悲喜爛々14「突然の伊香保」

 

1、会社早退

 

7月5日、金曜の正午前だった。

俺は爆発的な二日酔いに苛まれていた。

いつもの二日酔いとは違い、十二指腸潰瘍の影響もあってか、

(ああ、胃も重い…)

なのだ。

諸先輩からは

「お前の体は一人のモノじゃないんだぞ! 気をつけろ、バカ!」

と、真顔でお叱りのお言葉を頂き、

「はい、分かってるつもりですが、飲み始めたらこれが…。うっ、また吐き気が…」

つわり真っ最中の妊婦の様に両手で口を抑えながらそう返している。

「分かる、分かる、飲む人間と言うのは飲みだすとどうにもこうにもなぁ」

先輩は言いながら、ケラケラと笑ったが、

「しかし、本当にきついなら、午後から帰ったほうが良いんじゃないか」

そう言ってくれた。

「いやぁ、そう簡単には帰れませんよ。俺も一端のサラリーマンですからねぇ」

俺は笑いながら、無理無理にそう返したが、心の中では

(そうしよう…)

瞬時に決めた。

昼食前になると、俺は直属上司に折り畳んだメモ紙を渡し、

「12時15分に見てください。それまでは絶対に見ないでください。絶対ですよ!」

そう約束し、続けて、課内庶務の姉さんにはソッと

「飯の時間になったら『PM年』と俺の行先掲示板に書いておいてください」

お願いした。

12時なると、俺はパソコンを落とし、皆の目を掻い潜ってスッと食堂に向かった。

俺がいなくなって、庶務は行先掲示板に何食わぬ顔で『PM年』と書いてくれた事だろう。

『PM年』とは無論、午後年次休暇の事である。

俺は食堂に着くと、重い胃を抑えながら味噌ラーメンをすすり、ダッシュで帰路についた。

顔見知りが、

「お、どうした? 帰るのか?」

聞いてくる度に、

「トイレに行きたいんだが、会社の便所は肌が合わんでねぇ…。午後から会社を休んで、自宅の便所でゆっくりと用を足そうと思って」

笑顔でそう答えた。

皆、太い溜息で返したものだったが、俺がいなくなってから15分後、渡されたメモ紙をゆっくりと開いた直属上司は

(なんと!)

そう思って、俺の行先表示板を瞬時に見たはずである。

そこには『PM年』の赤い文字。

(やられた〜!)

連中よりも深い溜息をついたはずだ。

先に渡したメモ紙には、俺が皆に言った事と同じ事が書いてあったのだから。

さて…。

俺が昼休みの時間にふと帰ってくると、嫁は何かを直感したらしく、

「まさか休んだわけじゃ?」

そう聞いてきた。

道子は春に乳をやっているところだった。

俺はコクリ頷くと、

「会社の便所は俺の尻に合わん、それが今回の理由」

ボソリと言った。

道子はこれまた皆と同じ様に大きな溜息をついた。

「もう休む理由が無いんでしょ…」

道子は吐く溜息の中に混じらせてそう言ってきたが、

「休む時は陳腐な理由は言いたくないものだ!」

俺が前に胸を張って言っていたのを思い出したのだろう。

何も言わず、

「昼飯は?」

そう聞いてきた。

俺は食堂で食べた事を正直に告げ、ふと、食べた事により体が落ち着いている自分に気付いた。

(おお、ランチ効果、未だ健在)

二日酔いは爆発的なものでない限り、大抵、ランチを食べた時点で落ち着いてくる。

此度も例外ではなかったようだ。

(寝て読書でもするはずが元気になっちゃった…)

俺はそう思うと居ても立ってもいられなくなった。

不意に、

「よし、今から温泉宿に泊まりに行くぞ!」

そう言ってしまった。

道子は驚き顔を俺に見せ付け、その後、散々に俺を罵った後、

「えー、急すぎるよー、そんなのー、えー」

なんて言う割には目を輝かせ、自らパソコンを立ち上げ、

「旅の窓口で調べてみようよ」

なんて言い出した。

『旅の窓口』というのは有名なお宿検索サイトである。

つまり、道子は俺の一言にノリノリになってしまったのだ。

俺はすぐさま、関越道から近い場所という事で温泉街を調べ、その中から二件をチョイスし、道子に電話をさせた。

道子は本当にノリノリで、前日までに予約を入れないと駄目な格安プランを、強引に当日予約で取り付けた。

(凄まじい…)

