16、名古屋へ

 

この日は坂道らしい坂道がない。

犬山から名古屋まで、広い平野であった。

敵は気温と車が吐き出す粉塵、それに人酔いである。

ゆるりと朝風呂に入り、犬山を午前八時に出発した俺は、名古屋を目指し、真っ直ぐ南へ歩いた。

何の特徴もない普通の都会道で、景色もよくない。

こういう時はひたすら歩くしかない。

休憩の頻度を抑えながらズンズンズンズン大股で歩き、いいペースで小牧市に入った。

今日も暑い。

水分だけはたっぷり補給しつつ、アイスだけは食わないよう自分自身を戒めた。

昨日、アイスを食ってしまったが最後、休憩の度に体がそれを欲するようになってしまったからである。

自分の体も子供と一緒、甘やかしてはいけないようだ。

さて…。

小牧市に入ってすぐのところに田県神社という立派な神社があった。

知っている神社ではなかったが、ご近所に愛されている風格があったため、ふらりと立ち寄ってみた。

そして、唖然とした。

そこは男の股間を祀り神にしている神社らしく、御神体は巨大でリアルな大木であった。

「何という積極的な神社だ!」

そういうものを御神体にしている神社を幾つか見た事があるが、これほどまでにリアル且つ大胆な御神体は見た事がない。

極めて精巧な作りであった。

また、その数もおびただしい。

巨大なソレを取り囲むように大小様々なソレが鎮座しており、石でできたものや象牙でできたものまである。

鐘までもソレの形で、何とソレの形をした饅頭まで売っているではないか。

「む…、むぅん…、こだわってる…」

まさにその事で、ここの関係者に話を聞いてみると、

「うちは子宝の神社、出生率の低下が嘆かれる昨今、うちほどありがたい神社はない」

なるほど、確かにありがたい神社である。

また、年一回、豊年祭りというものが催され、その時はソレを担いだ神輿が用意され、巫女さんは小型のソレを担いで練り歩くのだそうな。

(本当かよー?)

そう思ったが、ネットで調べてみると本当であった。(下、他人のページより引用)

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また、神社の隅に石碑があり、それに書いてある言葉に何ともいえない味があった。

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「玉さすり、賽銭いれて、珍となる」

馬鹿らしいが何とも愛嬌のある言葉で、つい百円も賽銭を投げ入れてしまった。

むろん、かけた願は道子の安産である。

さて…。

それから名古屋城までは、どこにも立ち寄っていない。

ひたすらひたすら南へ向かって歩き続け、途中、右手奥に小牧山があり、そこに小さな天守閣が見えたものの、

「都会化していて味はない」

地元通行人がそのように言っていたので素通りした。

今思えば立ち寄れば良かったとも思うが、後の祭りである。

小牧城は岐阜城の前に信長が拠点とした城である。

また、小牧山周辺は小牧・長久手の戦い、その主戦場でもあり、家康は小牧山に陣を張ったといわれている。

通行人が言うように激しく都会化しており、そこから当時の面影を見るのは難しいが、城を素通りというのは旅のテーマ上よろしくない話であった。

更に南へ下ると、今度は名古屋空港が右手に見えた。

ジャンボが超低空を飛ぶ様はド迫力で、休憩を兼ね、しばし眺めてしまった。

昼飯にはカレーと焼きそばのセットを食べた。

この昼飯の前、体がガクンと前のめりになり、一歩一歩が鉛のように重くなるスタミナ切れの症状が表れたため、なるべくスタミナがつくものを選んだのだ。

(今日も暑い…、異常気象だ…)

まさにその事で、バテバテであった。

股ズレも凄まじい方向へ向かっている。

岐阜で患部から血が流れ始めた事は前に書いたが、それから血が止まらず、今日も紫色の患部から血がにじみ出ている。

何だかスポコン漫画みたいになってきた。

「歩け! 歩くんだ、ジョー!」

空港を抜けると春日井市に入り、そこを抜けると名古屋市に入った。

空からとアスファルトから、太陽光線のサンドイッチを受け続けた俺の肌はこんがりと見事なまでに焼けており、京都で髪を切った時にできた白いラインも肌の色に溶け込んでいる。

名古屋という超大都会にありながら、

(なんだ? この黒いの?)

そういう目線を受けつつ、俺はひたすら歩いた。

名古屋城に着いたのは午後三時である。

犬山城の反省を踏まえ、かなり急いできたかいがあり、たっぷり一時間強、名古屋城を見学する事ができた。

名古屋城の隣では名古屋場所(相撲)の真っ最中で、受付前はごった返していたが城の中は空いており、のびのびと観光を楽しむ事ができた。

ただ、炎天の四十キロをハイペースで歩いたツケは大きく、体は悲鳴を上げているようだった。

特に股ズレの場所は血の涙を流し、猛烈に悶えている。

「痛い、痛い…」

股を広げたかっこうで観光を続けた。

さて…。

名古屋城であるが、日本三大名城の一つである。

熊本、姫路、名古屋がそれにあたり、名古屋城に関しては金のシャチホコで知られている。

名古屋城は関ヶ原の後、江戸幕府安泰のために建てられた城で、東海道の守りという役目を担っていたそうな。

築城には清正を始めとする多くの大名が加わっており、その規模はさすがに三大名城と呼ばれるだけあって巨大である。

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初代城主には家康の第九子・義直が入っており、それから二百五十年、名古屋城は尾張徳川家の居城として栄えている。

天守閣が焼失したのは昭和二十年で、第二次世界大戦の際、空襲を受けて炎上している。

城内には展示物が山のようにあり、その中に天守閣炎上の写真もあった。

なかなか見応えがあった。

最上階からの景色も良かった。

東京、大阪に次ぐ巨大都市だけあって見渡す限り建物が広がっており、緑が少ない。

「俺が歩いて来た道はどれだ?」

ごちゃ混ぜの景色からそれを確認していると、一人のおっさんが現れた。

「どっから来たの?」

歳は六十を超えていようか、坊主頭のおっさんで、迫力があった。

「熊本からです」

「ほー、熊本から! それで、どうだね、熊本城と比べて名古屋城は?」

「んー、石垣は熊本城の勝ちでしょうが、他はどっこいというところですかね」

「ふむふむ、なるほど、熊本城といえば武者返しか!」

「よく知ってますねぇ」

「わし、城が好きでねぇ、全国を見て回ってるのよ」

「そうですかー、それで、どこがお気に入りですか?」

「そうだねぇ、あんたの地元の熊本城もいいけど、わしは古びた城が好きでね、安土城なんか、たまらんねぇ」

「安土城ですか! つい先日、ここへ来る前に寄ってきましたよ!」

「あんた、何で来られたの?」

「徒歩です! 徒歩で昔の街道を歩きながら城に立ち寄ってきてるんです!」

「むほぉ! 若者って感じだのぉ! 目標はどこだい?」

「むろん、江戸城です!」

「うひょー!」

話を聞くに、坊主頭のおっさんは地元・名古屋に住んでいるらしく、月に一度は名古屋城に足を運ばねば気が済まないほど城好きらしい。

また、全国の城を二ヶ月に一回、見て回ってもいるらしい。

話は大いに弾み、

「小谷山城も登られたのか! あの脇のほうの崩れた石垣、たまらんかったろう?」

「そう、そう、苔むした石垣の一部がゴロンて転がっとるとがよかっですよ!」

「九州の名護屋城には行かれたか?」

「もちろんですよ! 秀吉の無念さがあれほど残っている城はなかですよ!」

「むほぉ! わしもそれがたまらんかったのよ!」

坊主のおっさんは俺にジュースと軽食を奢ってくれ、更に泊まる場所が天白区である事を告げると、

「送ってやる、送ってやる! わし、車で来てるから! それに通り道!」

断る俺の手をムンズと掴み、車に乗せ、そのまま走り出した。

俺は車に詳しくないので車名などはよく分からぬが、乗った車はトヨタの高級車で、実に静かな走りであった。

ちなみに、

「天白区のどこまで?」

坊主のおっさんに問われたが、具体的には俺もよく分かっていない。

この日、泊まる事になっているのは梢という女の彼氏宅。

その近くに着いたら電話をする運びになっていたのだ。

「とりあえず、その辺に下ろしてください」

天白区に近いであろう場所で車を下ろしてもらい、そこからは歩いた。

二キロほど歩いたところで、目印の温泉、その看板を発見した。

が…、その温泉に辿り着けなかったため、電話を入れ、迎えに来てもらった。

梢という女はとにかく頭がキレる女で、大学院を通り越し、現在、最終学歴ドクターに突入している。

学生時代はあんまり話した事がなく、正直に言ってしまえば小知恵の利く毒舌な女という印象しかない。

その梢嬢が、

「私の彼氏、名古屋に住んでるから泊まっていいよ」

なぜそんな事を言ってきたのか。

よく分からぬが、そういう運びで全く知らぬ梢の彼氏宅で世話になる事となった。

手土産はない。

あらかじめ手ぶらで訪れる事を宣言しており、

「後々、福山家に泊めてやる」

それを土産の代わりとした。

とりあえず、猛烈な汗の臭いが気になった。

送ってもらう車の中でも、

「うーん! 汗の臭いが凄い! 男って感じがするよ! すっぱい!」

おっさんにそう言われている。

個人的に嫌いな臭いではなかったが、梢嬢は曲がりなりにも女だから思いっきり嫌うに違いない。

が…、この臭いは服だけでなく、バックなどにも旅の証としてこびり付いているため、消しようがない。

隠す事なく梢嬢と出会い、

「臭うね」

そう言われてしまった。

とりあえず、見ず知らずの彼氏の家に「におい」の置き土産を残しては気の毒なので、バックを外へ出し、俺は近くの温泉へ行った。

梢嬢はどうした事か、温泉セットを用意していてくれ、何と寝巻きとしてジンベエまで(彼氏の)用意していてくれた。

もしかしたら、俺の手持ちの服は臭いという事を見越した上での配慮だったのかもしれぬが、面識のない彼氏の私物を堂々と俺に渡す梢の度胸には驚いた。

「そぎゃんせんでもよかばい!」

当然、断ったが、

「大丈夫、福山君が使った後、ちゃんと念入りに洗濯するから」

ズバリ、後処理はキチンとやり、彼氏に嫌な思いはさせないと約束してくれたので着用する事にした。

昔からキレのいい女であったが、それは変わっていないようだ。

温泉へは一時間ほど入ったろうか、いつもより石鹸を多めに使い、股ズレの患部を労わりながら念入りに体を洗った。

ちなみに、ここの温泉は温泉のようで温泉でなく、いわゆるスーパー銭湯と呼ばれるところのようだ。

普段、地元・山鹿の温泉に浸かり慣れているので、強烈なカルキ臭が気になったが、それよりも股ズレの痛みの方が何倍も脳に響いたため、次第にどうでも良くなった。

股ズレは歩いている時も辛いが風呂でも辛い。

二度も三度も辛い病気(?)であった。

風呂から上がると猛烈な臭いを放っている着衣をビニール袋に封印し、梢嬢が用意してくれたジンベエを来た。

俺が旅の間にやっている洗濯は水洗いのみで、洗剤も使わなければ脱水もしない。

洗面所でゴシゴシもみ洗いをし、それを干すだけで洗濯完了としていた。

ゆえ、梢嬢が貸してくれた着衣が放つ洗剤の臭いはどこか懐かしく、おふくろの臭いのように感じられた。

それから悪いとは思ったが、洗濯機を借り、久々に洗剤を入れて洗濯をした。

洗濯後、洗濯槽が俺っぽい臭いになっていないかチェックしたが、さすがに最近の洗剤はパワーが違う。

根こそぎ俺の成分を洗い流してしまったようである。

梢嬢は言う。

「彼氏が仕事から帰ってくるまでビールでも飲んでて。酒とつまみは用意してるから」

芯から痺れる言葉であった。

梢嬢に悪いと思った。

学生時代にもったイメージ、小知恵の利く毒舌な女、それを引きずったままこの接待を受けるわけにはいかないと思った。

正直に俺の持っていたイメージを告白し、今日そのイメージが崩れた事も声高らかに宣言した。

酒とつまみを貰った事でイメージがゴロリと変わるのも何やら現金でいやらしい感じはするが、人間とは得てしてそういうものだろう。

「悪かったな、梢嬢」

「いえいえ、ま、飲みなさい」

「おっと、なみなみ注いでくれるねぇ」

「私にも注いで」

昨晩の夜とは打って変わり、今晩は楽しい夜になりそうであった。

ちなみに…。

仕事から帰ってきた梢の彼氏はミスチルのボーカルが眠そうになった顔で、旅日記、その裏面には長々とこう書いてある。

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「男が女を変えたのか、時間が女を変えたのか、それとも俺のイメージが間違っていたのか。素晴らしいカップルに手厚い接待を受ける。なんとシメは名古屋名物・ひつまぶし。彼氏は言う、こいつといると気が楽だから付き合っている。二人はカップルというよりも、円熟期に入った夫婦のようであった」

 

 

17、三河をゆく

 

昨晩は午前一時まで飲んだ。

目覚めると、時計の針は午前六時を回ったところで、さすがに早起きの習慣がついているようだ。

旅日記を念入りに書き、梢嬢の手作り朝飯を食べ、午前八時に出発した。

今日から最終日までは(一部、脱線するが)東海道を歩く事になる。

言わずと知れた日本で最も有名な街道で、見所も多い。

梢嬢の彼氏宅を出ると真っ直ぐ南へ住宅街を歩き、十キロ弱歩くと鳴海という東海道の宿場町に出た。

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鳴海宿は日本橋(江戸)から数えて四十一番目の宿場町で、現在の有松駅周辺にあたる。

有松絞りという染物が宿場の名物で、国道一号と平行に走る細い道が旧東海道として整備してある。

地図日記にはこう書いてある。

「有松には味のある道がありまつ」

自分で書いたシャレを約半年後に見、クスリと笑ってしまった自分が悲しい。

さて…。

東海道というと「東海道五十三次」という言葉が有名だが、これは「東海道には五十三の宿場があります」という意味で、京都三条大橋と江戸日本橋の間にそれだけの宿場があるという意味である。

ヤジ・キタになったつもりで、東海道五十三次、その四十一番目から逆走の始まりであった。

ちなみに、現在の東海道は国道一号線である。

一号線は味のない道で、交通量も多く粉塵だらけなので、できる限り旧東海道を歩いてゆく事にする。

さて…。

見所の多い東海道で最初に現れたものが「桶狭間の古戦場」であった。

馬の足音を雨音が消してくれると判断した信長は、今川義元の陣へ奇襲をかけ、それが見事に成功。

信長の名を世に知らしめた有名な戦いの場である。

迷う事なく立ち寄り、ぐるりとその辺を一周した。

石碑が立つばかりでイメージは湧かなかったが、とりあえず信長が押し寄せて来た想定で、

「殿っ! 信長の軍勢がっ!」

「なにっ!」

「義元、討ち取ったり!」

「無念!」

勝手に寸劇を繰り広げてみた。

国道沿いではあるが人はおらず、誰もいないと思っての寸劇であった。

が…、

「ううう…、やられた…」

今川義元が断末魔の声をあげている時、

(あ!)

ベンチで寝ていたルンペンを発見した。

当然、気まずかったし恥ずかしかった。

目が合ったルンペンも気まずかったらしく、

「ふぁー、よいしょ」

普段は絶対に言わぬであろう変な声を上げ、不自然な動きで去っていった。

いらぬ気を使わせてしまったようである。

「人間というもの、一人の時は思いもよらぬ事をやる」

まさにその事で、周りを確認してからやるべきであった。

さて…。

それからは一号線と平行に走る旧東海道を延々と歩いた。

この辺り、地図日記には細かい出来事が幾つも書いてある。

「犬が飛び出してくる。かなりビックリ。冷や汗ダラダラ、心臓バクバク。情けない」

「ヤンキーが喧嘩をしていた。愛知に入って喧嘩の現場を幾つも見た」

「交番の前でおばさんを蹴っている若い男がいた。止めようと思ったが母子の関係らしく、何か諭すような言葉を女が男に向かって叫んでいたのでやめた」

「アピタというスーパーで休憩。店員に捕まっている子供を見た。万引きであろう」

既に忘れている事ばかりだが、ろくでもない事ばかり書いてあった。

この辺り、名古屋の隣・豊明市になるのだが、治安が悪いのだろうか。

豊明市の次は刈谷市、知立市と続く。

刈谷市に入ると一号線と平行に走っている旧道がなくなり、国道を歩かねばならなくなった。

国道は日除けもなければ車も多い。

最悪の環境であったが、そこを歩くより他はなく、ダラダラと歩いた。

適当に入ったラーメン屋も糞不味く、久しぶりに残してしまった。

いやぁな雰囲気が漂い始めた。

知立市に入った。

知立市からは国道を逸れるのであるが、ちょうどその分岐点のところで友人・中川太陽から電話があり、それに気を取られ、曲がらず真っ直ぐ歩いてしまった。

中川太陽は、今日一緒に泊まる予定の友人で、藤川駅で待ち合わせという事にしている。

藤川駅のある藤川は岡崎市の端っこにあたり、東海道宿場町の一つである。

現在、暑さと戦いながら歩いている知立市も宿場町の一つで、昔は「地鯉鮒」と書いていたようだ。

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この地鯉鮒の宿を越え、岡崎宿、藤川宿と続く。

とにかく、電話に夢中になり過ぎ、曲がるべきところで曲がれず、国道で知立の繁華街を通過した。

国道はすぐに逸れた。

旧東海道は国道の北を微妙に遠回りしながら走っており、すぐそれに乗った。

そこには東海道といえばの見事な松が点在しており、連続的に日陰があった。

この松並は家康が植えている。

東海道の整備に着手した家康は、よほど旅慣れた人だったらしく、旅の敵は日差しだという事をよく知っていたようだ。

立派な松並が現れては消え、また現れては消えた。

車社会が訪れる前は、この松並が延々と続いていたのだろう。

国道を逸れた旧街道は知立市を越えると安城市へ、そして次の岡崎市へ入るか入らないかのところで国道と合流した。

さすがに日本の第一線・東海道ともなると歩いている人がちらほら見受けられた。

その中に、超セクシーなギャルもいた。

神社で茶を飲んでいるとタンクトップ一枚のセクシーギャルが腰をふりふり現れ、

「こんにちわー、どこから来られたんですかー?」

何と、俺に声をかけてきたではないか。

「熊本からですたーい」

嬉しさ爆発、つい変な言葉で返してしまったが、寂しい旅路、ギャルに声をかけられる事は稀なので許して欲しい。

一リットルの茶を一気に飲み干し、ギャルと共に神社を出た。

ギャルは大学生で、京都から東京まで東海道制覇を目指して歩いているのだそうな。

ただ、彼氏が車で伴走しているらしく、味のない国道はそれに乗ってすっ飛ばしているらしい。

何か大学の研究だとも言っていた。

ギャルとは国道に合流したところで別れた。

ギャルは彼氏の車に飛び乗り、

「じゃ、頑張ってくださいね!」

そう言って、ブーンと去って行った。

ギャルの予定だと一週間で東海道を歩き切るらしい。

昔の人は平均二週間で歩いたそうな。

俺も後半脱線する事にはなっているが、だいたい二週間のペースで歩く事になっている。

「東海道の半分以上が国道なんで、そこは歩く価値がないんですよねー」

ギャルはそう言っており、確かに頷けない事もないのであるが、

「昔の距離間隔を掴みたい」

それが旅の目的の一つであり、ギャルの言う「歩く価値がない国道」を、俺はひたすら歩かねばならないのであった。

岡崎市に入るや国道を数キロ歩き、それから細い細い脇道に逸れ、また国道に戻り、矢作川を越えた。

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橋には、

「三河武士、誕生の地」

その碑があり、何となく家康の臭いがしてきた。

三河といえばの岡崎城下へ突入である。

忍耐強くて頑張り屋、それでいて超マジメ、日本人の礎を築いた徳川家はここから始まっている。

街は家康一色で、どこを見ても「三河武士」か「家康」という文字が飛び込んでくる。

その街の、国道沿いに岡崎城はあった。

今川義元の人質として、幼少期を他国で過ごした家康は義元が死ぬと同時に岡崎城へ帰ってき、岡崎城を拠点に天下統一を目指し始めた。

天下統一後は譜代の大名が岡崎城に置かれ、名古屋城と同じく東海道の要所を守る重要な役割を果たしたようだ。

岡崎城が取り壊されたのは明治六年から七年で、石垣と堀を残すのみとなったらしいが、昭和三十四年にほぼ元通りのかたちに復元されたらしい。

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天守閣や石垣は何ともコメントがしがたい小規模な造りで、これという特徴もなかった。

「家康、もしくは徳川家」

やはりそれが岡崎城のウリらしく、家康の銅像は立派で精巧、よくできており、至るところに葵の御紋が見られた。

その後であるが…。

二十分ほどで城の見学を終えると、資料館には立ち寄らず、急ぎ城を後にした。

友人の太陽と藤川駅で待ち合わせしている事は前に書いたが、その約束の時間が五時で、岡崎城へ着いたのが四時だったからだ。

太陽は電車で藤川駅まで来て、明日は俺と一緒に歩いてくれるらしい。

藤川駅までは、ざっと見積もって八キロはあった。

「急げ、急げ!」

という事で、早足で国道を歩いた。

夕方間近という事で、日差しも弱まってきている。

早足に早足を重ねて歩いた。

途中、道子から電話があった。

立ち止まらず、その姿勢を保ちながら電話に出た。

が…、それは聞き捨てならぬ話で、歩きながら聞ける話ではなかった。

「今日、産婦人科に行ったらねぇ、早めに産まれるかもしれないって言われちゃった。薬をもらって出ないようにしてはいるけど、ポンッて出るかもしれない。その時は旅を中断して帰って来てね」

「馬鹿言うなよー! 出そうになったら股ば閉じれ!」

「無理だよー!」

この日は七月の十七日、第二子が生まれる予定日は八月八日で、俺が東京に到着するのは七月末。

じゅうぶん間に合う予定であったが、こればかりは予定通りにいかないようであった。

とりあえず、

(産まれても旅はやめない! やり遂げる!)

道子からはブーイングであろうが、そのように決め、

(出産ってウンコみたいなもんだろー! 出そうになったら我慢しろよー!)

