悲喜爛々28「東九州をゆく」

 

 

1、これから

 

7月16日の日記を見てもらえば分かるように、これからは頻繁に旅をしようと思う。

もちろんの事、それは家族を連れての小旅行であったり、男一匹・孤独な旅であったり、道なき道をゆく荒行であったり…、その幅というものは多岐に渡るかと思われるが、その全てを悲喜爛々に写真付で載せ、

(この書き物が皆の観光の手助けになるようにしたい…、延いては日本全体における観光業の発展に、大なり小なり寄与したい…)

そういう偽善的野望を持っている。

また、単に観光地へ行き、その感想を述べるのではなく、その場所の歴史的な背景を大まかに調べ、

(書く方にも読む方にも実になる旅行記にしたい…)

そう考えている。

無論、個人的な所感もビシバシ述べ、税金の無駄使いに関しては、納税者の一人として厳しい突っ込みを入れるつもりである。

目標は、

「目ぼしい九州の観光地を制覇する」

高すぎる感は否めないが、これを掲げ、やる気満々で臨みたいと思う。

 

 

2、カンノリという男

 

旅行記といいながら、いきなり旅行と関係ない話になって申し訳ないが、高専の時の級友に「カンノリ」という男がいる。

俺が就職する前、

「北九州連合ば作って、関係を絶やさんようにすっばい!」

その強い掛け声のもと、寂しがり屋の連合を作った。

それは、熊本を出、北九州に赴いた級友の集まりで、メンバーは俺、後藤、浦部、カンノリの計4人であった。

が…、発起人の俺が皆の予想を裏切って埼玉へゆき、浦部は当時学生で、北九州かと思ったら飯塚で、結局は後藤とカンノリの2人きりとなった。

その後、2年もするとカンノリは北九州を離れて熊本へゆき、もう2年すると後藤は俺を追うかのように埼玉へ行った。

これにて、北九州に集った者は綺麗に霧散した事になる。

そのカンノリ…。

しばらく連絡が途絶えていたのであるが、先日、悲喜爛々で書いた後藤の結婚式で久しぶりに会った。

それから、次に連絡が来たのはメールである。

「骨を折った、複雑骨折で一ヶ月くらい入院になる、理由は言えない」

内容はそういったもので、カンノリからではなく、カンノリの彼女から知らせがきた。

(あら、大変だ…、しかし…、理由が言えんとはなんだ?)

俺は、そのメールに訝しげな目を向けると、

(見舞いに行かにゃーねぇー)

その事を思った。

カンノリが骨折した理由を知ったのは、その数日後であった。

友人・後藤が掲示板を開いているのだが、その掲示板に、

「カンノリが骨を折った理由は腕相撲てったい!」

という、タレコミ情報が載ったのである。

俺は、それを見た瞬間に吹き出した。

(う…、腕相撲!)

腕相撲で複雑骨折なんて聞いた事がない。

無性に詳細が知りたくなった。

(腕を折ったのが俺だったら原稿用紙200枚くらいは書けるばい! 一体、どうやれば骨折するまで腕相撲ができるんだろうか?)

そう思うと、いてもたってもいられなくなり、翌々日に佐伯へ行く予定だったので、

「道子ー、その日に見舞いに行くぞー!」

そう決めた。

カンノリが入院している病院は、山鹿から阿蘇へ行く途中にある。

丁度、同期の中野氏がリフレッシュ休暇を取り、9連休をぶちかまして湯布院などへ行くついでに、

「福ちゃん、会おうよ!」

そう言ってきたので、阿蘇で落ち合う事になっていたのである。

ゆえに、少しも遠回りする事なく見舞いに立ち寄り、

「おぉ、福山ぁ、久しぶりぃー」

カンノリ独特のネチョーンとした喋り口を聞く事ができた。

俺は、すぐさま詳細を聞いた。

カンノリは言う。

「別に強い相手としたわけでもにゃーし、何回もしたわけじゃにゃーったい。互角と思われる相手と1回だけノリでやったら、ボキッていうすげぇー音がしてからたーい、俺が思っとる方向と違う方向に手が向いとったんたい。まいったばい」

笑顔でそれを言った。

つまり、力が互角の男と、会社の休み時間に腕相撲をやり、力を入れた瞬間にボキッという音が響いたそうである。

よく見ると、腕が変な方向に曲がっており、

(やびゃー…)

