悲喜爛々38「長崎と濱崎」
1、キッカケ
03年8月に書いた悲喜爛々30「突然」、その中の一文を下にコピーする。
俺と浜崎はパシリ人生という濃厚な期間を共有し、実に抜き差しならぬ友情を育んだものであるが、浜崎に言わせれば、
「あれで俺の人生が狂った」
との事になろう。
浜崎は「福山と一緒にいる」というだけで深夜呼び出しにあい、殴られ、大いに奴隷的(一年生としての)格を落とした。
また、その酒浸りの生活に魂ごと没頭し、その延長で留年してしまう事態となった。
椅子の上で体育座りをし、死んだ目でゲームをし続ける浜崎を卒業前に見たのが最後で、その後の詳細は分からない。
今頃、何をしているのであろうか。
この濱崎と偶然会った。
昨年末、
「村上という友人の結婚式において」
である。
最も窮屈な場所に設けられたテーブルには、俺、濱崎、井上さん、宮村という四人のメンバーが座っており、知ってる人が見れば、
「何や、そのメンツ…?」
何か企んでいると疑いたくなる組み合わせである。
このメンバー、俺を除く全ての連中が留年経験者で、いわゆる「真っ当な連中」ではない。
宮村という男は趣味と特技が「酒」という人物で、途中で学校を辞め、今は警察官をやっている。
井上さんという人は上の学年から留年してきた人で、ヤクザな風を好み、チャランポランを絵に書いたような人だが、実は文学青年、それでいて自称哲学者。
加えて言っている事が「勘違いしている学者風」で、意味がさっぱり分からないという変な人だ。
あだ名は「たらんちゃん」という。
が…、この二人は悲喜爛々38に関係ない。
主人公は濱崎である。
濱崎の風貌は学生時代から全く変わっていない。
相も変わらず猫背で、覇気のない淀んだ雰囲気を背負っている。
つまり、
「元気」
というものが、昔から微塵も感じられない男なのであるが、ゲーム漬けになっていた頃に比べれば幾分マシになったのではなかろうか。
開口一番、濱崎は俺にこう言っている。
「お前、結婚したてねぇ」
ミスターオクレのような体を、フラリフラリと動かしながらニヤリと笑った。
「もう三年目た。お前は彼女もおらんとや?」
問い返したところ、
「一年くらい前に結婚しとる」
なんと、濱崎は苦笑と共にそう言うではないか。
更に、
「結婚せんと会社に乗り込むって言われたけん、つい結婚した」
身の程をわきまえない、限りなく図々しいセリフまで言い放った。
ま…、それは濱崎が見栄を張っているのが見え見えだったので流すとして、結婚しているという事実だけでも驚きである。
丸々7年くらい濱崎と付き合いがなかっただけに、やる気がない濱崎君、どうしようもない濱崎君、それが俺の中でリアルに保存されている。
ゆえ、結婚という莫大なエネルギーを用いる約束を、あの濱崎が他人と交わしているなんて思いもしない。
「うそぉーん!」
そう言って、居合わせた連中の反応を見ると、
「信じられん」
皆が皆、口を揃えてそう言っていた。
この日の主役・新郎である村上までもが、
「嘘だろ…」
そう言って自分が主役である事を忘れたぐらいだから、その「信じられなさ」がどれほどか分かってもらえるだろう。
濱崎は結婚式を挙げておらず、それで、友人にも結婚した事を言っていなかったらしい。
その辺が濱崎らしいといえば濱崎らしいのであるが、つまりは「そういう男」なのだ。
とりあえず、
「長崎に住んでいる」
という事だったので電話番号を聞き、
「来月には嫁を見に行く」
そう約束した。
それがこの長崎旅行のキッカケとなった。
2、唐津
1月27日早朝…。
「いぐぅー、いぐぅー!」
付いていくと泣き叫ぶ春をお菓子で騙し、俺は一人で山鹿を出た。
本来ならば23日に出る予定だったのだが大雪で延期。
「25日に行くわ」
そうは言ったものの、その日も大雪で高速が通行止め。
二度の延期を経て、この日、27日になったのである。
山鹿の天気は多少曇ってはいたものの「いい天気」に属す部類で、まぁ、良い。
が…、久留米に入ると雪がちらつき始め、鳥栖ジャンクションから長崎道に折れると本格的に降り始めた。
進めば進むほど高速の脇に積み上げられた雪が大盛になってゆく。
(ノーマルタイヤで行けるんか?)
