第116話 熊本地震とアソカラ(2016年4月)

1:前震

最大経験震度レベル3だったのに一気に6強までレベルアップ。熊本地震である。
まずは4月14日21時26分。3から5弱に2ランクアップ。



揺れた揺れた。起きない嫁子を慌てて起こし家を出た。
それから近所の老人宅を回った。私が一番かと思いきや既に色んな人が駆けつけていて、老人の安否は取り巻きの人から聞いた。奥で老人が「大丈夫」を連呼していた。周りの女性がパニック気味で、当の老人が落ちつけと言わんばかりになだめているのが印象的だった。
ちなみにこの日、色んな女性のスッピンを見た。正直、化粧って怖いと思った。
それから集落巡回の後、家で寝た。余震が続いていて「家は怖い」と誰かが言うも、とりあえず眠いので寝た。この時点では睡魔の方が勝った。
前震では電気も水道も止まらなかった。が、テレビをつけると近所の益城町が震度7と出ていて恐ろしい映像が流れ始めた。地震って怖いなと他人事のように思った。


2:前震の翌日

15日、普通に学校があり、交通安全委員の私は街頭指導に立った。みんなで「地震は怖い、益城町に支援物資を送ろう」そういう話をした。
家に戻って仕事場を見て回った。ナマクビ系が全部落ちてて風景として笑いがあった。パソコンも普通に生きてたので日課のツイッターを書いた。



ツイッターは今回の地震でほんと重宝した。固定電話も携帯電話も通じず、状況を伝える手段はコレしかなかった。
とりあえず倒れた色々を丸一日かけて元に戻した。特にネジ棚の復旧が困難で、M3からM6まで、5ミリピッチ各10種のネジを目視で分別する作業が辛く、遅くまでやったら全ての直線物がネジっぽく見えるようになった。
大きな余震がひっきりなしに続いていた。
避難所が開設され、近所の人も何人か避難を始めた。が、それは少数で、みんな自宅で寝た。うちも自宅で寝た。
家具から最も遠い居間中央に子供を寝せ、親はいつもの寝室で寝た。多くの家庭が前震のおかげで生き延びた。
稀に動物的勘で生き延びた家庭もあった。阿蘇カラクリ研究所、その嫁が凄かった。
嫁は常に動物っぽかった。その日の嫁は胸騒ぎがしたらしい。就寝前、挙動不審になり、冷蔵庫側にあった子の頭をクルリ反転。更に冷蔵庫から布団を離した。私と嫁の寝るポジションにおいても、いつもは嫁が左なのに、その日は右がいいと言い出した。左にタンス、右には衣装棚があった。どっちもあんまり変わらぬが、とにかく嫌な感じがしたらしい。