思ったのは、カンノリよりも相手の方であったろう。

病院で診察を受けると、上腕の骨が捻じ曲がっており、割れて鋭利になった部分が血管や筋肉を傷付け、猛烈に腫れていたらしい。

すぐに入院、すぐに手術(写真:術後の傷)をし、現在はリハビリ中という事である。

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ところで…。

腕相撲をした相手は、「気にするな」と言うカンノリに顔を青くして謝ったらしい。

俺にしてみれば、その男にこそ同情する。

カンノリも不運な事ながら、相手においては少なからず折った責任が覆い被さるのだ。

誰も、腕相撲をやる時に、

(相手の腕が折れるかもしれない…)

そんな、ふてぶてしい事を思っている奴はおるまい。

よって、カンノリには、

「ちょっと骨が弱いんじゃにゃー、カルシウムば取らんけんたい!」

という、骨粗鬆症の指摘をし、

「はい、プラモ」

見舞いの品として、片手でつくれ、且つ時間が潰せそうな車のプラモを渡したのであった。

ちなみに、腕相撲でここまで派手に骨を折ったという例は今までにないらしく、先生としても、

「むーん、こんな事があろうとは…」

唸るより他はなかったそうである。

また、退屈に虐げられ、

「夜なんてたい、9時消灯の10時就寝ばい…」

吐き捨てるように呟くカンノリには、心底、同情するより他はない。

「きつかろね…、俺だったら絶えられんばい…」

そのような慰めを言い、ふと、カンノリの腕を拭きに現れた看護婦を見た。

「ちょっと看護婦さん、10時過ぎに看護婦ば集めてコンパでもしてやってよ。若い男に10時消灯は辛過ぎるばい」

言ったものであったが、カンノリの目が、

(やめろ!)

そう言っていたのでやめた。

しかしながら…。

(珍しい骨折ではあるもんだ…)

なぜだか不思議に感心した。

 

 

3、阿蘇

 

同期の中野氏との待ち合わせ場所は阿蘇ファームランドである。

ここは、阿蘇の麓を走る国道57号線から少しだけ登ったところにある大規模テーマパークで、もう少し登ると有名な米塚(写真)もある。

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馬鹿広いコテージ群があり、地ビールが飲めるレストラン、そして、ショッピング用の施設が無数にある。

俺達は、ここへ11時に着いた。

中野家は、メールで、

「12時前には着きます」

そう言っている。

ゆえに、1時間くらい施設内をウロウロし、家族サービスのようなものをした。

無論、退屈である。

「あー、はよ中野さん来んかねー?」

腹が減っている事もあり、苛々しながら到着を待った。

中野家は12時を3分回った時間に来た。

「もー、おしゃーばーいー」

ブリブリしながら言ったものだったが、

「おっ、福ちゃん、痩せたんじゃ」

そう言われたため、

「うそっ!」

機嫌は一発で直った。

確かにそう言われれば、埼玉を出る時、体重計が壊れているとしか思えなかった数値だったので、今は目に見えて違うかもしれない。

が…、もっと考えれば、あれは25連発の送別会で強引に太ったものであり、今は2ヶ月前に戻っただけである。

ゆえに、諸手をあげて喜ぶというのはどうかと思われるが、その時の俺は諸手をあげて喜んだ。

再会を祝った二家は、カロリー満点のチーズ料理を頬張り、大いに会話を弾ませるに、

「えー、直美さんー、今日が30歳の誕生日なのー!」

と、この日が中野家のメモリアルデーという事が分かった。

すぐに小さなケーキを買い、真慎ましやかに宴をあげた。

「今日から三つ、大変ですなぁ」

言う俺に、中野さんの嫁・直美さんは、

「これからよ! でも、福ちゃん、その言い草は敵を生むわよ!」

そう突っ込んでくれた。

しかしながら…。

中野家には悪いが、これを機として「三十路」を考えるに、その道というものは、

(夢のまた夢…)

そういう思いでいたが、気が付けば後4年で俺も歩む道となっている。

(身近よのぉ…)

変わりゆく己が身の『置き所』に当惑する思いがした。

それは、機械系に強いオッサンが、気付けばパソコンの世になっており、

「変わったのぉー、本当に変わったのぉー」

しみじみと言う様に何となく似ている。

俺は…、いや、俺の中では、まだまだ子供でいたかったのであろう。

とにかく…。

俺や中野さん、年長組は当然として、春や中野家長女・友果なども、その再会に喜びを隠せなかったようである。

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4、豊後竹田

 

大分県の南西に竹田という市がある。

ここは、1000人の兵力で37000の薩摩勢の攻撃に耐えたといわれる岡城があり、その城下町として栄えたところである。

城跡には立派な石垣が残っており、街の中には、短いが武家屋敷の並ぶ通りもある。

また、湧き水も有名らしく、ウイスキーの原水に使用されているほどだと言う。

俺と道子はファームランドを離れると、青々とした阿蘇登山道を登っては下り、国道に出、一宮の峠を越え、寄り道をする事もなく竹田に入った。

時刻は午後3時を回った頃であったろう。

車を、滝廉太郎記念館の下にある無料駐車場に停め、武家屋敷を散策した。

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武家屋敷の土塀は、剥げかけているところに時代の重みがあり、