不安になってくる。
ちなみに、俺のポリシーとして、
「雪道は絶対に走らない」
それがある。
もちろん雪タイヤやチェーンを装備していれば別だが、そんなもの持った事もない。
昔、こんな事があったのだ。
社会人一年目(21)の話である。
埼玉の入間から、当時、東北大に通っていた友人の家に、ポルシェとドッキングした事で話題を呼んだライフ(ライシェと呼ばれていた)に乗って遊びに行った。
12月の初めくらいだったと思う。
高速をばんばん北上し、福島に入ったあたりから雪になった。
「うわー、雪だ、すげぇー!」
熊本から出てきたばかりの俺は、雪というものに興奮し、「すげぇ」を連発。
恐れおののくどころか、それを迎合する風向きで突き進んだ。
が…、宮城に入ったところで高速を下ろされた。
チェーン規制である。
しかたないので日光街道(四号線)をノロリノロリと北上し、仙台まで向かうことにした。
時刻は午前6時くらいだったろう。
仙台に入ったのは午前7時半くらいだったように記憶している。
ちょうど出勤ラッシュの時間で、車が非常に多かった。
雪は、しんしんと降り続いている。
赤信号だったので、丁寧にエンジンブレーキをかけ、ゆっくり停止した。
と、その時。
「ズルリ」
滑ったかと思うと、車の後部がスゥーッと前に出るかたちで停止線を越え、自慢のライフがあらぬ方向を向きながら交差点に飛び出したのである。
(死んだ…)
そう思った。
片側二車線の幹線に無信号で飛び出した格好なのだ。
これが熊本であったなら、青信号と同時に飛び出した車と激突。
本当に死んでいただろう。
が…、ここは北国・仙台。
それが良かった。
停止できずに滑り出てくる車が珍しくないのであろう。
青信号であるにも関わらず、俺のライフの滑りが落ち着くまでジィーッと観察してくれ、俺の車が脇へ移動するのを待っていてくれたのだ。
更に、落ち着いた俺の車に向かって、
「大丈夫かー?」
声を掛けてくれる温かさである。
あらぬ方向を向いた俺のライフは、クィンクィンとタイヤを滑らせながら路側帯に移動し、事なきを得たが、
(俺は南の人間だ。雪道を運転する資格はない…)
この時に、それを誓ったのだ。
また、この後、東北大の友人と合流し、北海道は函館へ行った。
そこで乗ったタクシーの運ちゃんは、キュルキュルとタイヤを滑らせながら、
「雪タイヤでもアイスバーンは駄目だべや。滑る事を勘定に入れて運転するのさぁ。スケート場と同じだべや」
そう言いながら凄まじいスピードで、そのリンクを突っ走った。
函館は路面電車が走っている。
その線路にタイヤを沿わせ、
「ほら、線路のところが滑るだでや」
わざと滑ってくれたのには、俺の誓いも深まった。
そう、
「俺は南の人間なのだ」
ところで…。
余談が余談を生むのだが、俺は泳げない。
平泳ぎで25メートル泳ぐ事はできるのだが、クロールでは20メートルも泳げない。
学生時代、水泳の授業を手抜きしたわけではない。
いくらやっても泳げなかったのだ。
俺は昔から割り切る性格で、人には得手不得手、それの延長線で「人生の役割」というものがあると思っている。
ゆえ、泳ぎに関しては、このように言い聞かせた。
「人間っていうのは陸の上に住む生き物なのだ。泳げんで当然」
そして、
「陸の上で俺が成すべき事(それが何かは今も分かっていないが…)を頑張ればよい」
何にせよ、割り切る事が俺にとっては肝心なのであった。
さ…。
余談が長くなった。
そういう事で、雪が降り始めた時点で速度は80キロまで落ちている。
高速なのに中速で、佐賀県の多久インターまで走り、そこからは下道を唐津方面に向かって進んだ。
脇にそびえる山は、どれもこれも真っ白になっていて、道沿いには雪だるまが幾つも並んでいる。
多久インター辺りから雪は止み、空には青みが差してきた。
この道は幾度か通った道である。
道子の親父方の実家がこの付近にあり、通った事があるのだ。
決して広いとはいえない道をゆるりゆるりと北上し、唐津には午前11時くらいに着いた。
ここまで来ると、雪はその欠片もない。
すぐさま道ゆく地元人に、
「観光したいんですが、無料の駐車場ってどの辺ですか?」
問いかけ、教えてもらった市民会館の駐車場に車を停めた。
それから市役所に駆け込んで観光マップを貰い、歩きながらルートを考えた。
自然、足は唐津城の方に向いている。
唐津城…。
別名を舞鶴城といい、三方を海に囲まれた場所にある。
舞鶴と呼ばれる由縁はそこにあり、両脇に伸びた海岸線が鶴の羽を意味するらしい。
