悲喜爛々12「出産」

 

 

1、道子のいない社宅

 

嫁の道子が2月の後半で実家春日部に帰った。

別に喧嘩したわけではない。

里帰り出産で帰ったのだ。

 

嫁が帰って、家は一週間で様相を変えた。

至る所に一升瓶やら服(使用済み)やら生ゴミやらが散らばった。

 

ある日、米を炊こうと思い、道子が残していった「馬鹿でも出来る米の炊き方」というメモを見ながらやってみた。

米を入れ、水を入れ、3回手でかき回し、「予約」と「炊飯」のボタンを押すとだけ書いてある。

(これならやれる)

そう確信した。

朝。

メモ通りに米が炊けていた。

(うーん、さすが俺)

思いながら、ジャーの蓋を開けた。

と。

失神しそうなくらいにファンキーな香りが澄んだ朝の空気を切り裂いて俺を襲ってきた。

コタツで8回屁をふり、一気にかいだ時でもこんな臭いはしなかったと思う。

なぜだろう?そう思い、即時、料理に詳しい友人に聞いた。

彼は言った。

「お前、研いだ後、水を捨ててないだろ。それじゃあ、ヌカ臭いぞ」

謎は解けた。

俺は道子に怒りの矛先を向けた。

「水を捨てるってメモに入れとけ!米を損したぞ!」

ちなみにジャーの内釜が外れる事も知らず、コンセントを外し、ジャーごともって行き、流しで水を入れた。

(結構、重いな… 道子はいつもこれを…)

そう思い感動した。

 

内釜がジャーから外れる事を翌日知った。

(メモに書いとけよ、まったく…)

思いながら、気まぐれでベランダに出てみた。

洗濯物が干してあった。

俺は干した覚えはない。

道子が干したものだった。

この洗濯物、10日ぶりに人と会う事になった。

 

続いて道子に電話で叱られた。

布団を一度も上げていないからだ。

「今すぐ干して、頼むから」と言われた。

俺は言われた通りに天気のいい日にベランダに干した。

干して、パチンコに出た。

後輩、今本と共にである。

今本は思いの他粘り、彼の足である俺は閉店まで待った。

これによって家に帰ったのは日を跨いだ時間だった。

布団はシットリとしている。

気にしない事にした。

しかし、一つだけどうしても気にせねばならない事が。

干した布団が一枚足りないのだ。

ベランダに立ち、考えた。

一つの案が浮かび、ベランダから下を見た。

(あ、発見、コタツ布団)

 

拾い上げたコタツ布団は泥だらけだった。

翌日、道子にそれを報告した。

対処法が知りたかった。

「クリーニングに出せ」

道子はそう言った。

…が、クリーニング屋に「布団をお願いします」とは言えない。

男なら誰もがそうであろう。

ましてや、俺は九州の男だ。

泥だらけのシーツは風呂場で踏んで洗った。

中身にも多少シミが付いていたが、見て見ないふりをする事にした。

テレビ下のビデオデッキを入れる所にコタツ布団を無理矢理押し込んだ。

我ながらコンパクトにしまったつもりだ。

シーツは衣装ケースにさり気なく入れて封印した。

 

気付けばトイレが黄色い空気に覆われていた。

たまったゴミ袋が10袋を越え、玄関前に寂しくたたずんでいた。

「はぁ…」

心底、俺は溜息をついた。

(もう手遅れだ)

そう思ったりもした。

 

 

2、ひったくり

 

出産予定日を11日後に控えた3月15日だった。

今日は文章学校の日だ。

文章の提出日でもある。

そして、会社は臨時休業。

俺は前日の深夜から徹夜気味に200枚の原稿に手を付けたが、100枚を目前にして諦め、「陽一郎」(悲喜爛々11)なる10枚文章を書き上げると正午を迎えぬまま、布団に転げ落ちた。

 

起きた。

午後5時を回っていた。

文章学校は6時30分からだ。

1時間半かかる六本木なので間に合わないのは分かっていたが、「陽一郎」をコピーし、会社に向かった。

誰か、駅まで送ってくれる人を探す為である。

 

