45〜52、八恵

2004年7月に旅し、2004年8月に生まれた次女の事を2007年7月に書いている。
気が付けば3年という間が空いてしまった。
その間には三女も生まれ、職も次の次のところに変わっているわけだが、
(なぜ、こうも空いたのか?)
その事を考えるに、次女が先天的に得てしまった「ヒルシュスプルング病」の生々しさが、まだ家族の実感としてそこにあったからではないかと思っている。
今、小憎たらしい次女を見るに、その生々しさは全くない。
で、今更ながら最終章を書く事に決めた。(HPを見た人が早く書けと言った事も理由の一つ)
なにぶん前章までの文量が膨大で読み返す気力も湧かないため、同じ事を二度書いていたり、繋がりが悪かったりするかもしれないが、お許し願いたい。
ちなみに、章題の横に付いている数字は旅に出発してからの日数を示している。
この章は「45〜52」となっており、52日目で終わる事になっているが、八恵のその後を語るためには3年分、1000日程度を要す。
しかし、「45〜1000」という章番号には無理があるので、俺が関東を離れる日を最終日としている。
当初、旅の開始から次女の出産までを書くつもりでこのような構成になっているのだが、3年も間が空いてしまっては先が分かっているだけに触れずにはいられない。
そういう事で、少々乱暴ではあるが旅行記を締めにかかる。

術後の八恵は一気に痩せた。
2500グラム程度で生まれたように記憶しているが、一気に2000グラムを割り込み、肌の色は血管が透き通るほど白さを増した。
足にも手にも点滴の管が通り、その管を暴れて抜かぬよう八恵の両手は縛られた。(同意書を書かされた)
赤ちゃんが「おぎゃー」と泣くのは娑婆に産み落とされた事が嫌だからというのは仏教的解釈(浄土真宗?)であるが、泣くべきはずの小さな命が泣く元気もなく、ゴムチューブだらけになっている姿は意気消沈を通り越し、めまいを覚えた。
手帳の記録によると、8月13日に緊急手術をしてから22日までこの状態が続いている。
俺は21日に熊本へ帰っているので、こういう状態の八恵しか見てない事になる。
気が滅入った。
それに追い討ちをかけるが如く、8月16日、大本命だった京都の会社から不採用の通知が届いた。
普通、三次試験で落ちる人間はいないらしいが、三次で受けた筆記試験が致命的だったらしく、英語に至っては0点、算数も他の理系に比べ極端に悪かったらしく、
「いくら面接が良くてもこれじゃぁ、ねぇ?」
という事になったらしい。
俺を大いに推してくれた人に至っては席まで用意していたそうで、人事にかけ合ってくれた匂いもあるが、
「ここまで悪い点数は過去に例がない」
ハンパじゃなく悪かったそうで、どうしようもなかったようだ。
俺と京都の会社、その間に入っている就職斡旋会社はもっと悲惨である。
マニュアルを渡しても逆の事をする、いくら説得しても言う事を聞かない、そんな俺と激しい口喧嘩を約2ヶ月も続けながら、奇跡的に二次試験を通り、
「あなたのやり方は無茶苦茶だったけれども結果オーライじゃないですかー! なぁに、三次なんて顔見せみたいなもんですよー」
電話越しにそう喜んでいた就職斡旋業の男。
俺が受かったら会社からそれなりの評価を貰い、それなりのボーナスも出たに違いない。
極めて確率が低いその会社に、俺のような高専出の者を合格させたら、彼の評価はウナギ上りであったろう。
が…、結局落ちた。
彼は結果を待ちわびている俺に、
「**です」
超低いトーンで名を名乗るや、
「結果言います。落ちました」
そう言ってガチャリ電話を切った。
よっぽど俺に対し腹に据えかねた事があったのだろうし(ビンビン感じていた)、今までの苦労が無に帰した事を思えば少しは同情するが、あまりにも態度が悪い。
文句を言おうと電話をかけたが終日繋がらなかった。