色声と押しを絶妙なバランスで使い分ける嫁に、

(うーむ、我嫁ながら恐ろしい女だ)

そう思ってしまった。

道子は春を俺に預けるとすぐさま準備にかかった。

重ねて言うが、本当にノリノリである。

「あー、もう、春ちゃん連れて初めての旅行だよぉー」

スキップでブラジャーをバックに詰め込んでいる。

「ああ、緊張してきた。福ちゃんの荷物はパンツだけでいいよね?」

鏡の前でクルリと回り、自らの衣装チェックをしている。

そこには、ほんの3分前、怪訝な表情で俺を見つめ、

「訳の分からない理由で帰ってきて、訳の分からない事を言いなさんな!」

そう怒った道子の姿はない。

俺は呆れ顔で俊敏に準備をこなす道子を眺め、抱いた春に

「女ってのは怖いですねー」

そう言うと、春は

「あうあう」

言って、ニヤリ笑ったのだった。

 

 

2、旅館

 

旅館は伊香保の源泉すぐそばの場所にあった。

山の上である。

部屋は絶えず湯の流れる音が聞こえ、窓を開けると緑しか見えない。

「もう、福ちゃん、マイナスイオンたっぷりって感じだね」

道子は言いながら、スキップで窓を開け放った。

涼しい風がパーッと入ってきた。

「うん、来て良かった」

俺はボソリと言うと、春を抱いて窓際に歩み寄った。

春に濃い緑を感じてもらおうと思ったのだ。

が…。

「あー暑い暑い、クーラークーラー」

道子が大自然の風を阻害すべく、いきなり冷房をつけた。

(くっそー、さっきまでマイナスイオン最高とか言ってたのに!)

思ったが、せっかくの旅行で喧嘩をしてはしょうがないので、俺は春と共に、外からの風と冷房の風をダブルで浴びながら癒されてみる事にした。

耳を澄ませば、お湯の流れの間に小鳥の鳴き声が聞こえた。

「あうあう」

春が自然の声に反応したのか笑顔を見せる。

「おー、お前も嬉しいかぁ、春」

幸せ一杯だった。

その脇で道子は…。

「あ、テレビ、テレビ! 気になるドラマがあるのよぉ!」

言いながら、ポチッとテレビをつけた。

(はぁ…。小鳥のさえずりも湯の流れもあったもんじゃねーな)

俺は春を抱いたまま、ガクリ肩を落とした。

さて…。

現在の時間は四時前である。

社宅から1時間半で伊香保に着いた事になる。

なんとも手頃な距離であり、春に至ってもお利巧に後部座席で眠っていてくれた。

「伊香保、近いねぇ」

道子は到着時間を見て、言ったものだったが、俺はそれよりも、皆が働いているこの時間に温泉宿にいるという事が

(素敵じゃない?)

そう思えるのだ。

皆は今ごろ、あくせくと書類などに目を通しながら働いている事だろう。

それに対し、俺は家族三人で温泉宿に訪れ、癒しの景色、音、空気に包まれ、ゆったりと湯に浸かっているのである。

(なんという優越感…)

