悲喜爛々22「流産」

 

 

1、予兆

 

二月もこれで終わりとなる二十八日…。

俺は、人気の消えた事務所に残り、特急の図面を書いていた。

(残業なんて、何ヶ月ぶりだろうか…?)

そう思いながら、右手に握ったマウスを縦横無尽に動かし、線と線を繋げていく。

時計を見ると九時を回ったところであった。

この日の午後一番、

「この図面を今週中にあげてくれ。来週一番に欲しい」

上司にそう言われた俺は、快く、

「あいよ! 任せてください!」

そう返したものだが、よくよく考えれば今日は金曜日であった。

(今週という言葉に騙された、今日中にやれって言われていたら断ったのに…)

うな垂れたものだが、威勢よく了解しただけに、今更やらないなんて言えるわけがない。

結局、それから息抜きなしでパソコンと向かい合い、丸八時間が経過している。

が…、今の時点で、どう見積もっても後半日はかかるであろう分量が残っていた。

(今日、夜を徹してやるか、それとも、土曜に出てやるか?)

悩むくらいなら、さっさとやればよいものの、俺は真剣に悩んだ。

ついには、

「よし!」

掛け声と共に立ち上がると、同じく残っている上司に駆け寄り、

「納期…、延ばしてくれまちぇんかね?」

ダメ元で甘い声を出しながら確認してみた。

が…、上司の反応は、

「駄目だ、必ずやれ」

と、いう、ありがたいもので、

「それでは、土曜に出ます…」

そういう運びとなったのである。

さて…。

いつもの俺であれば、土曜出勤を選ぶなどありえないのであるが、今だけは、そう遅くなれない理由があった。

嫁の道子が『切迫流産の危機』という名目で、安静にしなければならない状況にあったのである。

二週間ほど前、産婦人科へ定期検診へと赴いた道子は、

「切迫流産の危険性がありますねぇ、安静にされる事をお奨めします」

そう言われた。

ま…、安静と言っても、寝てばかりいるわけではなく、簡単な炊事もやれば、洗濯もやるわけだが、とりあえず重いものは持たせないようにし、空いた時間はなるべく横になるよう二人で話した。

従って、俺が付きっ切りで看病しなくてはいけないというわけでもなく、道子に至っては見た目元気なわけだが、ふとした瞬間に流産をする危険性はある。

(そういう嫁を夜中まで一人にするのは、あまり…、ねぇ…)

この思いで、俺は、仕事を途中で切り上げた。

帰ると、道子は大きな体を布団に横たえ、小さな春と二人、寄り添うように眠りについていた。

春とは、来月一歳になる、うちの長女である。

道子は、俺が帰ってくる音を聞くや、

「なんか…、腹の調子が悪いんだよねぇ…」

辛そうにそう言いながら起き上がり、夕飯の準備をすると言った。

俺は、熊本発、本格的九州男児ではあるが、そういった状況の嫁に飯を盛らせるほど鬼ではない。

自分で飯を盛り、横になった道子と話しながら飯を食った。

道子が言うには、

「なんだか、下腹部がズキンズキンと痛む」

と、いう事である。

俺は、時期が時期であったため、道子にそのまま寝る事をすすめた。

道子は、

「そうした方がいいね。でも、昼も寝てたから眠れないよ…」

消えそうな声でそう言っていたが、俺が飯を一口だけつまみ、ふと、道子を見た時には既に寝息を発していた。

一歳にもならない小さな春の横に、百七十を超える大柄な道子の寝顔が並んでいる。

「まさか、道子がこういう事態になるとはなぁ…」

夢にも思わぬ事であった。

道子の一人目の出産は、

「これほどの安産は病院始まって以来です」

産婦人科がそう言ったほどの超安産で、分娩室に入って六分ちょいで産まれている。

妊娠期のツワリも全くなかった。

ゆえに、春を連れ、病院を退院した道子は、

「子供を産むために生まれてきたような女やね…」

とか、

「道子さんを触ると、何となく私も安産になりそう…」

と、あたかも安産の神様のような扱いを受けた。

その代わり、道子が出産の時の話をすると、

「あー、いい、いい、道子さんの話は参考にならない」

聞く耳をもってもらえず、こちらも超人扱いされたようである。

俺は、いつもなら飯を食った後、春を風呂に入れ、それから小説を書くためにパソコンに向かうところであるが、今日だけは、

(パソコンを打つ音で道子が起きたらマズイなぁ…)