男ならでは考えを展開させつつ足の速度を上げた。

待ち合わせの五時を迎えた時点で、俺は藤川駅の五キロ手前にいた。

「悪い、太陽! 猛ダッシュで行くけん!」

一報を入れ、更にスピードを上げた。

が…、それが良くなかったようで、急に強烈な眩暈と吐き気を覚えた。

やはり、人間にはペースというものがあり、それを急激に変える事は良くないようだ。

これは日常生活にもいえる事で、旅というものは無言であるが色々な事を教えてくれる。

結局、藤川駅に着いたのは午後六時であった。

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太陽には「喫茶店か何かに入っててくれ」と言っていたのであるが、そんなものはおろか、コンビニも個人商店もない寂れた駅前であった。

久々に会う太陽は痩せており(元々、痩せている奴だが)、角張った顔が更に角張って見えた。

太陽は俺に会うや、

「こやー(怖い)! 真っ黒でサングラス、ラッツアンドスターじゃにゃー!」

俺の事をそう評してくれた。

この夏、サングラスがなかったら俺は完全に盲目になっていたであろう。

それほど日差しが強かったし、その後もサングラスは欠かせないアイテムとなり、俺の日焼けは目の周りだけが白くなるという逆パンダ状態になってゆく。

「飯は七時からだったろ。間に合わんけん、タクシーで行くぞ」

太陽はそう言うと駅前にタクシーを呼びつけ、

「心配すんな。タクシー代は俺が出してやる」

そう言って元々広々としている鼻の穴を更に広げ、ニヤリと笑った。

「お前は無職でフラフラの男だけん、俺が出さにゃしょうがにゃーじゃにゃー」

その一言は余計であったが、甘える事にした。

タクシーは藤川駅を出ると、山の方へ山の方へ、かなりの坂を登ってゆき、二十分ほどで目的の宿に到着した。

今日の宿は桑谷山荘という国民宿舎である。

山のてっぺんにあり、三河湾を一望できる素晴らしいロケーションであった。

「太陽、今日は飲むぞ」

「おう!」

返事に力が感じられた。

風呂に入り、それから豪勢な料理を前に冷たいビールで乾杯した。

太陽はやる気満々であった。

が…、ビールを二杯ほど飲むと目線が定まらなくなり、なんと八時過ぎに、

「福山ー、もー寝るばーい」

そのような事を言い始めた。

その時、太陽はよほど酔っていたのだろう。

飯の後、部屋で日本酒を飲んだのだが、立ち上がるたびに電灯へ頭をぶつけた。

その数、計八回。

「なんで、そぎゃん弱くなったんや?」

その問いに、

「日頃まったく飲まんごつなったけんね」

そう答えてくれている。

地図日記にはこう書いてある。

「太陽、九時に就寝。俺は一人で酒を飲む。太陽の話、コロコロ変わるので突っ込みどころ満載。仕事がおもしろいと言っていたかと思えば、その数分後、仕事がつまらないと言う。彼女が欲しいと言っていたかと思えば、いらないとも言う。太陽の頭を開いて、どういうつくりになっているか見てみたい」

また、俺の「旅の証」を見た「太陽の反応」を書いてもいる。

「このバックが部屋にあったら臭くて寝れん、外に出せと言っていた太陽だが、隣でぐっすり眠っている。また、股ズレの患部を見せた瞬間、直立不動で無言になる。その後、ちょいと時間を置き、すげぇねと呟く。今回の旅そのものに関しては、お前、馬鹿よねぇを連発。だが、そういう旅をしたいそうで、俺も馬鹿になって飛び出したいと言っていたが、既に馬鹿なので後は飛び出すだけだと思う」

ちなみに…。

この晩、俺が飲んだビール四杯、太陽の奢りであった。

「よかて、よかて、気にすんな! ふらふらで無職のお前に払わせるわけにはいかんじゃにゃー! ふらふらで無職、妻子持ちのお前に独身の俺が払わんでどうする!」

熊本の男というのは気のいい奴が多い。

だが、一言も二言も多いような気がする。

十七日目の夜は、そうして静かに更けていった。

 

 

18-1、太陽とゆく

 

まとまった時間を人と歩くのは久しぶりであった。

この長い旅の初日、恵美子と歩いた以来であろうか。

宿の人が駅まで送ってくれるという話だったので、麓を走る名鉄線、その本宿駅まで送ってもらい、そこから出発した。

時刻は午前十時。

遅い出発である。

が…、本日の移動距離は二十キロちょい、いつもの半分。

東海道の宿場でいうと、御油、吉田を越えればよい。

余裕であった。

お日様の隠れ具合もよく、真っ白な雲の奥で弱々しい光を放っている。

「太陽さん、歩くには最高の日やねぇ」

「日頃の行いがええけんねぇ」

名鉄と平行して走っている国道一号線を、名電長沢駅付近まで歩き、そこからは旧道を歩いた。

くっちゃべりながら歩いていると、時間はあっという間に過ぎてゆき、あっという間に赤坂の宿場に着いた。

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赤坂宿は五十三次に数えられない小さな宿場であるが、橋本屋という昔ながらの旅籠が残っているし、ちょっとした東海道資料館もある。

その、ちょっとした資料館で休憩する事にした。

太陽は「足がいちゃー(痛い)」を連発しながら甘いジュースを自販機で買い、それを一気に飲み干すと、今度は、

「ウンコしちゃー」

そう言って便所へ駆け込んだ。

便所から出てきたと思ったら、リュックに入れていた菓子を食べ、それで喉が渇いたのであろう、またジュースを飲んだ。

(忙しい奴…)

まさにその事で、その後も太陽は休憩の度に甘いジュースを飲み、何度も便所へ駆け込んだ。

地図日記にはこう書いてある。

「呆れた。太陽は休憩のたびにウンコをし、茶でなくジュースを飲んだ。ジュースの銘柄はファンタで、歩く時に炭酸は控えたほうがいいと忠告したのだが、体がファンタを求めているらしく、我慢できないと言っていた。足が痛いを連発するのも困ったもので、たった二十キロで百回以上それを言った」

味のある赤坂宿を越えると、次に現れるのは五十三次に数えられている御油の宿場である。

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御油といえば松並が有名で、長い東海道にあって「松並の状態が最も良い」と言われているのがここらしい。

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確かに、巨大な松が数百メートルに渡って濃い密度で続いており、なかなか見応えがあった。

太陽は豊橋在住なので、当然この松並を見た事があるだろうと思っていたのだが、歴史には興味がないらしく、御油が宿場町だという事さえ知らなかったようだ。

「勉強になるばい。ばってん足いちゃー」

太陽は根性こそないが、体力はある。

実家は筆舌に尽くし難い田舎にあり、小中学校の通学路は登山道であった。

また、ガリガリに痩せているものだから、長距離は鬼のように速い。

が…、前述のように根性なしで、更に飽きっぽい性格であった。

御油を越えると、「足いちゃー」に「だりー」がプラスされ、口からは唾液が固まったものであろう、白い泡みたいなものを吹き出し始めた。

顔も赤くなってきている。

カニみたいな奴であった。

一号線に合流したところで昼飯を食い、それから一号線と平行に走る旧街道を歩いた。

旧街道は交通量こそ少ないが、歩道がなく、太陽と並んで歩く事は危険であった。

太陽の後ろに付き、無言で歩いていると、

「ブッ!」

前方から香りの暑中見舞いが届けられた。

(休憩のたびに便所へ駆け込んでいるのに、なぜこうもファンキーな臭いが出せるのか?)

疑問でしょうがなかったが、それが太陽の太陽たるゆえんであろう。

とりあえず無視していたら、悲しそうな目で振り向き、

「何か言えよ」

やはり、無視されると恥ずかしいようだ。

これは屁だけでなく、シャレを言った後も同様で、何が辛いって無視されるのが一番辛い。

(シャレを言ったって事に気付いてるだろうか? 気付いてて無視してるのだろうか? あれ? 何だか俺、恥ずかしくなってきたぞ?)

太陽もこういう心境であったに違いない。

豊川市を抜け、小坂井町を抜け、川を渡ったところで豊橋に入った。

太陽は足のマメが潰れたらしく、「足いちゃー、だりー」に加え、

「まごいちゃー(とても痛い)」

そうも言い始めた。

俺も旅の最初はマメが潰れ、その度に悶えたものである。

が…、今では同じところが何度も潰れ、ガチガチに固まっている。

太陽の悶えは俺の初日の悶えでもあった。

目的地である豊橋市役所に着いたのは午後三時くらいであろうか。

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この場所に名古屋、岡崎に続く東海道の守り城、吉田城がある。

天守閣が復元されているわけでもなく、現在は城跡を活かした公園となっているが、なかなかどうして立派なつくりであった。

また、城の背後を守るかのように豊川が流れている。

悠々とした見事な流れで、

「写真ば撮るけん、お前も入ってくれ」

カメラを向けたところ、落下防止の低い壁に跨り、「フォー!」と叫んでくれた。

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意味はよく分からないが、その辺が太陽らしさであろう。

さて…。

吉田城跡でたっぷり一時間を過ごした二人は、その後、豊橋駅へ向かい、一駅離れた二川まで電車で移動した。

話を聞くと、二川駅の近くに車を置いているらしく、それを取りにゆくらしい。

太陽は言う。

「まずは銭湯に行くばい。臭くてどうしようもにゃー」

車で銭湯へ行き、それから今日飲む事になっている松井という友人宅へ行こうという話であった。

車に乗り込み、太陽の住む社員寮へ足を運び、それから銭湯へ行った。

太陽の寮で驚いたのは、その使っている枕が学生時代と同じもので、たぶん、それは洗濯された事がないのであろう。

元が何色なのか見当もつかない色になっており、

「どうやったら、こんな色になるんや?」

聞いてみると、

「俺の頭から出ている油の色た」

凄い答えが返ってきた。

昔から変な野郎であったが、その髪に関していえばゴキブリみたいなもので、絶えず油を噴き出しているようだ。(その量が普通でない)

そういえば、太陽の髪はいつも黒光りしている。

色を落とそうと専用の薬剤を買ってはきたものの、全く効かなかったという話も聞いた事がある。

とめどなく流るる油が髪をコーティングしているのだろう。

とにかく凄い色で、そこに清潔感は微塵も感じられなかった。

が…、身の回りは汚くとも、車内だけは綺麗にしていたいという思いから、後部座席にファブリーズ(消臭剤)を常備しているらしい。

俺が助手席に乗り込んだ瞬間、太陽はそれを持ち出し、俺、リュック、そして自分にファブリーズを吹きかけた。

が…、俺達二人の強烈な臭いの前には無力だったようで、悲しく後部座席へ引っ込んでいった。

銭湯へ入り、小奇麗な状態で友人の松井宅へ行ったのは午後六時を回っていたろう。

松井は太陽と同様、熊本出身豊橋在住の級友で、もう一人、豊橋には長嶺という級友もいる。

なぜ、広い日本にあって三人もの級友が豊橋に吸い寄せられたのか、それはよく分からぬが、たまたま配属された場所が豊橋だったらしい。

この晩は級友三人と、もう一人、熊本は八代出身の宮田綾という女と飲む事になっている。

つまり、熊本県民五人が愛知県の豊橋で集う事になる。

(熊本県民、連帯感あるなぁ…)

心底そう思うし、熊本県民を外から見た場合、

(これほど地元愛が強い県民は他になかろう)

そうも思う。

県外で熊本県民に会うと、それが北の山鹿、南の人吉であったとしても他人の気がせず、妙に酒が進む。

山鹿からすれば、ちょいと峠を越えれば福岡県の八女や大牟田なのだが、やはり八女よりも熊本県のどこかしらの方が親近感を覚える。

「熊本」という言葉に敏感で、それに安らぎを覚えるのが熊本県民なのかもしれない。

さて…。

一昨日、昨日、今日、その熊本県民の温かい好意で楽しい夜が続いている俺だが、今日はその度合が最も強いように思われる。

なぜなら、明日は「休息の日」という設定で、豊橋でゆるりとする事になっているからだ。

(明日の事は気にしなくていい! 気合入れて飲むぞー!)

まさにその事で、俺は芯から燃えていた。

が…、級友達はそう燃えていなかったようだ。

市街へゆく電車の中、俺だけが逸る気持ちを押さえきれず仁王立ちを続けていたのに、二人は座席が空くや滑り込み、

「ふぃー」

枯れた声を上げた。

そこに若さは微塵も感じられなかった。

(若さとは何か?)

今晩は、その事を問う飲み会になりそうであった。

 

 

18-2、若さとは

 

ほんの半年前の事だが、ろくに憶えていない。

手元にある地図日記がなければ、この晩の記憶は跡形もなく風化した事であろう。

日記には、こう書いてある。

「豊橋市街の居酒屋で飲む。ネオンの遊びを楽しもうと企むも、メンバーに女がいるため断念。その後、カラオケへ。狂ったように暴れ、かなり疲労する。カラオケから長さんと宮田綾の友達が合流。人数は六人に。三次会は松井の家へ。終わりは午前四時。疲れた」

これを見ていて何となく思い出してきた。

そうそう、豊橋のネオン街を素通りし、どこかの居酒屋で酒を飲んだ。

この時は俺、太陽、松井、その三人だったが、途中から宮田綾が合流。

「はい、これ土産ね」

渡されたものが約束していた股ズレ用の薬であった。

宮田綾は現役の看護婦で、ちょっとばかし薬や病気には詳しく、

「これ、老人の床ずれやオムツかぶれに効く薬だけど、股ズレにも効くと思うから」

そう言うと、俺に股ズレの患部を見せるよう求めてきた。

さすがに宮田綾、「股の付け根を見せろ」とは、なかなか二十代女性の言えるセリフではない。

更に、こやつは俺よりも年下である。

少々ためらいながらも病院に行ったつもりで(居酒屋ではあるが)股の付け根の赤紫に染まった部分を見せると、

「大丈夫、この薬で効くだらぁ」

ダラリとした三河弁で太鼓判を押してくれた。

これにて人数が四人になった。

この四人で何を話したか、よく憶えていないし、地図日記にも書いていない。

ただ、これはボンヤリとだが、太陽の駄目出しをしたような気がする。

太陽の事を気に入った女がいたらしい。

太陽も満更ではなく、一緒にデートへ行ったそうだが、そのデートが原因で、

「やっぱ、太陽君とは合わない」

仲介役の松井に「気に入った」と言ってきた女の方から断りの電話があったらしい。

「なぜ?」

突き詰めると、太陽は言いたくなさそうであったが、仲介役の松井は言いたそうであった。

「言えよー、どうせ忘れるけんー」

そう言うと、松井が簡単に折れてくれた。

なんと、

「太陽君、車の運転が下手なんだもん」

女は松井にそう言ったらしい。

笑った。

これは笑った。

忘れるつもりであったが、忘れられるものではなかった。

男と女の関係で断る理由というのは無限大だが、これほど点を突く理由は他にあるまい。

昔、俺は「付いていけない」という理由でふられまくったが、これはエリアが広い。

ゆえ、漠然としており、取り方は色々。

「うるせー! 俺とお前が合わんかったっちゅー事だろがー!」

開き直る事ができたが、「車の運転が下手」は狭過ぎて開き直る余地がない。

グーで殴られるのと針で刺される違いであろう。

年下のくせいに敬語を使わない宮田綾の言葉も良かった。

宮田綾と太陽は豊橋組では極めて仲がいいらしく、二人で出かけたりしているらしい。

それを踏まえての言葉であるが、

「太陽君は頼りないのがいかんだらぁ」

この駄目出しは凄い。

太陽にしてみれば重いハンマーをズドンと脳天に振り下ろされた感じであろう。

見るに見かねた俺が、

「太陽は確かに頼りなくて運転が下手ばってん、それは世慣れていない、自由気まま、個性的という事で、その事は太陽の良さじゃにゃーかね?」

そう言うと、

「その度合がねぇ」

と、宮田綾。

結局はそれが問題らしい。

当の太陽は酒のツマミにされながら、

「うるしゃー、うるしゃー! あー、うるしゃー!」

それを連発していたように記憶している。

さて…。

少々の酒を入れた一行は、場をカラオケボックスに移した。

宮田綾が車で来ていて酒を飲んでいなかったため、それに乗って移動した。

地図日記に「狂ったように暴れ、かなり疲労する」と書いているのを見ると、憶えてはいないが、かなり暴れたようである。

ちなみに、暴れるといっても狂暴になるわけではない。

静止する瞬間が一秒もないよう、絶えずダンスをするというだけである。

そういえば、学生時代から太陽がいると場はそういう方向に向かいがちであった。

太陽には場を興奮させる、何らかの力が宿っているのではなかろうか。

それに言い知れぬ期待感もある。

(太陽だから何かやってくれるだろう…)

そう思わせる何かがあり、期待していると本当に何かをやってくれる。(太陽にしてみれば無意識のうちにであろうが)

このやってくれた事を書けば枚挙にいとまがないので書かないが、そういう魅力が太陽にはある。

なぜゆえ、太陽をこうも持ち上げたのかというと、前に書いた事とのバランスを取っているわけだが、どちらも事実で、書けば書くほど更に書きたくなるので、この辺でやめておく。

さて…、カラオケであるが、俺は個人的に好きでない。

人の歌を聞いても面白い事は稀で、そのほとんどがつまらないし、何よりも会話が聞き取り辛い。

(飲み会の中心は会話だ)

そう考えている俺としては、盛り上がっている時の歌は邪魔なだけで、盛り下がった時に場繋ぎとして登場するくらいでいいと思っている。

飲む時に歌といえば、赤道に近い国の人や沖縄の人、つまり南の人であるが、彼らと飲むとすぐに歌に突入するため、飲み会が終わった後、合いの手を入れた記憶と激しい疲労しか残っていない。

(それでいいのか?)

そう思うが、それは好みや習慣の問題であろう。

が…、それは現在の思いであって、学生時代、コンパに行きまくっていた頃は必ずといっていいほど二次会はカラオケに行っていた。

人が歌っていて話が聞き取れない中にあっても、それに負けじと大声で会話をしていたものだ。

今となっては大声で会話を続けるなどという事は体力の消耗が激しく、敬遠しがちであるが、あの頃は惜しむ事なく踊り続けていたように思う。

「溢れ出る熱をどう処理するか?」

それが若い俺達の課題であった。

喋り続け、踊り続け、叫び続ける。

溢れ出る熱量を小出しに出すのではなく、一気に放出し、そしてパタリと寝る。

「電池が切れるまで動く」という単純な構造だったように思う。

ちなみに今は小出しにする術を覚え、だらだらと付き合えるようになってきた。

だが、その一瞬に、熱量の全てを注ぎ込む術は忘れ果てたのではなかろうか。

もうすぐ三歳になる娘を見ていると、ペース配分などは考えず、今そこにある熱量を使い切ろうと全力を尽くしている。

そして、それがなくなり次第、パタリと寝る。

大人になるにつれ、

「それじゃいかん」

人間はそう考えるようになり、長距離ランナーを目指し始めるのではなかろうか。

摩擦を極力減らし、無駄なもの省く術を覚えていき、長い時間に耐えられる仕組を体が覚えてゆく。

それは熱量そのものが年と共に減ってゆく事を見越した「自然の摂理」ではなかろうか。

若さとは何か。

若さとは「熱の濁流」を指すように思う。

配分を考えない熱の濁流を見た時、人は昔を思い出し、

(若いなぁ)

そう思うに違いない。

また、その方向がその人にとって無駄であればあるほど、

「若い! 若いよ、きみー!」

人に与える何かしらも大きいのではないか。

老練な熱の放出は確かに確実で長時間続くが、濁流は全てを飲み込む破壊力がある。

その事を考えた豊橋の晩であった。

さて…。

飲み会の会場はカラオケボックスから松井の家へ移っている。

その移動、俺は友人のバイク、その後部座席に跨り、夜の風になった。

歌う歌は尾崎豊。

気持ちが良かった。

顔は三十代と言われがちな昨今だが、気持ちは十五の夜であった。

飲み会は午前四時まで続いた。

旅の間は早寝早起きが続いていたため非常に眠かったが、無理をして起き続け、口数こそ減ったものの俺にしては粘ったほうだと思う。

酒量も減り、話す話題も馬鹿げたものから的を得たものに変わってゆき、勢いも何となく衰え始めた二十七歳。

それにはそれの味もあるが、少しばかり悲しく思われた。

ちなみに…。

この翌日、太陽と松井は重い二日酔いになる。

熱量の放出配分を間違えてしまったようだが、たまにはこういう時があってもいいではないか。

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「飲みすぎた…」

「俺も…」

「駄目だ…、動けん…」

「俺も…」

だらしないとは思うが、こいつら、ちょっぴり若くもある。

皆が皆、同じように落ち着いてゆく様を楽しむのも、この時期の楽しみ方、その一つかもしれない。

松井は今年三月に結婚する。

 

 

19、だらりの一日

 

俺を案内してくれると言っていた太陽が二日酔いで動けなくなってしまった事は前章で書いた。

案内人がこれでは遠出するわけにもいかない。

とりあえず、道子に「何か美味しいものを送る」と約束していたため、近くの大型スーパーへゆき、そこから菓子を送った。

それから二川本陣という東海道に関する資料館へゆき、太陽オススメの洋食屋で昼飯を食べ、銭湯でゆるりと湯に浸かると夕方になっていた。

「だらりの一日」は本当に時間の経過が早い。

ちなみに、立ち寄ったと書いている二川本陣資料館は資料充実、それでいて分かり易く、なかなか良かった。

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錦絵と共に宿場の名物、本陣や旅籠の軒数、どこの宿場がどれだけの規模だったのか、それらが詳しく説明してあり、東海道に関する資料館の中では最も充実していたのではなかろうか。

さて…。

太陽の二日酔いは夕方まで続いた。

昼飯を食べれば良くなるだろうと思っていたが良くならず、風呂を出るまで調子が悪かったようだ。

また、宿を提供してくれている松井も頑固な二日酔いに苦しんでいるらしく、松井宅に戻った時点で、まだ二日酔いであった。

一緒に飲んだ宮田綾も体調を崩してグロッキーという話で、級友の長さんも仕事へ行ったらしいが吐き気と戦いながらの一日だったらしい。

豊橋勢、全滅であった。

この日の夜飯に関しては、その辺の定食屋で済まそうという案も出たが、それでは俺が納得できず、結局、居酒屋へ流れている。

長さんを抜かした昨日と同じメンバーで行ったのだが、飲んだ人間は俺一人。

「かんぱーい!」

杯を掲げるも、誰も彼もが烏龍茶、太陽に至ってはオレンジジュースである。

これでは盛り上がろうに盛り上がれず、この晩は早々と寝る運びになる。

ちなみに…。

この二日間でリュックや小物、ほぼ全てのものを徹底的に洗濯した。

リュックにこべり付いていた大量の塩(汗が結晶したもの)も綺麗サッパリなくなり、太陽に「殺人的」とまで言わしめたリュックの臭いもすっかり落ちてしまっている。

リュックの臭いに関しては、どれくらいまで臭くなるか挑戦したくもあったが、

「洗ったほうがいい! 洗え!」

松井と太陽に詰め寄られ、洗うハメになってしまった。

そうそう…。

最初の状態に戻ったといえば、豊橋に着いた時点で三キロ減っていた体重も、この二日間ですっかり元通りになってしまった。

京都での数日といい、豊橋での数日といい、歩かない日にリセットされる感があり、節目のようなものを感じないでもない。

(よし! 明日からは第三部のスタートだ!)

京都までを第一部とすれば、この豊橋までが第二部、これから先が最後の第三部となろう。

(よーし!)

燃えていると、二日酔いで出勤していった長さんから電話があった。

「明日は仕事が休みだけん、福山と一緒に歩こかと思って」

歩くなら一人より二人がいい。

二つ返事で了解した。

「じゃ、明日の朝八時半に太陽の会社前集合という事で」

「了解」

今日も暑かったが、明日も暑いらしい。

テレビがその事を教えてくれており、週間天気予報は全て晴れの予報であった。

明日一緒に歩く長さんは持久力がない。

ちょっと走っただけで視界が白くなるという話で、どこまで付いてこれるかは疑問であったが、

「行けるとこまで行く」

そう言ってくれた事は、孤独を恐れる旅人にとって何よりも嬉しい一言であった。

ちなみにその晩、変な夢を見た。

太陽が尻を出しながら「ひかえおろー!」と言いながら現れ、俺は言われた通りに土下座している。

すると、もう一人の太陽がモワンと現れ、

「こちらにおわすお方をどなたと心得る! 恐れ多くも先の副将軍!」

そう言ってニヤリとした。

すると、三人目の太陽が土下座している俺の横に現れ、尻の穴を間近で見せてきた。

「なんやー! なんすっとやー!」

もがく俺を押さえつけながら、三人の太陽は耳元でこう囁いた。

「見た肛門…、むふふふ…」

水戸黄門とかけたダジャレであった。

結局、突っ込む暇もなく目覚めてしまったのであるが、こんなにもくだらない夢は初めてで、ある意味、怖い夢よりタチが悪かった。

(なぜ、こんな夢を見たのか…?)

