春日部、団塊、そして義父
2008年11月11日執筆
嫁の里は埼玉県の春日部である。
どういう街かといえば、恐るべき密度で住宅が敷き詰められた東京のベットタウンである。が、古くは広大な武蔵野の一部であり、何もない原野であったと思われる。
家康の時代、江戸を中心とする五街道が整備されると、ここに粕壁なる宿場が設けられた。日光街道の宿場であるが、これが街の体を成す始まりだったろう。古利根川という流れが街道に沿って北上しており、江戸へモノを運ぶにも都合が良かったと思われる。
粕壁はこの時代、一気に栄えた。が、この賑わいが宿場の周辺(春日部)へ移るには四百年近い時を待たねばならない。第二次世界大戦、その後である。
人間は這い上がるしかない悲惨な状況に置かれると我武者羅に働くものらしい。戦後のニッポンはそういう状況にあったと想像する。特に都会は焼け野原と化した。ここに何かを築くのはゼロからの出発であり、思想、習慣、生活、全ての当たり前を作るところから始めざるを得ず、その点、街づくりを行う施政者から見れば、家康が江戸へ入った頃とそう変わりはない。
戦後ニッポンの高度経済成長を是とするなら、焼け野原は都合が良かったに違いない。文化は変化の抑止力である。焼け残っている文化はあったろうが、それどころではない状況に古い考えは掃き捨てられ、脇へ追いやられただろう。ニッポンは、特に都市部は多くのニッポン的思想を捨てる代わりに産業革命以降の効率的モノづくり、その手法を叩き込まれ、大いに盛り返した。盛り返した後、世界も驚嘆する勢いで伸びた。
高度経済成長である。
「日本人は本当によく働く、働き過ぎだ」
世界は敗戦国の驚異的復興に驚いた。そして、その要因を分析し、日本人というものに驚いた。この民族が完全に自我を捨て、組織のため国のために働いている、そう見えたらしい。
成長の最盛期を支えたのは団塊の世代である。突出して数が多い。戦中に減った分を補うべく、いわば集中的に補充された世代であり、ニッポンという国を盛り返し、他国に追いつけ追い越せという使命を帯びた世代でもある。
昭和の中期から後期にかけ、ニッポンという国をこの地位に押し上げた世代。この団塊の世代にどういう思想があり、その結果、どういう世の中が出来上がったのか。義父という身近な典型を追う事で、何か少しでも感触が得られないか。その事を期待し、出張ついでに春日部へ寄った。
義父は昭和20年、佐賀県伊万里市の山中で生まれている。実家は古くから農業を営まれている家で、今も梨を作られている。兄弟は四人で、義父は末っ子である。
この時代、長男と末っ子では、その人生に雲泥の差があった。義父の家でも長男が家を継ぎ、末っ子の義父は東京へ出た。「長男が家を継ぐ」というのは今も田舎における暗い圧力であるが、集落を維持するための文化的思想ともいえる。これがために集落は減りもせず増えもせず、現状を維持できるわけだが、この思想も高度経済成長が吹っ飛ばした感がある。
「過疎化」という言葉はこの時代の産物であろう。「家は子々孫々に重々しく継がれるもの」という当時の当たり前が吹っ飛ばされ、生まれた子供は長男だろうが次男だろうが「自由に人生を選べる」というアメリカ的思想が広がり、ニッポンのカタチは崩れた。崩れたのが良いか悪いか、それは知らない。知らないが、それを是とすれば田舎の集落は現状が維持できなくなる。遠目に見る都会や文明というものは果てしなく煌びやかな存在であり、田舎にいればいるほど、若ければ若いほどそれは際立つ。
現在の田舎において、古い思想は根を失ってない。失ってないが、それでも都会という大多数の人口を占める一大拠点で完璧に失われてしまえば、当然その余波は田舎へ伝わる。
これは民俗学者に聞いた話であるが、阿蘇において、農村において、長男を高校にやるのは、つい最近まで恐ろしい事だったらしい。というのも、高校へやるという事は、外部との接触が増えるという事で、自然、息子の目が広がる。都会的な思想に毒される危険があり、その結果「家を継がぬ、都会へ行く」と言い出す可能性が生まれる。近所に目を移すと、どこもかしこも息子のひきとめに汲々としており、親としては進学こそ怯えるべき存在だったらしい。
「お前は家ば継ぐとだけん高校なんか行かんちゃよか」
長男にはそう言って中卒後に働かせる家が多かったらしく、自然、集落における学の水準というのは低下し、受身の農業(例:農協に全てを任せきるスタイル)というのが地方に広がってゆく。