そう思い、読書を始めた。

道子と春の寝息が静かな部屋に心地よく木霊している。

(そういえば、明日は出勤だったっけ…)

ゆらりゆらりと揺れながら、俺はその事を思った。

文字が文字でなくなり、霞んだ視界が狭く狭くなってきた。

と…、そこで、俺の手元から本が落ち、静かな部屋に「ドサッ」という音が響いた。

それで我に返った。

(駄目だ…、今日は早めに寝よう…、道子もこういう状態だし、それがいい…)

俺は灯りを消すと、道子と春の布団をなおし、ダブルの布団に滑り込んだ。

(ああ、あったかい…)

布団は、道子と春の体温で、適度に温まっていた。

(こんなに早く寝るのは何ヶ月ぶりだろう? 残業にしても寝る時間にしても、今日は、珍しい事がよくも続いたもんだ…)

思ったところで、俺の意識はとんだ。

この日…。

春一番が吹き荒れているらしく、築三十五年・社宅の窓ガラスは割れんばかりに揺れていた。

 

 

2、出血

 

「ああ、何かが変だ、変だよぉ!」

俺は、道子のその声を薄っすらと感じた。

が…、目覚めたわけではない。

道子は、布団を跳ね上げると、何やら敷き毛布をゴソゴソと触り出し、

「濡れてるよぉ」

そう嘆いている。

俺は、極めて夢見心地で、目を開ける事もなかったのであるが、

(何やら、道子が起き出したなぁ…)

それは思った。

道子は「ああ、ああ…」という声を何度ももらすと、布団から出、

「ちょっと、ちょっと起きてよぉ」

両手で俺の頭を掴み、揺らし始めた。

「なんや…、こんな朝っぱらから…?」

俺は、開かない目を擦りながら枕の隣にある目覚し時計を見た。

四時であった。

当然、部屋の中は墨汁をこぼしたように真っ暗で、聞こえるのは、春の寝息と車の走る音だけである。

道子が灯りをつけた。

開ききらぬ目に、刺すような光が飛び込んできた。

それは、道子にもいえる事であったろう。

が…、道子は、ズボンをまんべんなく触ると、

「凄い血が出てる」

そう言い、しっかりした足取りで便所へ駆け込んだ。

(え…、血…?)

俺にしてみれば、一気に目が覚める事となった。

灯りがついた事で、春も目を覚まし、わんわん泣き出したのであるが、構っている時ではない。

道子が立ち去った後の敷き毛布周辺を見ると、道子が拭いたのであろう、薄赤に染まったティッシュが散乱していた。

ゾッとした。

俺は、情けない話であるが、血を見るのが苦手で、子供の擦り傷を見るだけでも握力がなくなる。

これを書きながら血を思うだけで、脱力感にさいなまれ、思うようにキーボードが叩けなくなるほどである。

「おい、道子、大丈夫か?」

便所へ行った道子に問いかけながら、昔、会社の同僚が語った『凄惨たる流産寸前の話』を思い出した。

それは、今の俺同様、安静中の嫁に付き添っていた時の話、という事であった。

突然、同僚の嫁が大量の出血をし、床を赤く染めたそうである。

嫁は、すぐに便所へと駆け込んだ。

そして、思いもつかない、レバ刺しのような『赤い塊』を見たという。

嫁の声を聞きつけ、トイレへ駆け込んだ同僚は、その赤い塊に仰天したものの、幸い血を見る事に耐えれる体質らしく、冷静に救急車を呼んだらしい。

医者は、その赤い塊を持って来るように指示し、同僚は、それをビニール袋に移し、一緒に救急車に乗り込んだ。

病院に着くと、すぐに診察台へ乗せられ、「まだ流産していない」その診断を受けた。

嫁は即入院、絶対安静になったという。

「それで、その赤い塊というのは何だった?」

俺は、全身から血の気が引いていく感じを覚えつつも、非常に気になったので問うた。

すると、

「血の塊で、子供の栄養分だったところらしい」

と、いう同僚の答えが返ってきた。

その後、同僚の子は無事に出産され、今では元気に走り回っている。

さて…。

俺は、同僚の『その話』を何度も何度も思い出し、

(そんなのが道子の体から出てきたらどうしよう?)

