悲喜爛々39「義母」
1、初日
「春の部屋」を手早く更新しているので、既にご存知の事とは思うが、先週末、義母が熊本へ出てきた。
義母の言葉を借りるに、
「3回目だわさ」
との事だ。
前もって連絡を入れ、
「どこへ行きたい?」
義母に問うたところ、
「どこでもいいだわぁ、春ちゃんに会えれば」
との事だったので、接待に関する全てを道子に任せた。
道子が選んだ接待場所はハウステンボスである。
「ちょうどチューリップ祭りがやってるんだよぉー」
「こういうホテルは、おかぁが来てる時しか泊まれないからねー」
との事で、ハウステンボス内にある高級ホテルに泊まるのだという。
義母は3月6日に来た。
時刻は昼前だったと思う。
空港まで迎えに行き、それから美味いと評判の芋の天ぷら(西合志町)を買って平山温泉へと流れた。
今日一日はゆるりと温泉に浸かってもらい、ゆるりと酒でも飲んでもらうつもりであったが、「ゆるり」という時間の流れが義母の肌に合わないらしい。
「暑い、暑い、暑いだわぁ!」
そう言って、風呂は早めに出たというし、
「ビール飲んだら汗が噴き出て止まらないだわぁ!」
酒もそういう理由で飲まないのだという。
ゆえ、何だか忙しく平山温泉を後にする運びとなった。
それから、
「春ちゃんにオモチャを買ってあげるだわぁ!」
義母がそう言ってくれたため、俺の行き付けホームセンター「Mr.Max」へ流れた。
春は今月の17日で二歳になる。
その誕生日プレゼントを買ってくれるのだという。
義姉からもプレゼント代という事で受け取っているらしい。
何を買ってくれるのか運転席から聞き耳を立てていると、
「ジャングルジム付き滑り台と三輪車を買ってあげるだわぁ」
その声が聞こえてきた。
が…、家の主である富夫(実父)から、
「くれぐれも大きいものは買ってもらわんように。置き場所にも処分にも困るけん」
という命を受けてもいる。
それでジャングルジムが付いていない小さな滑り台を買ってもらう運びとなった。
また、三輪車は春の運動能力を見るに時期早々で、前に買ってもらっているミッフィーの車にも乗れないという状況なので、
「乗れるようになってから買ってください」
と、お願いした。
義母はちょっと頭にきたのであろう。
「親がいらないって言うんだったら買わないだわっ」
そう言っていたので、
「だったら、俺の焼酎を買ってください」
価値あるモノを買ってもらおうと横槍を入れてみたが、うちあってもくれなかった。
やはり、孫というものは婿とは違い特別な存在のようだ。
その夜…。
家で飯を食った後、義母と恵美子(実母)はラスベガスに関する談合を永延と繰り広げた。
ラスベガスに関する顛末は以前「道子の日記」に載せたが、簡単にもう一度説明すると、道子が懸賞で当てたラスベガス旅行に義母と恵美子が行く事になったという話である。
日は4月上旬と決定しているらしく、今回の談合でオプションツアーや待ち合わせ場所などの詳細を決めたいらしい。
義母の意気込みは凄まじいものがある。
分厚い旅行雑誌を買ってきているし、熟読されているのであろう、気になる部分にポストイットが付けられている。
これに対し、恵美子はパスポートを取ったばっかりで他は何もしていなかった。
ゆえ、義母が主導というかたちで談合が進められた。
義母はご存知の通り海外旅行のベテランである。
が…、それらの全てがツアー旅行で、今回のように自分で事を運ばねばならない旅行は初めてなのだという。
恵美子にしてみれば10年以上前にハワイに行ったきりで、今回が二度目の海外旅行という事になる。
二人とも外国語は喋れない。
恵美子においては標準語も喋れず、熊本弁オンリーである。
(片言で、短い単語ぐらいなら喋れるんだろう)
そう思い、二人の会話に耳を澄ましていると、カタカナが出るたびに口がもつれるという有様で、横文字の時点で体が拒絶反応を示すようであった。
ちなみに言っておくが、読んでいるものは長いカタカタではない。
三文字のカタカナ、例えば「シカゴ」、これを、
「し、し、し、し、シカ、ご?」
そういう風に読んでいるのだ。
重ねて言うが英語を読んでいるのではない。
カタカナを読んでこの状態なのだ。
(大丈夫か?)
