悲喜爛々26「とある週末」

 

1、発端

 

「福ちゃん、私、最後に女だけで旅行に行くからね」

言い出した道子が選んだ場所は日光であった。

熊本へゆく前に、義母、義姉、春と、女だけの旅行へゆくという事らしい。

無論、春も連れての旅行という事で、俺にしてみれば、これを断る理由はない。

むしろ、

「お前の予定に合わせて送別会の方をずらそう」

そう言ったほどで、先週の長野送別会などは、これに合わせて日程を設定したほどである。

道子は言う。

「最後だから、特選の宿に泊まるんだよ!」

その言葉通り、一泊云万円もする素晴らしい場所を予約したようで、

「楽しみだよぉー」

道子の挙動に、その盛り上がってゆく様が浮かび上がっている。

予算は全て義母持ちだという。

道子が盛り上がるのも尚更であろう。

さて…。

先週の金曜5月30日、道子の出発前日に話を移す。

「今日、所沢で送別会があるけんねー」

俺は、この言葉のように、その日、所沢で送別会の予定であった。

ゆえに、道子を春日部に送り届ける時を「旅行当日の朝」という事にした。

が…、蓋を開けてみれば送別会は6月13日に延期され、結局はこの日に春日部へ出る事となった。

無論、俺にしてみれば飲む気だったので、やりきれない気持ちとなり、会社の面々を集め、いつものところ『かずさ』で飲む事にし、道子には、

「10時には帰るけん、それから出よう」

そう伝え、俺は定時後ダッシュで居酒屋へ駆けた。

(5時から飲めば丸5時間は飲む事になる、出発は10時で大丈夫だ…)

その思いで居酒屋へ急いだ俺は、常連客の釣ってきた鯖などに舌鼓を打ちつつ、延べ7人の友人を迎えた。

酒量も相当にいった。

時間もあっという間に5時間後を迎えた。

事情を知っている一部の先輩は、

「おー、そろそろ時間だろ、帰らんと道子が怒るぞ」

福山家に気を使い、優しげな瞳でそう言ってくれるのであるが、一部、心の狭い面々は、何とも醜悪な面構えで、

「なんや、お前、帰るんか…? 何とも腰抜けになったのぉ…」

呟くが如く、そう言い放った。

荷物をまとめ、金も払い、席を立ったばかりの俺であったが、さすがにその事を捨ててはおけない。

「な、なんと…、腰抜けですと! む、む、むむむ…!」

グラスを持ち直し、再度テーブルに向かう事となった。

結局、俺が居酒屋を出たのは道子に予告した時を30分ほど過ぎた時刻で、一家が社宅を出る時刻というのは11時になった。

春日部に着いたのは、無論、午前様である。

崩れこむように道子の実家へ上がり込むと、そのまま暖かい布団へ身を任せ、その夜を終えた。

ちなみに…。

この夜の道子は尋常ではない。

夜は早々より起きてられず、更に『人任せ末っ子思想』を極めた気分すらある道子が、真夜中に、半分寝ている俺と、熟睡中の春を車に乗せ、深夜の関東路を50キロ強も走り切ったのである。

正常の俺であれば、あの道子に、このような事は絶対にさせない。

道子を知る者なら、

「うん、私もそう思う…」

ハモりつつ、深々と頷いてくれるはずである。

つまり…、何が言いたいのか…。

そう…、道子は、それほど、この旅行に燃えていたのである。

が…、その裏で、同じく燃えている『俺の思い』を道子は知るよしもなかろう。

(関東ならではの史跡を、ここを離れる前に見ておきたい…)

俺は意外に勉強好きである。

その欲求が満たせる時というものは、送別される身で子持ちの俺にしてみれば、ここを除いて他はなかったのである。

ゆえに、この週末を、コンパや送別会など、ありとあらゆる誘惑から断腸の思いで守り抜いた『俺のここにかける情熱』を道子は何も知らないのである。

明日は…。

雨の確率100%という事である。

 

 

2、忍城跡(行田)

 

5月末という何とも異常な時期に四国へ上陸した台風は、そのまま温帯低気圧となり、関東地区では風こそ吹かなかったものの豪快な涙を垂らしてくれた。

無論、俺も道子も涙に暮れている。

「あーん、せっかくの日光がー!」

(むぅん…、俺の自由日が…)

