悲喜爛々44「八恵」

 

 

0-1、就職活動

 

「働く」

その事を決めたのは五月の中頃であった。

五年三ヶ月のサラリーマン生活で貯めた金は、妻の道子が言うに、

「そろそろ底をつくよぉー」

そういう状態になったらしく、八月には二人目の子供が産まれる事もあり、

「そろそろ職を探してもいいんじゃない?」

「サラリーマンをやりながらでも夢は追えるでしょ」

「まずは目の前にある生活が大事よ」

そう言われては、夫として、父として、かたちだけでも職を探さずにはいられない。

とりあえず近場の大企業を受け、そして、いとも簡単に落ちた。

理由は、

「片手間でサラリーマンをやりたい」

正直にその事を告白したからだ。

ちなみに…。

就職活動は俺にとって初めての経験だった。

前の会社は学校推薦で入ったため、とても参考にはならなかったのだ。

「初めて」

その事が、どう影響しているのかは分からない。

分からないが、就職活動に小慣れた大卒以上の経験者に比べると、俺のスタイルは実に滑稽な感があったように思う。

それはベテラン芸人と若手芸人にカメラを向けた時の温度差のようなもので、その「空回り」が俺自身に分かってしまうのがちょっと悲しい。

が…、落ち着いて波風立てずにその場をやり過ごそうとしている人を見ると、

「俺は違う!」

何だか燃えてくるし、実際、頭が足りない俺が皆と同じスタイルをしても受かるはずはない。

ゆえ、面接では、

(自分というものを、この短い時間に思いっきり表現せんといかん!)

猛烈に張り切り、まるでそれがお笑いの審査面接であるかのように「おもしろさ」を伝える事に夢中になった。

面接中、ひたすら黙り込んでいた中央の面接官が、俺にひたすら喋らせた後、こういうアドバイスをくれた。

「いやぁ面白かった。しかし、君ねぇ。君は受けるところを間違えとるよ」

サラリーマンになるのに「おもしろさ」は不要。

いや、それどころか「おもしろさ」を強調すると軽薄な印象すら与えるようだ。

その事を一回目の面接で知った。

道子は俺が二回目の面接へゆく時、こう言った。

「ちょっとはネコをかぶるんだよ。かぶらないと落ちるからね」

俺は難しいと思いながらも、

「そうする」

コクリと頷き、重い足取りで面接会場へ向かった。

が…、その二回目の面接が始まるや、

(違う! それはお前じゃない! 本当のお前は違うだろ!)

そう叫ぶ、もう一人の俺が心臓の隣辺りからニョキンと現れ、俺がしとやかな言動をとる度に、

(違うったら違う! それはお前じゃない!)

叱りつけるのである。

結局、ネコをかぶれた時間は何分くらいだったろうか…、多分、ものの数分に違いない。

「もうよかっ!」

そうなったが最後、地の言葉である熊本弁がとめどなく溢れてくるし、言葉も火傷しそうなほどの熱を帯びてくる。

「俺はこぎゃん人間ですたぁーい!」

以後、そんな感じであった。

ところで…。

この結果が出る前にもう一社、熊本から遠く離れた京都で面接を受ける事になった。

この会社は誰もが知る大企業で、俺としても駄目元で書類を出し、その書類を受け取った斡旋会社(俺と企業の間で橋渡しをする会社)も、

「厳しいと思われます」

つまりは言葉柔らかく、

「出すだけ無駄です」

そう言ってきたのであるが、無理強いし、とりあえず書類を出してもらった。

すると、奇跡的に書類選考を通過した。

が…、今度は俺の方から、

「それじゃ面接を受けられんですよぉ」

断らざるを得ない状況となった。

交通費が出ると思っていたのに、

「一次試験っていうのは交通費が出ないもんなんですよ」

斡旋会社にそう言われ、急遽、家族会議を開き、

「極めて薄い可能性に三万円を費やすのは馬鹿らしい」

そういう風に決定したからだ。

斡旋会社は、この家族会議の結論を、

「せっかく通過したのに…、もったいない…」

大いに嘆き、

「少しでも交通費が出ないか掛け合ってみます」

そう言って電話を切った。

その後、斡旋会社がどういった動きをしたかは分からない。

分からないが相当な熱量を用い、相当なお願いをしてくれたに違いない。

ちなみに…。

この就職斡旋会社の収入源は話がまとまった時の成功報酬で、その額は「百万から二百万円」という膨大な額らしい。

企業が求める求人数というのは決まっている。

斡旋会社からしてみれば、その小さな数を他の斡旋会社と争うかたちになる。

俺が願書を出した大企業には、斡旋会社曰く、

「私から出した分だけでも百通を超えた」

との事で、その内、書類通過は二通だったそうな。

「もったいない」という担当者の言葉は、その低い確率と成功報酬の可能性に向けられているというわけだ。

担当者としては「交通費をくれ」という耳を疑いたくなる要望(俺にとっては切実)も「可能性を追う」という観点から、

「だったら受けないでいいです!」

とは言えなかったようだ。

結局、交通費の八割を企業が負担するという事で話はまとまり(もしかしたら斡旋会社が払っているのかもしれない)、丸一日をかけて三度目の面接を受けに行った。

むろん、その面接の内容も二回目の時と変わらず、自分らしさを全面に押し出したものであった事は言うまでもない。

面接の結果は三回目の京都の方が先にきた。

なんと合格であった。

斡旋会社の担当者曰く、

「十人に一人しか通らないといわれているO社の一次に通ったんですから、後は普通にいけば通りますよ!」

「普通」という言葉は俺にとってブラックワードであるが、とりあえず最終的な合格に大きく近付いた事は間違いない。

ちなみに、この企業は大企業だけあって、念には念を入れ、三次面接まである。

一次で直属の上司(俺でいけば工場長)が面接し、二次で人事課が面接、三次で役員が面接するのだそうな。

ゆえ、最も厳しい審査が一次になるのは自明の理で、それを通過したという事が「ほぼ合格」を意味する事は俺にも何となく分かる。

(地を丸出しの面接でも意外に受かるもんやね…)

狭き門の通過にそう思ったし、俺そのものが、

(意外にイケる人材かも…)

そうも思えてきた。

この自信に裏付けを与えるべく、二回目に受けた会社からも合格の通知がきた。

この企業は京都のそれに比べれば規模もぜんぜん小さいし、待遇も半額といってよいほどに悪いのであるが、場所が俺の愛して止まない熊本県、それも県民憧れの地・阿蘇という事で、

「子供を育てるには最高ばい、本業の書きものをするには最高ばい」

そこが素晴らしい。

とりあえず、

「二ヵ月後の九月頭から働きたいと思います。よろしくお願い致します」

そのような返事をし、俺の中で「保留」というかたちを採らせてもらった。

「いくら環境がよくても待遇に倍の違いがあるんだったら京都がいいよぉ。それに京都っていう響きもいいじゃなーい」

道子はそう言って、大いにはしゃいだ。

この日、六月三十日。

道子と長女を道子の実家・埼玉県春日部市に預け、俺だけが熊本に帰る、その日の朝であった。

 

 

0-2、旅の前

 

道子と長女・春が熊本から遠い遠い春日部へ行ったのは里帰り出産のためである。

この「二人目出産」という出来事が俺を就職活動に駆り立て、そして、

「無職期間の総仕上げに何かをせねば!」

そう思わせたという事は揺るぎない事実である。

ゆえ、この書き物の主題は「二人目の出産」と「旅」であるが、それと深く絡む事から就職活動の経緯を前に書いた。

「二人目の出産」あるがゆえの「就職活動」、「就職活動」あるがゆえの「旅」という関係になる。

さて…。

その「旅」を思い立ったキッカケは上の関係から分かるとして、

「なぜゆえに徒歩の旅を選んだのか?」

そうなると少々説明がいる。

これは、

「時代小説を読みすぎた」

これが根底にあると思う。

「小説家になるためにはとにかく書く事だ。それも調べものが多くて書きながら知識が付くようなものだったら尚良い」

六本木で通っていた文章学校の恩師にそう助言された俺は、今まで全く興味のなかった歴史小説に手を付けた。

池波正太郎、司馬遼太郎、海音寺潮五郎…、歴史小説家といわれる人達のものを読み漁り、実際に史跡などを巡り、そしてチョコチョコ書いてみた。

書くには書ける。

そして、確かに一本を書き終えた時、

「勉強になったなぁ」

その感じもある。

が…、その書いたものを声に出して読むと、どうしてもリアリティーに欠けている。

これは俺だけの現象ではない。

プロにおいても、古い歴史小説家に比べると、どうしても若い歴史小説家の書くものはリアリティーに欠けている。

(なぜか?)

答えは簡単。

送っている生活、感覚が、その小説の時代とあまりにも違いすぎるからだ。

例えば歴史小説家の巨匠・司馬遼太郎は大正十二年生まれ、海音寺潮五郎は明治三十四年生まれ、司馬遼太郎より海音寺潮五郎の方が圧倒的に幕末を描きやすかったに違いない。

それは海音寺潮五郎の感覚が、より幕末に近いからだ。

俺なんて昭和52年生まれ。

まず何が困るって、服装や風俗云々よりも「移動の感覚」に困る。

俺達の感覚であれば、熊本から東京の移動といえば当然のように飛行機か電車か車で捕らえがちだが、肥後から江戸の移動となると徒歩(もしくは船)になる。

飛行機だと二時間の感覚が、徒歩だと一ヶ月以上。

その差はなんと三百六十倍である。

近場の話になって、俺の住む山鹿市から熊本城までは三十キロあるのだが、加藤清正がちょいと山鹿の湯に浸かりにきたという話を書く場合、その三十キロは一日がかりの移動になる。

俺達の考えでいけば、熊本市の人間が山鹿の湯に浸かりにくるのに「泊まりはない」のが常識だが、ちょっと時代が古くなると移動で一日、翌日ゆっくり湯に浸かり、戻りで更に一日を費やす事になる。

ゆえ、俺の感覚で歴史小説を書くと、書いてる間はいいのだが、読むと「あれ?」って感じになってしまうのも否めないのだ。

(じゃあ、どうやったら昔の感覚に近付けるか?)

色々と近付かねばならない感覚はあるのだが、まずは最も困る「移動」で考える場合、

「実際に歩く」

それが最も手っ取り早い。

それもアスファルトの道を歩くのではなく、なるべく古人が歩いた道を歩く。

「どのルートを歩くか?」

どうせ歩くなら歴史小説に頻繁に出てくるような道、つまりは著名な街道を歩いた方が飽きずに歩けるし、書きものにも反映させやすいであろう。

また、熊本県民として、加藤清正が歩いた道を是非とも歩きたい。

という事で、旅のルートを、

「加藤清正が参勤交代で歩いた道」

そう設定した。

これが五月頃に思いついた「旅の案」である。

この案をもって、「就職しろ」と圧力をかけてくる道子に、

「分かった、就職活動を始めるけん、俺の願いも聞いてくれ」

と、徒歩旅行のお願いをした。

むろん、道子の返事は芳しくない。

熊本から東京まで歩くとなると丸一ヶ月は家を出る事になるし、それにかかる予算もそれなりのものが要る。

が…、この時期を逃して、他にやる時があろうはずがない。

声を枯らして熱弁をふるい、道子の説得に入った。

それは子供が駄々をこねる様に何となく似ているが、俺が大人であるのと、その駄々が数週間に渡って続くところにネッチョリとした破壊力がある。

結局、最後には道子も折れてくれ、

「う、う、う…、うーん、分かったよ、もぉー」

なんとか良い返事を得るに至った。

旅の承諾をした後の道子は実に優しかった。

俺としては「節約」という観点から基本はテント泊のつもりでいたのだが、

「テントは危ないよぉー! 格安の宿に泊まりなよー!」

なんと宿の予算を出してくれるという。

「一泊幾らくらい予算をとってええんや?」

「五千円くらいなら」

道子は五千円といい、俺はそれを素泊まり五千円と思っていたのだが、道子が期待したのは「一泊二食付き五千円以下の宿に泊まれ」という意味だったらしい。

その日から俺はネットで格安の宿を探し、泊まれる友人の家があれば電話をかけ、切り詰め切り詰め、二十八日の「徒歩旅行予定表」をつくった。

予算の累計は二十三万円。

道子はその予定表を食い入るようにチェックし、

「ここ駄目、ここも駄目…」

特に「飲み代」の部分をサクサク削り、結局は二十一万円という予算に落ち着いた。

ルートは基本的に加藤清正の参勤交代道に沿うものであったが、地図を見ていると心惹かれる史跡が幾つもあり、途中、何箇所か街道から大きく逸れるかたちとなった。

俺の準備が進むにつれ、親や祖母、他の親族達は、

「お前はほなこて(本当に)やるつもりかい?」

そう言い始め、

「あんたは昔の体型じゃなかっだけん(太ったという意味)、やめときなっせ! 無理、無理! 馬鹿だろ!」

総出で「やめろ」と言ってきた。

実母の恵美子などは、俺が一年も前に病気にかかった事を持ち出し、

「あんた、病気の体で東京まで歩くなんてどぎゃんかしとるばい! 道子さん、何か言ってやって!」

道子に助けを求めたものだが、そこは俺が選んだ嫁。

「どうせ言っても聞かない人ですから」

俺の事が実によく分かっている。

素晴らしい回答であった。

着々と準備は進んだ。

携帯電話のメールなどは使った事がなく、契約もしていなかったのだが、

「あれば何かと便利だから」

という理由で契約をし、使い方も勉強した。

歩くのに重要な靴に関しても、靴屋で働く実弟の雅士が吟味に吟味を重ね、

「兄ちゃん、これがええばい」

と、一万円(卸値)もするメーカーものの靴を持ってきた。

これを、道子は何事もなかったかのように、

「ありがとー、雅士くーん」

サラリと買った。

これにはビックリした。

俺の着るもの履くものは貰いものか極安のものばかりで、万円代のものは「絶対にない」というのが定説であった。

これは、「服なんて着れればいい」と言っている俺によるところも大きいが、道子の俺に対する姿勢、

「夫に金を使わない」(モノに関して)

それが何といっても大きい。

その道子がサラリと一万円を出した。

意外であり、そして道子の協力的な姿勢がひしひしと伝わってくる一齣であった。

日程は七月一日に熊本城出発と決まった。

六月二十七日に道子と長女の春を春日部に送り(重ねて言うが里帰り出産のため)、それから俺だけが熊本にトンボ返り。

その翌日には出発というハードなスケジュールであった。

出発の前日、実父と実母と共に、最近できたばかりの大型スポーツ店に雨合羽を買いに行った。

雨合羽といってもピンからキリあり、高いモノになると五万円というものもある。

二十八日間も歩けば必ず雨は降るし、現に、この時点で台風が近付いてもいた。

「この際、いいやつを買おう」

という事で、なんと三万円のものを買った。

安い合羽と高い合羽、これで何が違うのかというと、通気性が違う。

安いものは雨の侵入を防ぎこそすれ、中の空気も逃がさないものだから合羽の中はサウナ状態になる。

夏であれば、それでビッショリと濡れてしまい、雨に濡れるよりもタチが悪い状態となってしまう。

その事を俺は七年前にやった日本縦断旅行(自転車)で知っていたため、無理してでも「ちょっと良いもの」を買ったのだ。

むろん、道子が遠い春日部にいて、文句を言う奴がいなかったという事もこの英断を支えてはいる。

が…、結論から言ってしまえば、この高級合羽が使われたのは一度だけで、それもニ時間しか用いられずに旅行は終わってゆく。

ていうか、これだけ雨が降らない夏を誰が予想できたろうか。

そして、これだけ暑い夏を誰が予想できたろうか。

波乱含みの熱い熱い夏は、明日より始まるのである。

 

 

1-1、出発

 

「私もアンタに付いて歩く行くけん」

そう言いだしたのは、何と実母の恵美子であった。

御年五十数歳の恵美子は、確かに、

「付いて行こうかな…」

と、前々からその事を臭わせてはいた。

が…、それは口だけだろうと思っていたし、まさか本当に付いてくるなど思いもしない。

それが出発前日になって、

「いい経験だけん行ってくったい。息子と歩く機会なんて、そうそうあるもんじゃなかけん」

「私もそぎゃん思うんたい。それに、私にどんだけ体力があるか試したい気もする」

富夫(実父)と恵美子の会話を目の前で聞くに及んで、それは現実味を帯び始めた。

恵美子は毎日五キロのウォーキングをしている。

「その成果を試したい」

のだそうな。

その日の晩になると、

「付いていくかどうかは当日になってみらんと分からんばってん」

と、前置きし、詳細な「付いてゆく計画」が発表された。

俺を熊本城まで車で送り、そこの有料駐車場に車を停め、そこから俺に付いてゆき、当日の目的地まで歩いたらバスで駐車場に戻るのだそうな。

もし足手まといになるようならリタイアするし、キツイと思ったらバスで帰るとも言っている。

むろん、付き合うのは初日だけである。

ま…、「初日だけ」といっても、その日、三十キロ弱は歩くつもりだから、これを本当に成し得たなら御年五十数歳のおばさんにしては偉業といえなくもない。

そして、当日…。

恵美子は本当に付いてきた。

格好は長袖に長ズボン、それに首にはタオルを巻き、サングラスを着用するというスポーツ大好き中高年によく見られるスタイルである。

「さぁ、行くわよ!」

熊本城の石垣を前に、俺よりやる気満々の恵美子であった。

ふと、富夫が言った言葉を思い出した。

「息子と並んで歩く機会なんて、そうなかぞ」

確かにないし、こういった組み合わせ(息子と母)で旅行というのも聞いた事がない。

更に、恵美子の格好は前述の通りで、俺の格好も巷の青年とは程遠い。

半袖半ズボンにサングラス、それにマラソン用の帽子、背には登山用リュックときている。

とてつもなく怪しい二人組のできあがりであった。

交番の前を通る時、警官はズゥーッと俺達を見ているし、過ぎゆく兄ちゃん姉ちゃんも何やら笑っているように思える。

(恥ずかしぃー!)

まさにその事であった。

ところで…。

これは一緒に歩いて発見した事であるが、恵美子は下を向いて怒ったようにして歩く。

ゆえ、前から来る自転車や通行人と何度もぶつかりそうになるし、何かを一生懸命に考えているのであろう、車両の接近にも全く気付く様子がない。

どうやら一人の世界に入り込んでしまう癖があるようだ。

とりあえず、狭い歩道を塞がぬよう、

「母ちゃん、俺の横に並んだらいかんばい」

何度もそう言い、縦になるよう促すのだが、気に入らないらしく、俺が左にゆけば右に、右に行けば左にゆく。

(俺が母ちゃんの動きに合わせるしかにゃーね)

という事で、俺が後ろを歩いたのだが、恐ろしい事に、今度は斜め後ろに滑り込んでくる。

その滑り込むタイミングというのは恵美子が口を開いた時、つまりは喋る時で、必ず横にきて喋らねば気が済まないらしい。

また、その内容が、

「暑かねぇ」

とか、

「何キロ歩いたかね?」

こんなものであるのが泣けてくる。

そんな内容、わざわざ隣で喋ってもらわなくてもいい。

「危なかけん、真っ直ぐ歩きなっせ!」

「あっ! ごめんごめん!」

落ち着きのない園児と歩く保護者のような感じで、体力的にではなく、精神的に疲れた。

ちなみに、この二人の最終形は次のようなかたちに落ち着いた。

俺が恵美子の後ろに付き、自転車や人が来る度に、

「来たばーい」

教えてやって恵美子が動く。

結論、

(母ちゃんは田舎じゃないと歩けん…)

恵美子と歩いて分かった事は、ただそれだけであった。

さて…。

話は変わるが、今回の旅のテーマは、

「加藤清正の参勤交代道をゆく」

これで、サブテーマは、

「城を巡る」

「古戦場を巡る」

これを掲げている。

つまり、街道沿いに点在する城や古戦場に寄りながら江戸を目指そうというものであるが、まずはその出だし、熊本城について触れねばならないだろう。

熊本城は、この旅のテーマとなっている加藤清正がつくったという事は周知の事実で、まさに熊本のシンボルである。

城主は二家しかいない。

加藤家が四十四年、その後、細川家が二百三十九年ここを居城としている。

当然、「細川の城」というイメージが強くても良さそうなものであるが、熊本では圧倒的多数で「清正の城」として知られている。

(細川家が住んでいた事を知らない人もいるのではないか…?)

そう思うほどに細川家の影は薄い。

清正に関して言うならば、地元では「せいしょこさん」(清正公さんと書く)と呼ばれ、今でも多くの人が地元の神として崇めている。

俺の地元、山鹿市にある平山温泉なんて、

「清正公さんが汗疹ば治した湯ですたい!」

それをキャッチコピーに使っているのだから、その愛されぶりが分かってもらえるだろう。

これに対し、細川家は非常に影が薄い。

むしろ、一部の県民には嫌われている感さえある。

こんな事もあった。

ある日、友人の家で酒を飲んでいると、その友人の父が「細川」と書き、

「これを何と読むや?」

そう聞いてきた。

「ほそかわ、もしくは…、ささめがわ、ですか?」

そう答えると、友人父はニヤニヤしながら「違う」と言い、答えは「ばかとの」だと教えてくれた。

(くだらねー!)

その時はそう思ったが、その後、色々な人に話を聞くと、そう読んでいる人が意外にも多く、友人父が適当に言ったものではなさそうだ。

多くの人が語り継いでいるとなると、それは単なる一過性の笑い話ではない。

(なぜゆえ「ばかとの」なのか…?)

ちょっと考えてみた。

細川家は加藤家よりも血統はいい。

それも圧倒的にいい。

その事が土から上り詰めた清正と比較され、「ばかとの」などと言われるのか…。

だが、馬鹿ではなれそうにない総理大臣に、つい最近(最近でもないか)、細川家の末裔がなっている。

とてもとても馬鹿ではないように思える。

それに末裔の顔を見ていると、気品があり、プライドが高そうで、馬鹿殿でイメージする志村けんのアレとは似ても似つかない。

考えれば考えるほど、よく分からない。

さて…。

分からなくても調べないのが俺の真骨頂で、サクッと次の話に移るのだが、熊本城は「日本三大名城」と呼ばれている。

熊本の他は姫路と名古屋で、確かにこの三つは規模が違う。

その中でも石垣が最も立派なのは熊本城であろう。

「城を見る」というと「天守閣を見る」という風に捉えられがちだが、天守閣で当時のモノが残っているのは彦根、犬山、松本(この三つだけが国宝)しかない。

ゆえ、「城を見る」という事の中心は石垣になってくる。(あくまで俺の考え)

特に熊本城は、その石垣の立派さにおいて、間違いなく日本一であろう。

また、実戦向けの城である事は西南戦争で証明されている。

もし熊本城がこれだけの規模でなく、そこらへんの小城のようなものであったなら、薩軍は九州を通過し、これに加勢する軍勢もドッと増え、第二の維新が成ったかもしれない。

ちなみに、この熊本城の実戦向き石垣は「武者返し」と呼ばれ、上へゆくほど傾斜がきつい格好となっている。

ゆえ、「登れない」と評判の石垣で、それが登りたい者の心をくすぐるらしい。

実際に石垣登りに挑戦して怪我する奴や、警察に捕まえられる奴が後を絶たないというし、俺も石垣を登ろうとし、あえなく挫折した思い出がある。

とにかく、熊本のシンボル・熊本城は地元の贔屓目なしに素晴らしいのだ。

まだ見ぬ人は、是非一度見て欲しい。

重なる石垣の何ともいえぬラインに身震いする事は間違いなかろうと思う。

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ちなみに上は、熊本城を死守した名将・谷干城の像から見た熊本城である。

使い捨てカメラをもって旅に出たのであるが、うっかり撮り忘れていたので、熊本城のホームページから拝借してきた。

これだけの熊本好きが使うのであるから、熊本県もまさか文句は言うまい。

勝手にそう期待したい。

 

 

1-2、初日

 

熊本城を左に見つつ堀沿いを歩き、一度だけ右折すると「藤崎宮」という超有名な(熊本では)神社がある。

凡そ千年前に九州を守るためにつくられた神社だとかで、前は熊本城の脇(現在、藤崎台球場があるところ)にあったらしい。

それが西南戦争で燃えた後、ここへ移ってきたらしく、その距離は熊本城から一キロくらいである。

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ここで旅の安全を祈り、ゆるり出発した。

日は照っているものの強い方でなく、風もちょこちょこ吹いている。

歩くには絶好の日和であった。

藤崎宮を出た俺と恵美子は、前述の調子で危なっかしくも順調に歩を進め、戦後の闇市から発展した子飼商店街を抜け、熊本大学前を通り、豊後街道を進み始めた。

豊後街道は熊本城から大分市まで続く。

むろん、加藤清正が参勤交代で用いた(たまに豊前街道を用いたりもした)街道である。

道は一部を除き、ほとんどがアスファルト化されている。

その道の歩道を一時間強、休憩を取らずに歩いた。

むろん、恵美子の事が気にかかるので、

「母ちゃん、休憩せんでよかね?」

たまに聞くのであるが、「よか、よか」と本人が言うのでスタスタ歩いた。

ペースは最初のうち速かったと思う。

が…、少しばかり歩いてから前述の危険(恵美子の癖)を感じ、それからは恵美子にペースを委ねた。

熊本城の出発が十時半。

熊本大学の通過が十一時過ぎであったろう。

豊後街道は途中から豊肥本線(電車)と並んで進む格好になり、その辺りから恵美子の口数も減ってきた。

黙々と歩いた。

恵美子のペースは変わらない。

休憩も求めてこない。

(母ちゃん、意外にいけるじゃにゃー)

そう思い、それを言おうと恵美子の顔を覗き込んだ。

すると、その顔に尋常でない赤みが差しているではないか。

「母ちゃん、真っ赤じゃにゃー」

そう言うと、

「暑かー、涼しかところで休憩しよか」

頑固者もさすがに音を上げ、初めての休憩をとる事になった。

三宮神社という阿蘇流れの神社で十分ほど涼み、たっぷりと茶を飲み、それから豊後街道に戻った。

それから恵美子のペースは明らかに遅くなった。

毎日五キロ歩いているといっても、それは夕方の事で、やはり暑さには弱いらしい。

前述したように、今日という日は涼しげであったが、恵美子は直射日光というものに慣れていなかったようだ。

「もう帰ってええばい」

バス停も近くにあったので、その事を勧めると、

「昼飯までは歩く」

恵美子はそう言って首を振った。

今日最後まで付き合うのは断念したが、せめて熊本市は出たいと思っているのであろう。

仕方がないので休憩をコマメにとる事にし、次の休憩は三十分ほど歩いたところにある武蔵塚でとった。

武蔵塚は去年の大河ドラマで取り上げられた宮本武蔵の墓である。

墓以外何もないが、とりあえず公園として整備され、日陰と綺麗な水はある。

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そこで長めの休憩をとった。

日は高くなり、ちょっとばかし暑くなり始めた。

この日のためにハードなトレーニングをしてきた俺も、かなり汗だくになってきた。

熊本市を出るには武蔵塚から一キロちょい歩かねばならない。

「もう、その辺で食べるね?」

恵美子に問うたが、恵美子には妙なコダワリがある。

「ジョイフルがいい」

と、言う。

ジョイフルとは九州を中心に拡大を続けているファミリーレストランであるが、何が良いって、値段が安い。

が…、恵美子が問題にしているのはそこではなく、まず古風な佇まいの店が嫌い、ラーメンが嫌い、ちょっとでも汚いと許せない…。

つまり、ジョイフルだと、どういう店か分かるから安心できるらしいのだ。

俺の親のものとは思えない潔癖な発言であるが、昔からそうだからしょうがない。

ちなみに、俺の「食うところ」に関する論は、

「汚ければ汚いほど味がある」

これである。

小さなラーメン屋も好きだし、今にも壊れそうな定食屋なんか見つけたら必ず入る。

そして、必ず創業何年目かを聞く。

大抵、こういった店は美味いし、こういった佇まいで店が成り立つのは味に自信があるからであろう。

「歴史と埃も一緒に食す」

それが俺のスタイルである。

さて…。

恵美子が求めるジョイフルであるが、ちょうど熊本市を抜けたばかりのところにあった。

恵美子も俺も、この時点でちょうどガス欠の状態で、店に入るやドリンクバーとランチを頼み、狂ったようにジュースや茶を飲んだ。

恵美子に至っては、よほど意識が朦朧としていたのであろう、グラスいっぱいに入ったメロンソーダをテーブルいっぱいにぶちまけたりと、とても正常の状態ではなかった。

ここまで十キロ強であろうか。

俺はまだまだ歩かねばならなかったのでジュースは飲めず、茶をガブガブと飲み、そして飯もモリモリ食ったのであるが、恵美子はジュースだけを黙々と飲み、飯にはちょっとしか手を付けなかった。

恵美子とはそこで別れた。

振り返ってみると恵美子の背には疲労が満ち満ちていて、バスで熊本城まで行くのは良いとしても、

(熊本城から家まで運転できるのか…?)

それが心配に思われた。

が…、歩き出すや、すぐその事も忘れた。

ていうか、恵美子がいなくなって一人で歩くようになると、ペースも俺のもので歩けるし、無用の気遣いもいらなくなり、歩く事が何やら楽しくなってきた。

ただ、会話は一切ない。

口を一文字に閉じたまま黙々と豊後街道を歩いた。

少しばかり歩くと、左手に「さんりぎ」という駅があった。

むろん地名であるが、これは熊本城からの距離を表してもいる。

旧街道は一里(四キロ)毎に里塚というものがあって、杉、桧、松…、街道によって木の種類は違うが、一段高いところに木が立っていて、それが旅人の目安になっていた。

この「さんりぎ」には三里の里塚があったというわけだが、距離にすると十二キロという事になる。

ちなみに、この距離の基点であるが、現在の熊本では水道町交差点がそれにあたるが、旧街道の場合、熊本城の脇・札の辻という場所であったようだ。

さて…。

豊肥本線を左に見ながら東へ東へ向かう道が豊後街道であるが、この数キロ手前、武蔵塚を越えた辺りからズゥーッと杉並が続いている。

三里木の付近には杉並公園というものもあり、杉並はこの辺の名物なのであるが、これは加藤清正の自慢(肥後の自慢)でもあったらしい。

ある日、お国自慢で盛り上がっている大名衆のところに清正がひょっこり顔を出したそうな。

清正は場を見渡し、

「うちのお国自慢も一つ。うちには七里の杉並がありますわい」

そう言ったらしい。

七里というと二十八キロ。

そのスケールの大きさに、他の大名達は後が続かなくなったらしい。

城の事を言わず、この杉並の事を語ったあたり、

「熊本にはまだまだ自慢がありますぞ」

そういった清正の声が聞こえてきそうで、何となく小気味がいい。

また、この杉並は清正が植えたといわれているが、後の東海道の松のように旅人のためを考えたものではなく(ちょっとは考えたろうが)、肥後防衛のために植えられたのだそうな。

戦があれば杉をぶっ倒して道を塞ぎ、同時に街道脇に住んでいる鉄砲隊が一斉射撃を行うという算段だったらしい。

清正の用心深さは半端でない。

ちなみに、西南戦争の激戦地となった田原坂では清正の用心深さが薩軍を助けている。

清正は北からの敵を想定し、守り易い凹型の道を田原坂につくった。

薩軍はこれを利用して官軍の動きを止め、あれだけの激戦を繰り広げたというわけだ。

薩軍にしてみれば清正の城を落とせず、その清正を利用して敵を悩ませたという事になる。

何とも複雑な気分であったに違いなく、

「清正に何から何までしてやられもしたなぁ」

薩摩隼人の豪快な笑い声が聞こえてきそうである。

さて…。

清正自慢の杉並を抜けると菊陽町から大津町に変わる。

薩摩芋(熊本ではカライモという)の生産で有名な町で、熊本市から見た場合「阿蘇の入口」にあたる。

実際、阿蘇の年貢はこの大津に集められていたらしく、阿蘇の農民はそれが不服で、

「遠かですばい! 何でそぎゃん遠くまで運ばにゃならんとですか!」

と、頻繁に一揆を起こしたらしい。

大津から阿蘇の隅々までは車で一時間半もあればゆける。

この感じでいけば、

「阿蘇の人間は短気者が多かつばい」

そうなるのであるが、実際に阿蘇を歩いてみると「遠い」という理由で一揆を起こすのがよく分かる。

広さを表す単位「東京ドーム」で測ったら何個分になるのであろうか、よく分からぬが、

「そんな個数言われても実感が湧かねーよー!」

東京弁でそう突っ込まれそうな広さである。

それに気候も違う。

熊本というと暖かいイメージであるが、阿蘇は別格で高山気候である。

冬にはたっぷり雪も降り、その寒さは福井辺りに匹敵するのではなかろうか。

秋の刈り入れを終え、俵にして運ぶとなれば、その季節も初冬にかかっていようし、その事も辛かったに違いない。

ところで、つい先日、県民性について書かれた本を読んだ。

それによると海は人を解放的にし、山は保守的(川が中和してくれるらしいが)にするそうな。

また、日照時間と性格の因果関係もあるらしく、日を多く受けている人間の方が陽気で、山陰のような場所ではどうしても暗めになりがちらしい。

なるほど、分からないでもない。

阿蘇が一揆大国であった事も、それで何となく分かる。

一揆なんていう悲壮な決意や猛烈なエネルギーのいる事は陽気で開放的な人間にはなかなかできない。

ストレスを細かく発散するのも上手だし、怨念を抱き続ける粘っこさもないからだ。

革命も同じようなもので、明治維新、そのキッカケが山陰の萩(吉田松陰の負うところが大きい)であったのは鬱々とした連中だったからであろう。

余談が長くなった。

阿蘇の入口・大津であるが、午後三時前には着いた。

加藤清正は参勤交代の初日、ここで草鞋を脱ぐのが常であったようだが、俺の初日もここまでの予定であった。

が…、草鞋を脱ぐには時間が早過ぎる。

この日は宮村という友人の家に泊まる事になっていたのであるが、彼はまだ仕事をしており、俺を迎えに来れるのは早くとも六時過ぎであると言う。

「三時間も待てんし、待つ場所もないな」

という事で、先を目指す事にした。

豊肥本線の大津駅を右手に見ながら通り過ぎ、その先を左に曲がる。

すぐに登りが始まって、清正がつくった水路、関所などが現れる。

豊後街道沿い、何やら清正だらけであった。

これだけ清正が出てくると、城主としての在籍年が加藤家より長い細川家に同情を覚えないでもない。

たぶん、細川家も色々な事をやってるはずだが後世に残ってないだけか、もしくは細川家がやった事も「加藤家がやった事にした方が聞こえがいい」と、地元の人が勝手に歴史を変えたのか…。

よく分からぬが、

(細川家の心中、お察し申す…)

まさにその事であった。

さて…。

大津の宿場町(関所周辺)を抜けると、後はひたすら田舎道が続く。

右手に「美咲野」なんていう洒落た新興住宅地があったが、賑わってはいないようだ。

東へ東へ、強烈な牛糞(鶏糞?)の臭い(俗に田舎の香水という)を嗅ぎながら、緩やかな坂を登っていった。

気温は高いが山から吹き下ろしの風が吹いていた。

汗は止めどなく流れる。

足の調子はいい。

コマメに休憩をとりながら、ゆっくりと二時間ばかり歩いた。

左手に小さな工業地帯があり、その手前には「清正公園」と書かれた縦に長い公園があった。

寄らぬわけにはゆかないので寄ると、寝るのにちょうどよいベンチがあった。

そこで寝転がり、「今日はここまで」と決めた。

時間は午後五時。

友人の宮村が迎えに来るまでには一時間強の時間がある。

夏の厚い雲を眺める格好で本を読んだ。

蚊が多いのが難点だったが、風も吹き抜けるし、日陰だし、なかなか気持ちが良かった。

と…。

そこに突然、髭ぼうぼうのオッサンが現れた。

服は真っ黒で、田舎の澄んだ空気を吹っ飛ばすほどの強烈な臭いを放っている。

ルンペン登場であった。

ルンペンは一言も喋らず俺の方をジィーッと見、何かを訴えている様子であった。

「おじさんの場所?」

聞いてみたがルンペンは何も答えない。

睨み合いが続いたが次第に気持ち悪くなり、俺が逃げ出す格好となった。

悔しかったが向こうは捨てるものがなさそうで、

「殺されてはたまらない」

という判断の末であった。

それから猛烈にビールを飲みたくなった。

公園周辺を見渡すと「焼肉」と書かれた看板があった。

のれんも出ている。

鍵もかかっていなかった。

が…、中は明かりが点いておらず、呼べど叫べど誰も出てこない。

ちょうど隣に観光者向けの八百屋があったので聞いてみると、

「気まぐれな人だから」

と、焼肉屋の事を言う。

「どこか近くにビールば出すところはなかですかね?」

聞いてみると、

「麓(大津の街中)まで行かんとねぇ」

首を傾げつつ奥へゆき、

「ま、ビールみたいなものを出してあげようだい」

と、麦茶を出してくれた。

確かにビールみたいなものではあったが何かが決定的に違った。

だが、美味かった。

宮村は午後七時前には迎えに来てくれた。

この時、清正公園にはルンペンの厳しい目が光っていたので、そこから道を挟んで工業団地へゆき、その一角、小さなグラウンドに俺はいた。

宮村は熊本市で仕事を終えた後、三十キロ近くをかっ飛ばし、ここ、大津と阿蘇の境まで迎えに来てくれている。

それから俺を家まで運び、泊めてくれ、更に酒まで奢ってくれ、翌朝には弁当まで(宮村の母が)用意してくれた。

感謝感激これ以上のものはないのであるが、ただ、彼は本当に酒好きな男で、それだけが難点であった。

「翌朝は早朝から出るけん」

「俺も早くから仕事だけん七時前には出るぞ」

という事は普通に考えて六時起き。

明日は峠を越えねばならない事から八時間くらいは寝たかったし、宮村も、

「早めに寝る」

そう言っていたのであるが、そこは酒好きの常、うっかり午前一時まで飲んでしまった。

「もう、寝にゃんばい」

「ほなこんねぇ、ばってんがたい、三年(高校)の時のウンコ事件はまいったね」

「あー、アレはまいった!」

「笑えるばーい!」

寝なきゃいかんと分かっていながら話は永延と続く。

ちなみに「ウンコ事件」というのは、高校三年の時、学校行事で泊りがけの旅行があったのであるが、その時、夜中に皆で酒を飲み、二日酔いで起きてみると、なんと畳の上に見事な一本糞が落ちていたという事件である。

