悲喜爛々30「突然」

 

 

1、予兆

 

埼玉から熊本へ帰って来てすぐ、実父の富夫が俺の異変に気付いた。

「お前…、なんか変な咳をしよるぞ…」

老眼鏡をクイと上げ、鋭い目で俺を見た。

富夫は「家庭の医学」を熟読したと自負する軽い医学通で、その辺の目は細やかである。

俺にしてみれば咳をしている事は分かるが、それがどのような類のものか分かるはずもない。

頻度もそう多いものではなかった。

ゆえに、

「病院に行ってみろ」

という富夫の言葉を、

「よかばい! ちょっと咳の出るぐらいで!」

と、撥ね付け、執筆生活に突入した。

が…。

異変はその後、緩やかに顕在化の一途を辿った。

まず、咳の頻度というものが徐々に増してき、7月21日・海の日あたりには、

(おかしい…)

そう思う頻度に達した。

症状は風邪に似ている。

咳はもちろんの事ながら、倦怠感、喉の痛みを伴うのである。

同時期に実母の恵美子が風邪をひいてもいる。

「母ちゃんのがうつったばい」

俺は間違いなくその事を疑い、早めに寝る等の対策をとった。

風邪の症状は4日で治まった。

軽い倦怠感はあるものの、咳も鎮まり、喉の痛みもひいた。

ゆえに、快気祝いという事で、

「パチンコをやらせてくれ」

道子に軍資金を貰い、3日間ばかり、午前2時間の勝負に出かけた。

珍しく勝った。

気分も前に比べれば断然いい。

富夫の言う「変な咳」は出ているかもしれないが、さして気になるほどでもなく、土曜には福岡県黒木町にミカンを貰いにも行ったりして遊んだ。

(風邪は治ったな…)

俺は、その事を確信した。

が…。

その好調は、たった三日しか続かなかった。

7月28日になると、何やら微熱が現れ、またしても風邪の諸症状がぶり返した。

俺は、この原因を、

(布団ば掛けんで寝たけん…)

そう決め付け、この夜からタオルケットにもう一枚薄いものを羽織る事にした。

が…、どういう事だろう。

翌日になると、熱はひくどころか、更に勢いを増した。

あれよあれよという間に38度を越えた。

この翌日は、前の悲喜爛々で書いた島原旅行である。

病躯に鞭を打ちつつ参加し、最高のホテルの最高のベットで療養するに至った。

この期間、

「風邪薬は飲まん!」

普段ならそういう方針の俺ではあるが、旅行中という事もあり、方針を曲げて飲んだ。

日頃、薬を飲まないものが薬に手を出すと、その効果は驚くほどに覿面である。

常の自分であれば、一つ飲むと、翌日にはケロリとしてるはずであった。

が…、全くといっていいほど効かなかった。

(おかしい…?)

こうなると、心配性な他人でなくとも、その事を思わずにはいられない。

要点は、

・ 二週間以上続く咳

・ 突然の発熱

・ 有無を言わさぬ倦怠感

その3点である。

「もー、いい加減に病院に行った方がよかぞ」

富夫は言い、道子などは、

「福ちゃんは体が弱過ぎるよ! 私を見てよ、元気モリモリ、風邪一つひかないよー!」

自慢の健康体を惜しげもなく披露している。

旅行から帰った日、7月31日の晩も微熱がひかなかった。

俺を除く、他全員は至って健康で、普通に飯を食い、普通に眠るが、俺だけは飯も食えず、早めに寝た。

浅い眠りの俺の横で、道子は、俺が集めた何十という保険会社のパンフレットを開き、

「どれがいいかなー?」

悩んだ素振りを見せつつ、

「やっぱり、医療重視だよね!」

ぶつぶつと呟き、俺に合う医療保険を探しているようだ。

(何かあったとしても遅かろう…)

思ったが、突っ込むのも面倒臭かったのでやめた。

とりあえず、この時の俺は、翌朝一番に病院へ行く事を決意している。

無論、風邪薬で治らないのは変だと思いながらも、

(ま…、夏風邪をこじらせたんだろ…)

程度にしか思っていない。

道子にしても、

(この風邪を契機に、福ちゃんを保険に入れなきゃ!)

そういう思いなのであろう。

ただ、軽い医学通の富夫だけは、

「怪しい…、その症状は怪しい…」

訝しげな顔を見せている。

「結核か…、それとも…」

誰に言うともなく俺の前で呟き、ニヤリ、意味深な浅笑いで俺を脅す。

その事が何の意味を持つのかは謎だが、確かに俺は怯え、病院へ行く事を決意した。

さて…。

そういう事で、田舎の晩はそれぞれに更けた。

俺の耳には、嫁・道子の声だけが何度も何度も響いた。

「もし、大変な病気だったら、保険にも入れないし、お金が大変だよー!」

それは、俺の弱ったハートに痛々しく響き、その度毎に、

(ギャフン!)

俺は打ちのめされた。

嫁の中にある『心配の方向性』というものは、旦那が思う以上に、

(ドライ…)

そのようである。

 

 

2、受診

 

8月に入った。

その一日目に病院へゆく羽目になるとは思いもしなかったが、俺は早朝の9時過ぎから地元の小奇麗な総合病院にいる。

何科に見せればよいものか分からなかったので、症状だけを看護婦に説明し、後は病院に任せた。

すぐに内科に通された。

医者は、いかにも働き盛りの精悍そうな男で、手始めに俺の喉を見、次いで、

「じゃあ、心臓の音を聞かせて」

と、俺の服を脱がすや、

「むっ!」

目の色を変えた。

俺の体(特に腹部)には、風邪の症状が現れた二週間くらい前から斑点が出始め、四日前の熱が出始めた頃から、その数が急激に増えていたのである。

斑点の色は赤であった。

これが、腹部、および背中を覆うように密集している。

「これは凄いねぇ…」

医者は、まじまじと俺の体を眺め、

「これは皮膚科にも見せないとなぁ…」

呟きつつ、カルテに何かをサラサラと書き込み、合わせて俺の心音を聞き、

「レントゲンに回して」

と、看護婦に指示を出した。

俺は看護婦に引かれるまま、フラリフラリとレントゲン室に連れられ、言われるがままにレントゲンを撮られた。

まだ微熱がひいていない。

少しだけ待つと、また診察室に呼ばれた。

医者はレントゲン写真を見ながら、俺の体をじっくりと触り、

「むぅーん」

開口一番、重々しい溜息を洩らすと、

「CTを撮ってきて」

有無を言わさず、また俺を外に出した。

(むぅーんって何だよ、むぅーんって!)

俺は「むぅーん」の一言のみで何の説明もなく、CTという精密検査に回された事を不審に思い、また極度に恐れた。

(ああっ、むぅーんが気になるー!)

恐れ慄きつつ、看護婦に、

「なんか悪いんですかね?」

問うた。

看護婦は、若い、スラリとした美女であった。

極めて明るくこう言った。

「気にする事はないですよ、多分、大丈夫だと思いますよ、うふっ」

ポニーテールの髪をなびかせながら、軽やかなステップを踏んだ。

不自然な「明るさ」と「多分」という単語が微妙なコントラストを描き、俺の恐怖心を更にあおった。

ところで、CTなどという検査は、若い俺にとって言うまでもなく初めての事である。

CTとは、体を輪切りに見る検査であるが、まず、その機械が大物である事にただならぬ威圧感を受ける。

丸い大きな筒が、寝ている俺を食うかのように取り囲み、微妙な挙動を続ける。

筒の内側に検出部があり、そこでは何者かがグルグルと回っていて、赤い光線が僅かに出ている。

痛くも痒くもない。

が…、

(俺は今、凄い検査をしている…)

という感じは、機械の威圧感から感じずにはいられない。

(俺は一体、何の病気になったのだろう?)

検査の規模が規模なだけに、たった5分後には、俺の不安が大きく膨れ上がった。

その後、採血をさせられ、看護婦が、

「今日はちょっと長くなります。よろしいですか?」

問うてきた。

「無職ですから時間はあります、いつまででもどうぞ!」

俺は、小癪にもそのように返し、右手には親指がピンと立った。

こんな俺にも余裕があったのか…、いや…、相手が美人の看護婦だったから空元気を見せたのであろう。

まさに、条件反射である。

既に、病院へ来て1時間半が経過していた。

採血の結果が出ると共に、医者の説明があった。

説明といっても診断ではなく、検査結果の説明であるが、

「肺の横のリンパ節が猛烈に腫れている」

その事が異常の一番手という事である。

俺の前にはレントゲン写真とCTの写真が並べられ、いかにそれが腫れているかという説明が念入りにされた。

血液検査の結果は、

「ちょっと炎症気味だね」

と、ワケの分からぬ事を言われ、他は大した事はなかったらしい。

「病名は何でしょう?」

待てない性分の俺は、がっつくように聞いた。

医者は、たっぷりと間をとった。

そして、ゆっくりと口を開き、

「この時点では分かりません…、が…、疑わしいものとして、サルコイドーシスというものが挙げられます」

ワケの分からぬ横文字を唱え、更に俺を混乱させた。

「サルコ…?」

首をかしげる俺に、医者は続けて言う。

「再春荘という国立病院が西合志にあります。そこへ行って、更に調べてもらってください」

どうやら、この病院では診断がつかない難しい病気のようである。

その事だけはハッキリと分かり、俺は、その後の質問を打ち切る事にした。

医者は再春荘宛ての手紙を書き、レントゲン写真とCT写真を看護婦に渡し、

「後で、これ一式を貸与しますので、この手紙と一緒に再春荘に渡してください」

鋭い目を保ったまま言いつつ、

「あ、後、皮膚科も受けて帰ってください」

と、指示を出した。

俺は呆然としたまま、次いで皮膚科を受診した。

皮膚科の医者は、ハッキリ言って気持ちの悪い、オカマ系の人であった。

「ほぉー、ほぉー、これは、これは…」

若い七三分けの男であったが、物珍しそうに俺の斑点だらけの体を触り、次いで、ガラスで俺の体を擦り、そのカスを顕微鏡で見ては、

「ほぉー、ほぉー」

と、言う。

かなり、俺の体、もしくは病気に興味がそそられたようである。

色々な小技を用いて、俺の赤斑点を調べていた。

が、結局、この医者も診断はつかなかったようで、

「現時点では、サルコイドーシスによるものか分かりません」

またもや、ワケの分からぬ横文字を出し、何かをサラサラとカルテに書き込んだ。

看護婦はその後、先ほどの写真や先生の手紙などをドサリと俺に手渡し、

「昼から再春荘に行って下さい。既に、こちらから連絡は入れてあります」

そう言った。

刻は、ちょうど正午であった。

俺は、支払いを終えると、

(頭を整理せねば…)

その事を思いつつ帰路についた。

(地元の総合病院で3時間も検査を受けて分かった事はなんだ?)

それは…。

「謎の病気にかかってそうだ…」

という、おぼろげな事実と、

「サルコイドーシス」

という、意味不明だが俺の病状に関係ありそうな横文字。

その事だけであろう。

後は、再春荘という国立の病院に引き継がれたわけである。

(つまり、地元では解けぬ謎の病気という事か…)

この時点での結論は、まさにそれであった。

ところで…。

病院で払った金は一万円弱であった。

無論、予想外に高く、財布が底をついたので、

(店に寄って、金を借りてから行こう…)

力なくそう思い、富夫が営む塩崎模型店に寄って金を借り、ついでに実母・恵美子が作る「うまかっちゃん」(即席ラーメン)を食って再春荘に出かけた。

軽い医学通の富夫は、俺がレントゲン等の医学写真を持っている事を知ると、

「見せろ!」

有無を言わさず食いつき、まじまじと見ていたが、やはり、家庭の医学程度の知識では分からぬらしく、

「さっぱり分からん」

と、写真を投げ出していた。

すぐ食いつく割には投げ出す速度が異様に速く、何となく血を感じずにはいられなかった。

ちなみに道子は春を連れ、例の奥様クラブ・トコトコに出かけている。

一度出席してから相当に気に入ったらしく、今のところ皆勤賞である。

俺は、少しばかり寂しくはあったが、独り、再春荘を目指す事にした。

国立再春荘病院は、俺が5年間も通っていた国立電波高専の隣にあり、その道は慣れ親しんだ道でもある。

(懐かしい…)

5年前のその思い出に酔いつつ、ふと、18で急性肝炎と診断された病院も再春荘である事を思い出した。

(再春荘…、縁があるところよのぉ…)

そう思うと、何やら笑みがこぼれた。

梅雨明けの空は、厭味なほどにブルー。

セミの声が、今日だけは耳に障るのであった。

 

 

3、説明

 

再春荘は昔から結核の治療を得意としているところで、呼吸器系に強いと評判のところらしい。

うちから再春荘までは、車で40分ほどの時間を要す。

近いといえば近いし、遠いといえば遠い。

その…。

再春荘に着いたのは、午後2時前頃ではなかったろうか。

地元の病院から預かった写真一式、それに手紙を受付で渡すと、話は通っているらしく、外来の終わっている時刻ではあったが内科待合室に通された。

時間外という事で、人も少なく、音もない。

(早く帰りたい…)

思っていると、診察室に呼ばれた。

医者は小太りで身近な感じのするフォルムであったが、目だけは異様に鋭い男であった。

メガネは黒ぶちで、何となく脚本家風(秋元康)でもある。

俺が入るや、チラリ俺の顔を窺い、次いでレントゲンを指しながら、

「これは凄いねぇ…」

呟くように言い、

「別の人のレントゲンを出して」

と、息つく暇もなく、他の人のレントゲンと俺のレントゲンを並べ、肺横のリンパ節がいかに腫れているかという事を説明し始めた。

医者が言うには、

「さくらんぼ程度のリンパ節がジャガイモ並に腫れてる」

との事で、

「この事が『だだならぬ事態』というのを君は理解しなければならない」

念を押すように、俺の目を厳しく見据えた。

それから、考えられる病名を二三挙げ、

「しかし、調べん事には分からんね」

などと独り言を発しつつ、次いで、今後どのような検査が必要かという事を一気に説明してくれた。

まず、大掛かりな検査として午前にやったCTを、今度は高解像度(鮮明な画像)で、そして造影剤という薬剤を投入し、より見える状態で行うとの事である。

更に、気管支内視鏡を肺に入れ、目視検査、それに細胞を切り取って調べる「生検」という検査を行うという事であった。

医者は簡単に言う。

が…、こちらとしては手に汗握る思いである。

去年の秋、十二指腸潰瘍で胃カメラを飲み、死ぬ思いをしたばかりなのだ。

(あの思いを、また…)

その事を思うだけで吐き気をもよおした。

更に、今度は食道でなく、そこから分岐し、気管支、その奥へ入るという。

更に更に、肺の肉を切り取るともいう。

気持ち悪くなりながら、吐く寸前の震える声で問うた。

「以前、胃カメラを飲んだ時、死にそうになったんですが、肺カメラも痛いんでしょうか?」

医者は一瞬、怪訝な表情を見せたが、すぐに緩め、次いでメガネをクイッと上げ、異常に通る声でこう言った。

「気管支内視鏡は胃カメラの10倍は大変だと言いますよ」

これで真っ白になった。

福山裕教という、「バッチ来い!」が信条の、男の中の男が音を立てて崩れ始めた。

以後、俺は無意識で答えている。

「それ…、ナシの方向で進めてください…」

遠い目である。

医者は低く笑うと、

「やるかやらないかは、呼吸器系の医師が皆で話し合って決めますし、死んでも気管支鏡はやらないという人もいますから、それは患者さんの意志を尊重します。しかし、サルコイドーシスの診断を下す場合、まず、気管支鏡が必要です」

一気にそう言った。

何やら、難しい念仏が俺の耳に届いた感じがした。

中でも、

「死んでも気管支鏡はやらないという人がいる」

その事は、俺の耳に確かに届いた。

(それほどに痛いのか…?)

イメージの湧かない検査に呆然とした。

次いで、医者の発する言葉に男を捨てた俺は、ますます萎縮する事になる。

「ちなみに、検査は入院してもらいます。気管支鏡などは、稀に、肺が破れることもありますし、気分を著しく害される患者さんもおられますので…」

開いた口が塞がらなかった。

「危険を冒してまで検査をやる必要はなかでしょ…」

男を捨てた者から言わせれば、まさにその事なのである。

医者が喋れば喋るほど、俺の肩は重くなった。

(耳が痛いんです…、あなたの言う事は、いちいち耳が痛いんです…)

悶える俺に、医者は、

「今日から入院します? うん、そうだ、した方がいいですよ」

そんな事まで言い出し始めた。

話、飛び過ぎ。

札幌にいたのがエチオピアって感じである。

「心構えが全く出来とらんけんがですね…」

俺は、この提案を即答で撥ねつけた。

「それじゃ、今日は採血だけしてもらって、土日は様子を見てもらい、月曜にまた来て貰うという事にしますか?」

結局は、それを飲む事にした。

問題の気管支鏡に関しては、

「やらない方向で!」

熱く熱く、お願いしたが、

「それは、その時の判断という事で…」

有耶無耶にされ、結局、来週一週間で検査を行うという事になった。

さて…。

医者との問答に疲れ果て、トボリトボリと診察室を出た俺は、次いで採血室なる部屋に通され、今日二度目の採血を行い、再春荘を後にする事になる。

無論、注射嫌いな俺は、

「採血は今日の朝、地元でもやったのですが…」

難癖をつけたが、

「午前にやった血液検査は一般的なもの、今からやるものは、もっと複雑な検査を行いますので…」

と、有無を言わさず試験管4本分も血を採られた。

ところで…。

話は前後するが、医者と問答を続けている間、何人もの医者が診察室を通った。

外来の時刻はとうに過ぎており、特別に診てもらっているため、

(何事か?)