てな具合で、朝一番の空模様に頭を抱えた。

土砂降りであった。

俺は、起きるや朝食を頂き、それから義母と道子を春日部駅まで車で送ると、あてもなく日光街道を北上した。

道子らは、駅で義姉と待ち合わせ、それから電車(特急)で日光へ向かうという。

晴れていたならば、俺は、このまま緩々と日光街道を北上し、街道脇の史跡をチラチラと見つつ日光まで登りきり、不意に義姉の携帯へ電話をかけ、

「いぇい、今、日光だぴょん、飯でも食うばい!」

などと、女衆の度肝をぬいてやるつもりであったが、走るうちに、

(こりゃ駄目だ…、観光どころじゃない…)

そう思わざるを得ない本降りになってきた。

この旅行の前提として、明日より、淵上という歴史好きの友人と関東周辺を回る事になっている。

ゆえに、晴れていて日光まで辿り着いたとしても、その日のうちに社宅のある入間まで帰らねばならない。

が…、その時の俺は、それを苦とも思っておらず、

(日光街道を、その日の内に往復してやらぁ!)

などと、どこかエネルギーを持て余しているところがあった。

が…、雨だけはどうもいけない。

粕壁宿から杉戸宿、幸手宿、栗橋宿まで駆け抜けたところで前が見えないほどの豪雨に見舞われた。

タライを引っくり返したような豪雨である。

同時に、俺の『やる気』が根本から削がれた。

(駄目だ…、これじゃ日光までも行けない、引き返そう…)

思うや、すぐに進路を左にとり、日光街道を離れ、熊谷方面へ車を向かわせた。

無論、その方面は入間に近付く方面である。

(帰りながら史跡を巡っていこう…)

気持ちは、そのような方向へ向かった。

が…、史跡巡りを止めたわけではない。

途中、コンビニに立ち寄り、義母が、

「これは、オヤツに食べるだわぁ」

そう言いながら渡してくれた『トンガリコーン』を食しつつ、地図や情報誌を眺め、帰るルート周辺の史跡、もしくは博物館を捜した。

ふと、行田という街が目に留まった。

『さきたま古墳』という、埼玉の元になったといわれる古墳群の近くに、『忍城跡』というものがあるらしい。

俺の興味は、源平の争乱後から現代史で、聖徳太子以前などは全く意に介していない。

ゆえに、大きく書かれた『さきたま古墳』よりも『忍城跡』が気になった。

それに、少し前に読んだ『真田太平記』で、

(忍城ていうマニアックな城が小田原攻めのところで出ていたような…)

そんな気がしたため、そこへ寄る事に決めた。

さて…。

雨の中、城跡から200メートルほど離れた場所に駐車した俺であるが、傘を差しつつ、純和風の庭園を抜け、その中心部へ歩み寄った。

城跡とはいいながらも、そこには四階建ての真新しい城が復元されている。

脇には小さな鐘つき場(写真)があり、その奥には立派な佇まいの行田市郷土博物館がある。

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この博物館には、忍城の経緯は然る事ながら、忍藩が廃藩になった後、行田を支えてきた足袋製造の詳細まで事細かに説明されていた。

ちなみに、簡単に忍藩の事を説明させてもらうと、この藩は豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方に付き、石田光成の攻撃を受けている。(この戦で水攻めされた事は有名らしい)

この時の城主は、成田という俺の存じあげぬ人物である。

それが追い払われ、徳川の持ち城となってからは、御三家の一つである松平家が入っている。

城は、明治維新の戦火を生き残ったが、明治6年に競売にかけられ、その面影はなくなってしまったそうであるが、昭和の終わりに現在の城が復元されたらしい。

とりあえず…。

まず、あえりえない事とは思うが、後々にここを訪れる方のために、忍城の史跡評価をしておく。

「200円というリーズナブルな値段にしては内容が素晴らしい。それに、庭園も綺麗で、子供連れは鎧も着れる。初心者や家族連れ向きで、五つ星の博物館といえるだろう」

以上、甘口の評価である。

興味がある方は、是非、行ってもらいたい。

 

