悲喜爛々29「島原をゆく」
1、起こり
俺と道子は、かなりの頻度で旅行に行っている。
それも、近場ではなく飛行機を用いた遠出の旅行(帰省を含め)が多いため、自然、マイレージポイントが貯まる。
マイレージポイントとは、飛行機に乗れば乗るほど貯まるポイントの事で、それが一定量を越えると往復無料航空券に換えてくれる、そういうものである。
それが二人して10000マイル以上貯まった。
「どこ行くや?」
「えー、でも、熊本から10000で行けるのは大阪だけだよぉー」
「大坂かー!」
話し合う二人であったが、道子のポイント有効期限というものが年内に迫っており、
「年内に大阪っていうのもなー…」
春の小ささも相俟って、頭を抱えるところであった。
と…。
JALのホームページに、
「期間限定、10000マイルでJALクーポン券に交換できます」
そのように書いてあるではないか。
「おー道子、こっば見みろよー!」
「えー、これはいいねー」
10000マイルで15000円分のJALクーポン券に換えてくれるというのだ。
それも日本人が好きな「期間限定」ではないか。
二人は食い付き、即決した。
二人合わせて30000円分のJAL金券になった。
相当にリッチな旅行ができる。
手続きを終えると、道子はすぐに旅行誌を二冊ほど買ってき、穴があくほど眺め始めた。
そして、
「福ちゃん、これ凄いよー、日航ハウステンボススウィート半額だってー」
見つけてきたものだが、よく見ると宿泊期限が切れているではないか。
「なんだよ、もー」
プンプン腹を立てた道子ではあったが、その後日、俺が何気なくインターネットのホテルオークションを見ていると、道子がいうホテルのファミリールームが半額からスタートのオークションに上がっているのである。
道子に相談し、ファミリールーム(4人用)という事なので、富夫や恵美子にも言い、半額+一円の値を付けて入札してみた。
すると、翌日には落札した。
入札件数一件、福山家、余裕の落札であった。
旅行日は富夫の営むプラモ屋の店休日に合わせ、7月30日(水)である。
道子は言う。
「ああ、もうっ、超楽しみだよー」
いつもの荒行のような旅行ではなく、今回は高級ホテルに泊まるゴージャスな旅行のため、道子の弾み方が普段と違う。
現に、何日も前から恵美子と揃ってお菓子を集め出し、
「おやつだよー、やっぱ、おやつは旅行の常識だよねー」
「そぎゃんたい」
言い合っている。
当日に至ってはクーラーボックスなども登場し、そこに、ビールを始め、ジュース類、チョコレート、ミカンなどが入れられた。
まさに、ノリノリの女衆であった。
が…。
その当日、
(この日に設定せんと良かったー!)
火照った体で悔やんでいる男がいる。
俺である。
二週間ほど前から軽い咳が出始め、それが前日に、熱を伴って勢いを増し始めたのである。
熱は一晩寝ても冷めず、咳は咳止めで強引に殺してはいるものの、結局は誤魔化しているに過ぎない。
(しまったー、今日行くところは重要な観光スポットなのにー!)
これでは意識朦朧として、見るものも見れないであろう。
今回行くところは、次の小説の題材に考えていた島原なのである。
「中止にするたい」
さすがに恵美子も言ってきたが、オークションの性質でキャンセル料は100%。
無駄に3万円を捨てるという事は、貧乏人には不可能である。
無論、平成の武士と呼ばれている俺の事、
「俺を置いて、お前達だけで行け…」
斜に構え、クールに言ったものであるが、奥方・道子さんが、
「貴方がいないと始まりません!」
などと涙声ですがってきたため、
「仕方がない…」
重い重い腰に鞭を打ち、肌寒い早朝の山鹿を出たのであった。
刻、午前6時である。
2、国見・鍋島邸
道子は7時15分のフェリーを予約している。
熊本から島原へ行くには、高速が発達した現在でもフェリーが早い。
以下、今回の旅行地図を載せるが、地図を見てもらっても一目瞭然であろう。
有明海を40分で渡り、高校サッカーで有名な国見に着く。
国見という街のサッカー熱は、実に驚嘆の感がある。
街灯がサッカーボールのかたちで、国見のマークは名物のタイラガネ(蟹)がサッカーボールを持っている絵なのだ。
まさに、小さな静岡がここにあり、
(自殺点なんかやってしまったら帰れんだろうな…)
他人事ながら、その事を思った。
さて…。
島原半島に着いた一行は、まず、この国見にある鍋島邸を目指した。
無論、旅行プランは、俺が2時間というたっぷりの時間をかけ、練りに練ったものである。