文章学校には7時30分に着いた。

先輩を頼っただけあって1時間遅れですんだ。

送ってくれた先輩は中西という。

たった8000円のスピーカーを買っただけで「安月給のくせになんて事をしてくれたの!」と叱られた悲しい福岡出身の先輩だ。

この場を借りて礼を言いたい。

「ありがとう」

 

俺は文章を遅れる事なく提出し、開かれる飲み会を蹴り、道子の実家である春日部にわき目も振らず向かった。

出産予定日までは11日もあったが、腹もだいぶ大きくなり、道子の事が気になった。

と、書けば嘘になるが、真実は社宅に帰りたくなかった。

ハウスダストに骨の髄までやられそうだった。

道子は夜12時前という時間も気にせず、山盛りの飯と山盛り青梗菜炒めを出してくれた。

「福ちゃん、あんまり太らないでね」

言いながら、更に肉の炒め物も出してくれた。

 

翌日。

朝飯を食べると、道子と義母さん、3人で歩いて買い物に出かけた。

道子は重い体を揺らしながら、俺と久し振りに肩を並べて歩いた。

道子にとっては久しぶりの遠出らしい。

外食をし、服を義母さんに買ってもらった。

それから… 何もする事がなかった。

歩きながら眠れるほどに暇だった。

時は2時を回ったところだ。

「ちょっと、パチンコ行って来ます」

俺はそう言うと、批難轟々の二人を置いて、パチンコに出かけた。

批難の中には「人でなし」「娘を置いて信じられないわねぇ」「たまにしか会えないのに」色々あったがあえて聞こえないふりをした。

 

6時前に熊本出身の級友、長さんが春日部に来た。

前もって飲む約束をしていたからだ。

「長さん、来たよ」

と、道子からの電話。

「わかった」

そう返したが、今、手が離せなかった。

丁度、勝ち波が来ていたからだ。

スロット「キングパルサー」をうっていた。

俺は「戻って来い」という二度目の催促電話に「しばし待て、勝ってるから」と返した。

更に批難轟々だった事は言うまでもない。

 

結果は2万5千円の勝利に終わった。

手に余り玉で貰った柿ピーを持って、とぼとぼ歩きながら帰った。

(奢らんと一生文句言われるな)

思い、待っている3人に奢る事を決意した。

辺りはすっかり暗くなっていた。

住宅街の細い路地を曲がりながら、帰る内に勝った喜びが溢れてきた。

つい、鼻歌も飛び出した。

その時だった。

原付の音が後ろからしたかと思うと、一瞬のうちに手にもった袋をもぎ取られた。

電光石火のひったくりだった。

原付には男が一人。

フルフェイスをかぶっている。

ナンバーを見ようと思ったが、ヤンキー加工を施されておりクイッと上向き。

見えなかった。

(くっそぉおおおおおお)

俺は久し振りに思いっきり走った。

原付のテールランプを一心不乱に追いかけた。

思わず、叫び声が洩れた。

「待て!!俺の柿ピー返せ!!」

原付の男は振り返りもせず、柿ピーを持ったまま、俺を振り切った。

テールランプは悲しく消えた。

 

腹が立ってしょうがなかった。

(確かに、ここ春日部でひったくりが多発しているという話は義母さんに聞いたばかりだ。しかし、それが今日、自分の身に降りかかるなんて…)

怒りが霰の様に降り注ぎ、俺の心のガラスに当たっては消えた。

ワイパーを何度も振り、嫌な気持ちを掻き消そうとしたが、無駄なあがきだった。

「俺の柿ピーを、俺の柿ピーを…」

何度もそう呟いた。

いつ間にか足は大股に、目は下を向いていた。

と。

300メートルくらい歩いたろうか、道端に見たような買い物袋が寂しく一人ぼっちで佇んでいた。

手にとってそれを見た。

紛れもなく愛しの柿ピーだった。

(ぬぉおおおおおお)