確かに…。
天守閣に登ってみるとそれが分かる。
上の写真は、天守閣の最上階から虹の松原方面を見たものだが、反対側からも、これと同様の海岸線を見る事ができる。
絶景という点ではピカイチの城ではなかろうか。
また、城内には刀や銃、鎧などが展示してある。(どこの城も同じだが)
本能寺の変で織田信長に傷を負わせたという槍も展示してあった。
胡散臭さ爆発、まず、それは嘘であると断言できる。
ちなみに…。
今でこそ天守閣があるが、当時の唐津城は天守閣がなかったものと思われる。
唐津城周辺の古地図などが展示されてあったが、それに天守閣が書かれておらず、濠と石垣のみが描かれている。
天守閣があった事を示す書類もないという。
ちょうど案内人みたいな人がいたので、
「唐津城、天守閣がなかったんでしょ?」
問うたところ、
「あちゃっ、その辺は気にせんで。今は唐津のシンボルになっとるとですから」
そう言われた。
つまり、俺が登った天守閣は、
(こういうのがあったら素敵やね)
と、昭和生まれの人が「空想したもの」なのであろう。
さて…。
それからの俺は、唐津神社で、
「家族が健康で、俺の小遣いが復活して、云々…」
5円の賽銭で、ざっと20ばかりのお願いをし、唐津を後にした。
時刻は正午を回っていたが、次に行くところは呼子の隣・鎮西というところなので、
「そこでイカ(呼子が有名)を食おう」
という事にし、足早に去ったのである。
天気はピーカンといってもよいそれになっており、冷たい玄界灘の海風だけが猛烈に吹き荒れている。
3、名護屋城
名護屋城は、俺が九州で行きたかった場所ベスト5に入る。
「残り四つはどこ?」
そう聞かれても、
「えっ…、えーと…?」
ってな具合になるのだが、「ベスト5」という語感に名護屋城がピッタリ当てはまるという事は間違いない。
名護屋城は豊臣秀吉が行った朝鮮侵略、その拠点となったところで、その規模たるや半端でない。
ついさっき見て回った唐津城なんか、これに比べれば曙から見た榎本加奈子ってな感じであろう。
なにせ全国の大名が集まり、そこで軍議を行い、そこから朝鮮へ出て行く拠点である。
どの大名がどこに陣を張っていたという地図を見ただけでも、
「ほぉー、こりゃ凄い…」
溜息が出る。
陣跡が、半島全土に及んでいるのだ。
その中心に名護屋城があり、むろん天守閣もある。
歴史的価値も高い。
秀吉との繋がりが、大阪城並に濃いからである。
大阪城を秀吉栄達の象徴とするならば、名護屋城は秀吉没落の象徴といえるのではなかろうか。
秀吉は次の辞世を詠んでいる。
「つゆとおち つゆときえにし わが身かな なにわの事も 夢の又夢」
秀吉の無念さがしみじみ伝わってくる名句だが、名護屋城はそれを「かたち」として残してくれているものだろう。
さて…。
名護屋城の主題である「朝鮮侵略」は秀吉の死と共に中止になっている。
秀吉以外の大名が、この侵略に前向きでなかったからだ。(行き詰まっていた事もある)
ゆえ、猛烈なる賑わいを見せていた名護屋城とその周辺は、大名が去った事で一気に寂れた。
その寂れっぷりは古今未曾有の凄まじさであり、
「山の頂から麓まで一気に転げ落ちるかの如く」
寂れたそうな。
と…。
ここまでは、書物で得た知識である。
それを踏まえ、実際にその地を踏んでみると、
「なるほど」
現在も、その瞬間冷却の余波は残っている。
風景が、そこはかとなく寂しいのだ。
有名な観光地であるにも関わらず人足もまばらで、聞こえる音といえば玄界灘から吹いてくる風の音だけ。
人口35000弱、山鹿市民の俺が、
「うむ、田舎だ」
断言できるほどハイレベルな田舎であった。
こんな事があったほどだ。
名護屋城の前に「桃山天下一」という道の駅がある。
そこに寄り、高級イカ定食を食って駐車場に出ると、明らかに地元人だと分かるネジリ鉢巻のオッサンと遭遇した。
オッサンは佐賀ナンバーの軽トラから下りると俺の車を訝しげな表情で眺め、
「こら、なんて読むとな?」
そう聞いてきた。
オッサンは俺の車のナンバーを指差している。
「は?」
唖然とし、オッサンの指先を追うと「所沢」の文字を指していた。
(あー)
と、質問を理解し、
「ところざわです」
言おうとした瞬間、
「しょ、さわ…、かい?」
オッサンは真顔で凄まじい回答をしてくれた。
なんと、二文字とも合っていないのである。
「所」を「しょ」と読み、「沢」を「さわ」と読んだ。
(笑っちゃいけない! 笑っちゃいけない!)