(ほぉー、なかなか…)

思ったものであったが、倉敷のような徹底感はなく、この120メートルしかない並びの中にも昭和的電気屋があったりと中途半端であった。

また、案内板があり、

「この奥、北条家には切腹の間というものがあり…、云々」

そう書いてあるのだが、北条家は民家のために入れず、他の立派な家も、門は開いていても内側には入れないというもどかしさがあった。

「切腹の間」なんて言われたら、歴史好きでなくとも入りたくなるのは人間の性(さが)であろうし、それを書いていて見せないという竹田市のやり方は、

(どうにも腹立たしい…)

そう思えてしょうがないのであった。

次に、この武家屋敷通りを抜け、右手の小高い丘を登り、蚊の多い山中へ入ってゆくと、凝灰岩を刳り貫いて造られた隠れキリシタンの礼拝堂がある。

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竹田市は、

「過去のキリスト信仰の困難さを物語る貴重な遺産」

そう言っているが、鉄の窓で蓋がされていて中に入る事ができず、更に、中を見ようにも暗くて何も見えず、何とも感想を述べ難い史跡であった。

うちの近くにある鍋田横穴群(古代人の住居)は、中に入るのは当然として、宿泊すら可能という事で、是非、見習って欲しいものである。

さて…。

俺と道子は、この辺りの道が「歴史の道」というらしいので、駐車場まで遠回りして歩いてみる事にした。

「旧竹田荘」と銘打たれた、何やら有名な画家宅前がその道になっている。

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確かに「歴史の道」といわれるように絵になる道で、その道は俺達が車を停めている駐車場を右下に見下ろし、その先は滝廉太郎記念館へと続いている。

滝廉太郎は、親父が大久保利通にも仕えていたという名家の生まれで、その仕事柄、日本中を流浪したらしく、昔では珍しい転勤族だったようである。

竹田へは12歳の時に移って来て2年間ほど住み、その時に見た岡城跡が印象に残り、有名な「荒城の月」をつくったという話である。

が…、どこまでが真実かは謎に包まれたままで、竹田と滝廉太郎はそれだけの縁である。

ちなみに、

(それくらいで、よく記念館なんかつくれるねぇ)

感心したものであったが、この上手となるところが、今日の目的地・佐伯にあった。

国木田独歩という有名な作家がいる。

この人、佐伯に一年間だけ教員として住んだらしい。

するとどうだろう、現在、佐伯市には同様に記念館のようなものができ、至る所に「国木田独歩、縁の云々」という碑が立っているではないか。

こういったものは、少ない観光資源になりふり構わず自治体がすがっているようにも見え、見苦しく、こういったところの記念館というものは得てしてつまらない。

(そんな重箱の隅をつつくような事をしなくても、もっと素晴らしいものがあろうに…)

その事を、

(ちょっと卑屈か…?)

苦笑しながら思った次第である。

 

 

5、緒方町

 

竹田の隣に緒方という小さな町がある。

昨今、ひっきりなしに噂に登る高齢化に悩まされる町で、若手には、

(嘘だろー?)

そう思わざるを得ない「驚きの優遇」を見せてくれる町である。

ちなみに俺は、次に住む町として、

(そういった過疎化の町…)

その事を考えているが、口にする事は争いの元なので止めておこう。

さて…。

この緒方町の一番の名物は滝である。

「原尻の滝」といって、名の破壊力こそないが、観光案内には、

「幅120メートル高さ20メートルの雄大な滝」

そう謳われており、写真もなかなかにパンチの効いたものが載せてある。

これには道子も、

「よしっ、マイナスイオンを浴びに行こうー!」

ノリノリで了解してくれた。

史跡関係は道子の興味を微塵もそそらないらしく、こういった滝などとは全く反応が違う。

(果たして、どのようなものなのか?)