ネットで京都の情報を毎日チェックしていた道子も落ち込んだ。
「八恵ちゃんがこういう状況なのに! 福ちゃんまで追い討ちをかけるのっ!」
そう言ったかどうかは忘れたが、とにかく荒れた。
しかしながら、この不合格により次の住居は阿蘇(阿蘇の会社から内定をもらっていたから)という事が決まったわけで、手帳には「阿蘇住まい決定祝いをする」と書いてある。
そうそう、八恵の事である。
術後の状況は医者が言うに順調らしい。
道子は腹にポッコリ飛び出している人工肛門の掃除方法などを学びながら、裸体の八恵を母親の目で眺めているが、父親の俺は血が苦手で、ましてや腸が飛び出しているところなど直視できるはずがない。
八恵の服が脱がされるたびに「やめてくれー」と席を外していたが、次第に慣れた。
術後の八恵を初めて見た親族・友人は必ず黙り込んだ。
八恵が小さ過ぎるため、見るに痛過ぎた。
が…、それを見る大人たちの目が慣れてゆき、慣れきった頃に熊本へ帰る日が訪れた。
当初の計画では一人で山鹿へ帰り、山鹿から次の職場へ通いつつ道子達の帰りを待つという予定であったが、八恵がこういう状況である事と、道子が安静期である事を受け、春と二人で帰る運びとなった。(恵美子が春と会う事を熱望した事も一因)
これより先、人工肛門が外れるまでの約1年、八恵の入院に道子も付き添い入院せねばならず、春と二人でいる時間が非常に多くなるのであるが、その一発目がこの二人帰省であった。
春は山鹿で約2週間を過ごし、恵美子付き添いの元、関東へ戻るのであるが、たった2週間で山鹿の若い老夫婦がグッタリしてしまった事を思うと、母親のエネルギー、その凄まじさを感じずにはいられない。
2004年9月1日、阿蘇でのサラリーマン生活がスタートした。
山鹿から阿蘇まで数日通ってみたが、60キロ弱という通勤は極めて苦痛で、すぐに阿蘇ライダーハウスからの通勤に切り替えた。
この話は日記か何かで書いた憶えがあるが、変わり者の若者(旅人は変わり者が多い)に囲まれ、毎日宴会、毎日温泉、そして俺だけが早朝出勤というのは正直辛かった。
阿蘇生活は全く寂しくなかったが、夜が賑やかなだけに、静かな朝、無性に子供の声が聞きたくなる。
二日に一回は早朝から電話をかけた。
道子には毎日八恵の状況をメールで伝えるように指示し、俺はその内容を手帳に書き綴った。
それを見ていると八恵が生まれてちょうど一ヵ月後、9月8日に3000グラムを超えている。
それからはグングン体重が増え、あっという間にデブちゃんになってしまうのだが、そういった数字を手帳に書いている3年前の自分に今更ながら微笑ましさを感じる。
あの頃の俺は宴会の最中に道子からメールが入るや、
「おっ、きたきた」
一人ごちながら席を外し、八恵の体重などをニヤニヤしながら確認していたに違いない。
記憶はないが、前にも先にも携帯メールに夢中だったのはその時だけで、やたら気にしていた憶えがある。
9月25日には家族に会いたいがため、関東へ飛んでいる。
この事も日記で書いているので触れないが、今それを読むに、別れ際、春がとった行動に今でも涙を禁じ得ない。(2004/9/28の日記)
最近も同じような事を「生きる醍醐味」で書いたが、春の浪花節は実にパンチが利いていて、後で読んでも泣けてくる。
更に、俺が今までに書いてきた書き物をダーッと読むと、道子の変わりっぷりがハッキリ分かり、これも泣けてくる。
例えば同じダンスをしても「素敵ー、ハグしてー」から「死ねっ!」、それだけ大きな違いが感じられる。
こちらも涙が止まらない。
さて…。
八恵は9月23日に退院したが、俺の元(熊本)へ帰ってくるまでには10月9日を待たねばならない。
10月9日の風景も日記で書いた(2004/11/8の日記)ので触れない。
帰ってきたと思ったら、急いで阿蘇へ引越し、お食い初めは阿蘇で迎えた。