よく分からぬが、十九日の旅日記にはその事だけが詳細に書かれているのであった。

 

 

20、長さんとゆく

 

午前八時前には東海道の二川宿にいた。

太陽の職場がここにあり、出勤のついでに送ってもらったのだ。

大きな工場に吸い込まれてゆく太陽を見送ると、交通量の多い国道から一歩裏手に入り、長さんに電話をかけた。

「電話をもらったら五分でゆく」

昨日の晩、長さんはそう言っていたのであるが、何度コールを鳴らしても出てくれない。

長さんは、夜は強いが朝は弱い。

学生時代から長さんという人間を知っているだけに、うつ伏せで、腰を浮かして寝ている姿が鮮明に浮かび、

「やれやれ…」

一人でスタートする事にした。

この辺りから旧東海道は国道から逸れてゆく。

国道は南東にゆくが、旧東海道は東へゆく。

新幹線の線路をくぐると細い道が現れ、その道は工場の隙間を縫うように東へ進む。

味はないが交通量の少ない歩きやすい道であった。

体の調子もいい。

昨日、何もせずダラダラした効果であろう。

体重は重くなったが、動く上では軽くなったような気がした。

最大の敵は天気である。

この日も朝から強い日差しが照り付けており、日中は三十度を優に超えるらしい。

汗を拭き拭き歩いていると着信履歴を見た長さんから電話があった。

やはり寝ていたらしく、今から自転車で追いかけるという。

道を説明し、電話を切り、のんびり歩いていると、自転車を立ちこぎしている骨太の青年男性が現れた。

それが長さんで、電話を切ってから、ものの十数分である。

長さんは俺を見つけると自転車を田んぼの側溝に投げ入れ、

「さ、行こう!」

そう言いながら俺の横に並び、普通に歩き始めた。

長さんにとっては何気ない一連の動作であったろうが、俺は側溝に投げ入れられた自転車が気になった。

「ゴミと間違えられて捨てられんかい?」

問うてみると、

「大丈夫、後で拾いにいくけん」

今日の夕方には車で拾いに行くという話で、今までも側溝に投げ置いて行った事があるという。

むろん、自転車には鍵がついていない。

自転車の種類はマウンテンバイクで、普通に置いてあれば盗まれそうな感じを受けるが、側溝に横たわっているため、まず盗む人間はいないだろう。

鍵をつけても盗まれる時代にあって、この乗り捨て方は、

(ある意味、安全かもしれない…)

そう思われた。

粗大ゴミと間違われ、回収業者に持っていかれる可能性こそあるが…。

さて…。

豊橋を出ると、そこは静岡県である。

市町村名でいうと湖西市というところで、浜名湖の西側という意味であろう。

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その湖西市を真っ直ぐ真っ直ぐ東へ進み、浜名湖とぶつかる手前、鷲津駅前から南東に進路を変える。

今日は東海道五十三次でいうと、三つの宿場を越えねばならない。

二川宿から出発し、湖西市に入ったところで白須賀の宿を越えた。

この次の宿場が新居の宿で、関所が置かれていた宿場である。

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新居の宿を越えると舞坂の宿、それを越えれば今日の目的地・浜松の宿である。

新居宿の関所は、日本で唯一、現存する関所らしい。

関所の横には当然のように博物館があり、むろん、有料であった。

せっかくなので立ち寄り、年配のツアー客にもまれながら展示物に目を通した。

ここの関所は女が通れなかったらしい。

関所には「改め女」という男女の判定をする役人がいて、女っぽい男がいたりすると股間を触ってチェックしたそうな。

女の旅人は迂回路として浜名湖北側を通ったらしい。

こちらは峠のきつい山道で追いはぎなども多かったそうだが、その道を通るより他はなく、その道は今でも姫街道と呼ばれている。

ちなみに…。

関所のそばに紀伊国屋という旅籠(現在の高級旅館)があって、現在はその中を観光できるようになっている。

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座敷も広くて休憩するには打ってつけで、長い時間そこに居座ってしまった。

外観も味があり、何か錦絵の世界を思わせるものがあった。

二階の縁側みたいなところから、

「そこの旦那、寄って行きなさいよー」

一昔前まで、甘い誘惑が放たれていたに違いない。

試しに長さんに誘惑してもらったが、まったく寄る気にはならなかった。

さて…。

新居町を越えると、右手に弁天島が見えてきた。

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その先に広々とした海が見える。

左手は大きな浜名湖である。

海は神戸で見て以来、久々の再会となる。

周りに障害物が何もなく、海風が心地よい。

自転車で旅行をしていた時は辟易していた強風も、徒歩の暑い日となれば何よりのご馳走。

「この風、たまらんねぇ」

「浜松周辺は風が強いで有名だけんね」

長さんからそういう情報を得た。

そう言われれば、今日は本当にいい風が吹いている。

「ところで長さん、どこまで歩くつもりね?」

「昼飯ば食うまで歩こうかね」

「そぎゃん言わんで浜松まで歩きなっせ」

「よかー! 俺の足元ば見てん!」

この日、長さんの足元はサンダルであった。

長距離を歩くのにサンダルはないと思うが、長さんの夏は基本的にサンダルらしい。

そのサンダルの上に乗っかっている足が悲鳴を上げているそうな。

ここまで歩いた距離は二十キロ強。

さすがにサンダル慣れした長さんも親指の付け根が痛くなってきたようだ。

時刻は正午を優に回っている。

定食屋を探しながら歩いた。

狙いは観光客が嫌いそうな古い定食屋であったが、そういう店がなく、明らかに観光客を意識したレストランばかりで、

「こういうところはいかん」

選り好み激しく歩いていると、急に店が途絶えた。

弁天島駅までは色々あったのだが、国道から逸れるや民家だけの静かな景色になった。

腹も減り、喉も渇いている。

「仕方がない」

という事で、旧東海道から現東海道の国道に戻ったが、交通量が多いだけで飯を食うところもコンビニもない。

国道は真っ直ぐな直線で周辺に障害物がなく、数キロ先まで見渡せる。

その視界に何もなかった。

「どぎゃんする?」

「歩くしかにゃーじゃにゃー」

男二人は無言で延々と歩いた。

長さんにしてみれば、飯食ってサッサと帰るつもりであったろうが、腹ペコの干乾びた状態で一時間も歩く運びとなってしまった。

午後一時を回った頃、小さな小料理屋と出会った。

高級そうなたたずまいではあったが、選んでいる余裕はない。

迷う事なく入ると、千円弱で素晴らしいボリュームのランチが出た。

とにかく喉が渇いている。

そして、目の前には級友がいる。

「しょうがない、飲むか」

「いいねぇ」

生ビールを大ジョッキで頼み、一気に飲み干した。

「美味い! 美味過ぎる!」

「カァーッ!」

美味い酒は五臓六腑に染み渡るというが、カラカラの状態に冷えたビールを入れると、細胞の隅々にまで冷たいそれが染み渡っていくような気がする。

「たまらんねぇ、長さん」

「本当にねぇ、福さん」

旅の途中である事を忘れ、腰を据えて飲み始めた。

「女将さん! もう一つ頂戴!」

冷たいのをもう一杯、そしてもう一杯、飲み干した。

さすがに体が落ちついてくると旅の事を考え出す余裕が生まれてくる。

「いかん、いかん! 目的地まで十キロ以上あるけんね!」

もう一杯飲みたいのをグッと押さえた。

ちなみに…。

この店の払いは長さんであった。

「割り勘にするばーい」

すがり付く俺に、

「気にせんでよか。俺は独身貴族だけん」

長さんは最高の笑顔でそう言ってくれた。

「独身貴族」

それは既婚男性から見れば言い知れぬ余韻をもった言葉で、

(確かに…、あの頃は貰った金を使い切ってた…)

社会人になってすぐの頃、貰った給料は必ず使いきり、同期に借金をしながら過ごしていた事を思い出した。

「そこに金がある、ならば使い切らねば失礼だ」

その独身貴族の溌剌とした思いは、今の俺にはない。

同時に、給与明細をもらう喜びもなくなった。

明細に書かれた金がどういう風に使われて、どういう流れを辿るのか、稼いだ当人は全く知らないのだ。

「俺は独身貴族だけん」

長さんが何気なく発した言葉は本当に余韻のある言葉で、いつまでも俺の中に響いた。

長さんは、この小料理屋を出た後、

「ちょっと寄らせて」

と、国道沿いの工具専門店に立ち寄った。

(旅の途中に重いもんは買わんだろ…)

そう思っていた俺だったが、長さんは一万円分くらい工具を買った。

長さんはリュックがない。

むろん、それは俺の荷物となったわけだが、後先考えぬ買い物っぷりにも独身貴族の生き様が窺えた。

さて…。

長さんとの別れも近付いてきたようである。

高塚という駅が左に見え、この次の駅は浜松である。

つまり、これで帰らねば長さんは俺と一緒に浜松まで歩かねばならないという事になる。

「帰っとだろ?」

長さんをチラリ見てみると、

「うーん…」

悩んでいる。

長さんと別れた後、俺は東京まで一人で歩かねばならない。

横浜で級友の家に泊まる事になっているが、こやつは稀に見る根性なしのため、一緒に歩く事はなかろう。

明日からは孤独であった。

(できるなら今日の晩飯も俺に付き合って欲しい!)

それが正直な思いで、寂しがり屋のために酒というものはあるのだ。

長さんは高塚駅を素通りした。

「よし! 歩こう!」

持久力がないと思われていた長さんであったが、昼飯を食い、かなり復活したらしい。

「最後まで付き合ってやろう」

筋肉質な体に薄く乗っかっている脂肪を揺らしながら俺の前を力強く歩いてくれた。

実に楽しい一日であった。

ていうか、人と一緒に歩くと二倍近い感覚で時間が過ぎてゆく。

高塚駅から浜松城まで、電車でゆけば一駅なのだが、歩くとかなりの距離がある。

道も都会の道で面白味がないため、

「まだこんだけしか歩いてないんやー」

一人で歩いたとすれば、そういう具合になっていただろう。

浜松城には午後四時に着いた。

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平日、更には閉園間際という事もあり天守閣はガラガラで、ゆっくり楽しむ事ができた。

浜松城は言わずと知れた家康築城の城で、代々譜代の大名が入っている。

家康が武田信玄に大敗した三方原の戦い、そのキーにもなった城で、つくりは平凡だが、ここの城主で出世した人物が多いため、出世城と呼ばれているらしい。

三方原の戦いで散々にやられた家康は這う這うの態で城へ逃げ戻り、その惨めな姿を絵師に描かせた。

そして、慢心しそうになった時、その絵を見て戒めとしたそうな。

家康はこうも言っている。

「私は信玄公に教わった」

今川でなく織田でもなく、武田と言い切ったあたり、三方原の負け戦が家康にとって如何に大きかったか、その事で、浜松城が出世城と呼ばれるのも頷ける話であった。

その後であるが…。

浜松城から一キロほど歩くと浜松駅に着く。

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その栄えた駅前で長さんと酒を飲んだ。

今度は昼でないから後の事を気にする事なく思いっきり飲める。

しこたま飲み、シメのラーメンまで食ってから宿へ向かった。

長さんは夕方から何か用事があると言っていたが、帰り着いたのは午後十時を過ぎていたろう。

付き合わせて悪いとは思うが、四十キロ弱も歩く機会はなかろうから、いい思い出となったに違いない。

この日の俺の宿泊先は丸心旅館という価格重視の宿で、一泊素泊まり四千円。

どんな宿だったかはよく覚えていないし、分かるはずもない。

フラフラの状態で受付をし、部屋に案内されるや荷物を置いて風呂へ。

綺麗になって部屋に戻るやバタンキュー。

起きたら朝になっており、翌日はキーをフロントに置いて出発。

宿の印象など残るはずがなかった。

地図日記にはこう書いてある。

「孤独な旅の前、いい一日を過ごした。長さんは太陽みたいに文句は言わぬが何かブツブツ言いながら歩くタイプで、その内容が暗くて愚痴っぽくて理屈っぽいから笑えた。つぶやきシローみたいな漫談をやればウケると思う」

そう、長さんは絶えず何かを喋っていた。

それも小声でブツブツ言っているため、聞こえそうで聞こえない、その具合が絶妙であった。

裏面にこのような事も書いてあった。

「側溝で一晩を過ごした自転車、不憫に思う」

その自転車の安否は今も分からない。

これから東京まで、孤独な一人旅が一週間も続く。

 

 

21、遠州をゆく

 

「最も暑い」といえば岐阜の道である。

あの時は十三時間くらい歩き、最高気温は四十度を超えた。

それに次ぐ日が、この遠州路である。

午前六時、定刻に目覚めた俺は何気なくテレビを点けた。

天気予報がやっており、こう言っていた。

「暑い日が続いておりますが、今日は特に暑い日となるでしょう」

(こりゃいかん!)

すぐに荷物をまとめ、午前七時には宿を飛び出した。

「特に暑い」というからには四十度近くまで上がるのだろう。

今年の夏は異常気象で、三十度以上の真夏日は当たり前、三十五度を越える日が大半、四十度を超える日もある。

観測で四十度という事は、アスファルトの上では五十度近くに達する。

とてもとても歩ける環境ではなく、岐阜の時は歩く時間より休憩の時間が長いという状態に陥った。

朝の涼しいうちに距離を稼いでおかねばならなかった。

が…、こういった超真夏日は朝の涼しさすらない。

午前七時の時点で三十度を越えており、空には雲一つない。

(朝飯ば食っとかんと倒れる…)

という事で、数分歩いたところでレストランに入り、朝からコッテリ、ハンバーグセットを食べた。

今日の道も東海道である。

宿場でゆくと、この浜松の宿を出て、見附、袋井、掛川、日坂と四つの宿場を越え、今日の目的地は金谷宿である。

距離は長い。

過去最高の四十五キロ以上を歩かねばならない。

単純に時速四キロ強で歩き続けたとして十時間以上かかる。

更に、掛川までは平地であるが、それから先は峠を越えねばならない。

日坂峠という有名な峠で、そこに転がっている夜泣き石はあまりにも有名である。

予定を立てた時点で、

(この日は辛いな…)

そう思っていたのであるが、まさかそこに超猛暑が加わるとは思ってもいなかった。

レストランを出ると、浜松の国道を東へ進んだ。

浜松の終わりを告げる天竜川の手前で国道を逸れ、交通量の少ない旧東海道を天竜川にぶつかるまで歩いた。

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大粒の汗がとめどなく噴出し、アッという間に服が濡れた。

スポーツ用の乾きやすい服を着てはいるが、それでは追いつかぬほどに汗が出ているらしい。

天竜川のほとりで休憩し、シャツを搾ってみると溜まった汗が滴り落ちた。

(数キロ歩いてこれじゃどうしようもない…)

そう思ったが、暑くなるのはこれからである。

(ちんたら歩くわけにはいかん…)

「休みたい」と唸っている体に鞭を打ち、先を急いだ。

さて…。

渡ろうとしている天竜川であるが、見事な大河であった。

後に、これも有名な大河・大井川を渡るが、それとは比較にならぬほど見事な水量で、川幅も広い。

架かっている橋の長さも地図でみると九百メートルくらいある。

天竜川橋の北側に新天竜川橋というのがかかっており、新しい方が国道用である。

朝の通勤ラッシュと重なってか、どちらの橋も凄まじい渋滞で、俺は古いほうの橋を渡ったのであるが、細い橋で歩道がなく、ノロノロ走る車の脇を、身を細めながら歩いた。

道は橋を渡ると国道に合流する。

それから袋井市までは国道を歩き続けた。

豊田町を抜けるとジュビロで有名な磐田市に入り、それを抜けると袋井市に入る。

何の面白味もない国道を黙々と歩き、休憩のたびに一リットルの水分を摂った。

袋井市に入ってからは旧道を歩くのであるが、暑さのため意識が朦朧としており、自販機で水分を購入する際、うっかりホットを買ってしまった。

外からも中からも熱を補給、アスファルトも焼肉の鉄板のように熱くなっており、身の回りは熱だらけであった。

ただ、東海道だけに松の並木だけはちらほらと出てくれる。

多少、遠回りになっても暑いよりはマシなので、道の右側か左側か、日陰の多い方を選びながら歩いた。

ちなみに、昼飯は袋井のラーメン屋で食べた。

岐阜の時もそうだったが、暑過ぎる時というのは食べたくても喉を通らず、水ばかりを飲んで店を出る事になった。

さて…。

袋井の旧東海道はかなり長いこと続く。

よく整備された松並で、歩く人のために休憩所まである。

そこに座って茶を飲んでいると、パンフレットが置いてある事に気付いた。

見ると、東海道五十三次ど真ん中・袋井宿と書いてある。

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京都三条大橋から数えても江戸日本橋から数えても二十七番目、ど真ん中だという。

(ふむ、ふむ…)

色々なパンフレットが置いてあったので、それを寝転がって読んでいると、

「あ!」

とある事を思い出した。

「今日の宿、予約してない!」

その事であった。

今日泊まる事になっている金谷は小さな町で、泊まるところが少ない。

出発前に幾つか電話をしたのだが、繋がらなかったり値段が高かったりで、結局、予約をせずに家を出てしまったのだ。

(旅の途中に予約を入れればよかろ…)

そう思っての後回しであったが、当日まで忘れていた。

「いかん、いかん」

すぐさま控えている三つの電話番号を携帯から引っ張り出し、順番に電話をかけた。

前に繋がらなかったところは今回も繋がらなかった。

たぶん、やっていないのだろう。

もう一つも「当日の予約は受け付けていない」と断られた。

(野宿になりそうやねぇ)

久々に公園のベンチで夜を明かす事になりそうであった。

野宿がいいとは思わぬが、嫌だとも思わない。

「こういう時代だから野宿はやめて」

道子はそう言っていたが、慣れているぶんだけ警戒心も薄い。

自転車旅行の時、テントを張るのが面倒臭くて何度もベンチで寝たし、酔っ払って帰るのが面倒臭くなり、草むらで寝た事もある。

「たまには野宿もよかろ…」

開き直って三回目の電話をかけた。

「素泊まりなら構いませんよ」

なんと、吉川屋という古い民宿が受け入れてくれるというではないか。

値段を聞いてみると四千円だという。

安くもないが高くもない。

「暗くなる前には着くと思います」

予約を入れ、先を急いだ。

さて…。

東海道は小さな蛇行を続けながら東へ進む。

気温は正午を回ると予想通り四十度近くまで上がってきた。

視界は揺れ、手や足に力が入らなくなってきた。

これは岐阜の時と同じ症状で、この次に意識が朦朧としてくる。

岐阜の時は気が付くとトンチンカンな方向へ進んでいたものだが、今回は看板が読めなくなっていたようだ。

(あ…、うどん屋がある…)

うどん屋の看板を見付けた俺は、ふらり、吸い込まれるようにその店へ入った。

昼飯はラーメン屋に入ったのだが喉を通らず、

(素うどんなら食える)

そう思っての入店である。

ガラリ、ドアを開けたところにカウンターがあった。

(立ち食いか…?)

一分一秒でも座りたかった俺は、立ち食いの様相に面食らったものであるが、ふと、周りを見渡すと、どうも飲食店らしくない。

それに店主がキョトンとしている。

「すんません、素うどんを」

(何か違う?)

そう感じながら注文する俺に、

「は?」

困り果てた顔をする店主。

(違う! ここは何かが違う!)

俺が大きな間違いをしている事は既に気付いた。

だが、何を間違えているかが分からない。

注意深く周りを見渡した。

そして、

「あっ!」

考えられぬ失敗に気付いた。

壁に「ふとん」という字が見えたのだ。

(ここは「うどん屋」でなく、「ふとん屋」だー!)

意識が朦朧とした俺は「ふとん」と書かれた看板を「うどん」と勘違いしてしまったのである。

事情を説明し、平謝りすると、

「いやぁ、うちも長い事やってるけど、うどんを注文されたのは初めてだよぉ」

店主はそう言いながら、冷たい麦茶を出してくれた。

これを書きながら思うが、

(こんな事ってあるのかよー?)

数ヶ月前の出来事が、体験した本人でさえ疑わしく思われる。

きっと読んでる人に至っては、

(嘘だ! 絶対に嘘!)

間違いなくそう思っているだろうが、恒温動物の人間にも使用温度というものがあり、それを超えたり下回ったりすると、とんでもない誤動作をする事があるようだ。

いい事例として、昭和初期の八甲田山事件がある。

軍部が寒中歩行を強行したというものだが、冷たい川を温泉だと思って飛び込み、何人もの人が死んでいる。

また、中学時代、体育祭の練習中に熱中症で倒れた友人がこうも言っていた。

「カツ丼が見えた。それを取ろうとしたら倒れた」

人間とはそういうものなのだ。

うどん屋の店主は本当にいい人で、意味の分からぬ事を言いながら現れた俺を、ただの変人だとは思わず、たっぷり一リットルの麦茶を飲ませてくれ、

「こういう日に歩きゃ誰でも気がふれる。ほら、これ持っていきな」

「ひえひえ」という保冷剤をくれ、俺が見えなくなるまで外に出て見送ってくれた。

地図日記にはこう書いてある。

「ふとん屋の店主、その優しさに感動。いつまでも忘れないだろう」

数ヵ月後、完璧に忘れていた自分が悲しい。

さて…。

掛川に入ってからは国道を歩いていたものだが、ちょいと脇へゆくと掛川城がある事に気付いた。

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言わずと知れた東海道の守り城で、立ち寄らぬわけにはいかない。

が…、体がこういう状態なので博物館などに立ち寄っても頭に入らぬ事は間違いない。

城をグルリと一周し、日陰でたっぷり休憩をとった後、一円も使わず掛川城を後にした。

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この日…。

これから峠を越えねばならないのであるが、この時点で、いつもの水代の倍近い金を使っている。

それだけ飲んだという事で、それだけ暑いという事であろう。

股ズレも凄い事になってきている。

豊橋で休憩した事により股からの血は止まっていたのであるが、股だけに、また血が出始めた。

それに、今日一日で範囲が広がっており、なんと脇からも血が流れ始めたではないか。

豊橋で現役看護婦から貰った床ずれ用の薬を塗ろうとも思うが、汗だくの体に軟膏を塗りたくはない。

掛川を越えてからの地図日記には股ズレの事しか書いてなく、「この世の地獄」とまで書いてある。

もはや過去の事で忘れ果ててしまっているが、よほど痛かったのであろう。

水道のある休憩場所では全身に水をぶっかけた。

むろん、股も洗い、脇も洗い、風呂に入るような格好で水を浴びるわけだから、服はビショビショになってしまうが、熱風が吹き付けてくるため、すぐに乾いた。

国道は渋滞していたようだが、それと平行に走る旧道は車も少なく、ただひたすら股ズレと戦いながら歩いた。

日坂峠に差し掛かると、道は俺専用のものとなった。

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何やら国道を新しく作っているところらしく、旧道は車が入れないようになっており、歩行者専用の道となっている。

その道を、この峠の名物・夜泣石までひたすら登った。

夜泣石から先、国道は長いトンネルに差し掛かる。

が…、俺の歩いている旧東海道にトンネルなどあるはずがなく、更に登らねばならない。

登り登って頂上でスポーツ飲料を一気飲みし、それから一気に下ると今日の目的地・金谷である。

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凄まじい傾斜の下りで、足がガクガクなりながら一気に位置エネルギーを放出した。

昼に予約を入れた宿の場所が分からなかったので、金谷駅前の交番で場所を聞き、先を急いだ。

辺りは薄暗くなってきている。

時計は午後七時を回っていた。

宿は新金谷と呼ばれるところにあり、金谷駅から徒歩で二十分ほどかかった。

大柄なおばちゃんが出迎えてくれ、

「風呂に入りぃ、風呂に入りぃ」

真っ先に風呂へ通された。

よほど臭かったようだ。

それもそのはず、今日摂った水分は地図日記で見るに十五リットル。

ションベンはこの旅の間、出ても一日一回、それも朝なので、全て汗として放出されていると考えていいだろう。

「しみるぅー!」

股ズレ、脇ズレの痛みに悶絶しながら体を洗い、頭を洗った。

ちなみに、昨日の晩は長さんと飲んだため、洗濯をしていない。

袋に密封してた昨日の汚物、その臭いを嗅いでみると失神しそうになった。

「これはいかん」

という事で、風呂からあがるやコインランドリーへゆき、今日の分も含め、一気に洗濯した。

この時の俺の格好は浴衣(宿で用意されていたもの)、足元は下駄である。

かなり粋であったが、ここは観光地でもないし、温泉地でもない。

お茶が自慢の小さな町・金谷である。

地味な風景の中、俺は浮きに浮いた。

民の視線を痛いほどに浴びつつ大型スーパーで発泡酒を買い、洗濯が終わるまで、待合室で二リットル飲んだ。

つまみはスルメと魚肉ソーセージ。

こんな俺を防犯カメラで見ているコインランドリーの管理者はどう思ったであろうか。

旅の恥はかき捨てというが、

(二十代として、あれはいかん!)