これは文明が田舎へ及ぼした影響、そのほんの一例であるが、今もその余波は広がっていて、親は子の慰留に頭を悩ませ、子は煌びやかな文明社会に心躍らせている。今は文明が息切れをしているため、田舎へ憧れを抱く人が多く、逆転現象が生まれつつあるが、集落の内情はこのようなもので、村のカタチを旧態のまま保存するのは不可能に近い。いずれどこの田舎も都会の人が普通に闊歩する均された場所になってしまうであろう。
さて、義父であるが、義父の父、つまり嫁の祖父、その性格から想像するに、
「勝手にせい」
そう言われたのではないか。
義父は高校卒業後、上京し、子供服メーカーに就職した。
嫁の祖父は御年九十を超えておられるだろう。かなり高齢ではあるが矍鑠としておられ、家族の誰にも手を入れさせない肥えた畑というのを未だに持っておられる。
何年前だったか、この祖父の妻、つまり嫁の祖母が亡くなり佐賀へ行ったのだが、その時、高台にある小さな畑を見せてもらった。
「これだけは私が死ぬまで誰にも触らせん」
そう言って笑う祖父の顔は実に味があり、請うて写真を撮らせてもらった。このコーナー「生きる醍醐味」の看板、その右側に祖父の写真を載せているが、人生は老いて顔に出るものらしい。祖父の顔は一生懸命に生きた者だけが持つ「凛とした時間」が滲み出ていて、見ているだけで胸が熱くなった。
義父から逸れ、ちょっと嫁の祖父について語る。
祖父の一生は土と共に送られている。祖父は自他共に認める梨作りのスペシャリストだったらしい。後にも書くが、この祖父と初めて会ったのは九年前で、場所は羽田空港である。義父の葬儀の際、佐賀から来る親族一同を私が迎えに行った。この時、祖母も来た。祖母は足が悪かったため、階段のあるところは背負って通過した。この時、背中の祖母が良い話をしてくれた。
「爺さん(祖父の事)は梨作りしか知りません。わたしゃ爺さんが作る梨ば売り歩くとが生甲斐でしてね、そりゃぁ楽しかった。爺さんが作る日本一の梨ばね、声ば張り上げて売る。そぎゃんふうに生きてきました」
私はこれより美しい話を他に知らず、「生きる醍醐味」の看板に祖父の写真を無断で使用しているわけだが、祖父はその一生を「我武者羅に駆け抜けただけ」と、一言で片付けた。確かに当の本人は我武者羅だったのだろう。我武者羅だったに違いないが、その姿は何か凛としており、誇らしげな匂いがある。妻や家庭も一家の長を誇りに思い、それを支え、人生を凛と過ごしている。仕事の余波が良い香りを伴い家庭に届いている点、当時、結婚寸前だった私は大いに痺れた。
当時の私は埼玉でサラリーマンをやっていた。先輩、友人に関東の人が多く、飲みに行く機会は多かったが、生粋の関東人から家に呼ばれる事は皆無であった。こういう時代だから田舎人と都会人の区分けは無意味であるが、当時の私は「プライベート」という聞きなれぬ単語を連発する都会人に猛烈な違和感を感じている最中であり、仕事、家庭、趣味、全てに横文字の高い壁を設ける生き方は意味不明で納得がゆかず、大いにうろたえている最中であった。
そういう時だったので、祖母が背中で発した言葉というものは何か故郷を見つけたような温もりを感じたし、それを「当たり前」と言い切った祖父に密かな愛情を覚えた。
この数年後、背中にいた祖母は佐賀で亡くなった。この時、私は福岡柳川に住んでおり、
(祖父は落ち込んでいるだろう…)
その事を心配したわけだが、何と祖父は気丈であった。
「やっと、ゆっくり眠らるる。それだけですたい。笑って酒でも飲みなさらんか」
祖父は深い皺が刻まれた立派な顔を濡らさなかった。絶えず弔問客に気を使い、私に至っては近所・親族へ紹介し、
「孫の婿ですたい、よろしく飲ませて下さい」
付き添ってくれる始末で、
(この人は恐ろしいまでの人格者だ)
芯から脱帽せざるを得なかった。
義父に話を戻す。
嫁が作った年表によると就職後八年は空白であり、昭和46年に「家を買う」とある。場所は嫁の里になる春日部である。春日部から義父の勤務先までは電車とバスを乗り継ぎ二時間を要す。ハッキリ言って近くない。遠い。なぜゆえ独身なのに、こうも不便なところに土地付き住宅を買ったのか、世の流れを調べてみると「ドーナツ化現象」という奇妙な現象にぶつかる。ドーナツ化現象とは、都心の地価が高騰したため、居住区として郊外へ移り住む人が増えるという社会現象であるが、昭和末期バブルの時期がその絶頂に当たる。つまり義父が家を買った昭和46年はドーナツ化現象の走りであって、独身でありながら遠方に家を買ったのは居住のためというよりも投機目的だったと思われる。