八恵をお任せする病院は熊本の日赤である。
埼玉の病院、その紹介ではあったが、名の通った小児外科の名医が担当となった。
名医というと埼玉のカミソリ女医みたいな人を想像してしまうのだが、実に人間味のある好人物で、先生運が良かった。
埼玉の女医は無駄な事を一切言わなかったが、この先生は自分がトライアスロンをやっている事なども語ってくれ、何よりも喋り口に人間味があった。
先生が言うに、
「まず、ある程度体力がつくまで今の生活を続けてください」
だそうで、検査をするにも手術をするにも今のサイズでは小さ過ぎるらしく、頃合を見計らって検査入院をさせるらしい。
親の心配する点も言わずとも分かっているという感じで、
「人工肛門は十中八九取れる。それも一年以内に」
歯切れの良い調子でそう言われると、何となく明るい未来が見えてきた。
阿蘇での家族生活も実に快適であった。
この詳細は悲喜欄々番外「阿蘇での風景」に書いているので、そちらを見て頂きたいと思うが、住むべくして阿蘇に住んでいる、もしくは何か大きな力で阿蘇に住むよう仕向けられたのではないかと思えるほど、良い時間を過ごした。
また、人工肛門というと扱い困難な印象を受けるが、面倒臭いのは風呂ぐらいのもので、他は別に気にするほどの事はなく(父親的目線)、悩んだ事といえば汗疹と微量の出血ぐらいであった。
かなり大きなテープがベタリと腹に引っ付くため、接着面のただれは防ぎようがないのであるが、この点、阿蘇という涼しい環境に救われた。
また、寝返りで人工肛門をぶっ潰したり、ハイハイをする時に手が当たって血が出たりはしていたが、うちの子は成長が遅いため、他の人工肛門装着ベビーに比べれば楽な方だったといえるだろう。
ちなみに、八恵の一件で小児病棟へ頻繁に行くようになったのだが、そこにあって八恵は超元気な部類に属す。
担当の先生が「優先順位で動く」という事をしきりに言っていたが、まさにその事で、いきなり呼吸をしなくなったりする子や痙攣を起こす子、そういう子供もいるらしい。
そういう子供に比べれば八恵の症状は緊急性が低いという事を言われ、手術前の説明に至っては、
「後回しになる事もあるという事はご理解ください。私は優先順位で動きます」
そう宣言された。
その言葉通り、診察や病状説明などは予定の時刻に行われたためしがなく、2時間遅れは当たり前で、最長7時間待った事もある。
この時間のルーズさには本当にイライラさせられたが、小児病棟という場所にいると、あの子の親だったら、この子の親だったら、その事を思って、次があるけど次へ行けない先生の状況も分かり、かなり忍耐強く待った。
ある手術前夜、午後2時説明予定だったのに午後9時まで待たされ、
「緊急手術が2件も入って申し訳ない、今日は疲れたよぉ」
ついに現れたヘトヘトの先生と会った時、
「凄い! この先生、何か分からんけど凄い!」
何やら言い知れぬ感動を覚えた。
寸前まで「イライラするー」と叫んでいたのに、その疲れ果てた顔を見た瞬間、最高の賛辞を贈っている事が感動の度合いを表している。
命という優先順位を抱えつつ様々な病と戦う職人−。
目的に燃えているプロ意識を持った職人を見た時、俺は無上の感動に打ちひしがれる。
良い職人に共通するものは何なのか、最近その事を頻繁に考えているのだが、プロ意識以外に何かあるような気がしてならない。
プロ意識があり過ぎる職人は、どうも嗜好が偏り、良い結果に結びつき難い。
俺は八恵の担当となってくれた「この先生」を思い出しながら、確かな優先順位を抱えている職人こそ「良い職人」ではないか、そう思い、色々な事例を考えてみたのだが、プロゆえに変な優先順位を抱えている職人も多く、よく分からなくなってきた。
(確かな熱を持っていて、人に誇れる優先順位があって、オンリーワンの技術がある、それが良い職人か?)