今これを書きながら、ちょっと反省するのであった。

洗濯を終え、宿に戻る途中、赤提灯を発見した。

体が勝手に動いてゆき、気が付くと暖簾をくぐっていた。

小さな居酒屋でカウンターとテーブルが一つ、従業員は捻り鉢巻のオヤジだけである。

「らっしゃい!」

「い」を抜かすところがいい。

入店と同時に気に入った。

熱いオシボリで顔を拭き、

「冷やを一つ。それとツマミは適当に」

流れるように頼んでみると、

「あいよ!」

オヤジ、何かを作りつつ、ニヤリとしてこう言った。

「下駄を鳴らして現れて、さらりと冷やを飲むあたり、あんた、粋だねぇ」

「うふふふ、ありがとうございます」

「むふふふ、そうだよなぁ、昔の男ってのは、くだらねぇけど、注文の仕方や煙草の吸い方、粋な振る舞いに誰もがこだわったもんだよ」

「ニッポンの美しい絵ですよねぇ」

「むふふふ」

金谷の夜は心地よく、それはこの居酒屋の閉店まで続いた。

宿に戻ったのは午前一時。

一刻も早く眠りたいが、鍵が閉まっていた。

「すいませーん、客の福山でーす、開けてもらえませんかー」

粋なままには終われない金谷の晩であった。

明日は越すに越せない大井川を越え、府中の宿(静岡市)までゆく。

 

 

22、府中へ

 

目覚めたのは午前六時であったが、出発は八時であった。

酒が残っているのもあったし、股ズレ、脇ズレ対策にも時間を食った。

豊橋で看護婦の友人からもらった床ずれ用の薬をたっぷりと患部に塗り込む作業である。

(効いてくれよ、効かんと困る)

汗が出るのはいいが、血が出るのは困る。

昨日はシャツもパンツも真っ赤に染まってしまい、その痛さは並大抵のものではなかった。

白い軟膏に思いを託し、念入りに塗った。

テレビが今日も猛暑だと言っている。

だが、昨日ほどではないらしい。

「はぁ…」

軟膏を塗り終え、スッポンポンの状態で横になり、出発までの時間をだらだらと過ごした。

さて…。

泊まった民宿は、ほぼ大井川沿いにある。

宿を出て五分も歩かぬうちに大井川に着いた。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越せない大井川」

この歌で有名な大井川であるが、一昔前までは橋がなく、旅人は人の背に乗って渡っていたらしい。

ゆえ、水量が増した時は渡る事ができず、前のような歌ができたものだと思われる。

また、足止めを食らった旅人が大井川沿いの宿場に金を落としてゆくものだから、大井川を挟む金谷宿と島田宿はかなり賑わっていたらしい。

今、二つの宿場にその面影を見る事はできないが、それを通じて現代の新幹線や高速道路を呼び込む町、その愚かさを知る事はできる。

呼び込む側からすれば確かに便利になるし、公共事業の大盤振舞に一瞬だけ町が潤うかもしれない。

潤うかもしれないが、それができた事により、その町は単なる通過地点になってしまい、どんどん寂れてゆく。

声高らかに高速道路や新幹線を求め、結局はその事により町が死ぬ。

大井川沿いの宿場はその事の顕著な事例のように思え、自然な闘争のかたちというのは、地元に縁もゆかりもない者が橋や道の建設を推し進め、その抵抗勢力として地元があるように思えるのだが、どうもそれが逆になっているように思えてならない。

そもそも、「村に高速道路が通ったら観光客が数十パーセントアップする」とかいう記事・新聞をよく見かけるが、大都会と大都会を結ぶスピードラインが高速や新幹線で、急ぐからそれに乗るわけであって、ゆるり途中で降りるくらいなら、そんなものには乗らないであろう。

さて…。

宿場は昔を語ってくれないが、大井川は少しだけ昔を語ってくれている。

橋の上から見るに大井川の水量は極めて乏しい。

広い広い川幅のほんのちょびっとしか水が流れていない。

旅人は宿場に住む渡し人の背に乗って大井川を越えていたのだから、今も昔もこんな水量なのであろう。

が…、川幅が広いという事は水量が増えた時にはそれだけの水が流れるという事だから、その差は激しく、橋を架けてもすぐに流され、次第に架けなくなったという流れが何となく分かる。

ちなみに、この大井川を少しばかり下流にゆくと、蓮華橋という木製の橋が架かっている。

日本最長の木製橋らしいが、東海道から外れなければならなかった事や腹が減っていた事もあり、立ち寄らなかった。

今思えばもったいないが、この時は前日の事もあったし、ちょっとでも体力を温存しようと思っていたのであろう。

とりあえず、何も食わずに出発したので朝飯を食わねばならなかった。

大井川を越えると東海道は少しだけ賑やかな島田宿に到達する。

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ここで朝飯を食うつもりであったがどこも開いておらず、スーッと抜けて国道一号線に合流した。

国道沿いにも店はなく、島田市を抜け藤枝市に入ってから蕎麦屋を見付けた。

午前十時前、遅い朝飯であった。

この日も歩くのは旧東海道。

国道と合流・離別を繰り返しながら進んでゆく。

この日は金谷宿を出発し、既に越えた島田宿、それから藤枝宿、岡部宿、丸子宿、そして目的地の府中宿へと続く。

藤枝市に入ってからは国道を逸れ、松並の細い道を歩く。

天候も…、まぁ、いい方だろう。

朝の天気予報で言っていた通り、猛暑だが昨日ほどではない。

それに股ズレの薬が効いているような気がする。

少々ネバネバした感じはあるものの大した痛みはなく、順調な滑り出しである。

藤枝市に入って一時間ほど歩くと、その中心街・藤枝宿に着いた。

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この藤枝宿、素晴らしい宿場で現在も宿場の様相を呈している。

街道沿いが商店街になっており、その長さは何と二キロ弱、熊本でいう上通り、下通り、新市街を足したものに近い。

ただ、その店の一つ一つが小さな店で熟年層を狙ったものが多い事から若者は少ない。

また、東海道の宿場であるから神社仏閣も多く、東京でいうなら巣鴨みたいな感じであろう。

ハッキリ言って俺向きであった。

旅の途中である事を忘れ、団子屋でみたらし団子を数本頼み、老人に混じって茶を飲んだ。

団子屋を出、数分歩くと試飲ができる酒屋を見付けた。

今度はそこでじっくり試飲をやりながら、これまた熟年層と談笑。

また少し歩くと今度は味のある寺があり、そこで観光を兼ねて休憩。

また歩くと漬物屋があって、そこで試食をポリポリ。

なかなか先に進まなかった。

午前のうちに距離を稼いでおかねばならなかったが、ついつい楽しい時間を過ごしてしまい、藤枝宿を抜けた時点で昼になった。

予算的には厳しかったが、昨日が暑過ぎて食えなかったぶん、今日は気合を入れて美味いものを食いたい。

歩きながら、

「今日は予算を気にせず食う日としよう!」

そう決めた。

国道沿いを峠に向かって北上し、選り好みしながら昼飯を食うところを探した。

と…。

洒落た感じの洋食屋を発見した。

「オシャレなランチ、やってます」

そういう看板も見えた。

普段は絶対にそういう店へは入らない俺であるが、気分が良かった事もあり、

「たまには洒落たのもええやろ」

ノリノリで入った。

たぶん、この旅で最も俺が小洒落た瞬間だったろう。

店内は昼なのに暗く、サラリーマン時代に行った東京青山のバーを想わせた。

(俺に合わん!)

すぐさまそう思ったが入ったものは仕方ない。

「スペシャルランチばください」

メニューを出されるまでもなく、表に書いてあった「当店オススメ」のそれを頼んでみた。

店内は客でいっぱいで、若い女性やカップルが多い。

落ち着かなかった。

巣鴨風の藤枝宿ではああも堂々としていたのに、この店では挙動不審になってしまった。

キョロキョロ辺りを見回し、オシボリで何度も顔を拭いた。

出されたスペシャルランチも俺に合わなかった。

ほうれん草を練りこんだ緑色の冷製パスタにパンが一つ、デザートに杏仁豆腐が付いており、シメにはコーヒーが出た。

むろん、足りなかったし米粒が食いたかったので、追加で白飯を大盛で頼んだ。

店員は基本的に若かった。

だが、一人だけ五十くらいのオッサンがおり、その人だけは俺に好意的な視線を向けてくれ、白飯を頼むと、

「そうでしょう、そうでしょう、日本人は米ですよ」

嬉しそうに厨房から飛び出してき、サービスで納豆と漬物を出してくれた。

納豆は納豆パスタに用いるもので、漬物は自前らしい。

オッサンは俺の隣に座ると、

「商売するなら洋食の方が楽しいし需要もある。ただ、自分で食うとなれば別ですよ」

そのような事を話し始めた。

オッサンは俺を見た瞬間、スペシャルランチが合う顔ではないと思ったらしい。

ただ、客が頼むものに対し、「あんたは合わんよ」とは言えず、注意深く観察していたところ、俺が白飯を頼んだものだから、

「ほらー、やっぱり!」

てな具合で厨房から飛び出してきたのだそうな。

さすがは料理人、顔で好みが分かるとはプロである。

たっぷり米粒を食い、いつもの昼飯の倍近い金を払って店を後にした。

さて…。

藤枝市を抜けると次は岡部町である。

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岡部町に入った瞬間、味のある整備された街道が現れ、「岡部宿」の看板が幾つも見え始めた。

この町には宿場以外の観光資源がないのであろう。

力の入れようがハンパじゃなかった。

役場まで見事な杉並が続き、役場を越えてからは住宅街の中をゆくクランク調の街道を歩いた。

説明の看板が多いのもいい。

この場所には何があったという事まで細かく説明してある。

街道がクランク調なのは見通せないようになっているらしい。

ちなみに、整備された街道の終わりには大旅館「柏屋」という資料館がある。

大旅館は「おおはたご」と読み、金持ちが泊まる旅館の事で、昔のそれを復元し、資料館となっている。

入場料は三百円。

資料の点数も多く、説明書きが親切丁寧、なかなか良かった。

整備されたエリアを抜ければ次は峠道である。

旧東海道は離れていた国道一号線に再び寄り添い、その脇をウネウネ登りながら峠の頂点へ向かって進む。

車は国道を通るので、俺のいる旧道ではほとんど見かけない。

道の真ん中をゼイゼイ言いながら登り、頂点にある「明治トンネル」という古い古いトンネルに辿り着いた。

中は昼なのに暗く、どこもかしこも湿っている。

静かな静かな世界で、ぴちょーん、ぴちょーんという水の滴る音だけがいやに響いている。

気味が悪かった。

駆け足でトンネルを抜けた。

ちなみに、旧東海道にトンネルがあるはずない。

このトンネルは明治九年に日本初の有料トンネルとして開通したもので、旧東海道はこのトンネルの上を通っている。

(どこかに街道の入口があるはず?)

そう思い探したのだが見付からず、結局は気味悪いトンネルを歩いた。

後に、このトンネルをネットで調べるに、心霊スポットとして有名らしく、やはり、いわくをもったトンネルであった。

また、この宇津ノ谷峠は四つの越え方がある。

一つは俺が使った明治トンネル、二つ目は現メインルートの国道、三つ目は見付からなかった旧東海道、そしてこれは現地の看板で知ったのだが鎌倉時代の峠道があるらしい。

地図で見て国道右手の山中を走っているらしく、歴史ファンに人気がある事から荒れてもいないらしい。

いずれ行かねばなるまい。

さて…。

峠を越え、車ばかりの国道を四キロばかり歩くと丸子宿に着く。

現在の区分でゆくと、峠を越えた時点で静岡市になり、静岡市丸子となる。

静岡市のはずれゆえ、賑やかさはない。

が…、そのぶん趣がある。

小さな川沿いに小さな宿場が形成されている。

この宿場の名物は今も昔も「とろろ汁」で、東海道五十三次を描いた広重の版画にも茶店でとろろ汁を食う旅人が描かれている。

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前に書いたが今日は食い物に金を惜しまない日で食わねばならない。

地元の人に最も美味いところを聞き、突入した。

とろろ汁というと何だか庶民的な感じがし、高いものではないように思えるが、そこは名物と呼ばれるもの、定食で千五百円もした。

ただ、麦飯が二合も付いてき、とろろも単なる山芋をすったものではなく、何か特殊な山芋だという事で、そこに秘伝の味噌を加えたものがたっぷりと出てきた。

むろん、定食ゆえ汁物、小鉢がそれに付く。

山芋の違いなどはよく分からなかったが、とにかく美味かった。

熱い麦飯に冷たい味噌入りとろろをぶっかけ、一気にすする。

なるほど、時間がかからず栄養があり、更に美味い。

旅人にもってこいの一品であろう。

ビールなどを飲みながら実に楽しい時間を過ごした。

丸子宿を出ると時刻は午後五時を回ったところであった。

これから静岡の中心街へ向かって歩くわけだが、歩けば歩くほど賑やかさが増すという事になる。

しばらく歩くと狭い旧道に車がぎゅうぎゅう詰めの状態となり、身を細めて歩かねばならなくなった。

歩道はない。

排気ガスを大量に吸い込みながら安倍川まで歩いた。

安倍川は府中宿の絵として広重の版画に描かれている。

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川越えをしているところの絵で、身分による川越えの違いがよく分かる。

広重の版画だけは豊橋の二川宿資料館で頭に叩き込んできたので、その絵と風景を重ね合わせながら安倍川橋を越えた。

ちなみに、府中宿の名物は「安倍川餅」という柔らかい餅に黄粉をまぶしたもので、むろん食った。

甘いものが嫌いな俺はそう美味いとは思わなかったが、これだけ食っていると何となく水戸黄門に出てくるハチベエの気持ちになってきた。

「ご隠居、そこの安倍川餅が名物なんですよー」

「またハチの名物がはじまったぞ」

「わっはっはっはっはー」

水戸黄門ごっこをしたいが相手がいない。

一人寂しく宿を目指した。

今日の宿は静岡ロイヤルホテルという何やら高級そうな宿であるが、値段は安い。

デフレの煽りを受け、ビジネスホテルとマクドナルドはどんどん値段が下がったようで、昔は素泊まり七千円だったこのホテルも今では朝食付き四千五百円。

世の中にとって良い流れといえないデフレも旅人にとっては良い流れ、到着するや広いベットで横になった。

横になって、

(デフレで物価が下がったのに、なぜ自販機のジュースだけは百二十円の値上がりした状態を保っているのだろうか?)

そんな事を思っていると、アッという間に眠ってしまった。

時刻は午後七時前。

満腹だったのが効いたようで起きた時刻は午前二時、たっぷり七時間も寝てしまった。

ホテルの窓から街を見下ろすと、草木も眠る丑三つ時にも関わらず煌々と輝いていた。

「ラーメンでも食いに行くか」

風呂に入った後、ふらりとホテルを出、開いていたラーメン屋に入った。

「兄ちゃん、黒いねぇ、旅の途中かい?」

ラーメン屋のオッサンが唯一の客である俺に大声で問い掛けてきた。

「名物を食い歩く旅をしてます」

「そりゃ、あんた、いいとこに入ったよ! うちのラーメンは静岡名物! ここにしかない味だからね!」

「ほんとですかー」

出てきたラーメンは醤油か味噌かよく分からない不思議な味で、マズくはなかったが美味くもなかった。

とりあえず満腹になって店を出た。

街を歩いてみた。

腹が減っている時は気付かなかったが、穏やかな夜風が流れている。

静岡は「一度住んだら他には住めなくなる」と昔から言われており、穏やかな気候が有名である。

徳川家康も老後を送るなら静岡と決めていたようで、ここ府中宿を最後の住処としている。

と…。

「そこの君!」

後ろから声がしたので振り向いてみると警官であった。

つい、一歩退いてしまった。

別にやましいところはなくとも警官に声をかけられればビクついてしまうのが庶民というものであろう。

「な…、なんすか…?」

一歩後ろに下がりながら、

(俺、何かしたかな?)

考えていると、警官は事情を説明した上で俺の事を聞き始めた。

俺が歩いていた裏通り付近はヒッタクリや痴漢、露出狂が多いところらしく、その犯行時間は深夜が多いという事で、

「別に疑っているわけじゃなんだが」

警官はそう前置きし、俺の事を聞き始めた。

確かに午前三時の裏通りを脱ぎ易い短パンに半袖シャツで歩いている黒い男がいたとすれば、警官でなくとも怪しいと思うであろう。

「モロ疑ってるじゃないですかー」

俺がそういう類の人間だと思われた事が何だか可笑しくなってきた。

とりあえず身の潔白を証明せねばならないので、ホテルに泊まっている事を説明し、徒歩旅行中である事を告げ、免許証を見せた。

「申し訳ない」

警官は平謝りで帰っていったが、俺の気持ちは盛り上がったままで静まりそうにない。

案の定、ホテルに帰ってもなかなか眠れなかった。

缶ビールを飲みながら地図日記を書いた。

「部屋に備え付けの体重計があった。量ってみた。旅を始めて二十二日、ほとんど変わっていなかった。どういう事だろうか?」

家康も絶賛の穏やかな静岡で穏やかに体重計を見つめる俺であった。

 

 

23、駿河路をゆく

 

駿河といえば徳川家と駿河湾であろう。

低価格のロイヤルホテルを午前八時に出た俺は、その足で目の前の駿府公園に立ち寄った。

駿府公園は言わずと知れた駿府城の跡地で、現在、県庁が隣にあり、立派な堀や門が残っている。

「ほうほう、これは見事」

忙しい通勤通学の流れを阻害するかたちでゆるり腕組みなどし、観光した。

公園を突っ切ると静岡駅前である。

人の流れの隙間をぬって東へ歩いた。

今日も旧東海道を歩く。

この府中宿を出ると、江尻、興津、由比、蒲原と四つの宿場を越え、目的地の吉原宿までゆく。

距離にして十里(四十キロ)。

昔の旅人も一日に約十里歩いたらしいから、だいたい同じ距離となる。

天気は晴天。

素晴らしい青空が広がっており、気温も三十度を超えているのではなかろうか。

が…、超猛暑というほどではなく、楽しく歩ける暑さではあった。

静岡の街中を抜けると国道にぶつかり、それからは街道一の大親分・清水の次郎長で有名な清水まで国道をゆく。

真っ直ぐな道をただ黙々と歩いた。

途中、バス停に座って休憩していると地元の老婆が話し掛けてくれた。

「旅人なのか」と聞かれ、縦に頷くと、

「清水に次郎長の家がある、行ってみなさい」

そう言われた。

いい事を聞いた。

弾む足取りで清水の中心街へ突入し、次郎長の家、その場所を聞きまわった。

が…、十人近く聞いたが誰も知らず、若者に至っては次郎長の名前すら聞いた事がないと言う。

「すんません、この辺に次郎長の家があると聞いたのですが」

「じろちょー? 何それ? 聞いた事ないねぇ」

「街道一の大親分・清水の次郎長ですよ」

「わかんねーよー、何だよ、それー」

次郎長に代わって清水を代表する人物となったのは「ちびまる子ちゃん」のようだ。

ちょっと話好きの年配と「次郎長を若者が知らなかった」という話をした時、このように言っていた。

「昔はねぇ、清水といえば次郎長、そういう風に親から聞かされたもんだけどねぇ。今は清水といえばちびまる子ちゃん。それかエスパルス。いいか悪いかは分からないけど、時代の変わり目を感じるよ」

街の歴史というものは親が子に語り継いでゆくもので、

「東海道を牛耳っていた次郎長がいたんだからなー!」

それが誇りだった清水も、

「ちびまる子ちゃんの舞台はここなんだぞー!」

てな具合に「街の誇り」が変わってきたのであろう。

ちなみに、嫁の実家は埼玉県春日部市でクレヨンしんちゃんの舞台である。

春日部も「粕壁宿」という名で街道が育てた街であるが、現在は「クレヨンしんちゃん」もしくは「ひったくり」の印象しかなく、そこが宿場だった事は地元のほとんどが知らない。

親が語り継がなくなってゆくという事は歴史が薄れてゆくという事で、ちょっぴり悲しい事だと思うし、街の厚みが薄れてゆく事だとも思う。

(福山家は昔を語り継いでいきたい…)

自分自身を戒めるに至った清水の次郎長探しであった。

さて…。

この清水、その中心街が今日最初の宿場・江尻宿である。

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別に何かがあるというわけではないが、商店街や寺があり、それを眺めながら真っ直ぐ歩くと駿河湾にぶつかった。

東海道というとズゥーッと海沿いを歩いているように思われがちだが、これまで、ほとんど海を見た事がない。

これからが海沿いの道の始まりで、まず江尻宿から次の興津宿までは清水港沿いの道。

それから由比宿までは海を見下ろすちょっと高台の道、由比から先、蒲原宿までは海こそ見えないが潮の匂いのする道をゆく事になる。

清水から一時間強で興津宿に着いた。

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川沿いに小さな集落があり、現在は国道の分岐点になっている。

旧東海道はここから国道を離れる。

海沿いから陸地へ曲がり、薩た峠を越えて由比宿へ向かう。

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薩た峠からの景色は由比宿の錦絵にも書かれており、富士山が見えれば絶景だったのだろうが霞んでイマイチであった。

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地元の人が言うに、この時期に富士山が見える事は稀らしい。

ちなみに、由比という場所は田舎ではあるが日本の要所らしい。

休憩するために入った小さな店で次のような話を聞いた。

「由比の国道を見てごらんなさい。海側から高速、国道、電車、そしてちょいと山に登れば新幹線も通ってる。大動脈が走ってるのよ、大動脈」

つまり、日本の幹線が集中している場所が由比で、人間でいうと大きな血管が密集している手首・首筋、そこが由比にあたるという。

なるほど、地図で見ても確かに密集しており、

「ここが切れると日本が動かなくなる」

その話には説得力があった。

手首・首筋に喩えているところも素晴らしい。

「危うさ」を、その表現が見事に伝えてくれている。

数年前、タンクローリーが高速で炎上し、高速、国道、鉄道が不通になった事があるという。

その時、日本の物流が三日も停止したらしい。

「むふふふふ、私達、凄いところに住んでるでしょ」

自慢する事ではないだろうと思ったが、

「由比がないと日本が成り立ちませんね」

笑顔でそう返してみると、カキ氷をサービスでくれた。

言ってみるものではあるし、何が街の自慢となるかは分からないものでもある。

さて…。

この由比宿の道であるが、実に味がある。

幹線の密集とその先に見える駿河湾を右手に見ながら宿場の道を歩く。

左は猛烈な坂で、斜面を削り落として道や集落がつくられたって感じである。

名物は桜海老で飯にまぶしたものを食べたのだが、なかなか良い味でピンク色が白い飯によく映えていた。

宿場全体が魚臭いのも良かった。

飽きずに歩き、次の蒲原宿に入った。

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蒲原宿も観光宿場として綺麗に整備されている。

それは前に通った岡部宿を思わせる力の入れようで、宿場以外に町のウリがないのであろう。

看板が多く、足元はただのアスファルトでなく、ちょっとゴツゴツしたオシャレな舗装になっている。

いつもより速度を緩めて宿場を通過した。

蒲原町を抜けると富士川町に入る。

名前の通り、富士川が流れている町で、俺はその富士川を渡って今日の目的地・吉原宿へゆかねばならない。

「富士」という日本を代表する山の名が至るところに見られたが、肝心のそれは曇っていて見えず、広々とした裾野のみ見渡す事ができた。

富士川の水流は凄まじいものがあった。

それこそ大井川の百倍くらいあるのではなかろうか。

昔から富士川は水量が多かったらしく、人が渡す大井川や安倍川と違い、船で渡っていたようだ。

富士川を渡ると神社があった。

「渡し舟が安全に渡れますように」

その事を祈るための神社だったようで、川の神様が祀られているらしい。

旅の安全を祈り、道子の安産を祈った後、富士川の歴史が書かれた看板を見ていると十数箇所も蚊に刺された。

それから吉原宿までは都会の道が延々と続いた。

真っ直ぐ東へ一時間、ひたすら県道を歩き、富士市役所からちょっぴり北東へゆくと吉原宿である。

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泊まる場所は昨日に続いてリーズナブルなビジネスホテルで宿場のど真ん中にある。

リーズナブルであるが門構えも部屋もピカピカ、高級感あるホテルであった。

これで朝飯が付いて五千円を切るのだから文句はない。

部屋に着くやシャワーを浴び、念入りに体を洗った後、股ズレの患部をチェックした。

豊橋で看護婦にもらった軟膏を塗り始めてから血が出る事はなくなった。

ただ、真っ赤に染まっていた患部が紫色になり、何やら深みが出始めた。

(最終的にどんな色になるのか?)

