第143話 ネクタイしません(2019年3月)

三女の卒業式だ。
嫁はスーツで行けと言う。
長女の時は作業着で行った。次女の時はスーツで行った。今回は僕の番、作業着で行きたい。が、いい歳だからスーツで行けと嫁が譲らぬ。
「ちゃんとしてよ」
「ちゃんとしてる、何度も言うが作業着は技術屋の正装、汚れたのはダメだけど、この作業着はお前がちゃんと洗ったものだ、汚れてない」
「もう勝手にして!」
「勝手にする!」
それからスーツの事をぼんやり考えてる。
(なぜ僕はスーツ嫌いなんだろう?)
よく分からぬが極力着ないと強い心で決めていて、仕方なく着なきゃいけない時も要所が終わると即ネクタイ外す。
「そう、ネクタイ」
僕はスーツが嫌いなわけじゃなくネクタイが嫌いなのだ。そういえば先月立食パーティーに参加した時も「なぜスーツ着ないのか?」と聞かれ、
「ネクタイしたくないもん」
間髪入れず答えたらしい。
らしいと書くのは、その時だいぶ酔っていた。酔ってたって事は自分に正直って事で、その僕が色んな屁理屈ぶっ放し、僕が憶えてないけど、周りが憶えて後で教えてくれた。
「お前がネクタイしない理由は笑った」
「え?僕なんて言いました?」
「アメリカの首輪って」
「他には?」
「文明の鎖って」
「他には?」
「透明マフラーって」
「他には?」
「個性抹殺首絞め紐って」
「…」
自分で言うのも何だが酔った自分が無意識無想で放った日本語に感心してしまった。アメリカの首輪、文明の鎖って叫びながら「このグローバル狂いめ」って世界を股にかける営業マンをバカにしたらしい。それは薄っすら憶えてる。
他にも「ネクタイはめると仕事するって気分になる」そう言ってネクタイ大好き宣言した若者にも食ってかかったそう。
「文明に溶け込む透明マフラーで姿を消し、朝から晩まで仕事してるフリで時間を浪費、まさか君は公務員?」
「違います半導体の営業です!」
偏見甚だしいがそういう話題で盛り上がったそう。これも少し憶えてたけど僕の名誉のために憶えてないと返した。
個性抹殺首絞め紐に関しては上の総括。ネクタイについて熱く持論を語ったそう。
「世界標準で同じ姿になろうってのがネクタイ、発祥はアメリカじゃなくイギリスかもしれないけどグローバルスタンダードの首輪としてネクタイがバラまかれた、それまでニッポンの正装は職業や階層でみんな違っていて、その人がどこの何者かパッと見で分かったはずだ、それをネクタイが均してしまった」
僕は悔しげに地団太踏み、こう叫んだそう。
「みんなちがってみんないいって金子みすずが言ったでしょ!だけん個性抹殺首絞め紐はダメ!そう決めたと!」
時代遅れで少々メチャクチャな気はするけど自分の口から出た話を人の口から聞いて妙に納得してしまった。

三女の卒業式に話を戻す。
スーツに罪はない。それは分かった。作業着じゃなきゃダメというわけでもない。現に寝る時ジャージ着てる。そう、ネクタイが嫌なんだ。
「分かった、今年はスーツで行く」
嫁のクレームを受け入れスーツを出した。
嫁は先に出た。僕は遅れて後から行った。
学校で嫁に会った。
「何その格好!現場に出る公務員の格好じゃん!」



嫁はキレたが互いの希望半々。これはハイブリッドスーツ。ジャケットが作業着になりネクタイ消えたけど他はスーツ。カッターシャツも着てる。
「四捨五入すればほぼスーツだ!文句言うな!」
「言わんけど寄らんで!」
嫁から離れ、体育館の片隅で赤子の世話をさせられた。



ハイブリッドスーツで良かった。卒業式は四女の追いかけっこで暮れ、半分作業着だから汚れを気にせず体育館を這う事ができた。

その夜、講演会の誘いがあった。ホテルのパーティールームで開催らしく僕が作業着で来るんじゃないかと心配されてた。
「心配しないで下さい、ほぼスーツで行きます、が、ネクタイしません」
決めた。ハイブリッドスーツを式典の標準とする。
もう一生ネクタイしない。
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