当時の不動産事情をネットで調べてみると、「郊外へ土地や家を買えば必ず値は上がる」という触れ込みが多い。この振れ込み通り、春日部の家はバブルが弾けるまで上がり続けた。
義父は投機目的で縁もゆかりもない春日部の地に居を構えた。ちなみに義母の言によると、近所には職場の人が多いと言う。この点から見ても職場に投機の話があり、皆で一緒に買ったのではないか。「家を買う」という作業は、今でこそ熟慮のいる作業であるが、昭和後期においては風向きが違ったのではないか。経済は上るばかりで下る事を知らず、銀行も職に就いているというだけで金を貸す時代である。貯金する感覚で買ったと思われる。
「みんなで買っちゃいましょう」
「いいっすねぇ」
そういうノリでの職場買いである。
沈まぬ太陽はない。ないが団塊の世代は戦後の上る経済しか知らない。(少々の停滞期はあるが)バブルの弾ける瞬間はまだまだ先であり、そういう中、田舎から出てきた義父は一般的な道を突っ走ったに過ぎない。
義父と義母が結婚したのは、嫁作成の年表によると昭和48年になっている。家を建てた二年後である。
義母は大阪にいた。義父と同じ会社の大阪支店にいたらしく、社内旅行で知り合ったそうだが、その詳細を尋ねても、
「そんなこと、どうでもいいだわっ!」
出雲弁で突っぱねられた。嫁の年表にも全く記載されていない。父と母の馴れ初めに興味が湧かず、尋ねた事がないらしい。嫁に義父の年表作成を頼んだ時、
「思い出なども詳しく書いて」
そう言って「詳しさ」を求めた。嫁も何やら遅くまで書いてる様子でギッシリ書かれているものかと思ったら、七行で終わっていた。それも誕生、卒業、家を買う、結婚、長女誕生、次女誕生、永眠、それしか書かれていない。
「これじゃ何も書けんぞ」
唖然とし、思い出の再提出を求めたが、
「通勤二時間」「休みの日は草むしりの後にパチンコ・ゴルフ」
それだけ書かれて返って来た。
「俺がお前の父親だったら泣くぞ! もっとあるどが!」
再々提出を求めると、「50歳で胃癌発見」という一行だけが追加されて返って来た。
「最後に聞く、お前が得た父との思い出は本当にこれだけや?」
「うん、これだけ」
言い切る嫁は義母にも電話をかけ、回想に回想を重ね、やっとこの年表を作成したらしい。悲しくなってきた。が、それはある意味、団塊の世代の一般的家庭環境を象徴しているのかもしれない。
義母は四人姉妹の末っ子である。出雲に生まれ出雲に育ち、大阪に出たところを見初められ、埼玉に越した。お互いが末っ子であるという点、田舎から出て来てはいるが田舎のシガラミは薄い。
暮らしぶりは潤沢な風が窺える。家持の義父であったが、長女が生まれたのをキッカケに建て替えたらしい。この時点で投機目的だった春日部の家が終の住まいになったと思われる。これに併せ、土地も買い増し庭もできた。近辺に庭のある家は少ない。アスファルトに覆われているベットタウンという世界で土と触れ合う空間を僅かでも作りたいと願ったのは、義父と義母の下地が発する主張のように思えてならない。
この時期の春日部郊外について触れたい。
義父が使い続けた駅は一ノ割駅という。東武伊勢崎線の駅で、東京から追えば春日部の一つ手前にあたる。江戸時代、この近辺は粕壁宿の郊外であった。日光街道の通り道ではあったが道を離れれば人影もまばらで、越ヶ谷宿から粕壁宿の単なる通り道だったろう。
この郊外が集落の体を成し、続いて東京のベットタウンとなるキッカケは近代文明の象徴・鉄道である。東武伊勢崎線が走り、次いで地元有力者の政治的な奮闘により一ノ割駅ができた。開業は1926年となっているから昭和と大正のハザマである。
手元に一ノ割駅そばの園福寺という寺で撮った資料がある。一ノ割駅周辺の劇的な移り変わりを戸数変化で書き示してあったため、手元の携帯で撮影したが、いかんせん小さくて見えない。記憶を頼りに恐れず書けば、数十戸が数千戸になったと書いてあったように記憶している。とにかく、この一ノ割駅周辺には、ある時期、集中的に人が住んだ。その世代的内訳は義父を含め、団塊の世代が大半を占めたように思われる。駅を中心にギッシリと住宅を詰め込み、道は判で押したように車二台がギリギリ通れる舗装路を通した。商店街は駅に近いところに広がり、駅から自宅へ帰るには必ず商店街を通るように街がつくられた。
高度経済成長期に生まれたものというのは、前述した道もそうだが、商店街も住宅も判で押したように似ていて、ベットタウンの風景は、どうも見分けがつきにくい。特急が止まる駅、止まらない駅、それにより駅舎の差はあるものの、駅から数分歩けば似た景色に出くわす。