3:本震

4月16日、午前1時25分。そいつはドンとやって来た。



ドン!
「へ?」
ドドドドン!
「はひ?」
ドドドドドドドドドドドドドドド!
ヒステリーな轟音・横揺れと共に、壁際からタンスがやって来た。タンスはジャンプ。私の顔ギリギリにダイブ。嫁の勘は当たった。こいつ凄いと思った。この嫁を守りたいと思った。が、立てなかった。
パンツ一丁の夫は這いつつ嫁に跨った。知らぬ人が見れば強姦の図だが、これでも夫は無我夢中。全力で嫁を守ろうとした。が、嫁は夫を蹴り飛ばし、四つん這いで隣の居間に向かった。
「地震!地震!」
今リアルに全員で体験しているから分かりきっているが、嫁は「地震」を連呼した。
長女はパニックに陥りギャーギャー泣いた。三女は机の下に潜り込み、ひたすら念仏を唱えた。次女は眠そうな顔をコッチに向け、鼻をほじってた。
三者三様だが、とにかく揺れが収まったら全員で逃げねばならぬ。五人はてんとう虫になった。居間中央で固まった。
それにしても嫁の勘は凄かった。あの胸騒ぎがなければ娘の誰かは死んでいたに違いない。冷蔵庫の上にあった電子レンジが布団の脇に飛んでいた。嫁がポジションチェンジしなければ顔面直撃であった。
しばらしくて揺れが小振りになった。玄関が開かなかったので窓から出た。
隣の家の屋根瓦が屋根を滑り落ちていた。揺れは延々続いた。色んな物が落ちたり倒れたりして危なかった。車を広い場所に出し、子供を車に突っ込んだ。それから前回と同じルートで一人身の老人宅を回った。
今回も老人宅には人だかりができていた。今回は前回と状況が違うから老人が留まると言うてもむりやり避難所に引っ張ろうと思った。が、留まる人はいなかった。みんな言うこと聞いて車に乗った。
夜な夜な近所の生存確認をした。近所の確認を突き合わせ、集落の生存確認に努めた。未確認の家が一軒あった。
「消防団至急確認セヨ!」
現場へ走った。玄関に鍵がかかっていた。車はあったが返事がなかった。
「よし!行こう!」
裏戸を蹴って土足で突入した。ヘッドライトの明かりだけが頼りだった。知らぬお宅の闇迷路を恐る恐る突き進んだ。タンスや仏壇、食器棚が見えた。全部倒れていた。この下敷きになっているとしたら軽傷じゃすまないと思った。
私は血に弱かった。自分の血を見ても握力がなくなるほどで、もしグチャッとなった人間を見たら失神する自信があった。
奥へ奥へ進んだ。後ろに誰か付いて来てると思った。立ち止まり話しかけた。ビックリ。誰もいなかった。
前に進み、探すしかなかった。
「誰かいますかー?」
声を上げながら全部の部屋を恐る恐る開けた。いた。老夫婦がベットに座って立ち尽くしていた。明かりを探すが見付からず、動かずジッとしていたらしい。
生きてて良かった。が、老夫婦の目は私の足元を見た。パクパク何か言っていた。「クツ、クツ」と聞こえた。土足を叱られた。
「失礼、お気を付け下さい」
玄関の鍵を開け、正面から去った。
それから消防団は全員詰所に集まった。集落全員の無事が確認できたので、とりあえず撤収。深夜で電気も止まっているから現状把握は困難。夜明けを待って又集合となった。
2時間ほど車で横になった。興奮して寝れなかった。嫁も寝れないと言った。寝れるわけなかった。数時間前のビックウェーブが体に残って抜けなかった。
「寝れなーい!」
叫んでハッとした。助手席の嫁がグッスリ寝ていた。こういう人間になりたいと思った。


4:消防団生活(前半)

それから消防団生活が始まった。
詰所にはシャッターがあったけれど、地震で歪み開かなくなった。で、血気盛んな若者がアクセル全開、積載車でぶっ飛ばした。
風通しの良い詰所が地元の拠点になった。
初日は集落の現状把握。全戸回って負傷者と道路状況を確認。道の瓦礫を撤去した。
撤去の最中、やたら高森峠の道を聞かれた。高森峠は南郷谷の反対側で、震災直後、谷を出るにはその道しかなかった。消防団は停電後テレビもラジオも知らないから大橋やトンネルの崩落を知らず、ヨーイドンで発生した谷人東流れが意味不明であった。
電話は一切繋がらなかった。仮に繋がったとしても同じ事を聞かれ、同じ事を説明するのが面倒で、私などは携帯を携帯すること放棄した。
団員はネットで情報を得た。ドコモのスマホだけがネットに繋がるらしい。初めての情報はそれで得た。知らなきゃよかった。度肝を抜いた。メインルートが根こそぎ崩落。陸の孤島になっていた。
余震が続いて寝れなかった。本震の恐怖が消えず自宅で寝る人はいなかった。昼は詰所を拠点に消防団で動き、夜は車中で眠ったフリをした。何名か避難所に行った。が、消防団に関して言えば、ほぼ集落内で寝泊りした。
食料は一日で底をついた。幸い農村ゆえ、みんな米は持っていた。避難所配給のおこぼれを待っていても苦しくなるのは目に見えていたので消防団で炊き出しをしようとなった。問題はストック米が玄米という事。玄米は硬い。老人に配るには白米じゃなきゃいかんとなって精米をどうしようとなった。
カラクリ屋は役どころを得た。ここだと思った。手持ちの循環精米機にハンドルを付けた。これにて手動精米機ができた。