期待を胸に、閑散とした駐車場に車を停めた。

駐車場は、近くに立派な道の駅があるが、最も滝に近いところにを利用した。

迫力のある轟々という音が辺り一面に響いている。

が…、駐車場から滝は見えない。

俺達は春を連れ、滝の見えるポイントへ出た。

「おぉー!」

どよめきが上がらずにはいられなかった。

(確かに凄い…)

圧巻の滝であった。

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軽く曲線を描いた崖から落ちる水は、前に軽井沢の先で見た「白糸の滝」のように華奢でなく、太い線を描いて落ち、その飛沫は風に乗って陸まで上がっている。

更に気の利いた事に、この滝の前に吊橋があり、正面から同じ高さで滝を堪能する事ができる。

また、下におりる事もでき、命知らずの馬鹿野郎は滝の流れ落ちる寸前のところまで行く事もできる。

滝に付きものの「山深さ」と「蚊の多さ」が皆無である事も道子を惹き付けた要因であろう。

「福ちゃん、ここは気に入ったよー、今度はお弁当を持って来て、ゆっくりしようよー」

その事であった。

ちなみに…。

命知らずで有名な道子は、吊橋に乗るとジャンプしまくり、

「揺れるー、揺れるよー」

お約束のように暴れたし、水の落ちる寸前・馬鹿野郎ポイントへも当たり前のように向かい、

「凄いよー、ああ、危険だよー」

そう言って楽しんでいる。

馬鹿野郎といえば、あの有名な太陽も吊橋が好きで、

「イェイ、イェイ、イェイー!」

馬鹿面で暴れる事を忘れないが、これと道子は何ら変わる事はない。

似たもの同士なのであろう。

 

 

6、佐伯市

 

緒方町を出ると、後は脇目もふらずに走るより他はなかった。

俺より1年程前に会社を辞めた先輩と佐伯で落ち合う事になっているのだが、その待ち合わせ時間が午後7時なのである。

緒方を出た時刻は5時を優に回った時刻で、その距離は関東でいうなら、入間から春日部を越える距離がある。

関東なら、完全にアウトである。

途中、給油する際、

「今、ラッシュ時刻ですから混みますよぉー」

地元の青年は、そうも言った。

(やば…、間に合わんかもしれん…)

ちょっと焦りつつ、道中、有名な風連鍾乳洞に寄りたかったが飛ばして佐伯を目指した。

すると、どうだろう。

(あれ…、どこが混んどると?)

思うほどスムーズに行き、佐伯には待ち合わせの30分前に着いた。

多分、「混む」と言った青年による渋滞の定義は「前後ろに車が付いた時の事」を言い、そう言われると「混んだがスムーズに動いた」となる。

この青年が関東へ行くと、熊本から出てきてすぐの俺のように、

「ガソリン代ば払っとるのに何でチャリンコより遅いじゃ、ボケェー、金ば返せー!」

と、車中、絶え間なく苛々する事になるのであろう。

まったく、都会がおかしいのか田舎がおかしいのか…。

さて…。

佐伯で待ち合わせの場所に着いた俺は、すぐさま先輩の由井野さんに連絡を入れた。

この人、先輩とはいっても御年55歳になられる人で、実父の富夫より上である。

入社してからずっと席が隣同士で、その状態を保ったまま、俺が辞めるより1年ほど早く会社を辞められた。

機械設計を、会社に入って30年もやっているそうで、俺の隣で、

「はぁー疲れた、50を越えると集中力がなくなる」

そう呟きながらCADに向かっていた姿が昨日のように思い出される。

課において、初めて俺を飲みに連れて行ってくれたのも由井野さんで、真面目に図面を書いていた俺に、

「おっ、福山君、よく定時後に真面目にやってられるねぇ、抜かなきゃ抜かなきゃ…、そうだ、今から飲みに行くかい、奢ってやるよ」

と、声を掛けてくれたものであった。

つまり、由井野さんは、俺の定時ダッシュの脚力を植え付けてくれた先生とも呼べる人物なのである。

電話越しに、由井野さんの懐かしい声が響いてきた。

「あー、由井野さん、今、駅前に着きました」

「え、誰?」

「福山です」

「え、なにー、誰ー?」

「福山ですが…」

「あっ、ああ、福山君かー、久しぶりー、明日だろー、待ってるよー」

「え…、今日ですよ、今、佐伯駅前にいますよ」

「うそっ!」

由井野さんは明日だと勘違いし、ウォーキングの真っ最中であった。

辛うじて、携帯を持っていてくれたのが不幸中の幸いで、

「あっちゃー、じゃー、今からそっちへ向かうから待ってて」

そう言ってくれ、電話は切れた。

こういったケースは、余人には少ない事であるが、

(由井野さんならあり得る…)

