第151話 気になる気の話(2021年5月)

幸せ研究家は自分が幸せになる事ばかり考えてる。で、中間報告をしたい。
幸せの要諦は気の具合にあると思ってる。
気と言っても気功とかスピリチュアルの氣とは違い我々が何気なく使ってる気分の気だ。
人間には生まれながらに備わった陽気陰気のレベルがあって、仮にそれを10段階に分けると陽気+5から陰気-5に分類される。自分はどこが安らぐのか、その具合を早く知り、その具合に己を集中させる事が幸せの秘訣だ。
不幸な人は気を合わせ続ける。つまり他人に合わせ己の気を上下に振る、終生これで苦しむ事になる。
幸せに客観性はない。これが幸せと言えばそれが幸せだけど正直の底に幸せがいるからズレてると虚無感に苛まれ自分を見失う事になる。気を合わせ過ぎ、何だかよく分からなくなって暴れ出す人の何と多い事か。気は心で、気と心の不一致は必ず不幸になる。
気が合う人に逢えたら無条件に嬉しい。相手の気に合わす必要がないから時間はアッという間に過ぎ、振り返るとたまらない幸せを感じる。が、この気の合致を探すのが難しい。身構えたり建前が入ると相手の具合がさっぱり見えず、ほとんどの場合せっかく合っても見過ごしてしまう。
「なぜ狂ったように酒場を求めるのですか?」
よく聞かれるけどなぜだろう。他にも色々あろうけど気の合致を探すという点において、これ以上の場所はないように思え、呑みの翌朝ニヤニヤ幸せを噛み締める事が多い。
「幸せだなぁ」
心の底からそれを言うため僕は生きてる。
気の話は続く。怪しい氣の類は嫌いだけど日本語の気はホントよくできてる。
気が多いと気が薄まり、気が重いと気が沈む。気が遠くなると体が死に、気が抜けると心が死ぬ。気が向くと僕も向き、気が進まないと僕も進まない。
つまるとこ生まれながらに備わった気の好みに逆らわないのが幸せで、それに逆らうのが不幸せ、たくさん生きた老人が「結局は正直者が得をする」と言うのはその事で、四十を境に極力逆らわないと決めた。が、それもしばしば苦しい場面に陥る。人が集まる場所は得てして気の統一を求められる。
例えば葬式、死人に白装束を着せ、それを引き立たすため黒を着ろだの陰気に振る舞えだの気が滅入る事この上ない。故人との胸襟開いた付き合いから常の服装で常の気分で最期の顔を見に行くようにしてるけど毎回必ず叱られる。
序列の厳しい会議も気の統一を求められるから気が進まない。「僕は呼ばない方がいいですよ」善意で告げても強制的に参加しろと言われ、やはり序列を乱し、呼ばなきゃよかったと言われる。
社会や組織は個人の気を押さえ付けて成り立つ。従わないのは子供か狂人、もしくは幸せ研究家。我々は気を解き放ち、気の求めに沿うのが幸せだと信じてる。それは水と油でやや生き辛いけど開き直ればそれなりに楽しく、5年も経てば戸惑う社会と浮いてる自分に「ご苦労様」と言えるようになる。そうなったら一人前だ。
ちなみに僕の陽気レベルは+1だと思ってる。IT族みたいなバカ騒ぎは遠慮するけど陰気は御免。薄い笑いが長く続く小さな店の湿ったカウンターが大の好みだと気付き、そこを集中的に攻めてる。
最後に結婚22年目の嫁にも触れる。
この嫁は凄い。気というものが存在しない。気にしない。気が乗らない。気が向かない。「気が〜ない」という言葉を口癖のように発すけど、そもそも論で気というものが存在しないから悩むところがない。陽気陰気のレベルはゼロ、キリスト・釈迦・ムハンマド、目指した境地がそこにあり、無は最強、偉大過ぎて気が知れない。が、一つだけ嫁に勝てると思うのは僕には多量の気がある。ゆえ「幸せだなぁ」と言える。気がない嫁は最強だけど「幸せだなぁ」と言えない。それは少し不憫だ。
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