、人呼んでフーテンの八恵と発します」 次女(9)の名乗りを見るに付け、何となく嬉しくなった。 三女(8)もいい。何かの流れで「これでいいか?」と聞いたなら、 「結構毛だられ、猫灰だらけ、お尻のまわりはクソだらけ!」 啖呵売りで返してきた。やるー。 三人はノリノリであった。が、嫁と長女が遠かった。嫁はさくらの役なのに「お兄ちゃん」と呼ばないし、タコ社長の役を与えた長女は「寅さん!寅さん!」って口をとんがらせて走ってくれない。二人は問題児であった。 まぁいい。兎にも角にも愛した以上はちゃんとしたい。見た目もちゃんとする必要があった。服屋と言えばユニクロとシマムラしか知らない。まずは知ってるところでベージュのスーツと腹巻を探した。が、見付からなかった。大きいところならあるだろうとショッピングモールの受付にも聞いた。紳士服売り場に案内された。 「寅さんですか?ベージュ?こういうのですか?」 「いや、こういうベージュじゃなくて、もっとこう粋なベージュ」 「粋なベージュ?」 「だから下町っぽい色ですよ」 「下町?」 熊本ではあの感じが伝わらなかった。あの感じ。そう、あの感じなのに、その感じが伝わらなかった。そもそも私自身、下町っぽさが分かっているのか。 「背の低い雑踏?」 違う。分かってない。 ならば粋とは何か。 「美学の重さの競い合い?」 分からん。分かりたい。 「近々東京に飛ぶ予定はないか?」 予定はなかった。強引に作るしかなかった。 「申し訳ありませんが寅さんに近付きたいので東京の仕事を下さい」 「は?」 馴染みの客にも通じなかった。仕事はないらしい。かと言って、それがため飛行機に乗る余裕はなかった。嫁という愛すべき関所を突破するには出張っぽさが重要で仕事を絡める必要があった。 「展示会!そうだ!情報収集の名目で二年に一回展示会に行く!去年も行ったけど、そんな事を嫁は憶えてない!」 調べた。機械要素技術展が6月25日から東京ビックサイトであった。待てなかった。もっと早く出張できないか。カレンダーを前に進めた。二週間早く食品工業展、及び東京おもちゃショーがあった。 「これだ!」 格安チケットを押さえ、金を支払った。これで後には引けなくなった。続いて嫁の説得に入った。 「は?おもちゃショー?」 「色んな分野を知る事がカラクリ屋の強みになる!分野で展示会を選んでいてはダメだ!全く関係ないところにビジネスチャンスはある!」 寅さんの事は徹底的に伏した。伏して臨んだつもりだが、色んな事がバレてたらしい。 「葛飾柴又行くんでしょ、楽しんで来てね」 「むっ!」 「ベージュの服は買って来ないでね、せめて御守りにしてね」 「むむむっ!」 女は怖い。サラリ聞こえた送りの声に冷や汗が止まらなかった。 6月11日。とにかく東京へ飛んだ。その日は雨であった。 泊まりはゲストハウスという今時の安宿で、広間で雑魚寝を想像していたら個室が空いてるらしく値段も200円しか違わなかった。「200円ならそっちにしよう」と個室にした。が、これを個室と呼んでいいのか、独房ではないか、四面の壁が酷く近くて息苦しかった。息苦しいと言えば臭いも凄かった。男の蒸した臭いが充満していた。エアコンでどうにかしようと試みるも一向に消えず、コンビニで消臭スプレーを買うも効果なし。どうにもたまらず談話室へ逃げ込んだ。が、談話室も狭かった。狭い上に外国人でギューギュー。呼吸困難に陥った。 「ぷはぁっ!」 田舎者は密度と湿気に弱かった。この宿に二泊したが二晩とも近所の居酒屋(カウンター)で閉店まで過ごし、正体不明で眠りについた。 さて、下町散策である。 