目指すべき人物像も含め、色々と考えてはみたが結果が出そうにないので思考を打ち切った。
さて…。
話が脱線した。
結局、何が言いたいのかというと、そういった立派な先生に八恵は手術をしてもらったという事が言いたいわけである。
八恵にとって二回目となる手術は年を跨いで2005年、3月16日であった。
「大きな手術をしなくてすむかもしれない」
という事で、まずはその判断をするため、尻の穴から腸の組織を取りたいらしい。
ヒルシュスプルング病というのは、腸の一部に便を感知する神経がないという病気で、その手術は根治手術というものが一般的だそうな。
根治手術は腸の神経がない部分をちょん切り、神経がある部分をダイレクトに肛門へ繋げるという手法で、大変な手術らしい。
で…、八恵に関してはレントゲンを見ていると長年の感で、肛門に近いところまで神経があるような感じがするらしく、それを確かめたいがための手術をするという事である。(肛門近くに神経があったら根治手術をしなくていいらしい)
手術自体は大した事ないのであるが、色々と込み入った検査もしたいという事で3月7日に入院し、3月16日に手術を終え、19日に退院した。
結果は、
「やっぱ肛門近くに神経がなかった」
という残念なもので、この時点で根治手術が決定した。
ちなみに「小学生以下が入院する場合、親も付き添い入院せよ」というのが病院の方針で、3月7日から19日まで八恵と道子が阿蘇から姿を消した。
残ったのは俺と春である。
土日はどうにかなるとしても、平日はどうしようもない。(サラリーマンだから)
義母、もしくは実母に阿蘇へ来てもらい、親族総出でこの難局を乗り越えた。
これから先の約半年、これを含め、計3回の手術をする運びとなるが、そのたびに2週間強、春と俺、そして義母(実母)の生活が続く。
実母・恵美子に至っては田舎暮らしがよほど辛かったらしく、月曜から金曜の子守を終え、山鹿へ帰ってゆく時の、
「富夫に会えるー♪ らららー♪」
あの溌剌とした姿は今でも忘れられない。
さて、根治手術が決まった八恵であるが、日は4月25日と決まった。
この手術の結果如何で八恵のこれから、家族のこれからが大きく変わってゆくと思うと、身構えるところはあったが、先生も色々な方法を模索した上で、
「この方法でやります! 同意書にサインするかしないかは親御さんの判断です!」
そう言われては、こちらも大船に乗ったつもりでサインするより他はない。
「お願いします!」
職人先生と熱い握手を交わすに至った。
八恵と道子は4月21日から入院し、4月25日の手術日には親族総出で八恵の応援にでかけた。
これを書いている私の手元には手術室へ入ろうとしている八恵の写真がある。
真っ白で、キョトンとした目で道子に抱きかかえられている姿に今の小憎たらしい八恵がダブらない。
違う生き物に見える。
道子などは、
「八恵ちゃん、いつもビシバシ叩いてるけど、これ見たら叩けなくなるよー」
涙ながらにそう言ってしまうほどの透明感と弱々しさである。(ちなみに道子はこういう事を言っていた数分後に八恵を叩いた)
「八恵ちゃーん、がんばってねー」
春の声援を受けながら手術室に入っていったのであるが、重々しい手術室のドアが閉まる感じは何度経験しても寒気がする。
この熊本日赤は県下で有数の規模を誇る病院なので、八恵の手術を待っている間、幾人もの患者が手術室へ運ばれたのであるが、次々にフレッシュな人間ドラマを見る事ができ、5時間くらい待ったが飽きる事はなかった。
ある母子の手術室突入前の会話。
「陣太鼓、買っとくからね」
「うん、うん」
「武者返しもいるね」
「うん、うん」
「肥後の月は?」
「いらない」
前述の三点、全て熊本銘菓であり、患者は相当な和菓子好きであろう。