老若男女、人を集めハンドルを回した。みんなでやれば何とかなると思った。数人で交替交替2時間ぐらい回した。全員上半身が痙攣し動けなくなった。
炊き出し部隊として消防団の奥様衆が集まっていた。全く効率が上がらない精米部隊を鼻で笑った。
「二分づきに2時間、白米までに10時間、こりゃダメだわ」
この一言は効いた。全員回すのをやめた。よくよく考えればモーターの回転数は1分間に1400回。1/2に減速されるから1分間に700回。その回転数で40分回すから28000回で白米になる。手回しの場合、大人連続100回が限度で、2順目は大幅に回転数が落ちた。つまり200人以上の大人がヘトヘトにならねば30キロの米が精米できない計算だった。
「これムリー!誰が作ったんやー!」
隠したいと思った。が、すぐにバレた。こんなモノを作るのはカラクリ研究所ぐらいであった。
ちなみにその晩、高圧電源車という特殊給電部隊がやって来た。これにて電気が通った。ここぞとばかりにモーターで精米した。30分で真っ白になった。
この集落は全国的に見ても貴重な集落になった。全員モーターの偉大さを知った。


5:電気の話

電気の復旧は早かった。二日しか停電しなかった。前述の電源車という電力会社の特殊部隊がやって来てアッという間に復活した。
カラクリ屋は想定外の事態を迎えた。一週間は停電すると確信し、ムダに準備を進めていた。
バッテリーをかき集め自作蓄電機の容量を上げた。更に隣町のリモスという会社が作った蓄電ボックスに太陽光パネルが繋がるという情報を得、太陽光パネルを準備した。



「よし!これでいい!」
長期の停電に備えた。大した電源は取れないけれど、災害拠点の灯りと携帯の充電ぐらいはできる。これもアソカラの役どころだと思った。
組み立て完了。接続完了。充電マックスで夜を迎えた。
「さあ使おう!」
放電を開始した瞬間、停電が復旧した。蓄電装置は全く日の目を見ず、ただ充電するだけの箱で終わった。


6:水と湯の話

水は出たり止まったりを繰り返し、結局出なくなった。本震12日を過ぎた今も断水は続いている。
アソカラの水道は高台の水源から落差を用いて引いてある。間にポンプが入ってないから停電しても水が出るという最強の水道だった。が、出なくなった。
原因を見て集落全員ビックリ仰天した。地割れで水源が枯れていた。
断水の不便は特に女が辛かった。水源は他にもあるから汲めばいい。が、運ぶという行為が重労働で水は重い。重過ぎる。重いくせに文明生活はやたら水がいる。水洗トイレは1回6リットル。3回流したらポリタンク1本、18キロをせっせと運ばねばならぬ。
当然ルールが生まれた。
「お前ら聞けー!ウンコ以外ジャー禁止!ジャーした奴は必ず水を補充セヨ!」
ウチは女系なので大にも小にも紙が出る。小の紙はポリ袋に入れると決め、毎朝72リットルの水汲みが日課になった。
洗髪も困った。風呂は我慢できるけど頭のベタベタは我慢できなかった。雪平鍋で湯を沸かし、加水し、ぬるま湯で洗った。が、問題は湯量。男の短髪は大した事ないが、女の髪は大量の湯を必要とした。
「あーかゆいよー!」
娘が暴れた。嫁も暴れた。父として夫として何とかしたいと思った。
チーン。
閃いた。黒のタル舟があった。黒は太陽光で熱くなる。80リットルのタル舟をお日様の下に置いとけば大量の湯が作れるに違いない。
実験した。2時間置いたらぬるま湯になった。これは使える。家族も喜んだ。



震災後、初めて人の役に立った。これはウチのみならず集落の人も喜んでくれるに違いない。水平展開を試みた。が、その晩、水が出た。水はその後、止まったけれど、今度は自衛隊が立派な入浴施設を作ってくれた。やっぱりアソカラは役に立たないと思った。


