悲喜爛々35「長州など」

 

 

1、予算と計画

 

「五万円で行けるよね?」

これは道子が何気なく提示した今回の旅行予算である。

三泊四日を五万円、つまりは一日に一万円ちょっと用いる計算である。

俺一人の旅行であれば、その予算は過ぎるほどに多いが、三人家族の予算としては少な目ではなかろうか。

が…、決してケチな旅をしようというものではない。

現に、一泊目の萩での宿泊は俺の従兄弟が旅行会社に勤めている関係で、そこに頼み、

「萩で最高の旅館」

そう言われるところを選んだ。(道子が)

この宿の詳細は後の章で紹介するが、とにかくケチるどころか俺にしては豪勢の風で計画を進めている。

また、本来ならば京都に行くはずで八泊九日の計画が三泊四日になったため、

(京都に行く事を思えば全然安いんだけん、ドーンと使うぞ、ドーンと)

そういった無職の家庭とは思えない感覚で計画を立てた。

ゆえ、高速はブンブン使うし、寄るところも多い。

が…。

計画はあくまで計画であって、それがそのようになるとは限らない。

延べ十数時間という莫大な時間をかけた計画は、まず、雨という天敵に阻害され、出足を大きく挫かれた。

また、貧乏性という性分が災いし、

「ドーンと使う」

その気分がいつの間にか、

「ほどほどに使う」

そのように変わり、結局は庶民の旅行に成り下がってしまった。

計画上、寄るようになっていて寄れなかった観光地は全部で八箇所。

理由は天候、寝坊、二日酔いが主だが、有名な秋芳洞などは、その入場料に対し、

「高すぎるよぉ…」

道子がそうこぼした事により素通りしている。

 

 

2、秋吉台

 

11月20日…。

夜も明けきらぬ午前六時に起きた福山家は、前日に用意した荷物と、熟睡中の春を車に積み込み、九州の背骨・国道三号線に出た。

トラックばかりの薄暗い道を、鹿北から立花へ県境を跨ぎ、お馴染みの広川インターチェンジで高速に乗った。

天気は雨であった。

「道子がいる、その事は雨を意味する」

これは福山家で詠われ続けている文句であるが、この日も裏切る事なく降ってくれた。

車には春も乗っているし、家を出る時には、

「くれぐれも、くれぐれも、春ちゃんを怪我させないように!」

恵美子にそういう念を押されたので、できるだけ左車線を走った。

山口の美祢インターには午前九時過ぎに着いた。

それから三十分ほどで第一目的地の秋芳洞に着く。

駐車場に近付くと、観光地の常で地元の客引きオバサンが有料駐車場に引き込もうと手を振っているのだが、前述の入場料が高いという理由で素通りした。

素通りし、どこに行くのかというと、無料の秋吉台である。

ここは無料の駐車場を備えた展望台があり、隣には無料の秋吉台科学博物館もある。

「無料尽くし」に道子も大満足。

春の手を引き、まずは展望台へ向かった。

秋吉台は日本最大の石灰岩台地である。

広大な景色に石灰岩が点々と見え、広大な点では阿蘇の方が数段上なのであるが、石灰岩の点在が珍しい。

「おー、阿蘇にニキビができたような景色やねぇ」

俺と道子は手で望遠鏡をつくりつつ(チョコランタンのパクリ)、景色を堪能した。

天気は小雨が降っている程度で、傘がなくとも普通に歩けた。

よく見ると秋吉台の中央には遊歩道があり、それが永遠と延びていたので、

「歩くか?」

道子に問うと、

「いやだ」

即答でその応えが返ってきた。

その代わり、展望台横の売店には抑えきれない興味があるらしく、

「夏みかんソフトクリームがあるよー、食べなきゃー」

と、実に甘い声を出して売店に並んでいた。

ちなみに、この売店の横にはライバル店が一店だけあり、観光客を捕まえては、

「向こうの夏みかんソフトは調味料を入れてある嘘っぱち。うちのは本物の果汁をたっぷり入れてるから味が違う。ちょっと食べてごらん」

と、試食をさせていた。

これには道子も素早く反応し、向こうの売店で買ったソフトをちらつかせ、試食をゲット。

「ほらー、こんなに注ぎ足してくれたよー」

最高の笑顔を見せてくれた。

悲しいかな秋吉台、花より団子の道子には、その広大な景色より夏みかんソフトクリームなのであった。

さて…。

展望台から少しだけ歩くと、秋吉台科学博物館がある。

無料と聞いては行かずにいられない性分の福山家は、春の両手を俺と道子で支え、仲の良い家族像を通行人に見せびらかしつつ、そこへ向かった。

建物は古い保健所みたいな感じだったが、中に入ると、無料にしては豊富な展示物で満たされていた。

特に、剥製(はくせい)の類が多く、その中には生きている蛇も混じっていた。

蛇は白色の中型で、動かない周りにあって、いきなり動き出すものだから大人といえどもビックリする。

ましてや一歳児の春に至っては大声で泣き出す始末で、その後は剥製の前を通る事も嫌がった。

俺と道子は、露骨に恐れおののく春を、

「情けない!」

そういう風に一喝し、あえて剥製の前に座らせた。

春は泣きに泣いた。

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そして、俺と道子はその様子を眺め、

「本気で泣いてるよー、ちょー笑えるー、誰に似たんだよー」

「お前だろー」

「福ちゃんだよー」

と、楽しむのであった。

そういうわけで…。

秋芳洞に関しては行ってないので分からないが、無料の秋吉台周辺はじゅうぶんに遊べる観光地だと思った。

ちなみに以前、北九州の帰りに寄った平尾台。

そこも石灰岩台地であるが、綺麗な公園に整備されており、こちらも入場無料。

駐車場代(300円)は取られるが、かなりオススメである。

 

 

3、松下村塾

 

秋吉台を出た福山家は、一路、萩を目指した。

予定では、この日の内に萩観光を終えてしまうつもりだったため、午前の内に萩に着かねばならなかったのだ。

秋吉台を出たのは午前11時前。

計算によると、一時間弱で萩へ着く。

事実、萩へ入ったのは午前中であった。

が…、その萩の入口、そこに有料道路(萩往還)があるのだが、その脇に吉田松陰記念館という実に興味深い記念館があった。

入場料も無料だと案内板に書いてある。

行かぬわけにはいかない。

雨が強めにふっており、駐車場から遠く(反対車線にあり、地下道を通ってゆかねばならない)、春はグッスリと寝ていたので、一人で記念館へ向かった。

最近できたところらしく、建物は新しい。

また、その前にズラリと並ぶ幕末の志士、その像も黒光りを見せている。

外観の時点で期待がもてる。

中に入ると、展示品こそ少ないが、懇切丁寧に松蔭の生き様が説明されている。

それに見入っていると、アッという間に一時間弱が過ぎた。

(いかん、いかん…)

真剣に勉強し過ぎた事を反省しつつ急いで車に戻ると、春と道子は熟睡中で、二人とも同じ格好で寝ていた。

(親子だなぁ…)

その絵を微笑ましく眺め、すぐに車を出した。

さて…。

そこから萩中心部へは目と鼻の先であるが、予定の午前着には間に合わなかった。

また、道子が調べていた美味い海鮮定食を食うため、郊外にある道の駅へ向かった事も観光の出足を遅らせる原因の一つとなった。

(予定通りにはいかんねぇ…)

毎度毎度のその事を思い、今日の宿泊先である「萩本陣」という旅館へ向かった。

そこで観光案内マップを貰い、説明を受けた。

「まずはここから歩いても行ける松下村塾へ行かれるのが適当でしょうねぇ…」

旅館受付の言う通り、まずは松下村塾へ向かった。

他にも色々と回る予定だったので車で出かけ、松下村塾の駐車場に停めた。

時は午後2時半である。

地図によると、ここには松下村塾の他に、吉田松陰歴史館、松蔭遺墨展示館、松蔭神社があり、吉田松陰を心ゆくまで楽しめる場所となっている。

入口には「明治維新胎動之地」と書かれた立派な碑があり、その気分を高めてくれる。

(維新胎動の地とは、うまい事を言う…)

そう思った。

まさしく、吉田松蔭こそ明治維新を胎動させた人物であり、この碑はここでこそ栄える碑だからだ。

車を降りるや雨女・道子の力で雨が本降りになってきた。

急ぎ傘を用意し、春を濡らさぬよう松下村塾の見学をした。

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建物は思ったよりも小さかった。

ふと、松下村塾の人気が高まり、人が溢れ、溢れた人たちは窓の外から松蔭の講義を聞いていたという150年前の話を思い出した。

松蔭は松下村塾を代表する二英才、高杉晋作と久坂玄瑞を競わせたという。

豪放で行動的な高杉晋作と、熱血で一本木の久坂玄瑞、

(その二人が、ここでどういった問答を繰り広げたのか?)

その事を思い、この建物をジィーッと見ていると、様々な想像が掻き立てられる。

ちなみに、道子はこの建物を見ると、

「単なる昔の家じゃん」

そういう風に評し、実につまらなそうであった。

「おい、道子、見ろ見ろ、松下村塾ぞー、ほら、すげぇぞー」

喋りながら写真を撮る俺を置いて、道子はサッサと先へ進んでしまった。

さて…。

松下村塾の隣には、松蔭の実家である杉家もある。

松蔭は杉ナントカという藩士の次男として生まれ、小さい時に吉田ナントカという山鹿流兵術を学んだ人のところへ養子に入った。

それから天才だったものだから、藩主の前で講義をしたり、江戸でも人々に教えたり、獄舎に入って囚人達に教えたり…。

ま…、詳細は伝記か何かを読んでもらった方が早いが、とにかく松蔭は類稀に見ぬ変人であろう。

外国に行きたいという理由で、ペリーの黒舟に門弟と共に小船で乗り込みをかけるところなんか、それが際立っている。

が…、得てして歴史に残る偉人というものは変人である。

この前、ノーベル賞をとった小柴教授なんかを見ていると、つくづくそう思う。

さて…。

この敷地、その最も奥に松蔭神社がある。

特筆すべき点のない普通の神社で、松蔭と名が付く事以外はさして興味がないのだが、とりあえず賽銭を入れ、家族三人で参拝した。

ところで、最近の春は信心深い富夫の影響で、神社仏閣、飾られた遺影などを見ると、

「あっあ」

そう唱えながら手を合わせ、頭まで下げる。

この日も例外でなく神社に手を合わせていたのだが、一つ、まいった事があった。

後ろから老人ホームのツアーであろうか、ヨボヨボの老人が来たのであるが、その中の一人、最もヨボヨボの老人に向かって「あっあ」と手を合わせたのである。

俺は焦ってしまい、うっかり、

「まだ、(仏様には)早い!」

そう突っ込んで、春を抱きかかえた。

意味は誰も分かってないと思うが、もし理解されたら大変まずい事は言うまでもない。

(躾はキッチリやらねば…)