古い日本人は水戸黄門が好きである。同じ曜日の同じ時間にあるサザエさんも好きだ。皆で同じものを見ながら同じようなタイミングで同じ事を考え、同じ事を期待する。日本人は「同じ」が好きなのだろう。
しかし、我々の世代…、三十代より若い世代はどうだろう…。
春日部の住宅街を歩きながら、その事を考えてみた。やはり「同じ」は好きなようである。高度経済成長期と好みの違いはあるものの、全国的に同じような風景の街が出没し、若い世代を中心に文明的集落を成しつつある。
時代の雰囲気は新興地の名前に出る。新興地というものが古くからある地名を使わず勝手気ままにハイカラな名前を付けたがる点、今も昔もそう変わりはないが、意図するところは何となく違うように思える。昔はナントカ台、ナントカ丘、それだけで端正な住宅街を想わせ人は食いついた。が、今は端正さだけではなく、潤い、安らぎが求められている。ナントカ森、ナントカ野が多いように思われ、近所を例に取ると「光の森」「美咲野」、やはり今風、激しくナウい。
ちなみに私の故郷は鍋田、今の住まいは下田である。ナントカ田という地名には文明的雰囲気は薄い。たっぷり時間を重ねた文化的雰囲気がある。どうでもいいが、それが私の下地であり、やはり落ちつく。
中心も違う。昭和の街は駅が近いというだけで強烈な光を放った。が、今はショッピングセンターが中心になっているようで、道が広く、少しばかりの緑が見える。その点、実に面白い。男、つまりは仕事が中心の機能美より、女、つまりは家庭が中心の機能美がアピールされ、消費者もそちらに重点を置いているのである。つまり女と家庭が強くなり、男と仕事が弱くなった。
敗戦後、戦勝国が持ち込み見事なまで定着した資本主義の思想が入って六十年。「家を継ぎ繋げる」という思想が吹っ飛んだ事は前に書いたが、その影響は一昔前に生まれたベットタウンでも噛み締める事ができる。
平日に商店街や住宅街を歩けば分かる。一昔前は老人と呼ばれたが、今は若い世代ともいうべき六十代・七十代が列を成して散歩している。パチンコ屋にいる。暇そうに空を見ている。エアロビに励んでいる。
昭和の中期以降、自由な発想で生まれた街は列車が止まった瞬間、膨大な人を抱えるベットタウンに成長した。が、出現が自由であるために消えるのも自由である。常識的・風習的束縛はない。その子は自由を抱えたまま、新たに出現する街に拠点を構える。拠点は日本の土地を食い荒らし、続々と増えてゆく。車が普及したものだから列車はいらない。多少郊外でも、エイヤ・エイヤと増えてゆく。古い街は寂れざるを得ない。そして次に生まれた新しい街も数十年後には寂れてゆくだろう。
アメリカにはゴーストタウンという言葉がある。日本の寂れた炭鉱町もそういう風に呼ぶのかどうか分からぬが、基本的にそれに似た言葉は今の日本にないと認識している。「限界集落」という言葉はあるが、その言葉には「一人になっても住んでやる」「電気がなくても住んでやる」という粘り強さが感じられる。日本人にはそもそも使い捨ての感覚が薄いように思われる。いや、薄かったのではないか。時を重ねる事が正義であり、歴史のある事が重さであり、
「時間は価値を生む」
その感覚こそ、ちょいと前の日本人の姿勢のように思え、それが団塊の世代で崩れ、次の世代(私たちの世代)で消え失せ、その次の世代(子の世代)では見直さざるを得ない状況になっているのだろう。
団塊の世代は戦中後期・戦後初期の産物であるが、戦争は知らない。知らないが、その親は昭和初期の気分を濃厚に持っていた。戦勝国は昭和初期の気分を打ち消すのに躍起になったが、そう簡単に消えるものではない。その気分は多少なりとも後世へ流れたと考えたい。団塊の世代の本質として、資本主義の根付きというものが私たちの世代に比べれば格段に少ない。資本主義、つまり個に重点を置く世界が浸透してゆく中で、団塊の世代が微かに保有していた「古い日本人の思想」というものは目を見張るものがあったと思われる。外国人から見ると、日本人は見事なまでに自我を捨てている、いや、足並みを揃える事が自我であると言わんばかりに組織活動を繰り返し、日本を盛り上げているように見えたというのは、昭和初期の余熱であろう。今、それは風習とか嗜好には残っていても、精神的にはほぼ消え失せ、資本主義に均されてしまった。
義父は団塊の典型であり、時代の典型であった。
