第145話 腰痛物語2(2019年7月)

二ヵ月半、生きる醍醐味を書かなかった。
なぜか?
腰が痛くて長時間パソコンする気分にならなかった。
手帳によると令和元年になった瞬間(5月1日)から痛み始め、5月12日、もうどうにもならず前回(腰痛物語1)お世話になった気功師に頼った。が、今回は効かなかった。
振り返りながら過去の記録を見た。毎日書いてるツイッターにもその苦しみが見えた。



5月16日、こうなったら何でも試そうという事で近所の整体屋に行った。
効いたのか?効かなかったのか?
よく分からぬまま5月19日、その日は次女と三女の運動会だった。嫁は大忙し。4時起きで弁当を作ってるところに最強の一発が来た。
ピキーン!
その時、僕は何をしてたのだろう。分からない。記憶に残らぬほど何もしてない時にそれは来た。
突然80キロの巨体が崩れ落ち、全く動けぬ肉の塊になった。
「はー?何やってんのー?」
「ギックリ腰デス」
「こんな時にふざけんな!もー!」
嫁は怒り狂った。運動会の弁当準備が間に合わない。が、床に転がる肉の塊もほっとけない。揚げ物の火を止め、肉の塊を子供と一緒に布団へ運んだ。
「どうすんのよ!あーむかつくー!」
嫁は暴れながら優先順位を決めた。イチに弁当、二に弁当、とにかく弁当を仕上げないと運動会が始まっちゃう。
肉の塊も徐々に焦り始めた。
「マジで動けん、こりゃ大変だ」
腰が動かなくても手と足が動けば移動はできると考えてる人は多いだろう。僕もそう思ってた。が、亀を見て欲しい。引っくり返すと動けない。ゆえ、うつ伏せになって匍匐前進で進むカタチとなるがめちゃくちゃ痛い。泣くほど痛い。ウミガメの出産シーンみたいに首だけ上げて泣くばかり。一歩も動けず不安ばかりが募った。
運動会の時間になった。
弁当は間に合った。嫁が荷物を積みながらこう叫んでいた。
「駐車場からグランドまで誰が荷物運ぶんだよー?」
僕という存在はそれだけの存在らしい。布団の中で泣いていたら実母と長さん(僕の同級生、娘が運動会に呼んだ)が来た。実母は心配してるフリしながら笑い、長さんは大急ぎで車へ走りポラロイドカメラを持って来た。
「大変だ!記念撮影しなきゃ!」
僕の写真を記念にくれた。



「こんなのいらん」
返したけどムリヤリもらわされた。

それから一人になった。みんな運動会に行った。
心配な事が一つだけあった。動けなくても出るものは出る。やっぱり来た。使いたくなかったけど尿瓶に手を掛けた。
「ここ置いとくね」
嫁がウイスキー用のペットボトルを枕元に用意してくれた。実母が「ペットボトルじゃチンコが入らん」と腹を抱えて笑ったけど「4リットルのペットボトルだから大丈夫です」と嫁が返した。スポスポだった。
その日のツイッターにこんな事を書いてた。



これを読む限り実に平和だ。
なぜならツイッターは小しか触れてない。大は悲惨で、その格闘は壮絶。140文字じゃ書けなかった。こればかりはペットボトルに狙い打てない。むろん最初は我慢した。第一波も第二波も乗り切った。が、第三波が大津波だった。
目はギンギンに見開き、全身あぶら汗でグッショリ、腰から抜け落ちた筋肉は全て括約筋に流れ落ち、全神経・全思考も「肛門」それ一つに集中した時、動けぬ肉が動き出した。
四女のオムツがそこにあった。そこにしよう。手に取った。が、サイズ的にはけるのか?容量は足りるのか?そもそも、はく動作ができるのか?次から次に疑問が湧いた。
「ムリだ!」
手にしたオムツを放り投げ、8歩先のトイレを目指し、ジリジリ匍匐前進で進んだ。ゆっくりゆっくり進みながら曽祖父が言った言葉を思い出した。
「わしが一人で厠に行けんごつなったら必ずわしを殺せ」
僕が小学校の低学年、曽祖父が95歳ぐらいの時だと思うけど「一人で飯とクソができなくなったら死んだと見なして殺せ」と言った。なぜ今頃そんな事を思い出したのか。それ即ち排泄という作業が生きるか死ぬかのボーダーだからに違いない。
「じぃちゃん、おら生きてぇ」
肉の塊はナメクジさながら便器に達し、両手をピンと張り、腕力のみで腰を上げ、やっとの事で便座に乗った。
「なせばなる!なさねばならぬ何事も!ならぬは人のなさぬなりけりー!ぶりぶりぶりー!」
曽祖父は曾祖母が亡くなった後、後を追うよに老衰で逝った。有言実行、直前まで自分で食い自分で出した人だった。
「おらもじぃちゃんみたいになれるかな」
達成感に泣いてしまった僕はすぐそこに次の山がある事を知らなかった。
「げ!尻が拭けねぇー!」
ギックリ腰の経験者は声を揃えて言う。
「はい、尻が拭けません」
軽度でも拭けないから重度のギックリは話にならない。どんなに頑張っても手の平一つぶんぐらい肛門に届かなかった。
座って拭くのは諦め、また腕力のみで便座を離れ、うつ伏せの姿勢になった。が、それでも届かなかった。
体の事をこんなに考えた時間は今までなかった。腰がピンと伸びたまま右手を肛門へ差し出すにはどうしたらいいのか。うつ伏せで色んな事を試し一つの結論に達した。
「座った状態をそのまま横向きにせんとダメだ」
苦しみの半裸実験はついにフィナーレを迎えた。首の力も活用し上半身をソファーに乗せた。ソファーと床の段差で膝が落ち横向きの座った姿勢になった。
これにて拭けた。もう便座に戻ってティッシュを捨てる体力も、パンツをはく気力もなかった。申し訳ないがそれらは帰宅後の嫁に頼るとして布団に戻った。
時計を見た。なんと45分が過ぎていた。
「そりゃ疲れるはずだ」
バタンキューで寝てしまった。