と、気になったのであろう。

医者は、現れる度に俺の担当医と、

「サルコイドーシスじゃないの?」

「はい、それを疑ってるんですが、目に異常がないようですし、かなりの皮疹が出ておりますので…」

「ほう、ちょっと見せて」

そのような事を談じ、ついには俺の体を見て、触り、

「はぁー、これは、これは…」

驚いた顔で心音などを聞いていった。

「院長」の札が下げられている年配の医者などは、

「ちょっと、写真を撮らせてください」

などと、デジカメを取り出し、俺に撮影許可を求める始末である。

無論、異存はない。

承諾すると、院長は正面から構えつつ、

「うん、この角度だよ、この角度…、えいっ、えいっ…、あれっ…」

呟きながらボタンを押すが、シャッター音がしない。

ついには、

「君、電波高専出身だったね、見てくれんかね」

と、俺にカメラを渡した。

原因は一瞬で分かる単純なものであった。

電池切れである。

それを指摘すると、院長は「あちゃー」という可愛げな声を上げ、別のカメラで俺を撮って帰って行った。

大病院の院長たる天才でも、他分野には疎過ぎるほどに疎いようである。

(そもそも天才というものは、気にならぬ分野に関して、斬り捨てているかのように無知なのかも…)

そうも思われた。

とにかく…。

再春荘に来て分かった俺の症状というものは、

(よほどに珍しい型…)

だったようで、

「今後も要観察…」

大病院の再春荘としても、そういう結論らしい。

俺を筆頭に、関係者各位の心配は尽きないであろう。

が…、その診断がつくまで、まだまだ先は長いようであった。

 

 

4、情報

 

翌週から多忙な通院・入院生活を送る事になるのだが、その前に二日間だけ休息の日が設けられた。

8月2日と3日である。

大病院に勧められた入院を、

「自宅で療養します」

そういった宣言の元に断り、嫁・道子の介護の元、自宅でゆるりと過ごす予定であった。

その初日…。

好きな歴史ものの小説を寝転がりつつ読み、日中をのんびりと過ごした。

まだ、微熱が引いていない。

コンスタントに38度弱を保っている。

咳も連続するわけではないが、これもコンスタントに続いている。

小説を読み終えた俺は、

「熱があるのに文章を書いてもなぁ…」

そのような事を呟きながらも、前の島原の話を書いたりし、貴重な時間をゆるゆると食い潰している。

が…、ふと、

(サルコイドーシス!)

この、何度も医者により囁かれた謎の単語を思い出した。

すぐにインターネットで調べた。

便利な時代ではある。

知りたい情報が簡単に、それも膨大な量が手に入る。

俺は、食い入るように情報をむさぼった。

(なるほど、なるほど…)

軽快に読み進め、

(う、嘘だろー!)

言いようのない衝撃にぶっ飛び、ついには、

(…)

何も言えなくて、夏。

俺の背に、何ともいえぬ暗い影が押し寄せてきた。

書いてある事が凄まじ過ぎるのだ。

「ははっ、まいったぜ、こんちくしょー!」

遠い目をした俺は、インターネットが手軽で便利なものだから、別に知らなくてもいいのに、

「次は気管支内視鏡の事でも調べてみるかー」

簡単なクリック動作のみで、その情報収集に着手した。

気管支内視鏡体験者の言葉がそこにある。

「まるで心臓を鷲掴みされたような痛みがあり、このまま死んでしまうのかと思いました」

何も言えない無言の時間がまた、そこに生ずる。

そして、時は動き出す。

「何だよー、心臓を鷲掴みってー、された事があるのかよー」

なぜか東京弁でパソコンに向かって突っ込む俺。

そこに冷静さは微塵も窺えない。

が…、パソコンからは離れられない。

多分、それから2時間くらい、情報という情報に食らい付いたのではなかろうか。

途中、怖くなり、

「道子ー、お前も見てみろよー」

などと、道子にも情報を与え、膨大な恐怖感を共有しようとした。

無論、この意味不明な挙動に、後々、疑問は生ずる事になる。

(この俺の療養日における情報収集は、果たして吉なのか凶なのか?)

正しい情報を知り、強靱な精神の元に正しい対処法を取る…、それが出来れば、この無限の情報を与えてくれるインターネットでありとあらゆる情報を得る事は吉であろう。

が…、ここには、

「サルコイドーシス、怖いよー、福ちゃーん」

「確かに…、怖い」

「難病って書いてあるよー」

「確かに…、書いてある」

「検査も痛そうだねー」

「確かに…、痛そう」

日中、パソコンを前に震える夫婦がそこにはある。

明らかに精神は強靭でなく軟弱である。

軟弱なものに膨大な恐怖の情報を与えても混乱するだけである。

ゆえに、この事は明らかに凶であった。

特に、まず回避できないであろう気管支内視鏡の件に関しては、体験談などの情報を集め過ぎ、俺の体は極端に萎縮した。

その単語を聞くだけで、

「や、やめてくれぇー!」

体が敏感に反応するようになった。

明らかに、ドラえもんとネズミの関係である。

著しく精神を害した俺は、その事を少しでも忘れるべく、その翌日、パチンコに出かけた。

道子は言う。

「病中にマスクしてまでパチンコに行くってのはアリなわけー?」

アリもナシも、精神統一、雑念排他のためには、クルクル回るドラムを見ているのが一番よい。

これは、スロットをこよなく愛す人間にしか分からぬ何よりの処方である。

絵柄が揃った瞬間に「諸々の悪達」が吹っ飛ぶのである。

が…。

何も揃わず、一方的に負けた。

負ければ、悪戯にストレスを溜めるだけに終止する。

「あー、もうっ!」

休養日のはずが、色々なプレッシャーに圧され、逆に体に負担をかける事になったようだ。

ところで…。

道子にしてもこの期間、挙動がおかしい。

信じられぬ事ではあるが、

「生命保険に入りたい!」

その欲求を、このような惨状においても捨てきれぬらしく、どこの保険会社かは知らぬが電話をかけ、

「今、難病の検査を受けている段階なのですが、保険に入れますか?」

その、開いた口が塞がらない質問を投げかけているのである。

これは、火事になった後に、

「一週間前に火災保険に入っていた事にしてくれませんか?」

そう、言っている事に等しい。

無論、断られたのであるが、道子のこの挙動を目の当たりにし、

(俺がしっかりせんといかん!)

一家の大黒柱として、その事を思ったのは確かである。

ちなみに…。

気管支内視鏡に関しては、すぐ近くに住む伯父が二度も受けているベテランであったため、

(伯父の心強い体験談を聞き、心を休める事にしよう…)

そう思い、単身で乗り込んだのであるが、

「いやー、痛かったぞ、でもな、これは検査だ、これでは死なんと思って乗り切った」

という、全く心休まらない話を頂戴し、またしても恐怖心を煽っただけであった。

そういう事で…。

福山家は、日を追う毎に大きく揺れ始めた。

突然、俺の元に現れた謎の熱波は、鉄板と思われた福山家を揺さぶるに充分なものであったようだ。

(強靱な精神を持たねば…)

こういう時こそ、男の真価が問われる時であろう。

その事を思い、毅然とした態度を取らねばならないのであるが、いかんせん、溢れすぎた情報をスポンジのような体が吸い尽くし、不意に、

「気管支鏡!」

言われようものなら、

「ぬおっ!」

海老のように過敏に反応してしまうのであった。

さて…。

明日、8月4日は再春荘で診察。

その翌日からは検査入院をする事になる。

が…、この時の俺は、その事を何も知らず、ただただ、

「簡単な検査で終わりますように…」

その事を祈るのみなのである。

 

 

5、サルコイドーシス

 

8月4日の受診には道子も同行している。

富夫や恵美子が、

「付いていった方がいい」

そう勧めたからだ。

この裏には、極端に気管支鏡を恐れる俺が強行にそれを拒む事を阻止するという使命もあったのだろう。

この日の受診は、別にこれといった検査をするわけでもなく、やった事といえば手足、胸に電極を付け、心臓の調子を見ただけであった。

ただ、道子を交え、念入りな説明があった。

医者は、前の脚本家風の男であった。

前と同様、写真類を並べ、一気に病状を説明し、今後やるであろう検査を語ってくれた。

無論、その中に気管支内視鏡が含まれている。

俺はその言葉を聞くと、例の反射で露骨に嫌な顔を見せ、

「アレは止めてとお願いしたじゃないですかぁー!」

言ったものであったが、道子がその俺を制すように、

「とことん調べてくださいっ!」

妙な迫力で、身を乗り出しつつ言った。

「は、はい…」

医者は道子に押されるかたちで頷いたものであったが、俺と道子の内視鏡を巡る関係を察したのであろう、俺の方を見ると小さく頷き、

「頑張りましょう」

ワケの分からぬ呪文を言い放った。

「やるという事ですか?」

俺はその一件に執着したが、道子と医者は素早く次の話題に移った。

検査入院の話である。

「嘘? 気管支鏡やると?」

悶える俺を横に置き、医者は入院の話をエイヤエイヤと進めてゆく。

「明日から入院しましょう」

日はそのようになり、一日目に詳細のCTを行い、その晩は泊まり、その翌日、アレをやるという話である。

入院の期間は、

「その都度、検討しましょう」

という事で、早ければ一泊二日で退院との事である。

俺は何やら医者と道子が組んだ脚本に乗っかるかたちとなった。

とんとん拍子で検査日程が決まり、打ち合わせは実にスムーズに終わった。

帰路、道子が、

「福ちゃん、初めての入院だねー」

明るく言ったものであったが、あまりにも運びが速く、胡散臭かったため、

「なんか、仕組まれた感じがする…」

それが俺の正直な感想であった。

とにかく、明日8月5日からの検査入院が決定したのである。

と…。

ここで、検査前の医者の所見を書きたいと思う。

まず、考えられる原因として、この時点で4つのものが挙げられるという。

・ サルコイドーシス

・ 結核などの感染症

・ 悪性リンパ腫

・ 膠原病(自己免疫疾患)

上から可能性の高い順という話であるが、お話にならないのは悪性リンパ腫、つまりはリンパ腺の癌である。

もし、これであれば、俺の命は風の前の塵に同じ、風前の灯である。

また、膠原病(こうげんびょう)は可能性が極めて低いという話なので、下二件は見なかった事にし、思いきって斬り捨てる事にしたい。

となると、前々から話の上がっているサルコイドーシスか結核であるが、俺は、所見を聞いた瞬間に、

(結核だ…、間違いない…)

根拠はないが、そう思った。

幕末誌などを読んでいると、大抵の英雄はこれで死んでおり、昔は死因の第一位だったようだ。

書物で見るに、咳が続き、喀血し、衰弱していくようだが、高杉晋作、沖田総司、明治初期になると正岡子規など、若い英雄がこれで亡くなっている。

つまり、若い英雄の病気なのだ。

(なんやー、俺がなるべくしてなった病気じゃにゃー!)

人様には言えないが、声高らかにそのような事を思ったりした。

空咳が出るところなど、病状も似ている。

ちなみに、この楽観の裏には、家庭の医学で得た豆知識がある。

明治には不治の病だった結核も、今では投薬により治る病気になったという事である。

(結核…、響きもかっこいいじゃない…)

そう思うし、今、結核は徐々に増え続けている病気であるともいう。

だが、もし結核であるとすれば、実に困ったこともある。

俺が結核と診断された直後、ここ数ヶ月で俺と接したメンバーは皆、結核の検査を受けねばならないのだ。

何人になるだろうか?

埼玉を出るにあたり、大規模な送別会などをやっているため、その数も範囲もハンパなものではなかろう。

2000人、3000人となろうか。

(うわー、皆に迷惑をかけるなぁー)

それは思うし、何やら隔離病棟に軟禁され、治るまでは一歩も出されず、シャバとは当分おさらばする事にもなろう。

(それは耐えられんなぁ…)

この事は過ぎるほどに痛い。

英雄の資格と天秤にかけても、この痛手は耐えれそうにない。

俺は、無類の寂しがり屋なのだ。

ゆえに、消去法で、

(サルコイドーシスである事を望む!)

これより他はなさそうなのである。

もちろん、

「検査の結果、何にもない可能性はあるのですか?」

聞いたところ、

「あるにはある」

という事であるが、可能性として、サルコイドーシスが70%、次いで結核、その他と続き、何にもかかっていない可能性は極めて薄いという事であった。

さて…。

そういう事で、可能性が断然に高い「サルコイドーシス」に触れる。

この病気、日本語でいうと「肉芽腫性疾患」というもので、原因が分かっていない謎の病気で、診断されても、これといった治療法がない。

症状として、類上皮細胞肉芽腫という肉の塊が体内の至るところに出来るらしく、癌のように悪性のものではないらしい。

感染力はなく、患者数は5万人に1人の割合らしい。

大抵は俺のように肺横のリンパ節が腫れている事から発見され、そこから検査し、他の臓器に異常がなければ、5年以内に80%は自然治癒するらしい。

が…、油断はならないらしく、肉の塊の出来所によっては大掛かりな治療も必要だし、死に至る事もある。

とりあえず、身近なところとして、目に障害が頻発するらしく、著しい視力の低下、緑内障、失明など、その障害は確かに油断がならない。

医者は言う。

「あなたの事だからインターネットで色々と調べたと思うけど、サルコイドーシスという診断さえつけば、40%〜60%は5年以内に自然軽快するから、そう重く考えなさんな」

無論、インターネットで調べた俺は、医者の言うパーセンテージに、

「え、80%じゃないんですか?」

食い付いたものだが、よくよく調べるに、

「検査し、他の臓器に異常がなければ、5年以内に80%は自然治癒」

との事で、医者の言うパーセンテージは正しそうである。

また、サルコイドーシスは特定疾患、いわゆる難病に指定されているため、診断がおり、申請すれば、重傷度に応じて医療費の負担割が変わるという事で、そちらは道子の気になるところであろうか。

とりあえず、この時点での現実的理想は、

1、サルコイドーシスと診断される

2、主要な臓器に肉の塊がない事が確認される

3、50%の自然治癒組に運良く入る

そういう感じであろう。

難病である事を願うというのも変な感じだが、

「重く考えなさんな…」

医者がいうように、この路線を気軽に願う事が、今、一番よい選択のようではある。

 

 

6、入院初日

 

8月5日…。

人生初の入院をした。

が…、最短で一泊二日という話であったので、それ以上の準備はせず、かなり身軽に、心も軽く乗り込んだ。

行きの車中、

「せめて担当の看護婦が若いギャルならよかばってんがねぇー」

言うと、同行の道子は、

「もぉー、私はオバサンを望むよぉー」

などと、やきもちを焼いた。

再春荘には午前10時に着いた。

いつもの受付で入院の手続きを取り、

「迎えの看護婦が参りますので…」

言われるままに、俺と道子は受付で待った。

5分ほど待ったろうか。

この時、人通りの多い俺の前をピグモン(ウルトラマンに出てくる怪獣)そっくりのオバサンが通って行った。

白衣を着ている。

が…、それが視界に入っても、脳には届いていない。

まさか、それが俺の担当看護婦だとは思いもしなかったのである。

ところが、ピグモンは受付で何やら会話を交わすと俺の方を向き、

「担当の看護婦です。案内します」

そのような日本語を発するではないか。

唖然とする俺。

その俺の腕を掴み、鼻の穴全開で、

「当たりだね…」

言う道子。

入院の出だしは俺にとって、

(真っ暗…)

その事であった。

ピグモンが俺達を案内した場所は「東2病棟」といって、呼吸器に障害を持つ患者が入るところであった。

俺の部屋は、その最も深いところでベットは窓際である。

窓からは、今は使われていない廃墟と化した病棟が見え、何ともいえない肌寒い景色が広がっている。

部屋は広く、四人相部屋で俺を入れて三人が入っており、

「どうぞ、よろしくお願い致します」

俺が言うと、他の二人は鼻に差し込んだ酸素注入ホースを抜き、

「あぁー、よろしく、よろしく!」

そう返してくれた。

二人とも、70を優に超えている年配の方で、酸素ボンベをベット横に置き、実に息苦しそうな充実装備を施している。

(なんか、凄いところに来たな…)