義父の一日は同じ時間の同じ電車に乗る事から始まる。夜も明けきらぬ早朝の電車に乗り、二時間もギュウギュウの箱で揺られ、都心で数時間を過ごし、また同じ箱に揺られて春日部の家に帰る。
義父の帰宅は嫁が書いた年表によると毎夜十時頃だったという。一緒に食事をする事も少なかったようで、
「小さい時は土日くらい一緒に食べてたけど、大きくなってからは…、あんまり、ほとんど…」
歯切れ悪くそう言うが、つまり母親に比べ、父親というものは格段に接点がない存在だったらしい。年表には父親の仕事が全く触れられておらず、現に何をしているのか全く知らないという事で、
「あ、そうだ! 仕事の事を思い出した!」
嫁の口から飛び出したのは、
「昇進祝いを家でやった事があるよ!」
それだけであった。
以降、推測であるが、義父は家を出た瞬間、違う人間になったのではないか。家にいる義父は実に寡黙な人であった。嫁一人、娘二人が慌しく動き回る居間の隅で、その存在を抹殺し、ただじっと野球中継を眺めている、それが義父であり、嫁の印象もその範疇を出ていない。が、義父は家を出れば総務という厄介な職場の管理職である。この職場は必要以上の社交性と政治力が求められる。寡黙では通用すまい。言葉数は少なかったにしても、それなりの貫禄と威厳があったのではないか。二面性といえば聞こえは悪いが、忌野清志郎が歌うように、
「仕事のパパは何か違う」
そういった感じが義父にはあったと思われる。現に葬儀の際、「会社の同僚」と名乗る人がこう言っていた。
「平山さんは人間の扱いに長けた人格者でした」
飲めと言われりゃ飲むし、曲がるところは曲がるし、押すところは押していたようで、人並以上の世慣れたそれが感じられた。
で、考えた。
義父は団塊の世代に圧倒的支持を受けた必殺仕事人の中村主人みたいな人ではなかったか。家庭の義父、仕事の義父、どちらが本物の義父かよく分からぬが、この世代の一特徴として二面性を愛す傾向が強いと思われる。職場と家庭を物理的に切り離したドーナツ化現象の影響もあろうが、私の知る団塊人は得てしてそういう人が多かった。
「会社に入ったら別人にならねばならぬ! それが仕事というものだ!」
飲めば笑えるオッサンも、仕事中は鬼になる。それが団塊の「仕事に対する美意識」であって、小説になるほど露骨な人が多かった。時代の傾向なのか、たまたまなのか、よく分からぬが、家庭と仕事で別の人間になるという悦楽は未だに理解できない。これに関しては、単に私が田舎者で偏屈なだけかもしれず、未だにプライベートという言葉を受け入れられない点、たぶん時代遅れなのだろう。
義父の休日は日曜に訪れる。朝早くから庭木をいじり、草をむしった後、パチンコ屋へ向かうというのがその流れだったらしい。たまにゴルフをしていたらしいが、ゴルフの日は早朝から姿が見えなかったという。嫁の話を鵜呑みにすれば、確かに父親との思い出は残り辛い。
私が嫁と付き合ったのは1999年である。付き合った瞬間から嫁の実家へお邪魔するようになり、一ヶ月も経つと嫁の実家から出勤するようになった。関東出身の友人は嫁の実家へ入り浸る私の恋愛スタイルを「不思議、理解不能」と罵ったが、田舎にはこういう付き合い方をする人が多い。逆に都会のカップルで、お互いの親を結婚直前まで知らず、「結婚するから実家へ行く」と言った友人に私は猛烈な違和感を覚えた。この辺の「当たり前の違い」も風習というものが滲み出ているのかもしれない。個と家の感覚、その問題だろう。
とにかく嫁と付き合うようになって春日部にいる日が多くなった。
義父は癌を患っていた。私と嫁が知り合う二年前、1997年に胃癌が見付かり摘出手術をしたらしい。その後しばらく調子は良かったようだが、再発し、余命一年の診断を受けた。
私が春日部へ通うようになった頃、義父は痩せていたが元気であった。深酒をする事はなかったが共に酒も飲んだし、弾まなかったが二人きりで長い会話もした。末期の癌といわれてもピンとこなかった。
気は使った。癌という病名が義父に告げられておらず、義父はその病状を重い胃潰瘍だと思っていた。妻と娘による義父の認識によると、病名を告げた瞬間、義父そのものが溶けてなくなってしまう恐れがあったらしく、告げるに憚るものがあったらしい。が、そのために義父は自らの命をどういう方向に持っていくか、その選択肢を失っている。付き合いたての若いカップルがやる話ではないが、
「告知すべきだ!」
「言ったら死んじゃうよ!」
その事で何度か喧嘩した。