犯人は迷宮入りのまま事件は伝説として流れたのであるが、その話が出ると、

「あの時は水筒に忍ばせた焼酎をバスの中で飲んだねぇ」

「朝から飲みっぱなしだったばい」

などと、大いに盛り上がり、

「高校三年のやるこつじゃにゃーぞ!」

話が話を誘い、午前一時を越えたのである。

寝る時、時計を見、

「しもたー!」

頭を抱えたものだが、この時は大して反省してない。

それが酒飲みの常。

本当に反省するのは明日の朝、それも酒飲みの常。

夕方には忘れる、それも酒飲みの常なのであった。

 

 

2-1、阿蘇へ

 

現在、熊本市から阿蘇へゆくには国道57号線を通るのが一般的な行き方だが、その道は緩やかであるぶん、少しばかり遠回りになる。

昔の人は、この「遠回り」を嫌い、少々登りが辛くとも、危険が伴おうとも、地図上で直線になるよう道をつくったようだ。

胸元に二日酔いのムカムカを抱えた俺は、午前七時には宮村宅を出、午前八時前には前日の終着点・清正公園にいた。

「飲みすぎたばい」

宮村は前日の愚行を後悔しながらも律儀に俺を送ってくれ、

「じゃ」

熱のない別れの言葉を述べて去っていった。

一人になった俺は、すぐに歩き出した。

登山用リュックが昨日よりもずっとずっと重い。

吐息が芯から酒臭い。

道は、いきなり登りに差し掛かった。

この道をミルクロード、もしくは清正公道(せいしょこどう)という。

バイク乗り憧れの道で、この坂を登りきると広い広い草原が広がっている。

が…、登っているうちは単なるヘアピンカーブの連続で、面白くも何ともない。

更に、この道は歩道がなく、ウォーカーにとって非常に危険でもある。

ていうか、道をつくる時点で「徒歩者がいる」という想定をしなかったのであろう。

路側帯は狭く、車は接触するギリギリのところを通ってゆくし、バイクなどは猛烈なスピードで、盲目的にカーブへ突進してくる。

ゆえ、

「歩行者がいますよー!」

俺はその事を伝えるために、できる限りのアピールをしなければならなかった。

傾斜はきつい。

一歩一歩が鉛のように重く、流れる汗に昨晩のアルコールを感じる。

何度も何度も吐きそうになりながら、ゆっくりゆっくり歩いた。

事前の調査によると、豊後街道はミルクロードの途中から左に逸れ、山深くを抜けてゆく林道に変わるはずだ。

が…、その左に曲がるポイントが分からず、結局は危険なミルクロードで頂上まで歩くかたちとなってしまった。

坂を登りきると、林が草原に変わり、視界がパァッと開けた。

同時に俺の胃も「ウェッー!」と逆流運動を始めたので、ちょっと長めの休憩をとる事にした。

ちょうど横になるのに最適な、阿蘇出身の政治家を讃えた石碑があったため、そこで横になり、体調が落ちつくのを見計らって宮村の母ちゃんがつくってくれた弁当を食べた。

美味いだの何だのは考える余地がなかった。

ただ、

(二日酔いを取り除くためには食う事だ)

そう思い、失礼ながらも無理して握り飯を口に入れた。

暑くはない。

さすがに高原だけに涼やかな風が吹いている。

目の前には牛が放牧されていて、その事も涼やかな景色にいい色を加えている。

一時間ほど横になり、ボーっと牛を眺めた。

牛を一時間も眺めるというのは初めての経験だったが、それにより「阿蘇の牛が美味い」といわれている所以が何となく分かった。

ここの牛は急傾斜の草原地帯におり、ジグザグ運動を繰り返しながら草を食べ続けている。

アップダウンの運動を繰り返しているぶん、平地の牛より肉が締まるのは当然であろう。

ちなみに、その牛の歩いた跡が道になり、それが「牛道」といわれている事を後の看板で知った。

この牛道が草原の至るところにあるというのが、阿蘇の景色の特徴でもあるらしい。

また、一時間も見ていたお陰で「牛が足を滑らせる」という決定的瞬間も見れた。

さすがにその時だけは二日酔いも忘れ、

「おっ!」

立ち上がり、牛の行末を見守ってしまった。

牛はズルリと二メートルばかり滑ったところで状態を回復し、それからまたジグザグ運動で斜面を登り始めた。

タフな野郎である。

このタフな牛が阿蘇の美味い水を飲み、美味い草を食べているのだから、そりゃぁ美味い肉ができるはずである。

さて…。

俺が越えようとしている峠の名を「二重の峠」という。

阿蘇外輪山の一角で、景色はすこぶる良い。

ちなみに、阿蘇というだたっ広いエリアの最もたる特徴は外輪山であろう。

クルリと円を描くかたちで山が連なり、中央に人が住む盆地がある。

この外輪山の最も低いところを通っているのが現在の国道57号線で、それから阿蘇の盆地を横一線に走り、滝室坂という峠を越えて大分までゆく。

二重峠はこの57号線より北側にあたり、標高もだいぶ高い。

ミルクロードはこれから外輪山の峰に沿ってゆくのであるが、豊後街道は右手に折れ、盆地の方へ下る事になる。

手元の資料によると、この右に折れてからの石畳が「実に味がある道」らしい。

右に折れた。

が…、草原の中のアスファルト道が続くばかりで石畳は出てこない。

一キロ弱歩くと「二重の峠」と書かれた展望所が現れた。

確かに景色はいい。

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景色はいいが、資料とはだいぶ違う。

展望所を見渡すと、阿蘇について詳しそうな登山用ベストを着たおじさんがいたので尋ねてみた。

「右に曲がっとが一本早かよ。石畳の道は細か道だけんねぇ」

また、道を間違えたようだ。

とりあえず、豊後街道に合流するための道を聞き、今度は山を下り始めた。

「左手に砂利道んある。そこん入ると看板の出とる」

おじさんはそういう風に教えてくれた。

教えられた通り、砂利道に向かって左折した。

確かに看板があった。

「歴史の道」と書かれた看板があり、その矢印は直進を指していた。

直進した。

すると、採石場に出た。

阿蘇の外輪山をガリガリ削っている大規模な採石場で、足元がゴロゴロしているぶん、非常に歩き難かった。

一キロばかり歩いた。

が…、どうも歴史を感じない。

「採石場のためにつくられた道」って感じであった。

通りかかった地元の人に、この道が豊後街道か聞いてみた。

「ぜんぜん違う」

と、言う。

看板通りに来た事を告げると、

「古い看板は信じちゃいかんばい。現にあたは間違えとるでしょーが」

と、笑われた。

聞くと「歴史の道」が指し示していたのは右だったらしく、それが誰かの悪戯かダンプの接触により直進になったのだろうという。

また、右に曲がったとしても、その道は草ぼうぼうで行けるかどうか疑問だとも言う。

結局は、

「歩く人がおらんけん、廃れていきよるとですたい」

その事がコアで、後は町(行政)というのが造るのには一生懸命になっても、それを維持するのには力を注がないというのが問題。

見知らぬおじさんと、その事について熱く語り合ってしまった。

とりあえず、豊後街道から大きくは逸れていない。

真っ直ぐ歩くと豊後街道に合流し、的石という地区に出た。

ここには「的石茶屋」という参勤交代時代からの休憩所がある。

外輪山を背に受けたところに池があり、そこから清水がこんこんと湧いているのだが、それを家の庭に引っ張り入れた見事な庭園がある。

加藤家も細川家も、ここで峠越えの疲れをとったらしい。

庭園を左に見ながら奥へゆき、湧水を口にした。

「美味い!」

豊後街道沿いには飯を食うところも自動販売機もないが、湧水地が頻繁にあるゆえ、水代がかからなくていい。

二日酔いも引いたようだ。

が…、気温は峠を下ってしまったぶん、かなり暑くなっている。

タラタラと汗を流しながら、ちょくちょく湧水を飲み、今日の宿泊地・内牧(阿蘇町)を目指した。

正午を回ったが飯を食うところは一軒もなかった。

その代わり、湧水地を持つ神社だけは頻繁にあった。

「産神社」という神社があった。

その名の通り安産祈願の神社で、道子が二人目を産むべく頑張っている事もあり、

(祈っていかねば…)

と、念入りに祈りつつ休憩した。

この神社の隣にはゲートボール場があった。

ちょうど休憩の時間だったらしく、見事な年輪を刻まれた方々(老人という意味)が茶を飲んでおられたのであるが、

「飲んでいきなはらんですか?」

と、俺を誘ってくれた。

これを断る俺ではないので、丁寧に頭を下げ、遠慮なく頂くと、

「む!」

これがまた、恐ろしいほどに美味い。

「こぎゃん美味かお茶は初めてですよ!」

緑茶であったが、正直に感激すると、

「そこの湧水ば使っとるけん」

老人達はそう言って、茶を美味くいれるコツは飲んでもらう水の良さも然る事ながら、

「茶碗を洗う水にも気を使わんといかんですたい」

そう説明してくれた。

それからも老人の茶飲み話は永延と続く。

都会(八代の事であるが)に行って、あまりの水の不味さに辟易してしまった話や、自分にも孫が生まれたという話、などなど、永延と続き、とてもとても帰れそうになかったので、

「宿の時間があるけん…」

と、嘘をつき、その場を後にした。

豊後街道は途中からアスファルトの道を離れ、山道に入った。

荒れ果てていた豊後街道を町が整備したものらしく、アスファルトの道(県道)よりも山側の方をウネウネと走っている。

かなり遠回りではあったが、テーマに沿ってそちらを歩いた。

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この道は三キロ弱ほど続いたろうか。

歩けば歩くほど山深くなり、それからポンッと元の県道に出た。

地図を持っていたが、現在地がどこなのか全く分からなかった。

仕方がないので出た場所にたまたまあった「ショップ・サカモト」という小さなコンビニ(?)に入り、道を問うた。

今日の宿泊場所は阿蘇ライダーハウスで、ここから遠いところではないはずだ。

店の人も、

「近か近か。歩いて三十分もかからんよ」

そう言って、地図を見ながら「ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん」と教えてくれた。(熊本では方向を指し示す時や手振りで説明する時に「ぎゃん」を用いる)

腹が減っていたのでパンを買い、礼を言うと、

「あた、お腹がすいとるとね?」

店の人がそう聞いてきた。

パンを買ってるくらいなので、

「はいっ!」

大きく頷くと、

「ちょっと待っときなっせ!」

炊き立ての赤飯を持ってきてくれた。

先ほど茶をくれた老人といい、この店の人といい、阿蘇には心優しき人が多いように思われる。

ちなみに、この店の人は歩いてゆく俺を車で追っかけて来た。

何かと思って足を止めると、

「ライダーハウスの隣にある温泉、その入浴券があったけん、あげようたい」

と、入浴券をくれた。

「すいません…、食い物から温泉まで…」

言葉少なに温泉券を受け取り、頭を下げ、上げた時には店の人は車を出していた。

渡された温泉券は何やら温かった。

それは手の温もりだけではあるまい。

何ともいえぬ、深みのある温かさだったように思える。

孤独な旅だけに、そういう事がいちいち胸によく沁みるのであった。

 

 

2-2、ライダーハウスにて

 

ライダーハウスのある内牧温泉街は、本陣(殿様が泊まる場所)が置かれていた場所で、

「俺はまさに、清正と同じペースで進んでいる」

という事になる。

ライダーハウスに到着したのは午後三時過ぎであったろうか。

ライダーハウスというものは特に北海道に多い「ただ寝るだけの宿泊施設」で、とにかく安い。

ここの例をとって言えば一泊九百円で、連泊すれば一泊七百円まで下がる。

まさに、旅人を安く泊めたい、その気持ちだけで営まれている完全非営利民宿なのだ。

ところで…。

この宿の予約をした時、

「受付の話が長いから覚悟してね」

そのように言われたのであるが、実際に泊まってみると本当に長かった。

三十分くらい、じっくりと話を聞かされ、

(これだけの話を毎回するのか? それとも俺の人相が悪いから念入りにしたのか?)

疑問に思っていると、宿主は次に来た客にも俺と同じ話を三十分かけて話していた。

内容は、広島出身の宿主(話し手の事である)が阿蘇に惚れ込み、阿蘇にもライダーハウスを作りたいと思い、役場に企画書を出し、その企画に賛同した現ライダーハウスの隣にある旅館の亭主が、

「別館を無償で貸そうたい」

そう言ってくれたのが阿蘇ライダーハウスの始まりだと言う。

「だから」

と、宿主の話は続き、阿蘇町に協力してもらい、近隣の住民に理解してもらい成り立っているから、

「常識のある行動をとって欲しい」

宿主は熱血教師のような口調でその事を語り、その後も永延と話を続けた。

どの話も芯から熱い。

「現在、ライダーハウスには二千人の客が泊まっています! これは嬉しい事だし、ある意味プレッシャーで、ここを絶対に潰すわけにはいかない! いや、ここを残すという事が僕の責務だと感じています!」

とか、内牧温泉街のオススメスポットを幾つか紹介してくれた後に、

「もっと知りたいでしょ! 語らせてください!」

このように、前へ前へ出る感じで語ってくれる。

「内牧の温かい心に応えるべく、僕は内牧のいいところを皆さんに薦めたいんです!」

その話には強い粘着力があった。

(こういった無償の仕事というものは、これだけの情熱と粘りっこさがないと勤まらんもんなんだろう…)

感心したし、

(俺にはできん…)

とも思った。

さて…。

宿主は長い長い話をするや仕事に出て行った。

ライダーハウスの仕事は趣味(俺でゆけば文章)なので、それだと宿主は経済的に立ちゆかなくなる。

ゆえ、昼にバイトをしているらしい。

「上がってていいから勝手に遊んでて」

そう言われたが、寂しがり屋の俺に一人で遊ぶ事ほど難しい事はない。

すぐ温泉に行った。

むろん、頂いた温泉券を用い、目の前の温泉に入ったのであるが、何の特徴もないサラサラの湯であった。

が…、かけ流しの過熱をしない単純泉という事で、疲労回復等々の効果はあったに違いない。

湯には一時間ほど浸かった。

足には幾つも豆ができており、下半身は全体的に筋肉痛で、とにかくグッタリした。

それから洗面所で手洗い洗濯をし、それを干し、飯を食いに外へ出た。

宿主にもらった内牧マップを元に、フラリフラリと歩き、ラーメン屋へ入った。

酒は午前中の二日酔いの事もあり、飲まぬつもりでいた。

が…、ラーメンと餃子を頼んでしまうと、どうしてもビールが飲みたくなる。

アリスに谷村信司がいないようなものであった。

そして、そういう時に限って、

「生が自慢のモルツです」

この看板が嫌に目に付く。

(しょうがない…)

という事で一杯だけ飲んだ。

すると、ラーメン屋の店主が、

「これはサービス」

そう言いながら、おでんをくれた。

おでんに焼酎がなくっちゃ、サイモンにガーファンクルがいないようなものである。

追加でビールと焼酎を飲んだ。

これにてライダーハウスへ帰る頃には、ちょいといい感じになってしまい、つい土産を提げて帰る運びとなってしまった。

土産は焼酎と鳥の唐揚げである。

ライダーハウスには(ユースホテルもそうだが)談話室と呼ばれる酒を飲む場所がある。

談話室に直行し、居合わせた数人と酒を飲んだ。

話は弾んだが、どうも酒が進まなかった。

微熱があるようにも思え、ないようにも思える。

変な感じのままウダウダと飲んだ。

ふと、時計を見ると午後十時を回っていた。

昨晩が睡眠不足だったので、

「もう寝ます。酒は皆で飲んでください」

と、場に寄付し、そのまま床についた。

(何時だろうか…?)

夜中、ふと目が覚めた。

そして、熱くなっている自分を感じた。

宿主の熱い弁舌が飛び火し、俺の体が精神的に熱くなったわけではない。

冷えピタシートが欲しくなる体温の熱さであった。

(熱がある…、それも39度級やね…)

それからは体が火照って寝れなかった。

解熱剤があるかどうか宿主に聞きたかったが、宿の中は真っ暗で、起こすのも悪い。

苦しくはあったが、寝れない体を強引に布団へ押し込んだ。

時刻は午前二時であった。

それから四時間後、午前六時に人の気配を感じた。

(誰か起きた!)

そう思い、布団から飛び出し、それが宿泊客であるのを確認すると、

「解熱剤のある場所とか分からんですか? もしくは持っとらんですか?」

一気に尋ねた。

昨日、俺と飲んだ同年代の青年であった。

彼は大阪の出身で、青春十八キップで旅をしているらしい。

阿蘇ライダーハウスには十日以上泊まっているらしく、農業のバイトをしながら遊んでいるそうな。

そんな彼の旅は一ヶ月以上に及ぶものだから、

「最低限の常備薬は用意してますよ。風邪薬でいいですか?」

なんと解熱剤が含まれる薬剤を持っていてくれた。

迷う事なく、それを飲んだ。

日頃、薬を飲まないものだから効果覿面であった。

すぐに眠くなり、起きると午前九時過ぎになっていた。

「遅い朝ですね」

宿主は明るく俺を迎えてくれ、

「体調が悪いみたいですね? 大丈夫ですか?」

優しい声もかけてくれた。

「大した事はなかですよ、体力を使う旅ってのは必ず最初に苦しむもんですから」

俺はそう答えたし、実際そう思っていた。

自転車旅行の時も最初の一週間が勝負、尻の痛さとの戦いである。

歩きも同じ。

(足の痛さに勝たんといかん! この熱はその余波ばい!)

そう思っていた。

が…、俺の考えは、どうも古かったようだ。

次の章で書くが、この日、俺は何度も何度も死にそうな目に遭う。

そして、次の事を痛感するに至るのである。

「根性ではどうしようもない事がある」

三日目の空は雨であった。

 

 

3-1、陽炎の日

 

陽炎(かげろう)とは強い直射日光で地面が熱され、地面に近い空気が暖められて密度分布にムラができ、景色が揺れ動いて見える事をいう。

この日…。

つまり、七月三日であるが、この日は実に涼しげな朝であった。

シトシトシトシト…。

冷たいものがゆっくりゆっくり降り続いており、外輪山が煙って見えた。

暑くなるようには思えなかった。

ましてや陽炎が見えるほどに熱くなろうとは夢にも思わない。

俺は白く濡れた温泉街を遠めに眺め、

「歩くには最高の日ばい」

大きく一つ頷いた。

ライダーハウスを出たのは午前十時過ぎであったろう。

風邪薬を飲んで朝寝した事もあり、熱は微熱に下がって、夜に比べればぜんぜんいい。

せっかく買った高級合羽を着ようとも思ったが、霧雨だったし、進行方向の空が明るかったので、足元だけを靴からサンダルに替えて歩いた。

豊後街道は内牧の市街地を抜け、国道212号線を横切り、田んぼの中を抜ける格好で阿蘇神社方面へと進む。

内牧の市街地を抜けたところで霧雨が大雨に変わった。

すぐさま民家の軒下に移動し、空を見上げた。

流れゆく雲と空の色が、

「すぐに晴れるよ」

その事を教えてくれているように思われ、合羽を出さずに待っていると霧雨に戻った。

外を歩くという事は、雲を見ながら雲と共にゆっくり進むという事で、そういった勘が育まれるのかもしれない。

豊後街道は、これから十キロばかりアスファルトの一本道が続いた。

前述のように、周りには田んぼと小さな集落しかない。

体調を確かめながら、ゆっくりゆっくり歩いた。

霧雨はすぐに上がった。

と、同時に日が差してき、暑くなり始めた。

正午近くなると、下に溜まった水分がどんどん蒸発しているのであろう、サウナの中を歩いているような錯覚に陥った。

意識が朦朧としてきた。

景色が揺れ動いて見えた。

「陽炎だ」と思った。

「間違いなく陽炎だ」と思った。

が…、今思えば、それは体調不良が生んだ「視界の歪み」であったようにも思われる。

「根性、根性! 三日目で倒れたら百人以上に笑われるぞ!」

何度も何度も自分自身に言い聞かせ、何度も何度も頬や足に平手打ちをした。

ちなみに…。

俺はこういった旅行に出る前の「お約束」として、なるべく多くの人に、

「失敗はない! ありえない! だって俺のする事だもん!」

そういったニュアンスの宣言をするようにしている。

これは、自分自身に「プレッシャー」を与えるためと、

「根性がある男、気概のある男」

多くの人にそれを認めて欲しいがための「アピール」を含んでいるが、どちらかというと前者の臭いが強い。

現に、日本縦断自転車旅行の時も、この宣伝のおかげで困難から立ち直っている。

(今回もこれで乗り越える!)

そう思い、何度も何度も、

「笑われるぞ、福山! いいのか、福山!」

自分自身にそう叫んだ。

が…、足に力が入らなくなるのは止まらず、その速度はぐんぐん落ちていった。

この日は土曜という事で小学生が多かった。

この子供達に抜かれまくった。

途中、冷たい湧水で顔を洗い、口を潤し、

(もういいや!)

と、全身を水に浸け、ずぶ濡れになって涼をとった。

濡れた服はすぐに乾いた。

が…、パンツだけはなかなか乾かず、海パンをはいているみたいな感じになり、とても気持ちが悪かった。

豊後街道は途中からアスファルトの道を逸れ、農道のような道になった。

大音量で響くセミの声が、だんだんうるさく感じられてきた。

ギラギラと輝く太陽が俺を小馬鹿にしているように思われてきた。

イライラしてきた。

(いかん、いかん…)

気が滅入っている事に気付いた。

明るい歌でも歌ってやろうとキャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」を歌った。

ぜんぜん明るくなれなかった。

目線はだんだん下へゆき、ついには考える事が億劫になり、重い溜息が何度も何度も洩れた。

と、その時!

「ぬぉっ!」

体が前の方へ吸い寄せられた。

踏み出した足が田んぼの土手、その斜面に差し掛かっていたのである。

踏ん張った。

が…、踏ん張れなかった。

青い田んぼは猛烈な勢いで俺に近付き、そして俺を飲み込んだ。

七月頭という時期である。

田んぼには水が張られており、アッという間に見るも無残な泥人形ができあがった。

笑うに笑えなかった。

火照った体に鞭を打ち、無言で田んぼから這い出た。

綺麗に並んでいた稲が俺のせいで乱れてしまった。

「農家の人に悪い」とは思ったが「芯から悪い」とは思わなかった。

その代わり、

(俺は馬鹿だ! どうしようもない馬鹿だ!)

とは思った。

子供の笑う声が聞こえた。

俺はそれに照れ笑いのピースをし、脇を流れる農業用水(これも湧水だと思われる)に足を入れて座り、その水を使って体を洗った。

今思えば田んぼに落ちた事を少しは悔しがっても良さそうなものであるが、その時は落ち着いた姿勢で、それが当たり前のような姿勢で体を洗い、

(どこまで落ちてゆくのか?)

そのような事を考えていたように思う。

たぶん、芯から頭が変になっていたのであろう。

「歩かんと笑われる…」

ずぶ濡れの俺は、またフラフラと歩き始めた。

日は、だんだん強くなっていった。

三十分も歩くと、パンツ以外は完璧に乾いた。

ただ、泥の成分であろうか、何だか全てが(皮膚も)パリパリになった。

阿蘇町から一の宮町に入った。

ここは古い古い神社・阿蘇神社のあるところで、ほどほどに栄えてもいる。

午後一時くらいに、この町の中心地・宮地駅前に出た。

阿蘇神社に寄る予定であったが、そんな体力はどこにもなく、幽鬼のような顔色で国道57号線を歩いた。

(暑い…、暑過ぎる…)

ヘトヘトのところにレストラン・ジョイフルを発見した。

迷わず入った。

四百円でおつりのくるランチを食べた。

油物だけがどうしても食べきれず、俺としてはありえない事であるが残してしまった。

その分、水だけは大量にとった。

三十分ほど休憩し、少しだけ大地を踏む力が蘇った。

感覚がそれを教えてくれていた。

夢の中でよく味わう、ぼやけた感じのそれが、何となく現実味を帯びたシャープな感じになってきたのだ。

ただ、体だけは火照ったままで、どうも微熱ではないように思われる。

解熱剤を買おうと、ジョイフルのレジで薬局の場所を聞いた。

レジの女は言う。

「駅前の信号を左折して阿蘇神社の方向に行ってもらえれば、それから一つ目の信号のところに大きな薬局があります」

(なるほど、近い…)

そう思い、薬を買うため駅前の信号を左に折れた。

それからレジ女の言う「一つ目の信号」に出会うため、俺は一キロ弱も歩いた。

歩きながら、

(しまった! ここは市街地とはいえ阿蘇だった!)

その事を思い出した。

解熱剤を買うため往復二キロも余分に歩き、ジョイフルで培った「大地を踏みしめる力」はその事で霧散した。

これから先、今日の目的地・波野村のやすらぎ交流館までは国道57号線をひたすらゆく事になる。

ただ、幾度か旧道、獣道に逸れる。

まず最初は豊後街道の宿場町である坂梨宿、そこへゆくために逸れる。

逸れてみた。

そして、ライダーハウスの宿主が薦めてくれた大人気豆腐屋の前を通った。

が…、立ち寄らずに通り過ぎた。

豆腐好きの俺が美味いと評判の豆腐屋を素通りするほど、この時の俺は「変」であった。

ただ、「無心」でもあった。

何よりも暇が嫌いな俺は、日頃であれば空いた頭を遊ばせはしない。

絶えず雑念がはびこっており、歩いている間もくだらない事を考えて続けている。

が…、この日この時は禅僧のような静けさを保っていた。

真っ白な状態で前へ前へと進んだ。

ゆえ、これから宿に着くまで何か史跡があったのかもしれないが、気付いていないし、気付いていても立ち寄っていない。

坂梨宿を抜ければ、次は阿蘇の盆地を抜けるため、滝室坂を越えねばならない。

長い長い峠道で、旧豊後街道にあたる獣道が国道の脇を通っている。

国道を歩いていると、下にその獣道が見えた。

「歴史の道」という小さな看板も出ている。

が…、見るからに草ぼうぼうで、とても行ける道ではない。

そう、行ける道ではなかった。

行ける道ではなかったが、その日の俺はなぜか行った。

丈の長い草を掻き分けようともせず、黙々と直進した。

憶えている事はあまりないが、

(樹海の中へ自殺しに行くごたる…)

おぼろにそう思った事だけは何となく記憶している。

獣道は、たぶん間違えたのであろう、予定より早く国道に出た。

国道では、右へ左へフラフラと揺れていたに違いない。

よくクラクションを鳴らされた。

酔っ払いだと思われたのであろうか、時間の早い夢遊病患者だと思われたのだろうか、よく分からぬが、俺にとっては何もかもが夢の中のように思われた。

滝室坂を登りきったところに茶屋があり、そこで休憩をした。

ウンコ座りをするつもりだったがリュックの重さに耐えきれず、そのまま後ろに転がってしまった。

ギンギラギンの太陽と青い空が見えた。

「こいつめぇ!」

憎らしかった。

そして、苦労して買ってきた解熱剤が全く効いていない事に気付いた。

この事も憎らしかった。

「このコンビネーションは絶対に効きます」

薬局の姉ちゃんはそう言って、俺に栄養ドリンクと風邪薬を売りつけた。

値段は千三百円で、安い買い物ではない。

「絶対に効くって言ったろがぁ! 姉ちゃんの絶対ってのは何やぁ!」

何だかイライラが止まらず、無駄な独り言が絶えなかった。

それから、ひたすら坂を下った。

地図で見ると十キロ弱とあるが、そんなに歩いたような記憶はない。

満身創痍の状態で宿へ着いた。

なるべく元気なフリをしながら受付をし、

「最初に風呂へ入らせてくれ」

と、お願いした。

とてつもなく俺の体は臭いはずであった。

泥だらけになっていたし、変な汗がたくさん出てもいた。

風呂へ案内された。

宿の人は風呂の説明をすると、

「顔色がたいぎゃ(とても)悪かですよ、大丈夫ですか?」

俺の状態を一目で見破り、

「何かあったら、そこのボタンば押してください」

非常用の呼び出しボタンを教えてくれた。

風呂へは飛び込むようにして入った。

湯に浸かった瞬間、体が溶けるような錯覚を覚えた。

表面だけでなく、中から何かが溶け出ている感じであった。

風呂を上がると、宿の人が体温計を用意していた。

「その顔色はおかしい」

再度その事を言い、強引に体温計を渡された。

測ってみると三十九度四分であった。

これには俺もビックリした。

熱があるのは分かっていたが、三十九度を超えているとは思わなかった。

宿の人はそれを見るや、

「病院に行った方がよか!」

そう言って、周りのスタッフに指示を与え始めた。

これは後になって分かる事だが、一人の人は自宅へアイス枕を取りにゆき、もう一人の人は氷をビニール袋に詰めにいってくれたようだ。

「病院は行かんですよぉー!」

「駄目です! 四十度近いんですから!」

嫌だと言っても聞いてもらえず、宿の人は開いてる病院を調べてくれた。

この日は土曜で、当番医でなければ開いていないのだ。

ていうか、波野村は熊本でも五指に入る超田舎で、病院そのものがないのかもしれない。

「阿蘇町の病院が開いてるらしいです。話はつけておきました。行きましょう」

結局は宿の人に背中を押される格好で、二十五キロ先の病院へゆく事になった。

ちなみに…。

「病院へ行く前に休憩された方がいい」

という宿の人の言葉を受け、一時間ほど横になった。

自宅から持ってきてもらったアイス枕に頭を乗せ、腋や腿、大きな血管が通っているところには氷袋を置いてもらった。

「すいませんねぇ、手のかかる客で」

「よかよか、よかですよ、どうせ今日の客は一人ですから」

土曜なのに客が俺しかいないというのも変な話だが、俺一人に三人のスタッフが付くというのも変な話ではある。

更に、ここ「やすらぎ交流館」は村の研修施設で、一泊二食付き五千円の宿なのだ。

つくりは新しい。

廃校になった小学校をリフォームしたのだという。

「宣伝ばしとらんけんですね」

人が来ていない理由を宿の人はそう言っていたが、それは間違いなく当たっているだろう。

ていうか、忙しくなるのを避けるため、あえて宣伝をしていないのではなかろうか。

この点、民間との感覚の違いは否めない。

ここをネットで見つけるためには波野村のホームページを見なければならない。

普通の人はまず見ないし、見ようとも思わない。

それに波野村の知名度は極めて低い。

県民でも波野村の存在を知らない人が多いのではなかろうか。

ただ、一連のオーム騒ぎがあった頃には、この村も有名になった。

オームの拠点があったからだ。

あれから十年以上、この村は人々に忘れ去られ、実に穏やかな時を積み重ねている。

ベットを出た俺は宿の人の車に乗せられた。

説明が遅れたが「宿の人」と書いている「この人」は青年である。

歳は三十くらいであろうか。

車の中に子供っ気も女っ気もなかった事から、

「独身彼女なしですね?」

聞いてみると、まさにその通り、的中であった。

「その熱で、よくぞ峠を越えましたねぇ」

宿の人はそう言って俺のタフさを褒めてくれたが、実はこの時、話をするのも辛かった。

歩いて越えてきた滝室坂を、今度は車で越えているのであるが峠道ゆえ頻繁に揺れる。

揺れる度に頭がズキンズキンと悲鳴を上げた。

また、宿の人は芯から話し好きで、継ぎ目なく話し掛けてくれるのであるが、その半分以上は耳に入らず、

「あぁ、はい」

空返事を続けていたように思う。

とりあえず、車は病院へ向かっている。

一の宮を越えて阿蘇町まで、つまりは今日歩いた道をそのまま戻って病院へ行っているのであるが、それにかかる時間は凡そ三十分。

(陽炎の中を田んぼに落ちてまで歩いた…、六時間の苦労が三十分…)

虚しくはあるが、それが俺の望んだ旅でもある。

朦朧とした意識の中に車窓の景色がよく映えた。

外輪山に沈む夕日、その景色であった。

これを書いている時というのは、あれから二ヶ月が過ぎている。

「これぞ桃源郷ですね」

「そうですかねぇ」

朦朧としていたくせに、何気ない一齣が鮮明に残っているのが不思議だった。

(忘れちゃいかん!)

本能がそう言ったのかもしれないし、病の時ほどそういうものが映えるのかもしれない。

よく分からぬが、とにかく神がかり的な美しさであった事は間違いなかった。

 

 

3-2、病院にて

 

手元に資料がある。

これを書くための資料で、地図上に「何があった」という事が書かれている簡易的な日記である。

歩いている間、俺は毎晩この日記をつけた。

その地図日記を追っていくと、内牧(三日目のスタート地)のところで、

「霧雨の朝を迎える。熱も下がったようだ」

そう書いてあり、一の宮に入ってすぐの田園地帯で、

「田んぼに落ちる。頭が痛く、死ぬのではないかと思われた」

だんだん弱気になっていき、「その晩」という項目のところに、

「病院で点滴をうち復活する」

と、書いている。

そう…。

俺は病院に行って復活した。

すぐさま診察を受けた俺は、

「たぶん熱中症でしょう」

そういう診断を受けた。

「歩けない」と言われるのが何よりも心配だったので、

「東京まで歩かんといかんとです! 明日は大分の直入まで歩かんといかん! 大丈夫でしょうか?」

その事を熱っぽく問うた。

医者は腕を組んだまますぐには答えてくれなかったが、しばらくすると、

「医者としては駄目だと言った方がいい」

そう言って、

「君は危うく死ぬところだったんだから」

と、熱中症の怖さを語ってくれた。

事実、今年の夏は猛暑で、かなりの人が熱中症で死んでいる。

原因の大半は、これは俺にも当てはまる事だが「塩分の不足」らしい。

そう言われると阿蘇に入って以来、湧水ばかりを飲んでいたからスポーツドリンクなどは飲んでいないし、塩っ辛いものも食べてない。

医者が言うに、

「塩分は体温を調節するのに必要不可欠な要素で、スポーツドリンクは手軽にそれを補給できるから飲んだほうがいい。しかし糖分が多いから飲みすぎもいけない」

「適度にスポーツドリンクを飲みながら歩け」という。

少な過ぎると今回の俺みたいになるし、かといって摂り過ぎもいけない。

「つまり適度な塩分。それがキーなんです」

医者はそう言うが、適度というのはどうも分かり辛い。

「どれくらいが適度なのか具体的に教えてください」

そう言うと、

「汗ダラダラの時はスポーツドリンクを二回に一回、涼しげな時は四回に一回飲むようにしたらどう?」

本当に具体的な指示を与えてくれた。

以後、俺はこの指示を忠実に守る運びとなる。

とにかく、塩分の大切さが分かっただけでも病院行きは大収穫であった。

ちなみに、これは伯父から聞いた話であるが、炭鉱で原因不明の死者がボロボロと出ていた頃、お清めの意味も含め、塩を舐めてから炭鉱に入るよう指示があったらしい。

すると、死者が激減したのだそうな。

「たかが熱中症、されど熱中症」

まさにその事で、なめていると本当に命を落とすところであった。

今後、なめるのは熱中症でなく、塩にしたいものである。

くだらねぇ。

さて…。

それから地図日記に書いてあった通り、点滴をうった。

点滴の内容は生理食塩水で、つまりは塩分の補給をしたにすぎない。

明日から歩く事に関しては、先ほど書いたように「医者としては駄目だと言わざるを得ない」との話であったが、それはあくまで医者としての助言であって、

「決めるのは、あくまで君の判断」

という事も臭わせてくれた。

点滴は二時間弱かかった。

診察室の外に宿の人が待っており、心から気の毒ではあったが、

「よかよか、ゆっくりどうぞ」

そう言ってくれたので、横になり、点滴が落ちるのを静かに待った。

ところで…。

地図日記を見ていると、「病院で点滴をうち復活する」の後に「老夫婦の会話に涙」という一文がある。

この一文を見て、あの時の老夫婦の姿が鮮明に思い出された。

それは横になって点滴をうっていた「その時」の話である。

俺が寝ている部屋は診察室の隣にあった。

二つの場所はカーテンが区切っているだけで、見えはしないが声は丸聞こえであった。

その診察室に老夫婦が現れた。

ばあちゃんの関節やら何やらが悪いらしく、「それに併せて発熱が起こった」とじいちゃんが説明をし、

「今日は病院に泊めてやってください」

じいちゃんは泣きそうな声でその事をお願いしていた。

途中、話の中に老夫婦の年齢が出てきたのであるが九十歳前後らしい。

医者は熱を測ったり心音を聞いたりしているのであろう、ガサガサという衣擦れの音の後に「うんうん」という声を発し、

「泊まってもらいましょうかね」

そう言って、ベッドの用意を看護婦に頼んだ。

老夫婦は二人で暮しているらしい。

じいちゃんはばあちゃんの介護をするにも九十という歳では満足な事ができないらしく、

「ばあさんに恩ば返さにゃいかんと思うんばってん、体が動かんで…」

と、現状を嘆き、

「今日も近所の手ば借りてタクシーに乗せてきたとですたい」

そう話していた。

この時点で、俺はジーンときている。

「できるだけ自分の手で介護ばしてやりたか!」という、じいさんの熱い気持ちが伝わってきたからである。

道子がヨボヨボになった時の事を考えてみた。

そして、道子の世話をしようとしている俺の事も考えてみた。

道子がヨボヨボになっていれば、俺も当然ヨボヨボになっているはずだ。

ヨボヨボの俺がヨボヨボの道子の介護をしなくてはならない。

むろん、道子はボケている。

そういう状況で考えてみた。(非常に現実感がある)

「飯はもう食ったでしょーがー!」

「食べてないもん! 食べるー!」

「馬鹿っ! それは食いもんじゃなかっ! 俺の脱ぎたて靴下ぞ!」

「違う! 納豆だもん!」

毎日こういった問答を繰り広げなければならないのだろうか…。

考えるだけで疲れてきた。

が…、それでも長年連れ添ってきた妻を捨てるわけにはいかない。

(なるべくなら自分の手で介護を続けていきたい!)

そう思うのが人情であろう。

が…、体力的な問題は情を越えて圧しかかってくるに違いない。

最後は、

「世話をしたくともできんとですよ!」

じいちゃんと同じく、俺もそういった状況になるのではなかろうか。

じいちゃんの歯痒さが伝わってきた。

何だか泣きたくなってきた。

旅の途上というのは、日頃より何十倍も涙もろくなるのであろう。

言葉を変えるなら、感受性が何十倍も豊かになっているのかもしれない。

泣きながら耳を澄ましていると、ばあちゃんが初めて口を開いた。

「もう…」

消えそうな声でそう呟き、たっぷりと間を取って、

「もう死んでよかとですよ…、死にたかです…」

そう言った。

静かな時間が続いた。

数秒であったが、意味のある深い深い沈黙であったように思う。

沈黙を破ったのはじいちゃんであった。

「わしだって死にたか」

そう言って、たぶん、ばあちゃん手でも握ったのではなかろうか。

「わしだって死にたかばってん、死ぬまでは一生懸命生きにゃぁならんたい」

(あー!)