 

3、渋沢栄一記念館(深谷)

 

次に…。

俺が目をつけたのは、渋沢栄一記念館という、群馬との県境・深谷にある施設である。

渋沢栄一という人物は、「資本主義の父」と言われる人物で、いわゆる、明治、大正にかけての経済界の重鎮である。

会社設立に関わった数は500以上になるといわれ、今の日銀を設立したのも彼である。

また、大隈重信に誘われて明治政府の大蔵省に仕えたりもしている。

が…、経済に無知な俺が、栄一の、そのような輝かしい業績に惹かれるわけがない。

栄一の、『泥臭い昇り詰め方』に興味があるのである。

彼は、ここ深谷の小さな藍染屋に生まれるや、尾高というご近所の博学者に尊皇攘夷の志を学ぶ。

それから、江戸へ出、天下の志士と交わりつつ、その人脈を元に一橋家に仕えている。

その後、最後の将軍となる徳川慶喜の弟に随行するかたちでフランスへ向かい、大いにその見聞を広げている。

つまり、完全なる田舎出身の成り上がり者で、差詰、

「経済界の豊臣秀吉…」

という感じであろう。

さて…。

この記念館であるが、入場無料なのだが外観は実に金がかかってそうな佇まいで(写真)、中には写真などが展示されている。

近くには栄一の生家などもある。

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やはり…。

無料ゆえに展示数も少なく、もの足りない感は拭えないが、概要を掴むにはもってこいの記念館ではなかろうかと思う。

ちなみに…。

深谷は、あの『深谷ネギ』で有名なところであり、俺にしてみれば、

(食わんといかん…)

当然その思いで、鍋のようなものを食したわけだが、

(あんまり普通のネギと変わらん…)

それが俺の正直な感想で、更にネギから噴出した熱湯が、俺の舌にまとわり付き、不覚にも火傷を負ってしまった。

また、降り続ける雨は一向に緩む気配も見せず、俺にしてみれば、

(ええい、くそっ!)

と、腹の立つ事この上ない。

ゆえに、俺のこの街に対する印象というものは、

「良いとは言えんなぁ…」

そういう感じなのである。

 

 

4、水戸散策

 

行田・深谷へ寄り、真っ直ぐ社宅のある入間へ帰った俺は、読書に耽ったり、酒を飲みにいったりしつつ、友人の淵上が来るのを待った。

無論、雨はまだ続いている。

淵上という男は、毎日のように歴史小説を読み漁っている事から、相当、日本史には興味があるようで、誰も付いては来ないと思われた俺の企画に、

「付き合うばい!」

二つ返事でそう言ってきた。

淵上が社宅へ到着したのは、深夜1時前である。

会社同僚の結婚式二次会があったらしく、ここへは終電で駆けつけたようだ。

俺と淵上は、先日、誕生日祝いとして和哉カップルより貰った『久保田・千寿』に口をつけつつ、

「明日、どこに行くや?」

「東海道を下るや、それとも中山道、もしくは水戸街道…」

などと、明日の行く先を議論し、結果、水戸へ行く事になった。

無論、明日は日曜ゆえ、翌月曜は二人とも有給休暇をとり、まさに『万全の態勢』をとっている。

すぐに水戸周辺で格安ホテルを探し、インターネットで予約を入れた。

さて…。

寝不足の感は拭えないが、早朝7時に目を覚ました二人は、一路、水戸を目指して進み始めた。

高速は使わない。

国道16号線で埼玉を横断し、それから学園都市・つくばを抜け、水戸街道を北上した。

水戸へ着いたのは午前11時である。

天気は昨日ほどではないが、小雨がしとしと降っているような状況である。

俺と淵上は、車を、千波湖という街の中心にある馬鹿でかい湖沿いに停めるや、傘を差し、徳川斉昭・慶喜父子像など(写真)がある公園を抜け、まずは徳川博物館を目指した。

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水戸は、最後の将軍を排出しただけでなく、黄門の名であまりにも有名な水戸光圀、幕末の志士として有名な藤田東湖など、多くの江戸著名人を排出しており、日本に多大なる影響を与えた藩の一つである。