そう思わざるを得ない。

風呂場であった若者とこういった会話も交わしている。

「どこからですか?」

聞く俺に、

「習志野からです」

と、若者。

二人は露天風呂に浸かり、雄大な緑をバックに話し出す。

「俺は埼玉からなんですよ。ほんの3時間前に伊香保に行こうと思いつきましてね」

「それは急でしたねぇ。しかしね、その選択は当たりだと思いますよ。平日の温泉ってのは休日の何倍も癒される」

「ほう、なぜ?」

「だって、今、四時過ぎですよ。皆が働いている時間じゃないですか。そう思うと心の底から極楽、極楽…、そう思えませんか?」

「分かりますよぉ」

「でしょー。優越感にどっぷりと浸れる」

「ハァ…。心身共に癒されますなぁ」

「そうですなぁ…」

素晴らしい時を過ごしてしまった。

春は道子が先に風呂へ連れて行き、その後、俺が部屋で預かっている間に道子もゆったりと入る方法を取らせてもらった。

道子もよほど癒されたのだろう。

「はー、暑い暑い」

汗だくで帰って来、

「クーラー、クーラー、テレビ、テレビ。ああ、福ちゃん、外の風が気持ちいいー」

よく分からんが、自然と現代文明を折衷させて、喜び露にバタバタと暴れた。

その後、部屋にはズラリ会席料理が並べられた。

「おいしい、おいしいよー」

道子ははしゃぎながら、その後、バタンキューで横になった。

春は9時過ぎに寝た。

「道子、ちょっとバーにでも行こうや。このまま寝るのももったいないだろう」

俺は半目の道子の手を握り、旅館内にあるバーへ誘った。

本当は外へ出て、温泉街ならではの『男の楽しみ』をしたかったのだが、それは家族三人初旅行においてはあまりにも非人道的楽しみなのであきらめた。

「やだよぉ、どうせ飲めないし」

道子は眠っている春を撫でながら言う。

母乳真っ最中だからだ。

「久し振りに飲めばよかじゃにゃー」

俺は食い下がったが、道子が眠い体を奮い起こして付いて来るとは思えなかった。

新婚初夜、福岡有数のホテル、シーホーク、その中でも夜景の美しい『デラックスルーム』でさえも、一度寝た道子を起こす事は叶わなかった。

山の頂にある古びた宿、その中にある小さなバーに道子が食いつくわけがない。

「一人で行ってくれば」

結局、話はそうなり、1000円という小遣いを貰って、俺はトボリトボリとバーへ向かう事になった。

「じゃあ、一杯だけビールを飲んでくる。胃も悪いし」

それが俺の残した言葉だった。

午後10時。

宿の廊下はどんよりと暗く、お湯の流れる音だけが不気味に響いていたのであった。

 

 

3、バーにて

 

バーは、中央に夏を意識しているのであろうアロハシャツを着た50過ぎのおばさんが居て、それを取り囲むように円のカウンターが広がっていた。

客は、先ほど料理を出してくれた仲居さんと、この宿の従業員であろうと思われるオヤジ2人、計3人がカウンターに座っていた。

俺がフラリと現れるや、

「あら!」

中央のオバサンは言って驚き、

「どうぞどうぞ、そこへ座って」

と、仲居さんの隣に座らされた。

なぜかオヤジの一人、ベージュの作業着を着た男が席を立ち、俺のもう一方の隣へ座った。

開始5秒、いきなりサンドイッチの形になった。

「ビールをください」

俺は中央のオバサンに言いながら、仲居のオバサン、作業着のオヤジ、遠くのオヤジ、つまり全員にペコリと会釈をした。

「兄ちゃん、どこから来たんだい?」

作業着のオヤジが馴れ馴れしく言ってきた。

「埼玉です」

「そうかい、そうかい、俺の昔の嫁が埼玉出身でねぇ」

オヤジは身の上話を話し始めた。

俺はよく冷えたビールをクッと飲みながら、時々はオヤジに相槌を打った。

ほとんどが左から右へ流れた。

その内に仲居のオバサンまでもが身の上話を始めた。

話の内容はこうである。

一昔前まで伊香保はバブリーなお客で溢れ返っていたそうな。

一泊3万円でも客は来てたし、このバーでは生演奏もやっていたそうである。

それがここ最近では景気も冷え込み、一泊一万円以下でもなかなか客が来てくれない有様だという。

それは社員の待遇にも当然反映され、ボーナス全額カット、給料ダウンとなり、従業員である三人に言わせれば、

「まさしく最悪だよ」

らしいのだ。

俺はビールをおかわりしながら、何を言ったか忘れたが、適当に「俺も変わらない」みたいな事を返し、続けて、

「俺は手取り13万円で嫁と子供を育てています。しかし、平日に旅行にもいける。貧乏だとは思いませんよ。貧乏って字を思い浮かべて下さい。貧乏ってのは、一つの貝を分けて食べるにも乏しいくらいの事を言うんです。それを思えば、俺達はリッチマンじゃないですか。こうしてビールが飲めてる。そうでしょう?」

そう言った。

すると、三人は何やら感激したらしく、

「いい事言うじゃねーか、こん畜生!」

「目から鱗だぜ!」

「若い者に説き伏されるようになっちゃお終いだーなぁ」

言いながら、俺に握手を求めてきた。

(とても居辛い空気になったな…)

思い、ビール三杯目を飲み終わる頃だったか、ふと、時計を見た。

11時を10分回っていた。

ビールサーバーの前にはデカデカと『営業:20時〜23時まで』そう書いてあった。

(閉店時間過ぎてるじゃねーか…)