ドクン、心臓が大きく脈打った。

(何と! 何という素晴らしいセリフだろう!)

ドクドクドクドク…、大きな鼓動が俺の体全体を震わせた。

これは感動という簡単な言葉で言い表せる事ではない。

全身がビリビリとしびれた。

前の会社で二百ボルトのコンセントを触った時でもこれだけしびれはしなかったであろう。

医者が黙って老人の話を聞いているのも良かった。

黙って話を聞き終え、

「大切に奥さんを預からせて頂きます」

そう言った。

(千両役者! 何てシブいタイミングで言いやがる!)

この時、俺の顔は嵐の後のようになっており、顔はビショビショ、枕もじっとりと濡れていた。

「うっ、うぅ、うぅ…」

次から次に湧き上がる低い嗚咽を撒き散らしながら、

(この老夫婦は農家出身に違いない!)

そう思った。

阿蘇の雄大な自然の中で、山と水と土を、生きとし生けるものを肌で感じてきた人にしか吐けないセリフ、それが、

「死ぬまでは一生懸命生きにゃぁならん」

その一言ではなかろうか。

これほどまでに「生まれたものの責任」を言い放った言葉が他にあろうか。

たぶん、なかろう。

「わしだって死にたか」という前段が、この言葉を「ホンモノ」に仕上げてもいる。

死ぬ事が老夫婦にとって最も身近で簡単な解決法である事は何となく分かる。

ばあちゃんは耳も目も不自由で動く事もままならず、じいちゃんにも迷惑をかけ、今日だけでなく何度も何度も死を思ったであろう。

じいちゃんも、ばあちゃんのいない生活など考えが及ばないに違いない。

「死ぬほうが楽」

絶対にそう思ったはずだ。

ただ、自然の摂理がそれを許さなかったのであろう。

約一世紀も大自然と暮した者だけが吐ける見事な台詞であった。

さて…。

話を戻す。

地図日記によると、この後は、

「宿に帰って気分よく眠る。寝酒にビールをもらう。宿の人には本当に世話になった」

と、ある。

本当に宿の人には世話になった。

二時間も待たされた宿の人は、あまりにも暇で喫茶店や本屋をうろついたらしい。

その申し訳なさに、

「夜飯ぐらいは奢らせてくれ」

強く、そうお願いしたのであるが、

「公務ですから気にしないでください」

と、奢らせない。

ちなみに、宿から病院へ送ってくれた料金は八百円で、それを徴集する事によって、これが単なる善意でなく「公務である」となるらしい。

このあたり俺にはよく分からないが、あまりにも頑なに拒まれるので諦めた。

体調はすこぶる良くなった。

二時間の点滴後、体温は三十八度まで下がった。

その後も着々と下がり、夜には七度ちょいまで下がった。

日記にもあるように、宿直の人が、

「ビールでも飲むかね?」

誘ってくれたので、今日ぐらいは飲まないでおこうと思っていたが、あまりにも調子が良かったので飲んだ。

寝付きも良かった。

パタリと寝た。

宿の人は芯から優しく、ベッド脇に麦茶を置いてくれ、更に、

「農家の人がくれた」

という事で、大量のプラムをくれた。

プラムの甘酸っぱさが心に染みた。

(阿蘇はいい!)

心底そう思った。

そして明日になれば、俺はその阿蘇を出る。

それから以後二十五日も歩くわけであるが、これだけ人の良かった地域は他にない。

そういえば、歩いている時に、

「乗ってくかい?」

と、車を寄せられたのは全体を通して阿蘇だけであった。

むろん、「乗ったら意味がない」と断ったが、こういった誘いをかけてくれるのも阿蘇の優しげな一面ではなかろうか。

人間に興味がある。

ゆったりとした時間が流れている。

ちょっと閉鎖的。

阿蘇には二百年前に多かったタイプの日本人が、とてもとても多いように思われる。

すやすや、すやすや…。

ぐっすりと眠っている俺は、まだ何も知らない。

その俺が二ヵ月後には「阿蘇人」になる、という事を…。

七月三日はこうして幕を閉じた。

 

 

4-1、豊後入り

 

「村民の皆様、おはようございます!」

その音がやかましく響いた。

村内放送であった。

(いったい何時や…?)

眠い目を擦りつつ時計を見ると午前六時であった。

田舎の朝は、とてつもなく早い。

今日は日曜。

サラリーマンであれば寝ている人も多かろうが、農家が多数の山村ゆえ、

「起きてて当然の時間」

役場の判断はそういう風になる。

響き渡るラジオ体操の歌を聞いていると、俺も自然に目覚めていった。

「あーたーらしーい朝がきた♪ きーぼーおのー朝だ♪」

耳慣れた歌が実に心地よく、これを聞いてしまっては「起きなきゃいかん!」という気になってしまう。

少年時代に叩き込まれた「日本人の反応」ではなかろうか。

熱は下がっていた。

念のため体温を測ってみると三十七度ジャスト、ほぼ平熱であった。

「いける!」

そう確信し、朝食用に買っていた握り飯を食べ、病院からもらった薬を飲んだ。

「福山さん、顔色がいいですねぇ!」

これは宿の人の声であるが、俺も鏡で自分の顔色を見、

(昨日とは確かに違う!)

そう思った。

何もかもが、

(この宿の温かい対応のおかげばい!)

その事であり、

「ほんとに! ほんっとに、お世話さまでした!」

深々と頭を下げた。

「礼はよかよか、当然の事をしたまでだけん」

宿の人は笑いながらそう言うと、

「ところで」

と、話を変え、

「福山さんみたいな宿泊者は珍しいけん写真ば撮らせてください」

そう言ってきた。

村で発刊している新聞に載せるらしい。

むろん、それを断る俺ではないのでインパクトのある顔とポーズをサービスし、宿の恩に報いるよう最大限の努力をした。

が…、

「そこまでせんでよかです」

冷たく突き放されてしまった。

何かもの悲しく、ちょっとスネ気味で宿を発ったのはいうまでもなく、その時刻は午前七時を三十分ばかり回った頃であった。

さて…。

この日の出発は実に涼しかった。

さすがに早朝の高原地ではある。

が…、すぐに暑くなる事が予想された。

体調も万全とはいえないし、この涼しいうちに距離を稼いでおかねばならない。

早足で国道57号線を突っ切り、それから県境へと向かうマニアックな舗装路を進んだ。

静かな静かな一本道で、車は一台も通らないし、人の棲む気配もない。

朝なのに暗かった。

生い茂る樹木が光を遮っており、どこかしっとりとしている。

数キロ歩くと豊後街道に合流した。

豊後街道は前の日に泣かされた滝室坂から北へ逸れている。

石畳の道でもあり、本当はそちらを歩きたかったのであるが、昨日の俺には遠回りをする元気がなかった。

もったいないとは思ったが、片道五キロを逆走するのも馬鹿らしいので脇道から合流というかたちを採らせてもらった。

緩やかな上り坂が続き、途中から獣道に入った。

市町村区分は波野村から産山村に移った。

景色はどんどん山深くなってゆく。

道幅もどんどん狭くなり、変な虫がたくさん出始めた。

(この道で合ってるのか?)

情報を得たいが、役に立つ看板はない。

その代わり、役に立たない看板は無数にあった。

「進めば○○坂、曲がれば○○谷」

地元民しか分からないマニアックな地名で書かれている看板や、

「ここは熊本県」

エリアが広過ぎる看板。

笑えはしたが役には立ちそうになかった。

暗い孤独な道で地図だけが頼りだった。

が…、その歩いている道は地図に載っておらず、辺りを見回そうにも樹木に遮られて視界が狭い。

「俺はどこを歩いてるんだ?」

当然、そんな具合になってきた。

ついには道が草の中に沈んでいった。

腰まである草を掻き分け掻き分け進んだ。

草マケしたのであろう、猛烈に痒くもなってきた。

泣きたくなった。

振り向くと後ろには道があるのに(俺が草を掻き分けたから)、先には道らしきものがなく、木と草しか見えない。

戻ろうかと思ったが、猪木の言葉を思い出して前へ進んだ。

「迷わずゆけよ、ゆけば分かるさ」

分かると思って一キロばかり前へ進んだ。

が…、結局は分からなかった。

分岐路があった。

変則の三叉路で、中央に看板があった。

矢印のかたちの腐りかけた板に「歴史の道」と書いてあった。

矢印は谷へ下ってゆく草ぼうぼうの道を指している。

とても人が歩く道とは思えなかった。

とりあえず最も歩きやすそうな道を選んだ。

次第に草は消え、足元はコンクリになった。

段違いの歩きやすさに、ついつい笑顔が洩れた。

この喜びは困難な道を歩いてきたからこそ味わえるもので、何か深いところにある人生の仕組みたいなものが感じられた。

旅というものは「いい教訓」を何気なく漠然としたかたちで与えてくれるものらしい。

その代わり、己というものを知る機会も鮮明に与えてくれるようだ。

(この道は豊後街道とは違う…)

その事に気付いた俺であったが、快適な道を離れて草の世界へ戻る気が起こらず、気付かぬフリをして前へ進んだ。

「俺って駄目な人間」

後にそう思ったが、大して反省もせず、

(そういう人間なんだ、俺は!)

押し通すところも俺。

何だか嫌な部分だけが際立って感じられるのであった。

さて…。

しばらく歩くと車二台がすれ違える広い道に出た。

看板が出ていたが相変わらず役に立たない看板で、人を探すがその気配もない。

仕方がないので山勘で左に進んだ。

一キロばかり歩いたところで第一村人を発見した。

中年の夫婦であった。

地図を見せつつ大分県の久住に抜ける道を問うた。

が…、

「分からんばい、地図を見るのも久しぶりだけんねぇ」

クルクルと地図を回し、自分のいる場所すら発見できない有様であった。

「こうなれば俺の勘を信ずるより他はない!」

俺は前へ前へと進み始めた。

どこを歩いているか分からないが、とりあえず地図を見、山の位置を確認して進んだ。

ちなみに、旧豊後街道は事前に詳細なルートを調べたのであるが、この大分と熊本の県境だけが分からなかった。

ネットにも細かい事が載っておらず、唯一図書館で借りてきた本に、

「谷を抜け、石畳を登り豊後国に入る」

そういう一文があった。

地図を見、そういったポイントを探すと一点しかなかった。

が…、そのポイント周辺に道がない。

それも一キロ以上ない。

そういう点でも山勘で進むより他はなかった。

しばらく歩くとヘアピンカーブの連なる道が現れた。

下る方向の道で、木々の間から谷が見えた。

方向は合っていたようだ。

谷へ降り、その底に流れる清冽な水の流れを古い古い橋で渡った。

鬱蒼とした山の方へ進んだ。

また、草ぼうぼうの獣道になった。

足元は大小の石が転がっている。

斜面をジグザグに登りつつ、谷から這い上がる格好で進んだ。

何が出てきてもおかしくない、暗い暗い苔むした道が続いた。

(違うような気がする…)

不安になった。

が…、すぐに、

「合ってたー!」

胸を撫で下ろす事になった。

視界の先に当時の石畳が残っていて、その先に崩れかけた石垣があったのだ。

これが旧街道でなく、何が旧街道であろう。

石垣は実に味のある佇まいをしており、急斜面にジグザグの道をつくるために組まれたもので、苔の感じが歴史の重さを丁寧に教えてくれていた。

たまらず駆け寄り、舐めるような位置で勉強させてもらった。

「ほぉー、ほぉー」

使い捨てカメラを取り出し、写真を撮った。

が…、暗すぎて、写真は黒い紙に仕上がっていた。

それほどに暗い道で、追いはぎが出そうな道でもあった。

坂を登りきると、区画整理の杭に「大分県」の字が見えた。

また、山火事防止の看板がぶら下がっていて、それにも「大分県」と書かれていた。

まぎれもなく、俺は肥後を越えて豊後に入っていた。

普通、国道や県道を通れば看板で県境を知る事ができる。

が…、獣道ではこういったかたちで地味に知るより他はなかった。

本当なら「そーれ」とか言いながら大股で県境を越えたかったが、それも叶わなかった。

地図に載ってない山道はもう少し続いた。

地図に載っていないだけあって、知らない人が通る事はほとんどないのであろう。

農作業中の人が、

「あた、どっから来ちょん?」

目をパチクリさせて話し掛けてきた。

この人と数分話した。

歩いて来たルートを説明し、久住町役場に抜ける道を聞いた。

(県境を越えたって感じやねぇ)

農家の人の言葉から、その事をひしひしと感じた。

産山村までバリバリの熊本弁だったのが、いきなり大分弁になっているのである。

産山からここまで、道こそ険しいが、距離にすれば三キロしかない。

それで喋る言葉がガラリと変わる。

この事は江戸時代の国割の名残もあろうが、一つ大きなところは、

(山や峠でなかろうか?)

そう思われる。

むろん、国の境というのは川や山が用いられているところが多いので、方言の違いも「国の違い」で片付けようと思えばそれで片付いてしまう。

が…、

「山と川では、その切れ味が違う」

俺はそれを言いたいのだ。

川では国は切れても文化は切れない。

山は文化も切り裂く鋭さがある。

いい事例に京都と大阪がある。

京都は広い盆地で、大阪からゆくには峠を越えねばならない。

これを越えると何かがガラリと変わる。

淀川を越えても変わらないものが、摂津峡を越えると変わるのだ。

また、熊本と鹿児島の境にしてもデジタル的な変化を感じるし、そこには必ず地球的突起物が存在している。

とにかく…。

山を越えてみると、「ば!」を連発する熊本圏から「ちょ!」を連発する大分圏に入っていた。

「街道をゆく」というテーマに沿っていえば、肥後から豊後に入ったという事になる。

教えてもらった通り、コンクリの道を下ってゆくと川があり、地図に載っている道に出た。

ところで、久住町というと何となくリゾート地のイメージがある。

が…、ここは久住町の端っこ、何となく宮崎県椎葉村にも似た「秘境」って感じの場所であった。

清らかな渓谷に沿って集落があり、狭い平地を見つけては畑や田んぼ、牛舎が並んでいる。

やはり、よそ者が相当に珍しいらしく、すれ違う人という人が俺を眺めていった。

とりあえず川の水を飲んで喉を潤し、それから久住町の役場を目指して歩き出した。

道はアップダウンの繰り返しで、特に景色がいいわけでもない。

つまり、単なる田舎道で、面白味にこそ欠けるが歩きやすくはあった。

久住中学の脇を抜け、十キロ弱歩くと久住町役場に到着した。

時間は正午前、かなりのハイペースであった。

このままゆけば、午後三時前には宿へ着くだろう。

背後からは規模こそ小さいが台風が迫っていた。

現在、熊本県南部の上空にあり、そろそろ冷たいものが降ってきそうな怪しい空模様になってもいた。

大して腹も減っていなかったので先を急いだ。

が…、ちょっとばかし行ったところ、その左手に酒蔵があった。

「工場見学随時受付、試飲OK」

そう書いてあり、ついつい暖簾を潜ってしまった。

ちょっと熱っぽかったので、解熱剤を試飲の酒で流し込んだ。

酒と解熱剤がよく回った。

少しの酒が俺の気分を高揚させ、解熱剤が熱っぽさを吹き飛ばした。

「おかわり!」

言ってるうちに気分が良くなり、三十分も試飲席に座り込んでしまった。

酒蔵を出る時、俺は千鳥足になっていた。

南の空は黒々としており、北の空は青々としていた。

台風に追いつかれまいと青い空へ向かって進んだ。

いい気分だったが、すぐに体が重くなった。

分かりきっていたが、アルコールは歩くのに適さないようだ。

昼飯に立ち寄った定食屋は素晴らしく美味かった。

野菜炒め定食を頼んだのであるが、

「酒飲む人?」

その事を聞かれ、大きく頷くと、酒好きが好む野菜炒めに仕上げてくれた。

店の人は言う。

「次の三つは飲食業を営む者として気にせんといかん」

一つはそれを食う人が酒飲みでないか、一つはそれを食う人が子供でないか、もう一つはそれを食う人が寝起きでないか。

レギュラーの味付けにこれだけのオプションを持たせねば飲食業というのはやってけないものだと言う。

感心した。

プロの仕事だと思った。

事実、店の人は注文が入る毎に「飲む人やね?」とか「起きたばっかりやろ?」などと客に聞き、それに合わせて調味料を工夫している。

頭の下がる仕事人ぶりであった。

心身共に満たされた俺は、それから休憩なしで目的地の直入町まで歩いた。

直入町は「日本一の炭酸泉」が呼び声の温泉街で、町に入った瞬間から温泉街の佇まいを見せ付けてくれた。

温泉宿の看板が至るところに見られ、独特の温泉臭が街全体に漂ってもいる。

日曜という事もあり、湯上りの人達とも頻繁に会った。

時刻は午後二時を三十分ばかり回っていた。

今日の宿は国民宿舎の直入荘というところで、直入と久住の境からは二キロくらいあろうか。

南から迫っている台風は、まだ日を隠すには及んでおらず、強烈な日光が直入町全体を照らしている。

「はぁ…」

滴る汗を拭い拭い、歩く速度が落ちてきた事を感じた。

台風に押されるように飛ばしてきたが、全身は筋肉痛で病後のダルさも確実に残っていた。

皮膚の色もやや黒くなっていて、ジリジリとした暑さが萎えた体にたまらなかった。

滝のように流れる汗が目にしみた。

足、股、脇も痛かった。

足元は県境の山を越えた後、靴からサンダルに替えていた。

雨が降るのに備えたかたちであったが、結局は降らず、鬼のようにマメをつくっただけであった。

皮が剥け、汁が滲み、歩く度に色々なところがしみた。

股は完全に股ズレの症状を起こしていた。

これもヒリヒリ痛かった。

脇も股ズレ同様の症状で、右側だけが真っ赤になってて、手を振る度にしみた。

(痛い…)

さすがに足股脇、トリプルで「しみる信号」が出てしまうと辛いものがあった。

宿の一キロほど手前に湧水公園があり、時間も早かった事から、そこで休憩をする事にした。

冷たい水がこんこんと湧いており、たくさんの人がそこで水を汲んでいた。

その水を足へかけ、股や脇へはタオルに染み込ませて持っていった。

気持ちが良かった。

「ふぉー」っていう、体の底から搾り出すような声が洩れた。

足を湧水に浸けたまま三十分ばかり休憩した。

たった四日しか歩いてないのに、

(満身創痍だ…)

そう思った。

足のマメや股ズレはこれから被害を増してゆく事だろう。

(どうなるのか?)

想像したが、怖くなったので止めた。

台風による黒い黒い雨雲はすぐそこまで来ていた。

午後三時に宿へ着き、その十五分後には土砂降りの雨が降り始めた。

叩きつける雨の音が古い和室によく響いた。

温泉へ入る前、記憶が鮮明なうちに地図日記を書いておこうと思った。

横になり、盆を下敷きにしてペンを執った。

こんなにゆっくり書けるシチュエーションは今までなかった。

が…、それがいいとは思わなかった。

むしろ、

(孤独だ…)

そう思った。

一泊目は友人宅へ泊まり、二泊目はライダーハウスに泊まり、三泊目は波野村のやすらぎ交流館、どれも一人の時間はなかったが、この日だけは一人の時間がたっぷりある事に気付いた。

無性に寂しくなった。

外へ飲みに出ようかとも思ったが、大雨でとても出れそうにない。

とりあえず、大浴場へ向かった。

(じっくり湯に浸かろう…)

パンパンに張った脚部をゆっくり揉み解してやろうと思った。

わりかし綺麗な脱衣所で服を脱ぎ、浴場のドアを開けた。

そして、

「うっ!」

何ともいえぬ不思議な風を受けた。

(臭い!)

思わず鼻をつまんだ。

浴槽には薄緑色の湯がたっぷり入っており、浴槽の縁には白くて硬い何ものかが付着している。

脱衣所は綺麗なくせに、浴場はお世辞にも綺麗だとはいえなかった。

何よりも湯気が猛烈に臭く、その臭さが慣れ親しんだ硫黄の臭いとぜんぜん違う。

下水のような臭いであった。

(何だこりゃ?)

人は自分の枠組みに入らない既知物と出会ってしまった場合、唖然と立ち尽くしてしまうもののようだ。

事実、俺は湯船を前に唖然と立ち尽くしてしまったし、気持ち良さそうに浸かっている兄さんには、

「よく入れますね」

その声を投げてしまったのであった。

 

 

4-2、その湯その晩

 

旅はいい。

旅は新たな発見を立て続けに与えてくれる。

そして今日、俺は未知の湯に浸かってしまった。

薄緑の色が神秘的な何かを感じさせてくれる。

ただ、それを受け入れる俺の呼吸の数は少ない。

良いとはいえぬ顔色で口のみの呼吸をし、湯気を鼻で吸わないように注意した。

臭かった。

本当に臭かった。

これならば、俺の屁の方がよほど甘い臭いに感じられるはずだった。

隣にいる兄ちゃんはこの湯の常連らしく、俺に長湯温泉の素晴らしさを丁寧に語ってくれた。

入浴効果も抜群であり、飲泉効果も抜群だという。

特に肝臓系の疾患に効くらしく、酒飲みには「救いの水」であるらしい。

隣の兄ちゃんは頻繁に湯を飲んだ。

「うまい!」

そう言っていたが、無理して飲んでいる事は明らかであった。

兄ちゃんは湯を連続的に飲まず、口に咥え、それを一気に飲み干すという方法をとっていた。

そこに無理が見えた。

美味いはずがないのだ。

ドブの臭いがする温泉である。

「おたくもどうぞ」

兄ちゃんは俺に湯を勧めてきた。

「じゃ…、ちょっとだけ…」

好奇心は旺盛な方なので、ちょっとだけ口に咥えてみる事にした。

咥えた。

そして、強烈な吐き気に襲われた。

飲むなんて大それた事ができるはずがなかった。

思いっきり吐き出し、口内を丁寧に洗浄した。

「ちょっとクセはありますけどね、まぁ、すぐに慣れますよ」

兄ちゃんは笑いながらそう言い、持ってきていたペットボトルに湯を詰め始めた。

確かに芋焼酎と同じで慣れれば好きになるのかもしれないが、今の俺にはドブ水以外の何ものにも思えなかった。

兄ちゃんは麦焼酎をこの湯で割って飲んでいるらしい。

「飲みすぎても、この湯が中和してくれるから安心」

そう言っていたが、

(それは違うだろ)

と、思った。

が…、否定はしなかった。

飲兵衛というのは得てしてそういう考えをしがちだからである。

飲みすぎると健康に悪いのは分かっている、分かっているが、できるだけ大量に飲みたい、そして長生きもしたい。

飲兵衛という種は「現世が楽しい」という事をどっぷり知っている者が多い。

ゆえ、生に対する執着が他種よりも強いように思われる。

その結果、飲む事に「安心」を求めたがる傾向がある。

ウコンを消費している者の大半は飲兵衛であるし、黒酢やアミノ酸を愛用している飲兵衛も実に多い。(俺の周囲より)

特に「肝臓にいい」という言葉には敏感で、情報番組でそういった類のものがあれば、必ず買いにゆく。

彼らに酒の量を減らすという選択肢はない。

ここで湯を汲んでいる人を見てると、ほぼ全員が喉から胸にかけて焼酎焼けをしている人で、まさにその種であった。

確かに彼らの「すがるもの」として、これほど効きそうなものはあるまい。

不味ければ不味いほど効くような気がするし、無理して飲めば飲むほど、

「よし、今日は湯を飲んだけん、たっぷり酒が飲めそうだ」

そういう風に勘違いをしやすい。

現に、隣の兄ちゃんが、

「今日は新鮮なのをたっぷり飲んだから晩酌は一升飲んでもいい」

そう言っていたのを聞いて、

(この湯は健康にいいどころか人の寿命を縮めているのではないか?)

声には出さぬがそう思った。

さて…、その湯であるが…。

十分ほど浸かると体がピリピリと痛くなり始めた。

これは数年前、草津温泉で酸性泉に浸かった時の症状に似ている。

直入の温泉(長湯温泉というらしい)は日本一の炭酸泉なので、たぶん酸性なのであろう。

ま、それはいい。

それはいいが、その後がまずかった。

変なブツブツが大量に出始め、それから猛烈に痒くなった。

(これはいかん!)

そう思って湯船を上がり、すぐさまシャワーで湯を流した。

そもそも俺は肌が強い方でない。

少年時は汗疹に悩まされ、いつも俺だけがドクダミ風呂に入れさせられた。

ゆえ、こういった肌に関するアクシデントは非常に多い。

多いという事は慣れているぶん事後対応が迅速であるという事でもある。

手早く脱衣所に出、すぐさま服を着て外へ出た。

下水臭の届くエリアから、まずは回避したのである。

思えば風呂の中で鼻呼吸をしたのはたった二回。

一回目は風呂に入ってすぐ、もう一回は湯船に浸かって深呼吸、卒倒しそうになったその瞬間のみであった。

とにかく部屋へ戻り、スッポンポンになって体を冷やした。

熱があると痒くなる事を俺は過去の事例から知り過ぎるほどに知っていたのだ。

しばらく横になった。

雨の降り続ける白い空をぼんやりと眺め、

(強烈な湯があるもんだ…)

しみじみそう思った。

酸性泉、鉄泉、硫黄泉、単純泉…。

温泉なんて、たかがそんなもんで、大きな違いはないと思っていた。

が…、この日を境に温泉に対する考えが変わったような気がする。

(日本には変な湯がゴロゴロと転がっているのかも…)

いい勉強になったし、

(直入町よ、ありがとう)

そうも思えた。

ちなみに…。

この温泉街の湯は川に垂れ流しにされているのであるが、その湯の流れた跡が凄まじい。

湯の「ただならぬ力」を感じずにはいられない。

わざわざ川に降り、間近でその写真を撮ってきたので下に載せる。

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(川に垂れ流して魚は大丈夫なのか?)

そう思うが、まぁ、人の体にいいのだから問題ないのであろう。

さて…。

スッポンポンで横になった俺はそのまま眠ってしまった。

起きたのは午後十時で、約五時間も眠ってしまった事になる。

(旅の途中にこう無用心じゃいかんよぉー)

病後であったし、風邪をひいては困ると自分を戒めたものであったが、何よりも、

(これから眠れるのか?)

その事が心配に思われ、眠れなかった場合、翌日の歩きに支障をきたす。

とりあえず飯を食ってなかったので外に出ようと思い、玄関へ向かったのであるが、真っ暗な上に鍵がかかっていた。

たまたま宿の人に会った。

飯を食いたい旨を伝えると、台風だし日曜だし、直入の飲食店は全て閉まっているだろうという事であった。

コンビニも近くにないらしい。

仕方がないので前の日に買っていた「歌舞伎揚げ」という煎餅を肴にビールを飲んだ。

到着時、風呂上り、夕食、三度に分けてビールを飲んだので計三リットルを飲み干した事になる。

以後、東京に着くまでビールがガソリンのようになってしまうが、その始まりがこの日だったように思う。

風が強く吹いており、ヒューヒューという乾いた音が静かな部屋に木霊した。

台風にしてはパンチ力がないように思われた。

それから…。

テレビを見ながら酒を飲むという何の抑揚もない時間を過ごした。

(たぶん寝れない)

そう思っていたが、いつの間にか眠ってしまい、目覚めると午前六時であった。

午前七時から朝食で、出発まで一時間あった。

ニュースなどを見ながら荷物をまとめ、朝風呂に入るか入らないか迷っていたら出発の時刻となった。

何の味もなく、すんなり時間が過ぎ去っていった。

ふと、大津という神奈川に住む友人の事を思い出した。

彼は平日にバラエティ番組のビデオを撮り溜め、その溜まったぶんを週末に消化するのが、

「何よりの楽しみ」

だという変わった人物である。

たぶん、今回の俺みたいにビール片手にマッタリとテレビを見ているのであろうが、

(時間をドブに捨てているようなものだ)

俺にはそう思われ、非常に無為な時間に思われた。

このあたり価値観の違いで有為と無為は紙一重なのかもしれず、「個人の勝手」と判断した方が良いのかもしれない。

大津からすれば、

「あくせくするな福山、テレビでも見てゆるりとしろ、忙しいという字は心がそこに亡いと書く」

そうなるのであろうから…。

さて…。

夜にろくなものを食べてないぶん、朝飯はたっぷり摂った。

大盛の飯を頬張りながら、こんな事を思った。

(宿の掃除の人は俺の部屋をどのように思うだろうか…?)

昨日は午後三時過ぎから翌日午前七時過ぎまで部屋にいて、一度も布団を敷かなかった。

畳の上で一晩を過ごし、枕も用いなかった。

用意されていた茶にも手を付けていない。

つまり、部屋の中で触られた形跡があるのは窓際のテーブルだけで、そこにビール缶とスナック菓子の袋が転がっているという事になる。

掃除のおばちゃんはそこに誰かが泊まったとは思わず、何者かが忍び込んだと思うであろうか、もしくはゴミを投げ入れられたと思うであろうか、妖怪の仕業だと思うであろうか。

「この部屋、どういう事だと思う?」

「不思議よねぇ」

「不思議過ぎるわよぉ」

「座敷わらしの仕業かしら?」

ビールを三リットルも飲む座敷わらしがいるならば是非会ってみたい。

とにかく…。

旅の途上には、くだらない事をたくさん考えてしまう傾向があるようだ。

五日目の地図日記に、

「ビールを飲む座敷わらし」

そう書いてあった事がそれを裏付けているのであった。

 

 

5-1、歌の道

 

既に気付いておられる方もいようが、小見出しの頭に付いている数字は歩き出してからの日数である。

今日で五日目を迎え、日は七月五日となる。

この五日間を振り返り、「辛かった日」といえば三十九度の熱で歩いた三日目がそれにあたり、それ以上のものは後にも先にもないのであるが、「設定がハードな日」となると五日目がそれにあたるだろう。

今日、五日目の設定距離は四十キロを超えている。

三日目と比べるなら十五キロも多い。

更に、この日は真夏日という事で、大分市に至っては三十六度を記録している。

幸い出発地点の直入町は高原地帯にあるため、まぁ涼しい方ではあったが、大分市に近付くにつれて高度は下がってゆく。

歩けば歩くほどに暑くなっていった。

午前八時に直入町の宿を発った俺は、温泉街をぶらりと一周し、それから神社で旅の安全を祈った後、湧水地の続く峠道に向かった。

道は広いアスファルトである。

ただ、歩道はない。

昨日の台風の影響で葉っぱやら枝やらゴミやらが道に散らばってはいたが、そのぶん空気は澄み渡っており、遠くの山々がキラキラと輝いて見えた。

順調な滑り出しであった。

心配された股ズレや脇ズレも大して痛くなかったし、筋肉痛に至っては完全に影をひそめている格好であった。

ただ、変化のない山道ゆえに何か物悲しく、そして暇であった。

山道というと昨日の県境の道が深さも傾斜も数段上で、上であるがゆえにハラハラドキドキしており、思考に暇というものがなかったわけだが、今回のそれは地図に載っている安全な道である。

ハラハラドキドキするわけもなく、余裕があった。

当然のように知ってる曲を片っ端から歌い始めた。

場所が大分という事もあり、かぐや姫を中心に攻めた。

神田川を歌い、赤ちょうちんを歌い、他にも色々と歌い、ついに名曲「妹」に達した。

前段の歌で既に気持ちは昂ぶっている。

更に、前にも書いたように旅の途上というものは感傷的になりがちである。

「妹」を歌う前、なぜか俺は泣いていた。

なぜ泣いていたのかは忘れたが、たぶん前段の曲と何かの絵(思い出)が重なったのではないかと思われる。

「曲に絵が重なる」

読者におかれては、その意味を掴み辛いはずだ。

これは「感傷的」「思考が暇」「風光明媚」これらの要素が揃った時だけに現れる極めて鮮明度の高い妄想であるが、旅日記を見ていると十六回もそれが現れている。

以下、その詳細を「妹」という事例を用いて書き進めてゆく。

ひんひん泣いている俺は、

「いもぉーとよー♪」

聞き慣れたそのフレーズで歌い始めるはずであったが、なぜか、

「はーるよー♪」

長女の名前で歌い始めた。

設定は前の曲からの流れか即興で考えたのか分からないが、歌う前から仕上がっていたようだ。

本来なら兄と妹のはずが、父と娘という設定になっており、更に母親である道子は既に他界しているという残念な設定にもなっている。

母親が他界してから十年間、父と子は二人暮しを続け、台所は娘の春が一手に受け持っている。

その春が明日には家を出て行こうとしている、こういう設定であった。

「春よーふすま一枚ーへだててー今ー小さなー寝息をーたててるー春よー♪」

二十五歳になった春の絵が鮮明に浮かんだ。

ちょっと篠原ともえに似ていた。

「お前は、夜が、夜が明けるとー雪のーようなー花嫁衣裳をー着るのかー♪」

父親の俺は枕をびっしょりと濡らしながら襖を見つめ、雪のような花嫁衣装を着た春を想像している。

そんな俺を想像した「歩いている俺」の顔もビショビショに濡れ尽くしている。

「歩いている俺」は幸い滝のような汗を流しており、それが涙なのか汗なのか傍目にはよく分からないだろう。

本気で泣きながら車の少ない県道を大股で歩いた。

「春よーお前はー器量が悪いのだからー俺はーずいぶんー心配していたんだー♪」

年頃の春が火を止めるのを忘れ、

「しっかりせぇよ、道子(母親)はもっと上手だったぞ」

「ごめん、おっとー」

「そんな絵を思い浮かべている俺」を思い浮かべた。

「あいつは、俺の、友達だから、たまにはー三人でー酒でもー飲もうやー♪」

「友達」という言葉に引っかかり、俺の友人関係から春の相手に相応しそうな奴を探してみた。

(いない…)

全くいなかったし、想像もつかなかった。

そこだけ空白で歌を進めた。

「妹よージジ(原曲は父)が死にー母が死にお前ひとりーお前ーひとりーだけがー心の気がかりー♪」

春が二十五になった時の俺の年齢を考えてみた。

ちょうど五十であった。

五十の俺は無職で(二月前にリストラされて求職中)ひどく落ちぶれてはいたが、慈愛に満ち溢れた男に見えた。

家の中は薄汚れていたがキチンと掃除されていて、

(明日…、春が出ていく…)

その事を五十の俺に実感させていた。

春との思い出が何度も何度も頭の中を駆け巡り、職があり妻がいて春がいた、その頃が昨日の事のようにはっきりと浮かんでいる。

五十の俺は薄い薄い襖を開けて春を抱き締めたかったに違いない。

抱き締めて、

「ありがとう」

娘にその一言を言いたかったに違いない。

五十の俺、いや、その男は布団を出、姿勢を正し、襖に向かって手を合わせた。

何度も何度も胸の中で、

(ありがとう)

それを繰り返し、自分のつまらない人生が妻や春のおかげでどれだけ素晴らしいものになったか、その事を涙の数だけ確かめた。

「あした、お前が出ていく前に、あのー味噌汁のー作り方をー書いてゆけー♪」

涙が止まらない。

その男も、そして歩いている俺も。

泣いている事はバレないはずであったが、肩まで揺らしてしまってはどうしようもない。

(変な奴…?)

道ゆく車にそう思われたはずだ。

が…、この名曲を歌ってしまってはどうしようもなかった。

イメージが鮮明で、そして切実過ぎるのだ。

歌は最後の山場へと移行する。

「妹よーあいつはーとってもいい奴だからーどんなーことがーあっても我慢しなさいー♪」

「いい奴」というキーワードに幾つかの友人がちらついたが、やはり娘の相手には嫌なので打ち消した。

場面は結婚式当日、その朝に移る。

春がつくった朝食をいつもと同じように頬張りながら、

「どんな事があっても我慢せぇよ」

顔色も変えずに言う俺は昨晩の泣き虫な俺ではなかった。

気丈な俺であった。

そう…、俺は娘から見て気丈な父親でありたかったし、それを演じてきたつもりだった。

娘の顔を見ないようにしながら黙々といつもの朝食を食った。

味なんて分からなかった。

色々なものを堪えるのに手一杯で、飯を食うどころの話ではなかった。

必死に平静を装った。

娘はピクリともせず俺の顔を見つめている。

「おっとー」

突然、娘が声を発した。

その声はあまりにも優しかった。

娘の声とは思えなかった。

妻の声だと思った。

思わず顔を上げてしまった。

涙に濡れた娘の顔がそこにあった。

娘をこんなに間近に見たのは何年ぶりであろうか…。

(そっくりだ…)

母親に似ていると思った。

娘は小さく一つ頷くと、手に持っていた箸を置いた。

粘性のある時間が二人を包み込んだ。

娘は深々と頭を下げ、こう言った。

「ありがとうございました」

我慢している事がこんなにも辛い事だとは思わなかった。

毛穴から口元から耳の穴から、穴という穴から熱く激した何ものかが出たがっているのが分かった。

(駄目だ!)

堪えていたものが一気に噴出すキッカケを娘は与えてしまった。

男は妻が亡くなった時にも涙は見せなかった。

(これからは俺がしっかりせんといかん!)

その時、男は絶対に娘の前では泣くまいと誓った。

(が、駄目だ!)

男は下を向くと、肩を揺らし、苦しそうな嗚咽を発した。

娘、春は涙を隠そうともせず、おいおい泣いた。

(泣いちゃいかん!)

そう思った。

だが、この時のために涙を禁じてきたようにも思えた。

(ありがと、ありがと…)

声にならないその一言を何度も何度も繰り返した。

最後のフレーズが歩いている俺の中に響いてきた。

「そして、どうしても、どうしても、どうしてもーだめだったらー帰っておいでー春よー♪」

この日…。

俺は歩きながらどれだけ泣いたであろうか。

地図日記には「歌を歌い、泣きながら歩く」そう書いてある。

他にも書く事はあったろうにそれだけしか書いてないのを見ると、余程その妄想に心が捕らわれていたのであろう。

「曲に絵が重なる」とはこういう事なのだ。

ちなみに…。

この地図日記の「泣きながら歩く」の先に「アマガエルを飼う」と書いてある。

これを見た時、

(何だこりゃ?)