喧嘩といえば付き合って初めての喧嘩は親に対する嫁の態度、それが原因であった。うちの嫁は今でこそ「叫ぶ母」で有名だが、当時は温厚な女性で通っており、私もそう思っていた。それが父親と接するにあたり、急に過激派と化した。言葉はキツく投げやりで、ついには、
「邪魔! どっかいってよ!」
そう言い放ったため、
「親にそん口のきき方はなんやー! 言い方ってもんがあろぉがー!」
胸ぐら掴み、激しく怒鳴った。
義母も義姉も嫁も、父親に対する態度という点、共通して荒々しいところがあり、私は熊本産という事もあって、人様の家庭の事ではあるがイライラし、嫁との喧嘩が絶えなかった。
義父は日に日に弱っていった。と、同時に家族は義父に優しくなった。義母に至っては付きっきりで看病する日が続き、ちょっと痩せた。
「腹の調子が悪いから」
義父はそう言って酒を飲まなくなり、次いでトイレに行く感覚が短くなり、ついには布団から出られなくなった。そうなると、ずぅずぅしさに定評のある私でも泊まるのはマズいと思い始め、春日部から距離を置くようになった。週一回しか見ない義父は見る毎に痩せてゆき、ついには骨と皮だけになった。
義父は既に病名の事は気付いていただろう。が、知らぬ風を装った。優しい人であった。誰がどう見ても胃潰瘍の症状ではない。義父が分からぬはずがない。
義父は入院した。病名は胃潰瘍の延長であり、その点、変わる事はなかったが、義父としてはこの入院により死を意識したであろう。徐々に徐々に意識は遠退いてゆく。その中にあって、自らの半生が何度も何度も脳裏を駆け巡ったに違いない。佐賀の農村に生まれ、田舎で青春を送り、煌びやかな街に出て、時代と共に文明社会を駆け上った。後半の舞台はベットタウンと都心の生活、典型的団塊人である。その団塊人が、故郷から遠く離れたベットタウンで今まさに人生を終えようとしている。
私は義父の死に関し、猛烈に反省している事が二点ある。一つは「義父危篤」の連絡を嫁から貰った時、すぐに駆けつけなかった事である。深夜に電話を貰ったのだが、その時あろう事か飲み会の最中であった。電車も終わっていて、病院までは60キロの距離がある。
「朝一番に駆けつける」
そう返したが間に合わなかった。全くもって私の手落ちで、不徳の致すところである。
もう一つは結婚式である。義姉の家が私より早く入籍したが式を挙げなかった。その事もあって義父は娘の結婚式というものを経験していない。末期の癌で余命も分かっており、
「早く式をやろう! 義父さんにお前の晴れ姿を見せてやろう!」
嫁と話し合い、義父が元気なうちにやってしまうべく三月挙式を予定した。私と嫁が付き合ったのは六月の末である。実現すれば九ヶ月のスピード挙式になるが実現しなかった。二ヶ月遅れた。その結果、義父は式の二週間前に他界した。
二ヶ月遅れたのは周囲の反対、そして私の弱さによるものであった。
「娘さんをください」
その挨拶に走ったのは付き合って半年、年末である。この際、三月挙式の案を打ち明け、「どうしてもやりたい」と告げた。が、「早過ぎる」と一蹴された。早過ぎる事は分かっている。半年前に現れた得体の知れぬ男が「娘をくれ、三ヵ月後には式をやりたい」そう言っているのである。私が父なら殴る。完膚なきまで殴るだろう。目の前で正座している略奪者はどう考えても非常識極まりない。が、非常識にならざるを得ない上の事情があった。その事情は義父に秘されている。義母は知っている。知っているどころか全ての鍵を義母が握っている。
義父は緩やかな口調でこう言った。
「福ちゃんも知ってるように姉ちゃんが結婚したばかりでしょ。つい先月に出てったばかりで、今、道子に出て行かれると寂しいんだよ。なんか体の調子も悪いしね。結婚に反対しているわけじゃないから、そんな急がんでいいでしょ。ちょっと待ちなさいよ」
義父は笑みを絶やさない。笑みを保ったまま入籍を急ぐのはいいけど、式は遅らせて欲しい、娘が家を出る時期も遅らせて欲しいと言う。
私にとって入籍や家を出る時期はどうでもよかった。式だけを早くやりたいのだ。しかし言えない。私は窮した。事実を告げられない歯痒さを押し殺し、義母を見た。義母が口を開いた。
「三月は早過ぎるだわ。せめて姉ちゃんが出てから一年は時間を欲しいだわ」
つまり翌年の秋まで待てという事であった。余命は「翌年の春」と宣告されている。私は徹底的に窮した。終いには隣にいる嫁までもが、
「ちょっと式を遅らそうよ」
そんな事を言い始めた。状況は四面楚歌になった。が、負けるわけにはいかない。強気で押し、非常識者のレッテルを貼られながら、ちょっとは譲り、五月挙式で押し通した。が、結果として、その結婚式の日、義父はこの世の人ではなかった。三月であれば体は弱っていたかもしれないが、何らかの形で娘の晴れ姿を見せてやる事ができただろう。