思った俺は、

「それじゃ、11時も回りましたし、俺は帰りますよ」

言って、席を立った。

その刹那、作業着のオヤジが肩を組んできた。

「いいよ、いいよ、時間は気にしなくて。ねぇ、ブランデーを彼にあげて」

そう言って、帰りたい俺を制すのだ。

俺は折角なのでそれをチョビリチョビリと頂きながら、皆の愚痴大会に続けて参加した。

苦痛だった。

さすがに閉店時間を50分も過ぎた頃だったろうか、

「そろそろ…」

カウンター中央のオバサンが常連に言ってきた。

(待ってました!)

の心境であった。

「おう!」

作業着のオヤジは威勢のいい声をあげ、仲居のオバサン、遠くのオヤジは手をフリフリ帰って行った。

作業着のオヤジの手は未だ俺の肩から離れない。

(まずい、まずい予感がする…)

思った時であった。

「よし、兄ちゃん、俺が伊香保を案内してやろう。外に行くぞ」

予想通りのお誘いがかかった。

オヤジの話は本当にツマラナくて苦痛だし、春と道子が部屋で俺の帰りを待っているのだ。

「いやぁ、帰りますよ」

俺はオヤジの手を払い除け、

「ご馳走様でした」

三杯も奢ってもらったので礼を言い、場を去ろうとした、その時であった。

「いいストリップ劇場が伊香保にはあるんだがなぁ」

ボソリと俺の背にこぼしたのだ。

(え!)

俺はピクリとも動けず、その場に仁王立ちしてしまった。

作業着のオヤジは続けて言う。

「兄ちゃん、伊香保に来てアレを見なきゃ始まらないだろぉ」

(む、むむむむむ…)

当然、心中では激しい葛藤が始まっている。

(家族を置いて行くべきか、行かざるべきか…)

手に握りしめた1000円が湿っぽくなってきた。

ビール三杯の払いは後払いにしてもらった。

(ス、ストリップとな…。それも奢りだと言ってくれてるし…)

俺はクルリ振り向き、作業着のオヤジに

「行きます」

そう言おうとした。

しかし…。

俺の目に飛び込んできた作業着のオヤジは股間をモソモソと掻き、空いた手では鼻毛を束で「えいやっ」と抜いていた。

(はっ!)

俺は我に帰った。

呼吸が激しく乱れている。

(危うく鬼畜に成り下がるところだった…)

そう思ったのだ。

オヤジは、

「行くぞ、行くぞ!」

リズムに乗って言いながら、股間をバンバン叩いている。

(危うくアレになってしまうところだった!)

俺は冷や汗を拭いながら、

「俺は、俺は行けないっす!」

言って、走り去ってしまったのである。

部屋に着くと道子が起きていた。

「何でこんなに遅いの? 一杯だけしか飲んでないんでしょ」

口を尖がらせて言ってきた。

「ちょっとだけ酔ったから構わんでくれ!」

俺はそれだけを言って速攻で眠りについた。

何かを考えれば、行かなかった事を後悔しそうで、はたまた、あのオヤジの様になった自分が鮮明に浮かびそうで、とにかく何かを考える事が怖かった。

翌朝…。

家族三人で朝食を食いに行くと、事もあろうに、あの作業着のオヤジとすれ違った。

オヤジは、

「昨日の晩は特に良かったよ。特にね。来れば良かったのにー」

すれ違いざまに小声でそう言った。

俺はクルリ振り返ると、鼻の穴を全開に広げ、オヤジを睨みつけてしまった。

オヤジは親指をビッと立て、ニヤリ笑った。

(特にって、一体どういう意味なんだよぉ)

俺は春を抱いて、涙目になりながら、心の中でそう聞いた。

道子は何も知らない。

「あう、あう…」

ご機嫌の声をあげる春、彼女だけはあの時、俺の心を見透かしていたのかもしれない。

後に撮れた『オカマっぽい春の顔』(春の部屋『16週目』参照)がそれを物語っている様に感じられた。

付いて行けば良かったのか、これが良かったのか、どちらの選択がベストだったのかは謎だが、とりあえず、この旅行で家族が癒された事は確実である。

「突飛な旅行、成功!」

そう言い放ち、『悲喜爛々14』を締める事にしておく。