思いつつも、つい、
「むふっ!」
噴出してしまった。
ぐらつく俺のハートに、オッサンの爆弾発言は追い討ちをかける。
これが破壊力抜群。
「見た事なかねぇ、北海道のナンバーかねぇ?」
「むふぅっ!」
「東京じゃなかとは間違いなか。わたしゃ東京近辺にゃ詳しかけん」
「むふっ、むふっー!」
我慢の限界であった。
口の端の方から空気が「むふぅっー!」と飛び出し、その後、遠慮なしにゲラゲラ笑ってしまった。
「はぁ、はぁ…」
落ち着くのを待って、
「ところざわって読むんですよぉー、埼玉ですよぉー」
教えてあげた。
すると、
「おー!」
オッサンは大袈裟に柏手を打ち、
「聞いた事ある。ダイオキシンのところなぁ」
やっと分かってくれた。
「ダイオキシン」という言い方はひどいが、確かに当たっている。
それに、九州人と所沢の接点といったら、その事をニュースで耳にするぐらいしかなかろう。
「はい、その通りです」
頷き、場を去った。
友人の太陽が「所沢」を「軽井沢」と間違い、
「知っとる、知っとる、有名な別荘地だろ」
自信満々で言っていた以来の所沢ヒットであった。
何が言いたいのか…。
つまり、名護屋城周辺は、それくらい俗世間と離れた田舎なのだ。
さて…。
名護屋城の隣には無料の博物館がある。
できたばかりなのであろう。
恐ろしく綺麗で、その規模も城同様にでかい。
が…、肝心の人っ気が皆無で、三人もいた掃除のオバチャン、それに10人近くはいるであろうスタッフが全員揃って暇そうにしていた。
皆が皆、あくびを連発しており、本当に暇そうである。
その中を俺は悠々と見学した。
展示物が多く、読み物も多いため、見て回るのに1時間強を要した。
博物館としては間違いなくAクラスのそれであろう。
関東なら、優に入場料800円は取ると思われる。
それが無料。
是非、興味がある人にはオススメしたい。
また、博物館周辺は陣跡だらけで、「誰の陣跡だ」という看板も親切丁寧に立てられている。
それを見て回るとすれば、半島をジグザグに歩かねばならず、一日ではとても時間が足りない。
ゆえ、たっぷり楽しめる。
これも歴史好きにしてみれば、ありがたいのではなかろうか。
さて…。
話を名護屋城に戻す。
名護屋城は石垣だけが残っている。
入場料100円を払い、本丸方面に登るのだが、いきなり崩れた石垣が迎えてくれる。
「ほほー!」
感心せざるを得ない。
これが、綺麗に組み直された石垣であれば名護屋城という史跡は台無しであろう。
入口でもらったパンフレットによると、見物するに危険であると判断された石垣は土嚢で補修しているが、他は、
「発掘当時のまま」
だそうな。
ナイス判断である。
崩れているところが名護屋城らしいのである。
何といっても、
「秀吉の没落の象徴」
その事を忘れてはならないだろう。
崩れた石垣の脇をジグザグに登ると10分ほどで本丸跡に到着する。
そこから玄界灘を見れば点在する小さな島々が見え、その奥には薄っすらと壱岐島も見える。
また、右手を見ると加部島に掛かる呼子大橋も見える。
唐津城に負けず劣らぬ見事な景観と言わざるを得ない。
ふと、秀吉が石田光成に語った言を思い出した。(俺のあやふやな記憶)
「ワシに付いてくる事の利。皆、その利を求めて付いてきてくれる。今の日本にはそれを与えるための土地がない。ならば朝鮮、唐と攻め滅ぼさねばならない」
この景色と、この秀吉の言を重ね合わせると、何やら凄まじい臭いがしてくる。
「モウロクジジイの貪欲な妄想」
その臭いである。
子供から大人に、そして最後は子供に戻るというが、まさに老境の秀吉は子供に戻っていたのであろう。
無邪気に、
「朝鮮が欲しいっちゃー!」
そう言ったに違いない。
朝鮮侵略を語れば長くなる。
ゆえ、この稿では止めておくが、色々な意味で、名護屋城は考えさせられるものがあった。
ちなみに…。
ここの中心に「名護屋城跡」の碑が建っている。
よく見ると「東郷平八郎の書」と書いてあり、
(なるほど…、書くべき人が書いている…)
そう思った。
東郷平八郎は言わずと知れたバルチック艦隊を破った人である。
先日の読売新聞で、この日露戦争を称して第零次世界大戦と呼び、「日本が列強の仲間入りした瞬間」と書いてあった。
東郷平八郎がこの地に立ったかどうかは知らぬが、秀吉同様、余人の思いもつかぬ夢を描いていた事は間違いない。
「侵略」
その事がどのような影響を及ぼしているかは、見るところを見ればよく分かる。
例えば…。
先ほど覗いた名護屋城博物館には、朝鮮と日本の関係、その歴史を懇切丁寧に説明してあった。
その書き方は、あくまで朝鮮にへつらっており、
「歴史的に、ごめん!」
そう言っている臭いがプンプンする。
これは、朝鮮側から見れば、名護屋城というものが靖国神社同様、
「むかつく遺跡」
それだからだろう。
朝鮮は侵され続けてきた国だ。
元に、秀吉に、ロシアに、明治政府に…。
それが蓄積され、
「侵さねば侵される」
そういう思いになったのではなかろうか。(最近の北朝鮮より)
北朝鮮は今、日本に臨戦態勢を向けている。
腹立つ話で、時世を考えない常軌を逸した話だとも思う。
が…、それはあくまで外側の了見。
「歴史的に考えれば『備え』と判断されてもおかしくない」
内側はそう思っているであろう。
(勝手な事を言うな! 日本は何をするか分からん!)
そう思っているのかもしれないし、
(歴史は繰り返す! だから怖い!)