ゴールデンウィークの最終日だったか、義父は死んだ。遅れて駆けつけた私は恐る恐る義父の顔を見た。そして、安らかな寝顔を見た時、私という人間の押しの弱さ、初志の弱さを徹底的に恥じねばならないと思った。誰もが混乱している時、義父に娘の晴れ姿を見せてやれなかったのは間違いなく私の責任であった。
これを書いている今日という日は、義父の死後、八年以上が経過している。
その間、私の伯父が癌になり、娘(従姉妹)の結婚式があった。一人は存命中に挙式したが、もう一人は私と同じ、伯父の死後数週間で式を挙げた。存命中の挙式に際し、スライドショーの制作を依頼され、最初は式を挙げる二人のために作っていたが、途中それを打ち捨てた。義父への懺悔が頭をよぎり、闘病中の伯父と義父がゴッチャになった。結果として盛り上がったから良かったが、危うく自己の懺悔を人様の結婚式に放り投げ、ドン引きさせるところであった。義父への懺悔が胸の内でくすぶっていたという事だろう。怖い。
時間を現在へ戻す。9月29日。
この日の春日部は雨であった。終日、細かい雨が降り続き、止む事を知らない。私は出張ついでに春日部の家に寄ると傘を借り、トボトボ歩いて義父の墓へ向かった。そこへゆく道には敷き詰めた住宅があり、日光街道があり、古利根川がある。古利根川を藤塚橋で渡り、香取神社に立ち寄った。藤塚橋は今でこそ渋滞のメッカだが、古くは渡船場があった。粕壁宿までは、まだちょっと距離がある。渡船場では茶も出したであろう。街道を歩く旅人も川など眺め休息したに違いない。ここに橋が架かったのは昭和8年である。有料の木橋が架かったらしい。今は緑色の鉄橋が架かっている。
橋の上から雨の古利根川を眺めた。茶色の水が緩やかに流れている。視線を上げた。山がない。佐賀に山の見えないところはない。連なって見えるのは車と建造物、それだけである。
橋を渡ると香取神社がある。1800年代の建造で、今も立派な神域を保っているが、人の寄り添っている形跡は見当たらない。日本全国どこの神社も似たようなもので、保存されてはいても活用されてはいないようだ。義父が春日部に越してくる前、この地域がベットタウンになる前は大いに活用された神社である。
香取神社を右に折れると寺が続く。寺が切れた後、視界が開け、その左手奥に義父の眠る墓地群がある。いかにもベットタウンの墓といった感じで墓石が隙間なく整列しており、空間的無駄がない。道も小奇麗に舗装されている。墓地は細かく切られた分譲地で、石屋と寺と不動産屋が蜜月関係にあり、分かりやすいカタログが作られている。人が死ねば間髪入れず葬儀屋が現れ、何食わぬ顔でカタログを置いてゆく。そういう仕組になっている。
義父の死により現れた都会の葬儀というものは田舎者にとって衝撃的であった。葬儀屋が全ての段取りを整え、遺族を手取り足取り指導し、必要なものを全て揃えた。式の演出にも驚いた。何かのショーを見ている感じで進行し、魂が昇天する演出として、棺の下からドライアイスの煙が出た。おかげで泣き所を逸した。
その後のアフタフォローも徹底している。墓地も墓石も全て文明の機能美により見事な段取りで整えられた。全てにおいて迷うという事が発生しないようになっていて、全段階にマニュアルやカタログが揃っている。むろん、そのぶんカネはいる。田舎においては経験した人、詳しい人、土地の顔が頼りであり、その点、多くの滞りと混乱の末、葬儀というものが進行・終息していく。つまり田舎の葬儀は(隣組など周囲も含め)混乱すべきものであって、混乱の末、終息していくのが人の死である。従って都会の滞りない葬儀は違和感を感じずにはいられなかった。終わり方も終息するというよりデジタル的に終わりを告げるカタチで、死をトリガーとして人が集まり、葬儀というショーが繰り広げられ、、荼毘に付した瞬間、全てが終わる。お経も初七日分を一気にやる。その後の段取りも文明の機能美が解決してくれるため困る事がない。極めつけは火葬である。焼き場は多くて三つ、田舎のそれしか知らない私や私の両親は火葬場に入っただけで驚いた。焼き場が十以上ある。それに待機場所はだだっ広い座敷で仕切りがない。焼き上がりを待つ遺族の数もハンパじゃなく、広い座敷は人で満ち溢れている。火葬後の段取りにも効率を重視した日本的設計が組み込まれていて、スーパーに来たような錯覚を覚える。工程に無駄がない。一つ一つの儀式が早いし残り物も出さない。残った骨はお好み焼きのヘラみたいなもので打ち砕き、強引に骨壷へ入れ、床に落ちた灰もホウキで集めて骨壷に入れる。田舎者には驚きの連続であった。