居酒屋のオヤジによると午後から降り出すらしい。 「早い時間に回りなよ、早く戻ったらウチに寄ればいい、店が閉まってても仕込みやってんから裏から声かけな」 居酒屋のオヤジは博多出身で婿養子らしい。強烈な強面で、 「兄ちゃん九州かい?」 声かけられてビビったが、事情を話すと爆笑し、肴を一品サービスしてくれた。 「分かる!毛深い外国人の臭いだろ!あれは強烈!だったら閉店までそこにいな!サービスしちゃる!」 酔ったオヤジは色んな人に私を紹介した。 「俺は福岡、この兄ちゃんは熊本、なぁに弟みたいなもんよ」 いつの間にか舎弟にされた。よく分からぬが九州を出た九州人は得てしてこういう具合になる。ありがたい事もあれば迷惑な事もある。それ即ち九州人であった。 本題に入る。 散策は浅草寺から始まった。 空はどんより。今にも降り出しそうではあるけれど何とか持ちこたえていた。 ここ数日、屋台を手作りした関係で、ちょうちんを買ったり作ったりしていたから浅草寺の巨大ちょうちんが見たかった。 観光客の流れに乗り、まずはちょうちんをくぐった。次いで仲見世を突っ切り、線香の煙を頭にたぐって本堂に参った。 時刻は午前8時。平日早朝ゆえガラガラを期待していたが既に混んでいて、そのほとんどが外国人であった。 私は筋金入りの観光嫌いであった。何が嫌って思うように歩けないのが嫌だった。ちょうちんを眺めたいのに、そこは写真スポットになっていて何度もシャッターを頼まれた。歩くルートも決められていて、何かを発見し、立ち止まると後ろから観光客がぶつかってきた。ゆるりの醍醐味は心と体を解き放つ事にあった。整然とした流れは、ゆるりの旅にそぐわなかった。 裏から浅草寺を抜けた。浅草寺の北には浅草の下町が広がっている。 下町とは何か。文字通り山の手に対し低地の事を指していて、古くは湿地帯、もしくは川や海であった。ザッと神田から東はそういう感じの水場であり、埋め立てという工事を以て人が住めるようにした。つまり、隅田川から江戸川まで全て下町であるが、例えば秋葉原駅前が下町かというとそれは認められない。認めたくない。下町には生活の匂いがいる。生活が積み重なって結晶化し、美学となり、風景として残ってなければならない。 そういう点、浅草あたりが最も東京に近い下町ではないかという事で浅草をスタートに選んだ。 北に歩いた。昭和の道幅が続いていた。風景が車を優先するようになって久しいが、ここならば自転車の方が似合うように思えた。 下町の足といえば自転車である。さくらも自転車に乗って登場する。夢見心地で歩いていると後ろから鈴を鳴らされた。ドキッとして振り返ったら単なるおばさんで、濃いサングラスをしていた。下町で見た最初のおばさんはタモリにそっくりであった。 歩いてしみじみ思ったが、やっぱり自転車と下町はいい。この感じは何なのか。戦後の街は自転車に合わせて作られたのではないか。 東京は何度も焼けた。戦後ゼロから街を作った。行政は今も昔も広い道が好きで、自転車がスイスイ通るよう精一杯道を広げた。私は古い道が好きだから舗装されてない細道を好んで歩いているが、これらの道に比べたら大通りと呼ぶに相応しい広さがある。が、今となっては狭い。道の主役は徒歩から二輪、そして四輪になった。車は何を変えたのか。道の面積を広げ、そのぶん住宅や店舗を上に吊り上げた。 下町の住宅も一つ、また一つと消えつつあった。消えたところは更地にされ、駐車場となっていた。住む人が一定数を下回れば大きな道を通すだろう。人は減らない。横ではなく縦に暮らす。都市化とはそういうもので、旅人にとっては視界も暮らしも見えなくなる。