そう痛感した瞬間であった。

さて…。

その後であるが、敷地内に博物館が二つあり、その両方ともが有料だったので、高いほうの博物館・吉田松陰歴史館にだけ入った。

先ほどの松蔭記念館と違い、みすぼらしい掘立て小屋で、足元は歴史を感じるコンクリート打ちであった。

その中を細い道がクネクネと続いており、ロウ人形で松蔭の生涯が描かれていた。

下は、松蔭が生まれた家庭環境を示すロウ人形で、松蔭は次男だから真ん中の子供である。

松蔭左奥の女の子が異様に気味悪かったのが印象的で、多分、あれは久坂玄瑞と結婚した松蔭の妹だろうと思われる。

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ちなみに、ロウ人形による松蔭の説明は十五箇所以上に及ぶ。

懇切丁寧で分かり易いが、他は何の展示もない。

松蔭に関し、全く知識のない人が行けば勉強になってよいかもしれぬが、ある程度知っている人は行く価値なかろうと思う。

値段は確か600円、もう一つの展示館は200円くらいではなかったろうか。

申し訳ないが定かでない。

 

 

4、丘を登る

 

松下村塾裏手にも見所がたくさんある。

車でも行けそうだったが、雨が降っていなかったので、徒歩でそちらへ向かった。

まず、三百メートルも歩けば伊藤博文の旧宅がある。

伊藤博文が萩で住んでいた家で、中へは入れない。

隣には立派な伊藤博文像が立つ小さな公園もある。

また、その隣には伊藤博文が東京で住んでいた別邸がある。(萩まで運んできたそうな)

そりゃぁ総理大臣になった人なので、玄関には車寄せがあり、中の造りも素晴らしい。

中へは無料で入れ、二階も含め、そのほとんどを見る事ができる。

が…、広いというだけで、そう珍しい造りではない。

ちなみに俺は、伊藤博文の話を二冊ほど読んだが、どうも好きになれる人物でない。

生き方が計算的なのだ。

長州の偉人だけでなく、どの時代の偉人にも豪放系と計算系がおり、それが組になって事を成していくのだが、結局、生き残るのは計算系である。

豪放系は現状打破(革命)には効果抜群なのであるが、維持管理という世界になると邪魔扱いされる。

伊藤博文は豪放系が切り開いた道にスルリと入ってゆき、その計算力を命いっぱい発揮して着々と出世していったタイプの代表格であろう。

ちなみに、幕末を乗り切り、西南戦争以後まで生き残った長州人を見ていると、

・明治天皇に殉じた「乃木稀典」

・軍国主義の礎を築いた「山県有朋」

・幕末の英雄「木戸孝允」(桂小五郎)

どれも好きになれない。

ま…、彼らも幕末という乱世で身を起こしたのだから、そりゃ英雄といったら英雄であろうが、やはり客観的に見て心を打つのは計算系より豪放系。

吉田松陰や高杉晋作、土佐の坂本竜馬、どれも短命だが、行動は豪放、それでいて内面はナイーブなところがたまらない。

さて…。

話が横道に逸れたが、伊藤博文の家を越え、松蔭神社の裏手に位置する住宅街を登ってゆくと松蔭誕生の地がある。

距離は1キロくらいあり、それも急坂なのであるが、

「夜、ご馳走を食べて太るだろうから歩いて行こう」

道子がそう言い出したため、徒歩で登る事にした。

歩き出した途端に雨が降り出した。

道子マジックとはいえ、実に腹が立つ。

道子と交替で春を抱き、傘も差さねばならなかったので、二人して筋肉痛になった。

松蔭誕生の地には松蔭の像が立っていた。

高台から街を見下ろす風に立っており、像の視線は下の写真の五メートルほど上に位置する。

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まさに、萩の街を松蔭が見守っているという感じだ。

また、この像を取り囲むように、様々な碑が立っている。

松蔭生誕之地碑、松蔭の墓、その親族の墓、高杉晋作の墓、高杉晋作が住んだ家の跡碑…、などである。

また、

(よくぞ残した!)

というものに、松蔭の産湯に使った井戸があり、その横にも碑が立っている。

ちなみに碑の写真は載せない。

見てもつまらないし、どれも同じっぽいからだ。

ところで、前に書いた碑の説明に「高杉晋作の墓」とあり、後に下関でも同様の墓が出てくる。

(なぜ二つも高杉晋作の墓があるのか?)

そう思い、調べたところ、萩の墓は遺髪墓らしく、下関の方に遺体は眠っているようだ。

さて…。

丘の上での観光を終え、歩いて松下村塾の駐車場に戻ると、すでに午後四時半を回っていた。

萩での観光ポイントは、まだ半分も回っていない。

が…、大抵の観光地は五時で閉まる。

なので、

「もう一箇所は行くぞ!」

そういう風に決め、国の重要文化財に指定されている毛利家の菩提寺・東光寺へ向かった。

中国様式の寺で、墓前には家臣達が献じたという500基以上の石灯篭が並んでいるらしい。

「500基の石灯篭…」

そう聞くだけで、その壮観な絵が何となくイメージできる。

ちなみに、山鹿灯篭祭りは灯篭1000基、紙で作られた灯篭が浴衣を着た女性に揺られながら街を彩る。

これを地元で見ているだけに、是非とも見たい500基の石灯篭。

が…、その門前に着いた時というのが、ちょうど受付の小窓が閉められた時と同時刻であった。

「遅かったか…」

手に握られた入場料300円は行き場をなくし、財布の中へ舞い戻ったのである。

そんな感じで…。

一日目は予定の半分しか回れなかったわけだが、松蔭に関するものを中心に、実に有意義な観光を終えた。

ところで話はガラリと変わるが、昔の人は本当に字が上手い。

大抵が行書(草書?)なので読めないのであるが、上手いというのは分かる。

バランスが良いのだ。

鉛筆やペン類が蔓延している現代と違い、毛筆が主だったせいもあろうが、古文書(手紙や覚書も含めて)のほとんどが溜息の出るほど上手い。

が…。

今回、久しぶりに下手糞な字を見た。

有名な「留魂録」である。

これは、松蔭が斬首される前、獄舎で門弟に宛てて書いたもので、

『身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂』

その冒頭があまりにも有名な松蔭の遺書である。

下の写真はその原文の写しを松蔭記念館で撮ったものだが、どうだろう?

俺の感想として、本当に下手糞だと思う。

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見なきゃ良かったとも思った。

俺の実弟・雅士などは、この冒頭の一文に感動し、

「萩に行くなら『留めおかまし大和魂』の一文が入った何かを買って来てー!」

そう言っていたほど人々を感動させた一文。

その原文がこれでは寂し過ぎるではないか。

強引に、松蔭が感極まって手が震え、こういう字になったと推測する事もできるが、ちょっとそれは強引過ぎるだろう。

これと比較対照するため、知覧特攻記念館で見た手紙の話をするが、それは特攻に出る事が決まった青年が両親や妻に宛てた手紙で、「留魂録」同様、遺書に属す。

それは墨汁で書くのではなく、自らの血で書かれており、字も巧く、ビジュアル的に見る者の涙を枯れ果てさせる『異様な力』に溢れている。

「お母さん、お世話になりました」

文面もそういう感じで愚痴などは一切書かれておらず、「なぜ、そこまで美しいんですか?」そう問いたくなる文字は遠慮なしに見る者のハートに突き刺さってくる。

「痛い、痛過ぎるよぉー!」

見るものはそう言いながら血で書かれた手紙に釘付けとなる。

また、下手糞でも「ウルトラ下手糞」だった事が人々を感動させた事例もある。

野口英世の母・シカが英世に宛てた手紙である。

シカは文字が読めないし書けない。

そういう状態の中で文字を習い、たどたどしい字で外国にいる英世に手紙を書く。

その内容は「一度だけでいいから帰って来て」そういうものであるが、それが実に泣ける。

誤字脱字も多い。

が…、それが尚、見る者の涙を誘う。

「かえってきてくたされ、かえってきてくたされ…」

これは、その手紙の最後に陳列されている文であるが、この前段(毎日、英世が帰って来る事を近くの神様に祈ってますという内容)で胸がカァーッとなっているところに、この呪文が出てくる。

「もぉー、英世ー、いい加減に帰ってやれよー!」

誰もがそう泣き叫びたくなるはずだ。

結局、この手紙を受け取った英世は号泣し、その後、日本へ帰ったのだが、

(これを見て帰らない人はおらんばい…)

と、英世には冷たい視線が注がれるだけだ。

以上、これらの事で何が言いたいか。

「字は綺麗か汚い、中途半端が一番よくない」

その点、俺は後者のど真ん中に属すため、本当に安心なのであった。

安心なのか?

 

 

5、萩本陣

 

この日の宿泊に道子が選んだ場所を「萩本陣」という。

冒頭の章で紹介したように、俺の従兄弟が「萩で最も高級な旅館」と紹介してくれたところである。

「一日ぐらい、贅沢もいいよねぇ」

道子はそう言って、この宿をとった。

立地は良く、松蔭神社の横にそびえる山の中腹に立っている。

何よりも素晴らしいのは、萩唯一の天然温泉を備えているらしい。

また、露天風呂は旅館からモノレールに乗って行くらしく、高台の旅館よりも更に展望のよいところにあるのだという。

「それは珍しい…」

という事で、旅館に着くやすぐ、噂の露天風呂へ出かけた。

道子は春が旅館に着くや寝てしまったので、部屋で待機である。

10分置きのモノレールを待ち、中途半端な夜景を眺めながら露天を目指す。

モノレールは男風呂、女風呂、展望台という順番に登ってゆくようで、男風呂は女風呂より下にあるようだ。

「ちっ、またも女重視、世の中、一体どうなってんだか?」

パチンコ屋にしてもレストランにしても、しきりとレディースデーを設定し、女に対する配慮は見られるが、男に対するそれは見当たらない。

毎度毎度の事に、思いっきり舌を打ちつつモノレールをおり、人でごった返している露天風呂に入った。

浴槽は温度により分けられており、「普通」と「低い」であった。

俺の露天に望むものは「低温でゆっくり」なので、まずは低温に入った。

が…、それは低温というよりも少しだけぬるい水であった。

天候は雨。

寒すぎるという事で、普通湯に浸かった。

ごった返していた人々は何かの団体らしく、一人が上がると皆が上がり、残ったのは俺と爺さんの二人っきりになった。

ふと以前、山鹿の湯で味わった「黄金水事件」を思い出した。(日記参照)

爺さんは俺と二人っきりになったのを嫌がったのか、湯船を出、何を思ったのか湯船脇を流れる小川へ足を踏み入れた。

(それは風呂じゃないだろ?)

