悲喜爛々16「ジジとババ」

 

 

○ 9/13「対面」

 

日は昇っていない。

当たり前である。

早朝というよりも、夜更けと言っても良い時刻、午前4時半なのだ。

「もう、福ちゃん、起きてよ…」

「ばうー、ばうー」

道子と春が大声を上げている。

「福ちゃん、熊本に行くんだよー」

道子のそれを聞いて、

(は!)

と、目覚めた。

(あ…、そうだった、今日から熊本に行くんだった…)

俺は、気だるい体に鞭を打ち、そのまま、玄関に用意されていた、

(なんとも重々しい…)

荷物を抱え、このページ背景の様な社宅の外へ、トボリと出た。

そこには社宅隣の同期が既に車に乗って待ってくれてい、

「やぁ…」

半目で手を上げている。

この同期、名を山本といい、一月前の盆、俺があなたを送る代わりに、この日、あなたは俺を送ってね、という約束を交わした者だった。

多分、この山本氏は、

(う…、しまった、あんな約束を交わさなければ…)

今、痛烈に後悔しているはずだ。

俺が山本氏を送ったのは盆休み真っ只中だったのだが、今日は平日真っ只中、彼は俺を送り終えた後、仕事へ向かうのである。

山本氏は俺と道子と春を、30分もかかる、所沢は『バス乗り場』まで送ると、

「ジャ、キヲツケテ…」

無機質な声で『ありきたりな挨拶』をしながら、すぐさま、ブーンと去っていった。

(よほどに、後悔したのだろう…)

そう思われてならない。

さて…。

所沢まで送ってもらった福山家一行は、それから高速バスに乗り、起きると、そこは羽田空港であった。

初めての『空港・バス移動』だったのだが、

「福ちゃーん、超快適だよぉー、寝てたらポンだよ、寝てたらポン」

道子はそう言って、大いに喜んだ。

それもそのはずである。

道子はバスに乗るや、見境なく胸をポンッと出し、春に乳を与え、その後、のび太級のスピードで眠ってしまったのだ。

俺は、バスに乗り、隣を見ると、既に『胸がポン』の我嫁に、

「おい、隠せよ」

思わず、乳房を手で隠しながら、言ってしまったが、

「大丈夫だよー」

言いながら、後ろが青年だろうが何だろうが一向に構わない『道子さん』には、それ以上、何も言えなかった。

先日、道子の羞恥心が日を追う毎に減退している事は日記で述べたが、それをこの旅行の出だしで、またしても、

(痛感した…)

のである。

その後…。

飛行機でもポロン、親父が運転する車の中でもポロン、観光地でもポロン、

(もう、どうでもいいや、今回の旅行は『おっぱい祭り』だ、エイヤー)

俺も、ここまでくると、どうでも良くなる。

「出せ、出せ、道子、おっぱい出せ、エイヤー!」

であった。

春は…。

バスの中では、それこそ、グッスリ眠り、空港でも、

(ああ、なんておりこうな…)

そう思える、落ち着き払った、言い方を変えるなら、どこか風格のあるドシリとした佇まいを見せてくれた。

(さすが、俺の子…)

俺は、惚れ惚れと春を眺めたものだったが、今回、同行することになっている義母は、

「なーに、単に眠いだけだわさ!」

その一言で片付けてしまったのである。

その義母…。

なぜか、飛行機に乗るとハイテンションの極みに陥り、少々、離陸の時にグズった春よりも、

「あー、春ちゃん、泣かないだわさー、がおー」

「昨日は興奮して、眠れなかっただわさー、がおー」

「ああ、楽しみだわさ、がおー」

と、力一杯騒いでくれた。

俺の旅行メモには、この一文だけが刻まれている。

『義母、飛行機の中でハイテンション』

さて…。

飛行機が熊本空港へ着くと、到着ロビーにはお迎えがいるわけだが、今回は実母・恵美子がその役に当たった。

飛行機が15分ほど遅れ、更に、

「春ちゃん、うんちブリブリだよぉー」

という事で、空港へ飛行機が着くや、道子がオムツ換えに走ったため、恵美子と春が再会する時刻が定刻より25分ほど遅れた。

後の恵美子の言葉を借りれば、

「ああ、もう、わたしゃ、福岡空港へ行ったのか、乗り遅れたのかと思って、冷や冷やしたばい! もう、春ちゃんに会えないかと思ったぁー!」

と、なる。

その様な時刻に、俺、道子、義母、春が到着ロビーに現れたものだから、恵美子は、

「ギャー、ギャー、ギャー、ここよー」

それこそ、今はなき『ギャオス内藤』の様に吼え、手を16ビート・メトロノームを思わせるスピードで振りまくった。

「あ…」

それに気付いた一行は、こちらも手を振り振り、恵美子を目掛けて進んだのだが、その目は俺を見ていない。

道子も義母も見ていない。

そう…。

春を、一点に見つめているのだ。

「ばるじゃーん! ぱどぅじゃーん!」

声にならない叫び声を上げながら、恵美子は春を道子からもぎ取り、そして、抱き抱え、

「会いたかったよぉー」

叫んだのである。

俺たちには、それこそ、

「あ、いたの…」

と、言うが如く、後から

「お疲れさんね…」

付け足した様に労いの言葉をかけてくれた。

それから、俺は運転手に命ぜられ、恵美子は後部座席で春を抱きかかえながら、

「さ、阿蘇へ行こう」

と、いう事で、熊本観光へ向かった。

阿蘇は、義母が、

「亡くなったお父さんが連れて行ってくれると言ってた所なんだわさー」

そう言っていた所であり、無念な思いをした義父のためにも、

(何としても、連れていかねば…)