もしや、それが祟って糖尿病を患い、こういう結果になったのだろうか。
何にせよ手術直前にする会話ではないと思うが、どうだろう。
ある年老いた夫婦が手術室突入前に交わした会話。
「お父さん、頑張って下さいよ」
「うん、うん」
「お父さん、隣の高橋さん、別居中ですって」
「うん、うん」
約10人の患者を見たのだが、いずれも患者は緊張のあまり口数が少なく、付き添いの家族は患者の緊張をほぐそうと喋りまくっている。
しかし、大抵はどうでもいい内容、もしくは今言わなくてもいい内容を喋っていて、ちょっぴり笑えた。
患者は緊張のあまり何も聞こえてないようだから、内容はどうでも良いのだろうが、隣の高橋さんが別居した話を手術室突入前に叫んでいるオバチャン、ナイスジョブであった。
書きながらもう一つ思い出した。
こんな家族もいた。
「ふえーん、お父さん頑張ってー」
「あなた、元気になったら家族みんなで温泉にでも行きましょ」
「うん、うん」
泣きながら現れた四人家族がいたので、よほど重い病気なんだと思っていたら、なんと、その病名は痔であった。
手術室が閉まった後、
「お父さん、大丈夫かな?」
心配そうに問う娘。
幼稚園ぐらいであろうか、二人の娘は泣きじゃくっている。
その娘に、
「大丈夫よ、痔じゃ死なないから」
スラリ返した母。
離れたところで爆笑したのは言うまでもない。
又もや脱線した。
八恵の手術である。
結果は成功であった。
大手術の後だけに出てきた八恵の姿は痛々しかったが、
「八恵ちゃんは本当によく頑張った。まず問題なかろう」
職人先生がそう言ってくれると痛々しい中にも何やら強く気高いものを感じ、自分の娘が誇らしげに感じられた。
ただ道子は大物だけに見るところが違った。
「福ちゃーん、先生の格好、超笑えるよー、ちっちゃくて可愛いー、何だよあれー、帽子ピチピチ、最高だよー」
麻酔が効いてグッスリ眠る八恵の横で、ポカーン呆れる俺であった。
八恵が退院したのは5月2日である。
20日の入院生活を終え、やっと帰ってきてくれた女二人であるが、八恵の人工肛門はまだ取れていない。
神経のない腸を切り、あるところを肛門に繋げる作業を今回の手術でやったのだが、それが完璧に成功したといえるまでは取らないらしい。
接合部分から便が洩れたり、細菌が入って炎症を起こしたりする可能性があるらしく、何かあった時に人工肛門がないと怖い結果になる。
ゆえ、二ヶ月ぐらい術後の経過を見て、良ければ人工肛門を外すという流れになるらしい。
人工肛門は腸が体外に出て、その出ている部分に穴が開いている格好である。
構造が構造だけに付ける時も大掛かりな手術を要したが、外す時もそれなりの手術を要す。
「人間の体はロボットみたいにネジでカチャッというわけにはいかんからねぇ」
先生の言は的を得ている。
歯痒いが四回目の手術が必要であった。
最後の手術は6月29日であった。
6月27日から入院し、7月12日に退院した。
先生の腕が良いというのは本当に安心である。
これも難なく成功した。
感染症を起こす事もなく、家族皆で1年弱付き合った人工肛門は綺麗サッパリなくなり、大きな傷跡だけが残った。
紫色に染まる横一文字は見るに痛々しかったが、先生が言うに大きくなるに従って皮膚が伸び、目立たなくはなるらしい。
「整形外科とかで何とかならんですかね?」
男なら勲章になろうが、女はどうしようもない。
どうにかしてあげたいが、専門外で分からないという先生の返答であった。
が…。
そういうところに考え及ぶこと自体、贅沢な話で、一昔前には助からなかった命が助かったという点、胸をなでおろすべきであった。
前章で書いたが八恵という名は末広がりの「八」、その恵みに期待している。
駆け足で書いた八恵最初の一年、悪いとは言えないが、良いとも言えないだろう。