思ったと同時に、爺さんは、

「ひゃっ!」

という声を上げた。

そして、

「これはお風呂じゃなかったよぉ」

照れ笑いを見せ、湯船に戻ってきた。

俺は失礼だとは思ったが爆笑した。

笑わなければ逆に失礼だとも思ったのだ。

沈黙が怖かったので、とりあえず喋った。

「よくありますよねぇ、風呂だと思って池に入るコント。お湯だと思って入ったけど水だった、更に鯉がいるのにビックリってやつですよねぇ…」

笑いながらそう言うと、爺さんの表情が一変した。

「それはないっ!」

厳しい顔で一喝された。

そして、しばらく無言で湯船に浸かっておられたが、

「お先に」

それだけを言い残し、去って行ってしまった。

(もう…)

無言でいるのも失礼だし、何かを喋るにしても全てが馬鹿にしているようにとられる。

非常に難しい出来事であった。

さて…。

ここの泉質であるが、少々塩味のする普通の湯であった。

地下2000メートルから汲み上げているそうだが、海水を薄めたものに過ぎないような気がしないでもない。

が…、風呂の構造は非常によい。

中央部は深いのだが、側の部分は石が置いてあり、浅くなっていて寝やすい。

一人になった露天でもウトウトしたし、翌早朝、内風呂に入るのだが、その内風呂も寝やすいための配慮があって、ついウトウトした。

夜景に関しては、後に道子から聞くに女風呂は見えなかったそうだが、男風呂は見えすぎるほどに見えた。

下がゴルフの練習場になっているのだが、そこからも丸見えで、立って手を振ったら振り返されたほどだ。

つまり、夜景は丸見えというわけだが、萩という街の規模が中の下という感じなので、夜景も中の下、驚くほどではない。

が…、昼の景色はなかなかのものだと思う。

遠くには海が見え、街の終わりには山が見える。

目を凝らすと時代を感じる粋な屋根がちらほら見える。

下の写真は翌午前7時前、日の出寸前(天気は雨)に部屋から見た景色であるが、夜景はこんなもんだ。

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また、この旅館のモノレールに乗れば、旅館裏山の頂上にある展望台まで登る事ができる。

俺達は翌朝チェッアウトを終えた後、午前9時過ぎに登ったのであるが、これもなかなか良かった。

これから行く萩城をはじめ、萩の街並その凡そが見渡せたし、連なる山々も一望できた。

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道子マジックにより天気は今日も悪かったが、ま…、乳白色の萩というのも、ある意味、粋なのではなかろうか。

話が前後するが、萩本陣の食事も旅行会社が「高級旅館」と賞するだけあって、なかなかのものだった。

「かたちは醜いですが、その分、味は白身魚の中では絶品です」

そういう説明を受けた「おこぜ」という魚の煮付けなど、そりゃあもぉ絶品であった。

ちなみにその晩、俺は早々と寝ている。

飯を食った後、道子が、

「春を風呂に入れてくる」

そう言って部屋を出て行き、俺は一人ぼっちになったのだが、ちょっと飲みに行こうにも金を持ってない。

(道子が帰ってから行こう)

そう思っていたのだが、道子が帰っていたのは一時間後。

すっかり眠くなってしまい、なんと午後8時過ぎには寝てしまった。

道子にしてやられたという感じだ。

翌朝は5時に起き、朝風呂を浴び、ビールを飲み、前に載せた写真などを撮っている。

実に健康的な明け暮れを過ごしてしまった。

 

 

6、萩城下町

 

萩本陣を出た俺達は、急ぎ萩の中心街へ向かった。

昨日のうちに回るつもりだった萩城下町、及び萩城へ行くためである。

旅館に教えてもらった無料の駐車場に車を停め、徒歩で近場の武家屋敷へ向かった。

平日なのに観光客は多かった。

(明日からの三連休、一体どれだけの人が来るんだろう?)

その事を思うと、

(この細路地を人が通れるのか?)

それすら疑問に思われた。

萩の武家屋敷は立派とは言い難いが広範囲に渡っており、名の付いたメイン通りが三本もある。

どの道も細く、車も一方通行で通ってゆく。

道の脇には幕末の志士、その家があったり、萩焼のギャラリーがあったりと見所は多い。

が…、武家屋敷の代名詞である白壁は何だか新しく、武家屋敷群としての評価は高いとはいえないだろう。

その点、前に悲喜爛々で書いた島原の武家屋敷群は見所こそ少ないものの、なかなか趣があって良い。

九州の武家屋敷を全て行き尽くしたら「武家屋敷群全集」として書こうと思っているが、それはまだまだ先の話になるだろう。

さて…。

下は有名な幕末の志士、桂小五郎(木戸孝允)の家である。

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大変に立派で身分の高い武士(上士)であった事が伺える。

ちなみに、武士街の風習として、城に近いほど身分の高い武士が住む。

ゆえ、この辺に住んでいる人々(高杉晋作の家も近所にある)は何れも恵まれた環境の人々である。

これに対し、前々章で伊藤博文の家を紹介しているが、あの付近は、この辺に比べると城からだいぶ離れており、身分の低い武士であった事が窺える。

ちなみに、桂小五郎と高杉晋作の家、前者は無料で入れ、後者は100円取られる。

が…、この設定が来年もそのままかは分からない。

次の大河ドラマは新撰組で、幕末もののファンがまた増えるだろうから。

ちなみに、今年の大河ドラマ「宮本武蔵」の影響で、穴場だった熊本の霊岩洞(武蔵が五行の書を書いた場所)や武蔵塚は凄まじい数の観光者が訪れたらしい。

駐車場も道も新しくなり、色々な設定も変わったのだという。

金沢では「利家とまつ」の影響で、金沢城への来場者数は以前の数倍に伸びたそうな。

テレビの力を感じずにはいられない。

是非、寂れていく山鹿も取り上げてもらいたいと思う。

さて…。

それから、萩城まで歩いた。

距離は2キロで、またもや道子が、

「歩こうよー、昨日は食べ過ぎたしー」

そう言った事に起因するが、萩城下の駐車場が有料という話を旅館の人から聞いたからかもしれない。

この辺が庶民であろう。

とりあえず、雨の中を歩いた。

歩き出すや道子マジックはまたも炸裂した。

雨は横なぐりのものになり、大いに俺達を疲労させた。

春が濡れないように傘を横にして歩いたが、風は防げず、春はブルブル震えた。

が…、この環境でも春はグッスリ寝た。

(道子の血を間違いなく引いてる…)

鼻水垂らして寝てる春を見、そう思った。

萩城に着くと雨は上がった。

内堀を渡ったところに受付があり、そこで入場料の400円を払い、奥へ進んだ。

中には天守閣こそ復元されていないが、毛利輝元を主祭とした神社があり、家老の書院、茶室などがあった。

詰丸という監視のための望楼もあり、そこも全て回れば二時間以上かかる(山を登らねばならない)ように思われたが、時間と天気の都合でそこは省いた。

多分、望楼に登れば、さぞや素晴らしい景色を眺望する事ができたのだろう。

とりあえず、石垣が立派だったので、そこをグルリと一周した。

春は鼻水垂らしながら寝続けており、道子は、

「ちょっと寒いよー」

そんな事を言いながら、遠い目でフラフラ歩いていた。

(やはり、天気がよくないとイマイチ盛り上がりに欠ける…)

正直そう思われたし、事実、後半天気がよくなると道子の目は活き活きしてくる事になる。

同様に、フラリフラリと場外にある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋へ向かった。

400円の入場料に含まれる国の重要文化財で、

「金払ったからには見るか?」

そういう感じで義務的に見に行った。

普通の長屋であった。

時間は午後0時になろうとしていた。

この日は出雲まで移動せねばならず、更に高速がないので下道での移動であった。

「急ぐぞ道子! 時間にゃーぞ!」

長屋を超短時間で見終わると、俺達は急ぎ足で駐車場へ戻った。

ここまでの距離は2キロ弱、つまり戻りも2キロ弱の距離を歩かねばならなかった。

幸い雨はやんでおり、早足で歩く事ができた。

(この分だと12時半には萩を出れる、ノンストップで車を飛ばせば出雲まで4時間、日が暮れるまでには着く…)

そのような事を思いながら駐車場に着いた。

が…、こういった急いでる時にこそ何かあるもので、駐車場に着き、車を見ると、

『接触事故の件につき、萩警察署まで出頭願います』

そのような張り紙がワイパーに括り付けてあった。

(なんだ?)

顔面蒼白で読み続けると、

『相手方より事故届が出ております』

そのように書いてある。

(は?)

意味の分からぬ張り紙に、俺の頭はクエスチョンマークでいっぱいとなった。

が…、その張り紙が単なる悪戯とは思えない。

萩警察署の印鑑がドーンと押されてあるのだ。

「どういう事だよ、福ちゃーん?」

道子は問うが、問いたいのは俺の方である。

とりあえず、書いてあった番号に電話をかけ、

「萩警察署の場所が分かりません」

「そうですか、じゃあ、そちらへ向かいます」

そういう流れで、警察官をこちらへ呼んだ。

雨はピタリと止み、雲の合間から太陽の光が見え始めていた。

 

 

7、正直な人

 

ここは観光地ど真ん中の駐車場で、観光バスも停めるところらしく、人通りは極めて多い場所であった。

通る人、通る人、全てが俺達の方を見ていく。

答えは簡単。

隣にワンボックスのパトカーがあって、俺が尋問を受けているからだ。

俺と道子はパトカーが来るまで、

「それは絶対に違うだろう」

という前提の元に、

「知らず知らずのうちに誰かをひいたのではないか?」

そういう話し合いをした。

交差点で歩行者と接触し、俺達は気付かずに走り去り、接触した人が車のナンバーを憶えて通報した。

そして、たまたまこの駐車場を通りがかった警察官が同じ所沢ナンバーの車を発見し、張り紙を貼った。

が…、それは違う自信がある。

萩本陣からこの駐車場までほんの数キロ、絶対に誰とも接触していないのだ。

ならば、駐車場で俺達がいない間に誰かしらが俺の車と接触事故を起こした。

そして、接触させた加害者が正直に警察に通報した。

「それだろう!」

という事で、車を隅々まで点検した。

凹んでないか…、傷は付いてないか…。

が…、そういった様子はない。

(どういう事だ?)