新しい楽しみの誕生であった。

風呂から上がるや街へ飛び出した。

飲み屋街のど真ん中にあるので飲むところには困らない。

(どこにしようか?)

店選びには自信があった。

飲み屋へ通い始めて早十年、少しばかりの失敗はあるものの大きなハズレは引いた事がない。

自信をもって赤い看板の韓国風居酒屋へ突入した。

店内は割かし広く、ハングル文字が目立っていた。

メニューも手書きのハングル文字で書かれている。

その横に下手糞な日本語でその料理がどういうものか説明してある。

(ほぉ、店主は韓国の人か…)

そう思いつつ店内の声に耳を澄ますと、これまた韓国語であった。

そういえば流れている音楽も韓国のものである。

注文を聞きにきた女性の言葉も韓国語で、

「俺、日本人ばい」

そう言うと、奥から違う女性が出てき、

「スイマセン、ゴチュウモンハ?」

片言の日本語を発した。

どうやら日本語はこの女性しか話せないらしく、基本は韓国語らしい。

この店、完璧に韓国人専用であった。

(飯を食ってビールを飲んだら出よう)

密かにそう思い、注文をした。

韓国風ラーメンとチヂミ、それに生ビールを頼んだ。

ラーメンは鬼のように辛く、味など分からなかったがチヂミは美味かった。

モチモチしていてネギが山ほど入っていて、それでいてボリュームがあった。

飯が美味いという事は酒も進んだ。

すぐに帰るつもりが、

「もう一杯だけ」

そういう具合になってゆき、生ビールを三杯飲んだ。

帰ろうかと思い、日本語の喋れる女性を呼ぶと、

「コレ、カンコクデ、ニンキアル、ノミカタヨ」

変な酎ハイを勧められたため、浮いた腰をまた椅子に下ろした。

この時点で帰れば良かったのだ。

大して美味くもない酎ハイを飲んだがために、後に大変な思いをする事になる。

酎ハイを飲み始めて数分後、十人以上の韓国人が店に入ってきた。

二次会なのだろう。

皆がかなり酔っており、何かを韓国語で叫んでいる。

韓国語だらけの密室に日本人が一人、これは寂しいを通り越して不安になる。

また、誰もが叫ぶように喋るため、うるさくもある。

帰る良いキッカケだと思い席を立つと、集団の中の一人が俺に何かを言ってきた。

すぐさま通訳の女性が間に入り、集団と笑いながら何かを話した後、

「日本人として、何か流行っている芸を見せて欲しいとの事です」

女性は分かり辛い日本語で、その事を通訳した。

集団は通訳女性から聞いて俺が日本人だと知ったのであろうが、なかなか挑戦的な注文をしてくる。

初対面の人に「芸をして」ちゃぁ、なかなか言える事ではない。

集団は俺を凝視しながら、

「どうぞ! さあ早く! さあ早くやってください!」

そう言わんばかりに何度も笑顔で頷いている。

(こやつらは日本人に何か恨みでもあるのだろうか?)

酔ってる事と集団の中にいる事が手伝って、日本人である俺を困らせたいらしい。

(このまま帰るか? それとも何か、こやつらを爆笑させる芸があるだろうか?)

考えた。

考えに考え、ふと世界中が知っている日本のキャラクターに気付いた。

(俺は今、日本代表なんだ! スベるわけにはいかない! 逃げるわけにもいかない!)

凛とした姿勢で席を立ち、中央に躍り出た。

歓声が湧いた。

そして静まった。

その一瞬の隙をつき、

「アニョハセオー、僕、ドラえもんです」

子供に大人気、ドラえもんのマネをやってみせた。

似てる自信は声にしても体型にしてもあった。

俺以上にドラえもんに近付いた人間は大山のぶ代以外いないだろう。

後に聞いたがこの集団、韓国人ではあるが日本に住んでいるらしく、ドラえもんは毎週見ている番組らしい。

それが良かった。

「ムフッ、ムフッ、プハー!」

皆が笑い転げた。

通訳の女性も七転八倒しながら、

「ニテルト、イッテマスー、プハー!」

そう言ってくれた。

成功した。

成功したが、こんなに緊張したのは何年ぶりだろうか、手には大量の汗が握られているし、変な汗がたっぷり出ている。

ちなみに、次の瞬間から俺の名はドラえもんになった。

「ドラエモン、ドウゾ」

韓国人の酒を受けるたびに、

「ありがとー、ドラえもんはうれしいよー」

マネをしなければならなくなってしまった。

辛い、辛過ぎる時間が続いた。

帰り際、どうしても名刺が欲しい、名刺を置いていけと店が言うものだから、京都のユースホテルでもらった名刺を渡した。

丸刈りの変な宗教団体の男のもので、その後の事は何も知らない。

とにかく今日も食いに食い、飲みに飲んだ。

部屋へ戻った瞬間、ベットに倒れこみ、朝まで一度も起きなかった。

この日の事が地図日記にたった一文、こう書かれている。

「俺は痩せないだろう」

連日連夜食い続ける俺に痩せる余地はない。

店選びは失敗したが、この予想は的中するのであった。

 

 

24、東海の道

 

この日の歩行距離は三十キロ。

いつもより十キロは短い。

その事を受けて午前十時という遅い時間に出発した。

方向感覚には自信があったので、ホテルを出るや地図も見ず適当に歩いた。

が…、いきなり迷った。

ふらふらふらふら吉原の街を散策する事一時間、東海道の名所である左富士に出た。

地図で見るとホテルから左富士までは約二キロ。

たった二キロに一時間もかかっているのだから、いかに遠回りしたかが分かる。

左富士は江戸から歩いてくると右に見える富士山が、ここだけは左に見えるというポイントで、ヤジさんキタさんの話で有名になった場所である。

が…、その富士山が見えなかった。

前にも書いたが七月八月に富士山がハッキリ見える事は稀らしく、霧だか雲だかに覆われている。

結局、富士山を見る事なく、その名を冠した富士市を後にした。

旧東海道は吉原の街から南へ走り、現在の東海道本線と平行するかたちで海沿いの道をゆく。

踏み切りを渡ると温い海風が吹き始めた。

滝のように汗が流れ、海風に吹き飛ばされるかたちで丸い滴がアスファルトへ落ちた。

本当に暑い日であった。

旧東海道はこのまま海沿いの県道として沼津の中心街までゆく。

その距離、凡そ二十キロ。

県道の横には延々と続く松林があったが日陰はなく、厳しい直射日光は容赦なく柔肌に突き刺さり、アスファルトによる照り返しが帽子の死角に滑り込んできた。

どうにかして松林の中を歩けないものかと様子を窺っていたところ、松林へ入る細い道を発見した。

松林の中には案の定、人二人が並んで歩ける土の道があった。

松林の道は獣道ゆえジグザグで進む。

距離は直線の県道よりも長くなるが、日光を浴びなくて良いから快適さがまるで違う。

ノリノリで歩いた。

歩きながらこの獣道が県道と自転車道路に挟まれている事に気付いた。

海沿いに堤防が築かれており、その上を自転車道路が走っていた。

獣道は整備されているわけではない。

何度も道が寸断し、その度に県道や自転車道路で迂回した。

が…、俺の気分は徐々に徐々に盛り上がっていったようだ。

地図日記を見てみると、それがよく分かる。

吉原の街を出、迷い迷って海沿いの県道を出たところでこういう一文が書いてある。

「早くゴールしたい、たまらん、暑い」

あまりの暑さに弱音が飛び出している。

が…、この松原の道を発見してから次のような事が書いてある。

「やっぱ、歩くって素晴らしい」

俺は二十キロ近くある松林の道を一気に歩いた。

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途中、一度だけ昼飯休憩をとったものの、それ以外は一度も足を緩めていない。

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木漏れ日を全身に受けながら、

「うふふふふ、森のトンネルはどこまで続くのかしら? このトンネルを越えればそこに何があるのかしら?」

松の海を馬鹿みたいにノリノリで泳いだ。

さて…。

トンネルを抜ければ、そこは雪国でもなく大海原でもなく沼津の住宅街であった。

松で構成された神々しいばかりの木漏れ日ジャングルが、アッという間にコンクリートジャングルへ。

やる気は半減、体感気温は二十度アップ、ペースはぐんと落ちた。

東海道は出発地点の吉原宿から松原のちょうど中間辺りに位置する原宿を越え、それから沼津宿に入っている。

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今日は次の宿場・三島まで。

距離にすると凡そ七キロ。

一時間半後には着くはずであった。

が…、そこはコンクリートジャングル。

「暑い…、たまらん…」

という事で七キロの間に三回も休憩を入れ、着いたのは二時間半後。

交通量の多い県道をのんびり歩き三島に入った。

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宿は駅前の格安ホテルで地図日記によると午後五時到着となっている。

七月は日が長い。

歩こうと思えばまだまだ歩く事はできたが、楽しみは明日にとっておかねばならない。

三島を越えてしまえば箱根越えに入るのだ。

東海道最大の難所、最大の面白味がそこにある。

ホテルで荷物を降ろし、シャワーを浴び、念入りに股ズレの薬を塗ってから駅前の繁華街に足を運んだ。

昨日は店選びで失敗しているから、今日は気合を入れて店を選ばねばならない。

短い繁華街を往復し、

「ここしかないっしょ」

独りごちながら小さな居酒屋に入った。

三島近辺のみ点在するチェーンの居酒屋らしく、ウリは新鮮な魚、それでいて、

「現在キャンペーン中・生ビール一杯百円」

そういう看板が出ている。

猛烈に喉が渇いていたので生ビール六杯は飲むであろう。

その事を考えると一杯百円は懐に優しい。

威勢のよい「らっしゃい」の声に迎えられながら、生ビールを二杯頼んだ。

「生二杯っすか? お一人、ですよね?」

「うむ、お一人で二杯」

「は、はい…」

キンキンに冷えた生ビール二杯を数十秒で飲み干し、更に追加で二杯頼んだ。

この瞬間のために水分補給を我慢し続けていたのでビールはいくらでも入る気がした。

何も食わずして生を四杯飲んだ。

「いい飲みっぷりですねぇ、男の飲み方って感じがしますよぉ」

早い時間で店が暇な事も手伝ってか、若い兄ちゃんが何やら感心した様子で俺の隣に来、そのような事を言った。

「男の飲み方」と言われれば俺も悪い気はしない。

それも見た目に俺より年下の若者に言われれば尚更である。

「そうかい?」

ニヤリとし、更に追加で生を二杯頼んだ。

「二杯ずつ注文されるお客さんは初めてですよぉ。かっこ良過ぎますよぉ。あっ、ツマミは何にしましょう、ちなみに今日のオススメは…」

「かっこ良過ぎる」などと言われてはメニューを見るわけにはいかない。

何も見ず、クイッとジョッキを飲み干し、

「つまみは兄ちゃんに任せる」

財布には五千円しか入っていなかったが場の流れというものがある。

流れに任せてそう言った。

若者は「任せる」の一言にしびれたらしく、

「ぷはー! かっこいー! 地元の人間には言えないセリフっすよー! お客さん、どこから来られたんですか?」

喋り口から地元の人間ではないと察したのだろう、若者は俺の顔をまじまじと眺めた。

若者は茶髪の色黒ではあったが妙に瞳のキラキラした奴であった。

(彼の期待を裏切ってはならない)

若者の瞳にそう思ったし、

(彼の期待に応えるだけの男を演じねばならない)

そうも思った。

「どこから来たかって。いい質問だ。火の国・熊本よ」

「九州男児ですかぁー! やっぱ違うわー!」

男は素晴らしいテンションで厨房に戻ると、生ビール二杯とつまみ、それに若いギャルを連れて現れた。

ギャルは新人らしく、若者はその教育係らしい。

「九州男児、初めて見ますぅー」

「注文の仕方が九州男児って感じだろ。生ビールを二杯ずつ頼むんだぜぇ。つまみもお任せだぜぇ」

「すごぉーい」

「九州男児だよなぁ」

「ですねぇ」

悪い気分ではないがプレッシャーであった。

こんなにも見られてると思った夕食は福岡でフランス料理のフルコースを食べた以来であろう。

チビチビ飲んではいけない。

チビチビ食ってはいけない。

金を出し惜しんではいけない。

彼らの思い描く九州男児像を壊してはいけない。

俺がチンケな事をやってしまえば、彼らの中で九州の人間、その格が下がる事は間違いない。

昨日の晩は日本代表、今日の晩は九州代表であった。

生ビールを十杯飲み、体が水分を欲さなくなった時点で焼酎に切り換えた。

「オススメの焼酎だして」

そんなに高い焼酎はないだろうと高をくくってそう言うと、

「一番いいのを持ってきましたよー」

若者はそう言って熊本の人もあまり飲めない米焼酎の中の米焼酎・文蔵を持ってきたではないか。

(ぎゃー! 文蔵ちゃんだー! いくらするんだよー!)

内では唸りながらも外見は平成を装い、

「うむ、いい焼酎だ! うまい! さすがは銘酒・文蔵!」

そのような事を言った。

また、お任せしたつまみに関しても不安は募った。

刺身が出て、焼き魚も出て、汁物も出て、更に蟹も出た。

何度も言うが財布の中身は五千円。

(これで会計の時に金がないじゃ笑うに笑えんぞ…)

まだまだ焼酎を飲みたかったが「金が足りそうにないんで文蔵でなく安い焼酎をくれ」とは言えず、

「じゃ、そろそろ」

席を立った。

レジの前に立つ俺は冷や汗に濡れ尽くしている。

若者は手際よくレジを打ち、

「いやー、今日はいいものを見せてもらいましたよー」

そう言っているが、俺はその言葉を喜ぶどころではない。

その値段如何によっては若者が「いいもの」と絶賛した絵がボロボロに崩れ落ちるのだ。

祈りながら会計が出るのを待った。

「はいっ」

若者が宮尾すすむのような声を上げた時、俺と若者の目が合い、そして金額が告げられる瞬間が訪れた。

若者はニコリと笑い、

「三千五百円です」

そう言った。

(うそーん?)

その安さに愕然とした。

そんなわけがないのだ。

文蔵と蟹、その組み合わせだけでそれくらいはいくであろう。

「えらい安かね…」

「キャンペーン中ですから」

若者がまけてくれたのかどうかは分からぬが、とりあえず助かった事は間違いない。

安堵の息を吐きつつ金を払い、

「またどうぞー」

その声を背に受け店を出た。

日が落ちた三島の街に海風が吹いていた。

冷や汗が冷たい風に冷やされ、ぶるると身震いした。

役は終わった。

(いつもの俺に戻っていい)

そう思うと急にションベンがしたくなった。

ちょうどションベンするのに打ってつけの暗い駐車場があったので、そこへ入って用をたしていると車の脇から大きな犬が現れた。

手が離せない。

だが、寄ってくる犬は怖い。

「あわ、あわ、あわわ…」

股間に手を据えた状態で逃げ惑う俺を居酒屋の若者が見たらどう思うであろう。

(やはり、身の丈にあった生き方をせねば…)

その事に気付いた三島の夜であった。

明日は箱根をゆく。

 

 

25、箱根越え

 

約一ヶ月にも及ぶ旅行、その最大の難所が箱根である。

「箱根八里は天下の険」と歌われるように、ホンダのバイク実験をしたのもここであったし、正月恒例のマラソンも箱根である。

つまり、日本で最も過酷だと思われているメジャーな峠が箱根なのだ。

山越えと峠越えの違いが俺にはよく分からないのだが、箱根峠の標高は八百メートル強。

ほぼ海抜ゼロの三島から登り、またもや海抜ゼロに近い小田原に下るのだから、立派な山越えと言っても差しつかえなかろう。

午前七時をちょっとばかり過ぎた頃にホテルを出た俺は、昔の旅人がそうしたように、まず三嶋大社で旅の安全を祈った。

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三嶋大社は奈良時代や平安時代の文献にも出ている由緒ある神社で、伊豆に流された源頼朝が源氏復興を祈願した事でも有名だそうな。

境内で鳩と戯れながら朝飯を食い、賽銭に五十円も入れ、念入りに旅の安全を祈った。

三嶋大社を出ると、もうそこは箱根越えの入口である。

歩けば歩くほどに標高はグングン上がる。

旧東海道は県道を逸れると長崎の裏道のような細くてキツい上り坂になった。

この地点、地図日記にこのような事が書いてある。

「意地悪な爺さんがニヤニヤしながら俺を見ている。どうやら俺が道を間違える様を楽しんでいたようだ」

これを見て思い出したが、この辺りは裏路地ゆえ標識のない分岐が多く、どれが旧東海道が分かり辛かった。

意地悪な爺さんというのは、その分かり辛い分岐点に座っていたのであるが、俺が行き止まりの道に入った時、何も言わずに見送った。

それでいて、

「行き止まりでしたよぉ」

苦笑いの俺を見るや、

「そっちの道はワシの家しかないよ。むっふぉっふぉっふぉっ」

芯から楽しそうに笑ったのである。

爺さん、何が楽しいのかは分からないが、椅子まで用意しているところを見ると、人が間違えるのを見て楽しんでいるとしか思えない。

嫌な爺さんではあったが、人生も末を迎えた悲しさというか悲哀というか、そういうものを否応なしに感じさせてくれる爺さんでもあった。

さて…。

細い坂を登り終えると国道一号線に合流する。

さすがは国道の一号線だけあって歩道が広い。

石畳に整備されてもおり、まさしく観光のための道って感じがする。

通勤通学の自転車は通らないと見越してのガタガタ石畳であろう。

立派な一里塚を越え、真っ直ぐ傾斜を登る事凡そ一キロ、観光歩道は終わり、旧東海道は国道を離れる。

足元は基本的にアスファルトであるが、ところどころ手付かずの東海道が残っており、そこは石畳であったり土の道であったりする。

天気は今日も快晴。

なかなかの日差しであったが、山深い道ゆえ涼しいといえば涼しい。

ただ、体が発する熱を押さえるため、汗だけは絶え間なく流れ続けている。

登り坂は延々と続いた。

それも歩けば歩くほど傾斜はきつくなってきて、

「さすがは箱根、手強い」

その事が分かってきた。

この頃になると坂も単なる坂ではなく名前の付いた坂となり、歴史に関する説明用の看板も増え始めた。

「むはぁー、むはぁー、むはぁー! きついー! けど楽しー!」

息荒く、朦朧とした状態ではあったが看板だけはしっかり読んだ。

意味の分からぬ看板や面白い看板が色々とあったように記憶しているが、地図日記にはそれらが書いてない。

書いてあるのは景色の事が主で、ところどころ傾斜の凄まじさが、

「嘘だろー!」

今となってはそう言いたくなるタッチで書いてある。

旧東海道は現在の国道と違い、ウネウネせず真っ直ぐ坂を登っている。

ゆえ、傾斜がきつくなる事は分かるのだが、地図日記によると、

「この坂は原付も車も登れません。ひっくり返るでしょう」

そう書いてある。

また、地図日記とあわせて手元の写真を見ると、確かに地図日記で絶賛しているように景色がいい。

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味のある石畳を優しげな木漏れ日が照らしている道。

地図日記にはこう書いてある。

「疲れ疲れて横になった時、スポットライトが当たっているような錯覚を覚えた。僕はこのまま歴史の道に溶けてゆくのだろう」

さすがは旅の途上、言う事にロマンが溢れている。

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次に、神秘性さえ感じられる植物のトンネル。

「加藤清正だけでなく、何億という先人達がこの道を通ったと思うと泣けてきた。トンネルの壁を背に座り込み、目を瞑ると緩やかな風がこの丸い筒の中を流れている事に気付いた。旅はいい。僕は今、一昔前の日本、その大動脈にいる」

かぁー!