7:カラクリ研究所

震災後、仕事場をちょっと見た。ちょっと見て閉めた。見た事を忘れようと思った。怖くなった。



重い機械がバッタンバッタン倒れてて、加工や組み立てをしてる最中だったら間違いなく死んでいた。
次いでこれを書いてるパソコン部屋を見た。



ギッシリ詰まった背の高い本棚が私のポジションに思いっきり倒れてた。こっちにいたとしても死んでいた。つまり仕事をしてたら逃げ場はなかった。
怠け者で良かった。芯からそう思った。
あの晩、夜な夜なネジの整理をしてたけど眠くなって途中でやめた。自宅へ戻って酒を呑み、2時間ぐらい寝た。そこでドーン。タンスのダイブで起こされた。もし私が働き者だったらネジの整理を投げ出す事はなかったろう。苦痛な作業の最中にドーンがきて、重い機械の下敷きになって、嫁の名を叫びつつ一人孤独に死んだろう。
「怠け者バンザーイ!」
初めて自分の素を褒めた。
次に外。
建物は全てカタチが残った。
固定してないプレハブ(倉庫、トイレ、あの頃ボックス)は全てブロック基礎から脱落した。地面の揺れるスピードにプレハブが追従できなかったらしい。



倉庫の中身は意外と無事だった。地面の揺れがプレハブに伝わらず免震構造みたいになった。どうでもいいものは落ちず、落ちて欲しくないものはことごとく落ちた。人生そういうもんだと思った。


8:自宅

自宅も色々怪しかったけれど気にしない事に決めた。
地震後、窓や玄関が開かなくなった。が、次第に開くようになった。話を聞くと木造建築はそういうもんらしい。平均値に収束しながら色んなところに歪みが出るらしく、床の一部がギーギー鳴り始め、天井にも怪しい隙間ができ始めた。
子供が色々見付けて指摘するので、
「見るな!見てはいけない!気にしてもいけない!」
そういう方向に決めた。
地盤沈下も進んだ。地震後、庭に亀裂が走った。



その後一雨ごとに大地は沈み、丸く深く落ち始め、明らかに怪しい凹みになった。



「隕石が落ちたみたい」
嫁と話していたら通りがかりの自衛隊がこう言った。
「クレーターですか?」
観光名所に育てたいと思った。


8:暗い話と避難所

本震から一週間後の4月23日にパソコンが使えるようになった。やっと普通にネットが見れるようになった。見た。ゾッとした。暗い話のオンパレードで胃が痛くなった。以後フェイスブックはスクロールする事をやめた。トップ画面から下を見なくなった。
テレビも暗かった。流れてる映像も暗けりゃ撮ってる場面も暗かった。避難所で給水活動をしていたので、遠目にカメラワークを見ていたが、うつむき加減の人ばかり撮って、
「チンチンぶらぶらソーセージ」
カメラ目線で暴れる子供は一切撮らなかった。真実を伝えるのが報道じゃないのか。なぜ明るい老若男女(半分ぐらいはいる)を避けるのか。
私もインタビューされた。
「今最も辛い事は何ですか?」
「尻と股間にアセモができてかゆいです」
マジメに答えてオンエアチェック。全く使ってもらえなかった。
暗い。暗過ぎる。世間は暗い話題のみ欲しているのだろうか。
避難所の雰囲気も日に日に落ち込んでいるように感じた。元気を不謹慎と言われるようじゃ落ち込まざるを得ない。
ところで避難所の人数は日によって大きく変わった。自宅に帰る人がいるので減るのは当然だが乱高下するのはなぜだろう。詳しい人に聞いて吐き気がした。
ネットの噂が原因らしい。土砂が流れてくるとか、伝染病が流行るとか、北朝鮮がスパイを送り込んだとか、動物園のライオンが逃げたとか、
「うそーん、それはなかろー!」
信じられずに笑っていたら近所のおっさんが私を捕まえ真顔で言った。
「あた知っとんな?北朝鮮がニッポンば転覆させるためにヤバイ奴ば放ったぞ!拉致さるって拉致!大津じゃ強姦事件もあったろが!気を付けんと、あんた本気でヤケドすっばい!」
バカみたいな噂が避難民を惑わしてるという噂は本当だった。こういう噂がまことしやかに拡散しようとする現実が恐ろしいと思った。
暗い。なぜこんなに暗いのか。
一日たりとも避難所に避難しなかったが、消防団の関係で水を汲んだり物資の仕分けをしたり、ほぼ毎日お邪魔した。消防活動も日に日に待機の時間が増え、避難民と話す機会が増えた。話せば話すほど胃が痛くなった。四方八方、愚痴だらけだった。
避難所で最初にぶつかったのは子持ち家族と老人らしい。老人は子供がうるさいと言い、子供と母親は夜な夜な歩き回る老人を怖いと言った。
まず、その二つが離反した。その後、集落で分かれたり、先住組と移住組で分かれたり、何となくグループ化が進んだ。
そこに支援物資やボランティアがやってきて、今度はその扱いで揉め始め、グループはグループの生活向上のため、それぞれがそれぞれの主張を繰り返し、何だかホントに嫌な感じになってきたと言う。
むろん、そこに首を突っ込み確認したりはしない。しないけれど、日頃工場管理でパートさんという女性の集合体を見てるから何となくその光景が分かった。
そもそも女性の本質はグループ化にある。グループのグループによるグループのための行動。それは男にとって裸足で逃げ出したくなる現実で、喫煙所には疲れ果てた男の群れがあった。
私は想像した。オロオロする男たち。夜が明けたらパッと消える男たち。日が暮れて、巣に帰り、朝を待つ男たち。それは人間が持つ原始の営みかもしれず、避難所、そこは原始が生んだ女の園であった。