と、怯えているのかもしれない。
が…、我々からすれば、
「悪いのは絶対にお前のところだ! 武器を引っ込めろ!」
と、なる。
エゴとエゴのぶつかり合いは果てしなく続く。
(人間とは、困った生き物だ…)
結論はそこへゆく。
その事が、そこはかとなく悲しいように思う。
4、長崎へ
上記の話はこの書きものの題目上、余談となる。
まだ、長崎に入っていないからだ。
この章の後半、次の章あたりから本題に入ってくるのではなかろうか。
名護屋城から車を南に走らせ、途中、この半島(東松浦半島)の根元にある「いろは島展望台」という景勝地に立ち寄った。
そこも佐賀県に属す。
佐賀というところは狭いようで、なかなか広い。
感覚的に埼玉くらいあるのではなかろうか。
海沿いの山道をグングン登り、四十ヶ島と呼ばれる小島の群を見下ろす場所、そこが「いろは島展望台」である。
何もない。
人っ子一人いない。
風も冷たい。
天気も悪い。
寂しがり屋の俺には辛すぎる観光であった。
写真を撮り、一杯だけコーヒーを飲むや、すぐ南下した。
展望台から南に20キロほど下ると伊万里に着く。
そこまで行けば人の気配がしてくる。
名護屋城から伊万里までは、クネクネクネクネ海沿いを走るのであるが、とにかく景色が寂しい。
見えるのは海と棚田だけで、ところどころに漁村らしい集落がある。
「棚田を守ろう。日本の景色を守ろう」
そう叫ばれて久しいが、ここを走っていると、
(守る必要はないんじゃ…、あふれとるやん…)
そう思ってしまう。
昔の日本の景色、そればかりなのだ。
ゴツゴツした海岸線を持つところは坂が多い。
この地形は長崎まで続くため、海岸線を走る以上は同じような景色が続くわけだが、伊万里からは内陸に入った。
陶器で有名な有田を抜け、温泉で有名な嬉野から高速に乗った。
すぐ右手に大村湾が見え出す。
そこでやっと長崎に入った事になる。
大村湾パーキングエリアで濱崎に連絡を入れ、
「お前の家、どう行ったらいいんや?」
聞くと、
「高速を下りてからが非常に難しい」
との事で、
「大村で待ち合わせしよう」
という事になった。
ちょうど、濱崎が大村で働いていたのである。
合流し、それからは車二台で濱崎邸を目指した。
濱崎邸は長崎市の上、長与町というところにある。
長崎らしく坂ばかりのところで、道はどこも狭い。
山に近く、コンビニもなく、唯一の明かりとして県道沿いにうどん屋が一軒だけある。
つまり…。
田舎であった。
長崎駅までは車で30分ほどかかる。
濱崎邸に着くや、旅装を解き(バックとカメラを置いただけ)、すぐさま長崎市街へタクシーで飲みに出かけた。
噂の濱崎嫁はいない。
仕事中という事で、後で俺達に合流するとの事である。
タクシーは長崎らしい入り組んだ坂道を右へ左へギュンギュン走る。
(どこへ出るのか?)
思っていると、ポンッと市街地へ飛び出す。
長崎とはそういう街のつくりなのだ。
濱崎が言うに、
「行き付けのスナックが9時に開くけん、それまでは居酒屋で飲もう」
連れられるがままに居酒屋へ入った。
ここが長崎のどの辺なのか、検討もつかない。
後になって居酒屋のおばちゃんの話で分かる事だが、ここは平和公園の近くで、原爆が落ちたところだという。
「この辺が最も栄えとる場所かね?」
問うと、
「違うけど、地理的には真ん中」
だそうな。
「ま…、いいや…」
とりあえず飲み始めた。
ちょうどこの頃、長崎はランタンフェスティバルの最中であった。
(せっかくだけん、見たかった…)
そう思ったが、
(明日の朝、長崎観光をするけん、いいや…)
と、おばちゃんオススメの芋焼酎をお湯割で飲んだ。
長崎は「この焼酎」というのが焼酎ポリシーがなく、何でも飲む。
出てきたのは屋久島の焼酎であった。
方言は何となく熊本弁に似ているため、違和感はない。
ので、他県にいるという実感が全く湧かない。
が…、濱崎という珍しい男が隣にいる。
次の章では、この書きものの主題である濱崎、そやつの近況を詳細に書いてみたいと思う。
濱崎を知らぬ人間は読む必要はない。
5、濱崎
濱崎という男を知っている人ならば「彼の今」を知りたいはずだ。
(あの無気力人間が、どういう生活を送っているのか?)
それを知れば「彼の近い過去」も知りたくなるはずだ。
(どういった紆余曲折を経て、今に至っているのか?)