俺が書いたのに意味が分からず、しばし悩んでしまったものだが、これを書きながら「そうだ!」と思い出した。

名曲・妹を噛み締めるように歌い終えた俺は、

(顔ば洗わんといかん…)

あまりにも号泣してしまったので、それを洗うべく湧水地に立ち寄った。

そして顔を洗い、水を飲んでいると一匹のアマガエルを発見した。

何度も書いたように気分は感傷的になっている。

ましてや前述の歌を歌い終えたばかりである。

「お前を春と名付けよう…」

小さな小さな赤ちゃんアマガエルに「春」という名を付け、水筒に入れたのだった。

こやつの行末は水筒に入れたという時点で想像がつくかと思われるが、数キロ歩き、すっかり忘れた頃に水を飲んでから気付いた。

最近の水筒はコップで飲むタイプでなく、直に口を付けて飲むのが主流で、俺の水筒も直飲みタイプであった。

ゴクゴク飲み、飲み終わった後で補充のポカリスエットを入れようと蓋を開けた時点で、

「あ!」

その事を思い出した。

カエルは生きてはいたがグッタリしていた。

「ごめん、ごめん」

謝りつつ草むらに放してやった後でカエル入りの水を飲み干してしまった事に気付いた。

旅の途上というものは普段より二割ほどは豪快になっているもので、大して気にもかけなかったが、今思えば気持ちが悪い思い出であった。

ところで…。

これを書いている日というのは、歩いた日から二ヶ月以上が経過している。

さっさと書けば良かったのであるが、色々なアクシデントやイベントが続き、書き始めるのがダラダラと延びてしまった。

この「アクシデントやイベント」というのは、この書き物の最終章あたりで明らかになるかと思うし、この書き物の盛り上がりどころでもあるので触れない。

とにかく、だいぶ時間が経っているものだから地図日記に書いてあっても「アマガエル」のように思い出せない事が実に多い。

阿蘇の峠越えのところで「エンガチョの夏」と書いてあるが意味不明だし、阿蘇ライダーハウスのところでも「夢で会えたら」と書いてあるがサッパリ意味が分からない。

さて…。

下り坂は永延と続いている。

緩やかに緩やかに下っていき、今市という集落に辿り着いた。

ここは豊後街道の宿場町であるが、石畳が実によく整備されていた。

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入口には趣のある神社があり、集落を見渡せないようにするためのクランクもある。

見所満載であったが、写真を見て分かるように全く人がいなかった。

これは豊後街道全体を通していえる事であるが、史跡に人の気配がない。

後に歩く東海道とは雲泥の差である。

豊後街道にしても豊前街道にしても田舎なぶん東海道より趣があると思うので、歩けとはいわないが史跡にくらい立ち寄って欲しいと思うのだが…。

ちなみに言っておくが、俺は街道保存会(仮名)とか何とかいう胡散臭い団体の回し者ではない。

俺はああいった税金を捨てている団体が何よりも嫌いで、お役所もできるなら近寄りたくないと思っている種なのだ。

豊前街道を調べていた時、そういった街道調査団体と触れる機会があったのだが、彼らは芯からやる気がなかった。

色々とやる気のない人たちを見てきたが、彼らほどにインパクトのある怠け者はいなかったであろう。

豊前街道の詳細を聞く俺に、彼らは、

「うん、知ってる。知ってるけど口じゃいえない。資料を渡したいけど資料もない。資料は三年以内には作る予定」

恥ずかしがる様子もなく、そう言い切ったのだ。

「俺なら一ヶ月で作りますよ」

そう言ってやったが、無気力な笑いで返されてしまった。

無駄、無駄、無駄。

やはり人間は競争する相手がいないと生きながらにして死んでしまうもののようだ。

さて…。

石畳が続く今市を越えると、また山道であった。

ちょっと登っちゃ下り、ちょっと登っちゃ下り、徐々に高度を下げていった。

景色はいいが信号のない直線道路で歩道がない。

交通量も徐々に徐々に増えていく。

かなり危険であった。

気温も電光掲示板に三十三度と示されていて、かなり暑くなってきている。

歌う歌もカロリーを使う感動系から軽く歌えるものに変わってきた。

熱中症の余波はまだ残っており、四時間に一回は解熱剤を飲んだ。

が…、何が辛いって股ズレが何よりも辛かった。

午前中には鳴りをひそめていた股ズレであったが、太陽が高くなるにつれ段々と威力を増してき、この辺りからジンジンと痛み始めた。

(そういえば、昨日も痛み始めたのは昼頃だった…)

そう思って、人気のないところで患部を見てみると真っ赤になっており、その周りに白い粉が付いていた。

舐めてみると塩っ辛い。

間違いなく塩であった。

(なるほど…)

股ズレの仕組が分かってきた。

汗をかく、その汗が渇いて塩になる、塩が摩擦部に入り込んで塩揉みの状態になる。

つまり、塩をふり、それを手で何度も何度も擦り込むような状態が股や脇で起こっているのだ。

痛いはずだ。

水筒の水でタオルを湿らせ患部を拭いた。

脂汗が出るほどしみたが大して効果はなかった。

危険な下り坂は次第にヘアピンカーブを伴う坂となり、それを下り切ると国道にぶつかった。

市町村区分でゆくと野津原町に入った。

昼はとっくに過ぎており、すぐにでも飯を食いたかったが食うところがなかった。

小さな集落を幾つか越え、役場の近くに鶏肉専門店の定食屋があったので、そこで親子丼を食った。

椅子に座っていると足がガクガク震えた。

下り坂を歩き過ぎ、筋肉が痙攣しているのだろう。

定食屋のおばちゃんは俺があまりにも茶を飲むものだからビックリしたようで、

「どっから歩いてきたの?」

問うてくれ、それに答えると、

「凄いわねぇ、これはサービス」

と、ノンアルコールビールをくれた。

なぜノンアルコールなのかよく分からないが、もしかしたら学生と思われたのかもしれない。

とりあえず、体が無限に水を欲していたので数秒でそれを飲み干した。

美味くはなかったが、おばちゃんの優しさを感じた。

さて…。

これにて山道は終了した。

ここまでに約五時間を要している。

地図日記には、この食堂の後に「やはり食べねば力がでない、その事を実感」と書いてある。

よほど疲れていた事がこの一文からも覗える。

が…、これから先は大した登りもなければ下りもない。

ただ、後半は都会の道であった。

「暑さとの勝負だ!」

勝負の相手を暑さへ置き、足を前へ出した。

国道を真っ直ぐ歩き、七瀬川沿いを歩いた。

気温は三十五度を超えている。

「ぎゃん暑か日はなかろぉ…」

滝のように出る汗を拭いつつ嘆いたものであるが、今年の夏は異常気象、後に四十度を越える事になろうとはその時の俺は知る由もない。

「今が正念場、今が正念場…」

言い聞かせつつ前へ進んだ。

汗がたっぷり出るという事は股ズレの状態も悪化の一途という事でヒリヒリがジンジン、ジンジンがキィンキィン、だんだんと高いところへ痛みが響いてきた。

この対策として片方の腿にタオルを巻いたが大した効果はなく、ただ歩き辛いだけであった。

熱中症の一件があったので、スポーツドリンクは大量に飲んだ。

休憩回数は「二時間に一回以内」と決めていたが、こう暑くてはやってられず、多き時には一時間に二回もとった。

だんだん都会になってきた。

大分市に入ると交通量もグンと増え、歩道に人や自転車が溢れ始めた。

こういった雑多な状態は熊本市を出てから味わった事がなく、邪魔で邪魔でしょうがなかったが、こればかりはしょうがない。

掻き分け掻き分け進んだ。

道は国道だが狭く、街並は古い。

左に二キロばかり逸れると豊後国分寺跡があるのだが、フェリーの時間が迫っているので先を急いだ。

大分川を越えると国道から左に逸れて市道に入った。

道がグンと狭くなり、人と車の隙間がなくなった。

南大分駅の脇を抜け、四キロばかり歩くと大分の中心地へ着くはずだ。

たった四キロ。

だが、この四キロが遠かった。

学生が多いし、車も多いし、道は狭い。

排気ガスをたっぷり吸いながら、ゆっくりゆっくり進んだ。

大分駅に着いたのは午後五時半であった。

その後の予定では豊後府内城に立ち寄ってゆくつもりであったが、フェリーの時刻が午後六時五十分だったため先を急いだ。

竹中半兵衛の子が建てた城を見ておきたかったが「いずれ見る機会がある」という判断で切り捨てた。

フェリー乗り場には午後六時ちょい過ぎに着いた。

極めて汗臭い状態で船に乗るのは嫌だったので、受付の際、近くに銭湯がないか聞くと、フェリーに大浴場が付いているという。

フェリーというものの身近なイメージは有明フェリーで、便所が汚く、カモメの糞だらけという印象が強いため、一年寝かせた夏前のプールを想像してしまったが興味はあった。

銭湯は取り止め、フェリーの風呂に入る事にした。

時間が三十分ほどあったのでレストランに入ってビールを飲んだ。

美味かった。

五臓六腑にジーンと染み渡る美味さで、一杯だけのつもりが三杯も飲んでしまった。

「そういえば…」

この旅行に出る前、予算というものを組み、道子に申請をしている。

三杯目のビールを飲みながらその事に気付いた。

この五日間、何も考えずに金を使っており、たまには計算をする必要があろう。

計算してみた。

そして、計画表を見てみた。

この時点で三万三千円を使って良い事になっている。

むろん、それはオーバーしていた。

(熱中症の臨時出費があったけんしょうがない…)

そう思ったが、それでは道子が納得しない事も分かっている。

(節約せねば…)

反省はするが、手元のビールは飲んでしまったので返しようがない。

と、その時、電話がなった。

なんと道子からで、

(こやつはエスパーか?)

と、思った。

電話の内容は何でもないものだったのだが、つい、うろたえてしまい、

「金は順調に使いよるけん」

言わんでもいい事を言ってしまった。

女の勘というものは鋭い。

「オーバーしてるんでしょ!」

突っ込まれたため、思わず電話を切ってしまった。

船は定刻に大分港を出発した。

誰もデッキに出ていなかったが、俺は大分市が見えなくなるまで外におり、エンドレスで加山雄三の「うーみよー、俺のうーみよー♪」(題名を知らない)を歌い続けた。

歌いながら携帯電話のメールを見た。

「フェリーにお風呂は付いてるの? ちゃんと風呂に入らないと風邪をひくよ」

道子から優しいメールが入っていた。

が…、この時の俺は常の俺でなく、物事を斜めから見ていたようだ。

地図日記にこう書いてある。

「道子からメールが届いた。風邪をひくなと言うが、道子のせいで風邪をひいてしまいそう」

何の事かと思ったが、これを書きながら意味が分かった。

「懐が風邪をひいてしまいそう」

そう言っているのだ。

あの時の俺、なかなか上手い事を書いている。

ちなみに携帯メールはこの旅行のために契約したのであるが、ぜんぜん上達していない。

小さい「あいうえお」の打ち方が分からず、この船の中で若い女性に教えてもらっている。

まさか「あいうえお」の後に「ぁぃぅぇぉ」があるとは思わなかった。

パソコン同様「X」や「L」の代わりになる何かしらがあると思っていた。

こういう状態ゆえ、何人かの友人からメールが届いたのであるが、

「うんこ」

とか、

「アブラボーン」

極めて短い誤魔化し言葉で返している。

生温い海風が気持ち悪かった。

ふと、空を見上げた。

落ちてきそうな星がすぐそこにあった。

フェリーは愛媛の松山に寄り、それから目的地の神戸にゆく。

闇に沈んだ瀬戸内海を、フェリーは東へ向かって突き進んでゆく事だろう。

加藤清正も俺と同じ大分港から船に乗っている。

(どんな船だったのか?)

よく分からぬが、こんなに速くもなく、油臭くもなかったに違いない。

九州が視界からゆっくりと消えていった。

 

 

5-2、船上にて

 

学生達が夏休みに入っていないオフシーズンという事で、乗船料は二割引きであった。

大分港から神戸まで二等でゆくと定価で七千四百円。

二等寝台にすると九千九百円、二割引を適応すると七千九百円、ほぼ二等の定価と同じになる。

定価で乗った気になって二等寝台に乗ってみた。

むろん、人生初の贅沢である。

部屋へゆくと、そこは二段ベットが四つ用意されている八人部屋であった。

部屋にいるのは五人で、誰もがカーテンを閉めきっている。

「こんばんわー」

挨拶をしたが、どのカーテンからも声は返ってこなかった。

とりあえずリュックを下ろし、靴をスリッパに履き替えた。

と…。

若いカップルが現れた。

ただいま到着という風で荷物を持っていたのであるが、部屋に入るや出て行った。

出て行くや、

「この部屋、なんか臭うよー」

「確かに」

その声がドア越しに聞こえた。

明らかに俺の臭いだと思った。

風呂へ入る必要性を強く感じ、チャチャッと荷物を整理し、「大浴場」と書かれたそこへダッシュした。

風呂は予想以上に大きく、そして綺麗で近代的だった。

下手な銭湯より設備が充実していてシャワーも五箇所にあった。

「こりゃ凄い!」

その快適さに驚き、幸せな気分で湯に浸かっているとトラック乗りの一行が現れた。

「神戸に着いたらダッシュせないかんのぉ」

「アクセルベタ踏みちゃ」

耳慣れた北九州近辺の言葉であった。

そうかと思えば大阪弁の一行も来たし、東北弁の一行も来た。

方言はバラバラであったが、誰もがトラック乗りであるようだった。

隣にいた気の良さそうなオッサンに聞いてみた。

「なんで、トラック乗りばっかりなんですか?」

「知らんちゃ」

会話終了であった。

とりあえず体を念入りに洗い、臭いなんて言わせない状態で部屋に帰った。

先ほど部屋を飛び出したカップルはいなかった。

石鹸の臭いを嗅いで欲しかったがいないものはしょうがないので、地図日記でも書く事にした。

書いているとカップルが帰ってきた。

今度は部屋に入ってきてくれたが、ヒソヒソ声で、

「何の臭いだろ?」

「男の臭いって感じだな」

そんな話をしていた。

俺じゃないとは思ったが、念のため色々なところを嗅いでみた。

すると…。

「うっ!」

リュックが悪魔的な臭いを放っていた。

俺は絶えずリュックを身近に置いているため気付かなかったが、よく嗅げば凄まじい臭いを放っている。

見た目にも俺の塩(汗が乾いたもの)がこべり付いており、何ともいえぬ迫力があった。

(これかー!)

そう思ったが、リュックを外へ置くわけにはいかない。

布団でグルグル巻きにし、極力外の空気と触れさせないようにする事で許してもらう事にした。

さて…。

それから飯を食いに行った。

地図日記には「カレーだけを食うつもりがビールも飲む」と書いてある。

前に並んでいた人が生ビールを買っているのを見、我慢できなくなったのだ。

(缶なら我慢できたのに、生の馬鹿やろー!)

そう思った。

俺が悪いのではなく、生が悪いのだ。

ビールといえば、この後に缶ビールも数本飲んだ。

俺はビール好きな方ではなかったが、やはり喉の渇きは焼酎では癒えない。

かといって、茶を飲む気にもならない。

やはり喉越し好調なビールがいい。

飯を食い終わったのが午後九時過ぎで、それからビール片手にデッキへ出た。

相変わらず海風が生温くて気持ち悪かったが、「海を前に飲む」という行為が何となく気持ちよかった。

遠くに、小さな灯りがチラホラ見えた。

四国のどこかの町であろうと思われたが、どこかはサッパリ分からなかった。

孤独だった。

カモメでも飛んできてくれればいいのであるが、夜ゆえに飛んでくるはずもない。

その代わり、女子大生の集団がデッキに現れてくれた。

むろん、寂しさゆえに食いついた。

「へいへい、スルメでも食わんね?」

声を掛けるのにスルメはないと思うが、旅の途上なので許して欲しい。

女子大生の集団は五人で、その過半数はビールを持っていた。

それが良かった。

これがファンタであったなら、そっぽを向かれていただろう。

「いただきます」

スルメに食い付いてくれた。

三十分ばかり話をした。

大阪の学生だという。

前章で書いた携帯電話の小さい「あいうえお」の打ち方はこの時に聞いた。

「この人、めっちゃ面白いー!」

女子大生にそう言われ、ちょっと調子にのってしまった俺は、小粋なダジャレを会話に挟んだ。

が…、それはお気に召してもらえなかったようで、

「あかんで、それは!」

厳しく突っ込まれた。

大阪の女子大生はダジャレを嫌う傾向があるようだ。

恋の相談らしきものも受けた。

「この人、めっちゃ迷ってんねん」

と、俺の前に押された女はちょっと暗い見た目だった。

が…、友人が言うに「ちびまる子ちゃんに出てくる野口さんみたいなタイプ」らしく、絶妙な間を持っているらしい。

その野口さん、俺の前で何も喋らなかった。

だが、その周りの友人達が今に至るまでの過程を余すところなく語ってくれ、

「どう思います?」

問うてきた。

その過程をここに書く必要はない。

よくある流れで、つまりは脈がなさそうだがありそう、どうしたらいいか、というものであった。

俺は一言で締めた。

「迷わずゆけよ、ゆけば分かるさ」

この言葉は県境の山道で用い、懲りに懲りた言葉であるが、またも引用してしまった。

(俺は余程この言葉が好きなのだろう…)

変化のなさに呆れる思いであったが、女子大生は大いにウケてくれた。

「最高ー!」を連発してくれた。

野口さんという人もノリに弱いタイプらしく、

「ありがとございますぅ、何だか行けそうな気がしますぅ」

皆に背中を押される格好でやる気になっていた。

女子大生と飲むだけでも気分がいいのに、持ち上げてもくれるものだから気分は更に良くなる。

追加でビールをもう一本買ってき、場にも何本か提供した。

野口さんは暗めではあるがお調子者なのだろう。

「フェリーが大阪に着いたら家に帰らんと告白する!」

友達にそう宣言していた。

俺の引用が野口さんを奮い立たせた事は正直に嬉しい。

「ゆけば分かるさ」

確かにその言葉は当たっているし、若いエネルギッシュな恋には我武者羅なものが必要であろう。

また、周りのノリという要素も重要で、それが熱と透明感を与えてくれるに違いない。

その点、野口さんは恵まれた環境にある。

が…、我武者羅に突撃した場合、かなり高い確率で失敗するという人生の仕組を野口さんは若過ぎて知らない。

ましてや野口さんは俺がいうのも何だが成功しそうなタイプではない。

たぶん、俺の学生時代と同じように失敗し、皆の笑い話になるだろう。

(が、負けるな野口さん! 若い時の失敗は人生の肥やしになる!)

そう言ってやりたいが、言うと失礼にあたるので、

「大丈夫、大丈夫、君の未来は明るい。ま、このスルメでもお食べ」

最後のスルメを「餞別」として与えたのであった。

さて…。

十一時前にベットに戻った俺はグッスリ。

起きたら朝の六時になっていた。

さすがにベットはよく眠れる。

隣のオッサンの鼾がうるさかったが、寝てしまえば気にもならず、たっぷり七時間も寝てしまった。

顔を洗い、デッキに出ると目線の先に大都会が見えた。

神戸の街であった。

フェリーはそのだいぶ手前、六甲アイランドに着く。

陸地から瀬戸内海に向かってニョキッと伸びた人工島がそれであった。

徐々に徐々にそれに近付き、午前七時には港に着いた。

実に快適な船旅であった。

ヘタな宿に泊まるより、数倍も良かったに違いない。

「よーし! 行くぞー!」

慌しい着岸の瞬間にあって、俺は一人で燃えていた。

ラジオ体操をし、柔軟運動をし、うさぎ跳びをした。

やる気満々であった。

加藤清正は船を姫路につけたり大阪(堺)につけたりしたらしい。

俺は神戸。

ちょうど、その中間に下り立った事になる。

地図日記にはこう書いてある。

「やる気満々、だが空回り」

六甲アイランドで、俺はすぐに迷うのであった。

 

 

6-1、都会の道

 

(あれ…、迷ったかな…?)

そう思ったのは歩き出して二十分という時間が経過してからである。

無料バスが最寄の駅まで出ているという事は聞いたが、それに乗ってしまっては徒歩旅行の名を汚す事になる。

下船客の中で俺一人が工業地帯へ向かって歩き、すぐ道に迷ってしまった。

ちょうど出勤の時間帯で人通りは多い。

「すんません、六甲アイランドを出たいのですが…」

何人かに道を尋ねたが急いでいるらしく、

「ここダーッと行ったら着くで」

皆、えらく適当であった。

その代わり「定年を迎えました」と言わんばかりにウォーキングをされているオッサンは素晴らしく親切で、本土へ渡る橋まで一緒に歩いてくれた。

「すいませんねぇ」

「気を付けて行きぃ」

目の前の橋は本土へ向かって一直線に伸びており、その橋に三本の道が通っていた。

車道、線路、歩道の三本で、高速道だけがこの橋から外れた場所を通っている。

(さすがオシャレの街・神戸!)

その洒落た具合に驚き、それから歩道へ続く道を探した。

橋の根元をグルグルと回り、かなり遠回りして反対車線にある歩道入口を発見した。

(都会の構造は複雑やなぁ…)

関西圏に入った瞬間、頭の中で使う言葉も変になっているのが可笑しかった。

関東弁は五年いても身に付かなかったのに、関西弁は数時間もいれば染み込んでくる。

「関西人がいるとペースが崩される」

これは旅人の言うセリフであるが、確かに的を得ていると思う。

寂しがり屋なのか目立ちたがり屋なのか、それは知らぬが、テントを張っている時に必ず寄ってくるのは関西人だし、場を勢いで構成したがるのも関西人。

初対面なのに、

「まいど!」

心底なれなれしいのも関西人。

(もー、寄ってくんなよー!)

そう思うのだが、早い時間に身近へ接近してくるぶん、言い知れぬ浸透性がある。

また、味付けに関してもそうだが、アッサリしているのが関西人の特徴であるようにも思われる。

怒涛のように喋り、場をガッチリと自分向きに構成するくせに引き際が早い。

「じゃ、寝るわ」

自分が満足したらサラリと去ってゆくので、どうしても余韻が残る。

人心掌握術にかけては、

「さすが商人の街…」

その事を認めざる得ないであろう。

さて…。

やっと歩道に乗った俺は、左手に瀬戸内海を眺めつつ、

(今日と明日は都会の道ばかりですな…)

その事を思っていた。

場面が変わる時というのは物思いに耽りやすい。

ボーっとしている俺の横をバイクがバンバン通り過ぎた。

ふと、ここが歩道である事に気付いた。

看板には、

「自転車以外の二輪車通行禁止!」

デカデカとそう書いてある。

書いてはあるが頻繁にバイクが通っているし、その看板の脇には「うるせー」と落書きがされている。

関西らしいと思った。

とりあえず、バイクが通り難いようにジグザグ歩きをしてみた。

クラクションを鳴らす原付がいたので、その進路を露骨に妨害してみせると、

「なんやねん!」

突っ込み風の捨て台詞を残し、去っていった。

なるほど、とても関西らしいと思った。

橋を渡りきると工業地帯が広がっていた。

地図日記にこう書いてある。

「凄まじい異臭を放つ工場あり、倒れそう」

これを見て思い出したが、確かに倒れそうなほどに臭かった。

(地域住民は苦情を言わないのか?)

そう思ったが、この辺りの埋立地には住宅がなく、工場ばかりだから許されるのだろう。

とりあえず鼻呼吸をしないように工場地帯を通り過ぎた。

神戸のメインルート・国道43号線に着いたのは、船を下りてから一時間強が経過してからである。

魚崎駅を左に見ながら国道43号線をひたすら東へ向かって歩いた。

何の面白味もなかった。

歩道は広いが大きな交差点の度に歩道橋を使わねばならないし、見るものもない。

とりあえずコンビニで朝飯を買い、近くの公園で休憩する事にした。

ベンチは一つしかなく、ルンペンが座っている。

遠慮する事はないと思い、その隣に座って食べた。

ルンペンは俺の事を同類、もしくは職がなくて困っている若者と思ったらしい。

「若いのに大変やねぇ」

そう言って、無気力な話題を投げかけてくれた。

確かに、この時の俺はルンペンに近いといえば近い。

真っ黒に焼けており、荷物も多い。

職にも付いておらず、

「大変やねぇ」

その言葉が的外れではない状況にはある。

だが、ルンペンに同情されるような状況ではないと思っている。

「今は旅の途中なだけで、日頃は贅沢な生活をしています」

ムキになる必要はないのだが、きちんとその状況を説明し、その証拠として、コンビニで買ってきたパンを惜しむ事なくあげた。

「美味い!」

ルンペンはそう言って目を光らせた。

(この人は嫌々ながらルンペンをしているのではない…)

ふと、その事を思った。

なぜだか分からない。

分からないが、そう思わせる堂々とした食いっぷりであった。

(目が死んでいない…)

その事にも気付いた。

これは前にテレビで見た話であるが、ルンペンの中の極一部に、今すぐにでも人並以上の生活ができる(そういったスキルを持った)人物がいるらしい。

そういった人達は、

「お前もやってみ、ルンペンは一度やったらやめられんよ」

ルンペン生活を人に勧めるし、普通の生活へ戻る気も起こらないらしい。

そういえば有名な後藤又兵衛も大隈城一万六千石を有するが、フラリと浪人になり、ルンペン生活を続けた。

この間、どこそこの大名が又兵衛を召抱えにくるが、どのような高禄であっても誘いにのらなかったらしい。

この又兵衛も、

「この生活は一度やったらやめられませぬ」

誇らしげに語ったそうな。

人の世には矛盾がいっぱいで、それは生活水準が高くなれば高くなるほど増えてゆく。

着物や嗜好品を一つずつ剥ぎ取ってゆき、動物の位置へ近付けば近付くほど、その矛盾が減り、

「あやつらのやる事は嘘だらけよ」

そのように見えてくるのだという。

ルンペンだろうと疑われ、ついムキになってしまった自分が、何だか卑小で恥ずかしい人物のように思われた。

さて…。

神戸の街を抜けると、次は西宮であった。

言わずと知れた甲子園の街であるが、そちらの方は通らない。

甲子園へゆく手前で左に折れ、国道171号線・京街道へ入る。

神戸を出ても都会の道であるという事は何も変わらない。

昼近くになると、また股ズレの症状が出始めた。

この日も真夏日であった。

「スポーツ飲料、茶、茶」というリズムで水分を取り、熱中症にだけは気を付けた。

武庫川を越え、尼崎を越え、伊丹に入った。

昼飯はトンカツ屋へ入り、おかわり自由というシステムだったが、暑さのために食が進まなかった。

その代わり、

「生ビールフェア」

その張り紙があって、ジョッキ一杯二百円だったため、それを数杯だけ飲んだ。

体がとろけそうなくらいに美味かったが、その後の足は鈍くなった。

伊丹から先は県道を進んだ。

これも都会の道で、特徴的なものといえば空港しかない。

道は滑走路の下をゆく。

排気ガスが充満しており、塵肺になるかと思った。

ところで、この日の目的地は大阪の豊中市で、伊丹空港を越えればすぐそこである。

伯母の家に泊まる予定だったので、休憩がてら電話を入れてみると従姉妹が出た。

現在、千葉に住んでいる従姉妹で、ちょうど大阪に帰省していたようだ。

既に伊丹空港を越えた事を説明すると、そのスピードに驚きの色を見せてくれた。

俺も、今日はかなりのスピードで突き進んだと思っている。

なぜなら道が都会過ぎて見るものがなかったからだ。

歴史的な遺産や風光明媚な景色でもあれば寄り道をしてしまうところであるが、それが全くなかった。

六甲アイランドで船を降りてから、脇目もふらずに歩いてきた。

ふと、足元を見てみると半ズボンから露出した足が変な具合に汚れていた。

九州を歩いていた時とは汚れ方が違う。

土の汚れではない。

メチョーンとしたドス黒い汚れであった。

たぶん、ディーゼルの排気ガスと空気中のゴミが汗だくの皮膚に吸い寄せられたのであろう。

体に良いようには思われなかった。

現に、伯母の家に着いた後、

「まずは風呂に入りなさい!」

と、風呂場へ直行の運びとなったわけであるが、その時、

(ブツブツだらけだ…)

俺の手と足が見るも無残な状態となっている事に気付いた。

ちょうど肌を露出している部分だけに赤いポツポツが出ており、背中だの腹だのには何も出てない。

昨晩、フェリーの中では何も出てなかった。

(これは、あの汚れと何か関係があるのかも…?)

土の汚れではない何かの汚れが汗と反応し、俺のデリケートな肌に刺激を与えたに違いない。

伯母の家に着いたのは午後三時。

「あらあら、よく来たわねぇ」

長期旅行の度に現れる甥っ子を、伯母はどう思っているのだろうか…。

よく分からぬが、

「遠慮をすれば距離が出る」

その福山的倫理に従って、大阪を通る時は必ず泊まっている。

「社会人なので手土産を」

学生でないのが社会人だと定義すれば、俺も立派な社会人である。

近くの酒屋でビールを買い、それを土産として手渡した。

銘柄は、キリン一番搾り。

俺が最も好きな銘柄で、あからさまに俺が今飲みたいものであった。

久々に、たっぷりと飲めそうな気がした。

伯母がどう思っているかは知らぬが、じっくりと腰を据え、寝る時間まで飲もうと思った。

事実、この晩はそういう風に時間を過ごした。

持ってきたビールは三十分で空いた。

大都会も、家の中に入ってしまえば田舎と何も変わらなかった。

酔えば、それは尚更。

聞こえていた車の音も次第に聞こえなくなるのであった。

 

 

6-2、斡旋会社と俺

 

伯父伯母や従姉妹と話した内容は、あまり憶えてない。

が…、その大筋が「都会と田舎」「生命と自然」という深いテーマを持っていたという事は何となく憶えている。

伯父伯母は大阪の水が口に合わず、京都の山深くまで湧水を汲みに行っているらしい。

その話から前記のテーマが生まれたような、生まれていないような…。

よく憶えていないが、その話の中で、

「俺の就職先が阿蘇か京都に決まりそうだ」

その事を伝えたような気がする。

前の章で書いたが、この時の俺の状況は阿蘇の会社から内定をもらっており、京都の大企業からも一次試験突破の知らせをもらっているという状況である。

一次試験は直属上司による面接で、それを突破すれば、

「ほぼ内定をもらったようなものですよ」

斡旋会社が言うに、そういうものらしい。

ゆえ、

「京都にしようか阿蘇にしようか…?」

京都の会社も合格したものと考え、横着にも勤務先を迷ったりしていた。

伯母は前述の流れから、

「どちらもいいわぁ、人が住むには最高の環境やわぁ」

と、環境的な絶賛を送り、

「でも、ヒロ(俺の事)には阿蘇に住んで欲しいと思うわぁ」

そう言った。

理由の一つは京都という場所が余所者を受け付け難い場所であるという事、これは有名な話で、

「京都という街は観光でゆくにはいいが、住むには百年経たねば住民として認めてくれず、非常な忍耐を要す」

そう言われている事は周知の事実である。

この事に関しては実際に京都へ行った時、

「なるほど」

そう思った節が多々あったので、後の章で書く事にする。

ちなみに、俺が住むかもしれないと言っている京都は京都駅から特急で一時間、綾部という市で、前述の京都性は薄いように思われるが、伯母が言うに、

「京都である以上、必ず京都性がある」

らしい。

大阪人と京都人の反発は全国でも有名で、これも後の章で書くので触れない。

伯母が言う「阿蘇に住んで欲しい」もう一点の理由は、阿蘇というイメージが放つ言い知れぬ魅力であるという。

四季がハッキリしていて水が良く、何よりも雄大なイメージがある。

「こういった時代やから自然という財産が何よりも重要なものになってくると思うわぁ」

その点、確かに阿蘇は凄まじいばかりの自然に溢れている。

ちなみに…。

(京都と阿蘇、どっちでもいいや)

俺はそういう考えであった。

ただ、京都の方が給料五割増で、その点、道子は京都がいいと言っている。

夫がどちらでもいいと言っているところに嫁は京都を押しているので、福山家としては京都の方向でまとまりつつあったのだが、歩きながら考えるに、

「何を最も重視すべきなのか…?」

「どっちでもいい」と言っている俺自身の事が疑問に思われた。

サラリーマンを定年までやるつもりであれば条件云々を重く見つめ、会社が主で勤務地を従として選ぶべきであろうが、俺は阿蘇や京都の会社を選んだ時点で、勤務地を主として選んでいる。

会社の天秤と勤務地の天秤があり、勤務地の天秤では阿蘇が勝つが、会社の天秤では京都が勝つ。

(さて…、俺はそのどちらを重視するのか…?)

主であるのが勤務地であれば、むろん、それは阿蘇の勝ちになるであろう。

阿蘇の勝ちにはなるが、会社の条件に圧倒的な離れがあれば、そりゃ俺でも京都へ寄る。

(しかし、それでいいのか…?)

俺の目標はあくまで小説家であって、大企業の社長ではない。

(うん…、そうだ、うん…)

一人で納得するのであるが、遠い埼玉にいる道子の声が聞こえないでもない。

「よーく考えよー、お金が大事だよー、二人目産まれるっ、二人目産まれるっ、ルルルー♪」

道子の放ったアヒルが俺に駄目出しをしているように思われた。

とにかく、伯母が「阿蘇の方がいい」と言った事は非常に貴重な意見で、京都派が大多数なものだから、ちょっぴり嬉しかったりしたのである。

ところで…。

酒の席の途中、就職斡旋会社から電話がかかってきた。

斡旋会社は京都の会社と自分との橋渡しをしている会社で、その詳細は冒頭の章に書いている。

「歩いている途中に申し訳ないのですが、二次面接を受けてもらわねばならなくなりました」

斡旋会社はそう切り出し、そこに至るまでの経緯を一方的に話し始めた。

「は?」

それは俺にとって寝耳に水の話であった。

「旅を一日だけ中断し、京都の会社が指定する日時に二次面接を受けてくれ」

そう言うのだ。

そもそも京都の会社には、

「七月いっぱい歩かねばならないので、面接等は八月にしてください」

その事を伝えているし、了承も得ている。

当然、斡旋会社にもその事を説明し、

「この期間が無理だという事は伝えてありますので断ってください」

そう言った。

が…、京都の会社の方から、

「二次面接を行う役員の都合で七月十日に決定です」

「決定」と言ってきたらしい。

役員の都合でサラリと約束を破る高圧的な会社の態度に腹がたった。

「なぁに、日程は向こうが合わせてくれるさ。こっちは向こうを審査する側、向こうは審査される側だからな」

その声が俺の中にハッキリと聞こえたような気がした。

「七月中は受けないと伝えてください!」

力を込めてそう言ってやった。

「それは困ります!」

「困りません! 約束を破ったのは向こうだ!」

「困ります!」

「困る」「困らない」その問答が斡旋会社と俺の間で永延と続いた。

斡旋会社も手の届くところまで近付いてきた莫大な金・成功報酬がかかっているものだから引き下がるわけにはいかない。

次第に声が荒々しくなってき、

「就職活動ってものは会社に合わせるのが普通ですよ! 福山さんの言われている事はおかしい!」

そのような事を言ってきた。

当然、俺も燃えてきた。

「こっちは向こう様と約束を交わしているわけですよ、社会の常識云々もありましょうが、約束を守るというのは人としての道でしょうが!」

結局、電話は喧嘩別れになり、

「じゃ、駄目元で日を八月にできないか聞いてみますよ! それで二次面接が受けれずに落ちたという事になっても恨まないでくださいね、福山さんが選んだ道ですから!」

ワダカマリを残すかたちで電話は切れた。

意外なかたちで京都への道が途絶えようとしていた。

が…、徒歩旅行の予定を乱してまで京都の会社を受けようとは思わなかった。

この徒歩旅行は一年に及ぶ無職期間の集大成なのだ。

それに傲慢な京都の会社に憤りを感じてもいる。

「落とせ、落とせ、落としてみろ! この嘘つき会社め!」

こうなると内に秘めたる肥後もっこす、その部分が露骨に出てくる。

虚勢を張り続けた。

大声で叫びながら悔しがってみた。

「一次面接で七月が駄目だと何度も言ったじゃにゃー! なのに七月十日に受けろとは何という高圧的な言い方! むかつくー!」

俺の憤りは頂点に達した。

それに斡旋会社が連発する「普通だったらですね」という言い方。

これも芯から腹がたった。

是が非でも俺を普通のルートに乗せ、普通の品物として納品したいらしい。

(受けんって言ってやろうかな…)

だんだん天邪鬼的気分にもなってきた。

と…、そこで電話があった。

斡旋会社からであった。

声は落ちついている。

優しげな声で、ゆっくりと話し始めた。

「福山さんのおっしゃった事を先方に伝えました。するとですね、先方は福山様のおっしゃる事に理があると言われ、調整できないか相談してみる、そうおっしゃいました。ですが、どうしても面接官の調整がつかず、七月十日という日は変える事ができないという結論です」

この時点で、俺の少なかった面接を受ける気分は霧散した。

(ああ、ついに京都が消えた…、道子に何て言おう…)

その事を考えた。

が…、この後に斡旋会社が発した「先方からの提案」は俺の興味を芯からくすぐるものであった。

「その代わりですね、先方は福山さんを旅の途中に呼び出したという事で、服装はスーツでなく、旅の服装でも構わないとおっしゃっているのです」

(な! なにー!)

俺の頭の中に半袖半ズボンの汚れた格好で面接を受けている俺自身の姿が鮮明に浮かび上がった。

むろん、面接官はキチッときまったスーツを着ている。

(マヌケだ…、実にマヌケな絵だ…)

笑いが込み上げていた。

(これは歩くよりいい思い出になる…)

そう思うと、俺の気持ちは七月十日に受けてもいいという方向に傾いてきた。

よくよく考えると、七月十日はちょうど京都にいるという事も都合がいい。

脱線はするが歩けなくなるのは一日だけで、空いた時間は京都観光をすればいい。

「半袖半ズボン、それに大型リュックを背負った格好で面接を受けていいという事ですね?」

「はい…、先方がそのように…」

「うん、うん」

「ですが、私服で受けていいとはいっても、それなりの社会人らしい格好はしてもらわないといかんとは思いますが…」

「いやいや、先方が旅の格好を望まれるなら、この格好がベストというものでしょう」

「福山さん、社会人なんですから、その辺は柔軟に考えて頂かないと…」

「私は無職の旅人で、社会人とは遠い人間なんです」

「はぁ…、そうですか…」

斡旋会社は俺に面接を受ける意思がある事を確認すると、服装に関しては「仕方ない、お任せします」そう言って、電話を切った。

何だか気分がパーッと晴れた。

約束を破った会社が非を認め、俺が服装の準備がつかないのだろうと想像し(そんな事はないのだが)、このような条件を出してくれた事も嬉しかったが、

「旅人をサラリーマンとして評価する」

その珍奇な絵が実現に向かおうとしている事がたまらなく楽しみであった。

我慢ができず、目の前で飲んでいる伯母にその電話の内容を説明した。

すると、

「その格好で面接を受けるんやて! あかんよ! 絶対にあかんよ!」

怒鳴られてしまった。

(しまった! いらん事を言ってしまった!)