そう思っていた所である。

当然、『阿蘇と言えば』の、ミルクロード、大観望、中岳火口の黄金ルートを案内し、義母も、

「素晴らしいだわさー」

出雲弁満開で堪能してくれたようである。

その後、道子が、

「高千穂峡も凄いよー」

そう言った事を受け、高千穂峡へ行く事になり、県境を越え、宮崎へ向かった。

これらの『観光』に関しては、面白くも何ともないので、特に触れない。

ただ、道子が、食べ過ぎで腹をこわし、

「超、まいったよー」

と、山中の便所から汗だくで出てきた事のみ報告させて頂く。

ちなみに、この日、250キロ、全て俺が運転し、その大半、春を抱いていたのは恵美子であった。

さて…。

俺の実家、熊本県は山鹿市に帰り着いたのは、午後7時ちょっと前だったろう。

富夫は、まだ帰っていない。

実家が自営業をやっている事は、前の『出来事』等で述べたと思うが、その塩崎模型店の営業時間が、まだ終了していないのである。

予定だと、富夫は、

(8時には帰るか…)

と、いうところである。

最初に言っておくが、春に会った事がある俺の親族は、埼玉に押しかけてきた恵美子のみであり、富夫にしても、弟の雅士にしても、会った事はない。

(その親父がどんな反応をするか…)

想えば想うほどに、不思議でしょうがない。

俺の『親父』が、春の『じじ』になるのである。

(うーん、実感がわかん…)

俺が親父という事でさえも、未だに実感がわかないように、これも、どうもしっくり来ない。

「俺が富夫じいちゃんばーい!」

とでも、言うのであろうか?

恵美子が旅行の最中、語ったところに寄れば、

「『北の国から』でゴロちゃんが孫をさらって行くシーンがあったでしょ。あれば見てから、お父さん(富夫)は、春ちゃんをどこにかっさらって行こうかって言いよったばい!」

との事で、どうやら、

(春をかわいがる気は満々…)

の様ではある。

が…、親父が赤子をあやす姿など、俺は見たこともないし、ましてや、それが自分の子・春だとすれば、

(どうにもこうにも、想像がつかん…)

のである。

そして…。

親父が帰ってきた。

春は俺の膝元にちょこなんと座っている。

玄関を入り、5歩ほど直進し、左へ曲がると、そこが居間である。

俺は、そこで親父の登場を待っている。

「ただいまー」

言いながら、親父はそのまま玄関を駆け上がり、その5歩を歩き、居間を眺め、

「おっ! 春ちゃん!」

言うと、

「ああ、手ば洗わんといかん!」

続け様に笑み全開で言うや、洗面所にダッシュで消えた。

(あら、行っちゃった…)

俺が思うと、すぐに戻ってき、これも恵美子同様に俺から春を有無を言わさず奪い、

「おお、春ちゃん、こんばんわー!」

そう叫んだのである。

これが、親父が春に交わした『一言目』であった。

それからの事は言うに及ぶまい。

春は、親父の足元、恵美子の手の中、それらを行ったり来たりし、二人に風呂へ入れられ、それから、しばし、道子の乳を吸うために離れたかと思うと、二人の寝室へ連行され、そのまま一日を終えた。

途中、弟の雅士も現れたが、恵美子、富夫の溺愛ぶりに、

「兄ちゃん、ちょっと、うちの親、ヤバイんじゃにゃー」

『本気の苦笑』を洩らすのであった。

 

 

○ 9月14日「同窓会」

 

俺と道子が起きると、居間では、

「はーい、春ちゃん、こっちよー」

「笑え、笑え、笑えよ、こん畜生、春ちゃーん」

「お父さんじゃ、笑わないわよー、春ちゃーん」

「何だと!」

「何よー」

「こいつー」

「うふふふ、私を捕まえてごらん…」

春を囲む、富夫と恵美子の茶番劇が始まっていた。

(朝から元気だなぁ…)

少々あきれながらも、眠い目を擦り、ふと、先の方へピントを合わせると、その中心には義母が見える。

「ぷいー、熊本は暑いだわさ…」

義母は昨日から言っている『いつもの言葉』を吐きながら、お気に入りの緑タオルで汗を拭いている。

義母以外の者に言わせれば、今日という日は別に暑いわけではない。

義母曰く、

「更年期障害だからだわさー! あんた達も30年すれば分かるわよ!」

らしい。

空は真っ青で、秋らしい涼やかな風が居間には吹き荒れている。

「うん…」

俺は、この風を胸いっぱいに吸い上げると、

(この帰省目的の一つであった『西南戦争の史跡巡り』をするには絶好の日だ!)