さて…、その江戸時代の背骨を成す徳川家の博物館であるが…。

これ、水戸市街の外れ、保護林地区の小高い丘の上に立っており、中には家康が三家に分け与えたと言われている宝物などが展示してある。

俺の個人的な感想であるが、ここ、入場料1000円という極上のプライスを貰い受けるくせに展示量は少なく、設備も大した事はない。

良かった事といえば、受付の姉さんがべらぼうに美人であった事くらいである。

あれがボーンレスハムを連想させる年増のおばさんであったならば、

「おいおい、これで1000円はボッタクリだろぉー、金返せよ、こらぁー!」

などと、イチャモンをつける輩も現れるのではなかろうか…。

とりあえず、そう思わざるを得ない博物館ではあった。

さて…。

一向は、進路を水戸市街へ移す。

無論、移動は歩きである。

ゆるりゆるりと丘を下り、線路沿いを水戸駅へ向かう。

途中、徒歩の本分を発揮し、舗装されていない道を選んだりしながら、何とも適当に突き進む。

行路沿いに、日本三大庭園である偕楽園があったが、日本庭園に興味を持たない俺達はそれを完全に丸無視し、その前に佇む神社へ立ち寄った。

有名な神社なのであろう。

駐車場も有料で、本殿は、なかなか雄大なものがある。

脇には、藤田東湖を祀ったものであろう『東湖神社』なるものもあった。(写真)

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俺と淵上は賽銭を投げつつ、内では、彼女が出来る事を祈ったり(淵上)、家内安全を祈ったり(俺)、なかなか信心深い観光を行った。

さて…。

一向は、神社を抜けると幅1メートルもない民家の小道を抜けるなどして、どうにかこうにか歩いたものだが、ついにはホテルの駐車場で行き止まりとなった。

「ええい、こうなったら引き返す事はやめるぞ、ホテルの中を強行突破だ!」

これは、不法侵入罪になるのであろうか…、それは分からぬが、行き場をなくした二人は裏口からホテル内へ侵入するや、偶然、遭遇した係員に、

「玄関はどこですか?」

ぬけぬけと聞き、ついにはここを突破した。

水戸市街に入った。

次に目指している場所は『弘道館』という水戸の藩校である。

ここは、徳川斉昭が興した藩校で、徳川慶喜が学び、また、様々な幕末の志士がここから巣立っているところでもある。

また、大政奉還後、薩長に恭順の姿勢を見せるために慶喜が謹慎した場所もここである。

駅前の通りから左、水戸東照宮をぬけ、賑やかな通りを抜けると緩やかな坂があり、それを登りきると、歴史の小道(だったかな?)と呼ばれる元水戸城本丸辺りに到達する。

弘道館は、その入口にある。

建物は、純和風の木造平屋で、何となく親父の実家を豪勢にしたような風である。

料金は200円だが、遠慮なしに屋敷内へ上がれ、更に展示物も多く、見所も多い。

俺も淵上も大満足であったため、幾つか紹介したい。

下は、大広間に掛けられた掛軸の写真で、幕末の水戸藩の風を見事に表したものといえるであろう。

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ちなみに、これのレプリカが外の売店で売ってあり、なんと1万円をきっていたため、

(む、むむむ…、淵上に金を借りて買うべきかどうか…?)

と、迷ったものだが、これを買って帰っても、歴史を知らぬ道子に、

「なんだよー、このセンスのない落書きー、私でも書けそうだよー!」

などと罵られる事が容易に想像できたため、売店店主に、

「家を買ったら必ず買いに来ます」

そう約束し、渋々、場を離れたのであった。

次に、この掛軸を正面に、右側に視線を移すと下の写真のようになっている。

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一見、古い家の普通の客間という感じだが、まさにその通りで、こういった感じの景色が幾つも幾つも屋敷内に見受けられた。

また、縁側なども見慣れた造りそのもので(写真)、周囲に雑音はなく、俺と淵上は畳の上に大の字になり、そして縁側の奥に目をやりながら、

「はぁ…、落ちつくねぇ…」

などと、幕末の日本を楽しんだわけである。

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さて…。

田舎者ゆえに、前述の如く郷愁に浸る二人組ではあったが、

(これは違う…)