あの人に限って、そう思えた。

そういう大らかな人なのだ。

さて…。

久々に会う由井野さんは全く変わっておらず、

「さ、アパートに車を置いて、美味い魚を食いに行こう!」

そう言って間髪を入れずに動き、街中の居酒屋へ福山家を招待してくれた。

佐伯という町は、山鹿同様、近隣の田舎から飲むために人が集まるらしく、人口の割には規模の大きい飲み屋街がある。

飲み屋街の隣にはアーケードもあるが、これは見事なまでに閑古鳥が鳴いており、昔日における造船街の隆盛を今に伝えてくれている。

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俺達は、このアーケードを途中で曲がり、こことは打って変わって賑やかな飲み屋街へと向かい、由井野さんが導くまま、お奨めの居酒屋へ入り、お奨めの刺身を食った。

刺身は、あり得ないほどに美味かった。

「福ちゃん、魚がコリコリしてるよー」

道子の感想が示すように、この店は朝釣った魚しか出さないそうで、歯ごたえが違う。

歯が、身にサクッと入るのである。

すぐに腹一杯になった。

酒も、久々に由井野さんと杯を交わし、量こそ飲まなかったものの、チビリチビリと適量を飲んだ。

ていうか、腹一杯になり過ぎて、酒の入るところがなかったという方が正しい。

「苦しいよー」

「死ぬー」

福山家の二人組は腹を抱えて悶えながら、眠くて泣き喚く春を抱え、由井野宅に帰った。

由井野さんは独身で、1DKのアパートに住んでいる。

雑魚寝させてもらうには充分過ぎる広さだったので、遠慮なく泊まる事にし、眠くなるまでビールを飲んだ。

寝たのは12時くらいである。

道子がブリブリしながら言うには、

「2人とも何だよー、すぐに寝て、イビキかいて、私は寝れなかったよー!」

との事で、その言葉を裏付けるかのように俺と由井野さんは朝5時よりウォーキングに出かけ、道子と春は見送りすらしなかった。

ところで…。

由井野さんのアパートは「歴史と文学の道」と銘打たれた道路沿いにある。

道沿いには、先ほど書いた国木田独歩の記念館があったり、佐伯2万石の藩主・毛利家の菩提寺・養賢寺、昔造りの茶室、そして佐伯城の三の丸櫓門が並び、その後ろには佐伯城跡を頂に持つ山城がそびえている。

無論、ウォーキングのルートとして、その道を選び、その足を持って山城を登った。

由井野さんが言うには、

「お年寄りも朝から登ってるから」

との事であったが、実際に山頂を目指してみると、これはウォーキングではなく、明らかに登山であった。

うっかり、俺の足元はサンダル履きで、足場は赤土でもあった。

息も乱れぬ55歳・由井野さん(マラソンをやっている)の隣で、26歳の俺が、

「死ぬー、死ぬー…」

息を振り乱しつつ、悶え悶えて次の一歩を踏む。

狭い視界は噛みつかんばかりの鬱蒼とした緑で、足元は赤い茶色であった。

何とか…、何とか…、死ぬ思いで山城を登りきった。

城跡から大分の山々を眺め、息を整えた。

5時過ぎという事もあり、まだ日も昇りきっていなかったが、薄い霧に覆われた深い緑が街の奥に見えた。

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海が見える方向に足を運んだ。

こちらは薄日をいっぱいに浴びた佐伯の街が広がっており、奥には豊後水道が見える。

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なかなか雄大な眺めで、佐伯城主の毛利氏もこの眺めを楽しんでいたと思うと不思議な思いがする。

アパートに戻ったのは、6時くらいであったろう。

道子も春もグッスリと眠っていたので、

「もう少し歩こう」

という事で、今度は海側、市場の方へ歩く事になった。

駅前のスーパーに置きっぱなしのマイカーを取りに行く用もあった。

歴史と文学の道を先ほどとは逆に歩むと綺麗に整備された菖蒲園があり、国道に出る。

駅前までは20分弱で着いた。

ところで…。

前の晩、飲みに出かけた時から思っていたのだが、この街の挨拶をする習慣というものは凄まじいものがある。

由井野さんが埼玉から越してきて驚いた事は、

「喋り始めた子供から倒れそうな老人まで、皆が皆、挨拶をしてくる」

という事らしい。

確かに、暗闇で顔がまったく見えないのに、

「ばんわっ!」

突然に響いた学生の声に、思わず学生時代を思い出して、

「チュッス!」

そやつがどこにいるかも分からぬのに返してしまった。

ウォーキングをしている時などは、チャリンコに乗る人から杖をつく人までもが、にこやかに頭を下げ、同時に元気な挨拶を発してくる。

すれ違った人の中で挨拶をしなかった者は一人たりともいなかったであろう。

無論、自然にこちらも挨拶を交わしてしまう。

(素晴らしい街の風習が出来上がってる…)