その思いに震えた。が…、その反面、震えながらも、

(あの道子が、そんな事態に陥るわけがない!)

と、確信はしている。

以前、道子が妊娠中に、一度だけ強烈な腹痛を訴えた事があった。

俺は、顔面蒼白となり、すぐに救急車を呼んだものだったが、蓋を開けると単なる下痢であった。

(また、そういう類だろう…)

思いは非常に楽天的である。

もちろん、これを強烈に後押ししてくれているものに、前述の『一人目・超安産』がある。

ゆえに、俺も道子も、

(まさか、流産する事はないだろう)

この思いが根強くあり、この時点であってもその念を捨てきれない。

今、便所へ駆け込んだ道子も、少しすれば平気な顔をして便所から出て来、

「ごめん、単なる痔だったよー」

明るく、そう言い放つに違いなかった。

が…、便所から出てきた道子の表情は、事態の深刻さを露呈していた。

下のものは履き替えており、手には、血だらけのズボンやら下着やらを持っている。

「血が…、凄い出てた…」

最も身近な嫁の血でありながら、それを見た瞬間、俺の体中の力が抜けた。

更に、

「ほら、前に、流産しそうになった同僚の話をしてくれたじゃない」

道子も俺と同じ事を思い出したのであろう、その事を言い出すと、

「私からも…、レバ刺しみたいなのが出てきた…」

落ち着いて言う道子の右手には、何かしらが握られている。

「よかっ、見せんでいい! 早く袋にしまえ、すぐに病院へ行くぞ!」

俺は目を逸らすと、砕けそうな膝に思いっきり力を込めた。

気を抜くと崩れ落ちそうだった。

一人で布団に入っている春は、泣き疲れたのであろうか、今度は、

「まんま、まんま…」

グズリ声で飯を要求し始めた。

道子は掛かり付けの医者に電話をすると、事態を説明し、すぐに駆けつける旨を伝えた。

医者は、同僚の時と同じように、

「赤い塊を袋に入れて持ってきて下さい」

そう言った。

俺は、出発の準備をするべく、春に上着を着せ、必要だろうと思われる荷物をバックに詰め込んだ。

すぐに、出発の準備は完了した。

「なんか…、赤い塊をよく見ると、頭と体っぽいものが見えるよぉ、これ子供かな…、怖いね…」

道子が袋を凝視しながら耳を覆いたくなる事を言い始めた。

「やめろ、縁起でもない…、さっさと行くぞ!」

俺は春を抱えると、道子にゆっくり階段を下りさせ、二人を車に詰め込んだ。

すぐに家を出た。

四時半であった。

空は、起きた時と少しも変わる事なく黒々としており、その中に星が映えていた。

道は、車という車もなく、たまに新聞配達の原付バイクとすれ違うくらいで、極めてスムーズに流れた。

皮肉な事に、久しぶりに早く寝たせいか、こんな時刻でありながら気分はスッキリしている。

(何だか…、これが仕組まれていた事のようで気味が悪い…)

二車線のバイパスを突っ走りながら、しみじみ、そう思った。

 

 

3、診断

 