親としては子の人生が明るくなる事を祈るばかりで、それ以上の事をするつもりもないし、それ以下の事を諦めるつもりもない。
今、三歳を目前に控えた八恵は自由奔放、ちょっぴり凶暴な姉となり、福山家になくてはならない存在となっている。
道子が怒鳴る相手、その主役となって久しいが、父親からすれば今が旬でメチャメチャ可愛い。
人間は忘れる生き物で、俺も道子もそういった過去をスッカリ忘れているが、あの時感じた命のありがたみを、もうちょっと肝に銘じておくべきかもしれない。
さて…。
この長い長い話は「古道をゆく旅」「次女の出産」この二つを通じて、ニッポンの古き良きものに触れたり、あくせく生きる今を考えたり、家族というものを再発見したりと、テーマに一貫性がなくてもいいから、とりあえず時の流れに従ってダラダラ書いてみようと始めたものであるが、テーマソングはあった。
それは旅の前に決めたものではなく、知っている歌の中から鼻歌として出始めたもので、歌詞やメロディーがこの時期にピッタリはまった。
中島みゆき、「旅人のうた」である。
力強いリズムも然る事ながら歌詞がいい。
2番の歌詞を下に書く。

西には西だけの正しさがあるという
東には東の正しさがあるという
何も知らないのは、さすらう者ばかり
日ごと夜ごと変わる風向きに惑うだけ
風に追われて消えかける歌を僕は聞く
風をくぐって、僕は応える
あの日々は消えても、まだ夢は消えない
君よ歌ってくれ、僕に歌ってくれ
忘れない、忘れない、ものもここにあるよと


古道を歩きながら、文化の境が山や川であり、それらが未だに息衝いている事に気付いた。
昔の道は地形を崩さず、それらに沿うかたちで最短距離を辿っている事が分かった。
古道は今、田舎にあっては草の中に埋もれ、都会ではアスファルトの下にあり、有名な宿場では似ても似つかぬかたちに復元され、それぞれの今を辿っている。
ほんの1世紀半前までは、西には西だけの文化があって、東には東だけの文化があった。
それを繋いでいたのは人により踏み固められた古道であり、地元に支えられた石畳であった。
川は船で渡り、水嵩が増せば足止めを食い、肥後から江戸まで移動するのに一ヶ月以上を要した。
今では道が山を貫き、海峡には大きな橋が架かり、空を飛んでゆく事もできる。
飛脚に頼るしかなかった遠方への便りも携帯電話を使えばチョチョイのチョイ、全てが考えられぬほど速くなった。
この1世紀半で日本人は何を求めたのか、どんな人間を目指したのか、約一ヶ月、古人の踏み固めた道と対話したがよく分からなかった。
社会の像を追うがあまり、人間が見えなくなっていたのではなかろうか。
田舎を歩く時には老人と話す機会が多かった。
誰もがこの歌の旅人になっていて、日ごと夜ごと変わる景色に戸惑われており、昔を焦がれておられた。
旅人の歌は実感として消えかけている。
しかし、変わらないものだってあるはずだ。
変わっては、変えてはいけないものだってあるはずだ。
そこにある山であったり、川であったり、家族であったり、人間らしく生きようとする心であったり…。
あの灼熱の夏を思い出すたび、何やら体が熱くなる。

あの日々は消えても、まだ夢は消えない。
君よ歌ってくれ、僕に歌ってくれ
忘れない、忘れない、ものもここにあるよと


消えないものが確かにあった。
忘れてはいけないものが確かにそこにはあった。
流れる雲をゆるり眺めたり、野辺に咲きたる花を愛でたり、川の音を聞きながら星を眺めたり…。
忘れちゃいけないものが、すぐその辺に転がっている。
あの日々は三年前に消えてしまったが、まだ旅の気分は消えていない。
さぁ、子供達よ、大自然と、そしてオットーと遊ぼう。
やっぱ、旅はいい。

〜終わり〜

*次は中山道を歩く(今年秋口?)