そう思ったが、もう遅い。

「会社には礼を尽くさな!」

伯母や従姉妹の説教が始まってしまった。

逃げるため、道子に電話をした。

すると、道子もスーツで受けろと言い、前日の宿泊先にスーツを送るとまで言い出した。

(こりゃ四面楚歌だ…)

という事で、この話題は二度と口にしないようにした。

口にせず、何食わぬ顔で「旅人とサラリーマンのアンマッチ」を楽しもうと思った。

が…、そういうわけにはいかない運びとなった。

この翌日、斡旋会社から電話があった。

「服装の話ですが…」

そのように切り出され、

「先方から電話があり、旅の格好でいいとは言ったものの、よくよく考えるに、やっぱ半袖半ズボンはちょっとマズいかも…、という話がありました」

そんな事を言う。

(嘘だ! 斡旋会社が話を作っている!)

そう思った。

が…、それを口に出してしまってはどうしようもないので、無言で話の続きを待った。

すると、意外な提案が斡旋会社の口から発された。

「こういう提案がありました。福山さんは旅の途中で現在は関西地区にいらっしゃるわけですよね。と、なると、面接に支給される交通費は、前例こそありませんが、関西圏からという事になる。これを先方は熊本からの計算で支払う、そうおっしゃっています。そして、それで浮いたぶんを服装へ充てられないかと…」

これにて斡旋会社の話は一気に信憑性を増した。

そして、会社の俺に対する気遣い、新しい人材を得る事に対する意欲が十二分に伝わってもきた。

「そうですか…」

ゆっくりと話に相槌を打ちながら、内ではソロバンを弾いた。

熊本からの交通費は往復で三万円強、スーツを送って送り返しても五千円はかかるまい。

(最低二万は浮く! 予算の辻褄がこれで合う!)

という事で、

「よし! 嫁にスーツを送ってもらいましょ!」

斡旋会社との話が初めて気持ち良くまとまった。

斡旋会社はその事がよほどビックリ、そして嬉しかったらしく、

「ありがとーございますぅー!」

初めて聞くトーンで、初めての礼を言うと、

「受かりますよ! 先方は福山さんを欲しがってますから!」

実に溌剌とした様子で電話を切った。

二次面接の詳細は、それからすぐに電話で知らせてくれた。

たぶん斡旋会社としては、その詳細を前々から握っていたのであろう。

だが、俺の返答如何で、その詳細も単なる白紙に戻る可能性があったから保留していたという流れではなかろうか。

嬉しげな調子で読み上げてくれた。

「七月十日午後六時に一次面接と同じ場所へ行って下さい! くどいようですがスーツでお願いします!」

午後六時という時間が遅過ぎると思ったが、口には出さず、

「了解しました、隊長!」

そう答えた。

斡旋会社の担当者と交わした電話の回数は既に十数回を数えようか。

何度も何度も喧嘩をしてしまったが、こうなると友達のような感覚になってくる。

「また電話して下さい、隊長!」

歯切れよく発する俺の言に、

「なるべくなら、したくありません…」

斡旋会社は実に疲れた調子でそう答えてくれた。

大阪の晩、その酒宴は午後十時まで続いた。

午後三時から飲み始め、実に有意義な七時間を送ったように思う。

窓から星は見えなかったが、斡旋会社の担当者(三十代の男)の疲れた顔だけは鮮明に浮かんだ。

彼は今頃、同僚と酒を飲みながらこう言っているはずだ。

「あの福山って野郎! これだけ手を焼かせて落ちやがったらブン殴ってやる!」

大量に流し込んだ酒が、とろりと俺を眠りの世界へ誘ってくれた。

明日は京都へ入る。

 

 

7、京へゆく道

 

七月七日、七夕の日である。

昨晩、たっぷりと酒を飲み、たっぷりと睡眠をとった俺は、午前七時には伯母の家を出た。

この日の天気も晴れ。

前日に比べると幾らか涼しくはあるが、昼を過ぎれば猛烈に暑くなる事であろう。

重い荷物を「よいしょ」と背負い、交通量の多い県道をスタスタ歩いた。

一時間も歩くとエキスポランドが右手の先に見え、万博記念公園に突入する。

地図日記には、

「公園内の道、片側三車線で歩道なし、死ぬ思い」

そう書いてある。

確かに、高速道路っぽい立派な道の路側帯を、クラクションを鳴らされながら歩いた憶えがある。

たぶん、歩いてはいけない道だったのだろう。

万博記念公園を越えると、東へ東へ「エキスポロード」と銘打たれた県道をひたすら歩いた。

前にも書いたが、都会の道は歩きにくいようで歩きやすい。

人が多いぶん、歩道がしっかりしているからだ。

東へ東へ、地図で見ると横一線に左から右へ歩いた。

茨木駅を越え、茨木市駅を越えると、何やら見た景色が現れた。

前会社同期の実家がこの辺で、たしか通った憶えがある。

それは五年も前になろうか。

コンパ目的で埼玉から大阪へ来た俺は、友人と共に豊中の伯母の家に寄った。

その伯母の家で、友人は吐くほどに飲み、それを見ていた伯母が、

「あんた、いいわぁ! 気に入ったわぁ! うちの姪と付き合ったらええやーん!」

冗談でそう言っていた。

伯母の姪、つまりは俺の従姉妹という事になる。

この伯母に気に入られた友人は、数年後、本当に従姉妹と付き合い、結婚しそうになるのだから縁というものの不思議さを今更ながら感じずにはいられない。

また、その日の晩、豊中から茨木へ、つまりは同期の家へ移動している。

この同期の家へ移る際、たっぷり飲んだ前述の友人がモノレールの駅で見事な吐きっぷりを見せてくれ、大衆に謝りつつ清掃活動に従事した事は今でも忘れられない。

大阪へ来た目的・コンパを実行したのはその翌日である。

その際、現在の嫁である道子の友人が現れ、それが後の埼玉コンパを生み、

「好きだよー、ふくちゃーん!」

そういった流れで現在の福山家が誕生している。

また、この茨木の同期は俺の結婚式で男みたいな気質の女を気に入り、その数ヵ月後に付き合い、ついには結婚した。

縁というものが、いかに身近に、いかに複雑に絡みついているか、その事であろう。

さて…。

そのような事を思いながら歩いていると、大阪の代表的大河・淀川が見えてきた。

昔の大阪(堺)は湿地帯で、網の目のように細かい川が走っており、その背骨が淀川であったという。

淀川は京都府との境で桂川、木津川、宇治川に分かれ、桂川は京都市の入口で更に二つに分かれる。

一つは嵐山へ向かい、もう一つは京の中心へ流れてゆく。

「京と堺を結ぶ、その最もたる道は淀川である」

そういった言葉を聞いた事があるが、なるほど、納得の流れ、納得の威容であった。

ちなみに、この流れは京都人と大阪人の確執、その表現にも用いられているようだ。

その事は後に書くので触れぬが、歴史を武器に喧嘩しているあたり、何やら根深いものを感じざるを得ない。

さてさて…。

淀川を渡ると枚方市に入る。

両側の河川敷に広大な公園があり、その中を突っ切る格好で枚方の中心街に入っていった。

途中、淀川資料館なるものがあり、気になったが腹が減っていたので先を急いだ。

時刻は正午を回っている。

午前中は厚い雲が太陽光線を和らげてくれていたのであるが、このあたりからジリジリしてきた。

そろそろ、股ズレの症状が出てくる時間で、

(そろそろか…)

思っているとヒリヒリしてきた。

伯母に「何にでもよく効く塗り薬」というものを貰っていたので、それを汗疹の部分と股に試し塗りせねばならない。

汗疹は前日の章に書いたが、兵庫、大阪と都会の道を歩いた事で、手や足に赤いブツブツができていて、かなり痒かった。

枚方市駅を越え、人の数が減った辺りで定食屋に入り、そこの便所で薬を塗った。

確かに、「よく効く」と言うだけあって、痒みはすぐに引いた。

が…、汗で濡れた皮膚に薬は合わなかった。

股の部分に強烈な違和感を覚えた。

最初から塗っていれば慣れるのであろうが、途中で塗ると「違和感」がたまらない。

(ゼリー状のものが股に付いてるー!)

そんな感じになって、歩き方まで変になってくる。

が…、歩かねば京へは着かない。

公園の便所へ入り、薬を拭き取ってから歩いた。

気温はどんどん上がり、汗もダラダラと流れた。

道も市街地からだんだんと外れてゆき、県境らしい峠道になってきた。

人足が絶えてきた。

ただ、車だけは多かった。

股ズレの痛みに耐えながら、汗疹の痒みにも耐え、ひたすら歩いた。

京都府へはすんなり入った。

が…、入った瞬間、歩道がなくなり、その道は歩き辛い道へと変貌を遂げた。

頻繁に休憩をとり、頻繁に水を飲んだ。

涼しい時に比べ、暑い時の移動距離は六割くらいになるのではなかろうか。

時間に余裕があるはずだったが、あっという間にその余裕がなくなった。

京都の入口は京田辺市というところであった。

市役所の前で休憩をとり、辺りを見回していると、品のよい老婆が現れた。

「すんません、この街の名物はなんですか?」

某番組のように名物を問うてみたところ、

「一休さんのモデルになった寺がありますよぉ」

との話であった。

老婆はその他にも色々と紹介してくれたが、一休さんの寺ほどインパクトのあるものはなかった。

そうそう、インパクトといえば、枚方から峠を一つ越えただけなのに、言葉が京都風に変わっていた。

(やはり、文化というものは突起物に遮られる!)

持論ではあるが、まさにその事なのであろう。

ちなみに、一休さんの寺に寄るべく動いたのであるが、調べるに往復五キロの脱線が必要であった。

自転車や車での五キロならいざ知らず、徒歩の五キロは移動だけで一時間の脱線となる。

「明るいうちに宿へ着けんごつなるばい」

という事で、「次のお楽しみ」として諦めた。

さて…。

この日の移動距離は四十キロ強。

そのうち九割以上が都会の道であったろう。

明日もそれは変わらない。

京田辺市を越え、城陽市に入って約六キロ、サイクリングターミナルが今日の宿泊先であった。

広大な公園、その一角に宿はあり、受付の人が、

「様々な運動ができます」

そう説明してくれたが、運動は事足りていたので聞く耳すら持てなかった。

時計を見ると、午後五時を回っていた。

我ながら良いペースで歩いたと思う。

部屋へ荷物を下ろし、新聞でも読みながら横になり、それからゆっくりと風呂へ浸かった。

体中に蓄積された疲労成分が湯に溶けてゆくような錯覚を覚えた。

風呂で俺と同じ旅人に会った。

バイクで日本中を旅しているらしいが、どことなく怪しい雰囲気があった。

何だか喋り方がホモっぽくて、動きもクネクネしていた。

一緒に飯を食い、ビールも飲んだが、

「部屋、何号室?」

そう言われた時、身の危険を感じてしまい、

「お先に失礼!」

ダッシュで逃げてしまった。

しかしながら…。

旅の間、本当にビールが美味かった。

ビール好きでない俺がジョッキ二杯を一分以内に平らげ、部屋へ戻ってからも缶ビールを数本飲んだ。

きつい炭酸が乾いた心と体によく沁みた。

前章で書いたが面接を受ける会社が余計に旅費をくれるという事だったので、金銭的にも余裕ができていた。

飲めるだけ飲んだ。

布団に入り、地図日記を書きながら飲んでいると、いつの間にか朝になっていた。

朝飯を腹いっぱい食い、筋肉痛の足や手をもみほぐし、

「また、おいでやすぅー」

京都色に染まった声で見送られていると、昨晩のホモっぽい旅人が物影からスッと現れた。

「今日はどこへ?」

問うてきたので、

「奈良へ行くつもり」

とりあえず嘘をついてみると、

「じゃ、僕も奈良にしようかなぁ」

ホモっぽい旅人は粘性のある目をキラリ輝かせた。

そもそも玄関で偶然に会うという事がおかしい。

待っていたのではなかろうか。

だんだん寒気がしてきた。

ホモっぽい男には逆走してもらわねばならない。

「奈良のユースホテルに泊まるつもりだけん…、その時に飲み直すばい…」

京都とは逆の奈良へ行ってもらうよう、嘘を重ねた。

「いいですねぇ、奈良の何というユースホテルですか?」

「奈良にユースホテルは一つしかないはずだけん…」

「そうなんですか、それにしても熊本弁はいいなぁ、おぼえたいなぁ」

「そうですか…」

男は俺の熊本弁を褒めちぎりながら、俺にバイクを見せてくれた。

珍しいバイクだという事を熱心に語ってくれたが、バイクに興味のない俺には言ってる意味が分からなかった。

ただ、ちょっと気になるものを発見した。

タンクの部分に松浦亜矢のステッカーが貼ってあったのである。

(こやつ…、怪しい…)

そう思い、他にもないかと目線を動かしてみると、

「ぬおっ!」

ホモっぽい男が懐から取り出した携帯に、山ほどアイドルフィギュアのストラップが付いているではないか。

「念のため電話番号を教えてよ」

男はそう言いながら携帯をいじくり始めた。

よく見ると、男が着ているジャンバーに英語(筆記体)で「AYA」と刺繍がしてある。

(怖い! 怖いよー、かーちゃーん!)

俺は後退りしながら、

「俺…、携帯電話…、持っとらんけん…」

そう言い残し、足早に場を去った。

そもそもホモっぽい男に声をかけたのは俺であった。

それから「旅人」というだけで親近感を覚え、近寄っていったのであるが、だんだん気持ち悪くなっていった。

奈良にユースホテルが一つなんて、俺が知るはずもない。

多分もっとあるのではなかろうか。

男は奈良へゆき、

「どこのユースホテルだろ? あれ? いっぱいあるぞ?」

(だまされた!)

そう思うかもしれない。

だが!

「ごめんよ、ホモっぽい男! 俺は君の目線に耐えられない!」

場を脱した俺は、後ろを気にしながら京都方面へ猛烈なスピードで走った。

バイクの通れない細い脇道に入ったり、金網を越えて公園に入ったり、つけられぬよう細心の注意を払った。

バイクが通るとビクリとしたが、それが松浦亜矢のバイクでないと胸を撫で下ろした。

(悪いのはホモっぽい男じゃない! 俺なんです!)

分かっているがゆえの怪しい挙動であった。

ふと、

(道子や春は何をしてるのだろうか?)

俺の馬鹿げた挙動を顧み、その事を思った。

そして、

(俺はホモとランデブー)

出会いの日・七夕に、そういった類の人物と出会った事を胸の中で報告した。

道子は臨月に入っている。

いつ産まれてもおかしくない。

(俺が到着するまで産むなよ)

(うん、分かった)

(春は元気か? 変わりはないか?)

(うん)

(はむも元気だどー!)

(そうか、そうか! 春も元気かー!)

孤独な旅、その中にあって頭の中は一人二役三役、忙しく立ち回るのであった。

丘を越えれば、そこは平等院である。

 

 

8-1、南京都をゆく

 

京都市の人間は京都市以外の場所を京都と認めていない節がある。

文章学校時代の友人に、

「京都の綾部に就職するかもしれん」

その話をした時、

「綾部は京都じゃない」

その答えが返ってきた。

また、京都市の中にも、

「あそこは京都市ではあるが京都じゃない」

そういった場所が多々あるらしく、御所を中心に「どの辺りまでが都」というのは人それぞれ定義が違うようだ。

その点、俺が歩いている宇治市などは京都市に住んでいる者からすれば、

「都人の別荘地が宇治でしょ。京都じゃないですよぉ」

てな具合になり、東京と軽井沢ぐらいの違いがあるのかもしれない。

事実、宇治は昔から公家の別荘地が多かったらしく、その事は今からゆく平等院の博物館で知る事になる。

ホモっぽい男から逃げるため、柵を越えて公園の中へ飛び込んだ俺は、そのまま公園をぶっちぎり、傾斜のきつい住宅街へ出た。

何やら長崎のような住宅街で、ミカン畑のようなところに所狭しと住宅が並んでいる。

太陽を見ながら方角を合わせ、平等院方面へ歩いた。

住宅の隙間から立派な川がチラリと見えた。

宇治川であった。

「おお!」

前述のように、純粋な京都人は宇治の事を京都と認めていないようだが、熊本県民の俺からすれば宇治は立派な京都である。

茶と平等院の街・宇治、それは今まで歩いて来た京田辺、城陽に比べ、確実に京都って感じがする。

「京都だー!」

歴史好きの聖地・京都に、

「只今到着!」

であった。

目の前には猛烈な下り坂があった。

俺はそれを少年のように全力疾走で駆け下った。

「京都だー、京都だー! 平等院だー!」

俺の中には十円玉の裏側にある平等院鳳凰堂がありありと描かれている。

丘を下れば、そこに十円玉があるはずであった。

が…、

「あれ?」

下った先は行き止まりであった。

後に訪れる鎌倉でもそうなのだが、古い街は袋小路が多い。

「方角だけ合わせてゆけばよい」「道は必ずどこかへ繋がる」その論がこういう場所では通用しない。

ちょうど人が来たので聞いてみると、平等院は確かにすぐそばだが本来の道をゆくと回っていかねばならない、そこの家の庭を通っていけば早い、そう言われ、案内してくれた。

「ちょっと通るわぁ」

「どうぞー」

案内役が声を上げ、姿の見えぬ家主の声が返ってきた。

庭は芝生であったが、道の部分は石が敷いてあり、その脇には花が植えてあった。

明らかに地元の人が通る事を見越し、庭に道を作っているのだ。

いい近所付き合いが営まれている証拠だと思った。

庭が終わるところに階段があった。

そこから平等院がモロに見えた。

案内役に礼を言い、駆け足で階段を下りた。

「十円玉っ! 十円玉っ!」

弾む足取りを抑えつつ、受付で六百円を払った。

時間は午前八時半。

ちょうど開門の時間で、俺が一番目の客だという。

「こいつは朝から縁起がいいやっ!」

重い荷物をガチャガチャいわせながら、誰も踏み荒らしていない道を鳳凰堂目指してダッシュした。

平等院は藤原道長の子・藤原頼通によって開創された仏寺だそうな。

道長の時代は単なる別荘だったのを、頼通が仏寺に仕上げたのだという。

鳳凰堂は阿弥陀如来(国宝)を安置するためのものらしい。

とりあえず、その辺の知識は事前に得ておかないと史跡探索の面白味がグッと減ってしまうので、行くであろう場所の事はザッと勉強してきた。

平等院には鳳凰堂以外にも不動堂、観音堂、浄土院と呼ばれる建物がある。

だが、鳳凰堂を見ずして平等院は語れないだろう。

誰よりも早く(客の中で)平等院の池の前に立った。

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「ほぉー! ほぉ、ほぉ、ほぉー!」

平等院の醍醐味は水面に映る「もう一つの平等院」にある。

それは真ん前から見たほうが良いのだが、美味しい物は後にとっておくと更に美味しくなるため、右から左から見て、それから前述の不動堂などを見に行って、最後に前からの鳳凰堂を見た。

「十円玉ばーい…」

感動した。

それから写真を撮ろうと思ったが、後回しにした事もあり、いい場所は大阪弁のおばちゃん達に占領されていた。

(どうして大阪弁のおばちゃんは、どこの観光地に行っても目立つのだろう?)

以前、水芭蕉で有名な尾瀬へ行った時、叫び声を上げているおばちゃんがいた。

尾瀬は板で組まれた道がウニュウニュと湿原の中を走っているのであるが、そこから落ちたおばちゃんの声であった。

俺の目の前での出来事だったので、

「大丈夫ですか?」

声を掛けたのであるが、その友達であろうか、俺を押し退けるように集団で現れ、

「あら、澄子さん、落ちたんかいな?」

「はよはよ、澄子さんが落ちたでー!」

「大丈夫かいな?」

「写真撮らなあかん、写真や、写真!」

「澄子さん、いい記念やなぁ!」

落ちてズブ濡れになった一人のおばちゃんを十人近い集団が撮影し始めた。

「はよ助けてや」

「ほな、助けるところも撮るわ」

尾瀬の板道は狭い。

完全に、この一団のせいで糞詰まりの状態になってしまった。

誰かが、

「道を譲って下さい」

そう言ったが、

「夕暮れまで待たすわけやない! ちょっと待ってや!」

そう返し、一歩も譲らず写真を撮り続けた事も、

(凄まじい集団だ…)

そう思えた。

とりあえず、平等院の正面像は写真よりも心の中に置いておく方が得策と考え、三周も回った鳳凰堂を後にした。

ちなみに、平等院の中には鳳翔館という博物館がある。

見ごたえじゅうぶんの展示物がズラリと並ぶ博物館であったが、修学旅行生(中学)が入ってきてから集中できなくなった。

「この鳳凰、写真で見た事があるー!」

「教科書に載ってたもんなー!」

「つまらんよー!」

「それより、この床、キュッキュッ鳴るぞー!」

「おおー!」

静かな博物館は一瞬にして雑踏の渦に飲まれていった。

そもそも中学生に国宝の掛軸やら仏像やらを見せて楽しいわけがない。

中学生は太秦の映画村に行って、マツケンサンバを踊っていればいいのだ。

確かに、俺の中学時代の修学旅行も京都で、こういったところで暴れた憶えがある。

中学生そのものが暴れたい衝動の塊で、更に修学旅行というシチュエーションがそれに熱を加えているからしょうがないのだ。

「暴れるな」という方が土台無理な話である。

俺がこの旅行中、最も楽しみにしていた京都観光において、ほぼ全ての博物館で修学旅行生に邪魔された。

学校には「中学生」というものがどういうものか考えてもらい、暗めの室内には入れないとかいう配慮をお願いしたい。

ちなみに、有名な鳳凰像に向かって、

「こいつ、ガンたれてやがる!」

「なにぃー、マジでむかつくぜー!」

見るからに田舎のヤンキーがポケットに手を入れ、鳳凰像を睨みつけていたのは笑えた。

あれは良かった。

さて…。

平等院を出ると、そこは宇治川である。

京都らしい洒落た橋がかかっていて、それを渡り、左に曲がると私鉄が走っている。

その沿線を北へ北へと歩いた。

朝飯を食っていなかったので、

「京都の定食・うどん」

そう書かれている古い定食屋に入った。

大盛うどんセットを頼んだが、普通のうどんに普通の握り飯がついてきただけだった。

茶を十杯ほど飲み干し、

「こんなに茶を飲まれるお客さんは初めてやわぁ、よほど茶が好きなんやろねぇ」

そう言われたが、暑い中を歩き、喉が渇ききっているだけであった。

が…、茶好きは当たっている。

大きく頷くと、宇治の抹茶をサービスで出してくれた。

美味かったが、夏に熱いのはないだろうと思った。

茶も熱かったが、外も暑かった。

空を見上げると雲一つ浮かんでいない。

都会の道という事で遮蔽物が多く、風も吹かない。

ダラダラダラダラ汗を流しながら、伏見桃山御陵まで線路沿いを歩いた。

桃山御陵は明治天皇の墓所である。

高台にあるので、そこだけは微かな風が吹く。

日陰に入り、横になってスポーツ飲料を飲んだ。

ちなみに、桃山御陵の下には乃木神社がある。

たぶん、明治天皇に殉じた乃木将軍を祀っている神社だと思うが、山口・京都・東京でも同じような神社を見た憶えがある。

日露戦争、西南戦争、共にいいところがなかった乃木将軍だが、何か口や筆では伝えられぬ「見る人が見れば分かる輝き」があったのではなかろうか。

そうとでも思わぬ限り、とても祀られるような人物とは思えない。

もしくは「殉じた」というところだけをピックアップし、軍部が後世の精神的支柱にしようとしたのかもしれない。

よく分からぬが、

「日本を歩けば乃木にあたる」

そんな感じがした。

さて…。

桃山御陵を抜けると、そこは伏見の街中であった。

(とりあえず、寺田屋に行っとかねば…)

という事で、アーケード街を抜け、竜馬通りと銘打たれた道を抜け、寺田屋へ向かった。

この辺り、実に楽しく歩けた。

幕末に関する本さえ読んでさえいれば、聞いた事のある地名や川がポンポン現実のものとして飛び出してくるからだ。

ただ、観光地化された場所に趣はなかった。

一本裏手に入った細い道とか小さな寺にこそ趣はあった。

小走りに駆けていると幕末の討幕派(尊王攘夷派)になったような錯覚を覚える。

角を曲がると寺田屋であった。

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大して味はなかったが、寺田屋だと思うだけで幕末の臭いがした。

島津久光の命を受けた薩摩藩士が、同藩の討幕派を打ち殺した寺田屋騒動はあまりにも有名である。

また、坂本竜馬の定宿としても名高い。

(ちょっと昼飯でも食べていこうかな?)

そう思い、メニューだけ覗いたのであるが、その立派な値段に後退り。

「また、後日」

という事で場を去った。

ちなみに、伏見の街は何となく雑然としている。

言い方を変えれば何となく庶民的であり、事実、歴史的にも「京都における庶民の場所」が伏見であったようだ。

ゆえ、「条」が付くところの京都人は伏見の事を悪く言う節がある。

それは後に書くが、京都人のプライドの高さは半端でないという事だろう。

さて…。

京都の中心を目指し、更に北上を続ける。

国道を通っては味がなくなるので、迷う事を覚悟の上、細い裏路地を歩いた。

案の定、迷い迷って遠回りをしてしまったが、この日は歩行距離は二十キロ程度(普段の約半分)である。

余裕をかまし、大いに迷ってみた。

それにしても、歩けば歩くほど京都人がよく見えてくる。

京都らしいように、京都らしいように、どの家も外観には惜しみなく気と財を用いている。

たぶん、ご近所お誘い合わせの上、京都らしさを競い合っているのであろう。

それでいて、チラリ家の中が見えると、その近代的つくりにビックリする。

(うそーん!)

唖然としてしまうが、俺が見たところ、素敵なシステムキッチンやヨーロッパ調のテーブルが多く見られた。

中には京都らしさを家の中や細部にまで求めた家もあるにはあるのかもしれないが、俺が見た家はどこも外観とは裏腹のつくりで、その事は残念ではなく、

(ある意味、京都らしい…)

そう思えた。

「条」がつくところ(十条)まで裏路地で上った後、線路沿いの道に切り換えた。

こちらも細いのであるが、何となく観光道路って感じで、有名な寺が道沿いに点在している。

味はなくなるが観光のために移ってみた。

まず、右手に現れたのは東福寺である。

臨済宗の大本山で国宝や重文指定の宝物が山ほどあるそうだが、大して興味が無かったので入場料をケチって入らなかった。

京都の観光地を見るには必ず金がいる。

それも二百円や三百円なんてところは稀で、ほとんどが六百円という高値に落ちついている。

五ヶ所回れば三千円。

これでは旅人の寂しい懐は泣くばかりで、手当たり次第に見るというわけにはいかない。

選別して立ち寄らねばならなかった。

九条の東福寺を越えると、京都駅が左手に見えた。

線路を渡り、更に北上。

七条大橋が左手に見えた。

北へゆくほど条数は減ってゆき、京都御所がその基点となっているようだ。

本日の宿泊先は東山という場所で、条数でゆけば三条になる。

後四条分、北へゆかねばならない。

七条には見所がたくさんあった。

七条大橋を渡り、ちょいと直進すれば東本願寺、更に直進すれば西本願寺がある。

また、七条大橋を渡らず、右手に曲がれば三十三間堂のある蓮華王院がある。

かなり迷ったが蓮華王院を選んだ。

三十三間堂といえば、大河ドラマで宮本武蔵がダーッと走った長い廊下が有名(吉岡と戦った時か?)で、その中には千体の仏様が安置してあるはずだ。

仏様に興味があるわけではないが千体という規模に興味があった。

また、有名な風神・雷神の像もあるはずだ。

六百円を払い、まずは大河ドラマで話題沸騰の長い廊下を走ってみる事にした。

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リュックを降ろし、休憩なしで一往復を走ってみた。

写真で見ると短いようだが、その長さは百二十メートルもある。

往復で二百四十メートル。

それを全力疾走。

かなり疲れた。

が…、大して面白くもなく、得たものもなかった。

ただ、外国人だけは、

「ニンジャ!」

そう言って俺を指差し、「グー!」と言ってくれた。

嬉しくはなかったが、誰も見てくれないよりは良かったと思う。

三十三間堂は後白河上皇の土地に平清盛が造進したものらしい。

名の由来は正面から見た柱間が三十三ある事から採ったものらしく、千体だと思っていた観音像の数は正確には千一体だそうな。

むろん、建物自体が国宝で、中にも国宝のものがたっぷりと納められている。

「国宝」というと、それはそれは凄いもののように感じるが、京都にいれば、

「あれも国宝、これも国宝、お…、これは世界遺産」

そんな感じで珍しくも何ともない。

知らない団体の最前列で、

「国宝が国宝を包んでいるんです!」

ガイドの説明を聞きながら三十三間堂の中へ進んだ。

圧巻だったのは千一体の観音像で、それは国宝云々の問題でなく、見た目から胸に迫るものがあった。

中は写真撮影禁止なので、ここに写真を載せる事はできないが、載せたところでその凄まじさが伝わる事はなかろう。

とにかく、百二十メートルの建物いっぱいに観音像がダーッと並んでいて、

「その一つ一つが違う顔をしている精巧な観音様」

そう書けば何となくイメージが湧くのではなかろうか。

また、最前列に風神雷神を始めとする国宝の彫刻像が並んでいたのであるが、その表情といったらリアル過ぎて何だか怖い。

「はぁー…」

溜息まじりに一体一体を眺めてしまい、たぶん、五つ六つの団体に追い越されたのではなかろうかと思う。

(いいものを見た…、六百円の価値あり…)

俺はその感想であったが、嫁・道子などを連れてきても、

「仏様の群れを見るのに六百円は高過ぎるよー!」

そう言われて終わりであろう。

やはり、趣味の観光は趣味の合うものと行くか、一人旅が良い。

さて…。

三十三間堂を出ると、そこは観光のメッカであった。

目の前には京都国立博物館があり、その奥には豊臣秀吉を祀る豊国神社、隣には真言宗智山派の総本山・智積院がある。

「目移りするばーい!」

歴史好きにはたまらない場所であったが、まずは飯を食おう(昼飯を食べていない)という事で、全国チェーンのカレー屋に入った。

ちなみに…。

(せっかく京都に来たから老舗で食べたい…)

そう思い、裏通りの古い店を見て回ったのだが、どこもかしこも目が回るほどに高く、とても手が出なかった。

時計を見ると、午後三時を回っていた。

今日も溶けてしないそうなほどに暑い。

自然とビールを頼んでしまい、カレーと一緒に流し込んだ。

「ビール代を観光代に充てればいいじゃん!」

道子はそう言ったが、これは汗だくの状態でビールを飲んだものにしか分からない、極めて純粋な言い分で、

「我慢したくても魂が欲す、それが汗だくのビールなんです!」

そうとしか言いようがない。

完全に、ビールが「旅のガソリン」となってしまっていた。

満タンとは言わぬまでも、ちょっぴり歩く力を補給した俺は更に北上を続けた。

通称・五条通、国道一号線を渡り、若宮八幡宮を越えると右手の先に世界遺産の清水寺が見えた。

行こうと思い、三年坂まで到達したのであるが、あまりの修学旅行生の多さに引き返してしまった。

四条まで上ると、そこは祇園である。

舞妓さんがいないかと探したが、着物姿の女もおらず、その代わり風俗店のキャッチがたくさんいた。

「舞妓さんは歩いとらんとかね?」

若手のキャッチに聞いてみると、

「うちは舞妓ヘルスです」

要領を得ぬ回答が返ってきた。

が…、

「む…、舞妓ヘルスとな…」

俺も男なので、ちょっぴり興味を持ってしまった。

念のため詳細な内容を聞き、場を離れた。

祇園というと華やかで豪華なイメージがあったが、意外にも大阪道頓堀のような雑然とした一面もあるという事を初めて知った。

ちなみに…。

誤解しないで欲しいが舞妓ヘルスには行っていない。

あくまで勉強のため、詳細を聞いただけである。

本当よ。

さて…。

祇園の交差点に八坂神社がある。

八坂神社は全国に点在しているが、その元締めみたいなところで、赤い鳥居が祇園という街によく映える。

入場無料だったので、ぶらりぶらりと境内を歩き、賽銭に百円を投げ入れ、旅の無事と道子の安産を祈った。

この八坂神社の裏手に、有名な知恩院と青蓮院がある。

むろん有料で、五時が閉館。

現在の時刻は四時を回っていた事もあり、

(明日の早朝に行こう…)

そう決め、宿へ直行した。

この日の宿は東山駅のそば・東山ユースホテルである。

ユースホテルに泊まるのは久しぶりで、前回はどこだったか忘れたが、海沿いのユースホテルに泊まり、部屋の者と朝までドンチャン騒ぎをした憶えがある。

今回も、気の会う奴がいたら飲まねばならないだろう。

(もぉー…、仕方ないなぁー…)

妙な期待を抱きつつ、宿主と名乗る人に部屋へ案内された。

「こんちわー、世話になりますー」

元気に挨拶をし、顔を上げ、部屋をグルリと見回した。

そして、唖然とした。

部屋は八人部屋なのであるが、その八人、全て外国人であった。

「ハロー」

「は…、はろー…」

真っ黒の顔に真っ白の歯が目立つ黒人男性が俺に握手を求めてきた。

何かを言っているが、英語でよく分からない。

「ワタシィ、イングリッシュ、ワカラナーイ」

外国人が話す日本語っぽく返してみたが、向こうは「分からない」と言っているようだ。

こういう時は何も喋らずに外へ出るのが一番だと思った。

が…、黒人男性は俺に分かるよう優しい英単語を並べ、何とか話をしようと頑張ってくれている。

沈黙こそ悪、退出こそ悪であった。

とりあえず、日本語でもいいから喋る事が必要だと思った。

「アナタ、ハダ、クロイワリニ、テノヒラ、シロイネ」

愛想笑いの俺は、どうでもいい事を永延と喋りつつ、夕食までの時間を潰すのであった。

京都の夜は何色であったか…?