静寂の中に、春の声だけが木霊していた。

寝てくれれば良いのだが、昨晩は、道子と共に早めの床についたようで元気一杯にはしゃいでいる。

ここは、産婦人科の待合室である。

裏口から通された俺達一同は、真っ暗な通路を抜け、日頃はごった返している、この待合室に通された。

非常用の灯りのみが灯っており、薄暗い。

音という音はなく、強いて言うなら時計の音だけが静かに時を感じさせてくれた。

道子は、すぐに診察室へと通された。

「すぐにお呼びしますので、旦那様は少々お待ちください」

道子を診察室へ招き入れた小柄な女性は、優しげな声でそう言うと、ドアをゆっくりと閉めた。

それから、しばし時間があった。

春を寝かそうと、抱いた状態で故郷の名歌・五木の子守唄を歌い、リズミカルに揺らしたが春は寝なかった。

それどころか、歌えば歌うほどに調子を上げ、抱いた手の中で反り返り、暴れ出す始末である。

と…。

その横を四十は越えているであろう、白衣を着た男の医者が通っていった。

目は、起きたばかりの様相を呈しており、寝癖も見える。

医者は、俺に気付くと軽い会釈をし、診察室へ駆け込んでいった。

さて…。

それから十分ほどが経過しただろうか。

先ほどの小柄な女性が俺を呼びに来た。

俺は、暴れる春を両手で押さえながら、ゆっくりとした足取りで診察室へ入った。

そこは、真っ白の空間で、待合室が薄暗かっただけに眩しささえ感じた。

道子の姿は見えない。

が…、小さな机に向かっている先ほどの医者が、神妙な顔を見せていた。

医者の目は、先ほどの眠気眼ではない。

戦う男の目になっていた。

こうなると、その上で跳ね上がっている寝癖も、何やら医者の燃えるハートを表しているように見えてならない。

「どうでした、先生?」

俺も医者につられたのか、体が熱くなり、神妙な顔付きで問うた。

「はい…」

医者は、ゆっくりとした口調で一息つくと、右手に持ったボールペンをすらすらとカルテに向かって走らせた。

意味不明な絵と文字が一つの流れで描かれた。

(どういう意味だろう?)

思いながら、その間を興奮気味で過ごした。

鼓動が早いのが分かる。

手には、薄っすらと汗が握られた。

と…。

医者の口が、俺の心の隙をつくかのように絶妙なタイミングで開いた。

「単刀直入にいうと…」

ドキン!

静寂をぶち破る突然の声に、俺は体全体が飛び跳ねた錯覚を覚えた。

横を見ると、いつの間にか道子もいた。

医者は初めて俺と目を合わせた。

そして、

「今回は…、残念ですが、流産です」

その一言を告げた。

「残念ですが…」

医者はもう一度そう言い、神妙な顔を下へ向けたが、俺にしてみれば、

(ああ、流れてしまったのか…)

と、意外に冷静で、それよりもむしろ道子の方が気にかかった。

目線を、ゆっくりとその顔に移した。

道子は、診断を聞き終えると沈黙を続けていたが、ふと、

「しょうがないね…」

そう呟き、笑顔を見せた。

それで俺も安心した。

「道子…、また作りゃええた」

「そうだね」

「それに、二人目だけんが、そうショックもないだろ?」

「うん…、でも、二学年差にはこだわりたいね」

「二学年差か…、ちょっときついなぁ」

俺と道子は、そのような会話を交わした。

これに対し、医者と看護婦は悲痛な表情を保ちながら俺たちを見ている。

立場上、歯を見せるわけにはいかないのであろうが、それにしても、

(なんという悲しい顔をするのだろう…)

そう思われ、笑顔を見せている当人達の気が引けた。

医者は話を続けた。

「先ほど持参された赤い塊に胎児はいませんでね、検診をやっている最中に胎児の一部が出てきました。多分…、胎児は中で死んでいたのでしょう」

医者の話はまだまだ続く。

要約すると、三ヶ月未満の流産は、得てして胎児に問題があるらしく、今回はその典型だという。

更に、十から十五パーセントという、稀とはとても言い難い確立で流産の可能性は付きまとっているらしく、その大部分が、この三ヶ月未満に起こるらしいのである。

(自然淘汰…。そういう事だな…、しょうがない…)

俺は、医者の話を聞き終えると、そう結論を出した。

と…。

抱えていた愛娘が、抑えている俺の手を振り払って暴れ出した。

バタバタと、実に元気な娘ではある。

「おお…、どうした春、どうした」

その動きを抑えつつも、その暴れぶりが実に微笑ましく思われた。

「春…、お前は強い子だったという事だなぁ…、よくぞ産まれてくれたもんだ」

言うと、道子も、

「うんうん、強い強い…」

と、頷いた。

初めて医者と看護婦の顔に笑みがもれた。

春は皆に褒められ、よほどに嬉しかったのであろう、

「ダァ、ダァ、ダァッ!」

俺の手の中で、更に元気一杯に暴れるのであった。

 

 

4、余韻

 

道子は、子宮内に残っているものを手術で取り除くため、絶対安静の扱いとなり、入院の運びとなった。

「二人にするの…、心配だよぉ…」

道子は、おしめも換えた事がない俺と春が二人っきりになる事を心配し、そう言うのであるが、俺にしても、

(大丈夫かな…?)