周りを見回しても、皆が皆、酸素ボンベを携帯しながら歩いているし、当たり前かもしれぬが、健康そうな患者というのは俺を除いて一人もいそうにない。

(こんなところにいると、逆に病気になってしまいそうだ…)

案内されてすぐ、その事を思ったが、それを痛感するのは、まだまだこれから。

その事を、今の俺は知る由もない。

さて…。

初めての病院ベットに腰を下ろし、

(さ…、本でも読むか…)

思ったものであったが、それを許さぬほど、この日は多忙であった。

まず、荷物の整理も終わらぬ内に担当の医者が現れ、

「色々、説明したい事がありますので…」

と、俺と道子を別室に呼び、病状の説明、これからの検査の説明などがあった。

担当の医者は、入院した時点で女医に代わっている。

なんと、これが、道子よりもタッパのある女医で、まだ新人の臭いがする、三十路を少し越えたくらいの人であった。

印象は良い。

新人らしく、実に情熱的で献身的で、俺が無理を言うと必ず困った顔をし、

「会議で言ってみます…、けど…、難しいと思いますよ…」

そう言ってくれた。

この女医が言う。

「今日は午前中に皮膚科を受診してもらって、午後からは造影剤を使ったCTとレントゲン、それに肺の能力検査、ツベルクリン…、忙しいですよ」

部屋に戻るとすぐ、若い看護婦が現れた。

ここへ案内してくれたピグモンの手下で、俺の担当看護婦の一人だと言う。

「よかですかぁー、採血をさせてくださぁーい」

熊本には珍しいトロンとした喋り口で、挙動も実にトロトロしている。

(また、注射か…)

思いながら、俺は腕を差し出し、看護婦は試験管4本分、俺から血を抜き取る。

注射の手際はよく、痛みも少ない。

が…、遅い。

4本取った後に、

「ちょっと、二本目が足りなかったので…」

と、二本目の試験管に再度血を注いだり、同様に三本目にも注ぎ足したり、道子に言わせると、

「時間が掛かりすぎて、止血バンドで福ちゃんの手が青くなってきたよぉー」

との事であった。

注射は続く。

結核の判定用なのであろうか、ツベルクリン反応の注射を打たれた。

「福ちゃん、あの若い看護婦、ちょっと遅過ぎるよぉー」

道子は、看護婦がいなくなるのを見計らうと、すぐさまベットに駆けつけ、そのような事を言った。

遅いで有名な道子が言うのだから相当なものであろうが、この若い看護婦が実力を発揮するのは、まだまだこれからである。

次いで、皮膚科の受診があった。

隣の病院の女医らしいが、わざわざベットまで来てくれ、長身の担当女医と一緒に俺の斑点だらけの体を見、

「うーん、これは生検をしたほうが良さそうね」

呟くと、

「昼一番に手術ね」

若い看護婦に言いつけ、

「写真は撮っとかなきゃ」

猛烈に俺の体を撮り始めた。

俺からすれば、写真を撮るのは構わんが、

「手術って…、何をやるんですか?」

問わずにはいられない。

女医はサラリと言う。

「ちょっと米粒くらい肉をえぐりとるだけよぉー」

自然…。

茫然自失の態となった。

俺の体にメスというものが入るのは、

(人生初…)

だったのである。

強張りながら、ゆっくり道子を見た。

「えー、すごーい、ここで手術をやるんですかー、私ー、ここで見ててもいいですかー?」

なぜかノリノリであった。

皮膚科受診はすぐに終わった。

が…、俺からすれば気が重くて本すら読めない。

皮膚科受診から手術まで、約1時間の空き時間があったのだが、手術という響きに俺の体は極度に硬直していたのである。

その代わり、道子は「楽しみー」を連発している。

この女は、採血の時も食い入るように見ていたし、多分、血が好きなのであろう。

今回の手術では、

「その一部始終を見る」

そう言い切っているし、

「先生が許すなら、写真も撮るよぉー」

だそうな。

血を見ると倒れそうになる俺から言わせれば、正気の沙汰とは思えない。

さて…。

皮膚科の女医は、きっちり正午に現れた。

後ろに例の若い看護婦を従え、その看護婦はものものしい手術セットを持参している。

女医は実にテキパキとした人で、俺の前に座るや、

「さ、やるわよー、どこにしようかしら?」

と、肉をえぐる場所を捜し、左腕にある赤斑点の一つを選び出した。

それにマジックで印を付け、

「この部分を切ります」

説明すると、すぐにゴム手袋をし、手術準備に入った。

俺から見れば、手際は実にいい。

が…、女医に言わせれば、

「あんた、まだ準備してないの!」

この一喝のように、若い看護婦の動作が遅くて腹が立つらしい。

「消毒液は?」

「えーと、これ、ですよね?」

「それじゃないわよー、そっち、そっち!」

「すいませーん」

女医と看護婦の問答が続く。

ちょっと、不安になってきた。

が…、手術は始まった。

たっぷりの消毒液を腕に塗り、手術箇所だけが開いた布を腕に掛けられ、

「ちょっと痛いわよー」

と、局部麻酔を打たれた。

それから麻酔が効いているか、針でチョンチョン触って確認し、

「効いているみたいね、始めます」

と、刃が俺の腕に滑り込んできた。

無論、それから先は腕のほうを見れるはずがない。

明後日の方向を見、痺れた腕に何かが当たっている事だけを感じた。

ただ、道子は違う。

食い入るように、女医の後方から見ていたらしい。

途中、あまりにも近寄り過ぎ、

「奥さん、ちょっと寄り過ぎ、暗くて見えない」

突っ込まれ、退かされるほどであった。

その道子の言葉を借りる。

「なんかね、米のかたちに刃物が入ったと思ったらね、米のかたちに血が溢れてきたの。それからね、スプーンみたいなので、その米をえぐったらね、凄い血が出てきた」

子供の台詞のような感想だけに、何となく、現場がストレートに伝わってくる。

とりあえず、そういう事で肉がえぐられた。

肉はフィルムの箱のような丸いプラスチックケースに入れられ、それから縫合が始まった。

また、ここでも看護婦と女医の悶着があった。

理由は前と同様、出した薬剤が違うとか、動作が遅いとかである。

「すいませーん」

若い看護婦の「この言葉」を何度聞いたであろうか。

だが、それは序の口。

悶着の山場は縫合の際、無菌エリアというメスなどが置いてあるところに、看護婦が素手を突っ込んだ瞬間に起こった。

「そこは無菌エリアでしょ!」

「は…」

「あんた、何やってんの!」

「すいませーん…」

「ああ、もうっ!」

女医は、とうとう自分で薬剤などを取り出し始めた。

あたふたする看護婦。

ちょっとした人間ドラマが俺の思考を釘付けにした。

今思えば、下手な麻酔より、そちらの方が効いていたと思う。

(あーあ、またやっちゃったぁ…)

何となく、若い看護婦に同情していたら手術は終わってしまったのだ。

試練の一発目はそうして過ぎ去ってくれた。

ちなみに…。

手術が終わると道子は、

「いいものが撮れたよー」

そう言いながら、さっさと病院を後にした。

確かに、手術の最中、ウィーンという電子音はしていた。

が…、まさか、本当に撮っているとは思わず、それがカメラ音とは思うはずもない。

後の事になるが、退院し、そのデジカメの中身を見るに、遠目ではあるが、確かに道子は撮っていた。

030805-1.jpg (27636 バイト)

「凄いでしょ、福ちゃん、いい記念だよー」

誇らしげに言う道子に、

(こいつ…、大物か馬鹿だ…)

その汗が引かぬのであった。

話を戻す。

午前に3本もの注射を打った俺ではあるが、午後も注射は止まない。

こんなにも注射を打った日というものは、間違いなく初めてである。

昼一番にレントゲンが撮られた。

その際、

「もう一度、採血をさせてください」

と、午前に4本も採ったのに、また追加で2本採られた。

この追加分は、どうやら、あの若い看護婦の不手際が理由らしい。

続いて、この日のメインと言われていたCTが続く。

一発目は、地元でやった時と同様、普通に撮られ、二発目は造影剤という、更に細かく見るための薬剤を用いて撮られた。

造影剤は、稀にアレルギーで心停止する人もいるらしく、それほどに強い薬らしい。

「今までに薬のアレルギーはなかったか?」

と、何度も念入りに効かれ、その都度、首を縦に振った。

次いで…。

造影剤を俺の体に注入するため、撮影台に寝かされたまま、右手首に極太の針を打たれた。

針からはホースが伸びており、その終点には薬剤の入った袋がぶら下がっている。

この薬剤、今は俺の体に一滴も入っていない。

撮影と同時に100ミリリットルの造影剤が体の中を一気に流れるという。

流れる際、体の中が熱くなったり、吐き気をもよおす場合があるが、皆に現れる症状なので問題はないと説明があり、撮影が開始された。

その、感想であるが…。

体の中を流れる、造影剤という液体が手にとるように分かった。

どう分かるのかというと、熱いというより胸が焼けるあの感じが右腕から足の先へ、一気に駆け抜けてゆくのだ。

「あぁぁぁぁ…」

思わず声を上げたくなる、変な焼ける感じが体中を移動する。

次いで、軽い吐き気が訪れる。

吐き気は熱波の余韻といったものであろうか。

熱波は30秒ほどで消え失せ、余韻は3分ほど続く。

頃合を見計らって検査技師が、

「お疲れ様でしたー。なるべく水を飲んで造影剤を出してくださいねー」

などと、にこやかに現れる。

まったくもって不思議な体験で、

「絶対、これは健康に悪い!」

そう断言できる検査であった。

とにかく、稀に死ぬ人もいるらしいので、

(死ななくて良かった…)

胸を撫で下ろした事は言うまでもない。

続いて…。

肺の能力を見る検査が行われた。

いわゆる肺活量などを見るのであろうが、これが意外に辛い。

「吸って吸って吸って…」

検査技師の声に合わせて吸いに吸い、

「吐いて吐いて吐いて…」

言われるがまま、吐きに吐くのである。

検査結果は、技師の言葉を借りると、

「並って感じかな…」

そういうものらしく、ま…、良かったのであろう。

検査は、後一つ続く。

「血が止まるまでの時間を測る」

という検査で、耳たぶに傷をつけ、その血が止まるまでを測定するらしい。

「ちょっと痛いからねー」

この言葉を、今日一日で何度言われたであろうか。

耳に小さな針が刺され、血が垂れた。

正午から肉をえぐられ、注射針をたっぷり刺され、変な液体を注入し、呼吸の限界に挑戦し、今日の俺がやっている事は完璧にマゾの所業であろう。

部屋に戻ると、既に夕方になっていた。

例の若い看護婦が、

「お疲れ様でしたー」

にこやかに現れ、その脇にはピグモンがいる。

ピグモンは熱を測ると、

「あら、ちょっと微熱…」

呟きながら、

「任せたわよ」

若い看護婦に言い、のそのそと去っていった。

若い看護婦は、ピグモンが去った事を確認すると一つ大きな溜息をついた。

次いで、俺の血圧・心拍を測りながら、

「今日はすいませんでした」

ペコリと頭を下げつつ、

「私、いつも怒られるんです」

申し訳なさそうに呟き、

「血圧、オッケーです」

明るくそう言った。

「よかよか、気にしとらんけん、それにウチの嫁も遅いけん慣れとる」

看護婦が気落ちしていると思った俺は、紳士と呼ばれるに相応しい、その厚みのある態度で彼女を励ました。

看護婦は俺の励ましを受けると、感動したのであろうか、一瞬、目の色を変えた。

そして、

「そうですか…、福山さんの奥さん…、あ…、これは言っていいものかどうか…」

と、微笑と共に目を伏せた。

(なんだ?)

思いながら、

「なーん、言ってばい」

紳士は、厚い態度を崩さず、そう言った。

が…、看護婦の爆弾発言に、つい、それを崩してしまう事になる。

看護婦は一呼吸置くと、

「うんっ」

解き放たれたように頷き、

「福山さんの奥さん、なんか、私と似た臭いがしたものですから…」

そう言い放ったではないか。

つい…、爆笑した。

久しぶりに、こんなにも笑ったのではなかろうか。

道子が、

「何だよー、あの、どんくさいのー!」

そう罵っていた看護婦に、同じ臭いを感じ取られていたという事実は、俺を泣かすには充分過ぎた。

(滑稽だ…、滑稽過ぎる…)

七転八倒、悶絶した。

が…、この6時間後、別な意味で七転八倒する事になろうとは、俺も看護婦も、今は知る由がない。

無論、一寸先の事は誰にも分からない。

何も知らない俺は、一時の「笑撃」に酔った。

「最高ー、おもしろ過ぎるばいー!」

「えー、何が、そんなにおもしろいんですかー?」

この事は、入院生活で唯一の「笑った瞬間」となった。

退屈で苦痛な入院生活は、まだ、これからなのである。

 

 

7、アレルギー

 

退屈の極みであった。

諸々の検査が終わり、午後6時に夕食を食べ終わると、それから何もする事がなかった。

仕方なく、前のベットで寝ている老人に、

「ここへ入られてどれくらいですか?」

その質問を投げかけると、老人は鼻に吸い込まれている酸素チューブを移動用のボンベに付け替え、重々しく腰を上げ、

「途中、何回も退院しとるばってん、16年になる」

そう言った。

聞けば、16年前、坂を転げ落ちてきた車と下にあった車に挟まれ、

「それで内臓を壊した」

との事であった。

今では、鼻に差し込んであるチューブ無しでは呼吸が辛いらしく、

「病院じゃなかと何かと不便でねぇ…」

老人は悲しげにそう言うと、もう一人の老人を指し、

「あん人も私と同じ症状ですたい」

大声で言って、意味があるのかは分からぬが屁をふった。

同じ症状と言われた老人は耳が遠く、歩行もたどたどしい。

無口に、一日中をベットで過ごしている。

その代わり、目の前にいる16年目の老人は、すこぶる元気であった。

酸素ボンベを引きながら近くの病室を歩き回り、大声で誰かしらと話し、至るところで大音量の屁を放った。

看護婦などに対する態度は実に傲慢で、

「あの薬ば出せっていよっどが、あれが無かときつかった!」

と、怒鳴り、看護婦が、

「あれは一日一本まででしょ」

そう説明しても、

「うるさい、はよ出せぇ!」

と、一喝する有様であった。

そういう老人なので、例の若い看護婦などは、痛々しいほどに怒鳴られた。

こんな事があった。

夕食に牛乳が付くのであるが、老人は前々から牛乳は不要と言ってたらしく、老人の盆にだけオレンジジュースがのっていた。

この日も同じように牛乳はなく、オレンジジュースがのっていた。

が…、老人はナースコールを押し、

「牛乳はいらんって言ったろがぁー!」

と、怒鳴った。

前のベットから見ていて、老人の盆に牛乳はない。

(何だ?)

そう思い、看護婦との問答を見ていると、老人は、

「確かに牛乳はのっとらん。ばってんが、一緒に付いている献立表に牛乳と書いてある!」

そう怒鳴っていたのだ。

つまり、献立表に牛乳と書いているくせにオレンジジュースを持ってくる事が気に入らないらしいのだ。

「献立表もオレンジジュースて書け!」

老人は言い、若い看護婦は幾つかの問答の末に、

「はいはい、分かりましたよぉー」

あからさまに疲れ果てた顔で病室を去っていった。

なんという唯我独尊、いや、偏屈・ワガママ・傍若無人ぶりであろう。

完璧に、この東2病棟の重鎮になったとでも思っているようだ。

看護婦達は、明らかに老人との接点を減らそうとしている。

が…、ナースコールのスイッチを居酒屋の注文スイッチの如く老人は押す。

多分、この病室が最も看護婦の出入りの多い部屋だったであろう。

(凄い…)

思ったのは、それだけではない。

独り言の多さ、屁の多さは、この性格にも増して凄まじいものがあった。

道子がいる時だけでも、屁を十数発は放ったのではなかろうか。

その度、道子は、

「また、あのオッサンだよー」

笑いもし、呆れもした。

が…、更に、この老人が実力を発揮するのは消灯後である。

消灯は9時であった。

いちおう、ベット毎の電灯もあり、カーテンで囲いさえすれば、本を読む事もできるのであるが、その日の俺は早めに寝る事にした。

老人は、呼吸器設備独特の「シュー、ファー」という無機質な音を立てているものの、それは気になるほどではない。

が…、たまに痰が詰まるらしく、

「うぇぇぇっ、ぺっ、がぁっ」

どこかに痰を出し、その後、

「ええい、ちょくしょー、はぁはぁ…」

なぜか呼吸を乱し、そのまま諸々の音は沈んでゆく。

これは、別の無口な老人にも共通した。

(気にしちゃいかん、気にしちゃ…)

俺はそう思い、久しぶりに羊を数えたりした。

元々、俺の寝る速度というものは「のび太級」と言われており、この日も羊を数え出したら20匹を越えないくらいで意識が朦朧としてきた。

そのまま寝るはずであった。

が…、

「プリプリ、プリプリプリプリ…」

高い音の、可愛げな連続屁が俺を現実の世界に戻した。

次いで、

「ブッブッブッブッブー!」

低い、大音量のそれが俺の目を「バチコーン!」と覚まさせた。

地鳴りのような、見事な屁であった。

(くっそー、これは負けられん!)

