第113話 自営業者と経営者(2016年1月)

辞書を見て「自営」の項を引いた。
[自力で経営する事、自立して生計を営む事]
後者は分かるけど前者は何だか違う気がした。「経営」という言葉に対する違和感だった。
去年は多くの経営者と会った。「経営者の会」みたいな勉強会(単なる呑み会)に入った事で、そういう知り合いがたくさんできた。会は僕の事も経営者として遇してくれた。が、明らかに僕は浮いていて、
「こいつは経営者じゃない!」
会の人々も薄々気付き始めた。が、なぜ違うのかよく分からず、みんな適当にやり過ごした。
(いずれクビにされるだろう、今年は入れてもらえるか?)
危惧してたけど今年も入れてもらえた。新年会に誘われた。
(何でコイツがいるんだろう?)
今年も意味が分からぬまま酒を呑み続けるに違いない。それはいいのか。きっとよくない。せめて僕が何者か、僕ぐらいは理解して、この違和感に何らかの回答を出さねばなるまい。
今朝は朝から初雪が舞った。物事を考えるには打って付けの静けさで、これを書いてる途中、真っ白になった。ストーブで温もった部屋から白い世界を眺めつつ、僕の事、経営の事を考えた。
そもそも経営とは何か。手元の辞書によると[物事の大元を定めて事業を行う事、運営を計画し実行する事、営利的・経済的目的のために設置された組織体を管理運営する事]とある。
なるほど。僕は自営をしているけれど、辞書が言う経営の大半に触れていなかった。つまり、自営業者であっても経営者とは言い難い存在で、物事の大元なんて考えた事がないし、管理運営する組織もない。唯一触れる事ができるとすれば「運営を計画し実行する事」だけど、経営者の言う運営は事業を継続繁栄させる事。それに引き換え僕の運営は僕が楽しめる事。これじゃ経営者の会に参加しても大人と子供が向かい合うようなもので邪険にされて当然。
「あんた雰囲気違う!気持ち悪い!」
誰かの指摘は至極真っ当、的を得ていた。が、僕はこの会に大きな魅力を感じていて、自ら離脱する気は毛頭なく、それは少年が大人の世界に焦がれるようなものだろう。経営者の言う事は自営業者の僕にとって先を走る教師の言、スッと腑に落ち目から鱗の連続で大変ありがたかった。
「右から左を作れ!そこで得た利潤を以って新たなモノを作り出し、今度はそれをベースに次の新しいモノを作る!そうやって回すのが経営だ!回さなければ消えてゆく!お前のやってる事は思い付きの自己満足!ひらめきオナニー!それじゃ続かん!消える!」
「ひらめきオナニー」
何と言い得て妙。何と気持ちのよい言葉だろう。僕は確かに公私共に単発、自己満足で継続性がない。経営の目指すところは継続性。この一点に尽きるだろう。ひらめきオナニーは、ひらめかない時点で終わり。だから人と組織を強くして、クルクル回る骨太の、消えない仕組を考えなければならない。
「分かるか福山?それが経営だ!」
「ははー!」
百戦錬磨の先輩たちに異論を挟む余地はない。異論はないが、僕は駆け出しゆえ、素朴に分からぬところがある。経営という作業は楽しいのか。経営という作業を一々拾って考えた。むろん顔に出た。
「何だ福山?言いたい事があるならハッキリ言え!」
「了解です!経営という作業は楽しいですか?」
「むっ!」
「楽しい作業でしょうか?」
「むむっ!楽しいかどうかは知らん!消えない事、続く事が経営の喜びだ!」
リアルに苦しみ、リアルに戦う経営者は経営というもののアメとムチを事例で教えてくれた。アメはもちろん継続性。僕が消えても会社は消えず、その周辺も食っていける。客にも社会にも迷惑かけず、文明が求める絶対条件・安定供給を損なう事もない。
「ゆえに経営者たれ!」
この会に属していると色んな人がそう叫ぶ。
経営者になるには至極簡単で人を雇えばいい。雇うという事が社会貢献の一番で、労働者の数が社会の規模・基盤に直結する。だからみんな勧めるし、成功者を大袈裟に表彰する。
雇えばいい。そう、僕も勧めに応じて経営者になればいい。ウチで働きたいという奇特な高専生もいた。簡単な事だ。彼を雇えばいい。「僕が楽しむ」を「社会が楽しむ」に置き換え、「家族が食える」を「従業員が食える」に置き換えるだけで僕は自営業者から経営者になれる。公器性を持てばいい。公器性が僕のやってる事に継続性というアメを与えてくれる。失敗しなけりゃリッチになって、経済的にも社会的にもそれらしい待遇になって、最後は政治家に担がれるかもしれない。
「でも、それって楽しいの?」
分からなくなった。手元の辞書「経営」の項に無意識の朱書きが入った。

物事の大元を定めて(→自分が楽しいと思う事を定めて)事業を行う事、運営を計画し実行する事、営利的・経済的目的のために(→自分の幸せのために)設置された(→した)組織体(→家族)を管理運営する事

それは経営者から自営業者へ転げ落ちるための方法で、無意識の落書きながら社会というものの堅牢な構造を見事に現していると思った。上るのは簡単だが下るのが難しい。社会の構造として公器性を持つ事は簡単だが、手放す時、それは廃人として遇される事を覚悟しなくてはならない。
経営者の会は楽しい。なぜ楽しいのか。
経営者が酒を呑む。成功者が称え合う。落伍者を慰める。従業員の愚痴を言う。これからの展望を語る。世界経済の行く末を憂う。バカの質問にちゃんとした論理で返す。
隣にたった一人の自営業者がいる。美味そうに酒を呑んでいる。嫁の自慢をする。娘のバカ話をする。明日の家庭を憂う。バカみたいな質問をする。貯金ゼロを恥じる。笑って頂く。おごってもらう。超楽しい。
結論は出た。
「今年も自営業者でいよう」
経営者の会は染まらぬ僕をいずれ追い払うに違いない。いや、人間の本当は優しい。貴重でウブでバカな僕を観賞用に置いてくれるかもしれない。
ちなみに福山家の男はサラリーマンがいない。みんな三十を境に自営業者になって屋号を持つ。そして誰も雇わず誰も雇えず死んでいく。死んだら終わり。屋号が消える。その繰り返し。
先祖は何を考えたのか。いい時も悪い時もあったろう。僕と同じように自営業者と経営者の狭間で物思いにふけった事もあるだろう。
「で、どうすんの?どっちに進む?」
「僕の器はお猪口でござる、家族と自分で命一杯」
「ちゃんちゃん」
窓越しの初雪を眺めつつ、嗚呼僕は幸せな暇人だと思った。
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