そう思う点もあった。

厠(トイレ)である。

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これは、江戸と明治の違いがはっきりと出ているのではなかろうか。

いや、もしかすると明治の建物でも、お金持ちの家はこのように畳張りだったのかもしれない。

が…、庶民派の俺にはどうも見慣れない景色だし、

(便所で畳張りはちょっとなぁ…)

とも思う。

ちなみに、昭和後半生まれの俺が軽々しく明治を口にする原因は、少年期、少し足を伸ばせば、そこら中に明治と触れ合う機会があった事による。

親父・富夫の実家は、熊本県の三加和町というところなのだが、今でこそ温泉センターなどができて人の臭いがするようになったものの、少し前までは普通に『火の玉』が出ていた(富夫談)ほどに妥協を許さない本格的な田舎だったようである。

ゆえに、俺の少年期にも他地区より『手付かずの明治』が残っていたとしても不思議ではない。

また、俺が産まれた時、明治生まれの曾じいちゃんが一人、曾ばあちゃんが二人、健康な状態で生きており、目から耳から明治に触れる事ができた事も幸運であった。

そういうわけで、年代からすれば俺は平成っ子となるわけだが、

(明治の雰囲気…、その断片くらいは分かる…)

などと、おこがましいが思っているわけである。

が…。

便所に関しては、俺の知る明治は『室外ポットン』であり、ここのものは完全にそれとは懸け離れているため、つい、露骨に興味を示してしまった。

ちなみに、写真で『使用禁止』となっているのは、実際に使用したものがいるからなのであろうが、国指定特別史跡に糞尿をかました奴がいるとすれば、是非、会ってみたいものである。

さて…。

俺と淵上は、一体、何キロ歩いたのであろうか。

弘道館を抜け、歴史の小道を歩きぬいた二人は、飯すら食わず、車を停めている千波湖へ戻った。

11時に出て、戻ってきたのは16時になっていた。

丸5時間である。

多分、15キロ近く歩いたはずである。

「あー、足がいちゃー、絶対、筋肉痛になるばい」

「俺も、たいぎゃいちゃー」(とてもいちゃーと言っている)

俺と淵上は、このような雑談を交わしつつ水戸を離れた。

 

 

5、結城という場所

 

水戸を離れた二人組は、土砂降りの中、車をかっ飛ばし、昨晩予約した宿へと向かっている。

場所は結城というところである。

別に、理由があっての事ではない。

単に、

「水戸周辺で飲むところがありそうな駅前のホテル、その上、格安のところがええねぇ」

そういう感じで、聞いた事もない『結城』という街を宿泊場所に選んだ。

結城は、市である。

ゆえに、

「市だったら間違いはにゃー。駅前には飲み屋街もあるて」

その事も選択の理由といわれれば、そうかもしれない。

値段は二人分で7600円、消費税を入れても一人4000円で、まぁまぁ格安といえば格安であろう。

それに『ダブルルーム』と書いてあり、

(二部屋で、その値段は安い!)

と、即決したのである。

が…、蓋を開けてみれば、

「しまったー、そういう意味だったのかー!」

そういう事態となった。

受付で、

「インターネットで予約している福山です」

そう言った俺と、脇にいる淵上を見たホテルマンの表情が強張ったのである。

「ダブルルームですが、本当によろしいのですか?」

ホテルマンは、顔筋に力を込めたまま俺に問い掛ける。

「あー、ええよ、ええよ」

明るく返す俺。

「それでは、どうぞ」

手渡されるキー。

ここで異変に気付いた。

キーの数が一本なのである。

「あれ…、ダブルルームだけんが二部屋でしょ?」

問う俺に、ホテルマンは、

「いえ、ダブルルームはダブルベットの部屋という意味でございます」

そう言い放ったのである。

淵上は分からぬが、俺は男と同じベットで寝る趣味はない。

「嘘ー、ダブルルームって書いてあったら二つの部屋って思うにきまっとるじゃにゃー!」

俺の猛烈な抗議が始まった。

が…、ホテルマンは凛とした姿勢で、

「いえ、ダブルルームというのは、普通はそのように考えません」

と、冷たく言う。

そして、

「シングル二部屋だと12000円でございます。ツウィンだと11000円でございます」

などと、ふてぶてしく提案してきた。

俺にしても引き下がれるわけがない。

「そら、たきゃーばい。二人で8000円だったけん、ここを選んだとこれー!」

安くしろと圧をかけた。

が…、

「12000円でございます」

ちょっとオカマっぽい、このホテルマンは一歩も退こうとはしない。

淵上を見ると、

(お前に任せた…)