胸が熱くなった。

更なる怒りが津波となって押し寄せてきた。

ひったくりは中身が柿ピーだったと知って捨てたのだ。

多分「なんだ、あいつ、しけてんなぁ」とか言って捨てやがったに違いない。

「腹立つぅううううう!」

思わずそう叫んだ。

重ねて言うが、ひったくりは、ひったくった分際で中身が気に食わないと捨てたのだ。

つまりはひったくりにとって、俺はやりやすいカモにも見え、実際に手を付けたらしけた奴でもあったのだ。

二重のおちょくられ!

道端に悲しくたたずむ買い物袋がそれを切々と物語っていた。

 

「ただいま…」

俺は静かにドアを開け、道子の実家に帰った。

すぐに、3人にひったくりの事を話した。

3人は爆笑した。

3人ともが腹を抱えて転げ回った。

道子は「子供が出そう」そうまで言った。

(笑い過ぎだ、お前ら、くっそぉ、腹立つ)

俺は重ねて怒りを確認した。

 

 

3、水漏れ

 

近くの焼き鳥屋に4人で向かった。

言わずとも分かると思うが、俺、道子、義母さん、長さんの4人だ。

道子の安産を祈り乾杯した。

「やっぱ、大ジョッキで飲むと飲み甲斐があるねぇ」

俺が言うと、大将がそのジョッキをくれた。

 

2時間くらい経った頃であろうか、道子が珍しく「帰ろう」などと言い出した。

俺は飲み足りなかったので、義母さんに道子を頼み、長さんとスナックに行った。

スナックは「ころころ」と言い、見た目に(なるほど)と思ってしまうコロコロしたオバサンが営んでいた。

「歌って、歌って」

オバサンは何度も俺達にそう言った。

俺たちは仕方なく歌った。

オバサンは聞きもせず、鼻をほじっていた。

 

家に帰ったのは午前1時だった。

深夜なのでコッソリ家に上がり、居間に向かった。

と。

なぜか、義母さんと道子、二人して起きていた。

(なんだ?)

そう思い、

「なんで起きとると?」

そう聞いた。

道子は青白い顔で横になっており、ゆっくりと口を開いた。

「破水した」

 

ボンッ!!

 

俺の酔った頭は軽爆発を起こした。

「破水だと?」

そうパクパク動き、島倉千代子級に首は斜めを向いた。

「いつ?」

続けて口がそう動いた。

「居酒屋にいる時」

道子はこれまた青白く返した。

俺の頭に「帰ろう」と言った道子の顔が思い出された。

謎が解けた。

「やばいじゃにゃーや!」

俺はそう言って、電話口に向かった。

「先に破水はいかんとだろ?」

とにかく知識が足りなかった。

妊娠に関する知識の泉、社宅隣の山本さんに時間を気にせず電話した。

「やめてよ、こんな時間に電話するの! 山本さんも迷惑だし、私も馬鹿だと思われちゃう!」

道子の叫び声が俺のイヤーバイパスを左から右へ素通りした。

(多分、馬鹿と思われたくないんだろう)

ちょっとだけそう思ったが、手遅れだった。

電話が繋がった。

「道子が破水したと思われるんばってんがどぎゃんしたらよか?」

「山本です」と名乗らせないスピードで聞いた。

瞬間、「ああ…」道子がそう言って項垂れた。

「え、あ、その出てる水って生臭い?」

山本さんは寝起きの声でそう言った。

「道子! 臭いや?」

質問受けてそのまま道子に流した。

「もう、うるさい! 私は分かってるって言ってるじゃない!」

道子はなぜか怒った。

よっぽど、馬鹿と思われたくないらしい。

「臭いらしい」

俺は予想でそう答えた。

山本さんは知識の箱を全面開放し、聞いてもいないことまで親切丁寧に教えてくれた。

最後に

「もう、少しだね。頑張って」

そう言ってくれた。

しかし、俺は酒に酔って、相槌しか打てなかった。

話はこれまた左から右へ流れていった。

 