と、初めての事に恐れをなさずにはいられない。

結局…、俺は、診察室を出てすぐに義母へ電話をかけ、事態を説明し、こちらまで来てもらう事を選んだ。

どちらにせよ、早めに連絡しておかねばならない事であった。

時刻は、五時を少し回ったところである。

義母は、このような時刻であるにも関わらず、ゆく年からか、すぐ電話に出てくれた。

時が時だったので、よほどの事だろうというのは話す前から察してもらえたらしく、義母は、話を聞き終えると、

「始発で入間に向かうだわさ!」

狼狽する事もなく、お得意の出雲弁でそう言ってくれた。

が…、義母の住むところは同じ埼玉県ではあるが千葉県との県境・春日部市で、俺の住む入間とは五十キロの距離を隔てている。

それは、電車で駆けつけてもらっても三時間弱はかかる距離であり、ざっと計算しても、義母が入間に着く時刻は九時前であった。

道子は、既に病室へ連れて行かれ、いるのは俺と春の二人だけである。

「春…、お母さんは入院だ。義母さんが来るまでの後三時間、寝てくれるか?」

俺は、春に問いかけた。

春は、相も変わらず俺の胸元で暴れていたが、俺の問い掛けにピタリ動きを止めると、

「ダァッ、ダダダダ!」

次の瞬間には、最高の笑顔で暴れ始めた。

「寝る気配なし、家に帰って三時間、死ぬ気で遊ぶぞ!」

父子二人が外に出ると、やっと空が白みを帯び始めていた。

さて…。

社宅に帰ると、玄関に血の付いたズボンが落ちており、その先へ行くと薄赤に染まったティッシュが散乱し、布団も食器も豪快に乱れていた。

ああいう状態の後に飛び出したものだから、仕方がないといえば仕方がないのであるが、

(修羅場だな…)

そう思われた。

道子もおらず、少しすれば義母も来るので、茶碗を洗って布団ぐらい畳んでおこうと思うが、春がそれを許してくれない。

離れると泣き喚くのである。

更に、説明書きを読みながらミルクを作って飲ませると、すぐに恐れていた排便タイムが訪れた。

俺は、春には申し訳ないが、ブビビビビ…という豪快な音を聞こえていない事にし、もんわりと臭う刺激臭も臭っていない事にした。

が…、あれだけ動いていた春の動きが止まり、俺に何かを訴えるべく、腰のあたりを叩きながら、

「あぶぶぶぶ…」

そう言って、俺の目をジィーッと見るのである。

さすがの俺も、これにはお手上げであった。

初めての『オムツ替え』に挑戦する覚悟を決めざるを得ない。

俺は、春を転がすとズボンを脱がせ、オムツをゆっくりと下ろした。

そこには、見慣れないペースト状の排泄物がたんまりと付着しており、尻だけでなく、前にもその被害は及んでいた。

これが男で、その股間に小さなツノがちょこなんと生えているのなら、

「えいえい、泣くな泣くな、でやっ!」

と、擦り取ってしまうところであるが、春は女、男が踏み込むべきでない、マリアナ海溝の如き深いものがそこにはある。

俺は、慣れぬ手付きでゆっくりゆっくり排泄物を取り除くと、かぶれ気味なのでベビーパウダーをまぶし、たっぷりの時間をかけてオムツをはかせた。

「春、綺麗になったぞぉ」

春を抱きかかえた俺は、思いっきり安堵の溜息を吐き、ふと、失神しそうなほどの精神的疲労を感じた。

が…、それで終わるわけではない。

これからが遊びの本番で、肩車、人形劇、飛行機などなど…、ありとあらゆるモノと、バイタリティーを駆使し、春の相手をした。

道子の流産を悲しむ余裕など、そこには一切なかった。

が…、あったとしても、悲しいとは思えなかったであろう。

道子が子を宿しているという事が分かったのは、ほんの二ヶ月ほど前…、それから腹が大きくなったわけでもないし、まして胎児が腹を蹴ったわけでもない。

俺にしてみれば、妊娠検査薬の反応と、産婦人科が言った「おめでとう」それが全てであった。

(あの子は、何も実体がないままに死んでいった…)