そういう感じの霞んだ目で、俺と距離を置いている。

結局は、

「ええい、もう淵上と同じベットで寝てやらぁ!」

そういう事になり、ホテルマンからの冷たい目線に耐えつつ、二人はダブルルームに駆け込んだのである。

その夜…。

「よし、淵上、ぐたーっとすると出たくなくなるけんが、さっさと飲みに行くぞ」

ダブルルームでテレビを見ながら休憩していた二人は、飲みに出かける事にし、キーを先ほどの受付に預けつつ、

「飲み屋街はどこですか?」

その事を聞いた。

ホテルマンは困惑した顔を見せると、

「飲み屋街というものは、この辺にはありませんねぇ…」

呟くように言いながら、

「小さい店が、ちょろちょろとはありますが…」

などと、付け加えた。

(駅前なのに…?)

疑問には思ったが、さして気にする事もなく、

「門限はありますか?」

その事を問うた。

前回、北九州で締め出された苦い思い出があったからである。

ホテルマンは、俺の問いかけに、

「門限ですか…、そういったものはありませんが…」

何か言いた気な素振りを見せつつ、そこで話を打ち切った。

(なんや、このホテルマン…)

少しばかり苛々してしまったが無視し、淵上と駅前に出た。

そして、その近辺を練り歩くに、

「な…、なるほどー!」

二人とも、ホテルマンの言葉を納得するに至った。

「門限などはありませんが…」という何か言いた気な言葉の裏には、「この街で、深夜まで遊べるものなら、どうぞ遊んでください」という含みがあったのであろう。

この街は、完全に眠っているのである。

時計を見た。

午後7時前である。

この時間なのに、駅前に人通りはなく、駅のエスカレータの音だけが寂しく辺りに木霊している。

二軒、パチンコ屋がロータリーを挟んで立っているのであるが、外から覗くに、客がまったく見当たらない。

「なんや、この街?」

俺と淵上は顔を見合わせつつ裏路地へ入った。

居酒屋が二軒、ラーメン屋が一軒立ち並ぶ細路地があった。

「よし、小さい居酒屋へ入り、どこが中心部か聞いてみよう」

俺と淵上は、まだここが街の中心部だとは信じられないでいる。

だって、7時なのに人様の気配がしないというのは、どうも合点がいかない。

ちなみに、熊本県民の市に対するイメージは、

(市であれば、まぁまぁ栄えている…)

そういったものがあり、ここでいう『栄え』とは、人口とかの問題ではなく、飲み屋街がしっかりしているという意味である。

俺が7月から戻る事になる山鹿は、人口3万人強しかいないが、飲み屋街は、どこにも負けない程にしっかりしている。

それは、県下他市となる菊池、玉名などにもいえる。

さて…。

小さな居酒屋へ入った俺と淵上は、まず女将に街の人口を聞いた。

5万人強だという。

中心部を聞いた。

駅の反対側も含め、とりあえず、この辺りが中心だという。

少しだけ、意気が抜けた。

この店に、俺達以外の客は一人であった。

見るからに地元密着の60を超えてそうなオッサンであった。

オッサンは言う。

「飲むなら、この辺しかねーなぁ、この街で遊ぼうっちゃ無理な話だぁー」

俺、淵上、まさしく茫然自失の態となる。

「どうするや?」

「ふみゅー…」

俺達は、力なくビールを飲んだ。

飲みながら、女将に視線を移した。

と…。

女将の顔が涙でびしょびしょに濡れているではないか。

女将の視線の先には14型の小さなテレビがある。

(あ!)