9:子供たち

学校は避難所になった。橋が崩落し、校区が分断された。学校はいつ再開するのか。
「とりあえず5月8日までは休みとします」
いきなり夏休みクラスの長期連休が発生した。
最初は消防で炊き出ししてた事もあり、集落の子は消防詰所やカラクリ研究所に集まって終日元気に遊んでた。が、阿蘇を離れる子が増えたり、家庭に電気が戻ったりすると自宅にこもるようになった。
例としてウチの三姉妹を挙げる。この三姉妹は終日ダラダラした。
三女は常に菓子を求めるオヤツモンスターになった。口を開けば「おやつ」と言い、寝ても覚めても菓子を求めた。
次女は動かない反応しないグウタラモンスターになった。以前からその気はあったが、この震災で磨きがかかった。朝から晩まで漫画を読み、呼んでも応えず、飯だけは人の三倍食った。
長女も心配。彼女はネガティブモンスターになった。昭和の演歌じゃあるまいし「どうせ」とか「しょせん」が口癖になり、日がな一日スマホをいじって誰とも会わず、ついにはブクブク太り始めた。
むろん嫁はキレ続け叫び続けた。遠くで片付けをしてると「お前ら、ええかげんにせぇー!」から始まり、三女の泣き声が続いた。次女はキレ返し、長女は「だりぃ」と逃げ出した。毎朝これが30分続き、嫁だけ痩せた。
避難というのは簡単そうで難しい。何もしないというのは心にも体にも悪い。うちの子も避難民も目に見えて生きる力が弱ってる気がした。
「何かさせなきゃ再起に関わる!」
焦るようになって叱るようになった。
「うちの片付けを手伝え!それが嫌ならボランティア行ってこい!」
返事がなくて無視されて、また怒鳴るという悪循環。これはウチだけの問題ではなく、全ての家庭の問題に見えた。
ちなみにそういう現状が苦しくて、瓦礫の下からメリーゴーランドの材料を集めた。子は未来の希望。子供の目が死んではいけない。避難所でも子供がヒステリーを起こしているらしい。何かしたい。作りたい。嫁に相談した。
「この前作ったメリーゴーランドを避難所に持って行こうと思うんだが、お前どう思う?」
「バカ!避難所でケガさせたら大問題になるでしょ!あんた、ただでさえ行政に目付けられてるんだから絶対やめてよね!」
猛反対された。
仕方がないのでコッソリ避難所の人に聞いた。
「メディアが食い付き叩かれます!僕たちの気持ちを察して下さい!勘弁して下さい!作らないで下さい!持ち込まないで下さい!」
哀願された。
別の避難所でもやんわり断られた。
集落の子はどうか。うちの三姉妹に聞いた。「とにかく目立つ事はやめろ」と言われた。
「目立ちたいんじゃない!子は未来の希望!そのお前達が、うー、ううー!」
何もできないカラクリ屋、ただひたすら「うーうー」言うしかなかった。


