悲喜爛々21「台湾へゆく」

 

 

1、道子の決断

 

2月17日…。

いつもの様に、軽い気持ちで仕事をしていると、ほとんど鳴らない携帯電話が俺を呼んだ。

道子であった。

聞けば、

「産婦人科に行ったら『切迫流産の危険性があるから安静にしてなさい』って言われた…」

と、言う。

俺は、仕事中ではあったが、すぐに検索サイトにアクセスし、

『切迫流産』

その言葉を調べた。

「危険性がある」という生ぬるい段階とはいえ、『流産』と名が付く診断を嫁が受けたのである。

(ただ事ではない…)

俺は、嫌な汗をどっぷりとかきながらパソコンと向き合った。

向かい合いながら、

(あの道子が…、まさか…?)

その思いが止まらない。

道子といえば、1人目の春を超安産に産み放った事は有名である。

一寸たりともツワリがなく、なんと言っても分娩室に入って6分5秒で産んだ実績をもつ、類稀に見ぬ丈夫な女である。

ラマーズ法の「ひっひっふー」の呼吸をやろうとした道子は、「ひっひ」の時点で「ポンッ」という違和感を感じ、それを中断した。

すると…。

「あれまぁ、産まれてる!」

だったという。

その話を聞き、俺は、

(我が嫁ながら凄まじい…)

本気でそう思ったものだ。

が…、今、その道子が切迫流産の危機を迎えている。

更に、パソコンが返してきた切迫流産の説明書きは大変な事を告げている。

「動かずに絶対安静にしているか、もしくは入院しなさい!」

簡単に言うと、そういう感じだ。

(こういう時期に大変な事になった…)

俺は、道子の体を心配しなければならないのだが、どうしても今週末の旅行の件が先にチラついた。

週末は、家族で台湾旅行の予定だったのである。

それも、道子が、

「どうしても行きたいよー!」

と、駄々をこね、ついには俺が折れる事で決定した旅行だった。

この前日には、これが初海外となる俺と春のパスポートを取りに、家族で川越に赴き、全ての準備が整っている。

(さて、道子は何と言うか…)

道子が暴れるくらいに悔しがっている事は、

(聞かずとも分かりきった事…)

なのであった。

さて…。

その日も定時で会社をあがると、予想通り道子が浮かない顔で、

「どうしよー、福ちゃんー!」

と、暴れている。

(どうしようもへったくれもないだろ、行けるわけがない…)

俺は、そう思いながらも、相手が病人なので、

「うーん、本当に大変だ…」

と、困った顔を見せた。

詳細を聞くと、産婦人科は、

「二週間は安静にしていなさい」

そう言ったらしい。

が…、医者が「安静」と言っているにも関わらず、道子は、

「今週末、旅行に行ったら駄目ですか?」

そう聞いたという。

その時の医者の顔が目に浮かぶ。

医者は、小さな笑いを見せながら、

「おすすめしません…」

と、返したそうであるが、あからさまに困った顔を見せていた事だろう。

それから道子は「旅行に行けない」という仮定の元に、諸々の尋ね事を済ませている。

まず、旅行会社に連絡し、台湾行きチケットを今からキャンセルしたら幾らかかるか、チケットの名義変更が出来るか、それらを確認した。

チケットは片道3万5千円の格安航空券で、今、キャンセルをしても2万円がとられるらしく、翌日になれば3万円に跳ね上がるらしい。

また、名義の変更というのも不可という事である。

選択は四通りしかない。

診断を無視して家族で行くか、俺と春だけが行くか、俺だけが行くか、行かないか…。

「キャンセルするなら、今やらないと駄目だよー!」

道子は、頭を抱えながら、チラリ、時計を見た。

7時まで回答をせねばならないらしく、後1時間半しかない。

「あー、どうしよー?」

道子は俺に決断を求めているが、俺はあえて何も言わない。

「行くな」と道子に言う事は簡単ではあるが、それを言うと、後々、

「福ちゃんに、強制的に止められたんだよー!」

多方面に、道子がそう言いまくる事が容易に想像ができるからだ。

よって、

「お前に任せる…」

俺は、落ち着き払った姿勢を保ちつつ、道子に決断を求めた。

何度も言うが、結論は分かっている事なのだ。

が…。

時を追う毎に、何やら、道子の目に、闘志にも似た熱い輝きが宿り始めたではないか。

俺が止めなかった…、この事が、道子の中で、

(そうだ…、子供は私が生きていればつくれる。 でも、今週末の台湾は、今週末にしかやってこない! そうだわ、福ちゃんも賛成してくれているし!)

と、違った方向に曲がりくねり、その『妙なやる気』が形となって道子の面上に現れたのである。

「行く! 福ちゃん、私、台湾に行く!」

ついには、声高らかに、そう言い切った。

(うそ…?)

俺からしてみれば、道子という不思議生物の思考を量りかねた結果といえる。

(行くかよ、普通ー!)

俺は、表には出さないものの、内では非常に悶えた。

(勘弁してくれよー!)

そう叫んだ。

が、道子はノリノリで、

「行くと決めたからには、万全の準備を期さなきゃ。金曜日まで絶対安静にして、空港でも向こうでも、重いものや春ちゃんは福ちゃんに持ってもらう。あ、そうだ、旅行会社に電話して、行く事に決めましたって言わなきゃ!」

一気に喋ると受話器を取り、

「はい、行く事に決めました。…、大丈夫ですよー、えっ、本当に! そちらで配慮してもらえるんですか! ありがたーい!」

そういった会話を終えて受話器を置くと、

「私、これから何もしないから!」

自信満々に言い放ち、前の日記『大人の遊び』で書いた、社宅隣の山本家と、会社先輩・柴山氏に料理を持ってきてもらうという事態に突入するのである。

そういった流れで…。

俺は道子に決断を任せ、道子は、

「絶対に行く!」

と、いう、最も愚かな決断をとった。

思えば道子は、妊婦でありながら、前回の順調ぶりに甘んじ、毎週一回のバトミントンを欠かさずやり、食事も妊婦が避けるべきものを狙っているかのように食らい、9キロもある春という重石を抱きながら、普通に生活していた。

同時に、旦那である俺にも非があった事を認めざるを得ない。

「道子なら絶対に大丈夫ー!」

その思いが基本にあり、道子が妊婦という事を言われて思い出した節もある。

今回の決断だってそうだ。

(道子に任せるなんて言ったら、あいつの性格だ、行くって言うに決まっとるだろがー!)

自分自身を叱咤した。

が…、そう決まったのであれば、道子が言うように、万全の体制をとらねばならない。

「道子!」

「はいよ!」

「まず、熊本(俺の実家)にも春日部(道子の実家)にも、この事を言うな! 言うと、台湾には行けんぞ、止められる!」

「はいっ!」

「それと、台湾の川原さんに電話だ! 事情を説明し、道子向きのプランになるよう配慮してもらうぞ!」

「分かったわ!」

道子は、すぐさま台湾に電話をかけ、

「切迫流産の危機だけど…、行きます!」

事態を伝え、向こうでの対応をお願いすると、

「燃えてきたわー!」

と、俺の手を握った。

(今週だけは、道子に家事をさせるわけにはいかん! 万全に万全を期すぞ!)

俺も、何となく力が入った。

が…。

その日の俺…、夜の10時30分に先輩と社宅を出て行くや、午前様の3時まで酒を飲む事になり、その帰宅時間は午前3時30分であった。

「もぉー、その日に3時過ぎまで飲む旦那ってどうなのぉー!」

その日の愚行に道子はチクリと釘を刺し、さすがの俺も、

「すまん…」

深々と謝った。

とにかく…。

道子は、燃えている。

 

 

 

2、土壇場の反転

 

道子から、

「絶対に行きます!」

その報を受けた旅行会社は、実に懇切丁寧に対応してくれ、

「一番前の広い席に座れるよう手配しておきました」

そう言ってくれた。

台湾で、福山家を待ってくれている川原家は、練りに練ってくれたプランニングを白紙に戻し、再度、危機的状態の道子でも行けるものを練り直してくれるという。

準備は、道子の言葉通り、「万端」に近付いていた。

道子が切迫流産の危機という事態に突入したのは月曜日の夕刻である。

出発は金曜。

つまり、火、水、木、その三日間で、道子のコンディションを皆の気持ちに応えるべく、最高のものにもっていかなければならない。

極力、体を動かさぬよう、布団を引きっ放しにし、皿洗いも、あろう事か俺がやった。

聞けば、

「血も出ないし、体調もいいよぉー」

だそうな。

(よし、行けそうだぞ…)

その思いで、俺は、出発前日となる木曜朝を迎えた。

その日…。

俺は、ちょっと早めの7時半に目が覚めた。

目覚めると道子は新聞(チラシ)を読んでおり、「こんな早くにどうしたのか?」と聞けば、

「寝すぎて眠れない」

と、言う。

当たり前であろう。

昼は安静にするために寝、夜も早めに寝ているのである。

道子は、その冴えた体をテキパキと動かし、簡単な朝食を用意すると、

「福ちゃん…」

不意に俺の名を呼び、ス…と、姿勢を改めた。

俺は、飯を食いながら、道子に目線を移し、

「何や?」

道子の発する言葉に耳を傾けた。

道子は、しばし黙っていたが、俺が、

「言いたい事があるなら、はっきり言えよー!」

口にものを咥えながら、そう言おうとした刹那、カッと目を見開き、強い語調でこう言い放った。

「やっぱり、私、台湾に行かないから!」

口元は一文字に結ばれおり、そこに、何やら強い決意が現れている。

(何を言っているんだ、こいつは?)