俺と淵上は瞠目した。

そこには貴乃花の断髪式が映し出されていたのである。

「話では聞いた事があるんばってんが、本当に、こういうので泣く人もおるんたい」

「ふみゅー…」

俺達の熱は、更に抜けていくのであった。

さて…。

人情居酒屋を抜け出した俺達は、国道50号沿いまで歩き、『究極の一滴』と銘打たれたラーメン屋を発見したので、そこへ立ち寄った。

ラーメンの味はまぁまぁだったが、意気は消沈しっぱなしである。

「最後に、旅行って感じのところに行きたかったよな」

俺が言ったのか淵上が言ったのか、それは分からぬが、どちらかが言うと、

「まさに…、ね…」

もう一人の誰かしらが、重い溜息と共にそう呟いた。

俺と淵上の夜は、そこで果てた。

色がまるでない…、完全に、白黒の夜であった。

ちなみに…。

下はホテルの写真(朝)である。

男の寂しさが分かって頂けるのではなかろうかと思う。

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6、帰宅

 

月曜…。

まったくもって二日酔いもなく、早朝8時にホテルを出た二人組は国道50号線を西へ走り、ラーメンで有名な佐野か、もしくは餃子で有名な宇都宮を目指した。

つまり、あてがないのである。

月曜ゆえ、ほとんどの博物館は閉まっているし、観光地も閉鎖されている。

そのくせ、嫌がらせの如く空は晴れ渡っている。

「なんか、今回の旅行は全てにおいて馬鹿にされてる感じがするよな…」

「まったくだ…」

昨晩、街選びを失敗した二人組は、かなり後ろ向きになってしまっている。

ゆるゆると車を走らせながら、途中、4号線にぶつかり右へ曲がれば宇都宮、左へ曲がれば愛妻の待つ春日部となるのであるが、後ろ向きゆえに左へ曲がった。

それから日光街道を上り、

「どこにも寄らず、真っ直ぐ春日部に帰るのはよろしくなかろう」

という事で、戦国時代に栄えていた古河公方の館跡に立ち寄った。

ここは、埼玉県との県境・古河市にあり、この史跡全体が大規模な公園になっている。

公園内には、館跡以外にも昔造りの民家(無料)があった。

が…、閉まっており、立て札には、

『5月末まで無休、6月から毎週月曜休み』

とあり、今日は6月2日月曜日であった。

「あはあは…、あははは…」

乾いた笑い声を発しつつ、男二人は森を抜け、孔雀小屋を見つける事になる。

孔雀小屋には二匹がつがいで放たれており、今、まさに求愛行動の真っ最中であった。

「お、淵上、見物だぞ!」

久々の素敵なタイミングに、俺は我を忘れて孔雀小屋にへばりついた。

オスの孔雀は美しい羽をメスに向け、ブルブルと震わせながら求愛行動を行う。

(頑張れオス、俺達の分まで燃えるんだ!)

手に汗握る俺。

が…、メスはオスの頑張りを見届けようともしない。

それどころか、逃げるように狭い檻を走り回るのである。(写真)

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(はぁ…、なんと虚しい絵だ…)

俺は、この絵に、今週末の俺と道子の差を思った。

すぐそこ、春日部にいる道子は、最高級旅館でたっぷりと遊んできたはずである。

最高級ゆえ、あれがあーなって、凄まじくて、料理なんかドーンだったに違いない。

俺と淵上は孔雀小屋を後にすると、『すきや』(牛丼チェーン店)で牛丼とカレーのセット、『ダブルセット』というものを頼み、

「うわー、旅の締めって感じでちょっとゴージャスよなぁ」

などと、小さな喜びを噛み締めている。

「おいしーなぁー楽しいなぁー、淵上ー」

「うん」

小さく盛り上がる二人ではあるが、春日部に着けば、道子がこう問い掛けてくるはずである。

「楽しかった?」

俺達は何と返せば良いのであろう。

ふと、

「うーん、旅の思い出はダブルセットって感じだな」

その回答が頭をよぎり、

(いかんいかん…)

頭を抱えた。

日光街道・粕壁宿までは、ほんの5キロ。

まさに、目と鼻の先である。

週末は…。

これにて果てた。

 

(終わり)