5月20日、ギックリ腰の翌日は寝て過ごした。
一刻も早く動きたいからコルセットを買ってきてもらった。腰に巻くだけのゴムが五千円もした。背に腹は代えられないところを知った見事な価格設定だと思った。

5月21日、ギックリ翌々日は少し動けるようになった。が、またやった。その日のツイッターを載せる。



「あふれる仏が3D」ってのは僕が着てたTシャツの事で、それは長女が撮った悪意ある動画を見て欲しい。



それからも腰痛との戦いは続き、気功がダメなら整体、整体がダメなら病院(整形外科)、病院がダメなら整骨院と渡り歩いた。
ツイッター見てたら戦う己が痛々しく、マジで泣けるからドンドン載せる。





そんな感じで整形外科にも行ったけど全く効かず、最後はギックリ腰の常連Kさんオススメ整骨院に行った。で、行った瞬間こう叫んでしまった。
「古い!昭和だ!」
僕は古いの大好き。昭和初期の個人醫院みたいな外観で、設備も真空管アンプみたいな古い電気治療器と出産器具みたいな怪しい拘束台が二つ、更に老人の臭いが隅々まで沁み込んだベット、どこを見ても時代の臭いがした。
先生も良かった。全部一人でやられてて、受付やったと思ったら治療もやって会計もやって「大変ですね」と言ったら「だから激安なんです」と返された。初診なのに880円だった。
説明も良かった。一つ聞くと聞いてない事まで長々話してくれた。それが自信満々で疑う事を許さない姿勢が最高だと思った。
「ダマされたと思ってコレをやれ!他はやらんでよし!ダメだったら次の手を打つ!」
そうだ、先生はこうでなきゃいけない。ベターはダメだ。全幅の信頼を寄せるから「これがベスト!これしかない!」と言って欲しい。
「一ヵ月間とにかく毎日40分歩け」と言われた。
僕の体は筋肉のバランスが悪いらしい。その上めちゃくちゃ硬いらしい。確かに体は超硬い。そして昔からテニスをやってるから右にばかり筋肉が付いてる。これは常に右に引っ張られている状態だそう。
「つまりジッとしてたら右へゆく、地震と同じメカニズムで圧がズズッズズッとかかり、ある瞬間ドーンとなる、それがギックリ大爆発ってわけ、だから歩いて圧を逃がす、歩くのが一番腰にいいの」
なるほど3年前のギックリ腰は毎晩腕枕してたのが原因と言われた。今回は何なのか。雑談の中で先生は直ぐに見抜いた。
「去年あかちゃん産まれたって言ったな、それだ!」
老人が初孫産まれた喜びで抱っこしすぎてギックリ起こす事があるそう。
「キミの場合は孫じゃないけどそれだ、こういう格好で抱っこしよるど?」
抱っこの姿勢をイメージしたら確かにそういう格好だった。片方に寄るばっかりで圧を分散させる動き(歩行)をしないから爆発したらしい。
「40分てのはなぜですか?」
「20分から骨髄液が回り始める、これが圧を逃がすけん20分以上歩かんと意味ない、で、50分から疲れ始める、疲れたくないでしょ、いいとこまでやって40分でやめると」
「なるほど!説得力抜群!」
そういう訳でダマされたと思って一ヵ月歩いた。



効果はよく分からなかった。今も分かってないけどピキッとなってないのは事実で、これは自然治癒によるものかウォーキングによるものか未だ分からない。
一つだけ言える事はやめると再発しそうで怖い。だからやめられない。更に歩くと飯が美味い。食い過ぎて太った。



先生は一ヵ月ウォーキングやる意味をこう言った。
「体質改善が一番だけどやり始めは必ず体重が落ちる、それも腰に効く」
全く落ちず、むしろ飯が美味くて太った事を告げた。「君は中学生か」と言われた。
腰痛物語は二章で完結としたい。もうコリゴリだ。
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