10:半月の心

消防団活動も10日目を迎え一旦終了となった。正直もうちょっと早く終了してよかったと思うが、みんな全力・本気ゆえ言いたくても言えなかった。有給本職の自衛隊と機動隊がたくさん投入される中、基本無給、心で動く消防団の役割は待機と雑用だった。雑用がいらぬとは言わぬが家庭や仕事をほっぽり出してやる作業ではないと思った。
ちなみに私は途中三日ほど抜けた。一ヶ月前から名古屋出張を入れていて、震災四日後、絶対飛ばんと思っていたら「飛行機飛びます」って連絡がきた。
戦線離脱にあたり団員の目が凄く気になった。こんな事があった。
風呂も入れず、夜は眠れず、みんなヘトヘトになって消防団活動をこなす中、ある先輩が嫁子を実家に帰すため、たった一日戦線離脱した。戻ってきたら何だかスッキリしていて風呂に入ったのがバレた。
「ん?君だけ肌艶が違うぞ」
「見違えるようだ、うーんマンダム」
けちょんけちょんにからかわれ、かわいそうだった。
私は名古屋に三泊し、接待を受け、健康な中年における贅の限りを尽くして帰った。
苦しかった。申し訳なかった。けちょんけちょんに言われる事を覚悟した。が、消防団はスッキリを通り越し、ピカピカになった私を許してくれた。
「遊べる時に遊ばにゃん」
みんな真顔でそう言った。私もそう思った。
我々は震災によって命の醍醐味を知ってしまった。やれる時にやれる事を全力でやる。それしかなかった。
そうそう、出張先の名古屋は全く仕事にならなかった。名刺を見せた瞬間、みんなギョッとした。
「げ!阿蘇!熊本の阿蘇ですか?」
暗い情報ばかりが全国ネットでジャンジャン流れるので、みんな私を憐れみ、腫れものを触るように扱った。
「この名刺が目に入らぬか!こちらにおわすお方をどなたと心得る?恐れ多くも、リアルタイムの不幸人、肥後は熊本、阿蘇黄門にあらせられるぞ!皆の者、頭がたかーい!控えおろー!」
「ははー!」
ダメだこりゃと思った。名刺を封印し、沖縄から来たナガミネヨシオと名乗り、シモネタばかりを話した。一つも仕事にならなかった。
メールも痛かった。
23日にパソコンが見れるようになり、全てのメールを読んだ。心配メールの隙間にヒステリーメールが混ざってて、私の不謹慎を怒鳴り散らしていた。
私はツイッターで毎日日記を書いていて、震災翌日も人のタブレットを使って書いた。内容は普通。至って普通。面白いと思う事を探し、普通の明るい文章を書いた。
「アンタこういう時になんちゅー文章書くの!不謹慎!不謹慎!不謹慎!」
「不謹慎とは何ぞや?被災者は暗い文章しか書いちゃいかんと言うのか!」
怒りに任せ、ヒステリーにはヒステリーで返した。私の半裸画像を送りつけた。何の反応もなかった。
テレビの放送も延期になるかもしれんと連絡があった。震災のちょっと前、バラエティー番組の撮影があった。担当ディレクターが絶対面白くすると言ってたので、かなり期待していた。面白いの大好き。が、スポンサーから不謹慎と言われ、上の方でモメてるらしい。こっちサイドは全く問題ないと伝え、徹底的に笑わせてくれとお願いした。
「不謹慎とは何ぞや?」
今日で震災半月。この半月で何度不謹慎と言われたろう。マイペースが悪いのか。日常を取り戻そうとする事が悪いのか。明るいを探しちゃいかんのか。それが不謹慎なら永遠に不謹慎で構わない。
仕事がしたい。いつもの調子で仕事がしたい。したくてしたくてたまらない。
事務所は少し片付いた。作業場は手付かず、プレハブに至っては傾いたまま。自宅は水道が出ないから未だにウンコ以外放流禁止。風呂は二日に一回、自衛隊のお世話になって大感謝。
「今やれる事は何か?」
よく分からぬが、明日は全てをほっぽり出し、同級生の家でバーベキューをやる。仕事をしたいがバーベキューもしたい。
私は生きてる。どっこい生きてる。生きている。
今やれる最も楽しい事をやろう。人の目は知らん。
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