思い、拳をギュッと握った。

親が組んだカリキュラムの関係上、今日しか、これを行なう日はない。

道子と義母を置いていく訳にはいかないし、富夫と恵美子も今日は仕事の為、道子と春、そして義母を連れ、家を出た。

『春ちゃん、行ってしまうのね…』

俺達を見送る恵美子の目は、まさにそう言うかの如く、寂しげであった。

さて…。

俺達一向、まずは、俺が学生の頃に味をしめた、知る人ぞ知る『天郷食堂』という処の『ホルモン煮込み』を買い込み、その後、雑誌で取り上げられ、有名になった『揚げたて屋』なる処の『いも天』を買い込んだ。

俺の案で、

「今日の昼飯は、西南戦争史跡の田原坂公園で食べよう!」

と、いう事からだ。

前述のホルモン煮込みは、30年間も種を絶やさぬ食堂秘伝の味噌ダレに、何日も何日もグツグツと煮込まれたものであり、食べると、ホルモンが、それころ『トロリ』と溶ける、至極の一品だ。

いも天にしても、ころもが何とも言えずサクリとし、それが甘く、そして、厚い。

これは雑誌に載るほどであるから、当然、近隣では『噂の一品』であり、甘いもの嫌いな俺には、あまり、その良さが分からないのであるが、初めて食べた甘党の義母に言わせれば、

「こんなに美味しい『いも天』は初めてだわさー」

であり、

「車の中では、私、何も受け付けない体なんだわさー」

と、言ってた割には、しっかりと、公園に着く前に食べ切っていた。

そんなこんなで、お日様の高いうちに、真っ青な空の下、俺達一向は、それらをペロリと平らげ、その後、その公園内にある博物館などに寄りながら、時を過ごした。

田原坂を出た後も、西南戦争の史跡を2、3訪ね寄り、親父の働く『塩崎模型店』を経由し、家に帰ったのは午後5時を過ぎていた。

既に弟の雅士は実家におり、俺たちの帰りを待ち受けている。

先日、約束した、

「春の服を買ってやろう…」

を、守るためである。

これに対し、俺は急がねばならない。

バタバタと風呂へ入り、ダッシュでいつもの半袖・半ズボンに着替えた。

6時から『同窓会』なのだ。

俺は弟に、すぐさま会場の山鹿市街まで送ってもらい、

「じゃ、春達を頼んだ!」

言い残し、会場である、警察署横の洋風バーに入った。

実に、

(山鹿には不似合いな場所だ…)

そう思われたが、幹事が決めた場所なのでしょうがない。

時は、午後6時5分前である。

(誰か、いるかな?)

思い、店を開けたら一番乗りであった。

「いらっしゃいませー」

言う、店長らしき人物に何やら見覚えがある。

店長らしき人物も俺に見覚えがあるらしい。

「あ…」

そうこぼすと、続けて、

「福山さんでしょ」

言ってきたが、結局、

「おー、懐かしい…」

合わせてみたものの、誰だか分からなかった。

(やはり、この町は狭い…)

それを痛感した。

俺は、ズンと用意された長テーブルに一人孤独に腰掛け、

「生ビールを一つ」

寂しく注文し、チビリとそれを飲んだ。

入り口に対し、背を向けた格好である。

定刻の6時を越えると、幹事を含め、3人ほどが現れた。

この会の発端は、前の日記で述べたが、陽一郎という中学時代の親友がこのホームページを見付け、そして、埼玉に現れ、

「中学二年の時の同窓会を山鹿でしよう!」

そう言った事による。

その陽一郎も10分ほど遅れて現れた。

俺と陽一郎が地元を離れている事もあり、地元に住む石貫という小学校からの友人に幹事を頼んだのであるが、彼曰く、

「今日は全部で17人、ちょろちょろ遅れて集まると思うばってんが、そんだけは来るけん」

との事。

これは、俺と陽一郎から言わせれば、

「奇跡的集合率だ…」

そう、こぼさざるを得ない。

11年も前の『中学二年時』の同窓会を、9月14日という中途半端な時期にやろうというのである。

ちなみに、その時のクラスは、全部で30名強だった様に記憶している。

つまり、約半数の人間がただの週末に地元へ駆けつけた事になる。

(す…、すげぇ…)

俺は、時を追う毎に続々と集まってくる『見た様な顔達』に驚き顔を隠せない。

そして…。

これも時を追う毎に、

(痛い、痛すぎる…)

そう思わざるを得ないのである。

「もしかして、福山君?」

ある女性は、俺を斜めから見ると、訝しげな表情を作りつつ、そう聞き、

「はい…」

俺は俯き加減にこぼすと、一気に弾け、

「うっわー! 太ったねー!」

叫び言うのである。

ある男性は、俺の顎肉をガッチリと鷲掴みにし、

「福山…」

たっぷりと間をあけ、

「終わったな、男として…」

そうも呟くのである。

確かに、

(最近の俺は、ちょっと太った…)

そう思う。

(でも、そこまで言わなくても!)

そうとも思う。

が、彼らから言わせれば、

「フォルムも、人相も、声質も、とにかく全てが変わってしまった…」

そうなってしまうのである。

なぜなら、彼ら、彼女らのほとんどは、俺と、

「中学卒業以来じゃにゃー」

と、いう者ばかりである。

その時の俺は、遠い記憶ではあるが、Lの学生服がしっくりはまる美少年だった様に記憶している。

やんちゃに日夜、猛烈テニスに励んでおり、身長は今と大して変わらないが、体重は、

(55キロ?)