俺は、道子のその言葉をうまく飲み込めず、大きめの顔をちょっぴりひねったのだが、その後、道子の口上が永延と続くにつれ、完璧に理解するに至った。

「よくよく考えるとね、やっぱり台湾はマズイと思うんだ。近い海外といっても、やっぱり遠いよ。たまに何となく腹が痛くなる時もあるし、もし、川原さんの所で流産したら、向こうも迷惑だよね。そういう事で、色々考えた末、行かない事にしたの…」

俺は、道子の熱意ある弁に、

(それは、分かりきっていた事だろ…、今頃、気付くなよ…)

つい、怒りを面上に露呈しつつ、そう思ったが、

(しかし、道子は病人の身だ、抑えとけ、抑えとけ…)

と、自らをなだめ、

「お前…、忙しく動いてくれた川原さんや旅行会社の気持ちを少しは考えろよぉ…」

吐き捨てる様に言った。

もちろん、底には、

(あの日あの時に行くと言ったお前が馬鹿だし、それを止めなかった俺も馬鹿、ああ、なんと俺達は馬鹿夫婦なんだ…)

その後悔の念が波打っている。

道子は、俺の弱い一喝を受けると、何度も何度も頷き始めた。

「そうだよ、申し訳ない事をしたね。今日にでも電話して謝るよ…」

沈んだ声で言うと、

「でも、ほとんど金が戻ってこないのは痛いね…」

と、続け、それから俺の顔を窺い、

「福ちゃん…、春ちゃんと二人で行ってきなよ…」

そう言った。

俺は、これが何度目となるだろうか、もう名物となった感さえある『道子の心変わり』に、

(またか…)

深い溜息と共に項垂れ、

(確かに、今キャンセルしても大損だな…)

そう思った。

「じゃ、今から義母さんに電話して、週末、道子を看病しに来てくれるなら俺と春で行こう。駄目なら、もったいないが全員キャンセルだ」

俺は、そう結論を出すと、すぐに受話器をとった。

義母は、すぐに出た。

「なんだわさ?」

言う義母に、俺は前述の流れを懇々と語り、

「来れますか?」

と、問うた。

「来れるも来れないもないだわさ。娘のためだから行くだわよー」

義母は出雲弁丸出しで快諾してくれ、これにより、急遽、俺と春だけの台湾行きが決まったのである。

ちなみに…。

台湾で俺達を待つ川原氏に、この旨、報告したところ、

「あの道子の事だ。そうなるだろうとは思っていたよ…」

と、旦那の俺よりも鋭い洞察を見せ付けられ、心底、恐縮するに至ったのである。

道子は、

「もー! とことん悔しいよー!」

地団太を踏みながら、

「でも、台湾のせいで子供が流れたら泣くに泣けないもんね」

と、気性の波に翻弄されているようであった。

大柄の病躯は、とめどなく震えている。

 

 

3、一歩目

 

出発当日、正午…。

俺は、所沢発成田空港行きのバスに乗り込んだ。

一人である。

春と二人旅のはずであったが、義母からの反対、知り合いからの反対、とにかく、多方面から一斉に、

「娘を連れて行くのは止めた方がいい!」

そう言われたため、このような事態となっている。

会社の連中に至っては、

「オムツも換えた事がない夫の分際で、海外に赤子を連れて行こうという考えが片腹痛い!」

ハートにズンと突き刺さる、重い一言を言い渡された。

そういう事で、春と道子は義母に任せ、俺一人で台湾へ行く事になった。

所沢から成田まで、その道程は二時間半を要す。

俺は、『復讐四十七士』という、柴田錬三郎の最期の作品となる小説を読みながら、その時を過ごした。

成田に着いたのは、2時半である。

バスに乗っていると、空港入り口でバスが止まり、警備員が車内に乗り込んできた。

「パスポートを見せてください」

と、言う。

(ほぉ…、空港入り口から異国へ行く臭いがプンプンとしますのぉ…)

俺は感心しながら、その事をそつなく終え、成田空港へ入った。

空港内は異常なほどに警備員が多く、そのどれもこれもが見るからに暇そうであった。

「成田空港は空港使用料が異常に高い」

そう聞いた事がある。

(これなら高いはずだ…)

しみじみ、そう思った。

さて…。

中は、巨大な要塞としか言いようがない。

電光掲示板があちらこちらに点在し、何やらハイテクな臭いがプンプンする。

カウンターが馬鹿みたいに並び、それぞれに番号がふってある。

前述のように、俺は、今日が初海外となる素人である。

まずは、旅行会社から配布された集合場所等が書かれた紙を取り出すと、集合場所を確認した。

(よしよし…、あそこだな…)

それから、親切そうなお姉様を捕まえ、旅行会社配布の紙を見せ、

「この紙で言っているのは、あそこに、この時間に集合すれば良いんですね?」

と、念のために確認した。

姉さんは、綺麗な人だけに、最高の笑顔で、

「そうですよ」

と、にこやかに返してくれた。

とりあえず素人ゆえに、何事も確認作業を怠らないようにしなければならない。

確認を終えて、場を離れた。

集合時間は、4時半である。

丸二時間は時間がある、という事になる。

(空港を回ろう…)

俺はそう思うと、ぶらり、その足をショッピングエリアへ向けた。

と…。

日本の土産物を売っている処に、売り物のチョンマゲと刀を装備し、何やら怪しげな動きをしている白人の青年を見つけた。

「チェストー!」

叫びながら、売り物の刀を振り下ろしている。

(ほー!)

俺は、その白人の博識さに驚き、思わず背後から忍び寄ってしまった。

「チェストー!」という掛け声は、薩摩示現流の声で、振り下ろし方も、先々週、鹿児島で学んだそれと同じだったからである。

俺は、土産物を探すフリをしながら白人の動向に注目した。

白人は、手に持った刀を凝視すると、

「うーん、反りがイマイチ…」

流暢な日本語で、実にマニアックなコメントを吐くと、次に、新撰組の羽織を試着し始めた。

店員が白人に気付き、小走りに駆け寄ってきた。

「それは、新撰組の着物です」

説明し、購入を薦めるべく白人にまとわり付いたが、その店員に対し、白人は首を横に振った。

「違う、これは新撰組のものじゃない。このタスキのところの色が違う」

恐れ入ったものである。

この白人、日本にどれだけいたのか定かではないが、日本史が好きで、猛烈に勉強したのであろう。

知識が半端でない。

時間潰しに、俺は彼の近くを離れなかった。

『必勝』という定番のハチマキを見て、

「本当の必勝ハチマキは字体がこれと違うし、生地も違う」

そう呟いたり、焼酎を買う時に、

「鹿児島では黒麹系が流行っていた。黒麹系はないのか?」

と、店員に尋ねたり、忠臣蔵47士の暖簾か何かを見て、

「堀部安兵衛はどれだ?」

と、探したりしているのである。

非常なる日本通だと認めざるを得ない。

さて…。

よそ見をした瞬間に白人を見失った俺は、それから、空港内を一人で歩き回った。

滑走路を見渡せる展望台で読書をしたり、先ほどのように、気になった人物がいたら後をつけたりして時間を潰した。

で、集合時間5分前には、指定のカウンターに並んだ。

航空券を貰い、手荷物検査場を通った。

ここで触れておくが、俺の手荷物は一つしかない。

それも、道子が日頃、肩から斜め掛けしている小さなバック一つである。

中身は、トランクスが二枚とTシャツ二枚、それに文庫本が二冊。

十分過ぎるバックであった。

道子は、このバックで出て行く俺へ、

「海外旅行を馬鹿にしてるよー!」

と、罵ったものであったが、俺の旅行に対する基本姿勢は、

「手ぶらにより近く!」

これである。

現に、九州で結婚式がある時などは、予めスーツを装備し、正真正銘、手ぶらである。

そういう事で、皆が皆、重々しいバックを抱えているのに対し、俺は極めて身軽であった。

手荷物検査場では、若いギャルが、

「これだけですか?」

そう聞き、

「はい」

と、返すと、

「凄いですね…」

そう言ってくれ、何となく鼻が高かった。

さて…。

話が少々逸れてしまったが、手荷物検査場より先に見えるのは、初体験の『出国審査場』である。

(おお…、俺は日本を出るのだ…)

審査場のゲートを見た瞬間、その思いが流れ、感慨深いものがあった。

すぐにポケットからデジカメを取り出し、記念すべき初ゲートを撮り、審査カウンターへ突入した。

審査員は、パスポートの写真と俺を何度も見比べると、訝しげな表情を見せた。

パスポートの写真は、眼鏡をはめていない。

ゆえに、俺は眼鏡をはずし、

「ほら、本物ですよ」

親切に言ったものだったが、なぜか、

「ぷっ…、はいはい、いいですよ…」

と、審査員に笑われてしまった。

実に腹立つ事であるが、

(なぜ、笑われたのか?)

その要因が、未だに不明である。

さて…。

これら全ての出発前作業が終わると、時は、午後5時を少し回っていた。

飛行機が出る時間は7時、まだ、丸々二時間ある。

(はぁ…、また時間を潰さんといかん…)

俺は、初めて見る免税店の写真を撮ったり、試飲の高級酒を何杯もおかわりしたり、英国風バーで外人を眺めたりと、無為に、その時を過ごした。

が…、行き着く先は、またもや読書であった。

家を出たのが午前11時、約6時間強が経過していた。

さすがに、それだけ時間があれば、前述の『復讐四十七士』、その一冊目を読み終わろうとしていた。

この本、題名から容易に想像ができると思われるが、忠臣蔵の話である。

二冊組で、丁度、海外旅行に良い文量だろうと思って古本屋で購入したものであり、確かに予想通り、飛行機が飛び立つ前に一冊目を読み終わった。

が…、読み終わり、二冊目に入った瞬間に唖然とした。

「柴田錬三郎、最期の作品」

と、いう事は知っていたが、その脇に「話の途中で作者が永眠」と書かれているのだ。

(嘘?)

そう思い、小見出しを追っていくと、赤穂浪士が関東に集まり、

「さぁ、今から吉良邸へ討ち入りだ!」

そういうところで終わっているのである。

(クライマックス直前で切れとるじゃにゃー!)

このまま読み続ければ、盛り上がったところでブツリと切れる事になる。

大きな落胆と共に、俺は、読む事を止めた。

止めて、柔道部っぽい男衆、多分、卒業旅行だと思われる大学生がいたので、それに話し掛けて時間を潰した。

ステキな成田空港の一角に、豪快な体育会系のシモネタ話が花咲いた。

そして…。

待ち侘びた7時が、やっとこさ訪れた。

航空機はユナイティッド・エアライン、アメリカの会社である。

乗り込み、エコノミーの狭いシートに腰を沈めると、

「はぁ、やっと行ける…」

思わず、安堵の声がもれた。

家を出てから、たっぷり8時間が経過している。

飛行機は順調に飛び、ベルトサインが消えるや、添乗員が機内食を持って回り始めた。

初機内食であり、遠くの人を見ていると、ビールも飲めるようである。

「おおっ! すっげー!」

俺は、少年のようにはしゃぎ、自分の番を待った。

が…。

添乗員が近付くと、その楽しげな顔は、不安の色に変わった。

皆、その会話が英語なのである。

自信がないどころの話ではない。

『ジャパン』のつづりですら間違える程なのである。

(どうしよー?)