「とにかく、道子、大丈夫か?」

怒った道子にそう言ったら、道子は

「産婦人科に電話した。電話したら今日は寝ろって言われた」

プリプリしながらそう言った。

「なんだ、産婦人科がそう言うなら間違いはなかばい。先に言えよ」

俺はそれを聞くと、5分後には視界が暗くなった。

瞼のカーテンがスウッと降りてきたのだ。

 

 

4、産婦人科直行

 

けたたましい電話の音で目を覚ました。

気付くとコタツで道子と寝ていた。

いつ寝たのか?なぜ故に固いコタツで寝たのか?さっぱり分からないまま、ヨダレを拭いた。

少しだけ二日酔いで頭が痛い。

電話には義母さんが出ていた。

「はい、分かりました。9時ですね」

そう言っていた。

義母さんは電話を切ると、道子に言った。

「産婦人科から。9時に来なさいだって」

「分かった」

道子のしっかりとした返事を聞き(道子、起きてるんだ)と思った。

道子は義母さんに「寝れなかった」と言った。

熟睡して一度も目を覚ます事がなかった旦那は横で狸寝入りをした。

(すまん)

小さく一つ、そう思った。

 

9時前10分になると、道子は近所の友人宅に電話し、若娘を叩き起こした。

「送って」

そう言っていた。

朝から叩き起こされる娘も可哀想だが、道子曰く「彼女が高熱の際、私が送ったという遠い思い出がある」との事。

(道子に借りを作らない方がいいな)

「5年越しの恩を返せ」と言っている道子を見、そう思った。

 

車も出せず、更には眠れぬ嫁に添い寝しつつも熟睡した「使えない旦那」は嫁が行った後、暢気に風呂に入った。

2日入っていなかった。

(明日くらいまでは産まれんだろ)

そう思い、風呂では

(今日もパチンコに行くか)

そうとも思った。

ゆっくり上がると、上で寝ている長さんに

「留守番、頼んだぞ」

と、留守を頼み家を出た。

産婦人科までは徒歩10分だった。

 

10分のはずが、20分もかかり10時に着いた。

迷ったからだ。

「道子は?」

長椅子に腰を下ろした義母さんに聞いた。

隣には送ってくれた娘さんがいた。

初対面なので一応、挨拶をした。

軽いギャグももちろん入れた。

「即、入院らしいわよ」

義母さんは丸い顔に哀愁を詰めれるだけ詰め込んでそう言った。

 

長椅子に座り、馬鹿話を繰り広げる三人に看護婦さんが声をかけた。

「部屋に案内します」

冷たく厳しい声だった。

見た目、60歳くらいに見えた。

 

この産婦人科、出来たばっかりらしく異様に綺麗だった。

聞けば、全室一人部屋、トイレ付き、最新機器装備との事だった。

値段の事は怖かったので聞かない事にした。

「さ、ここよ」

案内される部屋はその部屋の中でも一番広い部屋だった。

二人部屋仕様を一人で使いなさいとの事だ。

周りに人のいる気配はしなかった。

部屋はパンフレットで大口を叩くだけの事あって、確かに全てが最新だった。

ベットは病人でもないのにパラマウントベット、トイレは便座いつでもホカホカウォシュレット付き水洗、テレビはもちろん装備、冷蔵庫も完備。

独身柔道家が30人住み込みで合宿できる装備と言ってよい、良すぎる環境だった。

重ねて言うが、値段の事は聞いていない。

今後も聞く事は無いだろう、そう確信する。

 

「何か質問は?」

看護婦が言った。

「あ、いつ産まるっとですかね?」

俺は間髪入れずに聞いた。

「は?」

喋り速度が早すぎたようだ。

ゆっくり聞いた。

「いつ産まるっとですかね?」

「は?」

また、返された。

馬鹿にされてるのかと思った。

「いつ産まるっとかて聞きよっとですよ」

ちょっと大声で言った。

「ふふふ… 九州男児ね」

看護婦は笑い、意味不明な事を口走りながら行ってしまった。

結局、質問は悲しく部屋に木霊したまま残されていた。

「九州弁、抑えなきゃ」

看護婦がいなくなって義母さんが言った。

(それが原因か! しかし、看護婦いる時に言ってくれ)

