第125話 雨のなかがみ放浪記2(2017年1月)

恩納村から国道58号線を南へゆく。この道は沖縄の1号線で戦後アメリカが作った。
「古い道、琉球の道はなかろうか?」
古道好きとしては古い道を歩きたい。幸い雨もやんでいたので国道を離れた。
小さな集落で道を聞いた。米寿を優に越えてそうなおじいと会った。おじい何かを言った。が、何を言ってるのか全く分からなかった。
ニッポンの言葉は戦後急激に均された。薩摩や琉球を歩けば特に分かる。大正生まれの方言は異国の言葉で封建の名残があった。
分からないのが嬉しかった。おじいの言葉を黙って聞いた。どうやら道はあるっぽかった。車を停めて、おじいの指差す方向へ歩いた。が、分からなかった。
琉球の道は確かにおじいの指す方向にあるらしい。今これを書きつつ古地図で調べるに国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)という400年前の道が近くを走っていて、指差す方向に山田谷川の石矼(いしばし)という古い橋があった。
残念。地図を見ると一本道。なぜ行けなかったのか分からぬが、そういう事は古道巡りをしてるとよくある。
「道?やぶ?」
古道巡りはその線引きがあいまいで、勇気を出して踏み込むと古い肥溜めに落ちたりする。

国道58号線に戻って読谷村に入った。世界遺産の座喜味グスクがあった。
宿に置いてあった旅の案内(昭和55年発刊)を見ていたら護佐丸(ごさまる)という人の特集記事があって「琉球最高の建築家」と書いてあった。この人が作ったのが座喜味グスクらしい。
「加藤清正と熊本城みたいなものか」
そう思うと素通りできず立ち寄った。が、またも雨に打たれた。傘は車に置いてきた。雨から逃げるグスク散策となった。
座喜味グスクはアーチ門が素晴らしい。ちょっと動いちゃ雨宿り、また動いちゃ雨宿り、門から門へ飛び移り、護佐丸・石の凄味を内から外からじっくり眺めた。




築城の名手は石が好きでたまらないらしい。街づくりの名手は水が好きでたまらないらしい。今が伝える名物は好きが高じた結晶で「好き」と「数寄」を極めねば後世に残らぬ事がよく分かった。

先に進む。
ガマに寄りたいというのが旅の希望だった。
沖縄はサンゴの島だから雨の浸食で数え切れない洞窟・ガマがある。ガマの利用法は時々刻々変化して、風葬時代は一家の墓になり、戦時は防空壕になった。
大戦末期、ガマでの集団自決は有名で、私も映画で泣かされた一人。全部見たいとは言わぬが、その内一つでも見れたらいいなと思っていた。
近くにチビチリと名の付くガマがあった。
「雨のガマ見物、最高だ」
そう思って車を走らせ、人っ子一人いない静かなガマへ下りた。
このガマは観光地になってるらしい。案内板もあり駐車場もあって、ガマ周辺も一風変わった宗教臭が満ちていた。



せっかく来たのでガマへ入って中を見ようと思った。が、入口に立て看板があって強く自省を促していた。



【見学者及びボランティアでの案内者へ】
これから先は墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私たち肉親の骨が多数残っています。皆様がガマに入って私たちの肉親を踏み潰している事を私たちは我慢できません。

猛烈に反省した。「もっともだ」と唸った。
ここは墓。墓が先で防空壕が後、悲劇も後、観光マップに載ったのも後。我が身に置き換え、怒りと反省で体が熱くなった。
「我家の墓に知らない人がジャンジャン来る!先祖の骨を踏み潰す!あー腹立つ!この看板の言う事一々もっとも!」
全速力でチビチリガマを去った。

寄り道を続ける。
沖縄本島の一番尖ったところを残波岬という。鳥のクチバシみたいに尖ってて、何となくヤンバルクイナっぽいなと旅の前から思ってた。
形が気に入り岬に寄った。岬に近付くとリゾート感がドッと押し寄せ、カップルとアメリカ人が一気に増えた。沖縄リゾートは海沿いに巨大な何かを作る事から始まる。巨大シーサーでもあるんじゃないかと思っていたら案の定あった。



リゾート及び観光の気配は岬の手前で終わった。岬周辺は灯台があるだけ、他は沖縄の地肌(隆起サンゴ礁)が広がっていて、なかなか見応えがあった。
それにしても隆起サンゴ礁は歩き辛い。島ぞうりに適さず擦り傷だらけになった。
そんな私をアメリカの軍人集団が恐ろしいスピードで追い越していった。さすが国費で鍛えているだけあって足場の悪さをものともせず、ピョンピョン跳んで去ってった。日本人として負けるわけにはいかなかった。一人の女性軍人に追いついた。他は行ってしまった。何人か日本人がいた。その日本人が見つめる中、女性軍人は海に向かって国歌を独唱した。