下町は低い並びが生命線だと思った。 浅草を抜け、千束に入った。言わずと知れた吉原である。 二十代前半の頃、六本木の文章学校に通った。そこに歴史小説を書く人がいて、 「吉原を案内する」 そう言われた。吉原と聞いて当時の私は猛烈に興奮した。が、その人はマジメで、本当に吉原の旧跡を案内された。 「ここにお歯黒ドブがありました、関所もありました」 「・・・」 案内が終わって酒も呑まずに解散した。あれから12年が経った。再びこの地を踏もうとは夢にも思わなかった。目の前に見返り柳。遊んだ帰りについつい見返る名残の名所。今はその面影もなく、至って普通、単なる街路樹。 昔はこの千束四丁目をお歯黒ドブと長塀が取り囲み、遊郭吉原は娑婆と隔絶していた。現在は四方好きな場所から入れるけれど裏から入るのは旅人として邪道に思えた。目隠しの五十間を抜け、大門(今はない)をくぐり、遊郭エリアに突入した。 入ってすぐ左手に床屋があった。床屋の前におっさんがいた。声を掛けられた。 「安くしとくよ」 床屋の前だから当然床屋の客引きと思った。 「後二週間は大丈夫」 そう返した。 「今がいいよ、安くしとくから」 「今はまだ早い」 「朝が狙いなんだけどなぁ」 「朝?」 過ぎ去って気付いた。これは風俗の客引きではないか。先に進んで左右を見ると看板が出ていた。「モーニングサービス」と書いてあって、喫茶店のようなノリで朝の入浴をすすめていた。 この辺りまで来るとワケありっぽい人がたくさんいた。感染症対策を謳う小さな病院もたくさんあった。業界の人もたくさんいた。ボーイ同士の挨拶が朝なのに「こんばんわ」であった。蝶ネクタイを付けた客引きが道端でラジオ体操をしていた。 「この街は何だか違う!業界っぽいぞ!」 こういうのが旅人にはたまらない。何かが決定的に違う。 「普通じゃない!それ個性!旅人嬉しい!」 足取りが軽くなった。雨も上がった。遊郭のエリアを三周ぐらい歩き回った。楽しくて知らず知らずのスキップが出た。客引きが睨み始めた。こういう輩を追い払うのも古くから吉原男児の仕事であった。指を差された。蝶ネクタイがざわつき始めた。旅人は足早に去った。 歓楽街エリアを抜けると右手に吉原神社があった。何の特徴もない普通の神社だが、そこに老人がいた。犬の散歩中であった。吉原は犬を連れた老人がやたら多かった。経験上、神社にいる老人は当たりが多い。吉原今昔を聞いてみた。 「座敷がピーク、トルコが落ち目、ソープになって閑古鳥」 「名言頂きました」 現地の老人が韻を踏んで言うからには、まさにそういう感じなのだろう。過去が凄過ぎて今が霞んでいるだけかもしれない。 更に進んだ。 吉原の突き当たり、台東病院の裏に酉の市で有名な鷲(おおとり)神社があった。そこから北へチョイと歩けば飛不動。共に覗くも小奇麗ゆえに通過した。観光っぽい整理された雰囲気は旅の流れにそぐわない。もっと陰気な方がいい。墓場はないか。 あった。 三ノ輪駅を越えたところに浄閑寺があった。寺の名前は知らないけれど投げ込み寺という通称があり、そう言われると分かった。身寄りのない遊女の遺体が投げ込まれたという寺で、その慰霊碑があった。遊女とゆかりの深い永井荷風の筆塚もあって、吉原へ行ってこっちへゆかぬは片参り、探して寄った。寄って良かった。有名な寺なので御多分に漏れず看板の嵐かと思いきや、そういうモノが一切なく、ギュッと詰まった集団墓地からそれらの碑を探す必要があった。 探すという行為がいい。墓には地域性や喪主・故人の思いがあって、それらをザッと眺めるだけでムラの雰囲気が分かる。 