が…、濱崎という男は無気力が信条の男ゆえ、過去の友人に連絡を取り、いちいち近況を報告する、なんて事はしないし、会ったとしても、
「めんどくしゃー」
そう言って、細かなところまで絶対に話さないであろう。
そういう男…、だからこそ、彼のその後を知りたくなるのかもしれない。
噂の濱崎嫁が場に到着するや、その辺を重点的に聞いてみた。
ちなみに、これを書く事は本人に了解を得ている。
ていうか、
「もっと俺の事を書け」
そう言われているので、遠慮なしに書く事にする。
まず、濱崎嫁の事を報告せねばならないだろう。
身長はでかい。
が…、道子ほどではない。
濱崎は、
「俺の方が高い」
そう言い張っているが、どう見ても嫁の方がでかい。
そこは福山家に似ている。
また、嫁さんは空手をやっているらしく、筋骨もしっかりしていて健康そうで、どう見ても濱崎より強そうだ。
最初の疑問、
「どういう結婚生活を送っているのか?」
という質問に対し、むかついた嫁が濱崎の頭を踏みつけたという話を得た。
濱崎の言に耳を傾けてみたい。
「ケンカしたら絶対に負けるけん、拳では歯向かわず、弁論で対抗する事にしている」
情けない。
情けないとは思うが、得策だとも思う。
「よく蹴られるんばい」
しおらしく言う濱崎が、とてもとても可愛かった。
あ…。
誤解しないで欲しいのだが、濱崎の嫁さんが狂暴だと言っているわけではない。
それどころか至って温厚な性格で、夫婦喧嘩の詳細を聞くに、明らかに濱崎が悪い。
冒頭から何度も書いているが、濱崎は「極」の字が付くほどの無気力野郎で、喧嘩の大半がそれに起因するらしい。
濱崎嫁が言うに、何を言っても「はぁ」とか「あん」、気のない返事しかしないし、結婚して此の方、旅行にも行った事がないのだという。
唯一行った旅行が新婚旅行で、それも二日目になると、
「めんどくしゃー、家に帰りちゃー」
赤子のように暴れ出したのだという。
日常の濱崎は仕事から戻ってくればゲームかインターネットに没頭。
ろくに話もしてくれないし、飯を出しても、
「美味い」
などは、言ったためしがないという。
土曜はほとんど出勤で、日曜は休みなのだが、家から出る事も稀だそうな。
濱崎嫁の言を、再度借りる。
「この人、本当に家が好きなんたい」
思い切って聞いてみた。
「この男の、どこがええと?」
濱崎嫁は本気で悩んだ。
本気で悩み、悩んだ後、
「気性が荒くないとこ…、かな?」
そう言ってくれた。
まさにそう、濱崎の気性は確かに荒くない。
穏やかで、波が立つ事も少ないだろう。
「他には?」
いいところがそれだけでは悲しいので、もう一つだけ問うてみた。
が…、それ以上は、
「もっと考える時間が必要」
という事で、「後日、お答えします」そういう運びになった。
結婚に至るまでの顛末を聞いてみた。
濱崎夫婦は三年弱付き合ったのだという。
出会いは友人の紹介で、劇的な展開もないまま、
「何となーく」
付き合い出したのだという。
実に濱崎らしい。
それから何となーく日を重ね、三年弱という時を経た。
濱崎嫁は濱崎より四つ年上で、御年30ぽっきりだそうな。
結婚したのは一年前だから、その時は29歳。
「二十代のうちに結婚したい」
そのような事を濱崎に言ったのではなかろうか。(ここは推測)
そして、濱崎はいつものように、
「あん」
そんな感じの空返事をしたに違いない。
濱崎の嫁が言うに、
「あの時(結婚前)の夫の態度は本当に腹が立った」
つまり、濱崎の態度がいつまでも煮え切らないそれだっただそうな。
空返事の連発で、全くアクションを起こさない濱崎。
待てど暮らせど変化のない生活。
この煮え切らない現状を打破したのは、濱崎嫁の父、つまり濱崎の義父だったという。
濱崎の義父は、高専時代「Z」と恐れられた財木教官に似ているのだそうな。
その義父が濱崎の肩を掴み、
「もし、ご破談にでもなったら、君の実家の土地でも貰わんといかんなぁ」
そう言ったのだという。
さすがの濱崎にも、これは効いた。
濱崎の嫁が、
「会社に乗り込む」
そう脅しても動かなかった濱崎が、これには動いた。
「はい…、じゃあ結婚します…」
多分、そんな事を言ったのではなかろうか。