題目は、
「島原の乱を紀行する」
このようになっている。
ところで…。
この時期、長崎は全国高校総体があっており、どの街もジャージ姿の少年少女で溢れていた。
無論、国見はサッカーの開催地で、至るところに看板があり、目に付くものといえば「サッカー」という字ばかりであった。
鍋島邸の看板は、その脇にちょこなんと遠慮気味に構えられていた。
看板に従って細路地を入ると、見事な江戸時代風路地で、少し前に見た竹田の武家屋敷通りより立派ともいえる粋な小道が広がっていた。
小道の最後に鍋島邸がある。
鍋島邸は佐賀藩鍋島の飛地である神代鍋島藩の陣屋で、現在、私邸であるが一般公開されている。
見事な正門と、そこへ続く豪快な石塀が見事に調和しており、
「はぁー」
溜息が漏れる。
中は、庭園と、それらを見下ろせる丘へと続いているのだが、病中の俺にしてみれば動けば動くほど悪戯に体力が削がれるだけで、
(辛かった…)
その思い出しかない。
ちなみに言うと、その後の史跡巡りも俺が企画したものであるが、こういう状態のため、大して記憶に残っていない。
ゆえに、道子の言葉を借りる事が多いかと思われるが勘弁して欲しい。
3、島原城
一同は、それから「雲仙グリーンロード」なる山腹の立派な舗装路を通り、島原へ向かった。
俺が書いた計画表を見てみると、
「島原城を満喫した後に武家屋敷まで走る」
とある。
無論、走れるわけがない。
島原城へ着くと、死ぬ思いで階段を上がりながら、階毎にある展示物に朦朧の意識で目を通した。
写真は、島原城最上階から、つい先日、雲仙普賢岳大噴火で出来上がった平成新山を眺めたものである。
ご覧のように山の部分にだけ雲がかかり、ムカツクほどに何も見えない。
ところで、島原城へ入るのは有料なのだが、ここのチケットを買うと、西望記念館、観光復興記念館の入場券も付いてくる。
無論、有料のオマケなので行かぬわけにはいかない。
西望という人は、長崎の平和記念像を作った有名な彫刻家らしく、もちろん、その記念館は彫刻物の展示がしてある。
観光復興記念館は、普賢岳災害から島原が立ち直るという事をアピールする記念館で、市長が「島原は素晴らしい!」そう言っているビデオがエンドレスで流れていた。
平日という事もあり、客は俺達だけで、エアコンが効いた映画館を、富夫・恵美子コンビは、ゆるり睡眠室として堪能していたようだ。
と、ここで一点。
病人の目でも惹き付けられた展示物があったので写真を載せておく。
これは、両方とも火砕流で溶けたものであるが、左はガードレール、右は原付バイクである。
火砕流の凄まじさが生々しく伝わってくる。
また、島原城の全容も、お約束として載せておく。
やはり、天下の名城・熊本城と比べると見劣りするが、ま、こんなものであろう。
さて…。
一同は、走ってゆくはずだった武家屋敷群へ車で向かった。
ここは、
「見事!」
としか言いようのない素晴らしい観光地であった。
真っ直ぐに伸びた路地の中央を、清らかな水の流れる水路がピンと通り、両脇は低い石垣が伸びている。
もし、健康な俺がそこにいたら、
「すげー、すげーばい!」
走り回った事は言うまでもない。
また、この路地の入口に鯉の住む池があるのだが、一匹だけ、その大きさが半端でない鯉がいた。
道子に言わせると、
「な、なんだよ、このバケモノー!」
との事で、それはそれは本当にでかい。
見所満載・島原武家屋敷群、是非、実際に足を運んで見て欲しいと思う。
4、深江・水無本陣
島原を出た一行は、噴火後に出来た「まゆやまロード」なる立派な舗装路を通り、島原半島で最も手痛い噴火災害を受けた深江町へ出た。
まゆやまロードは、本来ならば平成新山を間近に見ながら走れる道なのであるが、この日はガスで何も見えない。
その代わり、土石流が斜面を駆け下りた現場は今だ生々しく残っており、それはガスの掛かるか掛からぬかギリギリのところで見る事ができた。
小山と小山の脇を、なにものかが滑り落ちていった様がリアルに伝わってくるではないか。
また、この先は災害速報でよく耳にした水無川に繋がっており、その下には大規模な集落がある。
無論、その集落は流れ落ちてきた土砂で埋まってしまったわけだが、そこに水無本陣という道の駅が出来ている。
ここは、日本最大級の道の駅らしく、奥には埋まった民家が手付かずで保存されている。
写真の家、築は平成元年、福山家実家と同時期の建築物ゆえ、富夫と恵美子にしてみれば、感慨深いものがあったようだ。
(ローンはどぎゃんなったんかねー?)