ぐらいであった。

当然、体は、痩せて締まっており、卒業式の日には、

「ボタンをください」

男女を問わず、同輩、後輩の女性にそう言われた事もあった。

そして、今…。

体重計に乗ってみると、

(75キロ弱…)

を指している。

つまり…。

「20キロも太ったの! どしぇー!」

こいつらから見れば、そうなるのである。

後半、

「でも、福山君、中身は変わっとらんけんが、良かったぁー」

等の、慰めの言葉は頂いたものの、俺の心の傷は、そんなもので癒されるほど浅くはない。

まさに、

『顔では笑い、心で泣いている』

のであった。

その後、気持ちが沈んではいたが、二次会へ移り、これまた、お洒落なショットバーへ入った。

途中、

「山鹿にも、もの凄い『男へのサービス』をしてくれる処が出来たんだが、行くか?」

という、地元に住む級友の誘いがあったが、

「幾らくらいする?」

「五千円くらい」

「う…、足りん、貸して。 小遣い制なんたい…」

「いつ、返す?」

「う…、それを言われると、『近々』としか言えん、だが、必ず!」

という、惨めな会話を交わし、結局、行けなかったというか、行かしてもらえなかった。

その後、自棄酒に走ったのは言うまでもない。

家に帰り着いたのは、日を跨ぎ、30分ほど過ぎた時刻だった。

春はグッスリと眠っており、それゆえに家も静かで、なぜか道子が起きていた。

「どうだった、楽しかった? 福ちゃん」

道子は、俺が帰るや、ニヤニヤとし、聞いてきたが、

「ほどほどに…、な…」

泥酔状態の俺は、本当に、それだけを返す事しか出来なかったのである。

ちなみに…。

弟が、

「春の服を買ってやる」

と、言った事を受け、俺が飲んでる間に、皆で近くのショッピングモールへ行って来たそうだが、その購入品を見ると、春の物はなく、俺に買ってきた服ばかりだった。

「なんでや?」

俺は、酔った体を横たえながら道子に聞いたのだが…。

「あのねー、春ちゃんのを買おうと思って行ったんだけど、思えば、春ちゃんの服を買うより、福ちゃんの服を買った方がいいだろうって事になったの」

「なんでや?」

「なんか、雅士君がね、色あせたTシャツに短パンで同窓会に行く兄貴を見てたら虚しくなったって言ってね、それを聞いてたら、私達も福ちゃんの服を買って貰った方がいいのかなぁって気になってきたの。あ、服だけじゃないよ、靴も買ってくれたんだよ、雅士君」

道子は、言いながら袋から色々な物を取り出し、楽しそうに俺に見せてくれた。

「いい弟だよねー」

道子は、本当に楽しそうだ。

だが…。

俺は、その間、一言も発していない。

当たり前だ。

デブと言われまくられ、その上、身内の弟に『哀れみの目』まで向けられてしまっては、

(情けない…)

俺は顔を上げる事もなく、ひたすらそう思うしかないのだ。

「きゃー、この服、絶対いいよー!」

そんな俺の前で、楽しそうに服を広げる道子は、

(一体、どういうつもりなんだろう…)

俺の心には、秋も始まったばかりなのに、冷たい木枯らしが吹き荒れていた。

 

 

○ 9月15日「みやげ」

 

朝…。

俺は、例のように、強烈な二日酔いに苛まれていた。

「はぁ、はぁ…」

項垂れて、重たく吐く息が、俺自身にも分かるほどに澱んでいる。

今日は、正午から『春・お披露目会』であった。

何をやるのかというと、近場の親族を家に集め、富夫と恵美子が、

「ほらほら、うちの初孫を見ろー!」

と、自慢する会である。

凡そ20人の親族が集まり、昼間っから酒を飲むらしい。

(うう…、もう、酒なんて見たくもない…)

俺は、重い体を引きずりながら、300坪を越えるだだっ広い庭に出、そのまま、すぐ目の前の墓地へ向かった。

福山家実家は、小さな小道を挟んで目の前に墓地があり、その墓地の脇には、

『西南戦争山鹿口・激戦の地』

と刻まれた碑が立っている。

西南戦争というと、明治10年の戦であるが、その爪痕は目の前の墓石に見事に刻まれており、それらの墓石が山鹿市指定の『史跡』と認定されているのである。

無数の弾痕が、

「これでもか!」

と、言わんばかりに墓石に残っているのである。

資料によると、凡そ、130発の弾痕が見られるそうな。

俺は、それをボンヤリと眺め、その後、トボトボと300メートルほど離れた『山鹿市博物館』へ向かった。

富夫と恵美子は、お披露目会の準備をしつつも、

「春ちゃん、どーん!」

「お父さん、ずるーい! 私も春ちゃんと遊ぶー!」

と、春とじゃれているのか、夫婦でじゃれているのか分からないが、とにかく、楽しそうにじゃれている。

義母と道子も、準備を手伝いながら、何やら、富夫・恵美子コンビと大声ではしゃいでいる様である。

(ううう…、頭が痛い…)

俺は、騒音から逃げる様に、その場を去った。

博物館では、何をするともなくブラブラし、何となく書物が読めるくらいに酔いを覚まして、それから、昨日と同様に、西南戦争の資料集めに入った。

ちなみに…。

なぜ、ここまでに、俺が西南戦争に夢中なのかというと、

(次の小説の下準備…)

ただ、それだけである。

博物館から家に戻ると、11時30分だった。

既に、10人以上も親族が集まっており、俺は、辛いながらも、引き攣った笑顔を見せ、挨拶回りをした。

「あら、お前、また太ったろー?」

会う親族、会う親族に今日もそれを言われ、また、凹んだ。

正午になると、富夫・恵美子プロデゥース『春・お披露目会』が始まった。

富夫は恵美子から、

「お父さん、何か、ひ、と、こ、と!」

と、甘く、せがまれると、

「えー、せんえつではありますが…」

など、喉を鳴らしつつ、

「こんな孫が可愛いものだとは思いませんでした」

から始め、永延と乾杯の挨拶を続けた。

俺は、二日酔いの辛い身ではあったが、20人以上に、

(永延とノロケを聞かせるわけにはいかん!)