俺はそう思いながら、またしても羊を数え、すぐに虚ろな瞳になった。

が…、今度は、

「あー、きつかー、今夜は寝れんかもしれんなぁー」

老人の独り言が出た。

合わせ技として、豪快な屁を同時に放ってもいる。

(あー、寝る寸前だったのにー!)

俺の「寝つき良さ」と老人の「執拗な邪魔」との戦いは、それから何度も何度も繰り広げられる事となった。

老人は昼間同様ナースコールを押し、看護婦を交えて騒がしい問答を続けたり、例の屁を今度は長めにふったりして攻撃が単調になる事を避けているようだ。

隣では、耳の遠い老人が安らかに眠っている。

俺だけが、孤独にダメージを被った。

その損害は大きい。

多分、一時間くらい寝れなかったように思う。

が…、言い換えれば、一時間後には寝れたともいえる。

これは老人に勝ったと言えるのか?

いや…。

俺の中では、

(負けた…)

この思いの方が強い。

一時間というロスは、俺にとって、今までに例のない時間であったし、翌朝、老人が、

「ふぁー、よく寝た」

あくびをしながら、俺の方を見、

「おはよっ、昨日は寝れたかね?」

問うてきた時の顔は、勝ち誇っているとしか言いようのないネットリとした笑顔であった。

ま…。

多分…、これらの争いは、俺の妄想でしかないであろうが、

「その晩、そういう争いが俺の中で繰り広げられた」

その事は、揺らぎようのない真実である。

さて…。

話が逸れた。

逸れたというよりも、病室の雰囲気を伝えるための引用が老人に集中し、その量を誤ったという方がいいかもしれない。

一時前のその事を思い出しながら書いているうちに、

(ああ、むかつく…)

と、熱くなり過ぎた。

が…、この章で伝えたいのは、これより先に訪れた「ただならぬ事態」の事である。

その夜…。

やっとの事で眠りについた俺は、翌朝まで泥のように眠るはずであった。

そもそも、俺が夜中に目を覚ますなどという事は極めて稀で、年に二三回あるかないかの珍事である。

その珍事が入院初日に訪れた。

夜0時を30分ほど回った時刻であった。

「はっ!」

と、飛び起きた。

同時に、

(かゆい…)

その事を思った。

両手首が燃えるようにかゆいのである。

明らかに虫刺されのそれとは違い、尋常でない熱を患部がもっている。

かゆみのレベルも虫刺されであれば我慢できるが、これはそういった生やさしいレベルではない。

かく事を、どうしても我慢できないのである。

が…、遠慮をし、人差し指の爪で、チョコチョコかいた。

ナースコールのスイッチを、

(押そうか押すまいか…)

非常に迷った。

老人は寝っ屁をふってはいるものの熟睡しているようで、呼吸補助機械の音だけが静かに響いている。

(ああ…、我慢できん…、呼ぼう…)

そう思い、ナースコールのスイッチに手を掛けた時、見回りの看護婦の足音が聞こえた。

足音は、この病室に入って来、同時に懐中電灯の光が部屋を照らした。

「すいません…」

俺は看護婦を呼び止めると、この事態を、

「人生で味わった事のない無上のかゆみ」

そういう表現で伝え、何らかの処置を頼んだ。

看護婦は、あの道子と同じ臭いのギャルでもピグモンでもない。

初顔の看護婦で、

「深夜だから担当医がおらんとですよぉ。薬も先生の指示がないと出せません。冷やすくらいしかできませんがよかですか?」

そう言うや、保冷剤をタオルで包んだものを持って来てくれた。

俺は、それを受け取ると、言われるがまま両手首に当てたものであったが、

(こんなもので、この猛烈なかゆみが引くかどうか…?)

と、首を捻らずにはいられなかった。

が…、他に処置がないとの事であれば、これをやるしかなく、保冷剤を擦り付けるかたちで、ひたすら患部を冷やした。

30分くらい冷やしたろうか。

これが、意外に効いた。

効いたというよりも冷え過ぎて感覚がなくなってきたという方がいいのかもしれないが、とにかく、転がりたくなるかゆみは何となく引いた。

こうなると次第にまどろみ、いつの間にか夢の中へという事になった。

が…。

今度は午前4時くらいに目が覚めた。

またもや、飛び起きるかたちである。

「あー、かいー!」

その手は腹をかき、背中をかき、先ほど冷やした手首をかいていた。

気が付くと、その被害がみるみる拡大していたのである。

俺は保冷剤をタオルケットの中から探し出し、それを腹や背、両手首に当てた。

範囲が広すぎて、先ほどのように感覚がなくなるまで冷やすには至らない。

保冷剤を当てれば、そこだけは幾分かゆみが鎮まるものの、それはあくまでも一時的で、保冷剤を離せば元のかゆみが戻ってきた。

それからの俺は、まさに七転八倒であった。

看護婦に言い、保冷剤を追加で持って来させ、それをベットに敷いて横になった。

腹にも乗せた。

また、冷たい水でしぼったタオルで体を拭いたりした。

それでも眠るまでには至らない。

看護婦には、

「一刻も早く担当医を!」

そうお願いしてある。

そうして、朝の6時になった。

同室の老人達が起き出した。

老人達は起きるやすぐにカーテンを開け、ブラインドを開けた。

朝の眩しい光が「かゆみの戦場」に差し込んできた。

と、同時に、

「あ…」

俺は、自身の体を初めて見、唖然とした。

前々から猛烈な数の赤斑点があったのであるが、それが分からぬほど、全体が赤くなっていたのである。

かゆみの重いところはもちろんの事、軽いところまでもが赤みを帯びている。

全身が火傷しているようであった。

よく見ると、その赤みは細かい点々で構成されてもいた。

「な…、なんじゃこりゃー!」

俺は、すぐに看護婦に見せ、素早い対応を願った。

看護婦も、この惨状を見ると、

「これは酷いですね…、何かのアレルギーかしら…」

呟きつつ前にやった検査を見ながら、

「造影剤がよくなかったのかしらねぇ」

と、首を傾げた。

担当医が来たのは午前7時である。

急がせたのかどうかは知らぬが、女医の髪には明らかな寝癖があった。

すぐに俺の全身を穴があくほど眺め、昨日、俺が打ったり飲んだりした薬剤を調べ、

「多分、造影剤による薬疹ね…」

そういうと、

「すぐ、かゆみ止めの注射を打ちます。それに飲み薬、塗り薬も出します」

そう言うや、溜息を吐きつつ場を去った。

女医の背は、何か重大な責任を感じているような暗い影に覆われていた。

朝食を食い、一時経つと例の若い看護婦が現れた。

例のトロンとした調子で、

「おはようございまぁーす」

言いながら現れ、手には妙に長い注射器を持っている。

これが、

「かゆみ止めでぇーす」

らしく、長いだけあって、うち終わるのに結構な時間を要した。

同室の重鎮老人は、注射を打たれる俺を無言で見ていたのであるが、看護婦が去ると、

「あたは、よー注射ばうたるるねぇ」

なぜか感心し、

「わたしゃ、先が短かけんが、注射はいっちょん打たれん」

と、妙にしんみりした事を言った。

その後も老人の話は延々続いた。

が…、この老人、延々と話ができるような状態ではない。

鼻に酸素チューブが入ったままであるから松本伊代のような声になるし、次第に呼吸も荒くなってくる。

つまり、大部分が聞き取り難く、ほとんど理解できず、俺はただ頷いているかたちとなった。

とりあえず、届いた部分を要約するに、

「手をかけてくれる内が華…」

との事で、この言葉の裏側には、

(16年間で培った下向きの哲学があるのだろう…)

そう思わずにはいられなかった。

とにかく…。

あまり良い話とはいえない後ろ向きな話を聞いている内に、担当医が今日の検査の説明にやって来た。

担当医は、俺の全身に激しい薬疹が出た事により、今日、やるはずだった検査を、

「やるべきか、やらぬべきか?」

と、上層部に相談したところ、検査はやる方向で決定したらしい。

続けて、女医は言う。

「今日は、心臓のエコーと気管支内視鏡をやりますので…」

かゆみや諸々の検査で、この入院中のメインをすっかり忘れていた俺は、

「気管支内視鏡」

その言葉に、

ビクン…!

異常ともいえる反応を示した。

(そうだ…、今日はアレがあるんだった…)

俺の中に、インターネットで得た知識が舞い戻ってきた。

「心臓を鷲掴みにされたように痛かったです」

伯父が言い放った体験談も合わせて思い出された。

「この検査じゃ死なんと自分に言い聞かせ、やっと乗り切った」

冷や汗がとめどなく流れ始めた。

担当医は、露骨に恐れる俺を励ますべく、

「大丈夫、すぐに終わるから」

そう言うや、例の若い看護婦に、

「心エコーに連れてってあげて」

と、指示を出した。

「福山さぁーん、行きますよぉー」

若い看護婦は俺を起こすと、その前をゆっくり歩き、案内した。

俺はトボリトボリと歩きつつ、看護婦に、

「気管支鏡は、いつ頃やるんかね?」

と、問うた。

看護婦は、

「午後2時過ぎの予約だったと思いますぅ」

そう返し、俺は時計を見た。

(後…、4時間半…)

運命のカウントが、今、始まった気がした。

俺の病躯は、注射によりかゆみが引きつつあるとはいえ、いまだ全身が赤く染まる惨状を呈している。

が…、その事は、今の俺にはどうでもよい事であった。

(刑執行が、すぐそこに迫っている…)

心エコーを撮りにゆく、俺の足取りはとてつもなく重いのである。

 

 

8、気管支内視鏡

 

看護婦に案内され、心エコーという心臓を見る検査に向かっている俺の前を見慣れた集団が過ぎ去っていった。

道子を始めとする福山一族であった。

この日は水曜日で、富夫が営む模型店が休みのため、皆で見舞いに来てくれたのである。

「おー、道子、道子」

呼び止めたものであったが、検査に向かっている俺に雑談をする余裕はない。

「待合室で待っとって、すぐに終わるけん」

言うや、俺のみは放射線室という部屋に連れて行かれた。

エコーは俺にとって二回目となる検査であった。

一度目は、十二指腸潰瘍になった際、腹部の検査をしている。

ゆえに、その検査自体が全く痛みを伴わないという事を知っているし、なんともいえないローションを体中に塗られるという事も知っている。

検査技師は、その俺が知り尽くしている事を説明すると、仰向けで寝るように指示し、例のローションを心臓付近に塗りに塗った。

前回、埼玉でやった時は女性技師であったが、今回は格闘家のように立派な体をした中年男性であった。

検査が始まると、部屋の電気が消され、技師は先っぽにセンサーが付いた棒を俺の体の上でこねくり回す。

前回は暗い室内で若い女性技師がこれをやり、

(むむむ…、何となくお得な感じ…)

鼻の穴が容赦なく膨らんだものであったが、今回は気持ち悪さに身の毛がよだつ思いであった。

毛むくじゃらの巨大な男が、

「うんうん…、おっ、むふふふ…」

変な独り言を発しつつ、俺の心臓付近に冷たい棒を押し当ててくるのである。

「おーおー、問題なーし、むふふふ…」

検査技師は愛想良くしているつもりなのであろうが、暗室でローション塗り塗りの環境ゆえ、その気持ち悪さは倍加するのみである。

が…、検査結果は、

「心臓には問題なーし、むふふふ…」

というもので、良好だったようだ。

俺は、

「ローションを拭いてあげる」

そう言ってくれた技師から逃げるように、

「いえいえ、自分で拭けますから」

と、技師が持っていたティッシュを取り、猛烈な速度で拭き取り、暗室を後にした。

少々、鳥肌が立つ思いであったが、サルコイドーシスで危険な点は心臓にあるという情報を持っていたゆえに、

(ひとまずは安心…)

と、胸を撫で下ろした事はいうまでもない。

さて…。

病棟に戻ると、その入口付近の休憩所に家族がいた。

皆、揃い踏みなのであるが、とりあえずは、

「春ー!」

という事で、一日ぶりの春を抱き締めた。

それから、今に至るまでの経緯、及び薬疹の事を家族に説明し、

「午後からアレがあるんたい…」

その悲痛な呟きを洩らした。

アレとは無論、気管支内視鏡の事である。

家族は、今日一日を俺の見舞いに費やしてくれるという事であったが、担当女医の話によるとアレは二時間弱の時間を要すらしい。

さすがに、それだけの時間を意味もなく待っていてもらうのは悪いので、

「アレをやっている間、どこかショッピングでも行ってくるたい」

と、提案し、昼飯を食うスポットとして、天郷食堂という学生時代行き付けだった食堂を紹介した。

これよりしばし、話が逸れる。

今、俺が入院してる再春荘病院は、俺が中学を卒業してから五年間通った熊本電波高専の隣にある。

ゆえに、立地的にも縁深く、別な意味でも縁深い。

どういう事かというと、この敷地内に看護学校があった。

看護学校というからには、白衣の天使を育てる学校で、同敷地内には女子寮もあった。

この女子寮が、我々電波高専の男子寮生と深い繋がりを持っていたのである。

これは、付き合っている先輩の質によるところが多いのであるが、俺と関係の深い先輩方というものが、悪名四方に轟いている方々ばかりで、まさに、隣の女子寮に飛び掛らんかとしている面子が多かった。

寮では一年は奴隷、二年は奴隷頭、三年は平民、四年は貴族、五年は華族と言われており、一年生だった俺は「命令絶対」の元で動いている。

寮内には妙な派閥が出来上がっており、名称は適当だが「ラグビー派」というものが五階建ての寮、その五階、四階に陣取っており、三階は勢力の弱い「陸上派」など小派閥が群れをなし、二階の脇に問題の「ヤンキー派」があった。

入寮してすぐ、俺は五階にいた。

が…、掃除が手抜き、挙動が傲慢という事で、深夜呼び出しという寮の儀式で、

「お前、生意気過ぎっぞ!」

という引導が渡され、四階に蹴落とされた。

その後、四階においてもラグビー派という最も勢力のある一派が俺を目の敵にしており、

「掃除とかいう問題じゃにゃー、お前の存在は目障りつた!」

強烈な文句と共に、今度は最も低い場所である二階に落とされた。

これが、入寮半年における俺の足取りである。

この俺を二階に落とす際、後々に聞いた話であるが、

「あの使えない福山をどこにやるか?」

そういう談議が寮首脳の間で囁かれたらしい。

当時、三階は最も平和な階で、そこに当てられた一年は定員いっぱいであった。

四階、五階は「福山・進入禁止」という札をさげている。

ゆえに、二階、最も危険な「ヤンキー派」が陣取る場所で泣く目にあっていた一年を四階に上げ、俺とトレードするかたちでまとまったらしい。

俺は言われるがままに二階へ行った。

当時、このヤンキーゾーンは一年の間でも、

「パシリ地獄」

そう囁かれていた場所で、誰もがここへ行く事を拒み、また近寄る事をしなかった。

「福山、大変なところになったな…」

同級生、皆がそう囁き、元からこのゾーンにいる連中は、

「よく来た、眠れんぞ」

最高の笑顔を見せた。

が…。

意外や意外、このヤンキー衆の扱いというものが、俺の肌にぴったり合った。

まず、掃除にうるさくない。

規則では早朝に部屋を掃除し、その後、体操をし、便所掃除などをやるのであるが、最も仲の良い二年生が、

「掃除は週一回でよか」

そう言ってくれたため、実に朝が緩くなった。

また、窓拭きなども実に細かく怒鳴られていたものであるが、

「窓なんてどうでもええ」

という先輩方だったので、実に助かった。

ただ、飲み会の数は20倍くらいに増えた。

それに伴い、深夜にパシリへゆく回数というのも20倍に増えた。

毎晩毎晩、寝る時間が午前様深くになり、専用の原付が与えられた。

この時期が俺の人生に与えた影響は深い。

最もゲロを吐いた時期でもあり、三日に一回は吐いていたように思う。

強烈なキャラの先輩に囲まれ、その皆がヤンキーというか、変わり者というか、とにかく凄まじい連中であった。

気付くと、

「どうしようもない連中だ」

そう言われていたヤンキー派の一員に俺も数えられるようになり、呼び出しで殴られる数が飛躍的に伸びた。

だが、今思えば、人生で最も充実していた時のようにも思う。

深夜2時に起こされ、ラーメン20人前作らされたり、3時に買出しに行かされ飲酒でパトカーに捕まったものの、

「奈良漬を食いました」

そう言い張って難を逃れたり、肝臓を壊したり、アル中になったり、とにかく凄まじい時期であった。

ちなみに、この時期、

「俺一人ではパシリの手が足りません」

涙ながらに嘆願し、浜崎という男をこのエリアに引き込んだ。

こいつも使えるという風評は薄かった男で、俺同様、流れ流れてきた感がある。

俺と浜崎はパシリ人生という濃厚な期間を共有し、実に抜き差しならぬ友情を育んだものであるが、浜崎に言わせれば、

「あれで俺の人生が狂った」

との事になろう。

浜崎は「福山と一緒にいる」というだけで深夜呼び出しにあい、殴られ、大いに奴隷的(一年生としての)格を落とした。

また、その酒浸りの生活に魂ごと没頭し、その延長で留年してしまう事態となった。

椅子の上で体育座りをし、死んだ目でゲームをし続ける浜崎を卒業前に見たのが最後で、その後の詳細は分からない。

今頃、何をしているのであろうか。

さて…。

余談が余談を呼び、つい熱中してしまったわけだが、結局、これを書く事で何を言いたいのかというと、この強烈な先輩達が、

「看護学校の女子寮に乗り込んで、飲みましょうって言って来い」

そういう指令を出し、一年の俺はそれに服従して再春荘敷地内に乗り込んでいた時期があり、それゆえ、俺と再春荘の縁が深いという事を言いたいわけだが、んー…、いつも通り、それだけを言うには無駄に長すぎた。

が…、この事は単発で終わらず、何度も何度もメンバーを変え、コンパをし合い、看護学校との付き合いとしては二年弱に及ぶという密接な関係を持った。

とりあえず、寮の事、延いては人生の恩師ともいえる栗山という強烈な先輩についての事は、後々書かねばならないと思っているし、書くだけの価値があるネタだと思っているが、今は文量の関係で省く事にする。

ところで…。

2時過ぎにやると言われた気管支鏡の話であるが…。

その前、1時過ぎに道子を始めとする見舞い客は病院を後にした。

時が経つ毎に、

「後3時間、後2時間…」

青くなって唱える俺を、皆は散々に脅し、風のように去って行った。

(ぜんぜん見舞ってにゃーじゃにゃー!)