(うちはまだローンが残っとるけん、ここも残っとるどでー)
潤んだ瞳の奥に、その心配が渦巻いていた事であろう。
さて…。
これより先、運転手を富夫に交代した。
明らかに熱が上がってきたし、体の重さもピークを迎えつつあったからだ。
また、予定表でいけば、この後、南へ下り、北有家町という小さい町に日野江という有馬氏の城跡があるので、そこに立ち寄る予定であったが、
「ホテルに急ごう」
という事でキャンセル。
この旅行のメインである島原の乱の舞台・原城を目指した。
5、南有馬・原城
原城は日野江城と同じく、島原の凡そを統治していた有馬氏が建てた城で、松倉氏に代わり、一国一城のふれが出されると廃城になった城である。
島原の乱は、キリシタン大名の有馬氏が飛ばされ、松倉という、どこから来たか分からんような殿様がキリシタン弾圧、島原城の築城、厳しい年貢取立てを行ったため、島原と天草の農民、それに一部のキリシタン武士が原城に立て篭もった乱である。
原城に関しては、俺も登る事は登ったが朦朧の極みで本当に記憶が薄い。
ゆえに、道子に説明してもらう事にする。
道子です。
原城と言っても、ここにはお城が建っているのではなくて、小高い丘の上にただっ広い草むらがあって、そこに天草四郎の銅像や、墓石、隠れキリシタンの十字架、石碑がいくつか建っていて、5分もすればすべて見終わる、私にはそんな場所でした。
あまり建造物?には興味は湧かなかったけど、そこから見る景色は、有明海や遠くの山々を見渡す事が出来て、なかなかいい感じでした。
また、お義父さんもそれらを見終わると、木にとまっているセミに夢中になり、「ここのは逃げないからよく採れる」と言って、怖がる春に近づけて遊んでました。
私は、セミにおしっこをかけられたけど、気のせい気のせい、と思う事にして、暑さでもうどうでもよくなってました。
6、ホテル日航ハウステンボス
原城を出た一行は、予定をすっ飛ばしながら、ホテルを目指した。
島原半島を海沿いに北上し、諫早から高速に乗り、大村を越え、東そのぎで降り、これまた海沿いを佐世保へ向かって走った。
ホテルは、それはそれは立派だったように思う。
案内のギャルが驚くほどに礼儀正しく、道子と恵美子が異常に騒いでいたように記憶している。
ただ、俺だけは部屋に入り、
「うわー、だだっぴれぇーねー!」
驚いたきり、そのまま火照った体をベットに横たえ寝てしまったので何とも言いようがない。
起きたら深夜で、富夫は満腹で眠っており、道子と恵美子は得体の知れぬドロドロとした恋愛ドラマを見ていた。
(こんなところに来てまで何をやってんだか…)
俺の事も含め、そのように思い、また火照った体をベットに沈めた。
結局、俺はホテルにおいて、その全てを部屋のベット上で過ごし、次に部屋を出る時は帰る時であった。
思えば豪華な療養所ではある。
ゆえに、ここの感想を問われても何も言えないため、自由に館内を歩き回った道子に報告して貰おうと思う。
また、道子です。
日航ホテルでは、ちょうど夏休みシーズンという事もあって「夏祭り」を開催していて、子供のための企画がいくつか用意されていました。
まず、「JALキッズルーム」という部屋があって、夜はカラオケルームとして使われている場所が、おもちゃや絵本でいっぱいになって、アニメを放送し、子供が自由に遊べるようなスペースとして開放されてました。
ただ、うちら(義母・春・私)が行った時には誰もいなくて、春が一人寂しくプーさんのおもちゃで遊んでましたが・・
キッズルームで30分くらい遊んでから、次は別会場で行われる「ビンゴ大会」に参加しました。 お食事券やぬいぐるみなど、なかなかいい景品が用意されてたけど、うちらは近くの動物園のキーホルダーが一個当たっただけでした・・。
夕飯は、くたばっているふくちゃんをおいて、サラダ・デザートバイキングがあった洋食レストランに入って、パスタやハンバーグなど堪能しました。
でも、さすがホテル、お値段は超豪華。。。 なのに、春が暴れてきたのもあって、バイキングなのにゆっくり食べることも出来なくて、ちょっともったいなかったかな。。という感じでした・・。
お義父さんなんて、「ピーナツ食べ過ぎて腹が苦しい」と言って、ちょっとしか食べてなかったし・・・ もったいなかったですね。
また今度バイキング行ったらがんばりましょう!!