と、不安一杯のところに、英語しか話せない添乗員が来た。

添乗員は、スピーディーな英語で俺に何かを問うている。

「すろーりー、すろーりー」

俺は、それを連発すると、やっとこさ『チキン』という単語を聞き取る事に成功した。

「いえーい、ちきん、ちきん!」

俺は、『外国的』の最もたる仕草である『大袈裟』だけは見事に取り入れ、豪快な手振りで、

「チキン丼をくれ!」

と、説明した。

が…、なぜか、俺に手渡されたのは牛丼であった。

(くぅ…、伝わってない…)

俺は、地団太を踏んだが、その歯痒い思いを伝える術を持ち合わせておらず、次の、

「ドリンク?」

と、いう質問に集中した。

さあ、俺の8年間に渡る英語学習の集大成を見せる『その時』である。

俺は、舌を思いっきり巻き、

「びぃあぁぅ、ぷりーず」

つまり、ビールをくれと言った。

添乗員に通じたようである。

「オーケー、オーケー」

そう言ってくれ、その言葉の後に、よく分からない早口で、パラリラと喋られた。

OKと言われたからには、すぐにビールが出るものと思いきや、添乗員は更に何かを尋ね、俺の顔をマジマジと眺めている。

(な、な、なんだよー!)

俺が焦っていると、添乗員も俺が分かってない事に気付いたらしく、ゆっくり、指を折りながら、

「バドワイザー、☆△□○、☆△?○、☆?□○」

そう言いだした。

(ああ、銘柄の事を聞いてるんだ)

理解したが、バドワイザーしか聞き取れなかった。

俺に、薄味のバドワイザーを飲む気は、さらさらない。

「国産はないの? 国産は?」

一生懸命、日本語で問うた。

だが、添乗員はその問い掛けが理解出来ない。

結局、

「ええい、もう、いいや! バドワイザーを頂戴、プリーズ!」

言い放ち、お口に合わないバドワイザーを飲む羽目になった。

ちなみに、俺の隣は、実に流暢な英語を話す台湾人であった。

スラスラスラリ…、添乗員と会話を交わし、そやつのテーブルには、チキン丼とキリン一番絞りが置かれた。

(くっそー! なぜゆえに俺は、キリンも聞き取れなかったんだー!)

心底悶え、

(もう、言葉が通じないところには行きたくないよー!)

と、さえ思った。

台湾では、中国語ペラペラの川原さんが待っていてくれている。

が…、合流するまでは俺一人、それを思うと心細く、出来るものなら、

(今から駅前留学したい…)

そう思えるのであった。

(俺の8年間の英語学習は何だったのか?)

それを痛々しく感じたし、暇だからといって、横は台湾人、添乗員はアメリカ人、話す相手はいない。

更に、そういう時のために用意した本も読むに値しない。

俺は、八方塞で後3時間もフライトを続ける事になるのである。

飛行機は…。

限りなく密室で、逃げ場はどこにもない…。

 

 

4、焦燥

 

着陸態勢に入る直前、日本語の機内放送が流れた。

「一時間ほど早く、台北国際空港に到着する予定です」

と、いう内容であった。

俺にとって、この苦痛な時間が少しでも縮まるとなれば、これ以上ない朗報であり、

(最高です…)

と、喜びに震えた。

飛行機は、手元の時計で午後10時に台北国際空港の滑走路を踏んだ。

現地時間では、1時間遅れて午後9時となる。

川原さんとは、10時半に待ち合わせしていた。

(一時間半もある。のんびりでいいな…)

俺は、忙しい周りとは対照的に、ゆっくりと歩き、入国審査の列に並んだ。

並んでいると、成田で雑談を交わした柔道部の連中が、

「福山さん、ちわっす!」

場に響き渡る馬鹿でかい声で挨拶をしてきた。

俺の並んでいる列は、中国系以外が並ぶ列である。

白人、黒人など、黄色人種以外も大量に並んでおり、そのカラフルな群集が柔道部の声に反応し、こちらを一斉に見た。

柔道部の連中に悪びれる様子はない。

視線を受けたまま話し始めた。

「成田で聞いたダッコちゃんパブの話、最高でしたよ! また聞かせてください!」

声量だけでなく、内容も、実に容赦がない。

俺は目線を合わせず、

「ん、あぁ…」

と、返すと、パスポートを手元に出して前進した。

柔道部は、男7人の集団である。

俺は、彼らが別の列に並ぶ事を祈ったが、案の定、俺の後ろに付いた。

真後ろではなく、白人4人を介して柔道部である。

柔道部は、白人越しに、

「うおー! 異人がいっぱいですねー、福山さん!」

「どこに泊まるんですか? 福山さん!」

「台北の夜は熱いんですかね? 福山さん!」

と、叫んでいる。

俺は、それに小声で細々と返してはいるものの、内では、

(大変な連中に関わった…)

その思いが止まらないのであった。

さて…。

入国審査であるが、初海外の俺は、当然、出国審査と同じようにパスポートだけを出せば良いと思っていた。

が…、フィリピン顔の審査員は、

「パスポト、ダケジャ、ダメデスネー」

片言の日本語でそう言う。

そして、何やら小さな紙を俺に手渡し、

「コレヲカイテ、ヤリナオシ」

と、俺を追い払った。

(入国する時は、そんな紙を添えなければならんのか…)

思いながら、

(皆は紙をどこで仕入れたのか?)

それが疑問でしょうがなかった。

後方の柔道部は、俺が入国審査ではねられたものだから、

(なんだ?)

そう思ったのであろう。

「福山さーん、どうしたんですかー?」

例の如く叫び、

「この紙を添えて出さんといかんらしい」

俺が貰った紙をチラチラと振ると、7人の柔道部は一斉に、

「うそー? そんな紙がいるんかい、まいったなぁ、並び直しだ!」

それぞれが吐き捨てる様に言って、

「撤収!」

その声を皮切りに、列から外へ飛び出した。

周りから見ると、俺の後ろをガタイ最高の男達がゾロゾロと付いて回っており、

(こいつ…、ヤクザ者の若頭か何かか?)

そういった感じであったのだろうか。

衆の目が、堪らなく冷ややかだった事が忘れられない。

さて…。

無事に出国を完了した俺は、手荷物もない事なのでスムーズに外に出、颯爽と出迎えの人ごみに紛れた。

荷物を山のように抱えた柔道部連中を撒いたのである。

それから、比較的、人の少ない離れたベンチに腰掛け、

「ふぅ…」

と、一息ついた。

とにかく、疲れた。

会話がままならない事による、精神的疲労がその大部分を占める。

空港の時計を見ると、9時20分。

機内アナウンスの通り、一時間弱早めに着いていた。

川原さんとの待ち合わせは、10時30分である。

(はぁ…、また、暇な時間ができた…)

家を出たのが日本時間の午前11時、台湾とは一時間の時差があるので、つまりは丸12時間も移動に費やした事になる。

(もぉ、海外旅行はいいや…、言葉も通じんし…)

台湾に着いたばっかりなのに、何だか嫌になってきた。

それに、暇だといっても成田のように歩き回るわけにもいかない。

台湾ドルは1ドルも持っておらず、川原さんが換金してくれる事になっているのだ。

ゆえに、ここを動いて迷子にでもなろうものなら、文無し、喋れない、地理感なしの俺は、取り返しのつかない事態に陥る事になる。

そういうわけで、俺は、ベンチで横になって時間を潰した。

30分が経った。

そこは、人ごみが消え、寂しい場所となっていた。

前の日記で何度も何度も述べているように、俺は、類稀に見ぬ『寂しがり屋』である。

(ああ、あの柔道部、もう帰ったかね?)

と、自分で撒いた柔道部を探し、続いて、誰でも良いから日本語を話している人を探した。

しかし、聞こえてくるのは、中国語らしきものと英語である。

段々、不安になってきた。

(川原さんが来なかったら俺はどうなるのか?)

その焦燥感が、時を追う毎に勢いを増していく。

怪しい黒服の台湾マフィアが、空港で何時間も佇んでいる『金持ち・日本人』をほっとくわけがない。

人がいなくなった時を見計らい、台湾マフィアは集団で颯爽と現れ、一瞬にして、俺にクロロホルムを吸わせる事だろう。

「やったか?」

「やった!」

「意識がとんだようですぜ、ボス!」

「よし! ずだ袋に日本人をぶち込め!」

「財布とバックは、忘れずに取れよ!」

「取りました、どうぞ、ボス!」

「ち…、しけてんなぁ…」

「日本人はどうしましょうか?」

「内臓は高く売れる。殺す前に、内臓を取り出して真空パックだ。抜け殻は、足がつかないように、インド洋に捨てろ!」

「ボスも悪ですなぁ…」

「いやいや、お前ほどでは…」

と、なるに違いない。

(ああ、怖い…)

想像が膨らんだところで、約束の10時30分を過ぎた。

(どうなるんだろ、俺?)

黒服の男や、目付きの悪い奴が、全て台湾マフィアに見えてきた。

「ああ、じっとしてられない!」

俺は、ベンチを飛び出し、少ないながらも人ごみがある方向へ走った。

と!

そこに、見覚えのある髪型を発見した。

出来損ないの懐かしいリーゼント風で、向かい風を無意味に浴びたような髪型は、紛れもなく川原さんのものであった。

更に、漫画的な頭身バランス、鋭い目、どっしりとした身のこなし…、それは、川原さん以外、何者でもない。

俺は、全力で走った。

「川原さん、川原さん!」

31歳、会社同期・川原靖生を、俺は、必死で呼びながら走った。

(ここで別れたら、俺は死ぬ!)

なぜか、そこまで思い詰めていた。

川原さんは気付いてくれた。

「おお! 福ちゃん、お疲れぇー!」

クルリ、笑顔で振り返ると、

「荷物、それだけ?」

そう、日本語で突っ込んでくれた。

(分かるよー、あなたの言っている言葉が分かるよー、ああ、母国語万歳!)