これを書きながら娘に放った説教を思い出した。娘が辞書を使わずパソコンで調べていた。求めるものに真っ直ぐ進むのは良くない。遅くていい。上下左右が見え、ムダに広がり脱線するのが物事の面白味である。私は小学校の頃、節句(せっく)の意味が分からず辞書を引き、余計な言葉を知って興奮した憶えがある。人はそうやって成長する。 脱線した。 浄閑寺を出て線路沿いを東に歩いた。突き当りが南千住駅で古くは小塚原の刑場が置かれた。江戸の刑場といえば小塚原と鈴ヶ森。ここ小塚原では20万人以上の罪人が何らかの方法で処刑されたらしい。が、今は首切り地蔵があるだけで、その他は新品の陸橋と線路、いわゆる普通の都会であった。 ちなみにこれは想像だが先ほど書いた浄閑寺は吉原から遠い。近場に投げ込まず浄閑寺に投げ込んだのには刑場方面という複雑な理由があるように思える。小塚原付近、数年前の写真を見ると古い墓地群があり、少なからず刑場の名残が見えた。更に言えば鉄道工事の際、人骨がジャンジャン出土したらしい。 小塚原は貴重な歴史遺産で旅人として大いに期待していたが、やはり都市化にそういうものは不要らしい。塗り潰しの真最中であった。 雨が降ってきた。この辺りで本降りになった。傘を差して歩いた。 隅田川が大きく曲がったところの内側が千住汐入。新興開発地区らしく高層マンションがビッシリ建っていた。 小学校が見えた。運動会の真最中であった。雨の中、狭い校庭を囲むようにビッシリ保護者が立っていた。入口には貼り紙があって「飲酒禁止」と書いてあった。 「この密度じゃ呑むに呑めんでしょ!」 一人静かに突っ込んだが喫煙所や道端で呑んでる人がいた。都会の人は立ってギューギューぐらいが酒を呑むのに丁度いいのかもしれない。 広い公園もあった。幾つかの保育園が遊びに来ていた。広いのに密着して遊ばせていた。幼少から密度に慣らす事で満員電車の訓練をしているのかもしれない。 隅田川の土手に上がった。上がった瞬間、土砂降りになった。折り畳み傘を慌てて差すもビショ濡れになってしまった。 雨をいとわぬマラソン人と共に京成関屋駅に逃げ込んだ。向こうの空が白かった。あっちの空は暗かった。雲はどちらへ流れるのか。マラソン人に今日の天気を聞いてみた。 「まだまだ降りますかね?」 マラソン人は男性。定年後をエンジョイされてる雰囲気。間違いなく地元の人であろう。空を見るかと思ったら、おもむろにスマホを出した。 「もう少し降りそう」 さすが東京。マラソン人がスマホを持って走る街。 「濡れて大丈夫ですか?」 「防水だから」 マラソン人は私という人間を「どうしようもない田舎者」だと理解したらしい。急に先生っぽくなってスマホの説明を始めた。衛星で走ったルートが記録され消費カロリーも自動計算されるそう。目標に対する実績も表示され、ここ数日は目標を上回っているらしい。 「で?」 と、言ってはいけない。二つ三つ無言で頷いたら今度は息子の自慢話が始まった。 逃げねばならぬ。私は電車に飛び乗った。 京成線は葛飾柴又へと続く。雨の柴又もいいだろう。素晴らしいに違いない。寅さんとリリーが相合傘で駅前を歩く名シーンは今日と同じ土砂降りであった。 隣のオヤジが愚痴ていた。 「こう降っちゃまいるねぇ」 独り言かもしれぬが私の方を向いていた。反射的に応えた。 「それを言っちゃぁおしまいよぉ」 「は?」 身は京成線、されど心は柴又であった。 |
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![]() 浅草から京成関屋、歩いた道。 |