首を傾げているところに警察官が到着。

俺達の予想通りである事を説明してくれた。

詳細を聞くと、一人のオバサンが前の駐車スペースから真っ直ぐ俺の車を目掛けてバックしたらしい。

駐車場のつくりは広く、どう見ても接触する要素はないのだが、オバサンの証言によると、

「車が見えなかった」

という事で、一直線のかたちで、俺の車の前ナンバーと相手の車の後ろナンバーが激突したらしい。

オバサンの運転なので、ゆっくりゆっくりバックしてきたのだろう。

外傷はナンバーが微妙に曲がっているのと、バンパーに爪で引っ掻いたような傷が付いているだけであった。

俺と道子、総出で変化を探したが見付からず、言われて気付いたくらいだから本当に大した傷でないのだ。

オバサンは律儀に警察へ届け出、警察は、

「保険が使えるように事故証明は出します」

そう言って、俺の免許証、車検証などをチェックし、書類を作成した。

俺としては、これくらいの傷で相手に請求する気はなかったから、

「もぉいいけん、早く解放してください」

そう言ったのであるが、骨太の警察官は、

「寛大ですな。しかし、そういうわけにはいきませんからなぁ」

そう言って、俺に尋問を始めた。

例により、職業を聞かれた。

「うーん、文章家を目指してる状態なのでぇ…」

そう答えると、

「ほぉ、作家ですか、才能がある人は羨ましい」

警官はそう言いながら、職業欄に「作家」と書いた。

(もぉー! 作家なんて、それは厚かまし過ぎます!)

そう思った俺は、警官の肩をピチーンと叩きながら、

「やめてくださいよーん、自由業って書いてください、自由業ってー」

と、作家に横線を引かせ、自由業に訂正させた。

その後、警官は俺に相手の住所と電話番号を渡すと、書類作成に没頭した。

前回の事故で、この書類作成にかなり時間がかかると知っていた俺は、もらった番号に電話をかけた。

「気にしないでください」

早めにそう言ってやり、安心させてやろうとしたのだ。

電話に出たオバサンは山口弁で何かをバァーッと喋った後、「すいません、すいません」を連発した。

「傷はスプレーば買ってから直すけん、よかですよ」

俺はそう言ったものだが、相手は今度は熊本弁が分からないらしく、

「あ?」

露骨に疑問符を投げ付けてきた。

お互い標準語が苦手で、方言のぶつけ合いとなり、いまいち要領を得ない電話となってしまった。

オバサンは、

「今からウチにご招待しますので、昼ご飯でもご馳走させてください」

そう言ってきたが、それはハッキリ「時間がない」と断り、

「だったら、住所を言いますので、お菓子か何か送ってください」

と、山鹿の住所を教えた。

ハッキリ言ってこの電話、疲れた。

前々から言葉の噛み合わない電話は疲れると思っていたが、こうも疲れたのは久しぶりである。

道子と付き合い出してすぐ…、電話を掛け合っていた頃(東京弁と熊本弁)以来であろうか。

とりあえず電話が終わった時、警官が書いていた書類も終わったらしく、

「じゃ、終わりましたから!」

白い歯を見せ、去って行った。

30分以上、この件で時間を食った事になる。

が…、それは心地よい時間の浪費であったと思う。

「こういう正直なオバサンが世の中にいるって事は、まだまだ世の中も捨てたもんじゃないって事…、そう思わんや?」

「そうだね…、でも…」

「でも、なんや?」

「オバサン…、周りに人がいっぱいいたから、仕方なく警察に届けたのかもしれないよ」

「え!」

素敵な話に酔っている俺に、道子が何とも現実的で信憑性のある一言を投げた。

(そんな事はない、そんな事はない…、人って、もっとピュアなものだろぉー!)

俺は心の中で、そう叫び続けた。

が…、今…、この文章を11月27日に書いており、あれから一週間が過ぎているにも関わらず、菓子はまだ届いていない。

 

 

8、出雲へ

 

午後1時半を回ってから萩を出た。

今日の宿泊地は義母の実家である出雲で、あまり遅い時間に着くわけにはいかないから急がねばならない。

昼飯をコンビニで済ませ、寒風吹き荒れる日本海をひたすら北上した。

距離は200キロ。

二度ほど道の駅に立ち寄って日本海を見、兄弟舟を歌ったりした。

とにかく寒かった。

暖冬傾向の影響をモロに受け、まったく寒くなかった熊本から来たものだから、それは尚更であった。

今年初めて「冬」を感じた瞬間ではなかろうか。

出雲へ着いたのは午後5時を30分ばかり回った時であった。

事前に、超精密地図をつくっていたので、それを元に出雲市川成という地点までゆき、それからは道子が、

「あ、あそこ…、見た事あるような気が…」

と言うのを目当てに義母実家まで進んだ。

(何度か間違えるだろう…)

そう思っていたが、意外にスムーズに着いた。

義母実家の家族構成は四世代で、道子の祖父ちゃんから春の再従姉妹まで、全員揃うと8人家族という大所帯だ。

そこに道子の従姉妹、その両親、それにウチの家族が入るものだから、その日の食卓は14人で囲む事となった。

福井から直送されたという蟹がメインで刺身もあり、ビールは一口飲む毎に道子の伯母が注いでくれるという最強の接待ぶりであった。

多少、恐縮したものの遠慮なく頂き、風呂などは道子の祖父ちゃんの次、二番風呂をご馳走になってしまった。

また、春にしてみても再従兄弟(再従姉妹)が三人もおり、実に楽しげな風であった。

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子供はいい。

見ていて心洗われる思いがする。

言動に嘘偽りがなく、正直なのだ。

俺が春を風呂へ入れる時、道子の誘導もあって四歳の少年も一緒に入ってきた。

少年の父は道子の従兄弟にあたるのだが、実にヒョロリとした背格好で無駄肉がない。

ゆえ、少年は俺みたいに一般的な二十代の体型を見た事がないのであろう。

入るや、

「デブー!」

たった二文字、その事を大声で叫んでくれた。

これを聞いた少年の母は、

「駄目でしょ、そういう事を言っちゃ! むふっ!」

噴出した後、遠慮なしにゲラゲラ笑い始めた。

道子の笑い声も合わせて奥の方から聞こえた。

小さく、とても小さく、道子伯母の上品な笑い声も聞こえてきた。

子供は、正直でいい。

正直でなくてはならない。

が…、大人達の笑い声は俺の柔らかいハートに突き刺さり、いつまでもいつまでも響き続けたのである。

 

 

9、その晩

 

その晩、俺は道子の従兄弟と二人、出雲の街へ飲みに行った。

大きな街へ行くと飲みたくなるのは旅人の性分であろうし、

「街を知るには飲み屋へ行け」

これは旅人の鉄則である。(俺なりの)

三十代後半だという道子の従兄弟を、

「外へ飲みに行きませんか?」

宴会の最中に誘った。

誘う前、道子に、

「お前の従兄弟は付き合ってくれるかね?」

問うたところ、

「絶対に来ないよ」

断言された。

が…、俺は諦めず、モーションをかけたのである。

一人で知らない街へ飲みに行くのは寂しがり屋には辛すぎるからだ。(行けば何とかなるのだが…)