そう思わずにはいられない。
また、恵美子は電車というものに乗れない。
二年ほど前、東京の浜松町で自動改札と格闘しているオバサンを目にした。
オバサンはキップを通さずに改札を通ろうとしてドアが閉まり、訝しげな顔で、
「なんね、これは?」
ぶつかってきたドアにそう言っていた。
自動改札というものを知らないのだ。
これが恵美子だった。
今でこそ自動改札というものを微かに知った恵美子だが、この恵美子が一人で熊本から羽田へ飛び、羽田から成田までは電車に乗らねばならないのだ。
日本を出る段階において、既に「大冒険」といえた。
(こりゃ大変だ…)
そう思いつつ、俺はいつの間にか眠ってしまった。
富夫も風呂から上がって二人のところへ顔を出したらしいが、すぐに出て行って眠った。
(この夜、義母と恵美子が何を決めたのか?)
それは本人以外の誰も知らぬが、多分、何も決まってないのだろうと思う。
二人のラスベガス。
その道のりは長く険しい。
2、二日目
3月7日であるが、この日の天候は雪であった。
が…、南国・熊本なのでそう強いものではなく、チラチラと、まさに「ちらつく」という感じの雪であった。
その中を俺達は恵美子、富夫の見送りを受け、ハウステンボス目指して出発した。
「義母がいるので高速を使っていい」
という道子の指示があったので、最寄の南関インターから高速に乗り、佐世保まで一気に走った。
途中、鳥栖ジャンクションから佐賀までは雪が降りやすいと有名な地域であるが、確かにそこだけは吹雪いており、山などは大福餅みたいに真っ白になっていた。
ご存知のように道子は雨女として有名である。
「お前、義母さんとセットになると雪を降らすんや?」
道子をからかったところ、
「まったくだよぉー、最悪ー」
最近では、不思議な力を道子も認めつつあるようだ。
ハウステンボスの天気は吹雪までいかないが雪模様であった。
海沿いのテーマパークだけに風も強い。
「ぎゃー、寒いー!」
義母などは絶叫のかたちで、その言葉を連発した。
俺から見るに、義母の気温的ストライクゾーンは極めて狭い。
エアコン環境で育った人はそういう体質になりやすいらしいが、義母の場合、田舎育ちであるため、それは違うであろう。
「では、何か?」
義母に聞けば、
「更年期障害だわぁ」
そう言うに違いない。
とにかくストライクゾーンが極めて狭い。
俺の観察によると、下は15℃、上は25℃、それ以外の気温だと義母は唸り始める。
この日の気温は7℃。
唸りを通り越して「叫び」になってもおかしくない気温だ。
それに猛烈な風が吹いているため、体感気温は更に下がっているであろう。
義母は風が吹くたびに「ギャー」と叫びながら、
「大人の私がこんなにも凍えているんだから」
と、春にジャンバーを3枚も着せた。
春は腕の関節が曲がらないくらいに丸くなったが、下半身は薄かったため、辛うじて歩く事はできた。
とりあえず、ぼちぼち観光した。
右にも左にも素晴らしい色のチューリップが咲いているのだが、そんなものを見る余裕はなかった。
なるべく部屋の中に入り、なるべく急ぎ足で歩いた。
ところで…。
義母は写真が好きである。
日本人は世界でも有名な写真好きであるが、その中でも義母はトップレベルではなかろうかと思われるほどによく撮る。
それに、これも日本人特有の撮り方らしいが文字を撮りたがる。
例えば「ハウステンボス」と書かれた何かがあれば、それを撮ろうとするのだ。
「そんなものを撮ってどうするんですか?」
義母に聞いてみると、
「どこに来たか分かるじゃない」
それが答えであった。
とりあえず、俺がカメラマンになり、義母が指定するポイントで撮りまくった。
義母が持ってきた使い捨てカメラは3個。
その一つが27枚撮りなので、81枚も熊本で撮った事になる。
「思い出の足跡に写真」が普通の写真であろうが、義母の写真は「思い出を写真で」、もしくは「写真がインデックスの思い出」、つまりは思い出と平行して写真があるのであろう。
「ハウステンボス」や「入国」という文字を写真で見、
(義母は何を思うのか…?)