その事を思うと、何やら気が重くなった。

今、その実体をハッキリと見せてくれている春が目の前にいる。

それがゆえに、その存在を微塵も感じさせず、いつの間にか死んでいった、あの子が哀れで哀れでしょうがなく思われるのだ。

(悲しくはない。だが、あの子は…、本当に哀れだ…)

せめて、道子の腹を膨らましたり蹴ったりしたのであれば、俺も道子も、目の前にいる春と同じように、その実体を愛す事ができたであろう。

しかし…、その子には愛すべき実体がなかったのだ。

俺は、春を抱き締めると、

(せめて、悲しんであげたかった…)

その思いに濡れ尽くされた。

 

 

5、残像

 

義母が最寄の駅に到着したのは、予想通り、九時前であった。

日も、ほどほどに高くなっており、緩やかな南風も吹いていた。

俺と義母は、入院に必要だろうと思われる何品かを袋へ詰めると、急ぎ病院へ向かった。

が…、道子は手術中のようで、面会もかなわず、

「今日中に退院はできます。しかし、それが昼過ぎか夕方かは分かりません。とにかく、こちらが良いと判断したら旦那様に連絡します」

そう言われては、帰るより他はない。

荷物だけ預け、病院を後にした。

それから義母と春と俺、三人っきりになった。

義母は、手際よく食器やら布団やらを片付け、あっという間に家中をピカピカの状態に仕上げた。

それから、何をするわけでもなく、ウロウロと家中を歩き回り、暇つぶしとなる場所を捜し求めているようであったが、ふと、思いついたように、

「気晴らしに買い物にでも出かけるだわよ!」

そう言った。

やはり、愛娘の事ゆえに気が気でないようだ。

病院から電話があり、道子が退院したのは午後四時である。

全身麻酔を打ったらしく、気分がいまひとつ優れないらしいが笑顔ではある。

ひとまずは安心であった。

が…、病院配布の紙によると、手術後三日間は絶対安静、一週間は安静にという事で油断はできない。

絶対安静の三日間は義母にいてもらう事となった。

それからの生活というものは、実に落ち着いたものであった。

その日、不測の事態により出勤を見合わせた俺は、義母もいる事だし、その翌日の日曜には出勤した。

義母がいるという安心感はなにものにも変えられない。

術後二日となる桃の節句・三月三日には社宅の奥様を家に集め、雛祭りのお祝いを催したようであり、その日、俺は義母がいる安心感からか、春の初節句という事をすっかり忘れて飲みに行った。

「福ちゃん、今日は特別な日って知ってるでしょ、最悪だよぉ!」

「すまん…、完璧に忘れてた…」

いつも通りの俺と道子も戻っている。

義母は火曜に帰った。

これにより、道子の絶対安静が解けた。

道子は、これを境に、

「もうお腹に誰もいない事だし、安心して飲めるよぉ」

と、酒も飲むし動き回りもする。

一週間後には病院に行って術後の経過を診てもらい、

「もう何をしても安心ですよ」

そのお言葉を貰ったようだ。

道子に、落胆の色は見えない。

あの子が残した傷跡は、残っているようで残っておらず、その時間は風が吹くかの如く、何気なく流れた。

が…、その間、俺と道子を知る者達からしてみれば、どう声を掛けたら良いものか判断しかねたに違いない。

センセーショナルにホームページというツールを用いて『妊娠の発表』を行った直後、事態が急変しただけに、それは尚更の事であったろう。

「福山…、発表するのをちょっと待てば良かったな」

その声も多く聞こえたが、実体がない以上、二人目は人の心に宿る以外、その存在を示す証もなく、

(いい時期に発表した…)

気を使った方々には悪いが、俺は、そう思っている。

また…。

道子が春に向かって、

「お姉ちゃんになるんでしょ!」

と、叱り、

(あ…)

と、気付く事がある。

俺は、それでいいと思う。

哀れなあの子の残像を、無理に消す事はないと思う。

次に生まれてくる子は二人目ではない。

三人目なのだから。

 

(終わり)