俺は、川原さんと出会えた喜びを何度も何度も内で反芻し、やっとこさ、

「もー、遅いっすよー!」

そう言えた。

川原さんが遅れたわけではない。

が…、この時の俺は、

「だーれも知らない、いーこくのまーちで♪」(無錫旅情より)

一時間も待ったのだ。

俺の精神的苦痛は計り知れない。

「せめて、5分前行動でお願いしますよー!」

涙声で、訴えるに至った。

さ…、そういう事で…。

これからが、俺にとって、楽しい台湾観光の始まりと言える。

俺の右には、中国語ペラペラの頼もしい相棒がいる。

バスに乗るのも、ちょっと何かを尋ねるのも、日本感覚で喋れば、川原さんが訳してくれるはずだ。

(ああ、気軽だー!)

そこに、一時前の俺はいない。

川原さんは、中国語で台北市街までのバスチケットを難なく購入した。

俺は、川原さんの脇に、コバンザメのように引っ付いてバスに乗り込んだ。

運転手にチケットを渡し、

「シェイシェイ」

片言の中国挨拶を交わしながら、バス中央通路に踏み込んだ。

その瞬間!

日本では嗅いだ事のない、異様な臭いを感じた。

(むむむ!)

俺は、ただならぬ何かを感じ、素早く目線を上げた。

と…。

そこには、日本ではありえない異国の空間が広がっていた。

台湾の民謡であろうか、演歌調の音楽が流れており、窓にはインド風のカレーを連想させるカーテンがぶら下がっている。

天井は、赤、青、緑、黄と、信号みたいな色合いで、それが暗い車中を怪しい雰囲気へと誘っている。

窓ガラスには、前も横も後ろもステッカーが貼られており、視界は狭い。

更に、入った瞬間に感じた異臭は、お香の臭いの様である。

(こ、これが台湾かー!)

俺は、台湾文化の荒々しいお出迎えに、しばし呆然となり、

「エキゾチックですねー、川原さんー!」

と、同意を求めた。

川原氏は、既にフカフカの座椅子を思いっきり倒し、寝る体勢に入っている。

が…、俺は気にしない。

一人で喋り続けた。

「この雰囲気、田舎のスナックの様で落ち着くなぁ…」

興奮を抑えきれず、つい、写真を撮った。

川原氏は、ニヤリ、笑っている。

(お前には珍しいかもしれんが、毎日暮らしている俺にしてみれば面白くも何ともない…)

そう思っているのであろう。

はしゃぐ俺を他所に、ついには深い眠りについた。

台北国際空港は、街の外れにある様で、その闇は深い。

窓から見える狭い景色も、漆黒…、それのみである。

が…、その奥に、俺の好奇心を揺さぶる何かが転がっているはずである。

俺は、変化のない窓からの景色を眺め続けた。

ふと、時計が目に入った。

午前0時を回っている。

(今日一日が、移動のみで終わったなぁ…)

そう思うと、何やら愕然とした。

気付けば、二月だというのに俺の格好はTシャツ一枚である。

(思えば、遠くへ来たもんだ…)

やっと、それを実感しつつあるのであった。

 

 

5、観光

 

目が覚めると10時であった。

昨晩は、午前様で川原邸へ入り、それからチビチビと飲み、

「明日に備えて寝よう」

そうなったのが、午前3時半を過ぎた時であった。

起きると、川原家の子供達の起床時間と重なったようで、3歳になるトウイ(男)と1歳のヒマリ(女)が眠い目を擦りながら俺の前に現れた。

二人の子は、起きたら知らない美男子(俺の事)がいるものだから、

(誰だ?)

と、いう感じでキョトンとしている。

俺からすれば、

(大きくなったなぁ…)

まさに、その思いである。

ろくに喋れなかったトウイが、

「ねぇ、誰?」

と、俺に問い掛けてくるのだ。

(本当に人様の子というのは成長が早い。時間が轟々と流れている、その事を実感させてくれる…)

俺は、大きくなったトウイをマジマジと眺めながら感慨に耽り、ふと、

「トウイがウルトラマンにはまっている」

と、いう、川原さんが口にしたそれを思い出した。

すぐに身をソファーへ移し、

「食らえ、スペシウム光線!」

両手を十字の体勢にし、臨戦態勢をとってみた。

これで、トウイが乗ってこなければ、俺は単なる道化師であるが、純粋な少年は見事に乗ってきてくれた。

「なにっ、でやっ!」

飛び蹴りの様なものを発し、俺が弾け飛ぶマネをすると、大いに喜んでくれた。

妹のヒマリちゃんも、

「だーだー、どぅぶぶー!」

俺の娘・春同様、意味不明な何かを呟きながら、ハイハイで俺に寄って来てくれた。

(よし! 第一コンタクト、成功!)

俺は、朝っぱらから小一時間、二人と戯れる事に奮闘した。

この時、川原夫妻は、今から行く『台湾観光』のプランニングを練ってくれている。

骨子は決まっていたようであるが、起きるのが遅くなってしまった事と、急遽、春と道子が来れなくなってしまった事で、プランを練り直す必要があったようである。

また、道子から、

「必ず、ここへは寄って、そして土産を買ってきて!」

と、いう命令紙を貰っており、それを川原夫妻へ手渡した事が、二人に更なる混乱を与えたようである。

川原夫妻のプランがまとまると、川原家族と俺は、すぐに家を出た。

まず、台北で有名な観光地ベスト3に入るであろう『中正紀念堂』へ向かった。

移動には、タクシーを利用した。

川原さんが住む地区は、外国人が多く住むところらしく、何となく、他に比べ洗練された感じがする。

近くには、行った事はないが、日本の有名デパート『高島屋』があり、その道もイルミネーションで美しく、東京でいえば、田園調布の様な高級住宅地であろうか。

住いも7階建てマンションの最上階なのだが、馬鹿みたいに広い。

15畳くらいの居間に台所、それに部屋が二つ、これだけでも社宅と比べれば、

「馬鹿にするな!」

と、言ってやりたいほどにパンチのあるスペースであるが、更に、居間からはニョキニョキと階段が生え、上にもたっぷりと部屋がある。

つまり、7、8階が川原家という事になり、便所と風呂も二つづつあった。

川原家に言わせると、

「広すぎて手に余る」

それが困り事らしいのであるが、間違いなくイヤミであろうから無視しておく事にした。

さて…。

タクシーを拾った一同は、真っ直ぐ中正紀念堂に向かった。

紀念堂の正門は凝った造りで、微細の彫刻までよく掘り込んであり、

「素晴らしい!」

その一言に尽きた。

が…、何かの祭りの最中らしく、紙で作られたガラクタが門前に配置されており、それが、どうもいただけない。

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また、正門から紀念堂を見渡すと、だだっ広い広場に端正な中国造りの堂が映え、

(異国に来たなぁ…)

しみじみ、そう思えるのであるが、バックのビルと、訳の分からない広場中央のツノが、何とも言えず、その美観を壊してくれている。

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(惜しい…)

そう思いながら、次は、蒋介石の享年と同じ数だけの階段を登り、先ほどとは逆になる正門側を見下ろした。

左右の中国風建築物(コンサートホール)が正門を挟んでいるところなどは、なかなか粋な演出である。

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さて…。

一同は、堂の中へ突入した。

中では、蒋介石の銅像が中央に据えられており、その左右には生きてる衛兵がピクリとも動かずに直立している。

瞬きすらしない。

川原氏の説明によると、台湾では徴集制が布かれており、ある一定の年齢に達すると、有無を言わさず軍に徴集されるという事である。

それらは、陸海空それぞれに分けられ、目の前の衛兵は陸軍という事になり、その中でも身長、肉付き、挙動、全てに措いてマッチした者が、この名誉ある中正紀念堂の衛兵になれるという事らしい。

「ほぉー、選ばれた者達という事ですね。しかし、あれじゃ辛いっすねー」

「俺なら断るね」

川原さんと、そんな冷めた会話を交わしていると衛兵の交替時間となった。

並々ならぬ訓練を施された衛兵といえども、一日中ずっと動かない、というわけにはいかない。

一時間毎に交替するのである。

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観光客が蒋介石の像付近から離されると、交代要員が指揮者に率いられ、足並み揃えて現れる。

そして、ライフル銃をブンブン振り回しながら、然るべきダンスをし、たっぷりの時間をかけて交替していくのだ。

これが、中正紀念堂一番の見世物らしく、場からは大きな拍手が上がった。

が…、長過ぎて、子供二人を抱えている俺達にはちょっと退屈であった。

堂の下には、蒋介石の乗っていた車やら、水墨画などが展示されており、一同は見世物を途中で切り上げ、下へ向かった。

堂の下は、貴重品展示場の他にも、図書館やら催し物ホールなどがあり、ホールでは、日本人画家の個展が開かれていたり、楊貴妃展みたいなものが催されていたりしていた。

が…、俺達には、退屈が何よりも嫌いな遊び盛りの子供が二人もいる。

トウイなどは、叫びながら催し物ホールを走り出す始末である。

俺にしてみれば、もっとジックリ見たい感もあったが、腹も減っていた事なので、川原さんのプランニング通り、ティンタイフォンという超有名な中華料理屋へ向かう事にした。

移動はタクシーである。

日本では考えられない事だが、代金が安く、その量が半端でないため、ちょっと移動するのにもタクシーを使う。

道を歩けばタクシーに当たる、そういった感じで、道が黄色に染まっている感さえある。

申し遅れたが、この国のタクシーは黄色一色で統一されている。

この時も、道で適当に手を上げれば黄色い車が寄ってき、俺達を目的の場所まで格安で届けてくれた。

さて…。

このティンタイフォン、店の前には、もの凄い行列ができている。

聞けば、アメリカの新聞で「世界でも三本指に入る名店」と謳われたらしい。

特に、肉まんの小さいやつで『ショウロンポー』というのが絶品らしく、俺はその時、人生で初めてそれを食った。

肉まんを食う時に遠慮はしない。

ゆえに、思いっきりそれに食いついたところ、熱々の肉汁が口内一杯に飛び出し、思いっきり火傷をしてしまった。

が…、三本指に入るだけあって、確かに美味い。

ちなみに…。

食に関しては、この後もチョクチョク書く事になろうが、最初に言ってしまうと、

「おいしー!」

そう言えたのは、このティンタイフォンで食ったものと、川原さんの嫁・アッコさんが作った握り飯くらいのものである。

後は、『ハッカク』なる馬鹿臭い調味料が、どれをとっても入っており、雑食な俺でも、

(この国は、基本的にマズい…)

そう結論付けざるを得ないのである。

さて…。

満腹になった一同は、次に、商店街のど真ん中にある『龍山寺』という有名らしい寺に向かった。

どのような由来がある寺か、何が国宝級なのか、それは定かでないが、彫刻が施された贅沢な柱で構成されていたり、屋根には懲りすぎの感が拭えない装飾物が付いていたりと、確かに中国建築の基本をなぞった寺ではある。

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ところで、俺の推測であるが、中国文化の根には、

『豪奢』

これがあると思う。

意味は、「はでやかなこと。非常にぜいたくなさま。豪華」というものだが、当時の権力者達は、こぞって、

(無駄に手の掛かったものを、いかにベースとなるものに組み込めるか?)