俺には分からないが、義母には何か膨らむ(引き出される)ものがあるに違いない。
さて…。
この日、泊まる予定の高級ホテルはハウステンボスの最も奥にあり、ハウステンボスの中で二番目に高級なホテルであった。
6階建ての海に面したホテルで、さすがにロビーのつくりなどは、
「ゴージャス」
その一言に尽きる。
ちなみに、一番豪華なホテルは舟でホテルへ渡り、そこでチェックインをするという凝りようで、その中に置いてある何気ない絵や置き物も有名な芸術家が作った一級品なのだという。
が…、それで一人5000円も高くなる事を思えば、
「二番目でじゅうぶん」
道子の言葉は大いに頷けるものがある。
ていうか、ジャージに毛の生えたような恰好をした連中には二番目でも恐れ多いほどだ。
二番目も「義母がいなければ絶対に泊まらない」と断言できるレベルで、高級ホテルという部類に属す。
なので、部屋もまぁまぁ広く、高級感もちょっぴりはある。
俺個人の意見を述べさせてもらうなら、やはり温泉宿の方が良かったが、
「道子に任せる」
そう言った手前、文句もいえない。
荷物を部屋に置き、少しばかりまどろんだ後、飯を食いに出かけた。
ホテル内で食えばゴージャス感を味わえるのであろうが、いかんせんコース料理は前のホテルオークラ(悲喜爛々37を参照)で懲りている。
ゆえ、近くのレストランで食べた。
それからデブの音楽家・葉加瀬太郎がプロデュースしたという「光と音のショー」なるものを見に行った。
レーザービームだの花火だのが音楽(クラシック)に合わせて発射されるというショーで、なかなか良かった。
が…、野外ショーなので、ちょっと肌寒く、義母に至っては、
「さ、ぶ、いー!」
見るどころではないという感じだったようだ。
ショーといえば…。
この日、中国雑技団のショーを見たし、世界でも有名なソプラノ歌手のショーも見た。
春はソプラノ歌手が気に入ったらしく、しきりにビブラートの部分、
「ふぁぁぁぁぁ!」
ってのを連発し、大人にもそれを歌うよう求めた。
が…、義母と道子は基本的に歌が嫌いで、俺だけが何度も何度も、
「エーデルワァァァァァ…イス!」
と、歌ってあげるはめになった。
「やめてよぉ、恥ずかしい!」
道子はそう言って俺を止めたが、かといって自分が歌えないものだから、春のしつこい求めに、
「もうっ! 福ちゃん、歌ってあげて…」
結局は、そういう具合になったようだ。
さて…。
野外ショーの後、俺達の足取りは実に寂しい。
ホテルに帰り、テレビを見、飲みにも行っていない。
「久しぶりに二人で飲みに行くか?」
「いいねぇ」
道子と盛り上がってはみたが、風呂を出た後、テレビを見ていてたらアッという間に道子は寝てしまった。
また、義母と春は先に眠っており、俺は一人、買っていた日本酒とオランダビールを真っ暗な部屋で、ポッキーをツマミに飲む運びとなった。
3、三日目
この日…。
昨日の雪が嘘のような天気で、まさにピーカンと呼ぶに相応しい朝であった。
暖かいので義母の足取りも何となく軽い。
朝飯はバイキングだったのだが、足取りの軽い義母は手も速いらしく、色々なパンをバックに詰め込み、
「オヤツにするだわぁ」
そう言っていた。
恵美子もバイキングの時にパンを持って帰ったりするが、義母の堂々とした態度と比べると、
「風格が違う」
そういう感じで、
「堂々と詰めなきゃ、堂々と」
そう言いながらパンをナプキンで包み、それをバックに入れる「落ちついた挙動」には一分の隙も見当たらなかった。
それから園内を歩いて出国口まで向かった。
「バスで送ってやる」とホテルが言ってきたが、とんでもない。
昨日の分まで楽しまねばならない。
そもそもチューリップの色が昨日とはまるで違う。
灰色の空と違い、今日の空は青いのだ。
その青を反射し、キラキラ光る鮮やかなチューリップを思う存分楽しみながら出国口までのんびりと歩いた。
ところで…。
今回のこの書きものは「義母」というものを通じ、「孫」というものを考えてみたいという視点で義母の行動を追っている。
「義母が春を溺愛している」というところを書こうとしているわけではない。
「孫」というものを中心に、義母や恵美子を始めとする衛星がどのような動きを見せているのか、その事を考えてみたいのだ。
義母はハウステンボス内で次のような事を言っている。
「まったく、どこのジジもババも一緒だわ…、ねぇ」
これは「春の部屋」にも載せている顔の小さな子供を見た道子が、
「かわいー!」
そう言った時、隣にいた小顔の子のジジとババがさも嬉しそうに、