息子としてそう思い、さすがに、

「オヤジ、もう、止めてくれ!」

と、止めるに至った。

それから、親族からビールだの、焼酎だのを飲まされた。

(もう、今日は飲めん…)

そう思ってはいたが、飲み始めると、意外に飲めた。

詳細は『春の部屋』にて、画像で見て頂きたい。

ちなみに…。

親族の間で、春が生まれた今年3月に、春を含め、3人の子が産まれている。

春から見れば、『はとこ』になるのだが、どれも寝返り、匍匐前進が出来、小顔で髪も歯も豊富にはえており、並べてみると、

(ううう…、春は本当にのんびり屋だ…)

そう思わざるを得なかった。

富夫・恵美子は、そんな並べられた3人を見、

「ああ、やっぱり春はかわいかー」

それを連呼するだけであった。

さて…。

夕方になった。

ゾロリと揃った親族は暗くなる前には帰ってしまい、前日と同じ様な人員構成になっている。

雅士も、今日は、姪もいることだし張り切ったのであろう。

「疲れた、帰る」

そう言い残し、山鹿市街地に借りているアパートへ帰って行った。

残された俺達も、しばし、横になり、休息していたが、恵美子が、

「みんなで、温泉に行こう!」

言い出した事により、即決し、すぐに動いた。

地元、熊本県山鹿市は言わずと知れた灯篭と温泉の町であり、市内の至る所に日帰り温泉場がある。

今日は、その中の一つ、高台にあり山鹿の夜景が見渡せる『眺山庭』という風呂を選んだ。

男女別の大浴場(露天風呂付き)という構成なのだが、これがなかなか泉質が良く、ヌルリとした湯の感じを味わう事が出来る。

俺と富夫は、露天風呂の端の方で一時間以上も湯船に座り込み、他愛のない会話を交わした。

俺も富夫もこの時は、後に自らの体が、とんでもない事になろうとは知る由もない。

ゆえに、普通に入浴を終え、体を流し、脱衣所に出たのだが、何だか、

(体がかゆい…)

のである。

俺は、その時、さして気にすることもなく、富夫に、

「何か、体がかゆいんばってんが…」

と、こぼし、富夫に至っては、

「俺は別に…」

など、言いながら、脱衣所の床に這う『小さな虫』を指し、

「これにやられたんじゃないや…」

と、本当に『何気ない話』で終わったのである。

が…。

脱衣所を出、外で待っていた女衆に会う頃には、

「があああ、かいー、かいーよー」

何やら、尋常じゃない、恐ろしい規模のかゆみが俺を襲ってきたのである。

「ちょっと、見せてみなよ…」

道子が俺のシャツをペロリとめくり、絶句した。

俺は、そんな道子の反応を受け、腹部を中心に、体中、全ての場所に自らの手を這わせた。

(む! むむむ…!)

体中に鳥肌が立った。

そして、たっぷりと時間を置いた後、

「何や、これ?」

思わず、吐き捨てる様にこぼしてしまった。

横では、

「俺もかゆくなってきた…」

と、富夫も体をぼりぼりとかいている。

事態は深刻であった。

腹部、背、尻、首、手、それらが岸壁の様に、凸凹と隆起しているのである。

つまり、無数の蚊が俺の体を一斉に刺した様な状況なのだが、この数が尋常でない。

本当に、怖いものが見たい方のために、その時、道子がムヒを塗りながら撮った写真をこの文章の最後に載せるが、当の本人でさえもゾッとする映像である。

恵美子は、その時、

「見ない、絶対に見ない!」

と、俺の方を向かなかったし、最も身近な嫁に至っては、

「絶対に一緒に寝ない!」

と、俺を拒絶した。

唯一、義母だけは、

「あー、見たくないけど、怖いもの見たさで見ちゃうだわさー!」

と、覆った手の隙間から何度も俺を見た。

とにかく、それくらい、『ひどい状態』となった。

何という虫か、どこを刺されてそうなったのかは分からないが、多分、露天風呂の脇に木があったので、そこにいた『なんらかの毒性をもった虫』が長居していた俺と富夫を刺したのであろうと推測される。

道子は、

「病院に行かなきゃ!」

「春ちゃんに触らないで!」

「これは、賠償問題よー!」

そう叫んだが、

「虫に刺されて、嫁も一緒に寝てくれず、娘にも家族が触らしてくれん、温泉として、これをどう責任取るんだー!」

と、温泉に怒鳴り込むのはどうかと思われたので、

「もし、翌日、ひどくなったら怒鳴り込もう」

と、いう事にし、嫁をなだめ、その夜は眠りについたのであった。

最後の画像を見たものだけには分かってもらえると思う。

「あれは、本当にひどかった…」

熊本が俺にくれた本当に『痛々しいお土産』である。

 

 

○ 9月16日「天草」

 

起きると、体中にあった無数の丘が『赤い斑点』に変わっていた。

(お…、回復へ向かってるな…)