その事を争ったに違いない。

ゆえに、中国文化の産物は、派手で無駄なモノが多く、非常に凝っている。

この寺も例外ではなかった。

が…、俺は、細やかな彫刻よりも、ここの独特の雰囲気に心惹かれた。

長い線香を持って観光者が参拝しており、一部、黒装束を身にまとい、地に伏して願い事を続けている人もいる。

大量の線香で寺内の空気は霞み、その中で、お経の声が永延と木霊している。

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また、新宿地下道の如く、流浪のおじさま達が異常に多い。

彼等は、持参したのか寺が貸し出したのか、それは分からないが、皆、同じ形状のプラスチック椅子に座り、光の消えた目で駄弁り続けている。

この集団の後ろ側には一枚の張り紙があり、川原さんに訳してもらうと、

「働け!」

と、書いてあった。

(流浪のおじさま達は、この寺に何を思って居座っているのだろうか?)

定かではないが、とにかく、ここは独特の雰囲気を持った寺であった。

次に…。

公共機関にも乗ってみようという事で、地下鉄に乗った。

馬鹿みたいに大きめの券売機でテレホンカードみたいな切符を買い、無人だが、鉄のバーがグルングルン回る改札を抜けた。

それ以外は、日本と何ら変わりはなかった。

向かうところは『士林』という所である。

そこは、駅を降りると渋谷の如く人人人…でごった返しており、何やら賑やかな臭いがした。

「ここで、夜市を楽しんで今日の観光を終わりにしようや」

川原さんはそう言うと、まず、俺を大人の玩具屋に案内してくれた。

なぜゆえ台湾で大人の玩具屋か分からないが、川原さんにしてみても特に意味はなかったらしく、

「くっだらねー」

と、失笑していた。

俺も、店員から『BB弾が乳頭から飛び出す玩具』を薦められ、道子のお土産にしようか真剣に迷ったが、

「そんなもの、買うなよ…」

と、川原さんに戒められ、手ぶらで店を出るに至った。

さて…。

この士林の夜市というものは、台湾最大の夜市らしく、その言葉通り、もの凄い活気に溢れていた。

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どこを歩いても人の嵐で、子供二人を連れた俺達は、移動するのに一苦労であった。

その中で、土産を買わなければならない宿命(道子からの厳命)により、中国っぽい春の服、馬鹿安の日本CD(石川さゆり、坂本冬美、中島みゆき)などを買った。

行商の屋台も人の流れを遮るように道の真ん中に出ていたが、違法なのであろう、警官が現れるや、蜘蛛の子が散る様に霧散した。

(引き際が良いなぁ…)

とにかく、その素早さには脱帽であった。

あと、ここ最近、台湾ではフライドチキンの屋台版が大ブームで、それを売っているところには長蛇の列が出来ていた。

奇特にも、川原さんが俺達のために並んでくれ、やっとの思いで一本ゲットして来てくれたが、前述の臭い成分・ハッカクにより、何とも言えない味に仕上がっていた。

臭いといえば、屋台の定番メニューで『臭豆腐』というメニューもあった。

どのようなものかというと、その言葉通り、臭いのである。

川原さんから、

「福ちゃん、食ってみなよ」

そう言われ、

「豆腐といえば俺の大好物。多少臭くてもドンと来いって感じですよ!」

そう息巻いたものだったが、実際、その屋台を目の当たりにした時、俺の思考はぶっ飛んだ。

食うどころの話ではない。

屋台に近付いただけで、

「なんか、ドブの臭いがするー」

と、なり、屋台前に立った時などは、気を抜くと失神してしまいそうになるのである。

この世の中、臭いものは多かれど、あれほど強烈なものはなかろうと思われた。

ちなみに…。

その後、高級住宅街の川原邸に戻り、近くのスパゲティー屋で飯を食い、今日の観光が終わるわけだが、スパゲティーまで台湾調味料・ハッカクが入っており、

(ああ、イタリア料理までこの味かよぉー)

と、気落ちする事になるのである。

以上…。

観たところをダーッと書き上げて、この日の観光報告を終えるわけだが、まだ、時は夜の入り口に入ったばかりである。

川原さんは、

「よし、福ちゃん、二人で飲みに行こう!」

妻と子供をマンションに送り届けるとそう言ってくれ、妻・アッコさんは、

「もー、出て行かんでもいいやん!」

そう突っ込んでいた。

二人の問答は、しばし続いた。

「いや、既に予約してるから、こればっかりは…」

「何で、そういうのばっかり準備がいいん?」

「福ちゃんのために…」

「福ちゃん来た時くらい家で飲めばいいやん」

「う…」

「トウイもヒマリも二人が出て行くと悲しむやん」

「むむむ…」

「行かんでよー」

「いや、行く!」

川原さんは俺を連れ、例の黄色いタクシーに乗り込んだ。

タクシーは、繁華街へ向けて爆走を続けている。

川原さんは、すぐに眠りについた。

が…、後ろ髪を引かれる思いだったのであろう、

「うう…、ああ…」

何やら、うなされているのであった。

台湾の夜は、まったりと生ぬるい…。

 

 

6、台湾の夜

 

うなされながら眠る川原さんの横で、俺は、たいへんにスリリングな思いをしている。

タクシーの運転が、最高に荒いのである。

今日一日、タクシーを利用して、

(基本的に台湾は車の運転が荒い…)

それに気付いてはいたが、今、俺達の『命のタズナ』を握っている、こやつの運転に比べれば、赤子の様なものであった。

あえて『こやつ』と呼ばせてもらうが、こやつ、「急げ」と言ったわけでもないのに、二車線の僅かな隙間を見つけては車を滑り込ませ、

(一秒でも早く着いてやる…)

その気概を見せ付けて運転をしているのである。

もちろん、ウインカーなど一切出さず、隙を見付けては急ハンドルの車線変更である。

途中、軽い渋滞に巻き込まれたのだが、クラクション鳴らしっぱなしで、少しだけ車が動くと怒りあらわに急発進。

更に、台湾の交通事情は原付バイクが非常に多く、信号待ちの度に停止線にズラリとバイクが並ぶのであるが、そのバイク達に対し、強烈な幅寄せをかましているのである。

俺は、後ろの席から幅寄せの現場を一部始終見ていたが、多分、後5センチ寄っていたら接触というところまで寄っていた。

車がバイパスに入ると、こやつはアクセルを踏み切ったのであろう、メーターを見ると130キロを超えており、このスピードを維持したまま、先ほどの全力車線変更、幅寄せを繰り返していた。

川原さんは、急発進、急ハンドルの度にグワングワンと揺られるものの、グッスリと眠っている。

俺は、ただただ、無事を祈るのみであった。

さて…。

台湾の繁華街に訪れた俺と川原さんは、寄り道する事もなく、真っ直ぐ高級クラブに向かった。

川原さんは今現在、海外営業の職にあり、この手のクラブを接待で頻繁に使うらしく、その歩き振りも妙に手馴れている。

繁華街のこの路地は、博多ラーメンの店があったり、普通に居酒屋があったり、スナックも平仮名の名であったりと、もろに日本を思わせるつくりになっていた。

つまり、ここは金持ち・日本人のための飲み屋街なのである。

俺は、大して金を持ってないというか手渡されていないというか、とにかく懐には木枯らしが吹き荒れている状態であったが、川原さんという頼もしい相棒がいたので、堂々と、その高級クラブに突入した。

店内は、青い怪しげな光で満たされており、10席ほどのカウンターとテーブル席が三つほどある。

日本と何ら変わらないつくりであった。

ギャルの数は、高級を謳っているだけあって、さすがに多い。

それも、烏龍茶のCMに出ているような健康的美人が半数以上を占めている。

(おお…)

俺のハートは大いにどよめいた。

一時間も経てば、意気消沈の極みに陥る事など、今の俺は知る由もない。

(飲むぞー! イェイ、イェイ!)

面上に冷静を保ちつつも、内では感極まってハッスル状態なのである。

すぐに俺と川原さん、それぞれにギャルが付いた。

「カンパイ、ネ…」

アジアンテイストをもっちりと練りこんだ端正な顔立ちのギャルが乾杯の音頭をとった。

(よし…、日本語も出来そうな感じだぞ…)

俺は安心し、杯をあてた。

このようなところへ来ると分かってから、俺の不安は、その『言葉』にある。

が…、日本人を客層の中心とした場所にあるという事、入った瞬間に「イラッシャイマセ」と言われた事、「ドウゾ」と言われ菓子を渡された事、これらにより不安の大半が払拭された。

片言でも喋れれば、お馴染みフィリピンバーでの豊富な経験がある。

(苦手だが、楽しむ事はできる…)

そう思われたのだ。

ちなみに…。

今、無言でこれを読んでいるであろう嫁と親族に、少しだけ毎度毎度の弁解をさせてもらうと、ここも至って健全な飲み屋(クラブ)である。

アジア、高級、ギャル、それらの単語が続くと、一部の無粋な連中は、

「うわー! たっぷり、ネオンを楽しんできたようやねー!」

と、勝手に盛り上がってくれるが、彼らを制すためにも、

「ここは、静かに雰囲気と酒を楽しむ場所だ」

と、先に断っておく。

さて…。

川原さんが入れていたボトル(洋酒)を飲みながら台湾の夜が更けていくわけだが、30分が経過し、俺が一番話した相手は川原さんであった。

言い方を変えるなら、

「川原さん以外との会話は皆無である」

と、いえた。

この店のギャル、確かに前述の通り、片言の日本語を喋りそうだったのであるが、蓋を開ければ喋れる単語が超限定されていたのである。

例えば、先の「いらっしゃい」や「ありがとう」である。

それくらいなら、大袈裟にいえば0歳児の春でも話せ、フィリピンバーのギャル達の方が単語が連なるだけ格段にマシで、九官鳥と話しているようなものであった。

聞けば、ギャルの大半は英語が話せるらしく、それでコミュニケーションがとれるという事で、

「安心して…」

どのギャルもそう言うのであるが、「英語は話せて当たり前」という、ここの常識を俺は持ち合わせていない。

つまり、俺の交流世界というものは、川原さんのみだったのである。

「大丈夫、筆談で話せる」

川原さんは、困り果てた俺に、苦肉の策でそうアドバイスしてくれた。

俺にしてみても、早速、藁にもすがる思いでやってはみるものの、それは、つまらない上に極めて遅い。

更に、書いた事について説明書きを加えねばならず、ギャルに至っては、俺の指導を受け、その場で書き取りの練習を始めるものだから埒が明かない。

この世界のギャルにとって、日本語を覚えて日本人の客をとる事が最もビックマネーへの近道なのであろう。

必死で俺を教材としていた。

(駄目だ…)

さすがに一時間も経つと、俺のやる気が跡形もなく消え、その口は沈黙してしまった。

ギャルは、そんな俺に気を使い、どうにかして会話ならぬ筆談が弾むよう、しきりにチョッカイを出してくれるが筆談では盛り上がれるはずがない。

(これは面白い!)