自分で書いた日記を見、ムナヤケがした。

が…、何度も言うが、旅をやっている時の感受性、その過敏さといったら半端でない。

些細な事に感動するし、すぐに涙が出てくる。

周りには人もいないし、汗もたっぷりかいているものだから、バレないだろうという事で思いっきり泣きながら歩いた事を思い出した。

ちなみに…。

道以外にも箱根は見所が多い。

三島から登っていると、ちょうど中間地点くらいに山中城という山城跡がある。

綺麗に整備されていて俺からすれば残念な感はあったものの(山城には寂れた感じが欲しい)、普通に観光する人からすれば、

「うふふ! ここ山中城って言うんだってさー! 広い芝生が素敵ねぇー!」

と、楽しめるのではなかろうか。

また、箱根峠の頂上まで登ると有名な芦ノ湖があり、その近辺は超観光地化されている。

この日は日曜という事もあって、芦ノ湖近辺に着いた瞬間、ドーンと人が増えた。

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旧東海道がガラガラだっただけに、この付近の人ごみには耐えられず、駆け足で芦ノ湖、関所跡を抜けた。

さて…。

箱根八里の峠道は関所を越えると下りに入る。

国道から大きく逸れ、喧騒が遠くなったところで再び石畳の道が現れた。

ここから先、湯元温泉までは県道と平行するかたちで石畳や土の道が続く。

かなり傾斜があり、苔むした石畳が足場なものだから、気を付けて下らねばならず、精神的に疲れた。

また、三島からの登りに比べ、小田原側は歩いている人が圧倒的に多い。

やはり、こちらが関東側だからであろう。

川を越え、有料道路の下をくぐり、畑宿という昔の宿場で休憩した。

ところてんなど食いながら冷たい茶を飲んでいると、老夫婦が話し掛けてくれた。

「若者に会うなんて珍しいねぇ」

老夫婦はそう言っている。

そういえば、出会う人、出会う人、老人中年ばかりで若者はあまり見かけない。

老夫婦の話によると、定年を迎えた神奈川のサラリーマン、その人達の(暇つぶしの)ウォーキングポイントとして箱根は人気らしい。

この老夫婦も定年後に「健康のため」という理由で箱根に足を運ぶようになったらしく、週一回、箱根湯本から頂上まで凡そ十キロを五時間掛けて歩くそうな。

「いい趣味ですねぇ」

俺は然も嬉しげに頷いたわけであるが、これがいけなかった。

老夫婦は時間がたっぷり余っているのだろう。

それから延々とサラリーマン時代の事やこれからの事を話し始め、俺を放そうとしない。

「先を急ぎますので」

そう言って席を立とうとするのだが、

「まぁまぁ、冷たいものでも飲みませんか?」

と、真剣な目で引き止めるから困ったものであった。

とりあえず冷たいものを奢ってくれると言うので、

「じゃ、冷たくて心に沁みるものを頂いていいですか?」

にんまり最高の笑顔で冷たいビールを奢ってもらった。

地図日記によると、

「この老夫婦と約一時間お喋りをする。ビールが美味い」

そう書いてあるので、お互いに汗も渇いてしまった事だろう。

さて…。

瓶ビールを二本も飲んだのがいけなかったのか、湯本温泉の手前で思いっきりコケた。

足元は石畳で苔に滑ったかたちであるが、膝を石に強打し、血が滾々と流れた。

湯本の温泉街を血だらけで歩くわけにはいかないので、小さな旅館で水道を借り、傷口の泥を流していると、大学生くらいであろうか、若いカップルが話し掛けてきた。

カップルは箱根に関する研究を学校でやってるらしく、

「幾つか質問に答えて欲しい」

箱根に関する認知度調査をやりたいと言う。

別に断る理由はないので足を洗いながら答え、満点を取ってやった。

カップルが言うに、俺が百数人目の回答者で、年齢層別に正解率を弾き出しているそうだが、満点は七人、二十代の満点は俺が初めてらしい。

が…、その嬉しさよりも、年齢を言った時、

「え! 二十代ですか!」

驚いた二人の顔が俺には気になった。

男女共一瞬ではあるが西川きよしみたいな顔をしたのだ。

「幾つに見えたんや?」

ちょっとムッとして聞いてみたところ、

「失礼しまーす!」

と、軽やかなステップで風のように去って行ったところも腹がたった。

その後、カーブミラーで何度も自らの姿をチェックし、

「老けてないよな?」

「うん、ぜんぜん老けてない」

自問自答する悲しげな展開となったのであった。

さて…。

箱根湯本を抜けると小田原に入る。

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久しぶりに国道一号線と合流し、それから小田原の街中までは国道を歩く。

小田原はカマボコが名物らしく、その専門店が幾つもあり、大量に試食も用意されていたので、それに舌鼓を打ちながらゆるりと歩いた。

傾斜も徐々に緩くなり、国道へ乗った頃にはほぼ平坦な道になった。

鼻歌など歌いながらゆるりと歩き、午後六時前には小田原城に着いた。

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五時を過ぎていたので天守閣には登れなかったが、夏の日曜という事もあって、「ちょうちん祭り」なる夏祭りが開かれており、露店では生ビールも売られていたので、それを飲みながら、のんびりと小田原城を歩いた。

小田原城は関東の雄・北条家の拠点だった名城である。

歴史を噛み締めながら石垣などを見て歩き、見晴らしの良いところに出、箱根方面を眺めてみると小高い丘が見えた。

小田原攻めの際には、その小高い丘の上に一日で城が建ったと言われている。

たぶん、木で見えないようにして城を立て、それが完成したところで木を切り倒したのだろうが、さすがは城攻めの天才といわれる秀吉、やる事がにくい。

また、秀吉は小田原城を取り囲むように豪勢な宴会をやった。

屈強な小田原城も、

「こんな戦、やってられるかよー!」

秀吉の策に内側から崩れてゆくのであるが、実際に本丸付近に立ち、戦時中の極限状態を考えてみると、

(俺は真っ先に崩れるな…)

そう確信する事ができた。

さて…。

人でごった返している小田原城から徒歩で数分、今日の宿泊先に着いた。

格安ではあるが綺麗なホテルで、繁華街のど真ん中にある。

が…、ここ数日飲み過ぎた事を受け、京都の面接で浮いた分を使い切ってしまっている。

(今日明日は質素にいこう)

という事で、吉野家から豚丼を買い、それを発泡酒で流し込んだ。

祭りの余波であろうか、繁華街は凄い人で、その喧騒も凄まじい。

ホテルにいてもヤンキーの叫ぶ声が響いていて、

(とても寝れん)

そう思ったが気が付くと朝になっていた。

記憶が鮮明なうちに地図日記を書き、

「箱根越え…、良かったなぁ…」

小田原の朝に呟いたのであるが、その思いは半年以上の時を経て、尚色濃くなっている。

現在、

「約一ヶ月の徒歩旅行を経て、どこが最も歩き甲斐があったか?」

その事を問われたら、まず箱根越えが頭に浮かぶ。

最も有名な峠には、有名なだけに様々な歴史が降り積もっており、その一歩一歩に歴史の粉塵が舞っていた。

定年後のサラリーマンが何を求めて箱根に集まるのか俺にはよく分からないし、若者が何ゆえ箱根の認知度調査をしていたのかも分からない。

ただ、箱根は峠のスターで、老若男女を惹き付ける魅力がある事は間違いなく、俺もそのスター性にやられたのだろう。

歴史の大動脈がウォーキング場、デートスポット、走り屋の巣窟と、色々な方面から愛され、かたちを変えてゆく事は嬉しくもあり悲しくもあるが、それもまた箱根の歴史である。

人が歩けば道ができ、その数増えれば歴史ができる。

箱根は今、新しいかたちを迎えているのかもしれない。

 

 

26、若者通りをゆく

 

小田原の朝は雨模様であった。

チェックアウトを終えた俺はリュックからカッパを出すと黄色いそれをバサリと羽織り、

「このカッパ高かったけん一回くらいは着らんと嫁に怒らるっとですよ」

笑顔で受付の姉さんに説明したのであったが、

「は? 何とおっしゃいました?」

まるで言葉が通じなかった。

とりあえず、伝えねばならない内容ではなかったので、

「いや、独り言です」

会話を終了させ、雨が降った事を一人で喜んだ。

ゴールで待っている妻の道子はカッパの値段を知っている。

たぶん、一度も使わなかったとしたら、

「無駄、無駄! それこそ無駄だよー!」

「無駄」を連呼するに違いない。

使う機会が一度でもあったのは幸運であった。

ホテルを出たのは地図日記によると午前八時前となっている。

黄色いド派手なカッパに身を包んだ俺は小田原の街を抜け、国道一号線に出た。

旧東海道は大磯まで海沿いの道で、大磯から内側に入ってゆくのであるが、今日の目的地は鎌倉であるため、大磯から先も海沿いの道を歩く。

東海道の宿場でゆくと、小田原から大磯までは東海道を歩くが、それ以降の平塚、藤沢、戸塚、保土ヶ谷は通らず、鎌倉経由で神奈川宿へゆく事になる。

ぬるい雨がシトシトと降る中、国道一号線を鼻歌など歌いながら歩いた。

四キロばかし歩いたところで雨は止んだ。

「呼吸する」が謳い文句の高級カッパではあったが、さすがに真夏では呼吸が追いつかず、内側は蒸れていた。

雲の様子を見ながらカッパを脱いだ。

たった一時間の着用ではあったが、これで買った名目は立つというものだ。

雨上がりの国道はカッパを脱いで涼しげなスタイルになった事もあり、実に歩きやすくなった。

雨で冷やされた海風が俺の背中を押してくれ、休憩する事なく、大磯まで一気に歩いた。

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長い長い海沿いの道ではあったが一度も海は見えなかった。

その代わり、松並がちょろちょろと俺の目を楽しませてくれた。

役場近くのレストランでちょっと早目の昼食を摂り、そこから東海道を離れた。

これから先、若者を連想させる海水浴場が鎌倉まで続く。

大磯の海沿いはむろん海水浴場のメッカで、東海道を離れ、海が見えるところに出た瞬間、人でごった返したロングビーチが現れた。

その先、茅ヶ崎、辻堂、湘南、江ノ島を越え、七里ヶ浜、由比ヶ浜とビーチが続く。

隙間のない若者通りであった。

大磯を出て平塚に入り、砂浜を歩きながら後ろを振り返ってみると、遠くに箱根の山々が見え、その近辺にだけ厚い雲がかかっていた。

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まさに「どんより」とした感じの空で、小田原では雨が降っているのだろう。

風向きから考えると、「どんより」がこちらに向かって来る事も予想された。

ゆっくり砂浜を歩くつもりであったが、意外に裸足でも歩きにくく、またガラスの欠片が落ちていて、

「こりゃ砂浜は歩けんな」

という事で再び国道に戻り、鎌倉を目指した。

茅ヶ崎に入ると海沿いを走る自転車専用道路を発見した。

もっとも、砂浜の隣にある舗装路なのでアスファルトの上に砂が積もっていて歩き辛くはあったが、海の見えぬ国道よりは楽しめた。

茅ヶ崎は想像以上に汚く、若者が多かった。

長い長いビーチに芋の子を洗うかたちで人がおり、その海の色はコーヒー牛乳の色で、至るところにゴミが散乱していた。

(こんなところでよく泳げるもんだ…)

感心すると共に、切れ間なく水着のギャルがいる事に無上の幸せを感じた。

一度だけ、ヤンキーの女にからまれた事があった。

ジロジロ見たつもりはないのだが、

「何ジロジロ見てんだよ!」

水着のヤンキー姉ちゃんが俺の元に詰め寄ってきた。

これが俺好みの姉ちゃんでなかったなら、こちらも反撃するところであろうが、プリプリの、明らかに俺好みの姉ちゃんだったため、

(確かにジロジロ見たかも?)

納得するところもあった。

姉ちゃんは女五人でビーチに来ており、後ろでは友達であろうか、四人の引き立て役がニヤニヤしながら様子を窺っている。

「何見てんだよっ?」

詰め寄るヤンキー姉ちゃんは近くで見ても可愛かった。

ただ、ここにいる若者らしく、色は黒く、髪は薄い茶色でパサパサしていた。

(もったいないなぁ…)

しみじみそう思っていると、同じ質問がもう一度、今度は強い口調で飛び出してきた。

「何見てんだよっ!」

俺は真顔になり、姉ちゃんの顔をジッと見つめ、そして姉ちゃんが一歩退いた瞬間を見計らい、こう言った。

「魅力的だから」

姉ちゃんはやはり若い姉ちゃんで、多感な年頃の女である。

数秒の間を置き、

「ど…、どうも…」

薄い笑いを浮かべながら恥ずかしそうに友達の元へ引き返して行った。

心地よい瞬間であった。

また、こんな接触もあった。

辻堂の海岸で海を見ながら黄昏れている一人の青年がおり、

「暑いっすねぇ」

休憩がてら声をかけたのであるが、この青年、見た目は暗そうでも喋り出すと止まらないタイプらしく、長々と自分の事を話し始めた。

「俺、東京で働いてたんだけどさぁ、サーフィンと仕事を天秤にかけて最近こっちに越してきたの。海を見てるとほんと落ち着くよ。俺、そもそもが鎌倉出身でさぁ、やっぱ海を見ながら育ったからさぁ、海がなきゃ駄目だ」

「海が好きなんですねぇ」

「俺の体の一部って感じ?」

「いや、その感じは聞かれても俺には分かりません」

「は?」

これだけ書けば、別に長々と喋っているように思われないかもしれないが、実際は上の事を語るのに語尾の「さぁ」を百回以上発するほど長い時間を費やしている。

聞いてるこっちは暑いし、話し手がどう見ても年下なものだから、だんだん腹が立ってきた。

「そぎゃん海が好きなら沖縄とか小笠原とか、もっと綺麗な海沿いに住めばいいじゃないですか」

「…」

「こぎゃんコーヒー牛乳みたいな海ば見てもしょうがにゃーでしょ。もっと青くて澄んだ海を見た方が身も心も落ち着くんじゃないですか」

「でもさぁ、江ノ島が見えない海は海じゃないよ」

これにはカチンときた。

全国のウミンチュのために俺は戦わねばならないと思った。

「だったら海が好きなんじゃなくて地元が好きとでしょ。コーヒー牛乳色の水があって、エボシ岩やら江ノ島が見えて、サザンの歌がはまるのが海だと思いよらすごたっばってん、それは海じゃない。それは単に、あんたの地元の事を言っている」

「む…」

関東で聞く熊本弁は喧嘩腰の感があるらしい。

事実、この時の俺は喧嘩腰であったが、見た目にも真っ黒でサングラスをしていたから怖かったのだろう。

青年は確実にびびっていた。

「兄ちゃん、これからは海が好きだと言うな! 地元が好きだと言え! 都会の荒波に負け、地元の優しい波に乗りたくなった、そう言いなさい!」

今思えば何とも凄まじい捨てゼリフを残したものだと感心する。

それも埼玉の職場を去り、地元・熊本へ帰った男が言うのだから見苦しい事この上ない。

えぼし岩よりゴミが目立つ海岸を歩きながら、

「言い過ぎた…、これも強い日差しのせい…?」

反省しきりであった。

ちなみに…。

江ノ島を間近に迎えた辺り、上半身裸で歩いた。

むろん、周りが水着の若者ばかりで目立たないと思っての行動だったが、脱いだ俺の体は白過ぎて異様に目立った。

それも腕や顔は真っ黒で脱いだところだけが白いものだから、脱いでいるのに脱いでいないような、何とも見苦しい絵になった。

それでも何分くらい歩いたろうか、二十分くらいは歩いたろう。

若者達がクスクス笑ったが我慢した。

だが、子供が俺を指差し、

「あの人、ポッキーみたい!」

そう言い、隣にいた母親が、

「や! やめなさい! むふっ!」

俺に顔を見られないよう下を向き、苦しそうに揺れたのは効いた。

すぐさま服を着、全力で場を去った。

さて…。

江ノ島を越えると、そこから鎌倉市に入る。

が…、鎌倉の中心まではかなりの距離がある。

歩きながら見る右手の海もさすがに見飽きてきた。

最初は眩しかった水着のギャルも見飽きてきた。

そうなると頭の中が暇になり、進むのが遅く感じられ、ついには腹が減ってきた。

ちょうど昨日の夜も世話になった吉野家があったので、そこで豚丼を食い、ついでにビールを二本ばかし飲んだ。

今日の宿は鎌倉のユースホテルで夕食は出ない。

明日の夜は横浜で友人と飲む事になっている。

このまま鎌倉の居酒屋で一杯やりたい気分ではあったが、余分な金は静岡で昇華させたため余裕がない。

質素な夕食を終え、七里ガ浜をゆっくりと歩いた。

この近辺、名勝が多い。

七里ガ浜の終わりに稲村ガ崎があり、その先は由比ガ浜。

全て見たが、どれも俺の心を揺さぶりはしなかった。

好みの問題だろうが、俺は「ものの味」というものにうるさい。

人が作ったものにしても自然のものにしても、

「うーん…、何かこう…、深いなぁ…」

言葉にならない、表現できない、深みのある「味」が欲しいのだ。

その点、古都・鎌倉では化粧坂に期待している。

事前の下調べで化粧坂の写真を見、たまらぬ味を感じたのである。

が…、その化粧坂には明日行く予定で、今日は暗くなりそうな時刻という事もあり、ユースホテルへ向かわねばならない。

袋小路が多い鎌倉の街で何度も何度も道を間違えながら、やっとの事でユースホテルに辿り着いた。

明るい宿主に迎えられながら一番風呂に入り、ユースホテルといえばの娯楽室へ、冷たいビールを片手に足を運んだ。

今日の男性宿泊客は五人、それでいて女性宿泊客が九人もいた。

女性陣はこの宿の常連らしく、繋がりはご近所の奥様衆という事で、「合宿」という名目で時々泊まりにくるのだそうな。

脂の乗った三十代後半という事もあり凄まじく賑やかな集団で、男衆と話をしても全く聞こえなかった。

男五人の中には子供が二人おり、その子は奥様衆の子供だそうな。

「うちの母がうるさくてすいません」

子供は小学三年だという。

都会の子供だけにしっかりしていて、

「お母さん達、うるさいから下で話しなよぉ」

頼んでもいないのに大人(男)三人の気持ちを察し、奥様衆を下の食堂へ追いやってくれた。

それから男五人で小さな宴を開いた。

「お母さんには内緒ぞ」

という事で二人の小学生にもビールを与え、ユースホテルらしく自己紹介から始めた。

二人の小学生は東京は品川から来ているらしく、俺が喋るたび、

「日本語がおかしいよぉー、超笑えるー」

腹を抱えて笑い、かなり俺になついた。

大人の一人は裸の大将みたいな容姿の怪しげな三十代で、福島からツーリング中らしい。

この人は本当に喋らない人で、話を振ってもニヤニヤ笑っているだけで不気味という印象しか残らなかった。

もう一人は八王子から来ている歴史愛好家で、四十台も中盤くらいであろうか。

鎌倉の歴史に詳しく、そして恐妻家であった。

「週末は家にいちゃいかん、どこかへ行けって妻に言われるものですから、今週はここにお邪魔して鎌倉を歩いてるんです」

「え、毎週ですか?」

「はい、恥ずかしい話ですが、子供が大きくなってからは会社が休みの度に各地を点々としてるんです。来週はどこに行こうかって毎週迷っちゃいます」

素晴らしく腰の低い人で、何となく家での姿が想像できたが歴史の事を語らせると豹変した。

鎌倉の地図をドーンと広げ、

「ここ! ここですよ! このルートに歴史の鼓動を感じました!」

熱く、そして雄弁に語ってくれた。

話を聞いていると、この人が鎌倉を訪れるのはこれが三十回目らしく、それを聞いて子供達も俺も驚いたわけだが、

「毎週末どこかへ行かなきゃならんと思って下さい…、五年も十年も経てば…、ね…、それくらいになるでしょ」

悲しげに呟く様は子供の教育上、絶対に良くなかった。

(結婚に悪いイメージを持たせてはならぬ! 少子化を促進してはならぬ!)

その思いから、

「おじさんの例は特殊だけんね、特殊! 一般的にはどこも家庭円満! うちなんかいつも裸エプロンでチューだけんね!」

テンションを上げ、場が沈まないよう配慮した。

恐妻家の話は基本的に下向きであったが勉強になった。

地図日記に恐妻家のオススメルートを書き込み、それをバックにしまった後は子供達とスゴロクをして遊んだ。

娘の春と離れ、既に一ヶ月が経過している。

人の子供ではあったが二人の小学生と遊ぶうちに春と話したくなってきた。

静かな便所へ行き、こっそり電話をかけた。

「春に代わってくれ」

嫁と数秒話した後、娘に代わってもらった。

「おっとー、早く来てー、待ってるよー」

片言だった娘の言葉がたった一ヶ月で見違えるように上達しているように思われた。

「待っとけ、待っとけ! 後二日でそっちに行くけんねぇ!」

「うん」

これがこの携帯電話の最後の通話となった。

明日、この携帯電話は友人の厚意で水浸しとなり、御役御免となる。

そんな事は何も知らず嬉しげに携帯電話を閉じ、談話室に戻ると、小学生二人が俺に駆け寄ってくれた。

「マサハルー、どこ行ってたんだよー」

何と呼べばいいかと聞かれたものだから、とりあえず「マサハル」と呼ばせた、これがいけなかった。

ちょうど下から母親が上がって来、

「こら! 呼び捨てで言うんじゃないの!」

「いや、いいんです、マサハルってのは単なる呼び名で自分の名じゃないですから」

「は?」

「いや、俺、福山って言うんです、だから」

「…」

母親はしばし黙り込むと、静かだが強い口調でこう言った。

「やめてください」

たぶん、あの母親は福山雅治のファンだったのであろう。

久しぶりに人から殺意を感じた瞬間であった。

明日は横浜まで歩く。

 

 

27-1、鎌倉街道をゆく

 

今日、鎌倉へ行ってきました♪

二人で初めて歩いた街へ♪

今日のあの街は人影少なく♪

思い出に浸るには十分過ぎて♪

源氏山から北鎌倉へ、あの日と同じ道程で♪

辿り着いたのは縁切寺♪

 

この歌はさだまさしの「縁切寺」という歌で、まさに俺が思い描く鎌倉のイメージである。

つまり、暗い。

前日の日記で書いた恐妻家に俺のイメージを語ると、恐妻家はそれにぴったりのルートを教えてくれた。

「まさに縁切寺、その道です!」

朝食の際も彼は熱弁をふるい、その道を何度も説明してくれた。

これだけ説明されては行かぬわけにはいかない。

皆に見送られながらユースホテルを八時に出、オススメルートに従い、まずは北上した。

オススメルートに見所は多い。

長谷寺、光則寺、大仏のある高徳院も道沿いにある。

京都と同じようにどこも有料で開館は九時、まだ開いていなかったが隙間から本堂を見る事ができたし、鎌倉の大仏も遠目に眺める事ができた。

この日も暑い。

ギンギンギラギラの太陽が木々の隙間に照っており、三キロ毎に水分補給をしなければならないほどであった。

ただ、オススメルートが山深い獣道だったのは助かった。

鎌倉の大仏を越え、大仏トンネル手前から右手の山中に入り込むと、土の匂い嗅ぎながら歩ける涼しげな道が現れ、それが源氏山まで続いた。(写真は知らない人のホームページから借用したもの)

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源氏山には言わずと知れた鎌倉幕府の創始者・源頼朝の像があり、鎌倉の街を見下ろしている。

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鎌倉という街は南側を海に守られ、北や東、それに西には小高い山がある。

現在では立派な県道が通ってしまったが一昔前までは山を切り開いて作った「切り通し」しか陸路でゆく術はなかったそうな。

その数ある切り通しの代表格が化粧坂(けわいざか)である。

前章でも書いたが旅行前の下調べで化粧坂の写真を見た時、

(鎌倉に寄らねば…)

その念に駆られた。

つまり、この旅行のテーマ、その一つである東海道を逸れさせたのは化粧坂なのである。

古来、都には戦が付きもので守りやすいというのは絶対条件であった。

大軍が一気に流れ込まぬよう切り通しは細く山を切り開いてある。

それは加藤清正が熊本城北部に築いた田原坂の凹字道も同じ事で、細い道に細く流れ込んで来た敵を両側から一気に叩ける構造、その効果は西南戦争で立証されている。

田原坂にはその凹字道の名残は残っているものの、アスファルト化されており、どうも味がない。

これに対し写真で見た化粧坂の切り通しは昔ながらのそれで、傾斜もきつく苔生しており、「歩くのが危険」と書いてあった。

道が好きで、道子と名の付く嫁までもらった俺としては、東海道の一部を捨ててでも行く価値はあると思ったし、行って良かったと思っている。

冒頭に書いた名曲・縁切寺では「源氏山から北鎌倉へ、あの日と同じ道程で、辿り着いたのは縁切寺」となっている。

たぶん源氏山から北鎌倉への最短ルートは化粧坂の切り通しで、歌に出てくる二人も、

「危ないよ、僕の手に捕まりな」

「ありがと…、あっ」

「ほら、危ないって言ったじゃん」

「ごめぇん」

てな具合に下っていったのだろう。

が…、今日の俺は一人。

歌のイメージは描き難いが鎌倉時代の事は思い描く事ができる。

さて…。

化粧坂の入口は深い緑に包まれていた。

下りに差し掛かった瞬間、辺りがずぅんと色々な意味で暗くなった。

傾斜は確かにきつく、足元はゴツゴツした石(岩?)になっていて、箱根の石畳とはちょっと違う。

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もっと乱雑な感じで、この違いは道そのものの目的の違いではなかろうか。

街道は旅人が歩きやすくなる事を考えねばならないが、切り通しは敵の侵入をここで防ぐというのが第一の目的。

そう考えると、この乱雑さが意図的なものに思えてくる。

(む、むむむむ! これは素晴らしい!)