そう思われる、『いい方向』であった。

昨晩は、結局、

「隣に寝てもいいけど、私には触れないでね!」

と、道子にキツク念を押され、

(うー、かゆい…)

俺は、もがきながらも、辛うじて布団で眠るに至っている。

さて…。

今日という日も、まさに『晴天』と呼ぶにふさわしい空模様であった。

「うおーし、天草に行くぞー!」

昨晩、俺と共に虫刺されに苦しんだ富夫が朝っぱらから張り切っている。

今日は、というと、

「天草を始め、家族みんなで熊本観光よー!」

恵美子の言葉を借りれば、そういう日程なのだ。

俺が平日・出社日よりも早い7時に目を覚ますと、俺以外は皆起きており、例の様に、

「春ー、こっち来いー」

「バブバブバブー」

春と遊んでくれている。

(毎朝、毎朝、よく飽きんなぁ…)

俺は思うと、美味いとは言えないが、懐かしい、お袋風味の味噌汁を胃に流し込んだ。

8時前になると、弟の雅士も家に現れ、

「じゃ、出発だー」

と、車二台で家を出た。

車の振り分けは、弟の車に俺と雅士、もう一台、富夫の運転する車に富夫、恵美子、道子、義母、春である。

俺たちの車は富夫運転車の後をピタリと追走していったわけだが、後ろから見るや、

「あ!」

俺は、いきなり、瞠目してしまった。

道子がいきなり胸をポロンと出し、春に乳を与えている姿が見えたのである。

(おいおい、富夫が乗ってるのにー、恥じらいを持てよー)

思うと共に、

(親父、目のやり場に困ってるだろうなぁ…)

とも思えた。

多分、富夫がもし、チラリとでもバックミラーを見ようものなら、

「お父さん! 私のを見なさい!」

恵美子の一喝が飛ぶ事は容易に想像が出来た。

とにかく、この日記の冒頭でも述べた様に、この旅行は、

「わっしょい、わっしょい、道子はおっぱい出しまくりー、おっぱい祭りだ、えいやー」

のため、今日という日も、その後、

「えい! えい!」

道子が、所構わず乳を出しまくった事は言うに及ばないだろう。

さて…。

一向は、一路、天草を目指した。

天草の入り口、天草五橋一号橋までは、山鹿から約50キロを要す。

休日なので、国道三号線は通らず、天水方面のミカン畑を抜けるコースを富夫は選んだようだ。

二台の車は、少々遠回りをし、山道を抜けていった。

冬にはミカンを毎日10個も食べる道子は、多分、

「凄いよー、ミカン山だよー、感激ー!」

と、舞い上がっている事であろう。

余談になるが、よく俺の文章に出てくる高専時代の親友・太陽は、ある日、一日で100個弱を平らげ、

「うっわー、手が真っ黄色!」

と、俺に両手を見せたものだったが、俺はその食いっぷりに、思わず、

「お前、手よりも胃を心配した方がいいんじゃ…」

真顔で言った事を、その時、思い出した。

その日の彼は、車で移動する際も、フロントの物置にミカンを10個ほど置き、信号待ちの度に、

「おう! ミカン、ミカン!」

と、皮をむき、丸ごと一個、口に投げ込んでいた。

そして、発進する時には、ミカンに気をとられたのか、頻繁にエンストしていた事を記憶している。

また、出発時には、前が壁だったにも関わらず、ギアをドライブに入れたまま、後ろを向いてバックしようとし、車は壁に思いっきり激突した。

「わいたー!」

太陽は、頭を掻き掻き、

「福山、びっくりしたろ、すまんねー」

と、ぶつけた車には一切関心を示さず、

「ちょっと、一個」

と、ミカンを頬張った。

俺は、助手席に座っていたので、そんな太陽をマジマジと眺め、

(ここまで、ミカン好きな男もいまい…)

そう思った次第だった。

ちなみに、道子は、

「日に30個が限界だよー」

との事である。

話を戻そう。

一行は、天草一号橋を渡るや、そのまま天草四郎記念館に流れ込んだ。

天草四郎と言えば、弾圧されたキリスト教徒をまとめて、乱を起こした人物である。

記念館の中には、『飛び出すシアター』があり、例の赤白眼鏡をはめるわけだが、その赤白眼鏡の『耳かけフック』が俺の耳に届かず、

(むむむ…)

思ったのだが、俺は何食わぬ顔で、手で眼鏡を押さえ、誰にも気付かれぬ様、後部座席に腰を下ろし、映像を楽しむに至った。

途中、

「春は映画館に入れんばい」

の忠告も聞かず、恵美子が、

「大丈夫よー、かわいいからー」

と、シアターに春を入れるも、5分もすれば、

「フンギャー!」

泣き出し、恵美子がイソイソと後ろから退場する事になった。

俺と道子は重々知っていたから言ったのだ。

春が、孤独と暗闇に弱い事を…。

さて…。

この館の最上階には、『瞑想の部屋』なるものがあった。

説明書きには、

『ソファーに横になり、目を閉じてください。癒しの音楽と、南蛮流れのお香が貴方をリフレッシュさせてくれるはずです』

そう書いてある。

(なるほど…)

俺は、思い、そのまま、ソファーに腰を下ろした。

ゆっくりと目を瞑り、意識を音楽に集中する。

音楽は、何やら、小鳥のさえずりや谷のせせらぎの中、ピアノの緩やかな音が流れている。

お香も、『毎日香』とは違う、なにやら、トローンとした香りである。

「ふぅ…」

俺は、雑多な日常から離れ、一時のリラクゼーションに陥るつもりであった。

が…。

癒しの音楽に混じって、なんだか、聞きなれた『雑音』が耳に届くのである。

「ギャハハハ」

聞き覚えのある笑い声だった。

(なんだ?)