憤り半分に思ったが、いなくなると妙に時計が気になり出し、カウントの単位が、

(後1時間45分、後1時間44分…)

細かくなった。

ゆえに、この時間、余計な事に頭を回すようにした。

(道子達は、俺が薦めた天郷食堂で格安だが美味い食事をとっている事だろう)

とか、

(多分、変に小奇麗を望む恵美子だけが、ここは食べる環境じゃないとか言って悶えているに違いない)

など、無駄な事をなるべく多く想像し、時間を空虚に浪費するよう努めた。

刑の執行開始は、あの若い看護婦により伝えられた。

「福山さーん、これに着替えてください」

看護婦は病室に現れるや、青いポリエステル系の服を俺に手渡し、

「気管支鏡に行きますよ」

明るく言った。

「はい…」

重々しく、その青い服に着替えつつ、

「死刑服だ…」

つまらぬ呟きをもらした。

前で寝ている重鎮老人などは、俺が着替えているのを見ると、

「お、気管支鏡かい、あれは辛いらしいねぇ」

などと、わざわざ酸素チューブを取ってまで言った。

間違いなく、嫌がらせであろう。

心エコーの時と同様、看護婦が検査場所に案内する。

ただ違うのは、わざわざ服を着替えされられた事と、

「帰りは車椅子で迎えに来ますので…」

そのように言われた事である。

心エコーの時は検査室へ、今は、

(死刑執行台へ…)

という感じであった。

看護婦は、問題の部屋、その前まで案内すると足早に去って行った。

「ここで待ってて下さい」

そう言われた長椅子には、三人の家族らしい人々がおり、何やら重々しい雰囲気を醸し出していた。

三人は皆が皆、下を向き、一人の中年女性は泣いているようであった。

その横に、50センチほどの間隔を空け、俺は座っている。

(嫌な雰囲気…)

思っていると、白衣をまとった医者が部屋から出てき、

「鎖骨が溶けてます、もう、こうなっては…」

そのような事を言い出し、家族の嗚咽が勢いを増し始めた。

「どれくらい…、もちますか…?」

大黒柱らしい中年男性が悲痛な表情でそれを問うと、医者は、

「ながくて半年…」

呟くように言い、家族の嗚咽は頂点に達した。

その横で…。

俺は、気管支鏡を待っている。

非常に複雑、非常にブルー、そして、非常に不安になった。

(なぜ、こんなところで…?)

しばらくすると、涙の廊下の先に見慣れた長身の女医が現れた。

涙をかき分けて俺の元に来ると、

「ごめんなさい、麻酔を廊下でやります」

そう言いつつ、カーテンで囲われた狭い空間に俺を案内した。

廊下には、相も変わらず家族の嗚咽が続いている。

そんな中で俺は口を開け、女医は霧吹きのようなものを取り出した。

霧吹きのノズルの先は、象の鼻のように湾曲しており長い。

「これを喉の奥まで突っ込みます」

女医は言う。

(無理だ…)

そう思った。

が…、女医は俺の舌を押さえ、素早く手前の方に薬剤を発射した。

瞬間、

「うぇえええええ!」

舌を押さえられた事により、猛烈な吐き気が襲ってきた。

が…、吐くものはない。

これを予想し、朝9時から飲み物も食べ物も与えられていないのである。

「ここを我慢して…」

女医は言う。

俺の顔には、猛烈な吐き気により、涙が溜まっているというよりも泣いているという方が近い量の涙が浮いている。

その顔で口を開ける。

が…、また、

「うぇぇぇぇぇえ!」

強烈な吐き気が俺を襲ってきた。

この廊下の音というものは凄まじい状態であったに違いない。

家族三人の嗚咽音が木霊し、小さなカーテンで仕切られたところからは、別の意味の嗚咽音が響いている。

「頑張って!」

「はい…」

俺は口を広げ、なるべく多くの麻酔薬を吸おうとした。

この麻酔は、胃カメラの時のように喉だけのためではない。

気管支の入口まで届かないとマズイ。

ゆえに、ノズルはかなり奥深くまでゆくし、麻酔薬の霧を吸わねばならないのだ。

俺は三度目のノズルを口内に迎えた。

だが、結果は同じであった。

猛烈な吐き気と共に女医の手を払った。

「はぁはぁ…」

俺の呼吸は異常に荒い。

女医は、これでは先に進めないと思ったのであろう。

「先にボーっとする注射を打ちましょう。福山さん、かなり緊張されてるみたいなので」

そういうと、肩に注射を打った。

これは、前に胃カメラが入らなかった時に打った注射と同じ類のものであろう。

確かに、すぐボーっとしてきた。

だが、あの長いノズルを俺の喉が受け付けるかといえば疑問で、現に、四度目を入れた時、同様の拒否反応を示した。

同時に、俺の体に悪い意味での変化が現れ始めた。

冷や汗が滝のように出始め、立ってられないくらいの眩暈が現れたのである。

顔から見る見る血の気が引いていった。

「あっ」

女医は俺の異常を見付けると、すぐに長椅子に寝せ、血圧を測り、

「点滴を用意して」

と、看護婦に命じた。

点滴は、女医の説明によるとポカリスエットのようなもので、単に水分を補給するものらしい。

中で気管支鏡の準備をして待っている検査技師達も続々と外へ出てき、

「大丈夫ですか?」

と、声を掛けてきた。

あまりに遅いので見に来たのであろう。

女医や検査技師が言うには、年配者に比べ、若い人の方が神経が過敏で、得てして麻酔をかけるまでに苦労するとの事で、五人に一人くらいは中止する事になるらしい。

「どうです、駄目そうですか?」

「患者さんが落ち着いてから、もう一度やってみます、それで駄目なら諦めましょう」

女医と技師は、そのような事を話し、青い顔の俺を眺めている。

(諦めてくれたら、もう二度とやらないのだろうか?)

俺はその事を思い、技師が去った後、女医にその事を聞いた。

女医は言う。

「今、やらないと後日やる事になります」

結局は、やらねばならないようだ。

ならば、このような苦しみは一度きりの方が良い。

まだ、普通に気持ち悪かったが、

「もう大丈夫です、麻酔をお願いします」

と、麻酔続行を願った。

五度目も六度目も、猛烈な吐き気が襲ってきた。

看護婦や検査技師が交互に様子を見に来ていた。

(中止になるわけにはいかん…)

そう思いつつ、何度も何度もノズルを喉へ突っ込んだ。

と…、その内に、何となく吐き気が静まってき、続いて、

(無理だ…)

そう思っていた麻酔を吸うという行為が可能になってきた。

女医は、自分の事の様に喜んだ。

「そう、そうっ、そうよ…、うまい、うまい!」

小さい試験管にして三本、麻酔薬が俺の喉と気管に吸い込まれた。

女医は技師に、

「麻酔は効いた…、と、思います」

そう言うと、俺を室内に案内した。

部屋は暗く、中央には白い大掛かりな機械があり、横にはモニターなどが並んでいた。

俺は白い装置、その中の縦に伸びた板、その前に立つように言われた。

言うがままに立つと、板はゆっくりと動き出し、俺の体を持ち抱えるように倒れ、ベットになった。

そのベットはクルリと周り、上下に動き、カメラの横にスライドした。

女医や技師はカメラの前に並び、

「やれるかねぇ?」

「ここまでやったんですから…」

「だって、これからが辛いんだよぉ」

「大丈夫ですよ、若者が一番辛いのは麻酔ですから」

そのような雑談を交わしている。

そして、

「よしっ、やろう、でも患者に無理が出るようだったら即中止だ」

そう決まったようで、その事を俺に説明し、

「始めます」

と、俺の妄想に言わせれば「死刑執行」が開始された。

まずは胃カメラの時と同様、プラスチック製のカメラ誘導マウスピースを噛まされ、なぜか目隠しをさせられた。

「なんで目隠しですか?」

恐怖のために問うと、麻酔液が飛び散るからだと言う。

俺は、その事を、

(嘘だ…、俺が見てられない凄まじい事をやるからだろう…)

そう思ったが、さすがに口にする事はやめた。

すぐにカメラが入ってきた。

これは麻酔が効いているか効いていないかが勝負の分かれ目で、どうやら今回はたっぷり効いているようであった。

女医が言うには、

「ボーっとする薬も喉の麻酔も人より多めにやったからね」

との事で、カメラは少しの違和感で奥へと進んでいった。

カメラは食道から気管支へ逸れる。

それからは、麻酔や咳止め薬を噴出しながらの長い旅路である。

「咳止め出しまーす」

女医が言い、俺は息を吸う。

カメラの先から、その咳止めが出ているのであろう。

何だか、変な感じが内臓に広がる。

が…、女医に言わせれば、この咳止めをコマメに出しながら進む事が苦痛を和らげる唯一の道という事で、頻繁にその声は木霊した。

技師と女医は、

「あー、リンパ節が腫れているから気管支が狭まってるよぉー」

そのような事を言いながらカメラを進めてゆく。

無論、目隠しをされている俺からは何も見えない。

それほどの苦痛は無かった。

が…。

「第一段の難関」

と技師がいう、

「肺の中で生理食塩水を噴き、その液を調べる検査」

というものが行われる時、俺は死兆星(死ぬ前に見えるという星)が見えるほどに苦しむ事となった。

肺に入ったカメラの先から食塩水が出たのであろうが、瞬間、猛烈な咳が俺を襲ってきた。

が…、口にはカメラが通っているし、気管支にも通っている。

瞬間、体が熱くなり、吐くような咳が続いた。

これには、一瞬ではあるが、

(死ぬかも…)

そう思ってしまう苦痛が伴った。

咳をしながら俺が海老のように暴れると、女医は咳止めを「えいっ、えいっ」という感じで投入した。

確かに、この処置で咳は鎮まり、胸部の熱も引いた。

が…、この塩水を肺に噴霧する地獄は三回も続いた。

まだ、気管支鏡は続く。

次に、

「二割弱の確率で肺が破れる事があります」

そう言われていた肺の肉を取る検査へと移った。

これは女医が、

「代わって下さい」

と、検査技師に言った事から推測するに、相当な技術を要するのであろう。

手順として、ちょこんとカメラから飛び出た小さな両手で肺の肉を摘み、俺の反応を見、痛そうでなければ摘んだ肉をメスで切り取るらしい。

肺が破れるか破れないかは俺の反応だけが頼りらしく、この事から全身麻酔はかけられないとの事である。

「痛かったら言ってくださーい」

言いながら、女医と代わった検査技師はカメラを進めてゆく。

そして、

「摘みまーす、痛いですかー、大丈夫ー?」

問いかけながら、

「切りまーす」

と、肉を切る。

もちろん、咳止め剤は定期的に入れ続けている。

これは、思ったより痛くなかった。

ただ、痛いかと聞かれた時、肺の中を突っつかれている不思議な感じがするため、それが気持ち悪い事と、体位を何度も変えさせられるため、それがカメラを飲み込んでいる俺には辛い。

また、掛け声と共に肉を切り、切ったものがバキュームで吸われ、女医が見守る洗面器に落ちてくるのだが、ほとんど肉が出てこないのである。

従って、予定の三切れを取るのに、その五倍、15回くらいの作業を行ったのではなかろうか。

三切れ目を取った時、

「もう一つ、行こうか…」

予想と反し、結構順調にいったものだから女医は技師にそう言い、技師は俺に、

「まだ、大丈夫?」

と、尋ねた。

無論、既にアップアップの俺は首を横に振り、

(指定の検査が終わったなら、早く引き上げてくれ…)

その事を伝えた。

この事は、後々に悔やむ事になるわけだが、その時の俺には一刻も早く気管支鏡が終わる事しか考えられていない。

当然の反応であった。

さて…。

やっとの事で検査…、いや、俺の妄想に言わせるなら「死刑」が終わった。

口からカメラが出され、目隠しが取られた。

目の前にぶら下がっているカメラは非常に小さく、その先端のどこにメスやら摘むハンドがあるのか、俺には検討もつかなかった。

が…、それはいい。

とにかく、山場を切り抜けた。

口の中に唾が溜まり、看護婦が持ってきたグラスに吐くと、見事な赤であった。

「肺の中に傷があるから、一時、唾や痰に血が混じります」

との事であった。

とにかく、体がだるかった。

その後、点滴を打たれたまま車椅子に乗せられ、例の看護婦がそれを押し、病棟に帰る事になった。

女医は、

「お疲れさま、本当によく頑張りました」

母親のような言い草で俺をねぎらい、

「また後で診に来ます」

そう言って、運ばれていく俺を温かい視線で見送ってくれた。

病棟に入る入口の休憩室では、見舞いの連中が待ちくたびれたのであろう、全員が寝ているようであった。

が…、俺が車椅子で運ばれてきたのには目を丸くしたらしく、

「どうしたんだよ、福ちゃーん?」

初めて見舞い客らしい反応を示した。

その後の俺は、初めて病人のようになった。

麻酔が効いていたため、しばらくは喋れず、その効果が薄れる二時間後までは飲むことも食べる事も出来ないらしい。

道子らは、美味そうなパンや茶を買って来ているが、それを食う事も飲む事もままならなかった。

断食、断水(点滴保水はした)をする事、9時間である。

とにかく、俺は疲れていた。

一時、道子をベット脇に抱え、まどろんでいると担当女医が現れた。

「お疲れさま」

例の温かい口調でそれを言うと、道子に「旦那は実に頑張った」そのような事を世辞であろうが言い、次いで、

「入院の日程を打ち合わせたい」

そう言ってきた。

俺の中で、この事は決定事項であった。

何が何と言われようとも、明日には退院する気持ちで固まっている。

「こんなところに何日もいたら、それこそ病気になる!」

言いはしないが、その念があまりに強く、

(今日出れるなら、今すぐにでも出たい!)