その事を思った。

さて…。

マイカーと対面した俺は、そのまま四国の宿毛行きフェリー乗り場の横にある市場へと向かった。

ここは、由井野さんのウォーキングコースらしく、たまにここで朝飯を食うらしい。

時は、6時を優に回っていた。

人はまばらで、魚は足の踏み場もないほどに並んでいるが、とても活気があるとは言えなかった。

「由井野さん、もうピークの時刻は終わったんですかね?」

聞くと、

「いやいや、築地とかの考えでいけば暗いうちから始まるけど、佐伯の市場は7時から盛り上がり始めて8時でピークを迎える。田舎はゆっくりしてるんだよ」

との事で、由井野さんはここを歩きながら、緩やかな佐伯の風土を楽しんでいるそうである。

ちなみに、緩やかといえば道子と春も負けていない。

俺達が帰っても二人は起きる気配さえ見せず、起こしても全く起きなかった。

結局、佐伯を出たのは午前7時を回ってから、由井野さんが仕事に出る30分前であった。

佐伯という街、

(なかなか住むには良さそうな街だなぁ…)

道子の考えは知らぬが、魚の新鮮さ、飲み屋街の充実ぶり、精神の健全さ、俺の評価は密かに高い。

ま…、住めばどの町も都なのであろうが…。

 

 

7、豊後水道

 

佐伯を早朝に出た俺達は、海沿いを縫うように走り、九州最東端となる鶴御崎を目指した。

四国と九州の間、その海峡を豊後水道という。

太平洋と瀬戸内海を結ぶ水道である。

佐伯から鶴見の半島へゆくには、この豊後水道が陸地に入り込んでいるところがあるため、一度、陸の方へ向かわねばならない。

これが非常に遠回りで、すぐそこにある佐伯の街がなかなか離れない。

当然、半島の集落には渡し舟があり、佐伯まで海で渡る。

多分、佐伯の街で飲んでいる鶴見の者達は、

「終舟は何時だっけ?」

「さぁー、あの船頭、気分で終舟の時間を変えるかんなぁー」

そんな会話を交わしているに違いない。

何とも、のどかな絵で、飲んだ後に舟で家に帰るなんざ、なかなか風流でもある。

江戸・深川で飲んで、大川(隅田川)を小船に乗って帰る剣客のようではないか。(剣客商売のイメージより)

俺と道子は、

「いいよなぁー、風流だよなぁー」

「別に…、不便なだけじゃん」

そんなチグハグな会話を交わしながら、鶴御崎を目指し、愛車を飛ばした。

道々には漁村しかない。

それを幾つも越え、途中、大島と最も距離が近くなる「元の間海峡」で一休み。

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鶴御崎までは、もう一息であった。

時刻は8時丁度である。

後10分もすれば鶴御崎に着くはずである。

そして…。

確かに、着いたのはキッカリ10分後であった。

が…。

俺と道子は目を丸くする事になるのである。

鶴御崎にゆく道が寸前で閉鎖されていたのだ。

(はぁー?)

車を降りつつ、その真相を確かめた。

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謎はすぐに解けた。

9時から17時までしか道を通さないのである。

更に、一人300円の通行料を取ると書いてある。

道に関所があるなどという話は、どの本を読んでも書いてなかったし、一人300円といえば家族5人だったとすれば1500円で結構高い。

それに徴集の理由が「自然保護など」と書いてあるのも、何となく嘘っぽくて腹がたつ。

「どうせ、役人の腹を肥やすために取るんだろーがぁー!」

そう突っ込みたくなるのは、俺が卑屈だからであろうか。

多分、町の財源を確保するためだと思うが「ここまで来て引き返す奴はいない」と見た、自治体のいやらしい考えの表れである事は間違いなかろうと思う。

時計を見た。

8時15分を指している。

さすがに45分も待つのは癪なので、道子と談合の上、帰る事にした。

この半島へ立ち寄った事は、完全に無駄骨であった。

それから、しばらくは海沿いの道が続いた。

次の目的地は「干物の村」と自ら銘打っている米水津村(よのづむら)である。

ここに、海風館(しーふーかん)という干物を専門に売る道の駅があるらしい。

隣が水産基地というのも何となく期待が持てる。

が…、ここも9時前から営業という事で、ここで朝飯を食うつもりが、食堂は11時から営業という事であった。

踏んだり蹴ったりである。

が…、15分ほど待てば干物販売のみはできるという事で待った。

そして、開店と同時に入った。

海風館の中は、本当に干物しかなかった。

干物のみが大きめの冷蔵庫に水産業者ごとに並んでいた。

道子は、

「義父さんと義母さんにお土産だから」

などと、優しげな事を言い、地元の買い物客に商品の説明を聞いた。

「ウルメイワシは美味いけど、こっちの魚の倍するからなぁ、うちはいつも安い魚や」

地元の買い物客は豪快にそう言い放つと、たっぷり入ったシシャモくらいの大きさの魚をごっそり買っていった。

(さて…、道子はどちらを買うか?)