それから、お義父さんは部屋へ帰って眠りについてしまったので、お義母さんと春と3人で中庭で行われる花火大会(手持ち花火)をしに行って、ハウステンボスから上がった「え・・これで終わり?」という5分たらずの花火を見て、部屋へ戻りました。
お風呂は大浴場があり、ブクブクジャグジーでのんびりして、春が寝てからは、チョコをツマミにお義母さんとお茶をして私達も眠りにつきました。
次の日もふくちゃんは体調が悪かったから、一人部屋に残して私達は朝食バイキングに行き、「きのうの分も!!」という意気込みでいっぱい食べてきました。
結局ホテルに来て何も出来なかったかわいそうなふくちゃんの為に、バイキングの美味しそうなパンをこそっと持ち帰って、私達の日航ハウステンボス宿泊は終わりました。
綺麗なホテルで美味しいご飯を食べて、私は大満足だったけど、ふくちゃんはどう思ったのでしょうか・・
また元気な時に行こうね、ふくちゃん!!
7、佐賀城跡
午前10時。
ホテルを出ると、後は帰路である。
佐世保で高速に乗り、武雄まで一気に走り、そこから下道で佐賀に寄った。
最近、何かと話題に登る佐賀であるが、意外に偉人が多く、早稲田大学をつくった大隈重信などは、その一番手ではなかろうか。
が…、最近、日本史に凝っている俺から言わせれば、
「佐賀は武士の町」
というイメージがある。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という一文で有名な武士のバイブル・葉隠は佐賀鍋島藩で書かれたものなのである。
とりあえず、佐賀へ寄ったならばという事で、佐賀城跡へ立ち寄った。
佐賀城は、佐賀の乱などで焼失し、残っているのは鯱の門(写真)だけであるが、濠は東側を除き、全てが残っている。
濠の内側には県庁、県立博物館、美術館があり、現在、佐賀城は復元している途中のようだ。
俺達は、
「とりあえず佐賀の歴史を知ろう」
という事で県立博物館に寄った。
ここは、膨大な展示物の割に無料という気安さで、更に、綺麗で静かで人っ子一人いない最高の環境であった。
「あ、他に客がいる!」
人影を発見したら、それは警備員だったりと、俺だけかもしれぬが、
(何となく、ハナワの歌うSAGAと佐賀が合致した…)
その事を思った。
さて…。
後は帰るだけである。
元気ならば、大隈重信記念館など寄って帰りたかったのだが、こういう状態ゆえ、真っ直ぐに帰った。
国道208号線を大牟田方面へ進み、途中、国道442号線へと乗り換え、家具で有名な大川、羽犬で有名な筑後を抜け八女へと抜ける。
八女からは九州の背骨3号線に乗り、1時間もすれば山鹿である。
運転は、酒を飲まない道子がやった。
山鹿へ着いたのは午後4時である。
俺は帰るや熱を測った。
38度。
(そりゃ、辛いはずだ…)
思いながら、
(しかし、風邪薬が効かんというのはおかしい?)
その事に首を捻った。
俺は、日頃が薬に手を付けないため、薬は効きすぎるほどに効くのである。
が…、事実、効いてない。
むしろ、ひどくなっている。
恵美子は、
「もー、ええ加減に病院に行きなっせよ!」
そう言い、富夫は、
「その病気は風邪じゃなかぞ、重症ぞ、死ぬぞ」
と、俺を脅す。
病院嫌いの俺も、さすがに、
(明日、熱が出てたら行こう…)
そう思うに至った。
この時、道子は、
「大変だよー、福ちゃんは保険に何も入ってないんだよー、もし風邪じゃなくて入院とかになったら大変だよー」
大慌てで俺が集めた生命保険のパンフレットを読み漁っている。
無論、何かあったとしても既に遅い。
俺は、どっぷり寝汗をかきながら、今日も早めの9時過ぎに床についた。
咳が出、熱も38度を超えているが、何となく気分は良かった。
(大した事はなかろ…)
その思いは、俺も家族も同様であった事だろう。
終わり