道子の従兄弟は従兄弟衆の中で「アンチャン」と呼ばれているらしい。

ゆえ、以後アンチャンと呼ぶが、そのアンチャン、

「あ、飲みに? うん、いいよ」

あっさりOKしてくれた。

そもそも道子が言うにアンチャンは、

「福ちゃんみたいに飲んだくれてないよー、真面目なんだからねー」

そう称される人物なのであるが、俺に言わせると真面目に見える人物ほど場数を踏んでいる可能性があるのだ。

昔、学生の頃、極厚メガネの真面目君と喧嘩をした事があったが、完膚なきまで叩きのめされた事もある。

そやつ、少林寺拳法を幼稚園の頃からやっていたらしいのであるが、見た目には全くそれが出ていない。

「そのメガネ、叩き割ってやる!」

そう言って挑んだのに、メガネに触る事もなく、

「お前…、ブルースリーの生まれ変わりだろぉ…」

そういう泣き言を言った覚えがある。

とにかく、人は見かけによらないのだ。

二時間ほどの宴会を終えると、俺とアンチャンだけは車で送ってもらい、出雲の街中へ向かった。

道中、

「よく、街中で飲まれてるんですか?」

問うと、

「昔ね」

そういう返事が返ってきた。

これは、若い頃にブイブイいわせた兵(つわもの)のみ、発する事を許された台詞であろう。

車を降りたアンチャンは嫁に礼を言うと、迷いなき足取りで出雲市駅の裏手へ進み始めた。

歩きながらアンチャンは、

「どういうところがいい?」

そう問うてきた。

この質問は時間と場所によって様々な変化を見せるのだが、午後9時過ぎ、出雲の繁華街においては、

「ギャル系がいいのか?」

「単なるスナック系がいいのか?」

「居酒屋がいいのか?」

そう取るべきだろう。

「スナックがいいです。でも、お兄さんが望むなら、どこへでも」

俺はそう応えた。

アンチャンは頷くと、

「昔、行き付けだったスナックへ行こう」

そう言って進み始めた。

途中、妙にガタイのいい中年とすれ違った。

「おっ!」

「やあ、お疲れ!」

アンチャンは実に親しげな挨拶を交わし、俺に、

「警察署の人だよ」

にこやかな笑顔で説明してくれた。

相当に飲み歩いている者でなければできない見事な挨拶っぷりであった。

アンチャンが「昔、行き付けていた」というスナックは飲み屋ビルの二階にあった。

客は一人もおらず、

「あら、お久しぶりぃ」

ママが金歯をキラキラと見せつけながら、アンチャンに両手を広げ、その手をパタパタした。

「いらっしゃい」という意味らしい。

俺とアンチャンはカウンターに座り、自然な流れで焼酎を頼んだ。

ていうか、頼まずともアンチャンが俺の事を「九州から来た」そういう風に紹介した時点で焼酎が出た。

ママは焼酎を注ぎながら、

「私は長崎出身とよぉー、あんたは九州のどこね?」

またもや金歯を見せ付けつつ問うてきた。

熊本である事を言うと、

「そうね、そうね、熊本の男は亭主関白だけんねぇ」

そう言いながら、隣の若い女に、

「あんた、こういうタイプの男も見ときなさい、勉強になるから」

意味は分からないが、俺を観察するよう勧めた。

女はバイトであろう。

見た目二十代後半の背の高い女であった。

「ママ、やっぱり九州の人と話す時は九州弁が出るんですね」

女が言うと、ママは、

「そうたい、そうたい、自然と出るんたい、むふふふふ…」

口元をキラキラ光らせつつ笑った。

ママは多分、五十代後半くらいではなかろうか。

ハッキリ言って不気味だった。

それから、俺とアンチャンと二人の女を交えて他愛のない話をした。

ママはほとんど口を開かなかった。

が…、俺が「ゴミ捨てをしない」とか「飯はまず作らん」という話をすると、急に身を乗り出し、

「ほらぁ、九州の男っぽい! むふぇふぇふぇふぇ…!」

俺に突っ込みを入れ、その後、バイトの女に、

「あなたも次はこういうタイプと付き合ったらどうね? 出雲にはおらんでしょうが、むふぇふぇふぇふぇ…」

なぜか、九州男児を薦めた。

二時間も飲んでいると団体の客が現れた。

この団体の中にもアンチャンの知っている人がいたらしく、

「おおっ!」

「おおっ、久しぶりー!」

親しげな挨拶を交わしていた。

「顔が広いですねぇ」

アンチャンに言うと、アンチャンは、

「君ほどでは…」

そう言って焼酎をクッと飲んだ。

(多分、物理的な顔の広さの事を言っているのだろう…)

そう思ったが、言うのも悲しいのでそのまま流した。

結局、店を移る事なく、日が変わるまでこの店で飲んだ。

ママは不気味だったが、バイトの女が実に気さくな性格で、それが店を移らなかった理由であろう。

結局、3時間以上ここで飲んでいた事になる。

料金は6000円ちょっとで、山鹿の相場とそう変わりはなかった。

「金はいいよ」

アンチャンはそう言うや、サッと金を払い、

「次、蕎麦でも食う?」

そう言って足早にスナックを出た。

俺は道子から1万円という高額な予算を貰っていたため、奢らずとも自分の分は出すつもりでいたのだが、アンチャンの毅然とした姿勢に、

(出すのは失礼だ…)

そう思い、

「ご馳走様でございます」

深々と頭を下げた。

出雲といえば蕎麦という事で、二件目はラーメンでなく蕎麦屋へ行った。

ダシがギュっていう感じで実に美味かった。

時間は午前1時を過ぎていた。

ネオン街のほとんどが閉まりかけていたが、人足は絶えていなかった。

飲み屋街の規模は、そう山鹿と変わりがない。

ママの話によると山鹿の倍以上の人口を持つ出雲であるが、いかんせん九州に比べると飲む人の人口が少ないのだという。

また、山鹿同様、その飲み屋街も廃れる一方なのだという。

アンチャンはスナックでこう言った。

「結婚して、ぜんぜん飲みに行かなくなったからなぁ」

これに対し、ママは、

「ここが違うんたい! 九州の男は結婚しても飲む回数を減らさんし、ましてや飲みに行く事を止めたり絶対せん! だけん飲み屋街が廃れんとよ!」

そう評し、続けて「それが良い事かどうか、分からんけどね」と付け足した。

(違う! 九州の飲み屋街も時々刻々と廃れているし、男の質も変わっていますよ!)

そう思ったが口には出さなかった。

(ママの頭の中には『昔の九州』が根付いていている)

(ママの思い描く九州文化を壊してはいけない)

そして、それは俺の理想でもあるのだ。

「ママ、長崎に最近帰ったのはいつね?」

試しに聞いてみた。

すると、

「五年前たい」

そういう応えが返ってきた。

これは、たった五年で『世の中の何もの』かが変わった事を意味している。

その事は、

(嬉しいようで実は悲しい事ではないか?)

俺にそういう疑問を抱かせた。

ちなみにアンチャンは、蕎麦屋もタクシー代も払ってくれ、更に、

「また、飲みに行こうよ」

実に男らしい笑顔でそう言ってくれた。

(従姉妹の旦那にそういう笑顔ができるか?)

俺は自分自身に問いかけ、

(そういう男にならねば…)

その事を思い、何だか胸が熱くなった。

余談となるが…。

アンチャンの家の家計は独立採算制(俺はこれを山根式と呼んでいる)で、稼いだ給料は任意に貯金すればいいらしく、「使いたいなら、ご自由にどうぞ」というシステムらしい。

俺が従姉妹の旦那に酒をしこたま飲ませるとして、

(まずは、道子の財布が開くか?)

そこが問題なのであった。

 

 

10、石見銀山

 

翌朝、無性に喉が渇いた。

起きるとアンチャン達は既に居間におり、俺が一番遅い起床であった。

「昨晩はどうも」

頭を下げるや台所へ行き、麦茶をゴクゴク飲んだ。

飲んでも飲んでも、喉の渇きは癒えなかった。

旅行の予定によると、この日が最も移動量が多い日だったため、朝7時には出雲を出るつもりであったが、現在午前8時。

朝食を頂き、子供衆と遊んでいたら、あっという間に9時を過ぎた。

更に春に小遣いを貰ったり、手土産の柿を貰ったり、茶を飲んだりしていると、あっという間に10時も過ぎた。

(これはいかん、グズグズしていると昼になる!)

という事でサッサと出発した。

出発の際、俺の事を「デブ」と言った四歳児は、

「兄ちゃん、また来てね、すぐ来てもいいよ」

実に悲しげにそのような事を言ってくれた。

その代わり、その兄貴は、

「もう来んでええよー」

そう言って、一人だけ見送りに出てくれなかった。

多分、じゃれてる時に金玉砕きをしたので、それでヘソを曲げたのであろう。

天気は日光こそ見えないが曇りであった。

今日は山口県の徳山まで行かねばならない。

安ホテルをインターネットで予約しているのだ。

ちなみに徳山は市町村合併ブームに乗り、今年から周南市となっている。

距離は凡そ300キロ。

途中、立ち寄る観光地として、石見銀山、断魚渓、吉川氏城館跡、岩国城を予定している。

が…、この出発時刻の時点で三時間強の遅れがある。

更に、出雲から大田まで日本海沿いを下り、それから内陸に入るのであるが、その道がグネグネしており、昨日の酒が効いてきたのである。

第一観光地の石見銀山には11時過ぎに着いたのであるが、

「むむむ…、消化器系の調子が…、まずは飯でも食うぞ…」

そういう具合になってきた。

石見銀山は世界遺産の登録候補でもある有名な観光地で、江戸時代、徳川幕府の財政を支えていた銀山である。

代官所跡を入口に、その奥、凡そ3キロほどが石見銀山遺跡と呼ばれるところで、倉敷同様、街並の保存地区である。

飯を食おうと近くの定食屋を覗いてみたが、どこも11時30分から開店で、更に蕎麦屋が多かった。

なので、歩いて二日酔いを吹っ飛ばそうという事に決め、先に観光をした。

まず、代官所跡から1キロほど奥へ行くと、羅漢寺という五百羅漢を名物とする寺がある。

そこへ行った。

岸壁に道があり、そこを歩けるようになっており、五百かどうかは知らぬが、かなりの数の羅漢像を見る事ができる。

どれも江戸時代の彫り物で、銀山でなくなった人々の慰霊のために作られたものだそうな。

風化を防ぐため、羅漢像のあるところは重厚なドアが付いており、閉めると真っ暗になるため、なかなか雰囲気がよい。

暗闇に強いはずの春が、あまりの怖さに泣き出したほどだ。

また、この五百羅漢から道を挟んで反対側には寺の本堂がある。

ここには期間限定で秘仏といわれるものも展示してあった。

(秘仏も展示してしまえば秘仏でなくなるだろうに…)

そう思ったが、

「うるさい、細かい事を言うな!」

と、坊主に逆ギレされたら困るので言うのはやめた。

ちなみに、血液型で性格を分類する方法は世間によく認知されているが、言い訳にそれを用いると火に油を注ぐ結果になる事が多々ある。

例えば、前の言い訳として、

「A型ですから」

そう言ったら、多分、坊主は六角棍で俺を突き刺す事だろう。

何だか、血液型による言い訳は理由を問わずムカツクのだ。(俺だけか?)