「カワイイですって、ありがとうございますぅー」
満面の笑顔で暴れ始めた事を言っている。
義母は春と小顔の子を比較し(それは親である俺もやったが)、それと合わせ、自分と目の前にいる老夫婦を比較したのであろう。
それから前の言葉を発したわけだが、自分を恥じたというわけではないようだ。
それよりも、
「負けられない」
という闘志を燃やしたのではなかろうか。
「いかに大量の愛情を孫にぶつけられるか」
その勝負である。
「孫」という演歌が大ヒットした事は記憶に新しい。
あれが流行っていた頃、埼玉の場末のスナックでは15分に一回「孫」が流れていた。
「いい歌ですなぁ」
「本当に」
老人達は酒に酔うわけでもなく、その歌に心底酔い、互いに孫自慢をしていた。
孫というものに、闘争心さえ生む「麻薬的な何か」が含まれているとしか思えない。
また、三日に二回は温泉へ行っている関係で、最近の俺は老人との接触が多いのだが、数日前、こんな愚痴も聞いた。
「いっちょん孫ば連れてこんけん、たまにゃぁ連れて来いって息子に言うたら、週末は向こう(母方)の実家に行きよるけん、盆暮れしか連れてこられんって言うとです。じゃあ、こっちから行こうと思って息子の家に行ったんばってん、向こうの親が来とってから、結局は抱けもせんで帰りました。腹んたって、腹んたってしょんなかです」
孫とはそういうものなのだ。
ジジ・ババを熱くする何かがある。
これは親からの視点では分かり辛い。
「愛情の競争」は親同士にもあろうが、そのレベル、敏感度が桁違いに違うからだ。
誤解しないで欲しいのは、義母の愛情量が多過ぎるというわけではない。
義母の愛情量はごくごく一般的なものだと思う。
ただ親として、なかなかそれと同じ目線になれないから、せめて観察し、それを知ろうとしているのである。
さて…。
ハウステンボスを出た一行は長崎を南下し、島原を目指した。
大村湾を右手に見ながら高速で諫早まで下り、それから島原半島へ向かう。
二時間弱で島原へ着いた。
武家屋敷の脇へ車を停め、それから中央に水路が流れる綺麗な道を歩き、島原城へ向かった。
以前、島原へ来た時はサルコイドーシスの影響で歩けない状態だったので、それと比べるなら天と地の差である。
ノリノリで歩いた。
義母だけが島原城に登り(俺と道子は昨年の夏に登ったので)、俺達は有明海を見ながら家族団らんの微笑ましい一時を過ごした。
昼食は午後2時くらいだったように思う。
島原城前の立派な定食屋で食べ、ここも義母におごってもらった。
春は義母にねだれば何でも買ってもらえるというのが分かってきたらしく、オモチャを見るたびに義母にねだっているようだった。
義母は春にねだられるたび、道子に問い、俺に問うた。
「それは持ってるけん、いらんですよ」
俺がそう言うと、義母はまたも寂しそうな顔をした。
「買ってあげたかったのに…」
その顔なのであろうが、どうせなら有益なものを買って欲しい。
買ってもらったそれが使われず、部屋の隅で転がっていたのでは、あまりにも寂し過ぎるではないか。
が…、この感覚の違いが子と孫の違いなのであろう。
無下にするのも悪いが、この差は如何し難いものがある。
島原からはフェリーで熊本へ渡った。
以前、長崎に住む濱崎の家から帰った時と同様に、凄まじい数のカモメが餌をねだるためフェリーを囲んだ。
義母と春は「ギャーギャー」言いながら煎餅をカモメに投げ、とてもとても楽しい時間を過ごしていたようだ。
エンジン音と波の音、それにカモメの鳴き声で、ほとんどの音が聞こえない世界で義母の声だけは何にも邪魔される事なく響いていた。
「凄い」
密かにではあるが、心底感心した。
熊本に着いてからは実に静かなドライブであった。
義母、春、道子という順番で寝息が聞こえ始め、それは山鹿に着くまで絶える事がなかった。
山鹿に着いたのは午後5時を30分ばかり回った時刻である。
居間で一息つきながら写真(デジカメ)の整理などをしていると、前会社同期であり、親族の臭いすらする和哉が来た。
前会社には5年に1回、リフレッシュ休暇というものがある。
5連休で、土日が引っ付くため最低9連休になる。
和哉はこの連休を用い、彼女であり俺の従姉妹である真理嬢とどこか旅行へ行こうとしたらしい。
が…、「忙しい」と断られ、悲しく一人で九州に帰って来たのだそうな。
和哉は妹の車を借りて熊本まで出てきたのだそうだが、律儀な事に真理嬢の実家に土産を渡してからこちらへ来たのだという。
多分、