とさえ思った。

女医は、この事に関する談合を俺と何度も繰り広げているため、その思いを知っている。

だからであろう、申し訳なさそうな顔で、

「入院を後6日はして欲しい」

そう申し入れてきた。

俺からすれば、一泊二日入院のはずが、当日に、

「最低、二泊三日はしてもらう」

そう言われ、予定外の一泊延長となったのに、これを飲むとなれば八泊九日入院という驚異的な入院生活になってしまう。

これは、翌週火曜、13日までの入院という事になり、そうなると盆で熊本へ遊びに来る事になっている面々にも不都合な事態となる。

「絶対に嫌だ」

と、麻酔が残っている口で駄々をこねた。

女医は言う。

「造影剤による薬疹というものは大変に怖いもので、稀に死ぬ人もいるし、薬疹がひどくなると、その肌は溶けたようになり、熱も出る、その様子を見なければならないし、まだまだ、やらねばならない検査がある」

これを俺は、金銭的な問題と、

「通院で何とかしてくれ」

このゴリ押しで退け、

「何が何でも明日には退院する」

そう言い張った。

横に道子もいたが、別に俺を否定するわけでもなく、女医に食ってかかるわけでもない。

金に最も敏感な道子が俺の意見に反対できるはずがなかった。

結局、いつものように、

「分かりました、上に相談してみますが福山さんも考えておいてください、本当に薬疹は怖いんですからね」

そう言い残し、女医が去ってゆくかたちとなった。

この間、富夫や恵美子は病棟入口の休憩室におり、春に至っては、そこで爆睡中であった。

俺は、道子待ちで富夫や恵美子が足止めを食っている事に気を使い、

「もう、帰ってええぞ」

やっと麻酔の切れてきた喉を振るわせて道子を帰し、休憩室で皆を見送った。

麻酔がきれ、断食断水が終わったのは午後6時である。

猛烈に腹が減っていた。

道子が買ってきたパンを平らげ、合わせて入院食もペロリと平らげた。

茶は、買って来てあったペットボトルのものを一気に二本飲んだ。

7時には健康体に戻った。

それから、また暇な時間が続いた。

本を読み、テレビを見、薬疹だらけの体を看護婦に拭いてもらったりした。

薬疹を押さえるために、ステロイド剤という何やら副作用の多い薬剤を与えられ、それを4錠も飲まされた。

合わせて塗り薬も与えられ、それを全身に塗った。

かゆみは確かに引いた。

9時になると、昨晩同様、部屋の電気が消された。

が…、今夜はすぐには寝ない。

例の重鎮老人が11時前くらいまではうるさく、それからはピタリと寝るという習性を風の噂で耳にしたからである。

11時過ぎまでテレビを見、それから寝た。

確かに、その時間になると、老人の口は上下共に静かで、実に快適に翌朝6時までノンストップで寝る事ができた。

寝る時、

(ああ、明日には退院できる…)

そう思うと、震えるほどに嬉しかった。

入院の何が嫌って、この老人でもなく、雰囲気でもなく、

「退屈」

その事が何よりも重大であった。

俺の全身全霊が「退屈からの開放」を祈っている。

(俺という生きものは退屈の中では生きられない…)

その事を、入院生活は教えてくれたようだ。

 

 

9、退院

 

日は、8月7日になっている。

その早朝、担当の女医が現れた。

女医は、上層部と話し合った結果、

「患者がどうしても退院すると言い張るならしょうがない」

そういう結論にまとまった事を告げ、

「しかし!」

というかたちで牽制した。

「今日の午前中にやるレントゲンで肺が破れていない事が確認でき、且つ熱が出ていなければ退院させる」

そう言うや、早速、熱を測られた。

熱は平熱で、36度5分であった。

また、その後に撮ったレントゲンの結果も良好で、女医は何だか納得のいかない表情で、

「午後一番に退院手続きをとってください」

そう言った。

ただ、薬疹だけが心配の種らしく、

「熱が出たり、ひどくなるようだったら、すぐ病院に駆けつけなさい」

厳しい口調で念を押した。

俺の表情は、無論、満面の笑みである。

「分かりました!」

明るく、子供のように頷くと、ベットからおり、道子に電話をかけるべく休憩室へ走った。

さて…、その後の俺であるが…。

入院の時は重々しい動きしか出来なかったものだが、退院となれば話は別。

実に迅速な動きで活動を始めた。

道子は午前10時に来る予定であったが、それまでに凡その荷物をまとめ、すぐにでも出れる態勢をつくった。

もちろん、重鎮老人や無口な老人に退院の挨拶を済ませている。

「よかなぁ、二泊三日なんて入院しとらんも同じたい」

重鎮老人にはそう言われた。

確かに、16年という途方もない月日に比べれば二泊三日などは屁みたいなものであろう。

だが、俺は叫びたいほどに嬉しかった。

道子が来ると、女医は早朝に説明した事を重複して説明してくれた。

「くれぐれも、くれぐれも養生する事」

そう言って、

「本当は退院には早いんだけどねぇ」

まだ、そのような事を言っていたが聞こえないフリをした。

「他にもやらねばならない」

女医がそう言っていた検査は、高額なものという事もあり、福山家の財政事情を考慮し、

「サルコイドーシスと診断がついてからやりましょう」

そう言ってくれた。

サルコイドーシスと診断がつけば、難病指定を受けている病気という事から、検査代が無料になるらしいのだ。

が…、サルコイドーシスかどうかは、別に眼科の診断も受けねばならず、

「まずは地元の眼科で健診を受けてください」

そう言われ、眼科に宛てた手紙を渡された。

また、地元の病院でスムーズに診察が受けれるようにとの事で、内科、皮膚科に宛てた手紙も渡され、借りるかたちとなっていたCTの写真も、

「返しておいてください」

と、手渡された。

えらい量の荷物を持って帰る事になった。

担当女医、その、最後の話は続く。

「隣の病院まで行き、皮膚科を受けて帰ってください」

これは俺の左腕、その肉をえぐった女医の元に薬疹を見せて来いというもので、

「手術痕の抜糸時期の指示も受けてくるように」

そういう事であった。

俺と道子は、退院の事務処理にかなりの時間が掛かるとの事だったので、徒歩で隣の病院まで行った。

この道中、道子は平然としているのに、俺の息は乱れた。

(明らかに、この病中、俺の体力が落ちている)

その事を思わざるを得なかったし、何だか自分が情けなくなった。

ところで…。

隣の病院というところは、病院というよりも療養所と呼ぶ方が相応しく、現に療養所であった。

何の療養所かというと、ハンセン病の療養所である。

実に広大なつくりで、体力のない俺を相当に悩ませた。

皮膚科の女医は、前、病室で手術をしてもらった時のように、実に活発で、看護婦を怒鳴り散らしながら、テキパキと俺に服を脱ぐように指示し、

「あっちゃー、完璧に薬疹が出たわねぇ」

そう言うと、再春荘から持ってきたカルテに目を通しながら、

「この薬じゃ駄目、もっと最新の薬を出すように書いとくから」

呟きながら書き、

「抜糸は一週間後、山鹿の病院でもできるから、そっちでやって」

チャチャッと言い、またもや写真を撮った。

あっという間に受診は終わった。

それから再春荘に戻った俺と道子は病室を出、休憩室で事務処理が終わるのを待った。

(後は、あっという間に退院の手続きをするだけ…)

そのつもりであった。

が…、事務処理というものがムカツクほどに時間がかかり、途中、縫合部の消毒方法や入浴の仕方などを習ったりしたのであるが、それでも時間がたっぷりと余り、一時間半ほどボーッとしていたのではなかろうか。

結局、午後二時に退院する運びとなった。

値段は、6万円弱である。

二泊三日の値段としては異常に高いと言わざるを得ないが、様々な検査をしたものだから、しょうがないといえばしょうがないのであろう。

道子は言う。

「最初の通院分を足すと8万円になるよぉー、この出費は痛いよー、無職なのにー」

確かに痛いであろうが、別に、この出費を俺が狙ったわけではない。

神様の悪戯としか言い様がないのだ。

また、これより先、検査が続く事を思えば、

「10万円なんて、あっという間に超えるだろうねー」

そのように嘆く道子の言葉は的を得ているとしか言いようがない。

「ああ…、10万円があったら、あれも買えるし、これも買えるよー」

道子は、その10万円で豊富な想像力を膨らませた後、

「でも、しょうがないよねー、福ちゃんのせいじゃないよー」

苦しいフォローをしたが余裕で遅い。

俺のガラスハートは、

(既にズタズタ…)

であった。

とにかく…。

色々な諸問題はあるにせよ、山場の気管支鏡も乗り越えたし、入院という人生初の体験も終えた。

この日…。

家に帰るや、そのほとんどを横になって過ごし、道子の介護で入院生活と同じような安静の夜を過ごした。

夕食には三日ぶりとなるビールを飲み、

「かぁっー! シャバに出たって感じがするばい!」

その自由に心底酔いしれた。

が…、長身の女医が言うように、この時、ステロイド剤という強い薬を4錠も飲んでいたし、まだ薬疹がひどく、本当に油断はならない。

酒は唇を濡らす程度に抑え、運動も入浴も言われたように控えた。

明日は地元の病院を受診し、投薬の量を減らす打ち合わせ、また眼科を受診せねばならない。

「入院してるのと変わらんね」

恵美子はそう言ったが、道子がおり春がおり、パソコンなどの遊ぶ道具もある。

「俺は自由だ!」

その開放感が病院とは全く違い、

「この環境であれば完治する!」

健康な精神が、そう告げている。

今週末ともなれば関東から帰省してくるメンバーが続々と山鹿に寄っていくであろうし、12日から16日までは安永という三十代半ばの飲み友達が泊まりにくる事になっている。

「健康な体は、躍動的な精神から生まれる!」

俺は、その事を疑う事なく信じているし、決して自分が病人だとは思っていない。

「俺は健康な26歳の青年だ!」

そういう思いで盆の宴会に臨む事にしたい。

道子や恵美子、それに祖母や伯母、親族女衆は、

「この病気の諸悪の根源は酒たい、それ以外には考えられん!」

そう言い張り、退院後の禁酒を唱えた。

確かに…。

その言葉は真摯に受け、控えるようにしたいとは思う。

だが、禁酒というのは明らかに自由な精神の阻害で、明らかに体調を害す要因になりうる。

(俺は健康な青年だ)

その気持ちに酒は必要不可欠であり、盆を前に、禁酒を言われる事は、

「死ね」

そう言われるに等しい。

自由な精神は、既に宴会の最中にあり、それを止める事はできなさそうである。

 

 

10、眼科

 

退院の翌日、8月8日である。

この日…。

再春荘より渡すように言われた手紙をどっさりと持ち、地元の総合病院へ向かった。

そもそも、このドタバタ騒ぎの始まりは、この病院からであり、その意味では、

「振り出しに戻った」

という感は拭えない。

最初に見てもらった内科の先生や皮膚科のホモっぽい先生に糊付けされた封筒を渡し、借用していたCTの写真を返した。

皮膚科においては、現在、4錠飲んでいるステロイド剤を、

「これから、どういう風に減らしていくか」

という相談をした。

ステロイド剤は強烈な薬疹を抑えるために与えられたものだが副作用が強く、ほとんどの内臓に負担をかける。

特に、胃にかける負担は強烈らしく、合わせて胃薬を飲まねばならないほどであった。

俺は、この薬剤4錠を既に三日飲み続けている。

明日まで、この量を飲み続け、それからは、

「半分の2錠に減らそう」

皮膚科のホモっぽい医者はそう言い、

「5日分で10錠、薬を出しておきます」

つまり、薬がなくなる6日後に、また投薬量を検討するという事になった。

(くっそー、後6日も飲まんといかんのかー)

俺の落胆は深い。

本音をいえば、今すぐ、この薬をやめたかったのだ。

理由は、この薬の副作用の一つ、便秘にあった。

皮膚科に相談すると、

「確かに、薬の影響でそういう事はある」

胸を張って言うし、インターネットの薬剤検索で調べても、そういう症状が出るという風に書いてある。

薬を飲み始めたのは、入院二日目からである。

それから、俺の快便生活が滞っているのである。

そもそも、俺の快便ぶりは、道子に言わせると、

「何だよー、そのブリブリー、もぉー腹が立つよー」

そういう具合らしく、便秘などという文字は、俺の辞書には存在しないものであった。

それゆえ、

(明らかに変だ…)

そう思った。

薬を飲み始めてから三日、まるで音沙汰がないのである。

別に、体がおかしいわけでも痛いわけでもない。

ただ、快便生活を続けていた俺からしてみると、

(気味が悪い…)

そう思えてしょうがないのだ。

皮膚科は、俺の真顔の質問を受けると、

「そんなに深刻になる事はないですよ、いざとなったら下剤もありますし…」

などと言う。

が…、まず、そうなると、ますます飲む薬が増え、それこそ重病人のように薬漬けになってしまうではないか。

また、俺には下剤による苦い思い出があるのだ。

それは、昔、道子が口にしていたピンクの小粒・コーラックを、半粒だけ、舐めるように食べた時の話である。

本来は2粒飲まねばならない代物ゆえ、

(半粒くらい飲んでも効きはせんだろ…)

そういう甘い考えの元、道子を笑わせようと噛んだのであるが、これが、

(内臓すら出てくるのではないか…?)

そう思えるほどに効いた。

丸半日、便器にしゃがみっぱなしの事態となり、やっと熱波がおさまった頃には、

「うー、肛門が痛い…」

まさに、痔になる寸前の凄惨な状態となった。

ゆえに、

(下剤…、恐るべし…)

その思いは今も根強く残っているし、決して飲んではならぬ薬剤として、俺のブラックリスト、その筆頭にのぼっているのである。

今日の談合を受け、ステロイド剤の投与は半分に減る。

(それでも出なかったら…)

あの恐怖の薬剤に頼らなければならないと思うと身の毛がよだつ思いなのであった。

さて…。

その後の俺の足取りであるが、総合病院で、

「眼科を受診する事になっとるとですが、どこがよかですかね?」

尋ねると、病院前のビル、その中にある眼科がよいとの事だったので、紹介状を書いてもらい、電話をしてもらい、徒歩でビルへ向かった。

このビル、名を「プラザファイブ」といい、山鹿のランドマーク的ビルで、屋上には山鹿市民会館、温泉プール、一階には格安の共同温泉も控えている。

有名な山鹿灯篭祭りは、このプラザファイブを中心に行われ、まさに、このビルこそが「山鹿の中心」といえるところだったのである。

ちなみに、

「だった」

と、過去形で書いたのには理由があり、昔は様々な店が所狭しと入っており、まさに、

「ここが山鹿銀座だ!」

そういった感じの煌びやかな場所だったのであるが、現在は、その半数以上が店を閉めており、中も何となく暗い。

ゆえに、今のプラザファイブを言うなれば、

「閑古鳥が緩やかに舞っている」

そういった感じに成り下がってしまっているのである。

理由の一つに大型店の進出もあろうが、ビル全体が昔の栄光にすがってしまい、創意工夫をしなかった事が最もたる理由であろう。

とにかく…。

そのビルの端にある個人経営の眼科へ向かった。

受付で名をいうと、話の一切は通じているらしく、手紙を渡すように言われ、長椅子で待たされた。

実を言うと俺、眼科に行くのは初めてであった。

ゆえに、ちょっとだけ緊張している。

そもそも、目を見られる、または目を検査されるといっても、眼鏡屋で視力検査をした事があるくらいで、他は何をやられるのか皆目見当がつかない。

あの再春荘の親しげな女医に、

「眼科って何を見るんですかねぇ?」

問うたところ、

「目を見るだけよ」

いかにも簡単そうに言われた。

俺は待ちながら、奥の診察室をこそ泥のように覗いた。

診察室は暗く、えらく大掛かりな顕微鏡のようなものが二つ並んでおり、それを挟んで医者と患者が向かい合っている。

どうやら、あの装置で目を見ているようだ。

医者は、二つの顕微鏡もどきの間を、滑車が付いた椅子に乗ったままでスイスイと移動し、次から次に患者を診ている。

(ほぉー…)

初めての光景なので興味は尽きる事がない。

と…。

一人の患者に対してであるが、医者は奇妙な事を始めた。

目に、書道の筆みたいなものを突っ込んだではないか。

医者は、普通にその筆を上下させ、患者は何食わぬ顔でそれを受けている。

(最悪…)

吐きそうになる光景であった。

が…、この時、まさか、この検査を俺が受ける事になろうとは思ってもいない。

ゆえに、あくまで他人事として気味悪がった。

名を呼ばれた。

そのまま、待合室から見ていた暗室に通され、まずは視力検査をされた。

ほとんどが眼鏡屋でやる検査と変わらなかったが、目にかなりの勢いをもったエアーを噴きかけられたのにはビックリした。

何も知らなかった俺は、思わず、

「うぃっ!」

などと、奇妙な声を上げ、目を瞑ってしまい、

「はい、変な声を上げない、目を瞑らない、開けて」

助手の年増女に白い目で見られてしまった事は屈辱であった。

次に、例の大掛かりな顕微鏡のようなものの前に座らされた。

医者は、相変わらず滑車付きの椅子に座ったまま、あちらこちらを移動しており、少し待つと、俺の前に滑り込んできた。

医者は、強面の年配者で、相当に忙しいらしく、

「さ、そこへ顔を当てて」

と、すぐに検査へ入った。

確かに、周りを見回すと、急がねばならない状況で、待合室も診察室も客でいっぱいになっている。

俺は、言われるがまま、機械に顔を付けた。

と、同時に、強烈な光が当てられた。

「はい、眩しいだろうけど開けとって…」

医者は低い声で言いながら、レンズを目の位置に動かし、倍率を調整する回しハンドルを回転させた。

「うーん…」

唸り声の後、医者は助手に何かを言い、次いで、顕微鏡設備をいじくり始めた。

助手は、

「目薬をさすので機械から顔を離してください」

そう言うと、やたら染みる目薬を両目にさし、また機械に頭を付けるよう指示した。

怒涛の流れで検査は進んでゆく。

医者は機械を動かし、何やら丸い物体を、俺の目、その直前に持ってきた。

「はい…、目ば瞑らんでね」

相変わらずダンディーな声を発すると、同時に、丸い物体から青い閃光が放たれた。

眩むほどの光量である。

これが両目になされた。

「何ですか、今のは?」

問うと、

「麻酔たい、麻酔」

医者は斜に構えながら言い、筆のようなものに、水飴みたいな半液体の物体を練り付けていた。

(まさか!)