濱崎の嫁は、ずいぶん前から用意し、書き上げていた結婚届を一人で出しに行ったらしい。
「一緒に行こう」
もちろん濱崎を誘ったらしいが、
「仕事だけん」
そう言って断られたのだという。
濱崎嫁は、俺が言うのも何だが、気立てがよく、料理もうまく、肌艶もよく、健康的で、八重歯が素敵なナイスウーマンである。
「それが、なぜ?」
濱崎にこうも没頭できるのか、不思議でならない。
「なんで?」
聞いても、濱崎嫁は八重歯を見せながらニッコリと笑うだけだ。
前述の話をしてくれた間も、
「あの時は大変だったよー」
そう言いながら、横目で濱崎を見、ニコニコ笑っていた。
とにかく愛嬌がいい。
濱崎行き付けのスナックに行ったのだが、そこのママが濱崎嫁の愛嬌をいたく気に入っていたほどだ。
「あらぁー!」
ママは輝いた目で濱崎嫁を見、常連の濱崎そっちのけで嫁と話していた。
世の中の酸いも甘いも知っていそうなママが、
「この嫁さんは当たりよぉー」
言うのだから、折り紙が付いたようなものであろう。
ちなみに…。
スナックではコギャル風の生きものが接客として俺達に付いた。
コギャルは徹底的にタメ口、右手は絶えず毛先を触り続けるという渋谷あたりに群生してそうなタイプで、
「わたしぃー、成人式の日はモテモテだったんだよぉー!」
そんな感じの自慢話を連発するものだから、俺達は閉口した。
濱崎は露骨に嫌な顔をし、生きものが口を開くたび、
「うるせぇー」
そんな感じの罵声を、小声で放った。
昔からこういうところがある男なのだ。
大声では言えないくせに、罵声は浴びせたがる。
隣には濱崎嫁がいる。
濱崎が罵声を発するたびに、
「だめっ!」
濱崎の肩を豪快に叩いていた。
その絵は、間違いなく夫婦の絵であった。
(意外に合っている二人なのかも…)
ふと…、なぜだか分からぬが…、そう思った。
夫婦とは、もともとそんなものかもしれない。
「何がいい」「どこがいい」言えるところがなくても、
「何となく合う」
「肩肘張らなくていい」
それがあればいいのかもしれない。
さて…。
どれだけ飲んだろうか。
さっぱり分からない。
結構飲んだように思う。
色々と場を変え、さまざまな話を聞いた。
濱崎はケンカをすると、
「別れる!」
を連発するという話や、濱崎嫁が濱崎の実家(天草)でスター的扱いを受けているという事。
などなど…。
凄まじい量の情報を得たように思う。
本当はこれらを全て列記し、濱崎夫婦の詳細な像が読み手にありありと浮かぶようにしようと思っていたが、書きながら、
(なんや、意外にお似合いの夫婦じゃにゃー)
そう思ったら、書くのが馬鹿らしくなってきた。
(なんでラブラブの話を書かんといかんのだろか?)
以前、和哉のラブラブ話を書いた時もそうだが、ラブラブ話は書いていて腹が立ってくる。
ゆえ、この辺で止めておく。
とりあえず…。
濱崎は素晴らしい社会人生活を、昔と変わらずボンヤリと送っているようだ。(写真)
6、さよなら長崎
濱崎邸での話を、一つ書き忘れた。
この章に関係ないが、個人的に書きたい内容なので、ここで書きたい。
それは俺の寝床、その場所についてである。
当然、その日は濱崎邸に泊まったわけだが、濱崎は翌日が仕事という事で、
「早めに寝るわ」
夫婦揃って先に寝た。
「おいおい、俺はどこに寝ればいいと?」
問うと、濱崎嫁は、
「隣に布団を用意してるから」
と、言う。
それを受けた俺は、濱崎達が寝る部屋の隣室、もしくは居間の隣室に布団が用意されたものと認識した。
それから歯を磨き、
「さ、寝よ」
居間を出、その「隣の部屋」を探したのだが、どこにもそれらしき部屋がない。
ドアらしいドアがないのだ。
「あれ?」
という事で、洗面所のドアを開けたり、物置っぽいところを覗いてみたり、暗闇の中、ゴソゴソと探したがそれらしい部屋はない。
結局は諦めて居間のコタツで寝た。
翌朝…。
二人が起きるのを待って、
「俺の布団、どこに敷いてあったと?」
聞くと、
「隣って言ったじゃなーい」
という嫁の声。
濱崎達が寝ていた寝室を見ると、二人が愛用している布団の横、そこにピタリと沿うかたちでシングルの布団が敷いてあるではないか。
(うはぁー!)