さて…。
墓に着いた。義父の墓が立った頃には、まだまだ空きがあったこの墓地も、そろそろいっぱいになろうとしている。いっぱいになれば、また郊外の畑を潰し、同じような墓地ができるのだろう。
見渡すと様々な墓石がある。個人の自由は墓石にもあるようで、田舎に比べれば極めて自由度が高いように思われる。この点、墓地と集落の形態は何となく似ている。
義父の墓石には「夢」と掘られている。義母が選んだ言葉らしい。墓石も場所も字体も全てカタログから選んだらしく、「夢」という言葉に特別な意味はないらしい。
しばし墓石と対峙した。
義父はこの人生で何を思ったか。団塊の世代が求めた社会とは何だったのか。
雨の中、義父と語り合ったがよく分からなかった。少なくとも、この墓地に見えるような機能美追求の社会ではなかったろう。
帰り道、近所に住む古老と会った。話を聞くに、ここらの河原は罪人の処刑場だったらしく、寺が多いのはそのためだという。そういえば、手掘りの地蔵を小道の脇でよく見かける。どれも風化しているが、罪人の遺族が置いたものであろうか。
雨は続く。雷も鳴り始めた。義父の道を辿るなら一ノ割駅前は外せない。義父は仕事帰りの一杯を愛したらしい。その事を葬儀の際、義父の同僚から聞いたが家族誰もがそれを知らなかった。従って店の名は分からない。
駅前の商店街は郊外の大型店に圧され、寂れつつある。夜の賑わいも薄い。一ノ割駅の利用客は一日あたり18500人、客数はそう変わっていないが、仕事帰りに一杯やる人が露骨に減ったらしい。景気もあろうが労働者の質というものが変わってしまったのではないか。機能美を追求すれば仕事帰りの一杯ほど露骨な無駄はない。無駄は心のゆとり、その象徴だが機能美を追求する社会にゆとりはない。
駅前にパチンコ屋が二件ある。義父がそのどちらを愛したか知らぬが、どちらかの常連だった事は間違いない。義父は右利きなので右のパチンコ屋に入り、とりあえず1万円ばかり打ってみた。飲み込まれ、盛り返し、結果500円買った。微妙だが、それくらいの逆転勝ちは中勝ちより嬉しいものがある。義父も喜んでくれただろう。
夜は義母と二人で飲みに行く予定だった。そのつもりで予告をしていたし、金も用意してきた。が、なぜか義母はご馳走を用意しており、家で飲むと言う。
場には義姉の家族もいた。義姉はすぐ近所に家を建てたばかりで、やはり地元が好きなのだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。本来なら道が広くて清潔感のある新興住宅地に家を建てたいらしいが、たまたま土地があったため、ここに家を建てたのだという。
埼玉県は日本一地元愛の薄い県民性と言われるが、たぶんベットタウンが多いためであろう。確かに、ここで育った嫁や義姉を見ていると、機能美への関心はあっても郷土への関心は薄い。郷土愛は歴史によるところが多い。佐賀から越してきた義父は、この春日部という土地をどう振り返ったのか。開拓者として、嫁とは違う愛情を持っていたのかもしれない。が、この風景や周囲の変わりっぷりは、きっと変わらない故郷・伊万里への恋慕をかきたてたであろう。
春日部は一泊で去った。翌日、飛行機に乗り、関東上空を飛ぶと資本主義の傑作たちが地面を覆いつくしているのが見えた。その反面、着陸時に見える大阿蘇はまだまだ上代の体であった。人の心にこの差はないとしても、人口増加と思想の偏りが進めば、いずれ多くのニッポンが消えてしまう事は間違いない。社会というものは集団の方向性がつくっていく。
義父の人生は団塊の流れ、その一つとなり、今の流れをつくった。我々の人生も自由とは言いながら、総じて流れというものに乗っている。流れには逆らえないが、逆らわねばどこまでも流れる。
「夢」
墓石に書かれたその言葉、果てしなく甘美で魅力的だが、義父を始めとする団塊の世代、その夢が今の社会にあったとはとても思えない。少なくとも義父は両親を誇りに思っていて、今の生活と照らし合わせる瞬間があっただろう。父が梨を作り、母がそれを売り歩く。そんな家庭に育った義父、ビルの谷間で両親の姿を追った日もあるはずだ。
「売れたか?」
「売れた!」
「良かったのぉ」
「そりゃ爺さんの梨だもの!」
「こいつ、言うのぉ」
「いやーん!」
ありえるか、ありえない。それが今の世であり、義父の静かな夢だったのかもしれない。