そう思ったネタも、書いて伝え、更に付随の説明をしなければならないでは、俺の伝える気力も失せるし、聞くほうも面白くなかろう。

途中、手の甲の傷を問われ、

「この傷は、嫁のおっぱいを触ろうとして、それを避けようとした嫁がストーブに押し当てた、その時の痛々しい火傷跡です」

そう説明し、その後、これを軸にドーンと話を膨らましたいところだが、これを伝える術がないのである。

まさに、意気消沈となった。

川原さんは、俺に気を使ってくれているが、それでも中国語でお酒と場を楽しんでいる。

(言葉って、大切だなぁ…)

機内に続き二度目となるが、つくづくそう思った。

また…。

川原邸に戻った時刻は午前3時を回っていたように思うが、その帰り、タクシーが120キロを超えるスピードでかっとばした。

川原さんは、

「ちょっと、スピードを落としてくれ…」

と、いきり立つ運転手を中国語で制していたが、行きはもっと凄まじく、俺はそれを制す術がなかった事を川原さんは寝ていたので知らない。

(次に海外旅行へ行く時は、語学を勉強し、リベンジをはかりたい!)

燃える男のTOIC点数は、3回受けてどれも250点…。(4択1000点満点)

その道は、限りなく険しいのであった。

 

 

7、台湾二日目

 

今、この章を書き出すにあたり、

(前置きが長すぎた…)

と、反省している。

この話を書く事に、さすがに飽きてきたのだ。

従って、これからが観光的には面白いところなのであるが、日記という自由さゆえに、少々ペースを上げさせてもらう。

さて…。

台湾二日目となる朝を迎えた俺は、二日酔いもなく、9時過ぎには目が覚めた。

今日の予定は、

「早朝より、故宮博物館に行く!」

というものだったため、川原夫妻が眠い目を擦りながら起こしてくれたのである。

故宮博物館というのは、世界五大博物館に数えられる大きな博物館で、紀元前の青銅器やら水墨画、彫刻品など、中国歴史の財宝を一同に展示する、台湾で最も有名な観光地である。

歴史的には、蒋介石が中国から台湾へ逃げた際、そっくり財宝を持ってきてしまったらしく、それがここで展示されているという具合らしい。

これだけ有名な観光地となると、川原さんや嫁のアッコさんは既に行った事のある場所であり、俺は一人で回る事となった。

が…、タクシーに一人で乗り込み、滞りなくゲートを潜る事は、

(難しい事…)

今までの経験からそう思うし、保護者の川原さんもそう思ってくれたのであろう。

俺を博物館まで送ってくれ、更に、チケットを買うところまで付き合ってくれた。

さて、故宮博物館であるが…。

ここは、中に入らずとも外見の時点で既に素晴らしい。

タクシーを降りると、中国風のダイナミックな造りが奥の高台に鎮座し、堂々とした石段がそこへ続いている。

両サイドに見える庭園も、油断のならぬ手入れぶりである。

(こりゃ、中も凄そうだぞ…)

思いながら、川原さんにチケットを買ってもらい、展示品の説明を日本語でしてくれるという『説明機』を川原さんに借りてもらった。

この時、受付の人は日本語で喋っていたのに、なぜか川原さんは中国語で返していた。

「ぷっ…」

俺は、付き添ってもらっている身分でありながら、その滑稽さに、思わず噴出してしまった。

「こんにちわー」と言っている外人に、思わず「ハロー」と応えてしまう、それと同じであろうと思われ、日本語を喋っている中国人が、まさに困惑していたからである。

川原さんは、

「俺…、いらんやん…」

寂しそうに呟くと、俺に携帯を渡し、場を去っていった。

さて…。

故宮博物館、その中であるが、さすがに世界的な博物館といわれるように、

(ハイセンスで広い…)

そう思われた。

三階建てで、三階が手の込んだ彫刻品、二階が水墨画や茶碗、一階が紀元前あたりの青銅器と別れているのだが、その全てのフロアが先が見えぬほどに広く、ちょっとお洒落に暗めなのである。

受付の人が、

「見所の三階から見られる事をお奨めします」

そう言ってくれたように、俺は上から下へ降りるルートを選んだ。

受付の助言は、

(まともに見ていたら見尽くせないから、メインのものだけでも見て帰ってください)

という意味である。

俺は、たっぷり、全てのモノに目を通した。

どれもこれも素晴らしく、その一つ一つをたっぷり説明したいところであるが、労力の都合であえて割愛し、

「もー、中国の職人は凄い!」

と、だけ言っておく。

ちなみに、展示物の内容には一切触れないくせに、一つだけ、突然のアクシデントに触れさせてもらう。

昼前であったろうか、トイレで力んでいると、

「オー! オー!」

叫びながら駆け込んで来た者があった。

大便器は三つあり、そのどれも埋まっている様で、

「ハウッ! オウッ!」

嗚咽をもらしながら、男はドアを叩き出し、何やら差迫った声色で叫び始めた。

言葉は英語であった。

「ハリー」のようなものが聞き取れ、また、その切羽詰った状況から、俺は、余韻を楽しんでいるところではあったが、イソイソとズボンを上げ、ドアを開けた。

が…、隣の方が一瞬早かったようで、白人のオッサンと黒人のオッサンが入れ代わっていた。

焦っているのは黒人の方である。

ガシャンガシャンと荒々しく便座を扱うと、

「オ、オオ、オオオ…」

荒い息づかいと、ベルトをはずしているカチャカチャという音が聞こえ、少しの静寂の後に、

「オォゥー…、フゥー…」

という、安堵の声がトイレ一杯に木霊した。

(ふぅー…、黒人…、間に合ったみたいだな…)

俺まで安堵の息を吐いてしまう、見事な駆け込みっぷりであった。

便器をゆずった白人は、手を洗いながら満足気な表情である。

と…、この時、薄壁一枚隔てたところから、

「ソーリー」

という落ち着き払った黒人の声が届けられた。

白人は、手を拭きながら、

「ユア、ウェルカム」

そう返し、笑顔でトイレを出て行った。

駆け込んだ方も駆け込んだ方なら、譲った方も譲った方、

(素晴らしい現場に居合わせたものだ…)

そう思い、歩き疲れていた俺の心がほころんだものである。

さて…。

小走りに一階まで駆け抜けた時、4時間弱が経過していた。

俺は土産を買いながら、川原さんに借りた携帯で電話をかけ、

「やっと、終わりました」

と、連絡をした。

川原さんは、

「タクシーに乗って、一人でマンションまで帰って来て」

と、言う。

俺は、川原さんと別れる際、住所が書かれた名刺を貰っている。

川原さんは、それを運転手に渡せば良いと言う。

確かに、理屈ではその通りである。

その通りであるが、何かしらのアクシデントが発生した場合、俺と運転手の意思疎通は不可能である。

(不安だ…)

正直そう思うが、少しくらいは一人で動いた証が欲しかったのも事実で、俺は、

「ええい、乗ればどうにかなる!」

と、タクシーに乗り込んだ。

運転手は中国語で何やら言っているが、俺はそれに一切構う事なく、川原さんに貰っている名刺を突き出し、

「ゴー!」

と、言った。

運転手は二度ほど頭を縦に振ると、訝しげな顔で車を出した。

うさん臭い顔付きの運転手であった。

『行列の出来る法律事務所』という番組に出ている人情弁護士を、かなり品祖にしたような顔である。

(こいつ、本当にタクシーの運転手か?)

不安のために疑り深くなっている俺は、すぐに運転手証を確かめ、その名が『陳ナントカ』という名である事を確認した。

拉致されそうになったら、すぐにタクシーから飛び出し、

「陳です! 陳に、拉致されそうになったのです!」

と、警察に駆け込むつもりであった。

更に、うさん臭さを増している要素はある。

白い大柄の花を、助手席前にたっぷりと据え付けているのである。

車中には、甘い臭いがトロンと溢れ、

(お前、この甘い臭いで俺を誘惑しようとしているだろー!)