思った瞬間、ハッとした。

(義母の笑い声だ!)

その後、恵美子の、

「春ちゃーん、春ちゃーん、バー」

が続く。

周りを見ると、横で瞑想に耽っている二人組の女子大生らしいギャル達が、

(もう! 癒しの音楽に集中できない!)

と、言わんばかりに、何度も何度も頭を振って、もがいている。

(ああ、この雑音が身内の声だなんて、絶対に言えない…)

俺は、たっぷりと冷や汗をかきながら、眉間に皺を寄せた二人組にペコリと会釈をすると、雑音の元へダッシュした。

そこは一階だった。

『瞑想の部屋』は三階、つまりは、それくらいのボリュームで義母と恵美子の二人組は馬鹿話に花を咲かせていたものとみえる。

「おい、母ちゃん、瞑想の部屋に声が丸聞こえばい!」

俺が恵美子に言うと、

「嘘?」

恵美子は、両手で口を押さえ、義母を見、

「あいたー!」

そう言った。

義母は、ドシリと直立不動であった。

その後…。

一向は、天草の海が見渡せる高台のレストランで、名物の車海老を2尾用いた『車海老丼』なるものを食し、これも有名な『天草真珠』のメッカである『パールセンター』へ赴いた。

道子は、ここで、真珠には興味を示さず、

「うっわー、これ、おいしそー!」

「あれも、おいしそー!」

まさに、『花より団子』であった。

富夫、恵美子に至っては、その後に行く土産屋も含め、

「春ちゃんに、この人形買ってやろうか」

言いながら、50センチ大のイルカ人形を抱える始末で、

「どうやって、これを埼玉に持って帰るとー?」

俺の問いにも、

「手で」

と、答えてくれた。

こちらは、まさに、『孫しか見えず』の風向きであった。

帰りに、宮本武蔵が『五輪の書』を書いたといわれる『霊岩洞』へ寄り、そこは急な坂を何度も駆け上がらねばならないのだが、富夫が健脚ぶりを見せてくれ、春を抱き続けていてくれた。

(さすが、マラソン狂い…)

春を抱き抱き、誰よりも早く、ズンズンと坂を駆け上がっていく親父を見、俺はそう思うのであった。

その夜も…。

富夫と恵美子は、前日と同じ様に、春を風呂に入れ、そのまま、三人で眠りについた。

居間を去っていく恵美子は、春を抱えながら、

「春ちゃーん、最後の夜だねぇー」

寂しげに言った。

そう…。

明日の早朝には、俺達は熊本を発つのであった。

 

 

○ 9月17日「別れ」

 

この日…。

俺は7時に起きるや、富夫と共に、『腹切坂』へ出かけた。

腹切坂とは、山鹿と三加和町の境にある、旧・豊前街道の急坂であり、西南戦争激戦地の一つである。

もろに地元ではあったが、山の奥深くにあり、

「俺、今まで行った事ない」

富夫にもらすと、

「なんだとー、よし、連れて行ってやる!」

そう話が流れ、8時30分には家を出、空港に向かわねばならない身でありながらも、富夫と軽トラで腹切坂へ向かった。

富夫曰く、

「腹切坂の上り口には、親友が住んでてな、よく、坂の土手を掘って鉛の鉄砲玉を見つけに行ったものだ」

らしく、よほどの『行きなれた場所』であるらしい。

「その鉄砲玉を集めて、なんすっと?」

俺のその問いかけには、

「え…」

と、困った挙句、

「男の勲章さ…」

斜に構え、そう答えてくれた。

とにかく、男二人、人っ子一人いない山の奥深くへ進み、

「はぁー、ここが、腹切坂…」

など言いながら、しばし、そこに佇んだ。

木々が鬱蒼と生い茂っており、朝なのに薄っすらと暗く、足元はじっとりとした土を枯葉が覆っている。

坂のレベルとしては、富夫が、

「もの凄い坂道…」

と、言っていたし、調べると、参勤交代でここを通る者達も、

「最も険しい、難所…」

と、称した様に、結構な傾斜であった。

さて…。

富夫と仲良くデートから戻ると、時計は8時15分を指しており、富夫からすれば、春と別れ前15分であった。

女衆は、「あれ持った?」「これ持った?」と、帰りの準備に忙しい様である。

富夫は、そんな中、春を抱えると、ご自慢の300坪の庭をゆっくりと回り始めた。

何やら春に言っているようではあるが、何を言っているのかは分からない。

寝起きと変わらぬ、ランニングに短パン、『たま』のドラムの様な格好であった。

女衆の準備が終わると、

「それじゃ、福ちゃん、行くよー」

道子が言い、富夫は春との別れの瞬間を迎えた。

恵美子は、俺達を空港まで送っていく立場なのに、

「駄目、駄目よー、あんたが運転しなさい!」

と、富夫から春をもぎ取ると、後部座席で春を抱いて鎮座し、車のキーは俺に渡された。

「最後まで抱かせなさい!」

と、いう事らしい…。

車が出る時、富夫はゆっくりと、

「春、またなぁ…」

そう言った。

俺も道子も義母は、

「お邪魔しましたぁー」

なぞ、言いながら、手を振った。

その脇で、恵美子は、春の手を富夫へ向けて振りながら、

「うぃー」

しょんぼりしているのであった。

空港までの道々、恵美子は極めて明るかった。

義母も道子も、明るく、春を中心に盛り上がっていたし、

(お通夜みたいな車中になったらどうしよう…)