「アメリカ人はどこへ行ってもアメリカだ」
ペースを崩さぬ凛とした異国の女性にいささか嫉妬を覚えた。例えば私がアメリカで、異国の海岸で、異国の民に見つめられ君が代を熱唱できるか。できない。国歌のノリもあるけれど、それ以上に人間の質が違う気がした。

残波岬から海岸線を南へ走った。
右手は海、左は畑、畑畑と思いきや亀甲墓の集合体を発見した。



凡そ60基(グーグルマップ調べ)の亀甲墓が「前にならえ」をしたように水平直角で整列、異様な光景だった。こういうのは行政の仕事と相場が決まっていて、唐の都・長安を模した平城京造設以来、行政の得意技だった。果たしてどうか、そうだった。返還後、リゾートホテルを作りまくった際、散っていた墓を一箇所に集めたらしい。
「それにしてもでかい」
集合墓地というより村営住宅に思えた。傘を差し一つ一つを見て回った。すると知らぬ人に「渡慶次(とけし)のナントカさん」と間違えられた。還暦ぐらいのおばさんで、しきりに思い出話を語り、ちょっとウルッとされていた。仕方がないので渡慶次のナントカさんで通した。私は沖縄顔だという事が分かった。

雨が本降りになってきた。
読谷村でかなりの時間を食った。この時点で昼を回っていた。飛行機は夕方。急ぎたいけれど史跡表示のナビが「赤犬子宮へ寄れ」と言った。
赤犬子宮は現地の言葉でアカヌクーと読むらしい。縁起と神話が混ざって芸事の神と崇められてるそう。
珍しいので寄った。が、本降りの横降りになった。



ちょいと突き出た赤瓦の下で雨宿りを試みた。が、濡れた。最終日も濡れてしまった。それも芸事の神に濡らされてしまった。芸を磨けという事か。
この四泊五日は何だったのだろう。二日連続ずぶ濡れで宿へ向かい、最終日も濡れたパンツで空港へ向かう運びとなった。ラジオの天気予報がこう言った。
「明日は快晴です」
笑うしかなかった。

嘉手納基地の脇を抜け、北谷、宜野湾を過ぎ浦添に入った。
「もう一つぐらいは寄れそう」
地図と時計を交互に見ながら浦添ようどれ(琉球王族の墓)に寄った。
それにしても沖縄に来て墓ばかり見ている。ギリギリまで墓を見ようとしている。
「間に合う?きっと間に合う!墓を見よう!」
ギリギリまで遊ぶ。それは旅の醍醐味で、もし何かアクシデントが発生し、飛行機に乗れなかったとしても、それはそれでしょうがない。この余裕こそ暇人の凄味、観光客とは違う旅人の旅人たるゆえんであった。
浦添ようどれ周辺は公園になっていた。平日雨天で誰もおらず、資料館も人っ子一人いなかった。
「ようどれ」は琉球語で夕凪を指すらしい。極楽の意味もあるらしく、墓巡りの最後がようどれとは実に気が利いている。
大雨の後で足元は水浸し、小雨も降ってるけど既にパンツも濡れてるから気にする事なかれ。雨のようどれを貸切でじっくり観賞した。


「いい!琉球の角を立てない石垣、気に入った!」
思えば沖縄という島ほど辛酸極めたニッポンはなかった。中国・薩摩の板挟みから始まり、戦中バリバリ最前線、焦土と化した。戦後は有無を言わさぬアメリカ統治、復帰後は開発マネーが雪崩を打って流れ込んだ。
角が立った異国の押し付けを次から次に沖縄は受け入れた。受け入れざるを得なかった。この島の文化はどこにあるのだろう。
「なんくるないさぁ」
角を立てない石積みがやたら立派に思え、ちょっと泣けた。

急ぎつつ浦添の街にも寄ってしまった。寄るつもりはなかったけれど、呑み屋ビルの文化的看板につい立ち寄ってしまった。



この島は文化を失ってない。リゾート地を外せば、じゅうぶん旅の醍醐味がある。

レンタカー屋に着いた瞬間、空港へ搬送された。待ち時間ゼロで飛行機に乗った。
飛行機が飛んだ後、沖縄は晴れた。私は濡れたパンツで熊本に帰った。その翌日、沖縄の梅雨は明けた。
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