さて…。

本堂へ入ると、春は真っ先にチーンと叩くアレの元へ走った。

春は鐘とか木魚とかチーンの類が好きなのである。

秘仏の前にあった大型のチーンを鳴らしまくり、知ってる歌を歌い始めた。

チーンの正式な名称は分からない。(知っている人がいたら教えて)

家族皆に聞いたが、誰も分からなかった。

ありがたい秘仏も春にかかっては家の仏壇と変わりはないらしい。

覚えたての「手を叩きましょ」をチンチンチーンと叩いては、

「ぱちぱちぱちー」

と、口で拍手音を唱え、実際に拍手していた。

ちなみに、今日という日は三連休の初日だが、観光客の数はとても多いとは言えなかった。

春が堂内でチーンを鳴らしまくっても良いのだから、そのガラガラぶりが想像できよう。

ここの入場料500円が高過ぎるからか。

それは分からない。

さて…。

羅漢寺を過ぎ、石見銀山遺跡の最も奥まで行くと坑道がある。

名を龍源寺間歩という。

間歩は「カンホ」と読むのではなく「マブ」という。

昔の坑道はそう呼ばれていたらしい。

坑道というと、ちょっと前に鯛生金山へ行ったが、その時の坑道は比較的時代が新しいものなので機械掘りだったが、今回のは徳川の財政を支えていたというものなので江戸時代、つまり手掘りである。

車一台やっと通れる道を抜けると有料駐車場があり、料金300円を取られる。

また、坑道の入場料として400円取られる。

150メートルほどの坑道にしては、なかなか高い。

ちなみに、坑道を抜けた後にしか分からない事だが、車を有料駐車場に停める必要は一切ない。

もっと手前に空き地があるので、そこに停めた方がよい。

この龍源寺間歩は一方通行で、この坑道を通って戻る事はできない。

つまり、坑道を抜けたら、グルリと山を回って戻って来なければならないのである。

そういう事で、車一台ギリギリ通れる道、その手前に空き地があるので、その辺に停め、坑道の入口まで歩いて行ってもエネルギーの消費量は変わらないのである。

このHPは情報発信の意味も込めている。

ゆえ、このようにセコイ事を書くが、この情報を知っているのと知らないのとでは、現地へ行かれた時の優越感がまるで違う。

現に、ベテランの観光客だろう、手前の空き地に停めており、俺の車が有料ゾーンへ入っていくのを、

(馬鹿め…)

そういう目で見ていた。

あの視線の意味が分かるのは俺達にしてみれば全てを終えてからなのでどうしようもないのであるが、このHPを見た人は同じ過ちを繰り返さない。

自分で言うのも何だが、観光地にとっては小憎たらしいHPであろう。

さて…。

龍源寺間歩の入口は、昔ながらの丸太の木組みで出来ている。

更に、江戸時代用なので背が低い。

下の写真は春と道子が間歩に向かって進んでいるところだが、このまま行けば確実に道子の顔面は丸太にぶち当たる。

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写真が何となく「心中しようとしているところ」に見えるのは、周りの景色のせいなので気にしないで欲しい。

家庭は至って円満である。

丸太組みの入口から入ると、そこはノミの痕が残る見るからに手掘りの坑道で、下の写真は、その最も広い部分である。

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こういった感じの坑道が150メートル続き、その地点で左方向に立派な抜け道が機械掘りされている。

ちなみに、この坑道は200メートルくらい行ったところで自然倒壊しているらしいのだが、最も広い坑道という事で公開用に選ばれたそうな。

機械掘りの抜け道には当時の銀山の様子を伝える絵、また掘り方の説明板などが展示されている。

先ほど立ち寄った羅漢寺と関係する話になるが、この坑道を掘る人夫、そのほとんどが塵肺(埃が肺に積もる病気)により、若いうちに死んでいったらしい。

人夫が三十歳になると、

「よくぞ生き長らえてくれた!」

その意味を込め、その日の食卓には鯛の尾頭付きが並び、幕府からは金一封が出たのだという。

坑道の数は石見銀山全体で600本弱。

塵肺で死んでいった人夫の数は5000や7000という数ではなかろう。

その事を思えば、ここで死んでいったものを慰霊する羅漢寺。

そこでチーンを叩きまくって馬鹿騒ぎした春、

(なんと罰当たりなのだ…)

そう思わずにはいられないし、それをやらせた責任は親である俺と道子にある。

坑道をゆく一歩一歩が重い。

その一歩一歩に人間の欲と多数の命が散っているのだ。

 

 

11、断魚渓

 

たっぷり歩いているうちに二日酔いが消えた。

そもそも二日酔いというものは、たっぷりの運動、もしくは昼食で消えるのがパターンであるが、今回は前者で打ち消した。

それだけ、石見銀山は運動量を要するのだ。

二日酔いが消えた俺は、そこで飯を食うこともせず、急ぎ次の目的地・断魚渓を目指した。

時刻は午後1時ちょっと前であった。

山の谷間を縫うように県道が続き、それは日本海の方から内側へ内側へ入ってゆく。

道の脇には色付いた山しかない。

県道は因原というところで国道に変わる。

そこに唯一、飯を食うところがあった。

道の駅である。

俺は名物の「相乗り丼」なるものを注文し、道子は「ハンバーグ定食」、春は「ソフローズン」なるデザートジュースを頼んだ。

相乗り丼とは、大盛のご飯の上に200グラムのカツがドーンと乗っており、その半分がカレー、残りの半分が卵とじされたタマネギというもので、カツ丼とカツカレーが同居(相乗り)している丼である。

見た目は変だが、味は普通に美味かった。

断魚渓は、そこから車で20分も走れば着く。

流れ続けた水により岩盤が両断されたという名勝がある渓谷で、「小・高千穂」とでも呼べるのではなかろうか。

高千穂と違う点は、割れ方が小さい、流れが速い、岩盤の上を思うまま歩いてよい、人が少ないという点である。

高千穂のようにボートに乗って割れ目の下へ行くという事はできないが、人が少なく、自由度が極めて高いのはいい。

下はその、断魚渓の名勝と呼ばれる割れ目である。

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名が付いていたが忘れた。

とにかく、上の写真もいずれは下の写真のようになり、いずれは高千穂のようになる(その前に壊れ、流れるのかもしれない)のかと思えば、何となく、大自然のロマンを感じずにはいられない。

また、この時期、中国山脈は紅葉真っ盛りで、山がまさに燃えていた。

この断魚渓においては、渓谷が山の谷間に位置し、また、それが極めて急斜面のため、四方八方を火の山に囲まれている感があった。

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「凄い、凄いよ、福ちゃん! 断魚渓、最高だよー!」

道子は大いにハシャギ、春は、

「チャプチャプ、チャプチャプ!」

轟々と流れる川を「風呂、風呂」そう称して指差した。

午前中は曇っていた空だが、午後からは青空が見え始め、久しぶりに日光が射してきた。

俺達は人っ子一人いない岩盤に座り込みながら、しばし紅葉を、水の音を、その流れを楽しんだ。

そして、ふと思った。

(今日は三連休の初日…、なのに…、なぜ…、こんなにも素晴らしい観光地がガラガラなんだろう…?)

そういえば、石見銀山も世界遺産候補にあがるような観光地なのにガラガラであった。

結論…。

どうも島根県民は外へ出たがらない性格のようだ。

 

 

12、徳山へ

 

断魚渓から南に下り、広島との県境を越えると大朝町というところに入る。

この付近に、本来ならば寄るはずだった吉川氏城館跡がある。

が…、時計を見ると、既に3時半を回っており、暗くなるまでには後1時間半しか猶予がなかった。

今日の宿泊地・徳山まで、後200キロはあろう。

高速をかっ飛ばしたとしても丸2時間、暗くなった時刻に徳山へ着く。

そういう事で、吉川氏城館をすっ飛ばし、大朝インターチェンジから高速(浜田道)に乗った。

合わせて、岩国城に寄り、博物館や錦帯橋を見るというプランも捨てねばならない。

やはり、出発時刻の3時間遅れは効果抜群だったのだ。

対面通行の浜田道を先頭の軽トラックに合わせ、60キロ弱でノロノロと進んだ。

浜田道はインターチェンジのところでしか追い越し車線がない。

一区間丸々をその速度で進み、中国道、山陽道へ移ってからは快適にかっ飛ばした。

途中、厳島を見下ろす事ができるという宮島サービスエリアで休憩した。

瀬戸内海が見下ろせ、絶景ではあったが、どれが厳島か分からなかった。

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「あれだろう」

そう言って拡大写真を撮ったが、後に地図で調べると、ぜんぜん違っていた。

ちなみに、このサービスエリアにはジャングルジムや滑り台もある。

春は滑り台が好きなので遊ばせていたところ、登り口の階段で滑り、顎を強打して口から大量の血を噴出した。(舌を噛んだ模様)

昨晩もコケて流血したし、どうも今回の旅行、春と血は縁が深いようだ。

春の話を続ける。

最近の春の愛想のよさというものは宇宙一の感がある。(親の視点)

まず、すれ違う全ての老若男女、それにカラス、犬、猫、それら獣の類、全てに挨拶を交わす。

「ばいばい」もしくは「よっ」という、なれなれしい挨拶しかできないが、まぁ、それは一歳児の事なので目を瞑ってもらうとして、挨拶をするという心構えが素晴らしい。

全て、俺の教育による賜物だろう。

が…、いかんせん、食いものに対する欲求が異様に強いのには閉口する。

アイスクリームの看板を見るや迷わずダッシュ、人目も構わずそれにむさぼり付くし、レストランの見本模型などには、

「まぁんまぁ! まぁんまぁ!」

完璧に騙され、叫び欲する。

しまいには通行人が手にしていた食い物にまで手を出す有様。

これでは日光にたむろしている野生のサルと何ら変わりがない。

春が男であったなら…、まぁ、許容の範疇であろうと思う。

が…、春は女なのだ。

また、これは間違いなく俺譲りなのであろうが、春は臆病である。

猫、犬、カラス、それらが大好きなくせに、本物が近寄ってくると顔面蒼白となり、親元へ走り逃げてくる。

ある程度距離があると、

「おいで、おいで」

そんな事を言いながら手招きをする。

そのくせ、近寄ってきたら親元へ走り逃げてくる。

俺達が無視していると、そのうちに泣く。

これは、はっきり言って笑える。

俺を苛めているみたいで、何だか楽しいのだ。

「ぶぇーん!」

思いっきり泣きながら、俺の膝を叩く春。

(これが、どんな大人になるのか…?)

その事を思うと、まだ二歳にもならぬ時点で先が楽しみなのであった。

ちなみに…。

その晩の宿泊は徳山駅前のビジネスホテル。

一人4000円で朝食付き(バイキング)、更に和室。

夜飯は1000円で生ビール一杯付き、コース料理。

なかなか無職に優しいホテルであった。

が…、街は北九州の黒崎みたいな感じ。

チンピラがいっぱいで、ネオンの光がどう見ても健全でない。(出雲と対照的)

結局は外で飲むこともせず、コンビニで夜食を買って散策終了。

夕食をたっぷり食った春は、夜食用に買っていたポテトチップスを、半分以上一人で平らげたのであった。

 

 

13、防府天満宮

 

翌朝7時…。

起きてカーテンを開けると、凄まじいまでの光が飛び込んできた。

瞳孔が小さくなるのを待って、ゆっくり目を開けると、

「おおっ、ブルースカイ!」

それであった。

長州を中心とする旅行に出て早四日目。

初めての晴れである。

朝飯の和洋バイキングで和洋折衷な(味噌汁とトースト+ナスのトマト煮など)食事を終えた福山家は、9時過ぎくらいに徳山を出た。

下関と大阪を山陽経由で繋いでいる国道2号線を下関方面へブンブン進み、あっという間に防府へ着いた。

防府といえば防府天満宮である。

これは「大宰府といえば大宰府天満宮」に似ている「あー言えばこー」の組み合わせである。

興味はないが、とりあえず道子も行きたいと言っているので行ってみた。

道子のナビに沿って、非常に遠回りな道を進んでいると「臨時駐車場」として、小学校のグラウンドが解放されていた。

「ほぉ、祭りか何かやっとるらしい」

じゅうぶんにあり得る事だった。

今日は三連休のど真ん中、更に日曜なのだ。

ベビーカーを押しながら天満宮方面に進むと、すぐに出店がズラリと並ぶ通りに出た。

すぐに「お面」の出店が目に付いた。

俺は何を隠そう、ドラえもんとバイキンマンのモノマネが非常に上手い。

なので、前々から「お面」が欲しかったのだ。

俺が覚えている相場だと400円ぐらいだったろうか。

今は物価も上がったろうから500円くらいにはなっているかと思っていたら、何と売り子のヤンキー姉ちゃんは、

「1000円だよ」

だみ声でそう言った。

少しの笑いのために1000円を使う余裕はない。

お面を諦め、天満宮本堂を目指す階段を登った。

防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮と共に、日本三大天神と呼ばれているらしい。

なるほど、そのつくりは全てが立派で、階段の先に見えている建物などは、

(篠原ともえがデザインしたのではないか?)