国際色、それ一色であった。

 

 

8-2、ブルガリアの男

 

詳しくは知らないが、ユースホテルは世界中に、それこそ数え切れぬほどあるらしい。

貧乏な旅人が何も知らない異国へ行っても低価格で安心して泊まれる場所。

そのがユースホテルらしい。

ここ東山ユースホテルは一泊二食付で五千円弱、素泊まりなら三千五百円。

立地は京都のど真ん中、観光には打ってつけの場所でこの値段なら確かに安い。

が…、ブルガリアの男に言わせれば、

「日本のユースホテルは世界一高い」

のだそうな。

高いが、日本の物価そのものが高いから、

「泣く泣くユースホテルを目指す」

というのが、外国人旅行客の流れ方だと言う。

ましてや、ここは世界の観光都市・京都。

そういうわけで八人部屋に日本人が一人という危機的状況に陥ったわけだが、一人だけ日本語を喋れる外国人がいた。

それが章題となっているブルガリアの男で、名は忘れた。

黒人男性と俺が不可能な会話を続けているのを見かね、

「私が間に入りましょう」

そう言って現れたのがブルガリアの男であった。

(最初から出てきてばい…)

そう思ったが、彼の機嫌を損ねては俺だけが孤立してしまうので、

「ありがたい!」

彼を笑顔で迎え、三人が輪になる格好で雑談を進めた。

それから、ちょろりちょろりと人が増え、結局、八人全員がこの雑談会に参加している。

会話の基本は英語で、八人中六人が喋れた。

俺を含め二人だけは母国語(もう一人はスペイン語)しか喋れない。

この二人の間にブルガリアの男が通訳として入った。

ブルガリアの男は二十五歳という事で俺より若いのだが、八ヶ国語が喋れるらしい。

その中でも、

「特に日本語が得意です」

という話で、俺の言葉に対し、

「九州の方ですね? アクセントが九州のものだ」

「ばい」とか「ばってん」を出したわけではないのに九州出身を言い当てられてしまった。

とんでもない天才と出会ってしまったものである。

更に、彼は理系の職業に就いているらしく、

「理系でそれだけ喋れるのは凄い」

という俺の言に、このような名言を吐いてくれた。

「理系と文系の線引ってのは存在しません。全てがフラットなところにあるのですから」

愛想笑いもせず、こういう事をサラリと言ってしまうところが天才っぽかった。

また、親孝行な奴で、今回の旅行はブルガリアから祖母と両親を呼んでの旅行という事で、女部屋には家族がいるらしい。

京都は三泊目という話で、

「明日は西へゆくのです。中国地方、九州地方でブルガリア人が好みそうなところはないでしょうか?」

という質問を受けた。

ブルガリア人の好みは知らないが、唯一の日本人として何かを言わねばならない。

「日本の良さは、その季節感にあると思います。観光地はたくさんありますが、下手に観光地に行って雑踏にもまれるより、日本の山や川、古い街並を歩いて欲しいですね」

そう言うと、

「あなたの言っている事、何となく分かります」

ブルガリア人はそのように答え、「川や山や海、それらが文化を育んだのは世界中どこも変わらない」と、話を壮大な方向へ持っていき、「うちはブルガリアのナントカという川のほとりにある」そういった事を真顔で説明した後、英語やスペイン語で場に話の内容を説明した。

それから世界地図を広げ、「私はここから来た」「この山のコッチからの姿が素晴らしい」「ここの水は世界一美味い」などと、雑談が壮大な規模になってしまった。

世界地図を前に話をすると、改めて日本の、そして熊本の小ささに気付く。

中国人の長江の話を聞いた後、

「あなたの近くに大きな川はありますか?」

そう聞かれたので、山鹿を流れる大河・菊池川の話をしたが、

「ふーん」

っていう感じであった。

「一級河川なんですよ」

日本における格付けも話したが、日本を飛び越えればどうでもいい事らしい。

とても長江やナイル川には敵わなかった。

ただ、山だけは世界中に認められている山が近くにあった。

阿蘇山の話をした時、

「アソ!」

幾人かの人間が食い付いてくれたのだ。

阿蘇と富士は世界が知っている日本の山らしい。

特に富士山は日本の象徴と思っているらしく、外国人も一目置いている様子であった。

日本には三富士というものがあって、北の羊蹄山、中の富士山、南の開聞岳がある事を説明すると、

「ナルホドー!」

外国人たちは覚えたての日本語で食い付いてくれた。

ちなみに「なるほど」は、黒人男性の「分かった時の日本流の合図を教えてくれ」という要望に対し、ブルガリア人が教えたものであるが、俺は次のように付け加えている。

「そのナルホドの後に、ザ・ワールドを付けると日本ではハイセンスな納得となります」

ブルガリア人は俺の言う事を真顔で訳しつつ、

「意味が分からないし、長いよー」

そう言ったものであるが、何も知らない六人は、

「ナルホド、ザ、ワールド」

頷く度にそう言ってくれた。

グローバルな感じが、この辺りにも漂い始めた。

雑談の第二段は場を食堂に移して行われた。

同室八人のうち三人しか夕食をとっていなかったが、ブルガリア人がいたので良かった。

他の部屋の外国人も交え、大いに語り合った。

女性ではあるが、他の部屋に日本人がいた。

二十歳と五十の母子で、現在は東京に住んでいるらしいが、こうやってフラリと旅をするらしい。

この二人、実に逞しい母子で、なんと東京からヒッチハイクで京都まで来たのだそうな。

この母子もブルガリア人同様これから南に下るらしく、

「もっと九州の話を聞かせて」

テーブル一つ隔てた俺の話に耳を傾けてくれた。

飯はボリュームもあり、味も良かった。

生ビールが一杯三百円というのも良かった。

二千円を渡し、一杯をブルガリア人に奢り、

「俺は五杯飲むけん」

係員にそう言ったのであるが、蓋を開ければ六杯飲んだ。

「よく飲みますねぇ」

「ビールってのはドイツ人もそうだろうけど、日本人にとってもガソリンだけん。あ、そうそう、焼酎があれば尚良し、日本酒はアルコールが低い割に値段が高いけん、日本酒とはいいながらも日本人にとって日常的じゃない」(熊本的観点より)

わざわざ訳さんでも言い事をブルガリアの男は訳してくれ、場からは、

「ナルホドー、ザ、ワールド」

その声が洩れていた。

部屋で教えたものが、口から口へ、場に浸透していってるのが嬉しかった。

「変な事を教えちゃいかんよー」

ユースホテルの店主が笑いながらそう言ってきたが、

「ハイセンスでしょ?」

そう返すと、

「うん、確かにハイセンスではあるし、場に合う」

認めてくれた。

それから外へ飲みに行くべく提案したが、なんと、このユースホテルの門限は十時だという。

六時から飯を食い始め、気付くと九時になっていた。

今から出てもしょうがないので近くのコンビニで芋焼酎を買い、皆に振る舞った。

つまみは皆が持ち寄った各国の菓子で、ブラジルの変な豆が最も美味かった。

陽気な黒人は飲むと更に陽気になり、気が付くと踊っていた。

ジャマイカ出身だという。

踊りの質こそ違うが、沖縄の人間みたいだと思った。

ブルガリアの男は最後までクールであった。

皆が酔い、「言葉不要」の状態になった時も彼だけは通訳という仕事を冷静に勤めていた。

冷えた口調で、

「お国柄が露骨に出てますね」

酔った面々を見回しながらそう言っていたので、

「ブルガリアの男って、そういう感じね?」

聞くと、

「僕は特殊ですから」

ブルガリアの男が薄い笑顔を見せた。

「クールに酒ば飲んでもつまらんでしょ?」

「クールですか? クールなつもりはないのですが…」

「芯から笑って見せてばい」

「さっきから笑ってますよ、全力で」

「そうなの…」

俺の友人に「忍者」と呼ばれている黒衣装を好む人物がいるのだが、ふと彼の顔が頭に浮かんだ。

彼は笑い顔はもちろん、足音すら人の前で出す事を好まない。

自分というものが場に露出する事が嫌なのだろう。

その代わり、人一倍おもしろいもの好きで、おもしろい事があると草葉の陰で悶絶している。

ただ、笑顔を見せないよう、後ろを向いたり、場を移動したりして笑う。

表に出さないほうが発散せず、そのおもしろさが濃縮されるからかもしれない。

ブルガリアの男が人間らしい顔をしたのは三回だけであった。

一つ目はユースホテルの係員が、

「やっぱ、ヨーグルトばっか食ってるんですか?」

そう聞いた時の、

「日本に来て、その質問ばっかりです」

彼のうんざりとした表情。

二つ目は「酒を好まない」と言っている彼に芋焼酎を与えた時、

「うっ!」

そう言って焼酎から目を逸らした時の表情。

極めつけは就寝後に発した彼の言葉…。

俺のベットの上にブルガリアの彼がいて、隣のベットの下段に黒人がいたのであるが、消灯後数分で黒人の鼾が聞こえてきた。

と、思ったら、

「プスゥー、プピッ!」

なんと、黒人は寝っ屁まで放った。

これには俺も悶絶(笑って)したが、上のブルガリア人はもっと悶絶したらしく、

「うううう…」

獣のような声を上げながらベッドをガタガタ揺らしていた。

文字通り、

「身悶えていた」

のであろう。

部屋には鼾だけが木霊する静かな闇が広がっている。

ブルガリア人の悶えは消え、ベッドの震えも止まった。

(ほんと…、天才ってのは変わりもんが多いばい…)

そう思っている時、彼がボソリとこう言った。

「彼の屁…」

「え…、なに?」

日本語だったので、俺に言っているという事は分かった。

よく聞こえなかったので聞き直すと、

「彼(黒人)の屁…、豆臭いですね…」

ブルガリア人は確かにそう言った。

そしてまた、何かを思い出したのか想像したのであろう。

「うううう…」

悶絶を再開した。

これは俺もたまらなかった。

確かに豆の臭いが部屋にこもっていた。

「ううう…」

「うううう…」

寝ている人を起こさぬようにしたものであるが、部屋には苦しげな笑いが地鳴りのように響いていた。

ブルガリア人の名はよく知らない。

目覚めると、彼の姿は部屋になかった。

時計が指している時刻は午前六時。

天才というものは、やる事なす事だけでなく、時間の感覚まで人と違うようである。

九日目は京都観光である。

 

 

9-1、ゆるりの一日

 

日は九日目に入っている。

外国人の中で朝食を摂り、部屋に戻って荷物をまとめた俺は、

(今日は歩かんでいい…)

その感動に打ち震えた。

今日という日は丸一日、観光の日なのだ。

八日間も歩き続け、すっかり頑張り屋になってしまった俺に、やっと休憩の日が訪れたって感じである。

観光の予定は全く立てていない。

「地下鉄とバスが乗り放題」というチケットがあるらしいので、それを購入し、

「適当に回ってみよう」

そういうスタンスであった。

まずは、昨日行き損ねた知恩院に行かねばならないだろう。

知恩院はユースホテルから徒歩10分。

重過ぎる荷物をホテルに預け、身軽な格好で外に出た。

今日も素晴らしい天気であった。

三万円もする高級雨合羽を買ったが、まだ一度も使っていない。

首にかけたタオルで汗を拭きつつ知恩院の坂を登った。

坂の途中に青蓮院がある。

門前に見事な大楠があり、その構えから味のある寺だという事は分かったが、拝観料をケチって先を急いだ。

この隣が知恩院である。

知恩院は有名な法然上人の弟子達が報恩の意味を込めて建てたもので、浄土宗の総本山である。

「知恩院からは京都を一望できます」

お喋りな通行人から、このような情報も得た。

六百円を払い、朝一番の京都(祇園)を見下ろした。

高台という事もあり、涼やかな風が湿った肌に心地よい。

ゆるりと境内を観光した。

その後、三門前の見晴らしの良い石段に座り、今日の予定を練った。

地図の先に京都の街が見え、横を修学旅行客やツアー客が通ってゆく。

(孤独だ…)

そう思った。

静かな場所での孤独と、雑踏の中の孤独では、その孤独感が全く違う。

前章で、

「趣味の旅は気の合う者と行くか一人旅が良い」

そう書いたが、

(やはり、一人旅は寂しい…)

雑踏の中にいると、つい、そう思ってしまう。

(まずは二条城へ行こう! それからだ!)

孤独感を打ち払うべく、元気に立ち上がった。

小さな盆地に広がる京都という街は、狭いくせに一日や二日では回りきれない。

昨日、歩いて通った伏見辺りにも行きたいところ(酒蔵など)はあり、北の山中も魅力的なところ(鞍馬近辺)はあったが割愛せねばならなかった。

(よしよし、二条城を観光した後、荷物を宿に置き、それから嵐山へ行こう)

俺の特質として、決めた後の行動は極めて早い。

十分後にはユースホテルで荷物を受け取り、その足で地下鉄に乗った。

四駅で二条城前に着いた。

地上に出ると、そこは二条城の堀前で、人の流れにのっていくと嫌でも二条城入口に着ける。

二条城は徳川家康が建てたもので、江戸幕府の京都出張所である。

歴史好きなら誰もが何百回も耳にする城で、豊臣秀頼と家康が謁見したのも二条城、慶喜が大政奉還を発表したのも二条城。

日本史に深く深く関わってきた城である。

恒例の六百円を惜しみなく払い、駆け足で城内へ突入した。

まず最初に登場する絢爛豪華な門構えが徳川家の反映ぶりを見事に現していた。

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何となく、飾り付けが日光東照宮に似ているような気がしたが、それが徳川家風なのであろう。

よく分からぬが、そんな気がした。

建物(二の丸御殿)の中へ入ると、そこは歴史が凝縮された空間であった。

音声ガイダンスを聞きながら、ゆっくりゆっくり、ツアー客の三倍以上の時間をかけて見て回った。

大政奉還発表の場所などは、そこから近代文明が始まったのかと思うと、ただの広大な部屋が何やら重みを増し、

「ありがたや、ありがたや…」

つい手を合わせてしまう神々しさを持っていた。

庭も含めて全てを回ると、たっぷり一時間半かかった。

ツアー客に、

「どれくらいの時間で回るんですか?」

問うたところ、

「三十分くらいやろ…」

という話だったから、どうも俺はツアーに向かないようだ。

とりあえず、重い荷物が邪魔でしょうがなかったので、二条城を出るとバスに乗り、まずは今日の宿へ向かった。

宿は盆地北部の山際、宇田野という場所にあるユースホテルで、世界遺産・仁和寺のそばである。

ちなみに二条城も世界遺産で、京都地図をパラリと見、名が知れ渡っているものはほとんど世界遺産の指定を受けている。

荷物を預け、身軽になり、歩いて太秦方面へ下った。

歩いていると嵐山行きのバスが俺を追い越していったので、それを走って追い越し、次のバス停で飛び乗った。

京都のバス停の間隔は、都会だけに極めて狭い。

道は狭くて混んでるし、

(走ったほうが速いのでは?)

そう思われるが、乗り放題のチケットを買ったので、なるべく乗るようにした。

嵐山は実にエレガントな観光地であった。

世界遺産・天龍寺の前に観光スポットがドーンと広がっているのであるが、どこもかしこもエレガント。

この辺りで昼飯を食べようと思っていたのであるが、甘味処ばかりで、それが馬鹿みたいに高く、汁粉一杯千円というところがあった。

つい、

(どういうものが出てくるのか?)

人が注文するのを見ていると、小さな椀にちょびっと注がれた汁粉に抹茶が一杯付いているだけであった。

庶民の味方であるはずの定食屋も馬鹿高く、

「昼のご膳三千円〜」

その看板が多く見られたし、一人でそういった店に入る勇気もなかった。

とりあえず、雰囲気だけでも味わおうと嵐山を背に受けて桂川沿いを歩いた。

ボートと人力車の客引きが、孤独な俺にも容赦なく声を掛けてきた。

「ボート乗りません?」

「人力車どうです?」

一人でボートや人力車に乗れというのか、それとも一緒に乗ってくれるというのか。

「一人で乗れって?」

聞いてみると、

「いい思い出になりますよ」

返しがこれであった。

確かに思い出にはなろう。

ただ、それは「後に泣ける思い出」となるに違いない。

その時の事を思い出しながら、俺はこう言うだろう。

「妻や娘の虚像を抱いて乗りました」

馬鹿げている。

実に馬鹿げている。

客引きの声を背に受けながら、俺はうつらうつらと渡月橋を渡るのであった。

さて…。

嵐山を後にした俺は、バスに乗り壬生へ向かった。

言わずと知れた新撰組の本拠地・壬生寺があるところであるが、まずは昼飯を食わねばならなかった。

大通り沿いの「京都風和食」と書かれた安っぽい定食屋に入り、地元の人とビールなどを飲み交わしつつ最も安価な「京都風和食ランチ」に舌鼓を打った。

「どの辺が京都風なんですか?」

問うたところ、

「京都で食べる、京都の醤油が使ってある、煮物が入ってる、それが京都風やわぁ」

店主の回答はこうであったが、常連客が、

「キッコーマンの醤油は京都とちゃうやろ」

奥に見える醤油を指差したのは笑えた。

味は普通に美味かった。

雰囲気も俺向きで、なかなかベストチョイスだったと思う。

ちなみに、これは常連客から聞いた話であるが、大河ドラマ「新撰組」のおかげで壬生周辺は凄い数の観光客が流れ込んでいるらしい。

それを、「ここだけの話」と前置きし、

「アホやと思うわ」

酔った常連客はそのように言った。

壬生寺は小さい寺で無料なのであるが、この大河ドラマと合わせ、有料の別館をつくったらしい。

「中には何があると思う? 小さな墓石みたいなのがあるだけや。墓石見せて金取る方も凄いけど、払う方も凄いわ」

「観光客に地元のもんがそういう事を言っちゃいかんよ」

「でもなぁ、八木さんとこも凄いで。入場料千円やて」

「そら、ちょっと高いわなぁ」

京都の人では珍しく本音爆発の人で、こちらとしては非常にありがたかった。

ちなみに、前の墓石というのは壬生塚と呼ばれている新撰組隊士の墓で、後の八木さんというのは新撰組が最初に宿所としていた八木家の事である。

観光客がたくさん来て金を落としてくれるのはありがたいが、土日は道路が通行止めになるし、ゴミは馬鹿みたいに出るし、家の外壁も荒らされるし、

「裏手に回ると大変な事が色々とあるんや」

その事を常連客は大いに語ってくれた。

とりあえず、八木家と壬生寺には行かねばと思っていたのであるが、常連客の話を聞き、八木家は外から見るだけにとどめた。

それにしても、この辺りは伏見と同じように裏通りの細い路地を歩くだけで楽しい。

どんな細い路地でも必ず名が付いており、それが聞いた事のある名で、そこをゆく志士の像が鮮明に浮かんでくる。

壬生寺で参り、有料の壬生塚を見た後、その足で裏通りを縦横無尽に歩き回った。

京料理は煮物が付きものだと京都風料理屋の店主が言っていたが、道にも風景にも煮汁のような何ともいえぬ味があるのかもしれない。

歩けば歩くほど、その味が胸の奥深くに沁み渡ってきた。

西へ西へと歩き、鴨川まで歩いた。

それからバスに乗り、京都御所へ向かった。

御所の周辺は広大な公園となっている。

綺麗に整備された砂利道をゆるりとした足取りで歩いた。

御所の警備員であろうか、警察っぽい男達が徒歩や車で巡回しており、俺の事をチラチラ見てゆく。

怪しまれて取調べを受けるのも乙な思い出だと思い、腰をフリフリ歩いたのであるが連行してはくれなかった。

蛤御門で幕末を感じ、それから御所の外壁沿いを歩いた。

京都御所は公園の部分も含め長方形をしているのであるが、その縦方向は地下鉄一駅分にあたる。

けっこう長く、ジグザグで歩いたら一時間近くかかった。

北の方から御所を出、西へゆくと鴨川の分岐点である。

賀茂川と高野川に分かれる。

二つの川に挟まれた世界遺産の神社・下鴨神社を外から眺め、それから賀茂川のほとりを歩いた。

賀茂川については色々な人が歌っている。

それらの歌を口ずさみながら、携帯電話で道子にメールを送った。

「今、賀茂川のほとりを歩いている。ちょっと寂しくもあり、楽しくもある」

事実であり、本音であった。

賀茂川は「賀茂の流れ」と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。(歌のせいで)

綺麗な川で、歩道が完璧に整備されているものだから歩きやすかった。

ちょうど夕暮れ時という事もあり、たそがれるには最高のシチュエーションでもあった。

一句詠んだ。

「寂しがり、酒と旅には、友求む」

季語が入っていないが納得の句で、なかなかの出来だった。

賀茂の流れを二キロばかり上ったところでバスに乗り、金閣寺の手前で乗り換えたが、金閣寺は五時を回っているという事で静まり返っていた。

中学時代に修学旅行で立ち寄った事があるので別に悔しくはなかったし、そう興味があるわけでもなかった。

世界遺産の竜安寺、仁和寺をバスの窓から眺めつつ、ゆっくりと宇田野の宿へ帰った。

章題通り、この日は「ゆるりの一日」だったと思う。

だが、冒頭で書いた、

「今日は歩かんでいい」

これは違うかたちとなってしまった。

なぜか?

それは分からぬが、俺という人間が歩く事に喜びを感じるような性質になってしまったのかもしれない。

ただ、この日を終えての感想であるが、

「京都は歩いてこそ良さが分かる」

間違いない。

 

 

9-2、宇多野の夜

 

その晩のユースホテルには日本人がいた。

半分くらい日本人だったと思う。

東山ユースホテルと同じように、部屋は二段ベットの八人部屋であったが、四人が日本人で、残り四人は中国人とヨーロッパ人であった。

観光を終え、荷物を受け取り部屋に案内されたのが午後七時前。

それから風呂に入り、夕食を食うと午後八時が過ぎた。

(京都の居酒屋に一度は行きたい…)

そう思っていたので、夕食時には缶ビールしか飲まず、いそいそとホテルを飛び出した。

誰か一緒に行きそうな人がいたら誘ってみようと思っていたのであるが、話し掛け、気持ち良く応えてくれるのは外国人ばかりで、日本人はどうも反応が悪い。

そもそもユースホテルに泊まっている旅人というのは貧乏で、宿泊費と同額近い金を払って居酒屋へ行く者は、まずいないだろう。

(カウンターで飲むか…)

現地で飲み相手を調達する事に決め、近くの居酒屋に足を運んだ。

近いと思っていた居酒屋であったが、歩くと二十分もかかった。

風呂あがりの体が汗で湿った。

バスの中からチェックしていた居酒屋は小さな小さな店構えで、いかにも地元の人しか来ないという感じの店であった。

ただ、ちょっとだけ高級そうな匂いがしており、その点だけは要注意であった。

が…、銀行から下ろしたばかりで懐は暖かい。

また、明日は就職試験の二次面接で、その時に足代として二万円以上が浮くはずであった。

(最後の帳尻さえ合えば良い…)

という事で、恐れる事なく暖簾をくぐった。

俺を出迎えてくれた女将は着物であった。

年増の女二人でやっている店らしく、店内にはカウンターの他にテーブルが二つある。

テーブルは既に埋まっており、カウンターの端っこに通された。

客の顔を見ていると、どの顔も金持ち風の顔で、立派な耳たぶをしており、庶民っぽさがない。

それに付け出しに湯葉が出てきた事も何となく怪しい。

(この店、まさか金持ち専用か…?)

少しばかり懐が不安に思われ、ビールを頼んだ後、すぐさまメニューをチェックした。

値段が書いてあるものもあったが、「時価」と表示されたものがほとんどであった。

とりあえず、生ビールの値段が一般的な値段だったので、

(普通の居酒屋だと思い、しこたま飲む事にしよう…)

そういう風に決め、

「女将さん、適当に京都っぽいものを出して」

カウンター客らしい小粋な注文をした。

隣には見るからに地元客って感じの中年男性がいる。

当然、話し掛けた。

中年男性は予想通り地元の人で、週三日はこの店に通っているのだという。

「あんた、いい店に入られたなぁ」

「居酒屋を選ぶ目にかけては自信がありますから」

「むふふふ…」

「ふふふふ…」

はしゃがぬように気を付けねばならない。

目の前にいる中年は絶対に育ちがいい。

はしゃげばこの高貴な中年から「庶民」の烙印を押され、相手にされなくなるに違いない。

何やら、そういう雰囲気が漂っていた。

出された冷たい煮物を食いながら、京都の事を聞いてみた。

中年は淡々とした口調で京都という街の説明を始めた。

まず、「伏見は京都じゃない、あれは秀吉が作った大阪風の城下町だ」と言う。

なるほど、前に書いたが、歩いていて道頓堀のような雰囲気を感じた。

また、北は金閣寺、西は嵐山、東は銀閣寺、南は十条までが京都で、他は「京都郊外」だとも言う。

「狭いっすね」

「狭い広いの話じゃなく、それが昔からの京都や」

京都市というのは京都というものを知らん人間が勝手に線を引いたもので、歴史は何も変わっていない、京都の線引も変わっていない、昔から京都はそこにある。

自信満々にそう語られた。

京都における「歴史の粘度」を、この中年から感じずにはいられない。

「一歩もひかぬ」という姿勢が話しぶりに滲み出ていた。

ちなみに、この居酒屋のある場所(宇多野近辺)は高級住宅街という話で、そう言われると立派な一戸建てが多い。

地元の人ならではの話であった。

また、「京都人から見た大阪人」という話も実におもしろかった。

「昔から堺と京の人間は馬が合わん、水と油や」

公家文化と商人文化では確かに合うはずもなく、中年男性は大いに気炎を吐いてくれた。

中年男性は歴史上の人物で秀吉が最も嫌いらしく、

「秀吉がわざわざ京から近いところ(大阪の事)に城をつくったのは京に対する嫌がらせや! しまいには伏見まで上ってきたもんやから、今でも根強く(秀吉が)近くにおる!」

大阪が嫌いなだけでなく、大阪の歴史と文化、大阪によって培われたもの全てが嫌いらしい。

なんと、たこ焼きを食った事がないのだとも言う。

が…、その大阪の影響力、底知れぬ力だけは認めていて、

「認めているからこそ、たまらなく嫌なんや…」

らしい。

中年の大阪に対する「嫌いだ」という話は永延と続いた。

あまりにも永く続くので、つい、秀吉に対するフォローを入れてしまった。

「生い立ちの悲しい秀吉が、なるだけ公家に近寄ろうとした姿が歴史に見えますよ。伏見に城をつくり、伏見で死んでる。京都に近付こうとした秀吉の一生を京都人は誇りに思うべきじゃないですか?」

中年はしばし考え、そして、何やら思うところがあったのだろう。

「うん、うん」と頷きながら続けて喋り始めた。

「そういやそうやなぁ。結局、秀吉は京都に来たかったんやろうけど入れんで一生を終えよる。それに比べ…」

中年が言おうとしている事が俺にも分かった。

「家康は静かなくせに図太いですね。京都のど真ん中・二条城にドンですもんねぇ」

「そうや、そうや、人間なんてそんなもんや。豪快な人間が図太いわけやない」

「歴史に人間模様が滲み出てますねぇ」

「人間がつくった歴史やからなぁ」

何となく、いい酒であった。

中年男性の論は「日本は京都がつくってきた」という風に片寄りがちではあったが、とにかく最後は、

「京の人間は井の中の蛙かもしれん。しかしな、歴史っちゅうのは重んじらなあかん。今の世の中は歴史を軽ぅみすぎや。京の人間(自分の事を言っている)は、これからも歴史を重く見つめて行くで。ちょっとは他を許しながら。な…、それでええやろ?」

そのような事を言うようになっていたし、そうやって論の角を酒で丸くしていくのも、こういった場の醍醐味であろう。

「都会に昔の日本人がたっぷりといる、それが現在の京都という街ですかね?」

「そうや、京都の珍しいところは都会なのに田舎者が多いっちゅう事、だから大阪や東京の人間とは馬が合わん」

「ま、京都の人といっても、それぞれでしょうけどね」

「確かに、自分はちょっと特殊かも」

中年男性はそう言っていたが、この翌日、京都三条で会った京都人も同じようなタイプであった。

特殊なのではなく、それが大半なのかもしれない。

ちなみに、ここで言っている「田舎者」は、住んでいる場所云々というよりは、

「田舎に住んでいる者に多いタイプ」

その事を言っている。

地元意識が強く、古いものを大いに引き摺り、改めるという事を極度に嫌う。

それでいて家というものを何よりも重視し、他人の目を絶えず気にして生きてゆく。

が…、あたたかい。

「土地」と「人間」と「歴史」を三柱とするプライド高き種族、それが田舎者の最もたるものではなかろうか。

これには異論反論あろうが、とりあえず、この席はこういう定義で飲み進めていった。

居酒屋を出たのは午前様になる直前だったと思う。

明日は本来なら歩く日であったが、就職試験が入ったため、観光の日へ変更となっている。

早く寝る必要はなかった。

帰り際、

「京都へ来る事があったら連絡して」

と、名刺を貰ったのであるが、どこかの会社の取締役と書いてあったので、

「旅の出会いってのは一度っきりだからいいんですよ。もう一度、どこかで偶然出会ったら、今度こそ教えて下さい」

そう言って突き返した。

今思えば返す必要はなかったろうに、こういう点、熊本県民の気質であろうか。

熊本県民が殿様根性なのは有名な話で、

(何! 取締役だと! くっそー! 無職の俺にこういう名刺を渡すんじゃねー! 何様のつもりだ、こんちくしょー!)

深いところで、

(俺とあんたは対等だ!)

馬鹿殿はそう思っていたのかもしれない。

歴史は、あらゆる場所で息づいている。

京都人の言う通り、軽んじず、それを見つめ、そして見直すべきなのであろう。

さて…。

それからであるが、ここは住宅街で二軒目にゆくところがない。

また、眠くもあった。

早寝早起きが身に沁み込んでおり、午前様という時計を見た時点で、

「立ってられんばーい」

そんな感じになってしまった。

真っ直ぐ宿へ帰り、ベットへ直行した。

眠かった。

すぐに寝たかった。

が…、

「あなたは日本人ですよね。私も日本人です」

ベットを覗き込んできた怪しげな男が俺を寝かせてくれなかった。

丸坊主に眼鏡、体はガリガリで、ちょっとガンジーっぽい男の登場であった。

「神というものに興味があります?」

「ないです」

「それはよろしくない。私は神に仕えるもので…」

男は仏教ではないキリスト教寄りの、よく分からない宗教の信者で、何かを一生懸命に説明し始めた。

聞かないのも悪いと思ったので、

「はい、はい」

相槌を打っていると、なんと一時間も話をされ、最後には、

「困った事や悩み事があったら連絡して」

と、名刺まで渡されてしまった。

受け取るつもりはなかったが、眠くて眠くて、つい受け取ってしまった。

三時間以上も話し込んだ中年男性の名刺を受け取らず、眠りながら話を聞いた宗教男の名刺を貰う、馬鹿な話である。

おまけにその名刺、枕元に置いて宿を出ようとしたのであるが、

「おーい、忘れ物ですよー!」

なんと宗教男は俺を追っかけて来、

「大事なものを忘れちゃ駄目ですよ。本当に連絡してくださいね」

俺の手を握り締め、

「絶対ですよ」

念まで押してきたではないか。

ユースホテルというところは色々と良い出会いもあるが、

(こういう出会いもあるから困る…)

まさに、その事であった。

ちなみに、頂いた名刺は静岡県富士市の韓国スナックで、

「メイシ、チョウダイ」

ねだる韓国人の手に渡った。

その後、どういう経路を辿ったかは俺の知るところではない。

十日目の朝は雨である。

 

 

10-1、雨の京都と就職試験

 

小雨ではあるが、切れ間なく降り続いている。

本来ならば、この雨を全身に受けながら比叡山を越え、琵琶湖大橋を渡り、本日の宿泊場所・近江八幡に向かっているはずであった。

が…、この日の夕方から京都で就職試験の二次面接がある。

途中まで歩き、そこから引き返すのも馬鹿らしかったので、この日も京都を観光する事にした。

道子が埼玉から送ってきたスーツ一式は既に宇多野のユースホテルに到着している。

就職斡旋会社からも「前日の確認」というかたちで、

「スーツは手元にあります? 髪はボサボサじゃないですか?」

そういう電話があっている。

大阪の伯母からも、

「ちゃんと髪くらいは切っていきなさいよ!」

わざわざ電話があった。

今の俺、よほどボサボサなのであろう。

そう言われれば、髪はここ三ヶ月切っておらず、伸び放題といえば伸び放題。

ここらで切るのが適当かもしれない。

(よしよし、切る事にするか…)

そういう流れで、京都観光のついでに床屋へ立ち寄る事にした。

行先を決めてはいなかったが、宇多野のホテル前からバスに乗り、三条大橋付近へ出た。

hiroshige0.jpg (22938 バイト)

三条大橋は街道の基点であり、その周辺は歴史のメッカである。

「十歩あるけば歴史にあたる」

そんな感じで、三条大橋を渡ると池田屋の跡地(現在はパチンコ屋)があり、右へゆくと大村益次郎や佐久間象山が暗殺された場所、それを左に曲がるとホテルオークラがあって、そこは長州藩の藩邸があった場所、ちょいと戻ってみると信長が焼き討ちされた本能寺、もうちょっと下ると竜馬が暗殺された場所や土佐藩邸がある。

俺の手元の観光マップによると、これら全てを見て歩いたとしても二キロにしかならない。

当然、全てを見て歩いた。

この辺り、古いものと新しいものが入り乱れていて、何となく不思議な感じがした。

ベースは繁華街で、その中に先ほど述べた歴史の産物が点在している。

土佐藩邸跡を見ていたら、その横から風俗のキャッチがぬっと現れ、

「寄ってかない?」

声を掛けてきたり、ビルの谷間に有名な寺が隠れていたり…。

何となく珍しい景色であった。

その中の長州藩邸跡のすぐそば、人通りの少ない裏通りに老舗の床屋を発見した。

ちょいと覗いてみると、本棚に歴史の本がズラリと並べてあり、なかなか話し応えのありそうな床屋である。

床屋に技術を求めない俺は、話術を求める。

喋らない技術屋肌の床屋なんて俺に言わせればナンセンスで、切り終わった後、喋りすぎて疲労感を覚えるくらいがちょうどいい。

「ここなら…」

という事で、客のいない床屋へ入った。

「あらあら、そうですかいな、熊本から来られたんですか」

床屋のオヤジは実に陽気な人で、俺の想像した通り、歴史好きであった。

ただ、京都以外の地理には疎いらしく、

「うちの親戚が都城に住んでますんや。お客さんと同じ熊本だから喋り方が一緒やわぁ」

都城を熊本と言い切ったのも凄いが、宮崎弁と熊本弁が一緒と言い切ったのも凄い。

たぶん、このオヤジ、その親族と会った事がないか、超適当な性格なのであろう。

突っ込みもせず、ふんふんと頷きながら話を聞いた。

オヤジの手は、よく止まった。

「京都っちゅうところはな…」

話すたびに手が止まり、本業の「髪を切る」という作業は投げ出された。

一発目のハサミが入るまでに十五分を要した。

オヤジの話は前章で書いた中年男性の話と大して変わりはしなかった。

ただ、その「言い方」が金持ち男性の十倍はきつかったように思う。

このオヤジ、頻繁に「ゲス」という言葉を使った。

漢字で書くと「下種」「下衆」、つまりは身分や素姓が卑しい、品性が下劣という意味であるが、確かに京都の人間が愛しそうな罵り言葉ではある。

その言葉を用い、

「あんた、鴨川を見てみなはれ。鴨川ちゅうのは御所から始まって伏見の南まで、桂川と一緒になるところまでやけども、南へゆけばゆくほどゲスになるわぁ。それから先、淀川になったら見てられへん。ムナヤケするわぁ」

その「川の質」が、周辺にすむ「人の質」を表しているのだという。

つまり、何が言いたいのかというと、

「昔から三条に住んでいる自分は、その辺の人とは違うんやで」

それが言いたいらしい。

昨晩の中年もこういった感じではあったが、こちらはその毒舌ぶりが違う。

たぶん、思っていることは一緒なのであろうが、その表現が極めて荒々しい。

更に、京都の歴史をしこたま勉強しているからタチが悪い。

何となく説得力があった。

鎌倉もそうであるが、京都にも山と山の隙間に「口」というものがあって、京都にはそれが七つあるらしい。

それを「京都七口」というらしく、その近辺には昔から敵の押さえとして身分の劣るものを置いていたらしく、現在でも、

「あそこの人間と結婚したらいかん」

そういった田舎臭い流れが残っているのだそうな。

熊本でも田舎の方へゆけば、そういったものが(薄くなりつつあるが)あるにはある。

「あそこは朝鮮部落だ」

古い人たちが言うそれは、清正が朝鮮出兵の際に拉致してきた人々が住んでいた部落らしい。

拉致された上、差別まで受けてはやってられない。

また、山口と福島に至っては、戊辰戦争の流れを引きずって、今だに結婚が認められないという例もあるそうな。

「会津もんはいかんちゃ」

そう言っている山口県民のオッサンに、俺も会った事がある。

歴史は深い。

深いゆえに恐ろしく、中途半端に飲み込んではいけないのであろう。

床屋のオヤジの言葉は前日の中年男性に続き、その事を教えてくれた。

さて…。

床屋にたっぷり二時間いた俺の頭はとんでもない仕上がりを見せている。

夏の強すぎる太陽光線をたっぷり受けていた俺の肌は当然の如く真っ黒になっていたわけであるが、毛の存在する部分は真っ白であった。

その事を知ったのは髪を切ってからである。

つまり…。

襟足のラインに沿って白いラインが見事に引かれ、サイドにも揉上のあった場所に縦一本の白い線、おでこにも横一本の白い線が引かれている。

黒々とした頭部を取り囲むかのように、白いラインの登場であった。

「こ…、これは…」

笑うに笑えなかった。

ただ、床屋のオヤジは、

「大丈夫、すぐに慣れる」

そう言って、ゲラゲラと笑った。

(お前が笑うなよ!)

そう思ったが、気持ち良さそうに無邪気な笑顔を見せていたので何も言えなかった。

「これから就職試験だ」

そう言ったら、床屋はカツラでも貸してくれたであろうか。

よく分からぬが、

「おおきにー」

その元気な声を背に受けつつ、俺は静かに場を去った。

雨はまだ降り続いていた。

時刻は午後二時を回っている。

大通りを歩いていると、ちょうど金閣寺行きのバスが通ったので、それに飛び乗り、ホテルへ帰った。

スーツや荷物はホテルに置いていた。

「すんません、荷物を取らせてください」

フロントで声を掛けると、

「どうしたんですかぁ、その頭はぁ?」

いきなり指摘されてしまった。

そういえば、バスの中でも視線が熱かったように思う。

よほど変なのであろう。

鏡で自分の顔をじぃーっと見つめていると、何となくドラえもんに見えてきた。

スーツに着替えると、そのホワイトラインは更に目立った。

「鉢巻を巻いてるみたいやなぁ」

フロントのおばちゃんの一言が痛かった。

真っ黒な顔の男(日本人で)がスーツを着てるだけでも変なのに、巨大なリュックを背負い、頭部には白い縁取り付き。

まさしく異様であった。

就職試験は京都駅前であった。

とりあえず定刻の一時間前にそこへ行き、腹ごしらえをした。

小粋なレストランで長居ができそうなところを選んだのであるが、店選びは完全に失敗であった。

まず、注文をとりにきた女が、

「ジャパニーズ?」

英語で国籍を問うてきたのが腹立たしかったし、それに、

「イエース!」

英語で応えてしまった自分自身にも腹がたった。

料理の味もまずかった。

何だか空模様と同じで、どんよりとしたものが俺の周りに漂い始めた感じがした。

就職試験は六時開始であった。

「遅れずに十分前には会場へ行って下さいね!」

斡旋会社にそう言われていた俺は、きっちり十分前に会場へ行った。

受付で就職試験に来た旨を伝えると、すぐに年増の女性が俺を迎えに来てくれた。

「旅の途中にすいませんねぇ」

年増の女はそう言いながら俺のおでこを見、すぐに視線を逸らした。

会議室に通された。

そこには既に何人かの受験者がおり、一生懸命に何かを書いていた。

「なんすか、それ?」

メモ紙を覗いてみると、走り書きで自分の生い立ちなどを記している。

年増の女性が「そのメモの意味」を説明してくれた。

面接の最初に三分間スピーチをしてもらう、その話す内容をまとめるメモだと言う。

「どうぞ」

メモを渡されたが、スピーチの内容が、

「現在に至るまでの自分の生い立ちと、うちの会社に入りたい理由」

これだったため、

(別にメモる必要はないや…)

白紙の状態で回収を待った。

面接は六時に開始という話であったが、順番待ちが四人もおり、なんと一時間以上も待たされた。

イライラしたが、リュックに池波正太郎の小説を入れていたのを思い出し、それを読みながら時間を潰した。

メモは面接の順番が来た時に回収された。

「白紙ですね…」

「頭のメモに書きましたから大丈夫です」

我ながらカッコ良過ぎるセリフだと思ったが、

「そうですか」

軽く流されてしまった。

ノックし、姿勢を正し、面接会場に乗り込んだ。

前回の面接官は合格した場合の上司・工場長であったが、今回は人事課と総務課のお偉いさんらしい。

面接官の人数は五人であった。

「三分スピーチからどうぞ」

そう言われたので、頭の中に描いていた話を二分三十秒ほどで話した。

その後、質問タイムに移ったわけだが、人事課と総務課らしく、俺の社会人としての適性を試しているようであった。

嘘をついてもしょうがないので、質問には正直に答えた。

例を挙げると、

「生産技術という仕事は波があるから帰りが遅くなる事があると思う。君は団塊の世代が壊してきた家族のかたちを少しでも正常な状態に戻すのが若い世代の責務だと言っているが、そこに矛盾はないかね?」

「必要な残業なら何時になろうともやります。しかし、不必要な残業は断固としてやるべきでないと考えます」

「必要と不必要はどこで線を引くのかね?」

「納期と責任とダラダラの具合で線を引きます」

「よく分からんね」

「はい、自分もよく分かりませんが、ぼんやりとその三つが重要だと感じましたので…」

「じゃ、次の質問」

そんな感じである。

また、六時開始の面接が七時過ぎになり、これが終わってから近江八幡へ電車で行き、それからバスに乗る事を考えると、

「宿へ着くのが九時過ぎになります」

一時間以上の遅れにクレームをつけると、

「この場でそれを言う必要はなかろう」

必ず一人はいる、俺を嫌いそうな面接官が反撃してきた。

これにはカチンときたので、

「私は十分前に会場へ来てます」

凛とした姿勢で返したのであるが、場がシーンとしたのはまいった。

他の面接官が、

「いやいや、それはこちらが悪い、すまんねぇ」

見事な貫禄で仲裁してくれ、

「いや、こちらこそすいません、いらん事を言いました」

そういう感じで場が収束した。

「失礼しました」

頭を下げ、部屋を出た後、

(落ちたな…)

そう思った。

そもそも一次面接を通り、

「二次三次で落ちる人間は稀だから、ほぼ受かったものと思ってて」

面接官からそう言われ、実際、この二次面接の途中にも、

「工場の方は急いで君を採りたい言っているから二次面接を急いだ。すまんねぇ」

そのような言葉も飛び出していたし、

「君、凄い顔になってるね」

「ドラえもんっぽいでしょ」

「あはははー! 笑っちゃいかんだろうけど笑えるねぇ!」

体を張って笑いもとった。

普通にしていれば余裕で合格のはずであった。

(なのに! 俺は何をやってるんだ!)