心底、そう思った。

 

一時待つと、道子が斜に構えて部屋に来た。

「すげーぞ、道子、この部屋!」

言ったが「そう…」と言われ、会話は全く発展しなかった。

「促進剤入れたの?」

義母さんが道子の顔を覗き込んで言った。

「わからない。股に風船を入れられた。膨らんだら言ってくださいだって」

道子は細い声で言いながら、トイレに消えていった。

「着替える」そう言い残してもいた。

(股間に風船だと?どうやって膨らますんだ?どうやって抜くんだ?)

股間と風船、まったくもって意味不明な組み合わせに俺の理系の頭は混乱した。

だが、深く聞くのは止めた。

「うるさい」その一言で片付けられそうな気がしたから。

 

 

5、分娩

 

俺と義母さんは一度家に戻ると、昼食をとった。

さすがに寝ていた長さんも起きていた。

3人で飯を食いながら、落ちていた出産大百科なる雑誌を眺めた。

落ちているポジショニングからいって、眠れなかった道子が昨晩読んだものに違いない。

(陣痛が来て、産まれるまで、どのくらいかかるものだろう?)

そう思い、ページをめくった。

たまたまめくったページに奥様の投書があった。

『陣痛が始まってから15時間、もう産まなくていいと思ってしまう痛さでした…』

そう書いてあった。

(そんなにかかるのか。まだ陣痛も来てないから産まれるのは明日だな)

そう思い、翌日、会社を休む事を決めた。

ついでにパチンコに行く事も決めた。

『男はいても邪魔になるだけ。何も出来ない自分が不甲斐なく思いました』

出産後の旦那の投書、これが決め手だった。

「やはり、嫁の側にいても意味はない。これ以上、不甲斐なく思うくらいならいない方がいいな」

そう呟いた。

(しかし、長さんと一度病室に寄り、それからパチンコ行くかな。今日は長丁場だ、気長に気長に…)

そうも思った。

義母さんは「家の掃除をしてから病院に向かう」と言った。

「俺、いないかもしれませんよ」

「いいわよ、お散歩ね」

その手はハンドルを握る真似をした。

バレバレだった。

 

12時頃だったであろうか、長さんを引き連れて道子の病室に行くと少しだけ痛がっていた。

「腰をさすって」そう言われた。

(なんと傍若無人な…)

瞬間に俺はそう思った。

長さんがいるのにさすれるわけがないのである。

「いやぞ」

思わずムッと返したが、

「なんか本当に気分が悪い」

人前であまり痛み顔をしない道子が見せたものだから、言われる通りに腰をさすった。

しかしながら…。

長さんには本当に悪かったと思っている。

「大丈夫か?」

「うん…でも、痛い」

「頑張れ」

言い合う夫婦の中にジッと佇む男一人、それも独身彼女なし。

名を長嶺、通称、長さんと申します。

これでは居場所がない。

これもこの場を借りて謝る事にする。

「すまん」

 

話を戻す。

長さんは本当に居心地が悪かったのだろう、5分もしない内に「じゃあ」そう言い残し、帰って行った。

それから俺はひたすら道子の腰をさすった。

疲れ、ちょっと手を離すと「駄目!」と叱られた。

パチンコに行くどころではなかった。

(出産大百科の「男はいても邪魔になる」この一文は何なんだ?)

そして、

(これが15時間続くのか?)