突っ込みたくもなる。

が…、運転手は普通に運転し、高島屋の前を通り過ぎ、

(お…、なんか、川原さんの家に近付いてきたぞ…)

そういう景色になってきた。

どうやら、取越苦労だったようである。

俺は、最後の右折する箇所を見つけると、

「オー! ライト、ライト、ライト!」

と、後部座席から身を乗り出し、右折を促した。

さすがに、運転手も俺の指示が執拗で腹が立ったらしく、指し示す手を払い、

「ウブ☆×アバディブ、□△ダバー!」

と、よく意味の分からない怒鳴り声を発した。

(知ってる景色が見えたから興奮しすぎちった)

少しだけ、反省した。

さて…。

無事に帰ってきた俺を安堵の色で迎えてくれた川原さんは、

「よし、美味い中華料理でも食って、福ちゃんの土産モノでも買いに行こう!」

そう言うと、休憩する間もなく、昨晩、飲みに行った辺りの繁華街へ向った。

中華料理屋は、ドラマで見るような円卓を囲む方式で、雰囲気はとても良いのだが、味は、お馴染みの臭み成分・ハッカクが入っており、

「あー、また、台湾味だー」

例の如く、項垂れる始末であったが、キリンビールや炒飯、空芯菜など、ハッカクが入っていないものをつまんでいると、何となく腹一杯になった。

その後は道子からの厳命により、パイナップルケーキと高級茶を購入し、

「日本人のツアーコース定番となっているブランドショップでも見よう」

と、いう流れで、日本人観光客に紛れながら、高級ホテル地下にあるブランドショップに立ち寄った。

ちなみに、ブランド物と言われると、以前、道子と付き合ってすぐの時、

「世界の三大ブランドといえば?」

と、聞かれ、

「グッチ、シャネル、リーバイス」

そう答えたところ、爆笑された事を思い出す。

どうやら、リーバイスはブランド的な強みがないらしいのである。

今でも、

「あれほど強力なブランドはなかろうに…?」

と、道子達の爆笑を疑問に思う。

とにかく…。

興味はなかったが、一行はそこに赴いた。

そこは、先ほどのグッチ、シャネルに加え、人様に言わせると、

「ヨダレが出そう」

などと称されるブランドが並んでいる。

が…、俺にはどうもその素晴らしさが分からない。

全ての商品説明は、中国語でなく日本語で書かれており、どれも「日本で買うより何パーセントオフ」や「日本では買えない」というのをウリにしている。

何人か、欧米系の観光客もいたが、どの客も値段を見て、

「オウッー」

と、頭を抱えているのに、日本人観光客は、

「これ、ちょー、かわいー!」

と、難なく購入していた。

(本当に不景気なのですか、日本人…)

未だ、金持ち日本は健在のようである。

さてさて…。

これから行くところが、俺の台湾在住中、

「最もアジアらしかった」

と、言える観光地であるが、それは『海老釣り』である。

最初、道子が台湾へ行くという意向を示している時、川原さんがこれを提案したところ、

「えー、海老釣りー?」

道子は、真っ先に難色を示した。

聞けば、今、最も台北で熱い遊びがコレで、これをせずして台湾を語るなかれというものらしい。

(うーん、だったら、行かんと悪いねー)

思うが、俺にしてみても、やる気が起きない。

釣りなどは、小学校以来やった事がなく、その時も、釣れないとすぐに飽き、野球をしていた憶えがある。

そもそも、ジッとウキを眺めるという事に魅力を感じないし、あの細い糸が絡む事を思うと、爆発しそうなほどに苛々する。

それに、軟体動物を針に刺す所業も残酷で、上流階級の俺には向かない。

が…、

「さあさあ、行くぞー!」

と、川原さんは、とてもとても張り切っている。

子供や嫁に、

「どうせ、釣れんやんー」

突っ込まれても、頑として案を引かない。

結局、そういった運びで行く事になった。

話が前後するが、中華料理屋の時点で、川原さんの同僚が合流している。

九州は福岡出身の30歳で、黒々と艶のある二枚目である。

彼と、俺と、川原さん、三人は人口池の周りを取り囲んでいる群衆の隙間を見つけ、釣り糸を垂らした。

足元には、海老の前足らしきものが大量に落ちており、それに混じり、赤い鳥の内臓が踏み広げられた状態で散乱している。

ここの餌は鳥の内臓で、それをカッターで千切り、針に付けていくのだ。

ゆえに、手が内臓に付着している血で真っ赤になる。

手に付いた血を拭き取ったのであろう、赤く染まったチリガミも至るところに落ちている。

建物は、古い工場のような造りで、粗いコンクリートの足元に、トタンの壁と屋根、実に簡素なものだ。

「きたねーなぁー」

そう洩らさざるを得ない。

そんな中で、俺は、

(どうせ、釣れんだろ…)

冷めた思いでウキを眺めていた。

と…。

何やら、ウキがピクピクと動き出した。

「むっ!」

俺は掛け声と共に、思いっきり竿をあげた。

すると、前足の長い青い海老が糸の先に付いているではないか。

一番乗りであった。

川原さんの子供達は大いに喜び、

「エビー、エビー!」

と、はしゃいでいる。

川原さんと、その同僚は俺を横目で見ると、

(むむむ…!)

険しい顔を見せ、「おめでとう」の喜色は一切見せない。

それからは、もくもくと釣りに勤しんだ。

「ヤスオー、素人の福ちゃんが釣ってるやんー、がんばりー」

川原さんの嫁・アッコさんは、微動だにしない川原さんにエールを送りつつ、はしゃぐ子供達と共に、後ろで観戦している。

川原さんは、これで発奮したのであろう、それからブイブイ釣り始めた。

尚、言い遅れたが、海老釣りのシステムは、日本式の一匹幾ら計算でなく、時間計算である。

ゆえに、『釣らなきゃ損システム』のため、けっこう燃える。

結局、一時間半をこれに費やし、結果は合計14匹に終わった。

内訳は、同僚が3匹、俺が6匹、川原さんが7匹である。

終わってみれば、手を真っ赤にしながら、

「くっそー、負けられん!」

と、張り切っている自分がおり、ウダウダ言ったものの、台北でブームになる、そのわけがはっきりと分かった。

ところで、釣った海老は、その場で焼いて食べる事ができる。

粒の大きい粗塩が焼き場の前においてあり、それを自分でまぶして焼くのである。

手馴れた川原さんが、チャチャっとそれをやり、炒飯だの何だのを購入してきた。

ここは、立派な食堂も兼ねているようである。

屋台も出ているし、ゲーム機もある。

俺は、屋台で、味のある婆さんから、おでんのようなものを買い付けた。

無論、お馴染みハッカクがそこにある。

が…、屋台で煮てある美味そうな見た目は、俺の食欲を刺激するには十分過ぎる。

嗅いで買えば良かったのであるが、我慢できず買い、俺は一口も食わずに周りに任せた。

しかしながら…。

俺は、この、お世辞にも綺麗といえない雑多な空間に親しみを感じてならなかった。

一面灰色の味気ない景色に、安っぽいテーブルが並び、奥には海老釣り場が見える。

そこに老若男女が溢れ、釣った海老を頬張っている。

海老は最高に美味い。

ハッカクの入っていない一部の料理もまた美味い。

(ここは良いなぁ…)

そう思った次第である。

さて…。

海老釣り場を出る時、時刻は午後10時を回っていた。

明日は早朝6時起きゆえに、

「さっさと帰り、風呂に入って寝よう…」

と、いう事で、一同、帰路についた。

いつもの様にタクシーを拾い、川原一家が後ろに座り、俺が前に座った。

と…。

何やら憶えのある甘い臭いを感じた。

見ると、目の前に白い大柄の花がある。

(ん?)

俺は、運転手の証明書に目を移した。

『陳ナントカ』とある。

目線を運転手の顔に移した。

(こ、こやつ!)

そう、故宮博物館から川原宅まで、俺を送ったあの男に違いなかった。

俺は、興奮を隠し切れず、川原さんに事と次第を説明し、

「陳で、花で、この面構え、間違いないっすよー!」

そう言った。

更に、「ライト、ライト」と身を乗り出して右折を指示し、運転手に怒られた事も合わせて説明したところ、

「なるほど、なるほど…」

川原さんは頷きながら、運転手に、

「今日、故宮博物館から今から行くところへ、誰かを乗せたでしょう?」

中国語で聞いた。

運転手は最初、「違う」と言い放ったものの、思い出したように、

「あ…、そういえば乗せました」

そう言ったものだから、場は大いに盛り上がった。

もの凄い確立であった。

道を覆ってしまうように走っている黄色いタクシーの中で、俺は、一日に同じものを二度チョイスしているわけである。

「すげーなぁー」

呟きながら、最期の右折ポイントに差し掛かり、

(やるだろう…)

思っていた通り、川原さんは、

「ライト、ライト、ライト!」

昼間の俺を、忠実に再現してくれた。

ちなみに…。

川原さんという人物は、よほどにイジメっ子の血が流れているのであろう。

人を小馬鹿にする事に関しては一流で、中国茶が3回は飲めるという話をしていた時だったであろうか、俺が、

「道子は、イエローラベルのティーバッグを3回は使う」

そう言ったところ、

「道子がイエローラベルのTバックを3回も使う?」

と、無理無理に食いつき、執拗にそのネタで爆笑していた。

確かに、道子が黄色のTバックを三日三晩はき続け、自慢気に、

「3回も使ったわ!」

なんて言うところを想像すると、笑わずにはいられない。

が…、あまりに無理無理な突っかかりである。

俺は帰国後、それを道子に伝え、

「お前が『ティーバッグ』と言うから俺もそう思っていた。しかし、『ティーパック』らしいぞ。恥をかいたなぁ、俺もお前も…」

と、頭を抱えたものだが、現品でそれを確認したところ、道子の言う通り、

『ティーバッグ』

であった。

福山家は、メールで、

「川原家の方が間違ってるぞー、こんちくしょー!」

と、反撃したものであったが、川原家は今も沈黙を続けている。

さあ…。

台湾の夜は更けていく。

明日は日本に帰る、その日であった。

 

 

8、帰国

 

2月24日、その日…。

朝7時に川原宅を出た俺と川原さんは、当たり前のようにタクシーへ乗り込んだ。

(台湾へ来て、何度目だろう?)

多分、俺の25年の人生、その丸々を足してもかなわないくらい、タクシーに乗りまくった事であろう。

川原さんは道端で待っているタクシーに無言で乗り込むと、中国語で何やら話し始めた。

聞けばこのタクシー、川原さんの出社時刻に合わせ、ウィークデーは毎日ここで待っているらしい。

いつもの二人なら、余計な会話はいらないのであろう。

が…、今日は俺が乗っており、更に空港行きのバス乗り場へ寄り道をせねばならないため、一つ二つ言葉を交わしているようだ。

タクシーは幹線道路が出勤渋滞で混んでいるため、入り組んだ裏路地へと入り、バス乗り場へと急いだ。

バス乗り場に着くと、川原さんは慌しく発車時刻を聞き、チケットを購入し、

「もう、出発時刻を過ぎてる、すぐにバスが出る!」

と、俺をバスへ押し込んだ。

川原さんは、乗り込む俺を目視で確認すると、バスの係員に、

「ユナイティッド航空は何番目のターミナルか?」

と、中国語で聞いてくれ、

「福ちゃん、二番目のターミナルらしい、終点で降りて!」

そこまで世話を焼いてくれた。

「分かりました。また来るかもしれませんが、多分、来ないかもしれません」

俺は手をフリフリ車内に乗り込んだ。

バスは、すぐに発車した。

さて…。

順調に高速道路を突き進むバスであったが、あろう事か、事故渋滞が起こっていた。

飛行機の時刻は10時30分発であり、今の時刻は8時半である。

川原さんは、

「時間的に渋滞する時だけど、9時には着くから安心しなさい」

そう言って送り出してくれたものだったが、まさか、事故が起こってるとは予想しなかった事であろう。

バスは、ノロノロ進むどころか、全く進まなくなった。

俺は、川原さんの「安心しなさい」という金鉄の声があったので、狼狽する周りとは対照的に、ゆったり、見納めとなる景色を楽しんでいた。

が…、さすがに20分もバスが動かないと、

(大丈夫か?)