ゆっくりゆっくり一歩一歩に驚きと発見を繰り返しながら、アッという間に坂を下り終えた。

坂の長さは距離にして百メートルちょいしかない。

ゴツゴツした足元はきつい傾斜を下り終えるとデジタル的にアスファルトに変わる。

それから先も緩やかな下りが続いている事から、一昔前まではまだまだ先まで化粧坂が続いていたのだろう。

が…、「建てられるところには家を建てよう」というバブル期の風潮が化粧坂を切ってしまったのではなかろうか。

とりあえず一度下っただけではその味がじゅうぶん楽しめなかったため、もう一度登っては下り、更にもう一度登っては下ってみた。

ちなみに…。

源氏山から北鎌倉へゆく途中、この化粧坂の他にもう一つ切り通しがあった。

こちらは舗装されているが、両壁が異様に高く、それでいて削ったって感じの壁面で、こちらもこちらで味があった。

また、このルートは基本的に細い裏路地なのであるが、そこに建つ家の立派さは並でなく、歩く女性も着物姿ばかりで、たぶん金持ちが住むところなのであろう。

休憩中、着物姿の老婆に、

「あつぅございますねぇ」

柔らかい口調で話し掛けられた時、

「はいっ、そうでございますねっ」

慌てた俺の庶民っぷりが悲しかった。

こういったものは育ちの中で培われるものだから望んでも難しいものであろうが、どっしりとしていてそれでいて優しい、そんな物腰が俺にも欲しいと思った。

さて…。

北鎌倉へ抜けて最初に現れるのが東慶寺、つまり縁切寺である。

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東慶寺は北条時宗の妻が夫の菩提を弔うために建立した尼寺で、現在七百年強の時を重ねている。

女性からの離婚が認められていなかった封建時代にあって、女性が駆け込める唯一の場所として縁切寺(駆込寺ともいう)があり、それは全国津々浦々にあったらしい。

この東慶寺は、それら数ある縁切寺の代表格だという。

縁切寺に駆け込んだ女はそこで三年間修業をする事で離縁が認められたという話で、そこは男子禁制の尼寺であった。

が…、明治になり、駆け込みという風土が廃れていき、この東慶寺も尼寺から普通の寺に変わっていったそうな。

現在の東慶寺は尼寺の名残であろうか、花の寺として有名で、様々な花が咲き乱れており、写真家が集う場所となっている。

ゆえ、歌の暗いイメージをそこに見出す事は全くできなかった。

ちなみに、さだまさしの縁切寺は次のように続く。

 

ちょうどこの寺の山門前で、君は突然に泣き出して♪

お願いここだけは止してあなたとの、糸がもし切れたなら生きてゆけない♪

あの日誰かに頼んで撮った一枚きりの一緒の写真♪

収めに来ました、縁切寺♪

 

きみは今頃幸せでしょうか、一度だけ街で見かけたけれど♪

紫陽花まではまだ間があるから、こっそりときみの名を呼ばせてください♪

人の縁とは不思議なもので、そんな君から別れの言葉♪

あれから三年、縁切寺♪

 

さだまさしはこっぴどい失恋をした後にこの歌を書いたのではなかろうか。

「人の縁とは不思議なもので」のところに言うに言われぬ書き手の悔しさがにじみ出ている。

「お願いここだけは止してあなたとの、糸がもし切れたなら生きてゆけない」

こんな事を言っていた女が「そんな君から別れの言葉」を発するのだ。

「あれから三年」

三年も立ち直っていない男の弱さも何やら凄まじく、粘着力のあるさだまさしワールドに更なる粘着性を与えている。

ただ、俺がこの歌を好きなのはこの歌には人間の血が通っているように思うし、男と女の質の違いを見事に歌っているとも思うからだ。

男の弱さ、ねちっこさ、それに対する女の起伏、ドライ感。

三年も経って縁切寺に写真を収めにきた男がいるかと思えば、甘い言葉を吐きまくった女はどこかの街で知らぬ男とランデブー。

たぶん、さだまさしはそんな絵を思い描いたのだろうし、

「それが現実よ」

と、この歌を書いた時、ちょっとひねくれた感があったのではなかろうか。

とにかく、さだまさしも九州の男で、それら九州の男が酒を飲み交わすと、

「やっぱ女は強か」

常の言葉としてこの言葉が出る。

俺も年月を重ねれば重ねるほどそう思うし、ピンポイントとして旦那を亡くした人と妻を亡くした人のコントラストだけ見てもその事を如実に物語っているように思われる。

さて…。

縁切寺を出て数百メートル北へ進むと有名な円覚寺がある。

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北条時宗が宋から無学祖元禅師を招いて造った寺で、臨済宗の総本山である。

臨済宗といえば禅宗の代表格で、座禅の総本山がここにあたる。

境内には座禅をする大広間みたいなところがあり、檀家の方であろうか、小さいのから大きいのまでがズラリと横に並んで座禅を組んでいた。

座禅は心を無にする事が肝心らしい。

本当に無になっているのかちょっと試してやろうという事で草葉の陰から、小粋なダジャレを言ってみた。

「この寺では九時に演歌が流れるんだって。そりゃ本当かい。円覚寺だもの、演歌九時」

向こうからはこちらの様子が窺えない。

座禅場は建物の中にあって反対側を向いており、こちらが見えないのだ。

が…、その見えないというのが効いたのかもしれない。

俺のダジャレの後、静かだった座禅場が何やら動き出した。

(おお、反応している、無になってないな)

そう思ってニヤニヤしていると若い小坊主が走り出てき、

「お静かに!」

何も喋ってないギャラリーにそう言ったではないか。

喋ってないギャラリーは意味が分からず頭を抱え、俺はこっそり場を去った。

「坊主も檀家も修業が足らぬ」

まさにその事で、実に気分良く円覚寺を後にした。

さて…。

鎌倉でゆっくりし過ぎた。

ユースホテルを出たのは八時だったのに気付けば正午になっている。

この日は横浜の港北区まで歩かねばならず、四十キロ弱もあるのに四時間経った今、直線距離で三キロしか進んでいない。

これは関ヶ原の出足を彷彿とさせる沈滞で、あの時のパターンだと到着は午後十時になってしまう。

「急がねば!」

という事でペースを上げた。

昼飯をコンビニのパンで済ませ、狭くて渋滞している鎌倉街道を脇目も振らず北上した。

横浜市にはすぐに入った。

なんと言っても横浜市は全国で一番人口が多い市である。

人口密度も高いが面積も広い。

鎌倉を出ると横浜市栄区に入る。

栄区を抜けると横浜横須賀道路をくぐる格好で港南区を通過。

道の名は鎌倉街道と立派な名が付いてはいるが何の面白味もなく、空気の悪い国道をただひたすら歩くのでペースは速い。

港南区を出ると南区に入る。

地下鉄の上を歩くかたちで北上を続けていると先の方に高層ビルが見え始め、人もわんさか見え始めた。

歌を歌うわけにもいかず悶々とし、更に人酔いした。

人酔いの原因は田舎人特有の通行人を見てしまう事にあると知ってはいたが見たいものは見たい。

駄目だと分かっていて見るものだから、ますます気分が悪くなった。

街道沿いの建物はだんだん高くなってゆく。

西区に入る頃には視界が建物だけになってしまい、黒山の人だかりを歩くかっこうとなった。

横浜駅前を通過し、約一日半離れた東海道に再び合流した。

ちょうどこの辺り、東海道の宿場・神奈川宿になる。

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何があるというわけではないが東海道に戻ってきたという思いを噛み締めると共に、

(後三つ宿場を越えれば日本橋!)

ゴールがすぐそこに見えてきた。

北鎌倉からノンストップでここまで来、疲れてはいたが何やら生き返る思いがした。

この地点、すっかり忘れていたが地図日記にこのような事が書かれていた。

「ビルの前でスポーツドリンクを飲みながら休憩していたところ、どいてくれ、ここはウチの敷地だと追い出された。茶を出してくれるところもあれば場所も貸さないところもある。人間は同じようで全く違う生きものだ」

かなり腹がたっていたのだろう。

そのビルの名がしっかりと書き込んであるし、漫画絵も書いてあり、

「ハゲオヤジ、むかつくー!」

それが吹き出しに書き込まれていた。

さて…。

この辺りから人の数は減ってゆく。

人の数は減るが歩道の幅はグンと広くなり、歩きやすくなった。

東京湾沿いを走る国道十五号を北上し、鶴見区に入った瞬間、国道を逸れ、真っ直ぐ北へ上った。

途中、薩摩藩の一人がイギリス人を叩き斬った生麦事件の現場があったので立ち寄ったが昔の面影は全くなく、何の参考にもならなかった。

ただ、生麦地区は住民運動の真っ最中らしく、

「静かな環境を返せ!」

この横断幕が至るところに見られた。

道路建設に関する反対運動であろうが、

(静かな環境がいいなら田舎に引っ越せばいいのに…、音云々よりもこれだけ渋滞してたら排気ガスの方が大きい問題だろうに…)

申し訳ないが運動には理解を示せなかった。

鶴見区は果てしなく長かった。

今日の移動の九割以上が横浜市であるが鶴見区が最も長いように感じられた。

今日の宿泊先は級友宅である。

級友の名は大津といい、最終日の明日、一緒に歩いてくれると言う。

今日は遅くまで杯を交わさねばならないだろう。

胸弾ませ歩くが歩けども歩けども大津の家は現れない。

味のない都会の道だけに喜びや発見は薄く、疲労だけがしんしんと積み重ねられていった。

鶴見川の堤防を歩いている時、山の見えぬ大平野に夕日が落ちていった。

山に落ちる夕日は見慣れているが住宅街に落ちる夕日は新鮮である。

「ほうほう、これはこれで」

疲れた体に染み渡る何とも言えない余韻があった。

大津宅に着いたのは何時くらいであろうか、地図日記に書いてないが夕日が落ちる頃だから午後七時過ぎであろう。

「おつかれさん」

大津は俺を優しく迎えてくれ、

「まずは風呂に入れ」

よほど臭かったのであろう、まずは俺を風呂に通した。

大津は会社の男子寮におり、その管理人ともあったが、

「あんた黒いのぉ、むふっ」

管理人は俺の肌色を大いに笑い、

「元気なもんもおるもんじゃ」

何ともいえぬ捨てゼリフを残していった。

大津は俺が風呂に入っている時、気を利かせてくれたのだろう洗濯機に俺の洗濯物を投げ入れてくれた。

風呂から上がり、

「洗濯もん、洗濯機に入れといたぞ」

そう言われた時、ふとポケットに携帯電話を入れていた事を思い出した。

ハッとし、大津の顔を見た。

大きな体に伸びきった鼻筋、そして豊かな唇、ピーンと伸びた背筋に澱んだ雰囲気、ニンマリ笑う大津の顔はとてもポケットの中身を確認しているようには思えなかった。

「大津、ポケットに携帯入っとらんかったや?」

そう言った瞬間、大津は洗濯機へ走った。

そして、見事に濯ぎの段階に入った携帯を、

「あったぞ、あった」

ニンマリ持ってきてくれた。

たまらない、たまらないがこれがこやつの味であろう。

今回の旅のテーマは道と城と古戦場であったが、

「味のあるものだったら何でも見よう」

自然、そういう風な変化を遂げた。

味…。

それは海にも山にも人にもある。

その点、こやつは味に溢れた人間と認めざるを得ない。

「ま、こういう事もあるわな」

笑う大津の手の平に俺の携帯が死んでいる。

旅も後一日、終了を間近に控えて逝った携帯に、

「味のある奴め…」

そう呟くしかない俺であった。

 

 

27-2、その晩

 

川崎に堀之内という歓楽街がある。

関東では「南の雄」と呼ばれるほどの立派な歓楽街で、その歴史は古い。(俺の先輩がそう呼んでいた。ちなみに北の雄は西川口らしい)

江戸時代の里謡にこういう歌がある。

「川崎宿で名高い家は万年屋、新田屋、会津屋…」

ここでいう「家」とは茶屋の事を指しており、娼妓を置いている宿の事を言っている。

ヤジさんキタさんで有名な東海道中膝栗毛では川崎宿の一節で女中をからかいながら茶飯を食うシーンもある。

また、今から百五十年前に来日したイギリスの植物学者フォーチュンは里謡の冒頭に出てきた万年屋に泊まり、こう書き残している。

「若い女達が僕の周りを取り囲み、お茶を注いだりお菓子を口に入れてくれ、至れり尽せり至極満足」

これを読んだ総領事・ハリスに至っては川崎で泊まる際、本陣(偉い人が泊まるところ)への宿泊を拒否し、フォーチュンと同じ万年屋に泊まったという。

何とも色々な意味で歴史深い歓楽街ではないか。

「福山、行くや?」

真正面に座っている大津がその声を掛けてきた時、俺の心は大きく揺れ動いた。

下心はない。

下心はないが、勉強のため己を磨くため、

(是非足を運んでみたい!)

そう思った。

大津の家(寮)は横浜市の港北区だから川崎の堀之内は川一つ挟んだ隣にある。

タクシーで行けばものの数分で着く。

俺と大津は寮のそばの居酒屋で冷たいビールを飲みながら、昔の事や旅の事、これからの事を語り合った。

その合間に「行くべきか行かざるべきか?」その話題が何度も飛び出した。

東海道の宿場は日本橋を出ると品川、川崎、神奈川宿と続く。

むろん、これらの宿場は江戸に近い事もあり大きく栄えていたのであるが、遊郭という点では川崎宿が際立っていたらしい。

事実、明治政府から花魁(おいらん)解法令が出された後、神奈川宿から十件の営業申請があったのに対し、川崎宿からは百件以上の申請が出たそうな。(規模は神奈川宿が大きいのに)

昔からそういう稼業が川崎という街に根付いていたという事だろう。

「どぎゃんすっや?」

大津が大きな唇を揺らしながら俺を見、ニヤリとした。

たぶん、こやつにも下心はない。

文化を知ろう、日本を知ろうとする勉強心が二人の男達の中で轟々と渦巻き始めたのである。

「行こう!」

その事を決めた瞬間、東京から駆けつけた淵上という級友が現れた。

この淵上もどちらかというと日本史が好きで、そういった文化を知る行動が嫌いではない。

いい具合に酔った後、タクシーに乗って川崎宿へ向かった。

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川崎宿は六郷の渡しで栄えた街ともいわれており、渡しの船賃でかなり潤ったそうな。

橋を架けようと思えば架けれたのだが大正十四年まで架けず、長くダラダラ儲けた経緯がある。

だからか分からぬが、街の中はどこか活力がなく、「どうにかしてよ」という雰囲気さえあるように思われた。

たまたま乗ったタクシーにおいても堀之内で降りたつもりがかなり遠いところに降ろされてしまい、初めて訪れた者から言わせれば、

「ちょっと印象が悪いです」

川崎はそういう印象の街となった。

第一印象というものはなかなかどうして重要で、それが悪いとその後のものがダレて見える傾向もあるようだ。

栄えているのだがどこかしおれているように見えたし、ネオンにも力がないように思われた。

地元民の大津を先頭に、男三人は縦一線になって川崎見学をしつつ堀之内方面に歩いた。

その途中、城倉という前会社の同期に電話をかけ、堀之内という街の事を教えてもらった。

城倉氏は数年来この街の大ファンで、彼に聞けば街の概要を掴む事ができるだろうと期待し、事実、彼が贔屓にしてる特定の文化を懇切丁寧に教えてもらう事ができた。

さて…。

歓楽街というと福岡の中洲にしろ名古屋の栄にしろ北海道のススキノにしろ煌びやかなイメージがあるが、堀之内は何となくしっとりとしていた。

少し前、文章学校に行っている時、先生と東京の吉原見学(マジメに歴史を勉強する)に行った事があったが、その時の雰囲気に似たものがあった。

どこか重さがあるというか高級感があるというか…。

歴史の厚みがそれら雰囲気を与えているのだろう。

ちなみに街を歩いている時、午前零時を回った。

現在の風営法では零時以降の営業は禁止されている。

街は一斉にシャッターを下ろし、控え目だったネオンは更に小さく、蝋燭のような光に落ちた。

が…、暗い入口の影から呼び込みの兄ちゃんは離れない。

「さ、これからが仕事だ」と言わんばかりにギラギラした目で街を見渡している。

いつも思うのだが、零時に終わる風俗店がどこにあるのだろう?

風営法は何を目的とし、どういう効果を期待しているのだろう?

電気代を節約するために風営法があるのなら電気需要の大きい昼にこそ風営法を適用すべきだと俺は思うのだが。

取り締まる側と営業する側、それに世の中の需要という要素がからんだイタチゴッコは永延にこれからも繰り返される事だろう。

風営法を単なる役人の時間つぶしにしてはならないと思うし、何かもっと深いところにこの法律を活かせないものか。

考えても無駄だが、堀之内が発する粘性の強い文化は男三人に様々な疑問を投げかけてくれた。

ちなみに…。

ゆるりと歩く男三人、彼らがどこへ流れたか、その事が分からない。

地図日記にも書いてなく、残念ながら記憶にもない。

大津に聞いても淵上に聞いてもあの時の酒が強すぎて皆記憶を失っている。

残念無念、こればかりはどうしようもなく、どうやら肥後もっこすは旅行中や出張中、結婚式の二次会などで記憶をなくす傾向があるようだ。(俺は該当しない)

記憶が戻ったのは大津の部屋であった。

淵上と語り合っていると大津の凄まじい鼾が聞こえてきた。

大津は俺の携帯を洗濯機にぶち込んだ事などスッカリ忘れ、素敵な夢を見ているに違いない。

鼾の合間に何を思い出しているのかニヤリと笑った。

「ほら淵上、見てん、大津が笑っとる」

「むふふふ」

「むふふふ」

明日は東京。

この大津と一緒に終点・日本橋まで歩く。

 

 

28、江戸東京日本橋

 

地図日記によると起きたのは午前八時となっている。

起きるや級友の淵上とカップラーメンを食いつつ家主の大津を起こした。

「大津、起きろ! 歩くには最高の天気ぞ!」

カーテンを開けると強過ぎる日差しが澱んだ八畳間を真っ白に染めた。

淵上はこの日も仕事。

「八時を過ぎとるばってん会社間に合うや?」

問うてみると、

「大丈夫、朝はゆっくり出社すればいい」

との事。

ソフトウェア関係の仕事は朝も夜も遅いのがリズムらしい。

酒が少々残っていた。

昨晩は大津に居酒屋代を奢ってもらい、淵上にはタクシー代を出してもらった。

「無職の旅人には払わせられん」

と、嬉しいやら悲しいやら厚い情けをかけてくれたものだから、それに甘えるかたちでたっぷり飲んだ。

「大津ー、そろそろ行くぞー、起きろよー」

だるくはあったがジッとしていてどうなるものでもないので、気分を歩く方向に切り換えた。

このあたり、約一ヶ月も歩いた経験であろう。

起きて三十分もウダウダすると、

(さあ、歩くぞ!)

自然とそういう気分になってくる。

酒がたっぷり残っている大津に至っては歩くどころか起きる気にもならないらしい。

一時間ほどしつこく起こし、一度だけ目覚めてくれたが、

「歩く? 馬鹿んごたっこば言うなぁー、俺は寝る、そう決めた」

また布団の中に潜り込んでしまった。

「仕方がない」

一人旅には慣れ過ぎているほどに慣れている。

見送りもできない大津を部屋に置き、俺と淵上はそっと寮を出た。

淵上はスーツ、俺は大きなリュックを背負った旅人の格好である。

「じゃ、頑張れよ」

淵上にエールをもらった俺は歩いて東京へ向かい、淵上は電車で東京へ向かう。

お互いに山もなければ峠もない限りなく平坦な道である。

既にここは関東平野、建物がビッチリと立ち並ぶ首都圏。

俺も電車も建物の隙間を縫うように進まねばならないから景色などは期待できない。

せいぜい立派なビルを仰ぎ見るくらいが今日の景色であろう。

住宅街の細い道を抜けて県道に出、多摩川に向かう道が今日のスタートであった。

流れ出る汗が酒臭い。

こういう時は一時間ほど体がだるい。

が…、それさえ越えれば本調子になる。

何度も繰り返し擦り込むようにその事を経験しているものだから、復活のタイミングを体が知ってはいるが、辛いものは辛い。

新川崎駅のちょっと北側の陸橋で「ふぅふぅ」言いながら休憩をとった。

と…。

俺の前を肌の黒い外国人が自転車で通り過ぎていった。

この時の俺、何も気にする事なく平和に茶を飲んでいる。

が…、茶を飲み一息吐いて周りに視線を移した時、その平和が壊れた。

先ほど通り過ぎた外国人がちょっと先で自転車を停め、俺に熱い視線を送っているではないか。

更に目が合った瞬間、外国人は白い歯を見せニンマリと笑ったではないか。

(危険だ! 関わってはいけない!)