そう疑いたくなるほどにカラフルだ。

階段を登ったところで春をベビーカーに戻した。

ベビーカーを押していると、バリアフリーの重要性がよく分かる。

防府天満宮みたいにドーンと石段が登場して、上では平地っていう感じならよいのだが、ちょこちょこ段差が出てこられると非常にまいる。

その度に持ち上げねばならないから面倒なのだ。

これが車椅子なら尚更であろう。

家族三人、最高の天気の下で天満宮に参拝し、その後、豪華景品が当たるクジ(空クジなし)に挑戦した。

結果は当たり前のように全てが駄目で、景品はチョコボールであった。

また、「生まれ年と今年の運勢」と書かれたボードがあったのだが、それを見ると、道子は半吉、俺は大凶(羅凶)と書いてあった。

既に、大凶の内容はたっぷり味わっていたので、さして驚く事もなく、道子と二人、

「やっぱりー!」

そう言って笑い合った。

笑うしかなかった。

土産として、健康マニアの富夫に健康祈願のお守りを買った。

天気がいいと金を使いたくなるのが不思議に思われたが、

(この天気のためなら手持ちの全てを使ってもよい!)

そうも思われた。

一日目と二日目、この両日を雨に見舞われ、三日目は曇り、やっと四日目に晴れたものだから、その嬉しさも一入だったのであろう。

「茶室に入ろー、無料だよー」

道子もノリノリで、幕末の志士達が密議を交わしたといわれる茶室・芳松庵に入っていった。

紅葉が最高の時で、もみじが日光を浴びて透けるような赤になっており、

「写真、写真、写真撮るばぁーい!」

年甲斐もなく、修学旅行に来た学生のようにはしゃいでしまった。

春も実に機嫌がよかった。

ぽかぽか陽気で人も多く、どこそこが活気に溢れていた。

これは、山陰では味わえなかった気分だ。

単なる、天気の気まぐれだけではないような気がする。

なぜゆえに山陰と呼ばれ、そして山陽と呼ばれるか…。

その意味がおぼろげながら分かった気がした。

 

 

14、毛利邸宅

 

防府天満宮から1キロほど移動すると、毛利邸宅がある。

ここは、かの有名な井上馨が旧藩主・毛利氏の住むところとして、場所を探し、構想を練った邸宅である。

着工は大正元年、完成は同五年らしい。

建物は当時最高の木材を用い、最高に贅沢な造りとなっている。

中へは庭園も含め1000円で入れる。

入場料は高い、本当に高い。

が…、ここは黙って払ったほうがよい。

もぉー素人目にも立派と分かる庭と建物なのだ。

特に縄文杉を用いた襖、それは頬ずりしたくなるほど立派。

それに、毎日磨いてるのではないかと疑いたくなる天井、これもつい大の字になって眺めてしまう。

廊下も畳敷きで、それを奥まで歩いていくと毛利博物館がある。

とにかく、建物内はだだっ広い。

二階もある。

春なんか、何度も知らない人に付いていって迷子になったほどだ。

毛利博物館は国宝に指定されている絵だの着物だのを展示してあり、他にも、分かり易く毛利家の発展を説明しているボードなどがある。

毛利元就が三人の子達に結束の重要性を語る、あの有名な書も展示してあり、その訳もされている。

「一本の矢だと折れるけど三本だと折れない」

そんな話は一切なく、それが架空の話だという事が分かり、ちょっと残念だった。

また、庭園も素晴らしい。

下は池を挟んで毛利邸宅を見た写真だが、その素晴らしさが分かってもらえると思う。

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ちなみに、今週の「春の部屋」に載っている毛利庭園、その写真のように、ここでの紅葉も最高によかった。

そのせいで、つい二時間も毛利庭園にいてしまい、またもその後の予定が狂う羽目になるのであった。

 

 

15、鋳銭司

 

鋳銭司と書いて、「すぜんじ」と読む。

金を作るところという意味である。

平安時代、現在の山口市鋳銭司に、この金を作るところ・鋳銭司が置かれた事が名の由来らしい。

ちょっと居過ぎた毛利邸宅を出た福山家は、次の目的地をこの鋳銭司とし、またも二号線を下関方面へ進んだ。

昼の時間は余裕で過ぎていたが、春も寝ていたし、道子も寝ていたので、どこへも立ち寄らずブンブン進んだ。

ところで、鋳銭司に寄るからといって、金を作る場所に興味があるわけではない。

ここは、あの東京にある靖国神社をつくった大村益次郎の生地なのだ。

益次郎は、ここ鋳銭司で生まれた後、兵学を学びに学び、長州藩の要職に就き、その軍備を西洋式に改めた人である。

デコが極端に広いのと、東京・上野に立て篭もった彰義隊を一日でやつけた事は、あまりにも有名である。

この地に着くと、まずは大村益次郎を祀った神社・大村神社に立ち寄った。

長沢池という小柄な池を見下ろすように建っており、中には益次郎に関する写真が展示してあるのだが、途中、奇妙な叫び声を発する男が現れ、

「ぐうぇぐうぇぐうぇ、ふぇー!」

そう言って、一人で暴れ出したため、気味が悪くて神社を出た。

静かで、なかなか趣のある神社だったのだが、そういう奴が現れると台無しである。

更に、俺が出て行こうとすると、俺の方を向いて言っているわけではないが、

「うんこ! うんこ!」

そう叫んでおり、何だか腹が立つ事、この上ない。

が…、下手に絡んで刺されでもしたら損なので、無視して去った。

ああいうのはちゃんと保護者が管理し、観光地に行かぬよう気を配って欲しいものである。

気を取り直し、隣に立つ鋳銭司郷土館に立ち寄った。

ここは、鋳銭司と大村益次郎に関するものの展示館であるが、素晴らしく綺麗で、それでいて説明が分かりやすい。

料金が100円で、格安なのもよい。

とりあえず、展示物はブース毎に別れており、ブースには番号が振ってある。

それに対し、説明の放送が、

「何番を説明します」

と、館内放送で流れるため、理解が非常に早い。

また、全く大村益次郎や鋳銭司に関する知識が全くない人のために、中央にビデオで予習するところがあり、道子などは大変に重宝した。

「大村って、誰?」

道子は最初、そういうレベルであったが、帰りには、

「なるほど勉強になったよー、凄い人だねー、大村益次郎ー!」

フルネームで呼べるようになっていたほどだ。

是非、山口市近辺に行かれる予定のある方には寄って欲しい「オススメの展示館」である。

場所は、辺鄙な所にこそあるが、国道2号線沿いといってもよい所に位置し、アクセスは非常によい。

それに、三連休中にも関わらず、なぜか人っ子一人いなかった。

穴場の展示館なのであろう。

ちなみに…。

ここから車で3分も行けば、大村益次郎の墓がある。

大村ファンなら聖地と呼べる場所であり、幕末ファンや石碑マニアもじゅうぶんに楽しめる。

また、それらに興味がない人でも、じゅうぶん勉強になる。

ちなみに言っておくが、俺は鋳銭司観光協会の回しものではない。

気に入った場所を純粋な気持ちで他人に薦めたくなっただけである。

それは呼んだ本や映画が面白く、

「一度見たらハマるって!」

と、誰かに言いたくなる衝動に似ている。

前にも書いたように、この悲喜爛々は情報発信の意を込めた書きものなのである。

 

 

16、東行庵

 

この日の予定によると、観光メインは下関であった。

が…、下関の手前、山陽町の時点で午後4時前。

下関に入るのは、どう見積もっても4時半である。

まだ、飯も食ってない。

道子は、

「お腹が減ったよー、もぉー駄目だよー」

と、後部座席で暴れている。

春は鋳銭司を出る時にちょっと起きたものの、それからズゥーッと寝ている。

(道子は菓子を食い続けとるけん、腹は減らんだろうに…)

暴れる道子を見、そう思うが、下手な事を言って、ヘソを曲げられては困るので、

「じゃ、次に見つけた店に入るぞ」

そう言って、うどん屋に入った。

正直、俺は一分一秒でも早く下関へ入り、早いうちに東行庵へ行きたかった。

が…、今、どんな欲求よりも食欲が勝っている道子を鎮めるには、何かを与えるより他はない。

とりあえず30分ほどの時間をかけ、道子と春にカレー、俺の胃にはカレーうどんを与えた。

東行庵に着いたのは、午後5時ちょっと前である。

東行庵とは、高杉晋作の愛人・おうのが高杉晋作の死後、尼となって彼の菩提を弔ったところである。

この隣には東行記念館があり、裏手の山・吉田清水山には高杉晋作の墓や像、また騎兵隊員の墓がある。

無料の駐車場に車を停め、駐車場内の売店で売っていた「晋作餅」なる餅を食べつつ、まずは高杉晋作の墓を目指した。

晋作餅は熱いプレートにのっている餅を、注文を受けてから赤シソの葉で包んでくれるから温かい。

また、表と裏は軽い焦げ目がついており、そこがパリパリしてて絶妙で、シソの葉との相性もグー。

めったに甘いものを美味いと言わない俺も、アンコさえ取り除いてくれれば、

「もう一個ちょうだい!」

そう言いたくなる美味さであった。

さて…。

高杉晋作の墓は、前にも書いた「石碑の類は基本的に載せない」という理由で写真を省くが、供え物や花で溢れていた。

高杉晋作の人気は、どこへ行っても際立ったものがある。

幕末の登場人物で人気者といえば、新撰組の沖田総司、長州の高杉晋作、土佐の坂本竜馬、それらが筆頭に挙げられようが、全て早々と死んでいる。

それも前の二人は殺されたわけでなく、病死している。

沖田総司は新撰組の全盛時代を支え、それが薩長に圧されて京から逃げ去る頃には、床に臥していた。

高杉晋作は四境戦争で幕府の軍艦を奇抜な作戦で叩きのめし、その後、床に伏している。

二人に共通するのは最もカッコいいところを見せ付けた後、床に臥しているところだ。

坂本竜馬だって、薩長連合、大政奉還、それらを終えた後に暗殺されている。

つまり、ドーンとカッコ良いところを見せ付け、スッと死んだものだから、カッコいいイメージだけがいつまでも残っているのだ。

もちろん、こいつら全員、性格が底抜けに明るい事も人気の理由であろう。

高杉晋作の辞世の句なんか、人気が出ない方がおかしい。

「おもしろく、なき世の中を、おもしろく…」

あー、もぉー、カッコいい!