(福山の家まで行っているのに、すぐ近くの真理宅へ顔を出さないのは何かと不都合な結果を呼びかねない…)
そう思っての事であろうが、
「実に念の入った事」
と、褒めねばならない。
ちなみに…。
夜には実弟の雅士も熊本市から出てきた。
「義理の兄貴と呼ぶ事になるかもしれない和哉さんが来るんじゃ、行かないわけにはいかんでしょう」
それが理由らしい。
夜飯では恵美子手製の豪勢な料理が食卓に並び、春の誕生日、その前祝いが行われた。
時間は春を中心に過ぎてゆく。
春が太陽で、そのそばに道子という大きな衛星があり、それからちょっとだけ離れて義母と恵美子が回っている。
二つの星はお互い遠慮をしながらクルクル回り、交互に春という中心に接触している。
富夫、俺、和哉、雅士、これら男星は己の道をひたすらに回り続けているのだが、前の二つ星だけが微妙に気をつかっているのが人間らしくて微笑ましく思われた。
その晩は12時くらいに寝た。
(和哉より早く眠らねば…)
と、焦って寝たのが良かった。
布団は俺、和哉、雅士の順で客間に敷いてあったのだが、雅士は和哉より後に寝たため眠れなかったのだという。
和哉の鼾が凄まじいのは周知の事実であるが、今回はそれに歯軋りがプラスされており、襖を隔てて隣で眠っている義母まで、
「和哉君の歯軋りで眠れなかっただわぁ」
そう呟いたほどだ。
ところで…。
この三日間で知った事であるが、義母は意外にも神経が細かいようだ。
自分の鼾が人に危害を及ぼす事が怖くて、
「この三日間、一度も深い眠りに落ちなかった」
のだと言う。
そういえば、ハウステンボスのホテルでも俺がトイレに行くたびに義母はムクッと起き上がっていた。
義母の普段の生活が豪快なだけに先入観をもって神経も太いと思っていたが、意外な一面を見た気がする。
そのくせ和哉は挙動が細かいくせに「寝た後の事は知った事か」と言わんばかりに色々な音を発する。
「人は見かけによらない」
まさにその事であろう。
4、四日目
日は3月9日となる。
義母の熊本滞在最終日である。
この日は実に忙しい日であった。
10時に家を出た和哉を含む一行(富夫と恵美子、それに雅士を除く)は、まず温泉へ向かった。
「狗奴国城」という七城町の温泉で、建物がモロに城のかたちをしていて、更に丘の上に建っているのでかなり目立つ。
そこで一時間ほど風呂に浸かり、それから同じ丘の上にある鞠智城という史跡公園へ行った。
ここは素晴らしく綺麗な公園で人も少なく、俺のオススメスポットなのであるが、飯を食い、外に出た時刻が午後1時。
午後2時には義母を空港へ運ばねばならなかったので、バタバタでその公園を後にした。
鞠智城公園から空港までは約40分。
その間に春は寝てしまい、しんみりした別れになるかと思いきや、
「起こさないでいいだわぁ」
サラリと別れる事になった。
義母からは午後7時に電話があった。
「春日部に着いた」という電話である。
午後2時に別れたから、義母の移動は5時間もかかった事になる。
ちょっと前までは、俺もそれだけの時間を費やして埼玉まで移動していたのだ。
それも「頻繁に」である。
思い出すだけで疲れた。
どうも田舎に住み始めると「人込み」というものを、
「疲れるもの」
そう思うようになるらしい。(道子も含め)
義母が帰った後…。
山鹿には「もの」が足跡として残っていた。
滑り台、新しい子供服、お菓子、オモチャ…、全て義母が買ってくれたものだ。
別れ際、
「5月にでも、また来て下さい」
そう言ったところ、
「そんなに来れないだわぁ」
義母が言ったこの言葉を、俺は「遠慮」と受け取った。
が…、よくよく考えるに、
「そう散財できない」
そういう意味だったのかもしれない。
「福ちゃんは無職だから」
笑いながらではあったが、時折そういう話が出た。
気を使い、金を使い、
(熊本へ出てくるという事は義母にとってどういう事なのか?)
俺と道子も、ちょっとは考えねばならないのであろう。
来月は恵美子と義母のラスベガス旅行。
そして、7月になれば道子と春が里帰り出産のために春日部ゆき。(予定では)
8月には春の妹か弟の誕生。(予定では)
義母には、これからもお世話になる。
(いずれは一切合切を福山家持ちで義母さんに遊んでもらわねば…)
そう思っているので、義母におかれては気長に待ってて欲しいと思う。
親子以上に似ているといわれる俺と義母。
これからも「薄い気遣い」で仲良くやってゆきたいものだ。
春は今日も元気に走り回っている。
〜 終わり 〜