とも思った。

 

10分くらいすると看護婦さんが来た。

「下に下りなさい」

そう言った。

道子が「立てない」そういった事を洩らすと

「あんたは病人じゃないの!」

看護婦はそう一喝した。

俺は道子に肩を貸すと、下まで付き添った。

道子は低いうめき声を上げながら、診察室に吸い込まれていった。

 

道子は5分で帰ってきた。

股間風船を取ったと言う。

看護婦も一緒に付いて来た。

こう説明した。

「これから陣痛が本格的に始まるから痛いと思ったら腹に力を入れなさい。この辺、この辺、この辺よ」

看護婦は道子の腫れた下腹部を押した。

「うんこすると思いなさい。痛いけど力を入れるの」

「うんこですね…」

道子はこの言葉だけにはしっかりと反応した。

「旦那さん、多分、4時から6時くらいになると思います」

「はぁ、そうですか」

午前に聞いた回答が今帰ってきた。

(付き添わんといかんな…)

そう思った。

看護婦は道子に続けた。

「出るって感じがしたらこのボタンを押しなさい」

ナースコール用のボタンを指差して言った。

「頑張りなさい」

そう残して、看護婦は去っていった。

時は12時40分、俺が来て40分しか経っていなかった。

 

少しすると義母さんが来た。

12時45分だった。

俺はずっと道子の腰をさすっていた。

さすりっぱなしだった。

「ああ、ピーク、ピーク」

道子は何度もそう言うと「さすって!」と続けた。

しかし、ある瞬間、俺の手を弾き飛ばし、

「おかあっ! 呼んで!」

そう叫んだ。

「看護婦さん?」

義母さんは返した。

「そう!」

道子は叫んだ。

(え、早すぎるだろう?)

俺は思った。

当たり前だ。

4時から6時に産まれると言っていたのに、今は12時50分だ。

看護婦が去って10分しか経っていない。

義母さんは迷わず、ボタンを押した。

少し待つと看護婦が現れた。

手袋、マスクを身にまとっていた。

完全装備だった。

「さあ、分娩室、入って!」

道子は身悶えていた。

義母さんが手を貸そうとした。

「駄目!自分で立って!」

看護婦の檄が飛んだ。

今日、一番激しい口調だった。

看護婦は道子の元に大股に一歩、ググイッと寄った。

「子供は女が育てるの! どんなに立派な旦那がいても立派な子供は育たないの。お母さんが頑張らなきゃ! 私はあなたが自分で動くまで待つわよ!」

そう言った。

道子は項垂れて少しだけ座ると、その後、ヨロヨロと生まれたての動物映像の様に立ち上がった。

(頑張れ!)

俺は手に汗を一杯握りながら、そう思った。

道子は落ち葉の様にフラフラと分娩室に吸い込まれていった。

分娩室の扉は建物の中で一番大きなものだ。

それがドスンと低い音を立てて閉まった。

 

俺と義母さんは病室に残された。

二人だけだった。

「義母さん、ついに行きましたね?」

「そうね、何時間かかるかしら」

俺はドラマのような展開に胸を馳せた。

 

音の無い廊下で右往左往する旦那、長椅子に腰を下ろし動かない義母さん。

既に5時間を経過している。

と。

不意に赤子の声が聞こえた。

「生まれた!」

そう言って、抱き合う廊下の二人。

「おめでとう」

義理の母からの温かい一言。

「ありがとうございます…」

返す夫。

 

(こうなるのか?)

そう思った。

義母さんもそういったシチュエーションを思い描いているに違いない。

なんだか暖かい気持ちになった。

「義母さん、今から長いですよ」

俺は部屋の入り口から分娩室を眺める義母さんにそう言った。

しかし、返事が返ってこなかった。

義母さんは何かに耳を澄ましていた。

「テレビの音、消して!」

不意にそう怒鳴られた。

「え、あ、はい…」

俺はリモコン一発雑音発生源のテレビを消すと、

「何事ですか?」

そう聞いた。

「赤ん坊の声が聞こえた気がしたんだけど…」

義母さんが言った瞬間だった。

 

オギャァアアアアアアアアアア!!!