驚いた。
まさか新婚さんの聖域に俺を寝せるとは思いもしない。
「そんなところで寝れんばーい」
なぜか、俺が赤面してしまった。
不思議な感覚の濱崎家ではある。
さて…。
そんな濱崎家でたっぷりと朝食を頂き、午前9時には、
「もぉー、食えん…」
悶えながら濱崎邸を出た。
凄まじい量の朝食であった。
飯と味噌汁の他に、シシャモ(モドキではない本物のやつ)5匹、炒め物、卵焼き、添え物。
はっきり言って旅館並である。
それを一人で食った。
濱崎も濱崎嫁も、
「朝飯は食わない習慣」
との事で、付き合ってもくれなかった。
一人、黙々と食った。
それから長崎の中心街へ向かった。
ランタンフェスティバルを見たいという事が第一。
史跡見物が第二である。
オランダ坂あたりに車を停めて、フラリフラリと中心部を歩いた。
全ての店が閉まっていて、開いているのはコンビニくらいのものであった。
俺はランタンフェスティバルの詳細を知らない。
勝手に、
(期間中だったら、どっかでやってるんだろ)
そう思っており、その内容は、提灯がダァーッと道の脇に飾られ、その真ん中を山車が走り抜けるものだと思っていた。
今の時間は午前10時。
(ちょっと早いばってん、グラバー邸の方に歩けば何かやっとるど)
と、足をグラバー邸の方向へ向けた。
歩けば歩くほど人足が絶えていった。
どこにもランタンらしきものはない。
ちょうど観光協会の人を発見したので聞いてみた。
「ランタンフェスティバル、どこでやりよっとですか?」
すると…。
「ランタン…、フェスティバルですか…?」
50代くらいであろうか、脂ぎったオッサンは訝しげな表情で俺を見、
「ランタンっていうくらいですから、夜しかやっとりまっせん」
そう言った。
俺は食らい付いた。
「うそぉーん、午前中にやってるイベントもあるでしょー」
「なかです」
「うそぉーん」
「そんなら、誰か他の人に聞いてみてください」
観光協会のオッサンは、
(馬鹿には付き合いきれん)
明らかにそういう顔をし、
「ま、無駄骨とは思いますがね」
そういう捨て台詞を残して去って行った。
なんともいえない悔しさに苛まれた。
(長崎まで来て、ランタンフェスティバルを見れんとは…)
暗く沈んだ俺の前に、ちゃんぽん屋があった。
早い時間にも関わらず開いていた。
が…、いかんせん、長崎らしさを感じようにも腹いっぱいで、とてもとても食えそうになかった。
(せめて史跡散策でも…)
と、出島まで歩いた。
博物館に入ろうと思ったが、修学旅行生が足の踏み場もないほどにおり、とても観光っていう雰囲気ではなかった。
(俺…、何しに長崎へ来たんだろ?)
そう思いながら、1000円だけパチンコをした。
一瞬で負けた。
駐車料金を払い、車を出した。
帰りはサッカーで有名な国見からフェリーで帰る予定であった。
島原方面に車を走らせ、途中、愛野という町で島原半島を見下ろせる展望台に立ち寄った。
「愛野町…」
名前がいい。
つい手を合わせ、
「道子が昔の道子に戻りますように」
そう祈った。
昨晩、濱崎夫婦を見、昔の道子を思い出したのだろう。
「ふくちゃーん、待ってよー!」
草原を、白いワンピース姿で走っていた道子はもういない。
一人の子と胎児を抱え、
「無職なんだからねー!」
それが口癖の、生活感のみが浮き立つ「道子さん」が熊本で待っている。
「愛野町…」
つい、祈りたくなる町であった。
さて…。
この話もやっと終わりを迎える。
昼過ぎのフェリーに乗り込み、かっぱえびせんを食っていると、
『カモメに餌をやってごらん』
そう書いてある看板を見かけた。
試しにえびせんを掲げてみると、凄まじい数のカモメが凄まじいスピードで向かって来た。
思わず、
「うわっ!」
声を荒げ、えびせんを投げ出してしまった。
それくらい凄まじいカモメの寄りであった。
隣には、6歳くらいの子供がいた。
俺が逃げたのを見、ゲラゲラ笑っていたので、
「ボウズ、お前もやってみろ」
と、えびせんを分けた。
子供は恐れる事なくえびせんを掲げた。
が…。
数十羽が一気に自分を目掛けてくるものだから、子供も、
「わっ!」
声を上げ、えびせんを投げ出してしまった。
「ふふふ…、怖いだろ」
笑いながら子供を見ていると、子供はよほど怖かったのだろう。
本格的に泣き始めた。
ちょうどその時、その子の父親らしき人が来た。
「どうしたー?」
問う父親に、子は、
「そこのおじちゃんがぁー」
と、俺を指差し、号泣した。
俺にやましいところはない。
が…、なぜか焦った。
「いや、俺はえびせんをやっただけで、他には何もしとらんです」
的を得ない弁解をしてしまった。
父親は子を抱きかかえ、俺を睨むと無言で立ち去って行った。
(馬鹿らしい…、最悪の日だ…)
笑うしかなかった。
その晩…。
夕方に食った油ものがドスンと効き、胃痛・ムナヤケに悶える事態に陥った。
道子はプリプリ怒り、俺に胃薬を出しながら、
「遊んできて胃が痛いじゃ笑えないよ」
そう言った。
「すまんねぇ」
道子に頭を下げつつ濱崎夫婦の事を思い出した。
(嫁がケンカは強いけど、立場は夫が強い家…)
濱崎夫婦は、まさにそのタイプであった。
道子は言う。
「稼ぎがないんだから、もっと遠慮して使いなよ!」
俺は無言。
ひたすら低頭。
「はいはい」の連発。
ふと、こう思った。
(うちは逆だな…)
そして、
(夫婦というもののかたちは千差万別…)
その事も思った。
ぼんやりと夜空を見上げた。
田舎だけに星が綺麗で、その星のかたちもよく見ると千差万別。
(同じものは、何一つないのかもしれない…)
旅行帰りの夜は、ゆるやかに更けていった。
〜 終わり 〜