ちょっと自己嫌悪に陥った。

一時間以上も待っていた会議室に戻ると電気は消えていた。

俺が最後の面接者だったようで、年増の女性と二人っきりになり、交通費三万円弱を受け取った。

「ま、いいか! 時間は損したけど、金は損してないんだし!」

強引な理屈で自分を慰め、会社を後にした。

時刻は午後八時近くになっていた。

目の前にある運送屋に立ち寄り、その便所でスーツを脱ぎ、

「脱ぎたてですが送ってください」

今まで書いてきた地図日記なども含め、荷物を託した。

京都駅までは徒歩で数分。

その間に、

「受かるかもしれん、落ちるかもしれん」

道子に、そのようなメールを送った。

電車の乗り継ぎは実にスムーズであった。

ホームに下りた瞬間、狙いの電車が来、それに飛び乗った。

近江八幡駅までは東海道線の快速で三十分強。

あっという間に近江八幡駅に着いた。

電車で三十分、たったそれだけの距離を丸一日かけて歩くのだから、

「徒歩の旅が、いかに贅沢な旅か」

その事であろう。

それに、運賃はたったの六百五十円。

そんなもの、歩けば水代にしかならない。

「幸せだなぁ…」

何もかもが高速化する世の中、「遅い」というところに喜びを見出せた事も、この旅行で得た貴重な経験の一つかもしれない。

ちなみに遅いといえば、この日の宿泊場所・近江八幡ユースホテルへゆくバスを一時間も待った。

一時間に一本しかないのだからしょうがないのであるが、さすがに待ち疲れた。

どこか飯でも食うところがあれば入ろうと思ったが、マクドナルドしかなく、結局、そこで夕食を摂った。

バスは街中を抜け、琵琶湖の方へ向かっていった。

街中を抜けた瞬間、車窓は黒一色になった。

バスには俺しか乗っていない。

(どこへ連れて行かれるのか?)

ちょっと怖くなった。

風の音だけが響く、静かな静かな闇が辺りを飲み込んでいた。

ユースホテル前でバスを降り、看板通りに進むと、昔の近江地方の建物だという古い二階建てが現れた。

それがユースホテルであった。

時刻は十時前、既に俺の寝る時間を迎えていた。

「遅かったですねぇ」

「色々ありまして」

管理人に案内され、風呂に入り、食堂へゆくと、六人の男性が酒を飲んでいる最中であった。

「一緒にいいですか?」

「どうぞ、どうぞ」

旅の醍醐味は色々とある。

色々とあるが、

「出会い」

やはりそれが最もたるものであろう。

今夜もそこに、新たな出会いがあった。

 

 

10-2、忍者を愛する男達

 

その晩…。

六人の男と食堂で酒を飲んだ。

六人は職場の同僚で、年三回、テーマを決めて旅行をしているらしく、今回はその二回目だそうな。

「どこから来られたのですか?」

聞いてみると、横浜かららしい。

「旅行のテーマは何なんですか?」

「忍者です」

一人の男が胸を張ってそう答えた。

「忍者、ですか…」

「そうです。今日は伊賀と甲賀を回ってきました」

六人は午前四時に車で横浜を出、伊賀、甲賀と忍者の里を回り、ここ近江八幡の宿に辿り着いたのだそうな。

「それは凄い距離を走られましたね」

「はい。辛かったです。おたくは?」

「自分は熊本からです」

「何で来られたのですか?」

これまでの経緯を説明し、

「恥ずかしながら今日は京都から電車です」

その事を言うと、

「男って感じがしますよー」

「かっこいいなぁー」

「忍者ですね、まるで」

しこたま褒められてしまった。

「そぎゃん褒められると、ビールでも奢らにゃいかんごつなるじゃなかですか」

「は?」

「いや、ビールば奢らにゃいかんごつなるて…」

「は?」

興奮してしまうと意思の疎通がうまくいかなくなったが、とりあえず会話は大いに弾んだ。

この人の良い六人、横浜ではデザインの仕事をしているらしい。

何のデザインかは忘れたが、もらった名刺によると、

「クリエイティブ・オフィス」

会社名の次に小さな字でそう書いてあり、彼らの肩書は「アートディレクター」になっている。

「何だか、かっこいいっすねぇ」

「そんな事ないよー」

「ディレクターって響きがクリエイティブって感じしますよー」

「やめてよー! それより、あんたのやってる事の方が壮大でかっこいいよー!」

「うわー! また俺にビールば奢らせようとしよるでしょー!」

「俺より若いもんに奢ってもらう気はないよー! ほら、これ、つまみに食べて、手裏剣せんべい」

「ば! ぎゃんた初めて見たですよー!」

「は?」

一部、噛み合わぬところもあったが、ホテルで決められている就寝時刻まで永延と話は続いた。

途中、六十代後半だという旅の老人もこれに加わってきた。

この老人、生まれも育ちも鈴鹿の山中という事で、忍者の里近くで育ったらしく、六人が手裏剣の投げ方を披露しようとすると、

「知ってるぞ」

と、自信満々に色々な投げ方を説明してくれた。(手裏剣せんべいを用いて)

ちなみに、これは老人から聞いて知った事であるが、伊賀と甲賀は今でも仲が良くないらしい。

忍者ものの小説で仲が悪いという設定の話は何度も読んだ事があるが、実際に悪いとなるとちょっと興味がある。

しばし老人の話に耳を傾けてみた。

まず、伊賀と甲賀は三重県と滋賀県の県境に位置するのであるが、ここに県境があるのは二つの場所が同じ県になるのを嫌がった事が原因らしい。

また、忍者といっても甲賀と伊賀の文化は全く違うらしく、武器も違えば服も違う、言葉も顔のつくりも違うそうな。

老人は言う。

「伊賀者と甲賀者、わしゃ今でもハッキリ見分けがつく」

武器や服が違うというのは何となく分かるが、言葉や顔が違い、現在でも伊賀者か甲賀者か判別できるというのは怪しい。

そもそも「忍者です」と言っているような忍者は、忍者といえないのではなかろうか。

それに、この老人の怪しさは呂律が回っていないところにある。

どれだけ飲んだのかは知らぬが、足腰が立たぬほどに酔っている。

それでいて全身をフルに使って忍術の説明などをするものだから、見ている方がたまらない。

「危ない、危ない、肩貸しますよ」

「すまんのぉ」

人の肩を借りながら、

「わしは忍者の末裔だ!」

そんな事を言われても説得力がない。

結局、老人は登場して一時間で寝室へ消えていった。(俺達が担いでいったのだが)

さて…。

しこたま酒を補給した俺が寝室へ入ったのは日を跨いだ頃であった。

「あんたが横浜を通る時、また飲もう」

そう言われ、六人からもらった名刺が枕元に重ねられていた。

隣には先ほど酔い潰れた老人が寝ていたが、絶対に起きる事はないと思われた。

電気を点けて地図日記を書いた。

老人の寝息だけが聞こえる静かな静かな夜で、他の音は何一つ聞こえなかった。

外を見てみると、歪みのあるガラス越しに明るい月が見えた。

昼に雨が降ったので空気が澄んでいるのかもしれない。

素晴らしい月であった。

電気を消し、月明かりで地図日記を書いた。

この建物は近江商人の古い家をリフォームしてあるのだそうな。

二階にも縁側があるつくりで、そこに月明かりが深々と突き刺さっていた。

電気を消すとちょっと暗過ぎたのでそこへ移動し、板張りに寝転がりながらペンを走らせた。

冷たい板張りが心地よかった。

と…。

「ギャー!」

不意に、女性の叫び声が聞こえた。

ビクリとした俺、急ぎ布団へ戻り、縁側との仕切りである襖を閉めた。(別に逃げる必要はなかったのだが)

(なんだ? どうしたんだ?)

布団をかぶって様子を窺っていると、数人の足音が縁側へ近付いてきた。

「何もいないじゃなーい」

女性の声であった。

「確かにいたのー」

「何かを見間違ったんじゃない?」

「そんなわけないよー」

「どんなのがいたの?」

「大きくて、白くて、丸い動物」

「何かしら?」

「ブタかしら?」

「分からないよー、分からないけど確かにいたのー」

俺はこの会話を歯軋りして聞いている。

「ブタでーす!」

そう言って、この襖を開けて登場してやろうかとも思った。

襖一枚隔てた縁側にいる集団は、先ほど食堂で会った若いギャルの集団に間違いない。

(お前達、みんなムチムチしてたくせにー!)

不思議なくらい痩せ気味がいなかった集団に「ブタ」と呼ばれた俺の怒りはどこへ持っていけばいいのか。

しまいには幽霊扱いされてもいる。

「古い建物だから、何かの亡霊かもしれないよー」

「やめてよー」

色々なものへと変貌を遂げる俺の残像、最後は何になったのか、それは分からぬが、彼女達の思い出に花を添えた事は間違いない。

静かな静かな近江の晩、

「ブタかしら?」

その言葉だけが何度も何度も俺の中で反芻されるのであった。

ちなみに…。

徒歩旅行十日目だが、全く痩せていない俺の体。

ある意味、それも凄い。

 

 

11-1、近江路をゆく

 

この日…。

いやに目覚めが良かった。

午前六時に布団を飛び出し、テキパキと準備を終え、午前七時には宿を出た。

管理人以外、誰とも会わなかった。

宿を出ると、薄い霧がかかっており、昨日は暗くて分からなかったが、霧の先に湖が見えた。

が…、地図によると琵琶湖ではないようだ。

琵琶湖に繋がる水路、その広くなった部分のようである。

道には「水郷・近江八幡」と書かれた看板が幾つもあり、水路を走る観光船の乗り場が幾つもあった。

水路は田んぼの中を走り、街中にもいっている。

八幡山を取り囲むように走る水路は「八幡掘」と呼ばれるもので、昔はお城の堀だったそうな。

さすが水郷と呼ばれるだけはある。

日は照っていなかった。

昨日の余波か、ギンギラギンの太陽は厚い雲に遮られており、琵琶湖からの冷たい風が吹き込んできている。

(歩くには最高の日やねぇ…)

その事であった。

三キロばかり南に下ると、近江商人の街並が残っている八幡山の麓に着いた。

ここは豊臣秀次が興した街で、縦十二筋、横四筋、碁盤目の城下町が造成の最初らしく、現在も大して変わっていない。

京都観光の時と同様、ほとんど裏通りを歩き、幾つかの神社で旅の安全と道子の安産を祈った。

はっきり言って、街並に惹かれるものは何もなかった。

京都の裏通りの方が数倍良かった。

が…、特異な点が一つだけあった。

瓦である。

どこの家の瓦も厚くて立派なのである。

熊本の瓦の三倍近い厚味があるのではなかろうか。

(近江地区って、瓦が名物だっけ?)

そう思っていると、瓦ミュージアムなるものが現れた。

看板を読んでみると「八幡瓦」というらしく、この辺の名物らしい。

また、信楽焼の狸を玄関に置いているところが多い。

沖縄の魔よけがシーサーなら、こちらは狸という感じなのであろうが、一戸建てのほとんどに鎮座しているのでビックリした。

さて…。

北から南へ、商人の街を抜けた俺、今度は県道を東へ進んだ。

近江八幡市から安土町に入る。

幾つも幾つも水路を横切りながら田んぼの中の道を歩いた。

車は少なく、風は強く、日差しは弱い。

歩くには最高だったが、どうも近江っぽさに欠けるような気がした。

(近江っぽさとは何か…?)

それは俺もよく分からぬが、例えば先ほどメンタームで有名な近江兄弟社の前を通った時、その社員の目がどこか血走っており、

(おお! さすがは近江商人! 燃え方が違う!)

単に遅刻して焦っていただけかもしれないが、その時は近江っぽさを感じた。

ていうか、近江といえばの琵琶湖を見ていないのが良くないのかもしれない。

ちょっと遠回りにはなるが、西の湖という琵琶湖に繋がる巨大な湖があるらしいので、安土城に寄る前、そこへ立ち寄る事にした。(琵琶湖はかなり遠い)

ちなみに、

(湖と池の違いは何だろう?)

大小の湖が点在するこの辺りで、ふと、その事を思った。

後手にはなったが、これを書きながら調べてみると、湖は池よりも大きく、中央部は沿岸の植物の侵入を許さない深度(五〜十メートル以上)を持つという事らしい。

また、沼は五メートル以下の湖を指し、底が泥深くなくてはいけないが、厳密な区別はないらしい。

となると、池は五メートル以下の泥深くない湖となるが、辞書には「くぼ地に水がたまったところ、人工的に水をためたところ」とある。

深度と規模、それに泥深さをキーワードに分類すればいいようだ。

さて…。

立ち寄った西の湖であるが、いい湖であった。

昔はこの辺り、葦が生い茂る湿地帯であったらしい。

大阪も東京も昔はそう。

平地の水際には葦が生い茂る広大な湿地帯があったのだ。

現在、大阪や東京ではそれを感じる事はできないが、この西の湖周辺ではそれを感じる事ができた。

この湿原を、埋め立て埋め立て家を建て、電車を引いては空港を作った人間。

(うーん…、逞しい…)

逞しいが、何か浅いような感じを受けないでもない。

考えさせられる景色ではあった。

さて…。

この西の湖の端、小高い山の上に安土城跡がある。

言わずと知れた信長の居城で、我が国最初の天守閣を有する城らしい。

胸躍らせつつ巨大な看板の誘う方向へ進んでみると、まずは大手道と呼ばれる長い直線が現れた。

それはそれは見事なもので、この道の両脇に豊臣秀吉や前田利家の住まいがあったらしい。

「城」というものを何百年も経った現在において見る場合、その「味」とは「当時の流れ、城主の思いが感じ取れる」その事ではなかろうか。

その点、この城はどこか佐賀の名護屋城に似ており、信長の、

「もうちょっとで天下が取れたのにー!」

その悔しさが伝わってきて、たまらないものがある。

ちなみに、名護屋城は朝鮮出兵の拠点となった城で、名城であるが、秀吉が死んだ後、

「やったー! 秀吉が死んだー! 朝鮮攻めも終わりだー!」

各大名のその思いが、その後の名護屋城の捨てられっぷりに現れており、歴史ファンにはたまらない。

名護屋の城下町は一気に寂れ、城は他の大名の部品(石など)取りになったらしい。

この安土城も、それは変わらない。

信長の死後、用無しとなり、彦根城や長浜城の部品取りになっている。

信長により出世し、信長が築いた土台をそっくりそのまま受け取った秀吉が、その信長の象徴である安土城を部品取りにするあたり、何やら人間臭くておもしろい。

きつい傾斜の直線を登りきると、幾つかの曲がり角が現れた。

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味のある曲がり角で、これは俺の所感であるが、石垣というものは直線よりも曲がりの方が美しいと思う。

「たまらん…、たまらんばい…」

古い古い石垣の、古い古い歴史を楽しみながら、ゆっくりゆっくり歩を進めた。

涼しい日ではあったが頂上へ辿り着いた頃には汗だくであった。

誰もいなかったので、裸になって服を搾ると冷たい汗が滴り落ちた。

茶を飲みながら眼下の景色を楽しみつつ、ゆるりと休憩した。

安土城を下り、県道から逸れて東海道本線を渡ると信長に関する資料館などがあった。

「近江風土記の丘」と銘打たれたこの辺りには町民グランドや博物館、文化会館みたいなものが集結していたのであるが、この日は凄い人であった。

ちょうど選挙日で、ここが投票所でもあり、更にはスポーツのイベントもあっていたようで、

(博物館の中も凄い人だろう…)

そう思っていたのであるが、ほぼ貸切状態であった。

中の様子は既に忘れ果てているのであるが、地図日記にこう書いてある。

「博物館は素晴らしいが信長館は最悪」

そういえば信長館には天守閣を模した煌びやかな建物があっただけで、他には何もなかったように思う。

気付けば朝七時出発にも関わらず、昼近い時刻になっていた。

ゆっくりし過ぎた。

少しばかり急がねばならない。

この日は彦根の中心街まで歩かねばならないのだ。

距離にして四十キロ。

まだ十キロ強しか歩いていない。

安土町から能登川町へ北東へ北東へ、「北国街道」と呼ばれる北陸へ繋がる旧街道を歩いた。

能登川は、この北国街道の宿場町である。

県道から一本逸れた旧道に入ると、それはそれは味のある宿場の景色が広がっていた。

やはり、近江八幡と同じで瓦は厚く、玄関先には信楽焼の狸が置いてあった。

どの家も立派で、ちょいと話してみると、その言葉は京都のものに似ていた。

もしかしたら、近江源氏・佐々木氏もいた事だし、

「ウチらはその辺の雑種と違いますえ」

京都人同様、そういった感情があるのかもしれない。

また、この辺りの宿場の特徴は、街中を流れる水路、その美しさにある。

琵琶湖といえば一昔前までは汚染の象徴であったが、現在は復活の象徴で、家庭排水の処理に最も気を使ったそうだが、そういう点がこの水路に現れているのではなかろうか。

よく分からぬが、とにかく綺麗な水路で、透明度の高い水が琵琶湖の方へ流れていた。

能登川町を越えると彦根市である。

この境に愛知(えち)川という大きな流れがあった。

一級河川で川原が広く、子供達が水遊びをしていたので、それに混じって水を浴びた。

水はぬるく、気持ちがいいとは言えなかったが、火照った体が多少は冷えてくれた。

この町の文化を知ろうと横で遊んでいる子供達にも話し掛けた。

が…、話し掛けた瞬間に全力疾走で逃げられた。

中には泣き出す子供もあり、

「黒いのがー! 黒いのが来たー!」

そう叫ばれたのはショックだった。

川面に映った自分の顔を凝視してみた。

確かにラッツアンドスターぽくて、俺でも逃げるだろうと思われた。

ちなみに愛知川を少しばかり上流へゆくと国道八号線があり、その近辺は愛知川町といって、中山道の宿場町である。

俺のコースは北国街道を賎ヶ岳まで下り、そこから旋回して中山道へ合流する。

現在でも米原が交通の要所となっているように、この辺り、街道の要所で、戦が頻繁に行われた事も何となく頷ける。

気を取り直し、彦根市に入った。

この日の宿泊場所はこの彦根市であるが、入ってからが長かった。

昼飯を食う場所を探したのであるが、周囲には田んぼしかなく、水を飲むところもままならない。

自販機を見つけてはカラカラに乾いた喉を潤し、

「腹が減ったよー」

フラフラになって歩いた。

もし、これが暑い日であったなら、俺は衰弱死していただろう。

能登川から、既に二十キロ近く歩いていた。

彦根に入り、ピッチの長い東海道線で既に三駅を数えてもいた。

その三駅目が南彦根駅で、それに近い小さな橋を渡った瞬間、パーッと街が現れた。

何でもいいから食べたかった。

最初に「すき屋」の看板が見えたので、迷う事なくそこへ入り、カレーと牛丼のダブルセットを頼んだ。

時刻は午後四時前である。

遅過ぎる昼食であった。

やっとこさ生きた心地を取り戻し、顔を上げて前を見ると高台に彦根城が見えた。

今日行くか明日行くか迷ったが、飯を食って元気だった事もあり、今日行く事に決めた。

確かな足取りで彦根城の坂を登り、天守閣に登った。

彦根城は国宝である。

日本に国宝の城は三つしかなく、松本、犬山、そして彦根である。

なぜ、この三つが国宝なのか、それは規模やつくりではなく、

「天守閣が焼けずに残っている」

その点に尽きる。

ゆえ、国宝ではあるが、規模は小さい。

日本の三大名城、熊本、名古屋、姫路に比べれば、お話にならない。

が…、さすがに天守閣の中へ入ると、その趣が違う。

(よくぞ戦火を逃れてくれた)

そう思わずにはいられない味がある。

また、赤備えや安政の大獄で有名な井伊家の城だけあって、その展示物もいい。

(ほうほう、これがあの時の…)

そういった展示物が多々ある。

ちなみに、

「どこから見た彦根城が最も美しいか?」

その事をチケット売り場にたずねたところ、楽々園と呼ばれる庭園から見た姿が美しいという話だったので、天守閣に登った後、そちらへ移動した。

楽々園という名前がいい。

期待に胸をふくらませ、彦根城を見ないように庭園へ入り、「せーの」で城を見たが、丘の上にちょこんと見えるだけで、どうも素人の俺には分かり辛く、

「城と庭園の織り成すハーモニーがたまらない」

その受付の言葉が俺にはよく分からなかった。

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とにかく、有意義な時間を過ごした。

彦根城を出、彦根駅前の街中を抜けるかたちでホテルへ向かった。

この日の宿はビジネスホテルで、夜飯は外へ出ねばならない。

横目で幾つかの店をチェックし、頭の中に叩き込んだ。

ホテルへ着くと、まずは風呂へ入るべきであったが、ベットを見た瞬間、横になりたくなった。

十キロを超える重いリュックを床に置くと、そのまま倒れこんだ。

気が張った飲み会の後、家に着いたと同時に酔いが回る、その感じに似ていた。

(疲れた…、五分だけ横になろう…)

そう思い、目をつむった瞬間、深い眠りに落ちた。

時刻は午後六時であったが、気が付くと午後九時になっていた。

たった三時間寝ただけなのに、体に力がみなぎっており、布団は汗臭くなっていた。

風呂に入り、服を着替え、受付にキーを渡し、

「繁華街はどこですか?」

元気良く問うてみた。

「特に繁華街と呼ばれる場所はありませんねぇ…、彦根ですから…」

「そうですかっ! じゃ、適当に行って来ます!」

「あ、はい…」

なぜか分からぬが、エネルギーが内側から溢れ出しているような感じであった。

先ほどチェックしておいた居酒屋へ行き、カウンターへ座り、生ビールを二杯頼んだ。

「え、お一人様ですよね?」

「はい」

「二杯でよろしいんですか」

「はい」

運ばれてきた二杯を一分以内に飲み干し、この日は計八杯を飲み干した。

「いい飲みっぷりやなぁ、これ、サービスや」

乾いた体に彦根の優しさが身に沁みた。

常連客であろうか、隣のオッサンも良かった。

「そこのラッツアンドスターみたいな若者!」

俺をそういう風に呼び、

「隣へ行ってもよろしいか?」

そう言うと、俺が「いい」と言うのも待たずに隣へ来た。

この店の子供であろう、三歳くらいの若い子も、

「黒いおっちゃん…」

俺の事をそう呼んで懐いてくれた。

孤独な旅の中である。

その事が芯から嬉しかった。

(一時間くらいでサッと帰ろう…)

そう思っていた彦根の夜であったが、この晩も戻りは午前様になった。

彦根の街はホテルのフロントが言うように寂しい街であった。

が…、実に温かかった。

今晩も、そこに出会いが転がっていた。

 

 

11-2、彦根の晩

 

「わし、ええ性格してるやろ?」

それが隣に座った常連客の口癖であった。

「あんた、九州やったら焼酎がええやろ? 何がええ? 好きなの頼んで」

「じゃ、これを」

「一番高いの頼みおったー! あんたもええ性格しとるなぁー! わし、そういうの大好きやねーん!」

「冗談っすよ。安いのでよかですよ」

「遠慮するこたない。こういうとこ、人間が出るねん。あんた、大物かもしれんわー。じゃ、わしの分も二杯ちょうだい、このイサミってやつ」

「よかっですかー、全力で甘えますよー」

「甘えてちょうだい! なっ、ええ性格してるやろ?」

常連客が奢ってくれたのは、今やプレミア焼酎となっている伊佐美であった。

別に伊佐美が好きだというわけではなかったが、「あちゃー!」って言われるのを承知で言ってみたら、本当に飲む運びとなってしまった。

値は一杯千円となっている。

生ビール一杯が四百円の店でこの値段だから、その高級感が伝わってくるだろう。

ロックで頂き、しばし常連客の話に耳を傾けた。

常連客の仕事はカメラマンらしい。

得意としているジャンルは「人物写真」という事で、

「人間を撮らせたら、まぁ、わしの右に出るものはおらんやろなぁ」

らしい。

今日も大阪の中学校から「卒業アルバムの写真を撮ってくれ」と呼ばれ、丸一日、生徒三百人を撮ってきたらしい。

「カメラマンに重要なのは写真を撮る技術やない! 笑顔を引き出す技術や!」

そう言いながら伊佐美に口をつける常連客が何だかカッコ良く見えたが、カメラの腕は大した事ないのだろうと思われた。

常連客は簡単でない社会を渡ってゆく上で、

「いかに人付き合いが大切か」

その事を懇々と語ってくれ、それに対し自分がどんな事をしているか、幾つもの事例を挙げ、そしてキメのセリフとして、

「わし、ええ性格してるやろ?」

その言葉を発した。

これを書いていると何だか常連客が嫌な男に見えてくるかもしれないが、この常連客は心底明るく、ちょっと喋り過ぎの感はあったものの確かに「ええ性格」ではあった。

常連客は伊佐美の他にも鳥飼、文蔵など、有名どころの焼酎を何杯も奢ってくれた。

途中、普通の焼酎を頼もうとしたのであるが、

「近江商人の心意気を何や思てんねーん」

そう言われたため、遠慮する事をやめた。

ちなみにここの店、大衆酒場の風貌ではあるが焼酎の品揃えが良い。

むろん、店主が好きでないとこれだけの品揃えはできず、途中から店主も参加しての飲みとなった。

話は先ほどの「人付き合い」というテーマから「焼酎」に移り、紆余曲折を経て、最後は「彦根」というテーマになった。

常連客と店主は彦根の象徴・彦根城を、

「あれだけの城は他にない。規模や云々を誇るところはたくさんあるけれども、あの城には他の城にない品があるわぁ」

「分かる、分かる」

大絶賛し、

「そうそう、熊本城は三大名城やったな? どうやねん?」

問うてきた。

この質問に本音で応えてしまっては焼酎代を払えとなりかねないので、

「彦根同様に素晴らしい城ですよ」

そう応えておいた。

前にも書いたが、旅の途中で出会った姫路の奴と城自慢で喧嘩した事があり、

「張り合ってはいけない」

身を以ってその事を知っている。

城というものは云百年経った今も地元の象徴となっているため、城を否定する事はその土地を否定する事に繋がってしまうのだ。

適当に相槌を打ち、求められれば話をし、二時間強の時間を過ごした。

俺の会計は二千円であった。

ビールを八杯も飲んだ時点でその金額は優に超えているのであるが、会計をしたのが店主で、

「いいの、いいの」

そう言ってレジの電源が落とされた。(俺達が最後の客)

ちなみに常連客はきちんと払っていたようで、そのほとんどが俺の分だと思うと非常に心苦しかった。

店を出るとライトアップされた彦根城が見えた。

「綺麗やろ…、あれがわしの原風景やねん…」

常連客が誇らしげにそう言った。

人は幼少の頃に見続けた景色、原風景が一生心に残っているらしい。

(俺の原風景とは何なのか…?)

考えてみると、小学校時代の通学路から見た景色がそれであるように思える。

田んぼが広がっていて、そのずっと先に山があり、そこに不動岩と呼ばれる岩がちょこなんと乗っかっている景色。

小学校、それも低学年頃にこの原風景というものが培われるのではなかろうか。

(娘がこの時期を迎える頃、いい景色の場所に住んでいたいもんやねぇ)

そう思った。

さて…。

帰ろうとする俺の手をむんずと掴んだのは常連客であった。

時刻は午後十一時を回っていたが、

「もう一軒、行こか?」

誘われて断る俺ではない。

「割り勘という話なら行きます。恩ば貰い過ぎると返すのに困るけんですね」

「よっしゃ! いこ!」

二人は大して栄えてはいない彦根の夜へ、そう、夜の帳に飲み込まれるかたちで、ゆっくりゆっくり消えていった。

ちなみに…。

この後の話になるが、一度だけ常連客が怒った事がある。

「比叡山延暦寺はどこにある?」

その問いに、

「京都ですかね?」

そう答えたからだ。

「滋賀県やー! アホー!」

歴史や地理は勉強しておいたほうがいい。

人を怒らせる事もあれば恥をかく事もある。

身を以って知った彦根の晩であった。

 

 

12、琵琶湖畔と賎ヶ岳

 

十二日目のその日…。

朝食を腹に詰め込もうとしたのであるが、どうしても入らなかった。

その代わり、オレンジジュースは六杯も飲んだ。

二日酔いの朝である。

昨晩、午前二時(閉店)まで彦根のスナックで酒を飲み、ホテルのフロントから、

「よく、この街でこの時間まで遊べましたね…」

褒められた俺は部屋へ戻るやバタンキュー。

起きたら時計は午前七時を指していた。

(急がねば…)

昨晩の事を後悔しながらも先の事を思いつつバタバタと準備を終え、午前八時過ぎにはホテルを出た。

重い体にギラギラ輝く太陽が容赦なく突き刺さってきた。

(暑い…)

今日も晴天であった。

左手に彦根城を見ながら琵琶湖方面へ直進、それがこの日の出だしで、右手の運動場では夏の甲子園、その滋賀県予選があっていた。

セミの声が二日酔いの頭に痛い。

(夏やねぇ…)

当たり前ではあるが、ギラギラ太陽、高校球児、セミと揃えば日本の夏を感じずにはいられない。

二キロばかり直進すると琵琶湖が現れた。

二十七年も生きてきて初めて見る琵琶湖であったが、大した感動はなかった。

見た目、透明度の低い海のようであり、更に二日酔いだったからかもしれない。

「あ、琵琶湖だ…」って感じで出会い、それから何事もなく湖畔道路を北上した。

湖畔には綺麗に整備された広めの歩道が走っており、それは琵琶湖を一周するかたちで整備されているのだそうな。

また、琵琶湖と出会ってすぐのこの辺りは松原という地区で、海水浴場やヨットハーバーがある。

賑やかではあるがゴミだらけで、琵琶湖畔の中でも特に汚い所だったようだ。

人間にしても湖にしても「出会い方」というのは重要で、どうも琵琶湖と俺の波長は合わなかったように思われる。

とりあえず、朝のうちに距離を稼いでおかねば昼から地獄を見る事になるので、琵琶湖には目もくれず先を急いだ。

彦根を越えると、交通の要所・米原町に入った。

この辺りになると太陽が厚い雲に覆われ始め、涼しげな風が琵琶湖から吹き始めた。

二日酔いも徐々に消えてきた。

同時に賑わいも消えてゆき、琵琶湖のゴミも消えていった。

地図日記にはこう書いてある。

「彦根を越えたら後はノリノリ」

どうノリノリだったのかは忘れたが、かなり気持ち良く歩いたのだろう。

米原町を越えると、今度は長浜市に入った。

言わずと知れた秀吉がつくった最初の城下町で、長浜ドームなるものが最初に迎えてくれた。

たびたび地図日記を引用して悪いが、

「まったく休憩をとっていない。オレンジジュースの力だろう」

長浜ドームのところにそう書いてある。

その先、田代駅を越えた辺りには、

「たまらず野グソ、琵琶湖を見ながら雄大な脱糞」

そう書いてもある。

思い出した。

オレンジジュースを六杯も飲んだせいで水分を補給する事なく米原を越えたのはいいのだが、急に腹が痛くなり、

「ええい! 仕方がない!」

大人である事をかなぐり捨て、草むらでパンツを下ろしたのだ。

これだけ雄大な脱糞は学生時代に北海道のサロベツ原野でやった以来で、実に気持ちが良かったのであるが、その後がいけなかった。

バックにティッシュが入っておらず、そこらの葉っぱで尻を拭いた。

するとどうだろう。

ジンジンゴワゴワ、肛門が痛み始めたのである。

その後、三キロも歩けば長浜城があり、そこでウォシュレット洗浄をした事で落ち着いてゆくのであるが、この三キロの辛かった事、辛かった事…。

とても筆舌には尽くし難い。

とりあえず、すっきりした状態で長浜城を見る事ができた。

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長浜城は前に書いた通り、秀吉初めての持ち城である。

信長が浅井家を滅ぼした後、その秀吉の戦功を讃え、浅井家の領土、その大半を秀吉がもらったという流れである。

現在の長浜城は大した史跡が残っていないらしく、立派な公園と化しており、歴史好きには物足りない感があるものの、その敷地内にある博物館は見ごたえがあった。

想像でつくられた天守閣(城の絵図面などは見付かっていない)が博物館になっており、その登城料が四百円。

展示物は山のようにあり、京都のちょっとしたもので六百円を払うより断然お徳で勉強になった。

ちなみに、この長浜城の末路も憐れである。

豊臣家が大阪の陣で滅亡すると、あっという間に跡形もなく取り壊され、彦根城の材料取りとなった。

織田の安土城から豊臣が部材をとり、今度は豊臣の長浜城から徳川が部材を取る。

琵琶湖畔では「部材のリレー」で天下の様相を見る事ができた。

さて…。

長浜城を出ると、時刻は正午であった。

長浜城から先は湖畔道路から外れ、真っ直ぐ北上を続ける。

北国街道のルートである。

清洲会議で長浜城を柴田勝家の甥にくれてやった秀吉は、その後すぐに取り返し、長浜城を賎ヶ岳の合戦、その拠点としている。

つまり、これから先、賎ヶ岳までは合戦の行軍ルートである。

カネボウの工場を左に見ながら歩道のない狭い道を真っ直ぐ歩くと、びわ町という洒落た名前の町に入った。

平仮名の市町村名は「さいたま市」だけかと思っていが、探すと他にもあるようだ。

そのびわ町に入ったところで、国道八号線に合流した。

そこで昼食を摂りつつ店員と話をしていると、

「この辺りの北国街道は綺麗に整備されてて味がありますよ」

その情報を得た。

国道八号線と平行に進むかたちで細い道があり、それが北国街道の名残らしい。

情報通りに八号線から逸れてみると、確かに味のある整備された街道があった。

味のある神社も多く、立ち並ぶ家も、どこか京都的であった。

ちょうど暇そうにしている老人がいたので、

「この辺りのつくりは立派ですねぇ」

話し掛けてみると、二十分も北国街道を話をしてくれた。

北国街道は京と北陸を繋ぐ街道で、その街並は京都風と近江風と北陸風に分かれるらしく、この辺りは近江風と北陸風の境目らしい。

近江風と北陸風の違いは雪対策にあるらしく、瓦一枚をとってみても、厚みや雪止めの構造が違うらしい。

「これから先、雪がどっと増えるっちゅう事ですわ」

夏にその事を言われてもピンとこないが、これから琵琶湖を離れてゆけばゆくほど雪深い土地になっていくそうな。

ちなみにこの老人、話している途中、入れ歯が落ちた。

ちょうど話は盛り上がりのピークで、秀吉が賎ヶ岳に猛烈なスピードで駆けつけた時、この界隈の人達は走ってゆく武将に握り飯を振る舞ったというところだったから、よほど興奮したのであろう。

「モフッ!」

という変な音と同時にポンッと入れ歯が飛び出す様はどんな話よりもインパクトがあった。

笑っちゃいけないと思いつつも涙を流して笑ってしまった。

さて…。

賎ヶ岳までは、まだまだ北上を続けねばならない。

有名な姉川を越え、「酢」という変な名前の交差点を過ぎると、また小さな脇道があり整備された街並が現れた。

そこには「山内一豊・最初の所領」という看板が掲げられており、この集落の人たちも、ここから出世した山内家の事を誇りにしているようだ。

山内一豊は関が原の合戦後、土佐藩の藩主になった人物で、山内家の祖といえる人物である。

主人は信長、秀吉、家康で、歴史の主人に仕えたあたり、よほど眼力があったのだろう。

また、それから十五代を経、幕末に色々と暗躍してくれた豊信(容堂)も山内家の有名人物である。

さて…。

見所満載なので、この辺りは実に気持ち良く歩けた。

が…、虎姫町を過ぎ、湖北町を越えた辺りで雨が降り始めた。

せっかく買った高級合羽を出そうか出すまいか迷ったが、雲の流れを見ているとすぐに晴れそうでもあり、ちょいと雨宿りをし、小雨になるのを待ってから歩いた。

以後、雨といえば、この時と後の小田原だけなので、合羽を使ってやれば良かったのであるが、この時の俺がそんな事を知る由もない。

(出すのが面倒くせぇ…)

その理由だけで濡れながら歩いた。

冷たい雨が琵琶湖の風に乗せられて真横からぶつかってきた。

当の本人は汗だくの体が洗浄される思いで気持ち良かったのであるが、濡れながら歩いている真っ黒な男を通行人は気持ち悪がっているようであった。

町は高月町、木之本町と移ってゆく。

高月町には有名な阿弥陀像があるようで、昨晩、彦根で飲んだ常連さんが、

「世の中に美しいものはたくさんあるけれども、あんなに美しい阿弥陀様は見た事ない。腰の辺りがたまらんねん。こーやって、こういう風に、こんな具合や」

そう言っていた。

常連さんの「こういう具合」では、その良さが全く分からなかったので、とりあえず足を運んでみたが、月曜という事で閉まっていた。

とりあえず、後にネットで調べてみると、常連さんが絶賛していたのは国宝の木造十一面観音立像(平安時代のもの)らしく、写真で見ると確かに品があった。

見れなかった事は残念だが、

「また来る事もある」

そう言い聞かせ、先を急いだ。

さて…。

この日のメイン・賎ヶ岳であるが木之本町と余呉町の境にある。

標高は四百メートルちょいで、

「そんなもの登山のうちに入らん。余裕シャキシャキ」

そう言い放っていたのであるが、リフト乗り場まで行き、上を見上げると、かなりの高さと傾斜があった。

リフト乗り場の受付は暇そうにしており、登山道入口で立ち往生している俺を見ると、

「歩きは辛いですよー、リフトが楽ですよー」

甘い言葉を放ってきた。

ここまで約四十キロを歩いている。

足が痛くもあり、背には十キロを超えるリュックもある。

甘い誘惑にふらりとしたが、そこに立つ看板に、

「昔の人は重い鎧を着、ここを走って登りました」

そのような事が書いてあり、よくよく考えれば賎ヶ岳に猛烈な勢いで駆けつけた秀吉勢は岐阜の大垣から走り戻った後、この急坂を登っているのである。

その先方をきったのは加藤清正や福島正則を始めとする賎ヶ岳七本槍。

清正ファンの俺としては走って登らぬわけにはいかない。

背のリュックを鎧と見なし、歩いた四十キロを大垣からの駆け戻りと見なし、

「条件は清正と同じだ!」

そう考える事にした。

「よし!」

リフト受付に、

「走ります!」

決別の辞を叫ぶと、全速力で賎ヶ岳の急坂に挑んだ。

走る毎にリュックが揺れ、息も絶え絶えになってきた。

登山道に人気はない。

その代わり、鹿が山の斜面をピョンピョン駆け下りていた。

「柴田勝家、待ってろよー!」

八本目の槍になったつもりで駆けた。

が…。

「駄目だー!」

二分ほど駆けたところでパタリ倒れてしまった。

悪路の上に凄まじい傾斜であった。

肩で息をしようとするのであるが間に合わず、クラクラしてきた。

吐き気もしてき、吐く唾の粘度が極めて高くなり、そして酸っぱくもなった。

心臓が小太鼓を連打しているような速さと響きをもっている事にも危機感を覚えた。

そもそも俺は物事の打ち込み方と一緒で、持久力に乏しいのだ。

(しまった! 無茶した!)