その思いが発し始め、そうなると、俺の焦りはとどまるところを知らない。

すぐに耳を澄まし、車中の日本語を探し始めた。

と…。

「事故渋滞だって、大丈夫かよー」

「まじー、間に合わなかったらキツイなぁー」

その声が聞こえた。

幸いにも前の席である。

俺は男たちの背後からニュッと顔を出し、二人の間に滑り込むと、

「俺、10時半発なんですけど、おたくは?」

と、尋ねた。

日本人二人組は、かなりビックリしたらしいが、冷静を取り戻すと、

「10時です…」

ボソリとそう言い、

「10時半なら間に合いますよ。俺達の方がやばい…」

そう言ってくれた。

俺は、二人の声に安堵の色を浮かべ、

「よかったぁ…」

そう呟くと、浅い眠りについた。

さて…。

起きると、その時刻は9時20分を回ったところであった。

バスは空港に入ったばかりのようで、車内放送が流れ、最初のターミナルに着きそうだと言っている。

前の男性二人組は、

「急がねーと間にあわねーよ!」

「ダッシュだな、ダッシュ!」

東京弁爆発で叫び合い、駆け足でバスを降りていった。

彼らに比べ、俺は30分の余裕がある。

「お気をつけて…」

俺は、たっぷり『その余裕』を男達に見せ付けた。

川原さんが言っていた二番目のターミナルにもすぐに着いた。

俺の荷物は、来た時の凡そ5倍に膨れ上がっている。

もちろん、そのほとんどが、家族と親族への土産である。

俺は、川原さんに貰った転がせるバックを抱えると、

「ティンティン!」

という、飲み屋で憶えた唯一の台湾語を運転手に発し、颯爽と降りた。

この「ティンティン」、飲み屋の娘が言うには、

「ちょっとした挨拶で用いる言葉」

だという。

日本でいう「よっ!」みたいなものであろうか。

俺は、その響きが大そう気に入り、

(よし、日本で流行らそう…)

その時はそう思ったものだったが、熱しやすく冷めやすい性分からか、今、書きながら「ティンティン」を思い出した。

また、会話法でいえば、中国でありがとう、これを日本人は「シェイシェイ」と言うが、実際は「シエシエ」らしい。

さて…。

空港へ降り立った俺は、そう時間があるわけでもなかったので、すぐに『ユナイティッド』の受付を探した。

成田と同様に、莫大な数のカウンターがあり、探すのも一苦労である。

端から端までを注意深く追っていった。

が…、その全てに、

「違う…」

という、溜息交じりの呟きをもらす事となった。

この時点で、出発40分前、9時50分である。

少々、焦り始めた。

結局…。

最初からそうすれば良かったのだが、インフォメーションで紙を見せ、

「ユナイティッド?」

と、問う事にしてみた。

インフォメーションの女性は、しきりに顔を横に振ると、英語で何かを語り始めたが、

「俺は、英語は分からんとですよ!」

俺は、日本語で抗議をし、ゼスチャーによる案内を求めた。

案内の女性は、

「OK、OK…」

そう言いながら頷くと、「バス」という単語をゆっくりゆっくり発し、近場のドアを指差した。

全くもって、意味が分からない。

「は? だけん、どがんせいって言よっとですか?」

俺は、心から焦ってき、つい怒鳴ってしまった。

熊本弁も露骨に出始めた。

時計は10時に差し掛かりそうなのである。

俺の後ろにはインフォメーション待ちの行列が出来始めている。

「ちっ!」

俺は、舌打ちを打つとインフォメーションを離れ、チラリと見えた『暇そうにしている警備の兄さん』の元へダッシュした。

「これ! これの受付はウォンチュー?」

和洋折衷も、ここまでいけば甚だしくて意味が分からないが、俺はチケットを見せながら、必死でユナイティッドカウンターを問うた。

男も、先ほどのインフォメーションの女同様、ドアを指差して「バス」と言った。

「バスじゃ分からん、アイドンノー!」

俺は怒り露わに、

「手をとって連れてってばい! ハンド、ハンド!」

と、必死のゼスチャーで案内を求めた。

これを遠めに見ていた日本語が話せる男がいた。

JALの関係者である。

ダッシュで駆けつけ、

「どうしました?」

優しい声で聞いてくれ、俺は地獄で仏、すぐに事情を説明して助けを求めた。

JALの人は、実に懇切丁寧に、このターミナルがユナイティッドの場所でなく、隣のターミナルである事、そこへ行くには、皆が指し示していたドアから出て、すぐ右手のバス停でバスに乗る事、それらを教えてくれ、

「大丈夫、まだ、間に合いますよ…」

と、俺を慰めてもくれた。

つるっつるに禿げ上がったオッサンであったが、

「次はJALを使います…」

思わず、そう約束してしまったほどに優しげなオッサンであった。

それにしても台湾のバス会社…、俺が海外素人と知ってか知らずか違うターミナルで降りる指示を出したり、大幅に到着時刻を遅れたりと、

「ふざけんなー!」

そう言ってやりたくもあり、精神的苦痛の代償に、賠償金でも貰いたいところでもある。

そんなわけで…。

雑多なドタバタがあったものの、無事に飛行機に乗る事に成功した。

帰りは月曜だからか、行きよりも格段に空いており、隣に人はいなかった。

俺は、窓際の席に移り、小さくなる台湾の『深い緑』を眺めた。

ふと、自分がTシャツ一枚でいる事に気付いた。

(日本でこの格好は辛いだろうな…)

そう思い、フリースジャンバーを取り出した。

機体が安定すると、例の如く、機内食の配布が始まった。

待ってましたと言わんばかりに、俺は行きの反省を踏まえ、

「キゥリィン、ビィアァー!」

そう言い、キリンビールをゲットした。

ちなみに飯の方は、上海風ヌードルと台湾風チキン丼、その二種類があり、

「もちろん、上海風ヌードルで!」

と、答えたわけだが、そのスチュワーデス、片言の日本語が喋れるようで、

「ウリキレ、デス」

無機質にそう言った。

腹は減っていた。

しかし、台湾風チキン丼のハッカク風味は、

(うんざり…)

その思いだったので、蓋を開けもしなかった。

俺は、サラダをつまみにビールを飲み干し、更に、後三本、追加で飲んだ。

暇な三時間、酔うしかなかったのである。

日本が近くなってきた。

ふと、気が緩んだのか炭酸の入れ過ぎか、ゲップが出た。

ハッカクの香りであった。

(うわー、ゲップが台湾だ…)

非常に落ち込んだ。

成田空港への着陸態勢に入ってからは、窓の奥に見える景色が白一色となった。

視界が悪い。

どうやら、雨のようである。

俺は、ジャンバーを羽織り、

(さ、寒い日本にそろそろ着くかな…)

思いながら真っ白の窓を見つめ続けた。

すると、突然に激しい揺れが起こり、気が付くと滑走路に着陸した瞬間であった。

白い景色の中に、薄っすらと近代的な建物が見える。

(ほぉー、そうとうに天気が悪いなぁ、霧が出てるか?)

思いながら、窓に顔をベタ付けし、空港の状況を窺うと、白いものが滝の如く豪快に降りしきっていた。

(雪かよー!)

俺は、その台湾との環境の違いに絶句した。

すると、機内放送が流れ、ありきたりのお礼があり、降っているものが『みぞれ』であると説明があった。

成田は真っ白な雪景色である。

その中を、大きな荷物を抱えて『京成スカイライナー』という特急に乗り、一路、社宅のある入間を目指した。

帰り着いたのは、午後5時過ぎである。

道子は俺を迎えるよりもバックに詰まっている土産物を喜んで迎え、早速、ご希望のパイナップルケーキを頬張りながら、

「ああ、おいしー!」

と、笑顔を見せた。

俺は、三日ぶりに会う事となる春に無限の愛情を注ぐべく、高い高い、飛行機、ダンスと、連続技を用いて全力で戯れた。

春も笑顔であった。

(やはり、台湾には家族で行くべきだったなぁ…)

深々とそう思い、

「次こそは家族で行くぞ」

それを言おうと思ったが、

(やはり10時間強の移動時間は赤子には無理だ…)

とも思った。

ちなみに…。

その後の道子は、『NACK-5』という埼玉ローカル局のラジオを聞いている際、題目が『旅行にまつわる話』だったため、自分が切迫流産の危機で台湾に行けなかった事をメールで送ったらしい。

すると、メールはすぐに取り上げられ、ラジオで読まれた挙句、

「しかし…、旦那はひどいねー。普通、行かないだろー」

と、コメントされたらしいのである。

それから道子は、安静の身ではあったが、実に浮かれていた。

聞けば、取り上げられたメールの中から抽選で、旅行券が当たるらしいのである。

「これで台湾に行けるかもよー」

道子は言うが、俺のハートはドスンと重い。

関東一円のネットで、

「普通、行かないだろー!」

そう罵られた俺は、どう見ても、嫁と娘を泣かせた悪役である。

更に、道子のラジオネームが「スプリングママ」で、容易にその旦那が俺だと察する事ができるのが、何となく悲しい。

今…。

川原さんの嫁・アッコさんと道子とで、メールによる再台湾計画が進められつつある。

が…、俺は、

(赤子連れの旅は近くて安全に限るし、伊香保、伊豆あたりが適当じゃないか?)

今回の初海外で、本当にそう思った。

道子は、この悲喜爛々を見て、

「これを読んでたら、台湾へ行く気がなくなって行くよー」

そう言っている。

出来るものなら、

(その行く気、全て、消え失せて欲しい…)

そう思うのであった。

台湾は、今も暑い最中であろう…。

 

〜終わり〜