思った瞬間に、

「目を触るけど、痛くないけんね」

医者はそう言うや、筆を俺の目に突っ込んできたではないか。

(嘘だろー?)

思いながらも、あまりにも早い動きに防ぐ余裕もなかった。

左目は筆を迎えるかたちとなった。

が…、筆と眼球が触れる寸前、反射的に目は閉じてしまった。

「閉じたら駄目、検査ができんでしょーがー」

医者は文句を言うが、反射反応なのでしょうがない。

が…、

「頑張ります…」

と、俺は健気に目を開けた。

その隙間に筆を滑り込ませる医者。

確かに、痛くはなかった。

「目を開けて」

「はい、頑張ってます」

その問答は何度も何度も続き、ついには俺の両目にべったりと水飴のような物体が塗られた。

無論、俺の視界は水飴により屈曲し、波打っている。

医者が何のために水飴を塗ったのか、その意図は分からない。

素人目に考えると、目をよく見たいのであれば、塗らないほうがクリアに見えると思うのだが、そこは眼のプロが考える事、さっぱり分からない。

医者は、

「ふむ、ふむ…」

頷きながら、水飴たっぷり福山EYEを覗き、一分も見ると、

「よしっ、洗って」

助手に指示を出した。

洗う物体が水飴ゆえ、洗浄液は特殊なものが使われるのかと思ったら、普通の水でプールの後のように現れた。

その後、この助手は、

「瞳孔を開きますので」

わけの分からぬ呪文を唱えると、また、妙に染みる目薬をさしてきた。

「待合室にいてください、5分置きに目薬をさしに来ますので」

助手がそう言って、俺を待合室へさげた時には、強面の医者は例の椅子に乗り、俺の後二人目の患者、その前に滑っているところであった。

医者も助手も、無駄口を一切きけぬほどに忙しいようである。

ところで…。

瞳孔を開くという目薬は、助手により、計六回さされた。

つまり、三十分の時間を要した事になる。

二回目くらいから、まったく近場が見えないようになり、老眼のようになった。

遠視の俺からすれば、非常に複雑な心境である。

近くが見えて遠くが見えないはずの絶対原理が崩れ、近くも遠くも見えず、ある短い範囲のみが見えるのである。

これは、助手に言わせれば、

「目薬のせいですので気にしないでください」

との事で、気にはなっても口にしてはいけないようだ。

助手は六回目をさし終わると、俺の目を見、

「よさそうですね」

まったく血の通っていない喋り口で言い、また診察室へ案内した。

すぐに顕微鏡機械の前に通された。

強面医者が滑って現れ、俺の目を見つつ、

「よーし、開いとる、開いとる」

嬉しそうに言いながら、前と同じように強烈な光の中、顕微鏡を覗いた。

以前にも増して眩しいように思われ、心底、目を開けていられなかった。

「瞳孔が開いとるけん眩しかろぉー」

その謎は医者の呟きにより納得したのだが、だからといって閉じていいわけではない。

「もっと開けろ、もっと開けろ」

医者は言い、食い入るように顕微鏡を覗き込んだ。

「よしっ」

先ほどと同じように医者の掛け声で顕微鏡の光が消えると、やっと診察結果を教えてくれる事になった。

医者は突発的にこう言った。

「その目、炎症を起こしとる」

「は?」

意味の分からぬ俺は、露骨に首を傾げた。

が…、医者は、それを深く説明する事はしない。

ただ、

「サルコイドーシスの疑いがあるか調べてくれ」

という再春荘からの手紙に関してだけは、

「サルコイドーシスによるものだろうと思われる、赤い粒が眼球の中に見られる」

そう言い、続けて、

「これがひどくなると眼圧が高くなる、高くなれば緑内障にもなりうる、そうなれば失明の可能性もある」

なんとも絶望的な展望を一気に語り、

「そうならないため、今日から出す目薬をさしなさい」

まるで、テレビショッピングの如き見事な調子で三種類の目薬を簡単に説明した。

が…、俺が、

「目…、痛くもかゆくもないんですけど…」

そう言ったとき、店員的口調が薄れ、その声に怒りの要素が付加された。

「症状がないからという油断がいかん!」

一喝すると、眼球の模型を出し、

「ここが炎症をおこしているというのは油断ができる状態じゃない!」

俺の目を鋭く見据え、目薬を忘れずにさすよう念を押した。

「とにかく!」

と、医者は強い語調で言う。

「極めて高い可能性で、この炎症、及び赤い斑点はサルコイドーシスによるものだろう」

結局、その事を手紙にしたためてもらい、俺は眼科を出る事となった。

土産として、目薬を三種も持って帰る事になり、朝昼夜、それに寝る前、計四回もささねばならなくなった。

家に帰り着くと、午後5時を優に回っていた。

実に、午後の全てを病院で過ごした事になる。

家には道子がいた。

「多分、サルコイドーシスだろうって眼科に言われた」

その事を報告すると、

「良かったねー」

道子は明るく返してきた。

俺は、その道子の反応で、

(そうだった、俺の状況は、サルコイドーシスだったらラッキーという状況だった)

自分の現状を思い出した。

が…、予想もしない目の欠陥を指摘され、

(まいったなぁ…)

俺にしてみれば痛くないところを痛いと言われ、なんとも腑に落ちない思いはある。

また、目薬という人生でも片手くらいしか使った事のないものを、一日四回も使わねばならない事を思うと、

(めんどくせぇーなぁー)

その思いも強い。

更に、この三種の目薬の一つは、眼科でも使った瞳孔を開く目薬で、それを使うと近場が見えなくなり、本も読めない状態となる。

これを朝と寝る前にささねばならないらしい。

今、車を運転して帰ってきたが、とても辛かったし、パソコンの画面も見えない。

効果は4時間も続くという。

(寝る前はいいばってん、朝は不便ばい…)

その事を思ったし、事実、この目薬のみ、翌々日には、

「朝はささん!」

そういう運びとなった。

何かと多忙な午前中に目が見えない(+光が眩し過ぎる)というのは、やめる理由としては充分であろう。

とにかく…。

入院後初日の検査により、飲み薬は減ったものの、目薬という厄介者が増えた。

まずは道子に、

「目薬のさし方」

これを習わんといかんであろう。

俺は、自慢じゃないが目薬を自分でさせないのだ。

また、ステロイド剤を後幾日かは飲まねばならぬので、

(毎朝便器に座ってみる事が肝要だ…)

その事を痛々しく思うのである。

さて…。

次の通院は6日後、8月14日。

一週間ぶりに病院と交わらなくてよい日が続いてくれそうである。

 

 

11、診断の行方

 

眼科の受診を終えた8月8日、それ以降の足取りを追ってみたい。

まず、9日…。

この日、体調が良かった事と、関東から友人連中が帰省で帰ってくるという事で、

「昼に大牟田まで行ってみるか」

久しぶりに遊びのための外出をした。

大牟田の大型ショッピングモールで山本という友人夫婦と会い、茶などを飲んだ。

やはり、歩くと息が切れ、量を話すと肺が苦しくはなったが、

(うん…、これなら大丈夫…)

これより先、盆に向かって普通に遊べる事を確信した。

また、その前、午前中には後藤という友人夫婦が福山家に訪れてきており、

「夕方にBBQをするけん」

そう言い残して去ったため、大牟田を後にすると、その足で山鹿の隣・菊池市へ向かった。

後藤一家は学生時代から世話になっている一家でもある。

当然、顔見知りの家に、ちょっと挨拶するだけの軽い気持ちであったのだが、現場はそういうわけにはいかない事態となっていた。

庭に、えらく豪快なBBQ準備が施されており、なんと、生サーバーまで用意してあるではないか。

直前まで、

「飲まない」

そう宣言していた俺ではあったが、BBQ、生サーバー、この二大巨頭に迫られては、

「いっぱいだけ…」

と、飲まざるを得ない。

また、この後藤家の宴会は、飲みたくもなる複雑な要素も含んでいた。

この宴会の主旨は、後藤の親から言わせれば、

「関東から若妻と一緒に帰って来る息子の歓迎会」

こういったものであろうが、その付属(こちらがメインかもしれぬが)として、後藤の姉が、

「結婚するかもしれない」

そういう関係の彼氏を連れて来てもいたのである。

宴会には後藤両親の他に、後藤の祖父母もおり、まさに「後藤祭り」といった感じなのであるが、姉の彼氏を隣に迎えた後藤父の顔色は何となく冴えない。

もろ、緊張しているのであろう。

俺は、その雰囲気を鋭敏に捕らえた。

(むむむ…、第三者の俺が何とかせねば…)

そう思ったのが禁酒の封を切ってしまった要因の一つかもしれない。

チビチビ飲みながら、後藤の祖父、父、そして問題の彼氏を中心に攻め、

「姉ちゃんのどこが良かったんですかー?」

その核心に触れてみたりした。

後藤という俺の友人も、普段はこういった事を遠慮なく聞く男であるが、そこは初顔合わせとなる「姉のフィアンセ」だけに妙に遠慮をしている。

俺がそういった爆弾をぶつけると、明らかに後藤家の面々は喜色を示した。

(おもしろい…)

俺は、ぎこちない後藤家を楽しむだけ楽しんで早めに帰った。

ちなみに…。

リトマス紙的に飲んだ酒だが、俺の体温を変に上げはしたものの、別に違和感も劇的症状も出ず、至って普通に肝臓で消化されたようだ。

(適量ならいける!)

俺は、その確信を持った。

その翌日10日は、本来であれば後藤幹事の、

「電波高専電子制御科、同窓会旅行」

そのはずであったが、一連のドタバタを理由にキャンセルを入れていたため、ぽっかりと空いた。

そのため、文章を書いたり、本を読んだりして過ごした。

ただ、車で帰省してきた和哉と今本が現れたため、その時だけ皆で外出し、飯などを食いに行った。

また、その翌日11日も、文化的にまったりと過ごし、医者に言われたような「安静生活」を送ったといえるであろう。

酒は、晩酌程度しか飲んでいない。

ちなみに、この期間…。

確実に俺の体力は回復の兆しを見せてきたと思う。

息切れもしなくなってきたし、咳なども全く出なくなった。

猛烈に出ていた薬疹も、下向きの傾向になりつつあるようだ。

日、変わって12日…。

前日同様、日中は読書などに勤しんだ。

ただ、この日から、安永という飲み友達(35)がわざわざ関東から遊びに来てくれたため、夕方からは安静というわけにはいかない。

夕刻には安永氏の意向でウォーキングに付き合い、夜は生サーバーを用意し、酒に付き合った。

安永氏の話は、この次の長文執筆となる悲喜爛々31「駄目人間」に写真付きで書く。

それを読んでもらえるとありがたい。

とりあえず、この悲喜爛々30では俺の事を書きたい。

と…、まぁ…。

そうは言いながらも、書くべき事はこの前章までにほぼ書き尽くしており、この書き物では、14日に出るであろう診断までを書こうとしているわけだが、結論を言ってしまえば、診断は、これを書いている20日においても出ていない。

つまり、この書きものとしては、固まってもいない空気のような流動体を一つの話として強引に固めようとしているわけだが、どうしても固める糸口というものが凡人の俺には見つからない。

ゆえに、ダラダラとそれまでの過程を書き、診断が出るまで、この悲喜爛々30が終わるのを待つかたちをとろうかと思っている。

さて…。

話を戻し、俺の体調であるが、13日においては「すこぶる元気」と言ってもよいくらい、活動的に安永氏と遊んでいる。

(こりゃ何の病気にもかかってない可能性というのも有り得る事かもしれん…)

その僅かな可能性にも願いを託し、その翌日14日、診断を聞きに行った。

病院は再春荘である。

入院中、俺の担当医師であった長身女医が、例の如く、俺を温かく迎えてくれた。

道子と春も同席し、その診断を聞く運びとなった。

安永氏は病院まで一緒に来たが、そこで別れ、病院前を走っている極めてローカルな電車・キクデンに乗り、熊本市街へ行った。

熊本城を見て来るという事らしい。

俺や道子は、安永氏の事などは完璧に忘れ、女医の話に夢中になっている。

女医は、結論から言い始めた。

「結局、診断はつきませんでした」

それが第一声である。

続けて、

「左手の肉をとった生検では炎症しているという結果しか出ませんでしたし、肺の肉からもサルコイドーシス独特の所見は見られませんでした」

と、残念そうにそう言った。

女医は「サルコイドーシス診断書」なる紙を手にしている。

その中には幾つものチェック項目があり、

「その中の皮膚生検、肺生検で陰性だったのは辛い」

呟きつつ、実に歯痒そうな表情を見せたのであるが、俺が手持ちした眼科からの手紙に目を通すと、

「でも…、この手紙が心強い」

そういう表現で喜んだ。

女医は、生検が陰性だった事を受けると、すぐに大学病院に肺の肉を回している。

肺の細胞の中に癌細胞が存在しないか見てもらうためである。

この処置から分かるように、女医は、

「サルコイドーシスではなく悪性リンパ腫ではなかろうか?」

その事を疑り始めたらしい。

が…、俺が手持ちした眼科の診断を見るに、

(ガンでは、こういった症状が出る事は極めて稀…)

そういう事で安心をしたというのである。

女医の話は続く。

「もう四候補の内、二つの可能性は消えたと考えてもらっていいです」

それは、膠原病と結核であるという。

結核の可能性が消えたのは、気管支鏡で塩水を肺にぶっかけて調べた検査によるものであろう。

更に、女医は自信をもって次のパーセンテージを提示する。

「90%はサルコイドーシス、残りは悪性リンパ腫か謎の病気」

血液検査などは、見事にサルコイドーシスに合致しており、他諸々の検査もサルコイドーシスの所見と合致するようだ。

「ただ、悪性リンパ腫の可能性が消えない」

その事で100%サルコイドーシスと言えないらしい。

大学病院での細胞検査は凡そ二週間を要すという。

「これで癌細胞が見当たらなければ、サルコイドーシスという診断をつける」

女医は、そう言った後、

「だけど…」

と、もの悲しげな表情で続けた。

「サルコイドーシスという病院の診断がおりても、難病申請に通るかどうかが分からない。もしかして、もしかしたら、もう一度、気管支内視鏡を受けてもらう事になるかもしれん」

それほどに肺生検の結果というものが重要視され、それさえ陽性なら国を認めさせる説得力があるらしい。

無論、気管支鏡に関しては、

「二度とやりません」

俺は、毅然とした態度で返している。

ちなみに、女医に言わせると、気管支鏡で見る限り、サルコイドーシスの肉片らしい粒が肺にあったらしい。

が…、それを摘んだ時に壊れたのであろう、組織がめちゃめちゃになっており、結局は判別不能だったらしいのである。

「それさえ、キチンと採れていれば…」

女医は悔やむが既に遅い。

とにかく…。

そういう運びで、診断は大学病院の結果が出てからにオアズケという事になった。

女医は、本当に真摯な態度で、

「ごめんね、長くなって…」

頭を下げ、二度目となる診断の日を8月28日と指定し、

「その前に残っている検査を少しでも消化して欲しい」

という事で、22日は腹部エコー、レントゲン、採血などの検査をする事になった。

俺と道子は、

「結局、あの地獄の入院生活は無駄になったわけだ…」

その動かしようのない結論を呟きつつ、肩透かしにあった感じで山鹿へ帰った。

夕刻には、地元の総合病院へ独りで行った。

皮膚生検の抜糸をするためと、ステロイド剤の投薬量打ち合わせのためである。

抜糸は思ったより簡単で、普通の小さいハサミで、消毒をする事もなく切られた。

投薬量の打ち合わせは、俺が、

「もう皮膚は良くなりました、止めましょう」

そう提案すると、即座に受け入れられ、その後は飲まずに経過観察という事になった。

ちなみに、ステロイド剤に伴う便秘だが、五日間という病的な期間を経、ついに終止符が打たれたのであるが、また、それから便秘が続くという惨状を呈した。

が…、この日、投薬中止が決まると、あの快便生活は煌びやかに復活した。

ていうか、溜まった分がドンとくるといった感じで、一日二回も三回もゆく羽目となった。

とにかく…。

その後、俺は完璧なる健康体となった。

診断が出なかった14日の夜には、福岡県黒木町に酒を飲みに言ったし、15日には20人の友人を実家に呼んで宴会を開いた。

酒量は、完全に元の量に戻ったといってもよかろう。

咳も熱も違和感もなく、文章書くのもなんのその、むしろ、昔より書けるかもしれない。

「健康だー」

叫びたいほどに健康だ。

が…。

この裏で、

「10%悪性リンパ腫」

その黒い影が蠢いている事は、否めない事実である。

早く、この黒い影を取り除き、

「サルコイドーシスの福山ですっ、難病指定いぇいいぇい!」

そういう風に自己紹介でもしてみたいものである。

次、診断がおりるという日は8月28日。

それまでは、キンキンに晴れ渡っている俺の空に、どんよりとした黒い影が居座り続けるのである。

 

 

12、結論

 

担当の女医は、三度目となる診断日を8月28日に指定した。

三度目ともなると、

(どうせ診断はつかんだろ…)

そう思うところもあるし、

(三度目の正直だ…、次こそは…)

そう思うところもある。

前回二度目の診断日から、丸二週間という時を経ての今回三度目である。

はっきり言って、俺はこの日を待ち侘びていた。

(癌だったら癌で、すぐ気功治療に入ろう…)

そういった、「もしもの思い」があったからだ。

若者の癌は老人のそれとは比較にならない。

若く活発な細胞は、あっという間に癌細胞を増やし、あっという間に体中に転移する。

つまり、癌であったならば時間こそが命で、その時間は極端に短い。

ところで…。

俺の学生時代の担任に鈴木という教官がいた。

この人は、変わり者という事で有名で、どう変わり者かというと、宗教的なほど気功学に凝っていたのである。

その研究室であった俺は、

「シューマン共振波をもちいたストレス解消法の研究」

という電子制御科らしからぬテーマを頂いた。

ちなみに、皆本という同じ研究室の友人は、手の平における電位差を測定する事により、その人の健康状態を見るというもので、はたから見ればこの研究室は、

(うさん臭い集団…)

そう思われていたに違いない。

が…、皆本は別にして、俺はこの研究を、

(おもしろい!)