俺の中で幾つもの警報が発されたがここは陸橋の頂上、それも外人がいるのは俺の進行方向、逃げ場がない。

仕方がないので無理な笑顔を保ちつつ、

「ナイストゥミーチュー」

すれ違いざま知ってる英語を発し、やり過ごそうとした。

この時点で外国人は俺の英語力を察したのだろう。

英語で何かを言ったが、すぐ日本語に訂正し、

「スミマセン、オハナシガアリマス」

俺を呼び止めてきた。

呼び止められるとは思っていたが、実際に呼び止められると体が強張った。

もし危険な流れとなった場合、光の速度で逃げれるよう足の親指に力を入れ、

「なんですか?」

外国人と反対の方向に重心を置き、話を聞いた。

外国人は片言の日本語で名を名乗り、

「アヤシイモノジャアリマセン、シンジテクダサイ」

何度もそう言うと、

「コマッテマス、コマッテマス」

瞳を潤ませながら俺に泣きついてきた。

話はこうである。

数日前、「いい働き口がある」と甘い話に乗せられ、友人の車に乗って川崎に来たらしい。

が…、その友人はいつの間にかいなくなり、日払いのはずだった給料も貰えず、労働は過酷の一言に尽きるらしい。

彼は埼玉の草加に住んでいたらしく、とりあえず草加に戻ろうという事で仕事場から逃げ出してきたらしく、乗っている自転車は仕事場にあったものだという。

それで、

「ジテンシャ、アゲル! アゲルカラ、ソウカマデ、デンシャダイ、クダサイ!」

それが俺への頼みらしい。

片言の日本語からこれだけの話を聞き取るまでにどれだけの時間がかかるか想像してもらえば凡そ分かっていただけようが、かなり長く彼の話に付き合った。

ちなみに、「どこの国の人か?」と聞いたら「キカナイデクダサイ」と言っていたから不法入国者であろう。

話には熱がこもっており、自転車は盗品である事を素直に言っていたし、更に要求している事も素直すぎるくらいに素直で彼が嘘を言っているとは思えなかった。

瞳も異様なほどに澄んでおり、悪い人間には見えない。

が…、いかんせん盗品の自転車と引き換えにジャリ銭を渡すのは百害あって一利なしだろう。

その点、文化の違いではなかろうか。

外国人はよほどこの交換に自信があるらしい。

まさか俺が断るなどとは思っていないらしく、そのために最も自転車を必要としていそうな俺に狙いをつけたらしい。

「コウカン、オトクデス、オトクデス」

必死の外国人を前にどう断ろうか考えていると、

「コノジテンシャ、ニホンセイ、チュウゴクジャナイ」

外国人はそんな売り文句まで発し始めた。

これは笑えたし、その必死さが違う方向(犯罪など)に向かうと困りものだとも思った。

結局、俺の採った対処法は彼と一緒に陸橋を下り、そこでスポーツドリンクを買ってあげ、

「その自転車で草加まで走れ! このガソリンでじゅぶん行ける!」

というものであった。

今でもこれが正しかったかどうかは分からない。

分からないが何かせねば外国人は離れてくれなかったろうし、現に「アリガトゴザイマス」と元気に去ってくれた。

ちなみに…。

あれから約一年が経過した現在、川崎から草加までの距離を測ってみた。

四十キロ弱。

ママチャリでも三時間の距離で俺の決断は正しかったと今更ながら思っている。

さて…。

出だしから良い事をした最終日であるが、陸橋を越えると多摩川にぶつかる。

この多摩川をガス橋という何とも屁をふりたくなる橋で越え、東京に入る。

ガス橋という名の由来は東京ガスがガス管を通すために申請した橋、そういう事らしく、それに地元の連中が「ガスだけでなく人も通れるようにしてれろ」と騒ぎ出し、一発目のガス橋ができあがったそうな。

プリプリ屁をふりつつ念願の江戸入府である。

大田区の下丸子を抜け、環八を横切り、第二京浜を横切ると右手に歌で有名な池上線、その池上駅が現れた。

 

池上線が走る街に♪

あなたは二度と来ないのね♪

池上線に揺られながら♪

今日も帰る私なの♪

 

歌の影響とは恐ろしい。

池上線を歌いながら歩いていると何だか擦れ違う女性誰もが歌の中に出てくる感傷的な女性のように思えてくる。

それでいて歌にハマらない元気な女性を見てしまうと見て見ぬふりをしてしまうから、人間というのは何ともご都合主義だなと思ってしまう。

ちなみに東京は歌に出てくる地名が多い。

(歌になってない地名がないのでは?)

そう思えるくらい、その地その地の歌がある。

(景色が見えないし史跡も残ってないから頭の中が暇になるだろう)

そう高をくくっていた俺であったが、実際に歩いてみると歌に飽きた頃、次の知ってる地名が出てき、また歌を歌い出すという感じで意外に多忙であった。

ただ、道は人が多くて歩き難く、それでいて味がない。

広く混雑した歩道をぼちぼち歩き、ひたすらゴールの日本橋を目指した。

東海道本線・大森駅を右手に、それからちょいと先に進んだところで品川区に入った。

地図日記によると、ここで昼飯を食っている。

チェーンの和食屋だっただろう、安めのランチを食い、食った後、店内にあった公衆電話で家族に電話をかけた。

予定通り今日の夕方には到着する旨を伝え、その時刻が「夕方六時くらいになるだろう」と言うと、長女の春が、

「おっとー、早くねぇー、待ってるよぉー」

そう言ってくれた。

また、今回の旅は「二人目の出産と俺が春日部に着くの、どっちが早いか?」その競争もしている。

「どうや、腹の具合は?」

道子に問うと「まだまだ生まれそうにない」と言う。

二人目の出産に付き添ってやれる可能性は濃厚になってきた。

とりあえず、春が言ってくれた「早くねぇ」は芯から嬉しく、その事で「一歩一歩の足取りに力が蘇った」と地図日記に書いてある。

時刻はこの時点で午後二時を回っていたろう。

二日酔いも完全に抜け切っており、精神的に盛り上がってもいる。

最高の状態で先を急いだ。

この日も暑い。

コンクリートジャングルは上からだけでなく下からも照り返しという容赦ない熱波を受ける。

「この日も暑い」という一文を俺は何度書いたであろう。

この日も本当に本当に暑かった。

一ヶ月も歩き、雨が一日しか降らなかったというのも異常な話であるが、この夏の連続した暑さこそ異常中の異常であろう。

滝のような汗にも慣れてしまった感があり、衣服がビショビショになろうとも大した違和感は覚えなくなってしまっている俺であるが、

(最後くらい涼しくてもよかろうに…)

ギンギラギンの太陽が恨めしくもなってくる。

大井町駅南の陸橋を越え、神奈川宿から離れていた国道十五号にぶつかるとそこは東海道・品川宿である。

江戸の人間は旅に出る友人や家族をここ品川宿まで見送りに来たといわれている。

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国道十五号に乗った瞬間、風が吹き始め、涼しくなった。

道が広いという事もあろうが、道の先にはビルが林立しており、そのビル風が国道を真っ直ぐ流れてきているのだろう。

すぐ隣が東京湾なので海風のようにも思われるが、海は建物に遮られて見えない。

この辺り、宿場の名残はない。

そういうものは東京大空襲で綺麗さっぱりなくなってしまったのであろう。

その代わり、戦後の遺物として青物横丁という街が生まれている。

青物横丁は戦後闇市の代表格という事でその名が知られているが、ぶらりその辺を散策する限り、今はその名残も薄いように思われた。

国道の歩道は俺が五人は並べるほど広かった。

ビル風も絶え間なく吹いてくれ、高層ビルがつくる日陰もありがたい。

人口密度が高すぎて気持ち悪くなる事が予想された都心であったが、品川駅前以外は大した事なく、昨日歩いた鎌倉街道(横浜駅近辺)に比べれば何て事はなかった。

典型的な田舎者らしくキョロキョロしながら順調に歩いた。

(うーん、凄い…)

ここ東京を歩いていると人間の底力というものを否応なしに感じてしまう。

広重の錦絵を見てもらえば分かろうが、旧東海道は海沿いを走っており、ほんの数百年前まで海が目の前に見えたのだ。

それが今では東京湾沿いグルリと埋め立てられ、街道からは海が見えず、更に大空襲で綺麗に燃えた東京が建物の密集地となっている。

家康が領主となった時の江戸は葦の広がる湿原だったという。

(人間は凄い!)

まさにその事で、ほんの四百年の間に江戸東京は激しい変化を続けてきた。

(次の大きな変化、そのキッカケは北朝鮮か、はたまた大地震か?)

くだらぬ事を考えつつ、北へ北へと歩いた。

さて…。

品川駅を過ぎると有名な泉岳寺が左手にある。

赤穂義士ファンなら誰もが知っている寺で、殿中で刃傷事件を起こした浅野長矩が葬られた寺である。

赤穂義士四十七の墓も藩主に寄り添うように建っていると聞いていたので、賽銭でも投げようと立ち寄ったのであるが、やはりそこは東京、周囲にビルが林立しているため景色や雰囲気が異様にハイセンスで味に欠けた。

ちなみに…。

さすが東京という賽銭を見た。

何気なく老夫婦が置いた賽銭、それが一万円だったのだ。

墓は高田馬場の仇討ちで有名な堀部安兵衛のもので、それの大ファンなのであろうか、はたまた千円札と間違えたのであろうか、老夫婦は落ち着いた仕草で一万円を墓前に供えるとペコリ頭を下げ、ゆったりとした足取りで立ち去った。

(何と大胆な!)

見ている俺は気が気でない。

賽銭箱みたいなものに入れるなら確実に寺まで渡ろうが、その一万円は無造作に墓の上に置かれていたのである。

重石として転がっていた石がちょこんと乗っかってはいるが、そんなものカラス除けにもならないだろう。

(うわー! すげぇー!)

金に困った人がこれを見つけたら間違いなく持っていくだろう。

困ってなくとも、

「目の前に一万円が転がっとる! どぎゃんしよー!」

今現在、リアルに騒ぎ立てている俺がいるのだから。

休憩中なのにリラックスできず、目も心も一万円札に奪われている俺の前を何十人もの参拝客が通ってゆき、

「おー、一万円だ!」

驚きの声を上げるが手は出さない。

寺という場所の力か、はたまたその金額のせいかは分からぬが、誰もが気になりつつ去っていく。

俺と同じ小市民がいっぱいで何だか可笑しく、先ほどの老夫婦におちょくられている気分がしないでもない休憩時間であった。

さて…。

一万円のせいで気もそぞろのお参りをした俺は国道十五号で田町駅まで行った後、そこから真っ直ぐ北へ日比谷通りを歩いた。

左手の芝公園にちょうど春くらいの女の子がおり、俺にニコリと笑いかけてきたので早めの休憩をとった。

柄にも合わぬがカルピスサワーなど飲みつつ、

「幾つ?」

聞いてみると、二歳と指で示してくれた。

「お兄ちゃんの子供も二歳ばい」

優しい声音で話を進め、女の子もニコニコ笑ってくれたのであるが、その光景を遠目で見ていた母親は危険を感じたらしい。

数十メートル先から鬼の形相で走り寄ってくると、

「おいでっ!」

娘の手を引き、瞬く間に俺の視界から消えていった。

真っ黒に焼けた肌、汚れた服、娘より重そうなリュック、確かにどれをとっても普通のお兄ちゃんではあるまい。

親の気持ちも分かるだけに憤りもせず、

(春はどんな反応をするか…?)

その事を考えると少しだけブルーになった。

日比谷通りを真っ直ぐ進み、新橋を越えると日比谷公園が現れた。

ゴールはもうすぐそこである。

平和の象徴というよりも人間のせいで堕落してしまった野性味皆無・都会の鳩、その群れを蹴散らしながら日比谷公園を突っ切ると皇居の堀が見え、その先に江戸城南の玄関・桜田門を見る事ができた。

大老井伊直弼が尊王攘夷派に暗殺された事件がここであり、それから日本は駆け足で新しい時代へ進んでいったと思うと単なる江戸城入口に何やら言い知れぬ味が出てきた。

そして、さすがといえば江戸城の石垣、長々と横に広がる石垣は石垣ファンの俺も納得の見事なものであった。

ちなみに俺は五年も埼玉に住んではいたが皇居(江戸城)に来るのは初めてで、東京で遊ぶといえば池袋か新宿、それ以外は記憶にない。

ゆえ、江戸城はおろか千代田区の政治臭さも新鮮で、城内に右左翼両団体が入り乱れ、宮内庁の警備車と戦いつつ街宣活動をしているのには驚いた。

(堀沿いをゆるりと歩きたい)

そう思ったが、今日は頭の中が勉強モードではなく子供モードになってしまっている。

(一刻も早く娘と会いたい!)

この思いの方が勉強に優った。

皇居を真っ直ぐ北へ突っ切り、大手門から東へ曲がり、日本橋を目指した。

東京駅を越え、現在は橋など架かってもいないが交差点に「日本橋」という字が見えた。

その交差点がゴールである。

看板が見えた瞬間、何だか胸が熱くなった。

(色々な旅をした…)

そう思った。

色々な旅をしたが、こんなにも熱い旅はなかったであろう。

近年例を見ない猛暑と戦いつつ三日目で熱中症に倒れるところから旅はスタートし、豊後街道、京街道、北国街道、中山道、鎌倉街道、東海道と多少の脱線はあったものの歩き続け、ついにこの時を迎えた。

旅の規模でいえば学生時代に自転車で日本縦断というものをやっていて、それの方が距離は長いのであるが、日本最北端・宗谷岬に辿り着いた時にもこんな感動はなかった。

(それはなぜか…?)

これを書きながら考えるに、

「歴史と共に歩く歩かない」

その違いではなかろうか。

俺は一人で歩いているようで一人じゃなかったように今更ながら思う。

(今現在を形造った先人達の足跡と共に歩いてきた!)

その事が単なる「日本橋」という看板に胸震わせている原因ではなかろうか。

今、ゴールテープを目の前に迎え、そのテープを一人で切るのではなく、多くの旅人達が俺と同時にテープを切る。

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北からは日光街道の旅人が、東からは水戸街道の旅人が、そして南からは東海道の旅人がこの日本橋にぶつかる。

「おつかれさん」

日本橋の交差点に立ち、無意識無想のうちに呟いた一言がこれであった。

俺自身に言ったのか、はたまた別の誰かに言ったのか、それはよく分からないが孤独な独り言でないのは確かで、大勢の誰かしらと到着を喜び合った感覚を今でも覚えている。

右手に高島屋、左手に首都高の江戸橋ジャンクションが見え、道は車で鮨詰状態、歩道には人が溢れている。

地下からジャンジャン人が出てき、同時に吸い込まれてもいる。

これが現在の日本橋であった。

時計を見るとちょうど午後四時。

これからちょっとばかし東へ歩いて茅場町までゆき、地下鉄と東武線を乗り継げば予定通り午後六時前には家族の待つ春日部に着く。

日本橋到着の感動をもう少し味わいたかったが、この乾いた風景を長々と見てしまっては感動が薄れそうだったので旅人達と別れを交わし足早に立ち去った。

茅場町から乗った地下鉄は満員でこそなかったが混んでおり、臭いだろうと遠慮して端っこで立っていたのであるが、俺の周りにだけ人が寄り付かなかった。

俺の想像が及ばないほど実際は臭かったのであろう。

久しぶりの地下鉄に揺られながら、

(本当に味がない乗り物だ)

そう思った。

真っ暗な車窓に血の通っていない車内の雰囲気。

(何か楽しみを見出さねば…)

そう思ったが、窓に映る自分を見る以外、何の楽しみも見出せなかった。

ところで…。

一ヶ月という旅の中で俺は何度も「味」というものを考える機会を得た。

人の味、石垣の味、川や山の味、道の味…。

いずれも表現し難い、しかし心揺さぶる、目に見えるところの裏側にあるどっしりとしたもの、それが味だというのが俺の結論であった。

「うーん、何だか分からんが何だかいい!」

それが味というもので、上手く表現できるものは味とは言わないのだろう。

電車の中は暇なので西郷と大久保の事を考えてみた。

「西郷は馬鹿である、大きく打てば大きく鳴り、小さく打てば小さく鳴る」

坂本竜馬がこのような事を言っていたように記憶しているが、俺も西郷は馬鹿だと思う。

馬鹿ゆえに得た説明しようのないカリスマ。

大久保は天才肌で威圧感こそあるがカリスマがない。

リアリストで、下っ端から見れば頭がきれる怖い上司というところではなかろうか。

ただ、大久保の素晴らしいところは相方の驚異的カリスマを認め、それを恐れ、それを利用した、そこにあり、それによって歴史が動いている。

日本を世界に負けぬ軍事国家とした山県有朋は西南戦争で惜しげもなく命を捨てる薩摩武士を見た時、明治政府にも西郷並のカリスマがいると思ったに違いない。

が…、そうそう天性のカリスマを持った奴などいるはずもないし、自分がそれを持っているとは思えない。

そこで天皇をそのカリスマに仕立て上げる案を思いついた。

太平洋戦争終了まで続く「天皇陛下万歳」の文化は「この時」から始まったと俺は前々から思っていて道子などにその事をくっちゃべっていたのであるが、それが先月放送された「その時歴史は動いた」で取り上げられていたのには驚いた。

「先に言われたー! これで堂々と言えんくなるー!」

あれだけ視聴率の高い番組で取り上げられては物知り顔に語れないではないか。

話が脱線してしまったがこの事で何が言いたいのかというと、カリスマそのものが味というものの代表的事例だと思うのである。

カリスマというものの構成要素は「徳」とか「雰囲気」だと思うが、その構成要素自体ぼんやりとしているし、見る事ができない、そして上手く表現できない、しかし、そのものの存在感だけはどっしりしたものを感じる。

それが「味」というものではなかろうかと事例を通して言いたいわけである。

ちなみに西郷がどれだけのカリスマを持っていたのか見てないので分からないが、現代人で凄まじいカリスマを放っているのはミスタージャイアンツ長嶋であろう。

「長嶋のプレーは溌剌としている! それがいい!」

人はそう言うが溌剌としているプレーヤーは他にもウジャウジャいる。

溌剌だけでなく、何か他に心の底を揺さぶるものがあるのではないか。

西郷は坂本竜馬に馬鹿と評されたが、長嶋もそういう評価を得るための材料には事欠かない。

ドロボウが家に入ってきて、そやつと会うためにスーツに着替えるのは長嶋ぐらいであろうし、人に野球を教えるのに、

「ビュンですよ、ビュン」

それだけ言って大満足で立ち去るのも長嶋の長嶋たるゆえんで、一般的な人とは感覚がまるで違う。

味とは天性が醸し出すもので、それらを得ようとしても土台無理だろうが、義経、信長、西郷、いずれにしてもカリスマ人物の結末はよろしくない。

電車に揺られ、窓に映る自分の顔を凝視しつつ長嶋の事を心配したりもするのであった。

さて…。

地下鉄から東武線に乗り継ぎ、約一時間半をかけて春日部に辿り着いた。

駅から道子の実家までは徒歩で約十分。

(泣かれたらどうしよう…?)

春がどんな顔をするのか考えると気が気ではなかったが、「早くねぇ」と言ってくれた娘の事だ、悪い顔はしないだろう。

家の前に立ったところで中の様子を窺う事ができた。

寝転がっている義母が見え、その手前に道子と春が見えた。

向こうはこちらに気付いていない。

窓の前に立ち、中をニコニコ見ているのだが、誰も気付いてくれない。

「じゃんじゃじゃーん!」

とか言って登場する事も考えたが、このまま誰かが気付いてくれる事を待つ方がインパクトがあるだろうと思い、笑顔で待った。

が…、本当に誰も気付かない。

仕方がないので窓を二回、コンコンと叩いた。

これが七月二十八日午後五時半、家族と再会した瞬間であった。

義母が窓の方を向いた。

そして、

「ギャー!」

ホラー漫画でもなかなかお目にかかれない鬼の形相で叫び、それにビックリした春が、

「ぶぇ! ぶぇーん!」

と、泣き出した。

俺は焦った。

感動の再会が鬼でも出たかのような厳しい展開に陥ってしまったのだ。

道子だけは正気だったようで、

「ほら、春! おっとーだよ、おっとー!」

春を正気に戻そうと奮闘してくれたが、今度は義母がむせながら笑い始めた。

「黒い! 黒い! 黒いだわー! ぷひー!」

つられて道子も、

「何だよ、それー! 黒いよー! どこの国の人だよー! ぷひー!」

母と祖母が笑い転げる中で春は不安絶頂。

目の前にいる黒い人物が父親とは認識できないらしい。

それならばと実力行使で春を抱きかかえ、

「おっとーだぞ、おっとー!」

声を上げながら高い高いをしてやると強張っていた春の体がようやくほぐれてきた。

「おっとー?」

「おう、おう、おっとーだ、おっとー」

「おっとーだー!」

笑顔が戻った一ヶ月ぶりの春は俺の知っている春とは違い、喋れる春になっていて、

「歩いて来たの? ずぅーっと、ずぅーっと、すごいねぇ」

道子が何を教えたのか知らぬが流暢な日本語で「すごいねぇ」と言ってくれた。

義母はまだ笑い続けている。

俺を横目でチラリと見、目が合うたびに、

「ぷひっ、黒い、黒いだわー! それに臭い!」

出雲弁全開で何度も同じ事を言った。

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それからであるが…。

ゆるりと風呂に入った後、冷たいビールを飲みながら豪勢な夕食へと流れた。

夕食には何と寿司が用意されており、赤飯まで炊いてあった。

春は俺のいない一ヶ月で起こった事を一生懸命話してくれ(ほとんど分からなかったが)、

「おっとーもいれば良かったのにねぇ」

そう言いながら俺の顔を覗き込んでくる。

(可愛いなぁ、俺の娘…)

この時ほど娘の事を可愛いと思った事はない。

 

会えない時間が愛育てるのさ♪

目を瞑れば君がいる♪

 

愛すべきヒロミゴーはそう歌っているが、まさに旅の最中、俺はその状態だったろう。

嫁も気にはなるが娘のパンチ力には到底敵わない。

この日から次女が生まれるまでの数日間、俺は春とうんざりするほど戯れる運びとなる。

ちなみに出産寸前の道子であるが、予定日は八月八日。

今日は七月二十八日なので後十日ほど余裕がある。

が…、いつ産まれてもおかしくないという話。

第一子・春が産まれた時は俺がひったくりに遭い、そのひったくられたものが柿ピーで、落ち込みながら歩いていると、ひったくられたはずの柿ピーが道端に転がっていて、

「むかつくー、ひったくりの野郎! ひったくったなら責任持ってひったくれ!」

その話をしたら妊婦・道子が笑い転げ、その晩に破水、翌日に出産という運びになった。

「もー、笑い過ぎちゃったから明日にでも産まれるかもよー」

道子はそう言いながら腹をさすり、中に入っているチビも元気に反応しているようだ。

「早く出て来い、チビー」

「うふふふ」

微笑ましい家族の絵もあくまで「数日待てば出てくる」という前提のもと。

さすがに「すぐ出てくる」と言われているのに十日も待ってしまうと、

「はよ出て来い、こんちくしょー!」

「もー、ほんとやんなっちゃうねぇー!」

そういう感じになるのであった。

が…、この時の俺や道子は明日にでも産まれると思っている。

家族三人、川の字で寝るのも後一日か二日だと思っている。

ゆえ、その貴重な時間を心の底から楽しまねばと気合を入れて布団に入ったのであるが、春の隣に転がった瞬間、意識が飛んでしまった。

ちなみに…。

夢の中で地鳴りの音を聞いた。

何かの暗示かと思って飛び起きたが何て事はない、壁一枚隔てた義母の鼾であった。

時刻は午前三時、時計を確認した後、隣で寝ている春と道子を見た。

(旅が終わった…)

その事を感じたのはこの時が初めてだったろう。

闇の中に視線を漂わせ、長いようで短かった旅を振り返ってみた。

(夢のような一ヶ月だった)

しんみり、そう思った。

(夢なら覚めないで欲しい)

そうも思うがそうもいくまい。

後数日で二人の子持ちになるのだ。

道子の大きい腹は現実そのもので、夢の終わりをピシャリと告げているようにも思われた。

(明日から歩かなくてよい…)

その事が嬉しいやら悲しいやら、まだ何とも実感の湧かない夢最後の晩、妻と娘の顔を飽く事なく眺める旅人がそこにいるのであった。

次章からは春日部での暮らしを描く。