つい、100円も賽銭を投げてしまった。

ちなみに、高杉晋作の墓、その奥へ行くと奇兵隊隊士の墓がある。

墓の幾つかには「どのようにして死んだか」その説明板が立てられている。

全て読んでいくと、実にマヌケなものもあり、なかなか面白い。

それからメインの東行庵を見に行った。

隣の展示館は30分前の午後5時を迎えた時点で閉まっており、中に入れなかったので、外から写真だけを撮った。

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晋作の愛人・おうのさんは、なかなか良い生活をしていたようだ。

また、その東行庵から見えるところに見事に色付いた木が立っていた。

あまりの見事さに俺も道子も見とれたものだが、いかんせん赤の輝きが薄い。

これが日の出ている時間なら、更に凄まじい絵だったのだろう。

(うどんを食ってなければ…)

思うが、それは後の祭りである。

ちなみに、俺が数日前から十時間以上の時間をかけて作った計画表によると、この後、長府の城下町、赤間神宮へ寄る事になっている。

が…、無理だ。

後数分で日は落ちる。

赤間神宮は既に閉まっているだろうし、真っ暗の城下町を歩いても気味の悪い徘徊者と間違えられるだけだ。

東行庵を出た福山家、その車の中では静かな家族会議が開かれた。

「この後、どうする?」

「任せる」

「うーん…、とりあえず下関方面に走るか?」

「うん」

車は長府の城下町辺りに差し掛かる。

「おい、長府の城下町ぞ、真っ暗ばってん寄るや?」

「任せる」

「任せるって言われたら素通りするぞ」

「うん」

長府城下町を過ぎた車は、関門海峡前に差し掛かる。

「高速に乗って橋を渡るや?」

「任せる」

「うーん…、じゃあ俺が通った事のない海の下の国道ば通るぞ」

「うん」

こうして、福山家の京都へ行くはずだった旅行は帰るだけとなった。

しかしながら…。

今、帰りの問答を書いていて、道子は「任せる」と「うん」しか言ってない。

思うに、この三泊四日の旅行で道子が最も発した言葉は、

「任せる」

これではないか。

道子は自分で自分の事をこう評している。

「絶対に自分で決められない女」

なるほど、確かにそれは随所に窺える。

が…、

「福ちゃーん、この服どう思うー?」

聞いてきたので俺が右と言ったところ、

「私は左がいいと思うんだー、左にするねー」

…。

「俺に聞く」その意味が分からない。

それから車は渋滞にはまった。

ゆえ、色々考えたのだが、女という生きものは謎が多い。

最も身近な女、道子でさえ謎だらけだ。

(自分で何も決められないのだったら、俺に家計を任せるべきでないのか…?)

そんな事も思ったりするが、そこは絶対譲らないだろう。

うーん…。

女という生きものは、基本的に世渡りが巧いように思う。

ゆえ、「任せる」「私が決める」そこのところを本能的に巧く使い分けているのではなかろうか。

うーん…。

考えすぎると、馬鹿にされてるみたいで腹が立つので、もう止める事にしよう。

車の速度計を見た。

0キロのちょっと上をピョコピョコしている。

多分、時速2キロくらいで進んでいるのではなかろうか。

さっき隣の歩道を歩いていた人が、だいぶ先に見えたので、そう推測される。

(もぉー、この渋滞、いつまで続くんや?)

苛々しているところに春も泣き出した。

(もぉー、渋滞してる時に泣くなー!)

そう思ったがどうしようもない。

我慢して、痛くなってきた右足首を上下させた。(車はオートマ)

今思えば、この早い時点で気付いていれば良かったんだと思う。

光の列が、関門海峡前の料金所まで続いているという事を…。

 

 

17、帰路

 

右車線は実にスイスイ進んでいる。

が…、この左車線は徒歩スピードの半分にも満たない。

大渋滞であった。

これを回避するためには右車線へ移ればよい。

が…、渋滞にはまっている時間が30分を越え、40分を越えると、右に移るのがもったいなく思えてくる。

(これまで我慢したのは何だったんだ?)

そういう風になる。

ウィンカーを出して右車線に入れば、そのまま快適なスピードで下関インターチェンジにゆき、熊本まで一気に走る事ができる。

左車線は関門海峡の下、そこを走る有料国道へ繋がる。

「通った事ないけん、行ってみよう」

軽い気持ちで言ったのだが、こうも混むとは思っていなかった。

前の会社の本社が北九州だったもので、この道が混むというのは聞いた事がある。

が…、これほどとは思わなかった。

右に逸れ、苦痛を回避する事は簡単だ。

けど、時間が経てば経つほど「もったいない」その気持ちは高まる。

(後10分もすれば、料金所へ着くに違いない…)

そう思って、攣り気味の右足を上下させた。

結局、料金所に着いたのは、渋滞にはまってから1時間10分が経過してからであった。

「九州でこんな渋滞、見た事ないぞー!」

叫んでやりたいが、確かに下関は九州でない。

料金所を越えてからは嘘みたいに快適なスピードで海の下へ滑り込んだ。

が…、その道は、ぜんぜん海の下らしさがなく、いわば普通のトンネルであった。

例えば、これが一面ガラス張りになっていて、

「さかな、さかな」

春がそんな風に喜んでくれようものなら、

(うん…、苦労した甲斐があった…)

とでも思えようが、これでは苦労の先がない。

金銭的にも高速道路を通るのと大して差はない。

「もぉー、むかつくぅぅぅぅぅー!」

っていう感じで、門司で高速に乗るや、最寄の南関インターまでかっ飛ばした。

山鹿に着いたのは午後9時前であった。

四日ぶりの家に着くと、恵美子が、

「おかえりー!」

そう言って飛び出してきた。

「遅かったねぇー」

「あん」

そんな心ない会話を交わすとすぐ、恵美子は寝ている春の方へ走ってゆき、

「あら、寝とっとねぇ!」

と、叫んだ。

これで春は起きた。

当たり前だ。

恵美子が耳元で叫べば誰でも起きる。

「あら、ごっめーん!」

恵美子は又もや春の耳元で叫び、春の寝起きの腹立たしさに拍車をかけた。

道子は駆け寄ってきた恵美子が荷物を持ってくれるものと思い、

「すいません、これ、お願いします」

と、小さな荷物を差し出したらしい。

が…、恵美子は荷運びを手伝うような素振りを見せていたくせに、実は全く手伝う気はなかったらしく、春をチャイルドシートから外すと、そのまま家の中に持って去ってしまった。

春は泣き喚き続けた。

久しぶりに会う恵美子に人見知りして泣いたのではない。

熟睡していたのに起こされたものだから、腹立たしくて腹立たしくてしょうがないのだ。

現に、富夫が近寄っても春は泣かなかった。

が…、恵美子が寄ると春は大いに泣いた。

「嫌われちゃった、テヘッ!」

恵美子は明るくすねたが、息子として、

「そのすね方は年齢的にどうだろう?」

そう突っ込みたくなった。

夕食はホカ弁で買ったチキン竜田弁当であった。

10日間限りの値引き商品で390円だった。

芋焼酎のお湯割を飲みながら、それを無言で食った。

食いながら、

(あれ…?)

そう思った。

なにやら耳鳴りがするのである。

が…、そう気になるものではない。

誰に告げるともなく、その晩は早めに寝た。

ところが、その翌朝になると耳鳴りの勢いは「その力」を確実に増していた。

更に、昼、夜と時間を追う毎にその音は大きくなり、ついには右耳が聞こえなくなってしまった。

病気には慣れてしまった感のある俺だったので、

「実に不便ばい」

その程度の気楽さだったのであるが、その翌日に病院へ行くと「突発性難聴」と診断された。

いわゆる現代病で、ストレスにより(他にも理由はあるそうだが、主にはこれ)耳に一本だけ通る血管が詰まり、聞こえなくなる病気だという。

治すためには治療に入る時間が命という事で、早めに病院に行ったのが良かったそうな。

「何かストレスを溜める原因として、心当たりでもありますか?」

医者は俺にそう問うてきた。

「間違いありません」

俺はそう断言し、

「先日、下関で大渋滞にはまったんです」

その事を語った。

医者は、

「ま…、そのくらいで突発性難聴になるようじゃ困りものですがね…」

と、俺が語る原因を笑い飛ばしたが、俺の「間違いない」は揺らぎようのない確信に溢れている。

ちなみに、現在は投薬治療により正常な状態に戻ってきた。

情報発信HPとして書くが、現在増えてきている突発性難聴、これは投薬治療に入るまでの時間が命である事を皆に伝えておきたい。

また、ズゥーッと前の章で接触事故の話を書いたが、「まだ何も送られて来てない」そう書いた後に立派なチョコレートの詰め合わせと現金が送られてきた。

(世の中まだまだ捨てたもんじゃない…)

つくづくそう思うし、相手も俺達みたいに善良な人にぶつけた事を、

(良かった…)

そう思っているに違いない。

家に閉じ篭ってては味わえない何ものかが、外に出れば味わえる。

勉強にもなったが、この「何ものか」それこそが旅行の醍醐味であろう。

福山家の旅はまだまだ続く。

次は四国辺りか…。

 

〜 終わり 〜