ニヤニヤしながら後ろで見てると、迷う事なく安い大量魚を買い、おまけのようにアジの干物を買い物篭に入れた。

(道子も主婦になったなぁ…)

陰ながら、その事を思った。

それからも海沿いの道は続く。

県道から国道388号線に入り、相も変わらず漁村ばかりを越えた。

道の感じが変わってきたのは大分の最南端・蒲江町の中心部を過ぎてからである。

山道に入った。

その瞬間、離合不可能な単線になった。

更に、悪路となりガードレールが消えた。

不思議としか言いようがない。

落ちても平気な道にガードレールがあり、峠越えの、落ちたら確実に死ぬであろう悪路にガードレールがないのだ。

まさに、裸の峠越えであった。

買ったばかりの地図を見ると、宮崎との県境にあたるこの箇所には「ルート随一の難所」と注意書きが施されている。

(確かに…)

そう思いながら、慎重にハンドルをきっていると非常に疲れた。

たまたま、対向車が一台もなかった事が不幸中の幸いであろう。

多分、あの峠で離合をする場合、よほど運転に自信のある者か、小慣れた地元民でなければバックする気にはなれないであろう。

さて…。

難所を抜けて宮崎に入れば、後は川沿いの緩やかな道である。

俺は、道子に運転を任せ、熟睡する事に決めた。

早朝からの佐伯城登山が祟り、かなり眠かったのである。

「北川町というところに西郷隆盛宿陣の地があるけん、そこに寄って」

そこまでは20分もあれば着くと思われ、辺りでは一番の観光地で、目立つはずであった。

(さすがの道子も見落とす事はなかろ…)

そう思い、俺は浅い眠りに落ちた。

が…。

道子はなんと、それを見落としており、結局はUターンする事になった。

「道子ー、何で見落とすんやー?」

俺は心底疑問に思って問い、道子は素知らぬ顔で答えた。

「道の駅があったから、特産品はなんだろーって思ってたら見落としてたんだよ、悪い?」

さすが、身も心も「大物」な奴ではある。

 

 

8、可愛岳

 

田原坂で散々にやられた薩摩軍は、矢部、人吉と防戦しながら後退し、宮崎に出、更に上へ上へと追いつめられ、ついには延岡の少し上、可愛岳(えのだけ)の麓にまで引き下がった。

西南戦争の話である。

ここでの薩軍宿陣場所は、児玉邸という広めの民家で、ここで西郷を含めた首脳は軍議を開いた。

軍議は、薩軍の協力隊に解散を命ずる事を決め、薩軍に至っては、

「山中を徒歩で抜け、故郷・薩摩で死のう!」

そう決した。

官軍は、薩軍を蟻の子一匹逃がさぬよう厳重に包囲し、降伏を待った。

ジリ貧まで追い詰められた薩軍が集団で自決をする事はあれ、まさかに抵抗するとは思ってもいなかったのであろう。

が…、薩軍は決死の脱出劇を試みた。

深夜、児玉邸の裏手、可愛岳の崖をよじ登り、包囲している官軍に一斉攻撃をしかけたのである。

慌てふためいた官軍は果てしなく脆かった。

蟻の子一匹漏らさぬ包囲網のはずが、簡単に大きな穴を開けた。

その穴に水が流れ込むように薩軍は可愛岳の山中に雪崩れ込んだ。

「追え、追えー!」

官軍の将は涙声で叫んだはずである。

だが、薩軍の神出鬼没な作戦は、兵を混乱させるには充分過ぎた。

深夜という事もあり、100の兵が1000にも2000にも見えたのであろう。

結局は薩軍の逃走をゆるし、西郷らは望み通りに城山で果てる事になるのである。

地図で難所と呼ばれた峠を抜け、延岡方面に下ってきた俺達は、その西郷が軍議を開いた旧児玉邸にいる。

現在、旧児玉邸は博物館になっており、200円で入る事ができる。

道子や春がいないならば、このまま裏にそびえる可愛岳に登りたいところであるが、そこは家族持ちの辛いところで泣く泣く諦め、博物館の資料を楽しむだけにした。

資料は、田原坂のそれに比べれば、比較にならぬほど寂しいもので、唯一、

(おぉー!)