心底そう思い、学校で一番張り切ったのではなかろうかと思ってしまうほどに燃えた。(あくまで自己分析)

具体的にその研究を説明すると、地球を囲むように漂っているシューマン共振波という電磁波がある。

その揺らぎがテレビなどで騒がれている「1/f揺らぎ」(心地良い音に共通する揺らぎ)らしく、それを受信機で取り込んで音にし、聞いてストレスを解消しようという夢のような研究だったのだ。

半年ほどで受信機を作り上げ、どのような場所が受信しやすいか調査し、8ヶ月ほどで音にする事を得た。

が…、ここで壁にぶつかった。

(どうやってストレス解消を確認するんだ?)

その事であった。

これは、研究の結果を出すための最も重要な検証である。

ところが、その検証を行うためには脳波を見るより他はなく(他にもあるかもしれぬが)、とにかく大掛かりな装置がいる。

無論、それを買う予算もなければ、借りるツテもない。

ゆえに、

「仕方がない…」

という事で、皆本が適当にやっている「手の平研究」を最後の検証に用いるという事にし、音を聞く前における手の平の電位、聞いた後における手の平の電位を比べ、それを東洋医学の本と照らし合わせる事で評価しようとした。

結果、題目を遠慮気味に格下げし、

「シューマン共振波を用いたストレス解消法の可能性について」

そういう風に変え(教官の提案)、実に嘘臭い卒業発表をする事になった。

また、論文も途中までは良いのだが、最後、手の平の検証が入る辺りで胡散臭さが爆発し、結果、俺の強引な文章で誤魔化すかたちとなっている。

ちなみに、この論文は前の会社で先輩や同僚に見せた。

すると、

「ぷひー、こんなに笑える論文は初めてだー!」

と、芯から笑われ、腹が立つやら情けないやら、実に複雑な思いをした。

とにかく…。

この縁というものがあって、気功マニアの鈴木教官と語らう機会が多くなり、気功というものの概論や、それの持つ力、また、それを用いた治療の話などを何度も聞いた。

ちなみに、この鈴木教官は気功師でもあった。

当然、希望すれば気を発してくれ、俺もそれを食らったのであるが、確かに異様な熱を感じる事が出来たし、何かが普通の手から出ている事を認めざるを得ない。

この、鈴木教官が言う。

「癌などは気の流れの狂いから起こるものだ。だからこそ良質な気を当て、気の流れを良い方向へもってゆく気功治療が効くんだよ」

その時の俺は、

(癌などは無縁の病気…)

そう思っていたため、軽く聞き流したものであった。

が…。

それより6年の年月を経、

「10%の確率で癌」

そう言われてからは、あの時の鈴木教官の言葉が鮮明に思い出されてならない。

また、若者における悪性リンパ腫などは、そのほとんどが死に至る病気といえる。

藁にもすがる思いで頼るには、

(気功治療こそ相応しい…)

そう考えたとしても不思議ではなかろう。

とにかく…。

気持ちの準備(覚悟)は万全で、毎日を楽しく普通に過ごした。

そして、8月28日を迎える事となった。

この日の予約は午前10時で、諸々の検査は22日の時点でやっているので、すぐに診察へ入れる。

診察券を出し、慣れた足取りで担当医の名が書かれた13番診察室前に腰掛けた。

この日は大雨であったが混んでいるようで、待ち時間は異様に長かった。

あまりにも暇だったため、先週、採血が鬼のように下手だった看護士(男)を探すため、採血室を覗いた。

(いた!)

今日もオドオドしながら注射針を持っている。

俺の目が、その青年を前にした患者に向けられた。

(かわいそうに…)

心から同情した。

先週、俺もその青年に同じ場所で血を採られたのである。

あの時、青年は、俺の左腕に止血バンドを巻くと、普通に血管を探し始めたのだが、

「あれー、見えんねー、ぜんぜん分からん」

そのような事を始終呟き、結局、

「左手は見付からないので右手でお願いします」

そう言って、左手同様、右手も長い時間こねくり回し、一時すると、聞こえるか聞こえないかの小さな声でこう言ったのである。

「多分ここだと思う」

俺はハッとした。

が…、遅い。

青年は、迷う事なく針を突き刺したではないか。

「うっ…」

俺は、思わず呻き声をあげてしまった。

いつもの10倍は痛かった。

が…、我慢する事にした。

採血の本数はいつもの半分で、すぐに終わるはずだったのである。

ところが、蓋を開ければ時間はいつもの倍かかった。

おまけに、抜いた試験管を机に置く時、

「あっ」

信じられぬがそういう声をあげ、テーブルに試験管を落としたのである。

辛うじて割れはしなかったが、あれが割れ、俺の血がテーブル上に広がっていたら俺は気を失っていたであろう。

とにかく、そういう青年ゆえに気になり、その動向を苛々しながらチェックしていたら俺の名が呼ばれた。

担当医は、無論、気配りの女医である。

女医は、俺が部屋に入るや、まず一番に満面の笑みを披露した。

「おめでとー、福山さん」

言うや、俺が座るのも待たずに、

「大学病院で調べてた肺の細胞だけどね、癌も結核も出らんかった。それにね、肉片を大学病院の方で色々な切り口で調べてくれたらサルコイドーシスの所見が出たよ」

一気に喋るや、手元の書類をヒラヒラと振った。

書類は、サルコイドーシス診断書である。

生検のチェック項目に修正印が打たれ、「あり」のところに小さな丸が描かれている。

「これで国の認可もおりるし、しっかりとした診断も出せるよ」

女医は我事のように笑顔で言うと、姿勢を改め、

「今日をもって、サルコイドーシスと診断します」

その診断を発してくれた。

俺は、喜んでよいのか悲しんでよいのか、実に複雑なところであるが、ま…、癌よりは格段に良い結果であろうから、

「安心しました」

そう言って、ダンディーに笑った。(低い笑いという意味)

それから先週の検査結果、また今後の検査予定、その説明があった。

先週の検査はレントゲンと腹部エコー、それに最悪だった採血であるが、どれも異常はなかった。

ま、なかったといっても、レントゲンは以前と変わりがなかったという意味で、リンパ節は未だ猛烈に腫れている。

「この腫れは徐々に引いていくと思うけど…、どうなるかは分からん」

女医は苦笑しつつ項垂れ、次いで、俺の背や腹を見た。

一時、猛烈を極めていたジンマシンや赤い斑点の様子を見るためである。

「うんうん、結果良好、順調に枯れていきよるね」

カルテに英語かドイツ語かは分からぬが、横文字で何かを書くと、左手の下にあったサルコイドーシス診断書を俺の前に置き、また、別の難病認定書らしきものを取り出した。

「この2枚の書類を持って保健所に行くといいけん。まだ出さんといかんものはあるけど、ちょっと分からんから、それは保健所で聞いて」

どうやら、これらの書類を保健所に提出する事により、国からの難病補助が受けられるらしい。

また、女医の話によると、国の認定は先になるそうだが、書類を出した時点から難病補助は始まるらしく、

「保健所には今日中に行って」

との事で、その急ぐ理由を問うと、

「サルコイドーシスは全身にできる病気だから、全身を調べんといかん。特に、心臓は命に関わるから急いで詳しく調べたい」

そう言った。

俺が入院している間に金銭的な苦悩を切々と語ったものだから、女医はそれを気にしてくれ、

「高い検査は難病認定の後に…」

と、やりたい検査をストックしてくれていたのである。

が…、今日以降、俺が手続きさえすれば、その呪縛から解放される。

女医はカレンダーを取り上げると、

「まず、ホルター心電図とシンチグラムをやりたい」

そう言うや、どこかへ電話をかけ、検査が行える日を確認し始めた。

ホルター心電図というものは、24時間心臓の動きを見る検査らしく、ウォークマンのような機械を持ち、丸一日、日常生活を送らねばならないようである。

無論、電極が胸の上に張り付くため、風呂には入れず、寝る時はゴロゴロしないように注意せねばならないようだ。

また、シンチグラムという検査は、朝から食事をとらずに病院へ行くと、ダイエット用の自転車を息が切れるまでこがされるそうだ。

そして、疲れているところに放射線物質の入った値段の高い注射を打たれ、心臓の写真をレントゲンみたいなもので撮る。

これを、注射直後と一定時間置いてからの二枚撮るのだという。

女医の言葉を借りると、

「とりあえず、心臓さえ大丈夫なら当分は大丈夫」

そういう事らしく、何だかサルコイドーシスを楽観視していた俺にとっては、

(む…、雰囲気が違うぞ…)

ちょっとだけ、騙されたような気分になった。

また、入院中の話だと、

「サルコイドーシスって診断されたら、後は経過観察で、たまーに通院すればいい」

そのように聞いていたものであったが、今日の女医の言葉だと、

「毎月一回、採血とレントゲンを撮りに来てください」

との事で、更に、再来月辺りまでは、立て続けに色々な検査をやるそうである。

無論、国からの援助金が出るので、道子などは、

「どうぞどうぞ、好きなだけ調べてください」

間違いなくそう言おうが、検査される俺にしてみれば良い気持ちはしない。

眼科も2週間に1回入っているので、結構な回数、病院通いをしなければならないのである。

とりあえず、9月25日に診察とレントゲン、それにホルター心電図、9月30日にシンチグラムをやる事になった。

女医にしてみれば、本当は前倒しにしたかったのであろうが、

「自分、ちょっと前にNHKの願書を出しまして、もし書類選考が通ったら13日に一次試験、下旬には二次試験があるんですよ」

そう言ったところ、

「それじゃ仕方ない…、下旬に集めるわね」

そういう事で下旬に検査が集中した。

俺は、9月下旬に二次試験があると言っている。

(あれ?)

一瞬だけ疑問に思ったが、即時、俺は全てを理解した。

女医の、俺の試験結果に対する確信の事である。

(書類選考は通るだろうけど、まず一次試験で落ちるわね…)

俺は、女医の露骨さを面白いと思った。

確かに、倍率はコンスタントに100倍以上らしく、その半分は書類選考で落とされ、一次でその半分以上、つまり、二次試験前に80%は落ちているという事であり、女医の推測は的を得ているといえば確かに得ている。

続けて、女医は言う。

「もし、何か不測の事態があって、シンチグラムを受けられなくなったら、すぐに電話を入れてください。シンチグラムに使う薬は日時指定の薬剤だから10分でも過ぎると使えなくなります」

つまり、早めにキャンセルを入れねばならないという事であるが、ここでの女医のセリフも注目すべきであろう。

「何か不測の事態があって」という表現である。

俺は今日の診察中、この台詞に突っ込むか突っ込むまいか非常に迷った。

女医は、明に暗に、

「あんたが一次試験を受かるという事は不測の事態だ」

その事を言ったのだ。

(でも…、突っ込んで落ちたら恥ずかしいし…)

俺は、その思いで突っ込む事をやめた。

だって、100人中99人が落ちるわけである。

(いらん事は言えんばいー)

病中の俺は、普段の前向きな心を忘れ、心まで病んでいたといえるだろう。

とにかく…。

長々と書いてきた悲喜爛々30「突然」は、本当に突然に現れた症状から書き始め、受診、入院、診断、それにたっぷりの余談を含めて書き上げた事になる。

文量は400字詰め原稿用紙に換算すると170枚程度となり、ほぼ小説一冊分となる。

「エネルギーの無駄だな…」

皆はそう言うかもしれない。

が…、それは言わないで頂きたい。

書いている本人は、もっと深刻にその事を後悔しているのである。

(別な小説でも書けばよかった…)

毎度毎度そう思うのであるが、出来事を書き残す習慣が5年も続いているため、書かずにはいられないのである。

が…、

「書いてよかった事もあるんだぞー」

いちおう、これだけ熱を入れて書いたので、その事も述べたい。

俺は今、爺臭くはあるが、

(健康というものがどんなにありがたい事か…)

その事をしみじみ感じている。

無論、それは書いた事によるのではなく、経験によるものであるが、書いた事により、

(皆においても、それが少しは共有できたのではなかろうか…)

そう思うわけである。

近い友が結婚すると焦るように、近い人間が病気にかかったりすると遠かったそれがグッと身近に感じられる。

その事を思っているわけである。

病を思う事は健康を思うことであって、そこから活きている時間というもののありがたさが分かる。

そうすると、

(何気ない時間が輝いてくるのではなかろうか…?)

強引に、そう思うのである。

また、この余波として、道子は次のように言った。

「これを読んだ人は、気管支鏡をやる時や造影剤を入れる時、絶対に怖くなるよー」

そう…。

この書きもののテーマは、

「俺が味わった恐怖を共有してもらう」

そこにもある。

これに深い意味はない。

単に、皆が気管支鏡などの検査を受けた時に、

「ほらー、俺が書いた通り痛かったろー!」

先人として、その自慢をしたいだけなのだ。

さて…。

長過ぎた書きものも、今、終わりを迎えようとしている。

結局、何がこの章の題目「結論」かというと、

「俺が難病にかかった」

その事に尽きるであろう。

「明るく元気な難病者になった」

とでも言おうか…。

ところで、難病といえば治療法が確立されていない病気の事を指し、現在、ホームページを見るに45種に及ぶそうな。

どれもこれもがパンチのある病名ばかりで、聞くことすら恐ろしいものがズラリと並んでいる。(パーキンソン病、混合性結合組織病、重症筋無力症など…)

それに比べると、

「サルコイドーシス」

これ…、何となく響きが可愛いし、それに付き合いやすそうで、

(よかったぁ、サルちゃんで…)

などと、胸を撫で下ろさずにはいられない。

とりあえず、

(本当にいいのか?)

そうは思っても、悪性リンパ腫ではなかった事を喜びたい8月28日診断の日なのである。

合わせて…、

(活きた時間は、そう永く続くものではない…)

この教訓を、俺は筆先にぶつけるべく燃えねばならないだろう。

が…、そのぶつけ先が日記であるという事が悩みの種ではある。

「おいおい、日記でいいのかよー?」

「日記も文章の内だけんいいんじゃ?」

この葛藤が、明日も明後日も続きそうでちょっと怖い。

ちなみに…。

明日からは、岡島という先輩(50)が埼玉より遊びに来る。

岡島氏は写真家でありながら陶芸と蕎麦打ちもやる趣味人で、今回の旅行では風景のよい場所と陶芸の名所を回りたいそうな。

燃えたところをいきなり鎮火される思いはあるが、少しばかり書きものと離れ、九州を駈けずり回らねばならないようである。

 

〜 終わり 〜