 

全て遮断物を気にもしないような高周波な泣声が耳に届いた。

二人は目を合わせた。

「嘘、産まれた?」

同時に聞いた。

しかし、そんなはずはない。

4時から6時、プロの看護婦がそう言っていたのだ。

「別の子じゃないですか?」

「今日はうちしかいないわよ」

「本当ですか」

「多分」

静かな廊下で二人は叫び合った。

と。

義母さんの裏から看護婦が現れた。

その口が動いた。

笑顔一発、心に響く台詞だった。

「おめでとうございます。女の子です」

瞬間、時計を見た。

道子が分娩室に入って7分しか経っていなかった。

(すごい女だ、道子)

そう思った。

義母さんが「おめでとう、福ちゃん」そう言った。

ドラマとは違ったけど、体が震えた。

「そちらこそ」

震えた声で辛うじて返した。

 

「赤ちゃん、前から見れますよ」

看護婦は俺たちのやり取りが終わると、それに付け加えるように言った。

「え、本当ですか!」

俺は大股6歩で赤ちゃん展示場まで走った。

0.1秒でも早く見たかった。

「こ、こいつかぁ!」

そこにいたのは紛れもなく俺の子だった。

鼻は俺に似てクラシックワイド、肌は俺に似てマイルドホワイト(色白)、目は俺に似てダブルライニング(二重瞼)、腹は俺に似てダイナマイトボンバー(デップリ)、全てが「コンパクト俺」な様に思われた。

「可愛すぎる…」

洩らして、義母さんを見た。

「うんうん」

言いながら、泣いていた。

続けて、

「はっ、はっなが…」

よく分からない事を言いながら、泣きむせていた。

後に聞いたら「鼻がでかい」と言いたかったらしい。

俺はガラス越しではあるが、我子を十二分に堪能した。

そして、道子の帰ってきた音を聞くと、ダッシュした。

褒めてやらねばならない。

「道子、よくやった、お疲れ」

そう労ってやらなければならない、強くそう思った。

が、嫁の顔を見たら褒める事は止めた。

思わず、

「お前、電光石火やな」

そう言ってしまった。

更に

「お前見てると子供産むのがペット買うのと変わらん気がしてきた。10人は産めるぞ」

とまで言ってしまった。

道子は疲れた顔で一息吐くと、

「時間で見る程、簡単じゃないのよ」

言い、また一息吐いた。

「でも、私の横で看護婦さん達が小声で言ってたんだけど…」

「なんてや?」

「休みの日に分娩なんて参っちゃうけど、アレなら幾つ来ても良いわね、だって」

「俺も教科書以上の安産って言われたぞ」

「普通の人の1/10くらいの出産っても言われた」

道子の顔には力いっぱいの笑みが溢れていた。

「とにかく、お疲れさん!」

俺は道子の肩をガサツに揉んだ。

 

道子はすぐに疲れて黙り込んだ。

眠る道子の横で俺は「こんにちは赤ちゃん」を熱唱した。

会心の歌声だったと思う。

しかし、道子は冷静にこう言い放った。

「黙って」

 

男は一時間も嫁の腰をさすり、一生懸命、出産の手助けをした。

しかし、喜びの歌を歌う事すら許されなかった。

俺は道子が寝た事を確認しすると病室を後にした。

14時だった。

日は高く、雲一つない最高の日曜昼下がりだった。

(今日だけは淀んだ社宅に帰りたくない)

心底そう思い、

「親族の家に飲みに行こう」

勝手に口がそう動いた。

 

ふと「ひったくりに注意」と書かれた警告板が目に留まった。

その下には「うんこ」と落書きしてあった。

看護婦が言った力み法を思い出した。

(そう言えば、ひったくりの話をした時、道子は笑い転げ回っていたな…)

道子の数時間前の絵が鮮明に浮かんだ。

(あれが原因で早まったか…)

そう思い、

(名前はひったくりの文字をとり、ヒクリにしようか)

とも思った。

(しかし、何はともあれ無事に産まれて良かった… 神さまに感謝しなくては)

目頭がカッと熱くなるのを覚えた。

 

桜のつぼみが今にも破裂しそうだった。