そう思えるのは、軍議シーンを人形で再現してある奥座敷ぐらいであろう。

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総評として、遠出してまで見る価値はない。

が…、何となく「飛ぶが如く」(司馬遼太郎)に出てくるシーンが、その立地も踏まえ、立体的に浮かんでくる感はあり、ファンが見れば楽しめるのではなかろうか。

ちなみに、ここの博物館では「薩軍の可愛岳突破を辿るツアー」なるものを企画していて、それが11月3日にあるらしい。

歴史好きが集い、皆で難所の可愛岳を登り、最後にだご汁が振舞われるという話である。

前に鹿児島の牧園町で見た「坂本竜馬の足跡を辿るツアー」みたいなものであろう。

(こりゃ、参加せねば…)

密かに、その誓いを立てたのであるが、道子らは参加するわけもなく、

(一人で参加する事は必至だな…)

そう思われた。

また、イギリス人で、熱狂的な西郷隆盛ファンがいたらしく、こやつは薩軍が城山まで歩いた道を寸分の狂いもなく走破したと博物館内の記事に書いてあった。

俺も、それをやろうと思って地図を睨んだのであるが、

(駄目だ…、道がない…)

と、諦めるより他はなかったのだが、記事には、

「道なき道を、木を切り倒しながら進んだ」

そう書いてあった。

わざわざイギリスから来て、ここまでやる度胸は賞賛に値するが、森林伐採といえば森林伐採で、とても褒められたものではなかろう。

(でも、ちょっと凄くて羨ましい…)

悔しいのは悔しいのであった。

さ…。

後は、帰るだけである。

 

 

9、帰宅

 

可愛岳を10キロばかり南に下ると延岡の街が広がっているが、俺達は、それを無視して西に折れ、国道218号線に入った。

延岡は昔、自転車で九州一周をした時に、たちの悪いヤンキーに絡まれ、非常に不快な思いをした印象が強い。

ゆえに、宮崎第二の都市ではあるが、気にする事なくすっ飛ばした。

ちなみに、自転車による旅行は、熊本を起点に山陽走破、九州一周、四国一周、日本縦断としているが、最も人間性が良いと思われたのは高知で、最悪だったのが新潟である。

新潟では、チャリンコに付けていたスピードメーターが盗まれるわ、暴走族にあおられるわ、親不知という難所で死にそうになるわ、飲み屋街の人々は冷たいわで、ろくな思い出がない。

ゆえに、新潟出身と聞くだけで、先入観から、

(油断がならん…)

その思いが働くし、現に、飲み友達の一番手だった長岡出身・柴山氏は、俺達には素晴らしい態度をとってくれるが、関係ない人達へは冷眼を極めている。

柴山氏は言う。

「他人になんか毛ほどの神経も使わんし、福ちゃんが人様に気を使うのは、お疲れとしか思えんね、俺達は利害と温和な付き合いにのみエネルギーを用いる、そういう県民性さ」

何となく、説得力はある。

雪深い悪環境の中、力はあったが不遇の結末を遂げた上杉、その後、戊辰戦争では薩長に叩かれた長岡、そういった日本において恵まれているとは言い難い歴史環境が県民性を培ったのであろうか…。

無論、この事は解き明かす事のできない謎ではあるが、柴山氏の言葉と、何ら違和感なく結びつく気がするのは俺だけではなかろう。

さて…。

余談が長くなった。

国道218号線に入った俺達は、高千穂へと続く五ヶ瀬川沿いを内陸へ内陸へと進む。

下に、今回の旅行に関する地図を用意した。

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このまま川沿いの道を進み、矢部で国道445号線に逸れる。

それまでは、ひたすらに国道218号線を走り、もし矢部で逸れなければ、太陽の地元、石橋で有名な砥用町へゆく。

道は、静かな2車線道路で、幾つもの観光地を備えており、飽きはしないがとにかく長い。

佐伯から終点の山鹿まで、なんと300キロ弱の距離を走っているのだ。

高速なら何て事ない距離だが、下道、それも山道だと結構辛いものがある。

帰り着いたのは午後6時半で、それから春を恵美子に預け、地元・山鹿温泉で、道子と二人、その身を癒した。

「はぁー、今日は寝れるぞ…」

昨晩の睡眠不足の影響もあって、泥のように眠る事が予想され、事実、その晩は9時過ぎに寝た。

(やはり、適度な距離を走るように計画し、じっくり見ていかんと疲れるだけだ…)

その事を痛感した。

ちなみに…。

次回の事であるが、次回は、島原・天草辺りに繰り出そうと思っている。

天草四郎を歴史の重点に置き、その辺りを、今度はフェリーを用いながら、ゆるりと回ろうかと思っている。

九州の史跡・観光地は、まだまだ山ほどある。

目標、九州制覇は、遥か先の話である。