という、俺の懸念も『いらぬ思い』で終わった様である。

空港に着くと、道子は、

「ちゃんと、駐車場に車停めて、義母さん(恵美子)に手荷物検査場まで来てもらおうよー」

そう言ったが、俺は頑として、これを認めなかった。

そんな事をしたら、どうなるかは、何となく、

(想像が出来る…)

からだ。

俺は、車を空港前の道路に停めると、

「母ちゃん、ここで帰った方がよかろ」

そう言い、恵美子は、

「ううう…、うん」

と、薄っすら水っぽくなりながら頷いた。

丁度、富夫から電話があり、

「お母さんが、店の鍵を持ってっとるけんが、店を開けられん、はよ、帰って来てくれー」

とも言われたため、恵美子は、

「じゃあ…」

それだけをしょんぼり残して、ブーンと、後ろも振り向かず去っていった。

道子が、

「あっけなかったね」

そう言ったが、

「知らんばい…」

俺はそれだけを返した。

午前10時…。

飛行機は、順調に熊本空港を飛び出し、春は、

「こんなの初めて!」

と、いう程に、泣き喚いた。

「行きはこんなに泣かんかったとこれー!」

俺は耳を塞ぎながら、思わず、そう言ったが、それが、熊本のジジ・ババとの別れの辛さから来るものかどうかは分からない。

ただ、義母は、

「春ちゃんは、単に、耳が痛いんだわさー!」

と、その分析をしていた。

羽田空港に着くと、義母は迷子になった。

道子は授乳室で春におっぱいをやり、俺は荷物番をし、義母は、

「ちょっと、その辺に行ってくるだわさ」

そう言い残し、出て行ったのであるが、結構な時間が経っても戻ってこない。

しまいには、俺の携帯に電話があり、

「迷っただわさ!」

元気にそう言われてしまった。

社宅に帰りついたのは、午後3時くらいだった。

義母とは、途中、山手線は秋葉原で別れた。

帰るや、道子が富夫と恵美子に、

「着きました」

の連絡をした。

道子曰く、

「二人とも、とっても元気だったよー」

らしい。

俺達が去ってからの凡そ5時間、この二人がどういった時を過ごしたのか、それは分からないが、何となく、

「元気だったよー」

その二人共通の振る舞いが分かる気がした。

ところで…。

ふと、

「義母さんは帰り着けたや?」

俺は少し前に別れた義母が気にかかり、道子に問うた。

道子は、すぐさま、春日部に電話をかけた。

話中であった。

その後、何度かけても話中である。

(おかしいなぁ…)

思っていると、当の義母から電話があった。

「もう、まいっただわさ!」

話はそれから始まった。

「帰ったら、電話が壊れてて、今、NTTに電話しただわさ! もう、どうにもこうにも、まいっただわさー!」

との事であり、

(最後まで、義母は慌しかったなぁ…)

俺と道子、二人で顔を合わせ、思うに至った。

その夜…。

久しぶりの社宅で、俺は泥の様に眠る、かと思われた。

だが…。

春がそれを許さなかった。

泣いて、泣いて、泣き尽くしてくれた。

それは、思春期に中島みゆきの歌を聞きながら泣き咽ぶ『失恋女』の様であった。

一つ時を置いては泣き、また、時を置いては泣いた。

絶えず抱かれる事に慣れてしまった春は、

「抱いてくれないと、泣いちゃうぞー」

の、ワガママ娘になってしまったのである。

「フンギャー!」

日を跨いでも泣き続ける春に、

「あああ、うるさいぞ、春ー!」

叫びつつ、俺も道子も、

「お前が抱けよー」

「やだよー、福ちゃんが抱いてよー」

「俺は明日、仕事ぞー」

「適当に仕事してるじゃーん」

「うるしゃー、抱けー!」

喧嘩するに至っている。

だが、この時の二人は知らない。

これから先、『三日間もこの状態が続く』、という事を…。

また、これに対し、ジジとババ2人も、

『春・溺愛』という荒技を5日も駆使した事が、福山家に多大なる影響を与えている、という事を知らない。

社宅は、熊本と違い、初冬の冷え込みに溢れているのであった。

 

 

 

オマケ:悲喜爛々16「ジジとババ」に関連する写真 

hiki16-1.jpg (29851 バイト)

9月17日、早朝に向かった『腹切坂』、案内無しでは行くのに困難するだろう

 

 

 

(注) これから先は、心臓の悪い方は見ないで下さい。

 

 

 

hiki16-2.jpg (26124 バイト)

9月15日、温泉で虫にやられる(やられた一時間後、撮影は道子)

 

hiki16-4.jpg (22807 バイト)

尻の惨状。 他にも足の付け根辺りが凄かったが、更にエグいので載せない

 

hiki16-3.jpg (15957 バイト)

一晩経ち、朝の状態。 腫れが引き、一安心