まさにその事で、以後、這うようなかたちで賎ヶ岳を登る事になる。

これでは七本槍どころか、それにやられ、這う這うの態で賎ヶ岳を逃げている柴田勢に近い。

「死ぬー、死ぬー!」

悶えながら、何とか頂上に辿り着いた。

これが雨模様でなくピーカンの天気であったなら、柴田勢同様、俺も賎ヶ岳の土と化していたかもしれない。

そのような惨状であった。

さて、頂上であるが…。

戦に疲れ果てた武将の銅像があった。

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これが何を意味しているのか、俺にはよく分からなかったが、岩に座り込んでいる「彼らの疲労」だけは痛いほどに分かった。

銅像の背後からは雨で霞んではいたものの、琵琶湖を一望する事ができた。

その反対側からは余呉湖を眺める事もできた。

柴田勢を打ち払った七本槍の勇士は、この景色を誇らしげに眺めた事だろう。

そして、打ち払われた柴田勢は、この時の俺のように疲れ果て、景色なんてどうでも良かったに違いない。

さて…。

登ったら下らねばならない。

この日の宿は余呉湖のほとりにある国民宿舎・余呉湖荘である。

琵琶湖側から登ってきたので、今度はその逆に下らねばならない。

事前の調査によると、余呉湖荘に繋がる登山道があるはずであった。

探したが看板が見当たらなかったので、とりあえず余呉湖方面に登山道らしき道を下ってみた。

滑って転んでしまうほどのキツい傾斜が永延と続いており、「こんな山、登山のうちに入らん」などと言っていた前言を撤回し、

(これは立派な登山だ…)

そう思い直した。

約一時間下って余呉湖荘に着いた。

旅を始めて十二日目、ヘトヘトになった事は何度もあったが、疲れ果てたのは始めてであった。

宿へ着くや風呂へ入り、それから飯を食って発泡酒を三リットルばかり詰め込むと、スイッチが切れたかのように布団へ倒れこんだ。

(平地を歩く事と登山は疲れのベクトルが違う…)

それは四十キロを走りきるマラソン選手が、

「四百メートルが最もきつい」

言うそれに似ているのかもしれない。

昨晩、あまり寝てなかった事もあり、この日は泥のように眠った。

寝たのが午後八時過ぎで起きたのが午前六時。

たっぷり十時間、朝まで一度も起きなかった。

(長い距離を歩く時、登山は止めよう…)

これが賎ヶ岳で得た最もたる教訓で、翌日は近道の賎ヶ岳越えをやめ、遠回りして関ヶ原を目指す事になるのであるが、歴史の遺産というものは山に多い。

(登らない、登らない…)

そう思っていても、そこに小谷山城や岐阜城(金華山)があると、つい登ってしまう。

馬鹿と煙は高いところに登りたがるというが、

「俺は登るのではない昇るのだ」

そう言い聞かせている、この変な理屈そのものが馬鹿なのであろう。

この旅行の出発前、

「熊本城から江戸城まで一緒に参勤交代の道を歩かんや?」

友人を誘った時、友人は見事なレスポンスでこう応えた。

「馬鹿だろ?」

その時、

(そんなわけはない)

そう思ったが、山を見れば登り、その度に後悔し、また登る俺の奇行を目の当たりにし、俺自身、

(馬鹿ではなかろうか?)

そう思い始めた。

ただ、山好きや旅好きには偉人が多いのも事実で、同時に変人が多いのも事実である。

(俺の登山が偉人への糧となるものでありますように…)

そう思うが、単に変人へ近付いているだけなのかもしれない。

十三日目は炎天であった。

 

 

13、浅井を辿る

 

起きてすぐ、喉が乾いていたので発泡酒を飲んだ。

時計は午前六時を指している。

朝食は午前七時からで、豪勢なそれに舌鼓を打っていると、

「駅まで送りますよー、必要な方いらっしゃいますかねぇ?」

宿の人が声を張り上げ、それに女子大生の集団が応えていたので、つい俺も手を挙げてしまった。

最寄の駅・余呉駅までは凡そ三キロ。

今日は南東の関ヶ原まで歩かねばならないから、北にある余呉駅は逆方向となるのであるが、そちらを経由していけば賎ヶ岳を越える必要がなくなる。

(登山は昨日で懲り懲り…)

そう思っていた事もあるし、女子大生と一緒にバスにも乗りたかったので、駅まで送ってもらう事にした。

宿を出たのが午前八時で、十分ほどで余呉駅に着いた。

「寸劇、楽しかったですー!」

「似てましたよー、声と名前だけはー!」

「ば! そぎゃん言わるっと照れるばーい!」

たった十分間ではあったが軽く披露した福山雅治のモノマネが好評で、駅では女子大生に囲まれるかたちとなった。

むろん、俺の頬肉は盛り上がりっぱなしである。

一分でも長く、そこに身を置いていたいと思った。

女子大生と別れれば、また孤独で色気のない世界へ逆戻りなのだ。

女子大生は、これから電車で北陸へ向かうらしい。

俺は彼女達とは逆方向の南東へ、北国街道を歩く事になる。

たった十数分ではあったが、

「頑張ってくださいね! 影ながら応援してますよ!」

「うん、うん! 頑張るばい!」

何やら力を与えてくれた十数分であった。

さて…。

空を見上げると、雲一つない青色が広がっていた。

琵琶湖からは冷たい風が吹き込んでいて実に心地よい。

昨日の疲れも十時間の睡眠と十数分の女子大生が打ち消してくれたようだ。

足取り軽く余呉町から木之本町に入り、岐阜へゆく国道に乗った。

広い歩道で鼻歌などを歌いながら進んでいると、楽しげな鼻歌が泣ける替え歌へ変化し(第五章を参照)、ひんひん肩を揺らしながら歩くかっこうとなった。

国道ではあるが、交通量は多くない。

地図日記には、

「静かな道、鼻歌で大いに泣く」

そう書いてある。

よほど頭が暇だったのだろう。

しばし歩いていると、左手に小谷山が見えてきた。

言わずと知れた近江の雄・浅井家の城がある山で、登山はしないと心に決めていたのであるが、巨大な看板に「小谷城跡」と書かれていては足を向けずにいられない。

ふらりふらりと体が山の方へ傾いてゆき、気が付くと登山道に差し掛かっていた。

小谷山の標高は495メートル、賎ヶ岳よりも高い。

が…、そんな事、登山道に差し掛かった俺が知るはずもない。

誘われるがままに一歩、また一歩と歩を進め、戻るに戻れなくなった頃、

(しまったー!)

そう思った。

賎ヶ岳にも増して険しい道だったのだ。

汗が滝のように流れ、着ているものはパンツまでびっしょり濡れた。

昨日と同様、辛過ぎて視界が霞み始めた。

蚊が多いのもまいった。

呼吸が続かず、小川を見つけては休憩しようとするのであるが、足を止めると大量の藪蚊が俺の柔肌に針を突き刺してくる。

更に、足を止めずとも顔のまわりをブンブン飛び回っているため、タオルを振り回しながら歩かねばならない。

登り出したが最後、蚊が少なくなる頂上付近までノンストップで歩かねばならなかった。

ポケットには地図を入れていた。

地図日記は全部で百三十枚あるのだが、このページだけは汗でべちゃべちゃになり、ゴミのような状態になっている。

嗅いでみると酸っぱい臭いがし、あの時の辛さがハッキリと思い出された。

が…、それほどまでに苦労して得た小谷山頂上の景色は大して良くなかった。

木々で視界が覆われてるし、琵琶湖も遠い。

何だか普通の景色であった。

急ぎ別ルートで下山の途についた。

この別ルートに小谷山のメイン、山城跡がある。

頂上から尾根沿いに二十分ほど歩いたところが山城跡なのであるが、そこは期待以上、まさに歴史の楽園であった。

狭い平地にありながら山の尾根を素直に利用した山王丸、小丸、京極丸、中丸、本丸があり、それらが石垣による段差を持ち、階段状に下っている。

石垣もそりゃぁ見事で、信長に攻め滅ぼされ、それからほったらかしにされた味がにじみ出ている。

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素晴らしい山城であった。

朝倉家との同盟を律儀に守って信長に楯突き、姉川の合戦で破れ、その後、この小谷城が落とされるまでの数年、浅井長政は何を思った事やら…。

崩れた石垣には、泣く泣く自刃し、最後はその頭蓋骨が信長の杯にされてしまった浅井長政の哀愁が漂っているようにも思われた。

そもそも浅井家といったら、戦国時代には珍しく女衆の方が有名な家である。

浅井長政の嫁は信長の妹・お市だし、その長女・茶々は秀吉の側室となって秀頼を生み、後に淀殿となってその悪名を歴史に色濃く残している。

また、次女・初は京極家を復活させた京極高次の嫁だし、三女・江は二代将軍・徳川秀忠の側室である。

お市が絶世の美女だったという話だから、カエルの子はカエルで、娘三人もよほど美人だったのだろう。

信長にけちょんけちょんに滅ぼされた浅井家なのに、その後、これだけ名を残せたという事は、

「今も昔も美人は得」

その事なのであろう。

さて…、その後であるが…。

山を下り終えると、俺の足は痙攣している状態であった。

まだ今日の歩きは始まったばかりで、この小谷山は単なる脱線に過ぎない。

が…、着ているものを搾ると滝のように冷たいものが滴り落ちるし、疲労の色も濃い。

(行けるのか?)

そう思ったが行かねばならなかった。

しばし鳴りを潜めていた股ズレも復活したらしく、ヒリヒリし始めた。

山の麓にある小谷寺で旅の安全を祈り、ちょっとばかし登山を後悔した後、国道を南東の方向に進み始めた。

しばらく歩くと国道は姉川を渡る。

姉川といえば姉川の合戦が有名で、ふと、その古戦場が見たくなった。

脱線する予定はなかったが、又もやふらりと国道から逸れ、真っ直ぐ南へ、浅井町の役場を通って姉川までゆき、その川沿いを歩いて国道に合流した。

姉川は小さな川である。

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川幅は狭く、流れも弱々しい。

が…、周囲は開けた平野で、軍勢が対峙するには打ってつけのように思われた。

河原に降り、対岸に向かって鬨の声を上げ、そのイメージを浮かべてみた。

が…、

(暑い…、合戦の日もこんなに暑かったのだろうか?)

その事しか頭に浮かばなかった。

琵琶湖から離れるにつれ、風が弱くなっていき、雲一つない空は容赦なく激しい太陽光線を浴びせてくる。

気温は三十五度。

真夏日で、日除けのない川沿いの道はたまらなく暑かった。

(駄目だ…)

合戦の想像をしている場合ではなかった。

重い足を前へ出し、股ズレの症状を拡大しながら国道に合流した。

姉川を越えてからは、ただひたすら国道を歩いた。

途中、ラーメン屋で昼飯を食い、その際、冷たい水で股にこべり付いた塩を落としたので、股ズレだけは幾らか良くなったものの、体が重い事に変わりはなかった。

最後の登山も辛いものがあるが、最初の登山もよろしくないようだ。

その事に気付いた。

国道の交通量も増えてきている。

特に大型のダンプなどが多く、歩道のないところはかなり危険であった。

ゆえ、伊吹町に入ったところで有名な伊吹山の方へ進路を変え、国道と平行に走っている農免道路を歩く事にした。

暑い中、スポーツ飲料やお茶がよく進んだ。

一回の休憩で必ず一リットルを飲み干した。

伊吹山の麓を走る道は緩やかなアップダウンの繰り返しで、間違いなく国道よりも遠回りであったが、山から風が吹くため幾らか涼しくはあった。

ひたすら登り、ひたすら下った。

見るものは伊吹山しかなく、色々な角度で伊吹山を見た。

鼻歌は何曲歌ったであろうか…。

数え切れぬほど歌った頃、国道と合流し、岐阜県に入った。

国道のくせに相変わらず路側帯が狭く、中にはクラクションを鳴らすトラックもあった。

そんなもの一々相手にしていてはいけないのであろうが、この日の俺はよほど疲れていたのだろう。

クラクションを鳴らしたトラックに、

「うるせー! こんちくしょー!」

怒鳴り返し、その後、ヤクザみたいなオヤジが俺を追いかける素振りを見せたので慌てて逃げた。

その辺、何とも弱い庶民であるが、俺の基本理念は「生きてこそ」である。

つまらぬ事で怪我をしたり命を落としてはたまらないので、そういうところは意地を張らず、勝てそうでもダッシュで逃げる事にしている。

さて…。

岐阜県に入って最初の町が関ヶ原である。

言わずと知れた天下の一戦、その場所であるが、史跡巡りをする気にはならなかった。

時刻は夕方五時を回っており、体は鉛のように重かった。

国道から一本逸れた脇道を、宿目指し真っ直ぐ歩いていると電話が鳴った。

急ぎリュックから取り出して出てみると斡旋会社からで、内容は二次試験の合格を伝える吉報であった。

「間違いないですよ! よほどの事がない限り三次試験も合格しますよ!」

斡旋会社の声に喜びが見て取れた。

が…、「よほどの事がない限り」というフレーズに不吉なものを感じずにはいられなかった。

「普通は」とか「まず大丈夫」とか言われ、その期待を裏切った事、数え切れないからである。

むしろ、「期待は薄い」「だめだ」と言われた方が、まだイケるような気がした。

道子から試験の結果を知らせろというメールが何通も来ていたので、すぐさま電話し、その吉報を知らせ、その後、愛娘の春と話した。

「おっとー、がんばれー!」

たぶん道子に仕込まれたのであろうが、娘はそう言って俺を励ましてくれた。

電話を切った後、俺の頬肉は見事な隆起を見せていたに違いない。

「むふふふふ」

娘が言った「がんばれー」を何度も反芻しながら宿までの道を歩いた。

人間というものは絶えず誰かに熱い思いを持ってなければ枯れてしまう生き物なのであろう。

彼女や嫁に向けていた熱が子供へ流れ、次は孫へ流れる。

絶えず熱を発し続け、その熱は母乳と一緒で出す事を止めてしまうと萎縮してしまうのではなかろうか。

だから、その受け口がないと、その一生にハリが出ない。

歩きながら出た「むふふふふ」は、まさに熱の放射であったように思う。

さて、さて…。

この日の宿はサウンド・ロッジ伊吹というところで、元は伊吹山荘という名の合宿所である。

宿主に宿名変更の理由を聞いてみると、

「最近は若い人の利用が増えてねぇ、横文字にした方がいいんじゃないかしら、そう思って」

これも時代の流れらしい。

が…、その内容は何も変えていないらしく、値段は一泊二食付き六千五百円で、飯はてんこ盛りの豪勢な和食。

「食いなさい、食いなさい」

そう言って飯を鬼のように盛ってくれる様はまさに合宿所で、俺好みであった。

ちなみに…。

近所に居酒屋などはなく、九時には宿全体がシーンと静まり返ったため、寝るかテレビを見るしかなかった。

念入りに地図日記を書き、発泡酒を飲んで眠りについた。

実に…。

実に安らかな眠りが俺を包み込んだ。

が…、この時の俺は明日の事を何も知らない。

明日明後日は、この夏一番の超猛暑となる。

 

 

14、美濃をゆく

 

ここ数日、実に規則正しい生活をしている。

この日の起床は五時であった。

宿で飼っている犬がワンワン吠えており、それで目覚めた。

暇だったのでテレビをつけ、天気予報などを見ていると、

「今日明日はこの夏一番の暑さになるでしょう」

そのように言っており、今日向かう岐阜の最高気温は三十八度となっていた。

(体温よりも高い…)

その事で、考えるだけで体がうだってきた。

朝食は午前七時からであった。

「若いんだから食べなさい。今日は本当に暑いらしいから、たっぷり食べないと倒れるわよ」

宿のおばさんは朝から肉だの何だの精の付くものをたっぷりと食わせてくれ、米粒はバケツみたいな茶碗に盛ってくれた。

宿を出たのは午前八時である。

おばさんに貰った「関ヶ原合戦マップ」を片手に、

「ちょっと観光してから関ヶ原を出よう」

そう決め、ちょいと脱線、南の方へ下ってみた。

登山道とまではいかぬがちょっとした山道に入り、軽い丘を越えて大谷吉継の墓に着いた。

関ヶ原の合戦といえば、家康と石田光成が主人公になりがちだが、俺が最も好きな武将はこの大谷吉継で、盲目の将でありながら最後まで退かず、何度も東軍を退ける様は見事としか言いようがない。

裏切りの嵐だった関ヶ原において、最も光った武将ではなかろうか。

鬱蒼とした林の中にある大谷吉継の墓を抜けると、次は平塚為広の碑が現れた。

平塚為広は大谷吉継に恩があって西軍に味方した武将で、これも逃げずに最後まで戦い、関ヶ原で散っている。

それからちょいと北へゆくと宇喜田秀家の陣跡がある。

関ヶ原の合戦は東軍の福島正則が突っ込んできた事でスタートしたとされているが、その初接触がここだったという。

「ふむふむ、なるほど」

関ヶ原という場所は史跡の密度が高く、また、その説明板も非常に丁寧で、時間を忘れて観光に没頭してしまった。

道もいい。

車も少なく、味のある裏通りや林道が観光ルートとなっている。

この日…。

目的地の岐阜までは大垣経由で四十キロ弱。

猛暑に足を取られる事を考えると関ヶ原でちんたらしているわけにはいかなかったが、回れば回るほど、

「ほうほう、こちらから小早川が下ってきて…、ふむふむ、こちらからは脇坂が…、なるほど、なるほど、あそこの高台が石田光成の陣地…」

流れだけを知っている合戦が立体感をもって現れてきたものだから、つい長居をしてしまった。

小西行長の陣跡、島津義弘の陣跡、石田光成の陣跡、徳川家康の陣跡(最後の)を辿り、ついでに歴史資料館にも立ち寄った。

気温は時を追う毎にグーンと上がり、歴史資料館を出る時点で三十五度。

(まだ十時過ぎなのに…)

その事で、

(何度まで上がるのだろう?)

考えるのが怖くなった。

結局、関ヶ原を出たのは昼近い時刻であった。

前述の史跡の後に首塚や桃配山にも立ち寄ってしまい、その歩いている道も歴史の道・中山道として整備してあり味がある。

「ちょっと寄ろう、ちょっとだけね」

なかなか前に進まず、かなり遠回りして関ヶ原を出た。

昼を迎えると、その気温は、

「馬鹿にしてるのかー!」

そう言いたくなるほどの極みを見せてくれた。

日光と接している面が暑いを通り越して痛いのだ。

関ヶ原を越えると次は垂井町に入った。

ここにも見所があり、南宮大社という超有名スポットがあるらしい。

知りはしなかったが、関ヶ原の資料館で、

「あれを見んうちには死ねませんよ」

そう言われては寄らぬわけにいかない。

少しばかり国道から逸れるかたちになるが休憩を兼ねて寄ってみた。

南宮大社は美濃国の一の宮である。

一の宮とは、その国の第一位に待遇される神社の事で、肥後であれば阿蘇神社がそれにあたる。

何から何まで立派なつくりで、赤い柱が青い空によく映えていた。

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楼門の下へ行き、涼をとりながらスポーツ飲料を飲んだ。

本当に暑かった。

日光と触れていた部分がジリジリと痛み、

「アチチチ!」

引っ込めねばならぬほど太陽光線にパワーがあった。

大して歩いていなかったが変に疲れていたし、腹も減っていた。

これだけ有名な神社の近くだから、どこか昼飯を食うところもあるだろうと思っていたが、どこも開いておらず、通りがかりの人に聞いてみると、

「平日のこんな暑い日にやってる店はない」

との話で、この近所では飯を食うところもないらしい。

食いたいならば国道へ出ろとも言われた。

が…、俺の歩く気は既に失せていた。

(こんな天気の日に歩けんばい!)

まさにその事で、関ヶ原を出た時点で今日という日は終わっている感であった。

(いかん、いかん、気持ちが滅入ってる…)

とりあえず食わねばならないし、食ったら歩く元気も出るだろうという事で先を急いだ。

歩いて来た道を戻るのは癪なので、国道と平行に走る細い道を歩いた。

飯屋との出会いを期待したが、通行人の話通り、国道とぶつかるまで飯屋はなかった。

結局、南宮大社を出てから一時間以上も歩き、やっと飯にありつけた。

腹ペコだったので大盛のカツ丼を頼んだが、いざ食ってみると気持ちが悪くて箸が進まず、ちょっと残してしまった。

その代わり、水だけはピッチャー二杯も飲み干し、店の人に、

「ほえー、暑いといってもそこまで飲む人はおらんよ」

そう言われた。

冷房の効いた店の中で小一時間くつろぎ、時計を見ると午後二時過ぎであった。

まだ三分の一も歩いていない。

(着くのか?)

初めて到着の危機が訪れた。

頭の中に、

(電車を用いたらどうか?)

その誘惑も現れた。

(いかん、いかん!)

誘惑を打ち払いながら食堂の外に出ると、そこは地獄模様であった。

視界がゆらゆら揺れており、飲んだ水分は体から一気に噴出した。

(サウナだ…)

まさにその事で、意識が朦朧とした。

この後、方向感覚には定評のある俺が道を間違えた。

それもちょっと間違うというのではなく、ぜんぜん違う方向に進んでおり、線路とぶつかってから、

(おかしい?)

その事に気付いた。

歩いている方向もおかしいが俺の体もおかしい。

人間は体温を超える環境で長時間歩くと耳鳴りを覚えるものらしい。

キーンという音が響き始めた。

とりあえず熱中症の教訓があるので、スポーツ飲料だけはコマメにとり、ゆっくりと歩を進める事にした。

立ち寄る予定の大垣城には寄らず、このまま国道で岐阜を目指すと最短距離なのであるが、

「街道、城、古戦場が今回の旅のテーマだから…」

という事で、予定のルートをとぼとぼ歩き、大垣城に着いたのは午後三時である。

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大垣城は美濃守護・土岐氏が建てた城で、以後、関ヶ原合戦では西軍の拠点にもなっている。

関ヶ原以後は戸田氏が十万石の城主となり、明治まで大垣を治めたという流れである。

百円を払って天守閣に登り、冷房の効いた環境でたっぷりと展示物を眺めた。

人がいないのも良かった。

冷房前のソファーで大きく横になり、本気モードで三十分ほど寝てしまった。

最高に気持ちが良かった。

が…、寝た後は動くのが辛い。

重い体に重い頭をプラスした状態で大垣城を後にした。

それから大垣駅の構内を通って線路の反対側へ行き、北へ数キロ、東へ十数キロ歩いた。

峠はない。

関ヶ原を出た後、美濃平野に入っている。

美濃平野には三本の大河が流れており、揖斐川、長良川、木曽川と越えてゆかねばならない。

道は先の見えない一本道であった。

それが川で遮られ、クランクのかたちで橋を渡る事になる。

一発目の大河・揖斐川が現れた。

この時点で午後五時を優に回っている。

やっと普通に息ができる気温になってきた。

気温が体温を下回ったためであろう。

大垣城を出てからは、ただ淡々と歩くだけであった。

次の長良川に差し掛かった時、遠くの山に日が落ちてゆくのが見えた。

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この日以外は日が落ちる前に宿へ着いているので、旅路で日が暮れる景色を見るのは、これが最初で最後という事になる。

綺麗だった。

心洗われる思いだった。

溜息が洩れた。

(疲れた…)

気温が下がるにつれ休憩の頻度は減ってゆくのであるが、同時に前向きな気持ちも減ってゆき、

「明日もこぎゃん天気なら歩かれんばい」

愚痴ばかり言うようになってきた。

今日の川越えは長良川が最後で、最後の木曽川は明日越える事になる。

長良川の堤防を下ると岐阜の街に入った。

同時に日が落ちきってしまい、辺りは真っ暗になった。

更に、道に迷った。

更に更に、赤く染まっていた股ズレの患部から血が流れ始めた。

「くっそー!」

ムシャクシャした。

何だかどうでも良くなって暗い公園で歌舞伎揚げという煎餅をヤケ食いした。

時刻は午後八時を回った。

今日の宿は岐阜の超有名ネオン街・金津園、そのすぐ隣である。

むろん、色々な事を考え、意図してそこへ泊まる事にしたのであるが、どうも今日だけは飲みに行く気がしなかった。

金津園を歩いている時、風俗の呼び込みが俺にまとわり付いた。

いつもはそんなに嫌な気はしないのであるが、今日だけは、

「旅の途中だけんっ!」

と、乱暴に振り切った。

宿へ着いたのは午後九時前である。

着くや血に染まった患部を丁寧に洗い、それからゆるりと風呂へ浸かった。

この旅行に挫折の危機があったとすれば、まさにこの瞬間だったろう。

風呂に入りながら天気予報を聞いていると、今日の岐阜は四十度近くまで気温が上がり、明日も同じような天気が続くという。

(四十度…? 明日も…?)

愕然としながら、股ズレの患部を見た。

赤を通り越し、紫になっていた。

世の中に旅の障害となるものは幾つもある。

だが、

「超猛暑」

これほどやっかいな相手はいないだろう。

風呂から上がり、カップラーメンとビールを体に流し込んだ後、ベットで横になった。

もう一歩も歩きたくなかった。

すぐに睡魔が訪れた。

と、同時に電話が鳴った。

「おう、福山! 生きとるや? 俺、俺! 俺た!」

豊橋(愛知県)に住む級友からで、名を中川太陽という。

「道子以外の知り合いと話すのは久しぶりぞー! で、何や?」

「お前が豊橋に来た時、飲み会ばしようと思っとるんばってん、その際、宮田綾が来るんた」

「ほう、ほう」

宮田綾とは太陽と同じく熊本出身豊橋在住の女で、現在、太陽とはただならぬ関係らしい。

「宮田綾がね、なんか必要なものがあったら持ってきてやるって言いよったぞ」

「必要なもの?」

「ほら、あいつ、看護婦だけんが薬とかなら効くやつがあるて」

「なにっ! ならば股ズレに効く薬を頼むと伝えてくれ!」

「股ズレ? お前、インキンや?」

「股ズレとインキンは違うぞ、とりあえず、そう伝えてくれ」

「分かった、分かった、股ズレね、むふふふ…」

「お前、股ズレば馬鹿にすんな! 今、凄い事になっとるんだけんねー! 会った時に見せてやる!」

「おうおう、分かった、分かった」

確かに、股ズレという響きはどこか滑稽な感がある。

太陽のように、

「はい、はい、股ズレちゃんね、股ズレちゃん」

軽く受け取られるのも何となく分かる。

だが、深刻化した股ズレには、その痛みも然る事ながら、見た目にもパワーが宿る。

現に、この三日後に太陽と会う事になるのだが、足の付け根の惨状を見せてやると、

「うおっ!」

太陽は絶句し、おののいた。

それほどに凄いのだ。

電話を切った後、俺はほんの数秒で深い眠りについた。

朝起きると携帯電話が開かれた状態で耳元に転がっていた。

テレビを点けると岐阜のローカル番組がやっており、こう言っていた。

「これは超真夏日どころじゃない。超ド級の真夏日ですよ」

「まったく、その通りですな」

「あっはっはっはっはー」

唖然とした。

(笑い事じゃない…)

そう思った。

十五日目も暑さとの戦いであった。

 

 

15、犬山へ

 

午前七時に目覚めた俺は、恐る恐るカーテンの隙間から外の様子を窺った。

ギンギラギンの晴天であった。

天気予報によると、今日は昨日にも増して暑いらしい。

四十度近くまで上がった昨日より暑いとは想像がつかぬが、とりあえず涼しいうちに距離を稼げという事だろう。

気温というのは、だいたい午後二時にピークを迎える。

その前後二時間は昨日の経験から歩いてられない。

朝と夕方が勝負であった。

幸い今日の目的地は犬山で、昨日より十キロほど距離が短い。

「急げ、急げ!」

という事で、バタバタと準備をし、八時前にはホテルを出た。

まずは山上の城・岐阜城が最初の目的地である。

大人の繁華街・金津園から岐阜駅を越えると、こちらは若者の街なのであろうか、ハイカラな街並が広がっていた。

それから北へ、真っ直ぐ名鉄岐阜市内線沿いを歩いた。

ちょうど出勤通学の時間帯だったらしく、広い歩道は人だらけで、それをかき分けながら前へ進んだ。

こんなにもたくさんの人間を見るのは久しぶりだった。

かなり人酔いしたが、これだけの人間が暑さに負けて「ふぅふぅ」言っている様は壮観でもあった。

話している人間全てが、

「暑い」

その言葉を発しており、サラリーマンのシャツなどは出勤前だろうにびっしょりと濡れている。

太っている連中などは一歩も歩けなくなって肩で息をしているのだ。

午前八時の光景とは思えなかった。

その点、徒歩旅行十五日目を迎えた俺の足取りは軽い。

虚ろな目をした人々の隙間を風のようにすり抜け、優越感たっぷりに岐阜の中心街を抜け出した。

さて…。

岐阜市役所から一キロほど北上すると、昨日越えた長良川である。

その右手に岐阜城のそびえる金華山がある。

むろん、山という事は登山をせねばならないので、その前に栄養をつけねばならない。

金華山の山麓に喫茶店があったので迷う事なくそこに入り、中部地方名物のモーニングサービスを頼んでみた。

モーニングサービスとは「コーヒーを頼めば食い物が付きますよ」というサービスで、中部の喫茶店に多い。

この店ではパンと卵が付いており、なかなかボリュームがあった。

そして、メインのコーヒーがとてつもなく美味い。

アイスコーヒーを頼んだのであるが、こんなにも美味いと思えたのは人生初で、つい、

「コーヒーとパン、おかわりできますか?」

無理な事を聞いてしまい、断られると、

「じゃ、もう一つ頂戴」

追加で同じものを頼んでしまった。

店内は小奇麗な感じで人も多く、聞けば中部地方に展開しているチェーン店という事で、

(さすがは喫茶店が名物の中部地区…)

その事であった。

さて…。

岐阜城は、この喫茶店の目前である。

目前ではあるが山上ゆえ遠い。

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麓に公園があり、そこからロープウェイが出ていたが、それに乗ってしまっては男が廃る。

登山道に足を運んでみると、定年を超えた中年の集団が登山道に足を踏み入れているではないか。

今まで登ってきた賎ヶ岳や小谷山は登山者皆無であったが、こちらは岐阜の中心だけに登山者も多いようだ。

(よーし!)

登る事を決め、その前に、

(岐阜城について勉強しなければ!)

そう思い、公園の隣にある岐阜市歴史博物館に入った。

岐阜城という名は信長が天下布分を目指し名付けたもので、その前、斎藤家の城だった時は稲葉山城と呼ばれていたらしい。

歴史は古く、千二百年ごろに二階堂家が館を構えたというのが最初のようだ。

最後の城主は織田信秀で、関ヶ原の戦いで西軍に付き、廃城となっている。

(ふむふむ、なるほど…)

史跡というのは、ある程度の知識があってこそ面白いもので、それらを詰め込んでから登山道へ入った。

登山道が辛かった事は言うまでもなかろう。

が…、他にも登山者がいたのは助かった。

長い上り坂を一人で延々登るのと、道ゆく人と話しながら登るのとでは格段の違いがある。

「どこから来られました?」

「熊本です」

「うひゃー! 熊本ですかー!」

「へい」

ちょっとした会話でも気が紛れていい。

一時間ほどで頂上に着いた。

敵は疲労より気温だろうと思っていた登山であったが、意外にも林の中は涼しく、更に、蚊が少なかったのは助かった。

更に頂上からの景色も良かった。

眼下に長良川と美濃平野が一望でき、その先には平野の終わりを告げる大小の山が見て取れた。

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再現された岐阜城の天守閣は実にちっぽけなもので、味もなかった。

むろん、有料だったので登城せず、無料の資料館だけ立ち寄り、しばし茶など飲みながら美濃の景色を眺めた。

信長が天下布分の要所と位置付け、そこに城を構えた理由が何となく分かる景色であった。

さて…、その後であるが…。

同じ道を戻るのは癪なので、今度は逆の登山道を下りる事にした。

地図通りにゆけば、これが最も近道のはずだ。

長良川を左手に見ながら延々と山道を下り、一時間ほど歩いたところで小さな寺に出た。

公園からのメイン登山道にはたっぷり人がいたが、こちらは人っ子一人いなかった。

「すいませーん」

寺で、ここがどこなのか聞こうと思ったが誰もいない。

仕方がないので空の様子を見ながら方向を合わせ、適当に進んでいると大きな道に出た。

時刻は正午で、近場のレストランに入り、

「ここはどこですか?」

問うてみると親切に地図を出して教えてくれた。

山勘的中、モロに最短距離で進んでいるようだった。

昼飯を食ってからは昨日同様、炎天のアスファルト道をただひたすら根性で歩いた。

名鉄美濃町線沿いを南へ、それを越えてからは各務原市を真っ直ぐ東へ十数キロ、それから航空自衛隊を巻くかたちで南へ曲がり、木曽川目指して南東へ。

街路樹が多かったので、日陰伝いに歩いた。

そういえば旧街道には街路樹が多い。

東海道には松並木が植えられているし、地元・山鹿を通っている豊前街道にも櫨の並木がある。

昔は徒歩がメインだったから、今回の俺のように日除けがなければやってられなかったに違いない。

少しでも日陰があるのは本当にありがたかった。

ただ、芯から暑い事には変わりがないので、その速度は落ちた。

休憩回数も増えたし、その時間もだんだん長くなっていった。

途中、池があったのだが、そこのカモまでもが暑さにやられグッタリしており、通行人の話だと、

「四十度超してるよー」

「ほえー、暑いはずだ」

どうやら腕時計に付いている温度計が四十度を超してるらしい。

空は真っ青で、その広々とした空間を戦闘機が飛び回っていた。

航空自衛隊の真横だけあって、かなりの低空を、かなりの数が飛び回っている絵はなかなか迫力があった。

木曽川沿いの県道を東へ進み、伊木山という小高い丘を抜けると犬山城が見えた。

すぐそこに橋がかかっており、それを越えると犬山市、愛知県に入る。

(が…、その前に休憩を…)

という事で、今日三本目のアイスを食べ、今日五リットル目の烏龍茶を飲んだ。

美濃の大河三本、その最後である木曽川を越えたのは午後四時である。

犬山城に真っ直ぐ向かっているライン大橋を渡り、その足で犬山城へ向かう坂を一気に駆け上った。

犬山城は数日前に立ち寄った彦根同様、国宝の城である。

日本に三つしかない国宝の城で、他は全て訪れており、これが最後の城となる。

坂の途中に神社があったので、そこで旅の安全と道子の安産を祈り、それからスキップで受付へ向かった。

と…。

「すいませーん、閉園時間なので、明日お越しくださーい」

受付前の大きな門が、今まさに閉められようとしているではないか。

時計を見ると四時三十五分。

確かに、閉園時間を五分回っている。

「もー! 五分くらい良かじゃなかですかー! 本当の閉園は五時でしょう、五時までには戻ってきますからー!」

「駄目ですわい、規則ですから」

見るからにシルバー人材センターから派遣されている感じの爺さんは俺の言葉などお構いなしに門を閉め続ける。

「ゴゴゴゴ…」という低い音が辺りに木霊し、重々しい門は俺の目の前で完全に閉まった。

カチンときた。

「融通がきかんのかー!」

仁王立ちの俺は、つい門の前で叫んでしまった。

すると、

「…ききません」

門越しに、糞じじいの声がチョロンと聞こえてきたではないか。

「むかつくー!」

門の隙間から犬山城を間近に見る事はできたものの、ついには登城する事なく帰るハメになってしまった。

とりあえず、先ほど立ち寄った神社に再度立ち寄り、あの糞じじいに何らかの災いを与えてくれるようお願いし、犬山城を去った。

さて…。

犬山城を駆け下ると俺の怒りはどこかへ消えていたようだ。

木曽川沿いを歩きながら鼻歌を歌い、ふと振り返ると高台にある犬山城が見えた。

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(そう、そう、あの糞じじいは悪くない。忠実に業務を遂行しているだけ。悪いのは犬山市。なぜ、日の長い夏に閉園が四時半なのか?)

冷静になって考えると、そっちの方が悪いように思えてきた。

そういえば、自治体が運営しているテーマパークなどは夏でも冬でも五時に閉園する。

役場などを見ていると、昼休みもサラリーマンと同じ時間帯にとっているし、夕方も五時に閉まる。

(やる気あるのか、公務員!)

そのサービス精神の薄さには弁解の余地がないように思われ、またしても腹がたってきた。

(民間が運営すればいいんだ! 民間が!)

怒りというものは時としてエネルギーになる。

数分前には、

「暑くて動く気がせん」

と、木曽川の堤防で休憩していた体が動き始めた。

今日の宿は犬山城から二キロほど離れた犬山国際ユースホテルである。

木曽川沿いを怒りに任せて歩き、それからちょいと丘の方へ登ったところに目指すユースホテルはあった。

ここのユースホテルは前に泊まったユースホテルと比べ、格段に綺麗で、何と全部屋個室であった。

つまり、単なるビジネスホテルのようなもので、人と人との触れ合いはない。

着くや部屋へ案内され、

「あれ? ここ、ユースホテルですよね?」

「はい、ユースホテルではありますが普通のホテルと一緒です」

「はぁ…、なるほど…」

寂しげに立ち尽くしてしまった。

(今日は暑かったのでビールが美味い! 同室の人と飲み明かそう!)

そう思っていた俺にしてみれば、まさに拍子抜けであった。

風呂では家族連れと出会った。

出会ったが、家族で食事をしているところに「俺を入れて」とは言い難いし、入れてもくれないだろう。

食堂へ行ってみると、他の家族とカップル二組以外には客がおらず、結局、生ビールを一杯だけ飲み、孤独感に耐えられず食堂から逃げ出してしまった。

それからは悲しい酒宴が永延と続いた。

ビールを二リットル買い込み、つまみには袋菓子を開け、

「えへへへへ! 今日は発泡酒じゃなくてビールだぞー! 麦芽の割合が多いんだぞー! おい、あんた、飲んでるか? 飲んでない! だったら俺が飲んでやろう! うへへ!」

はっきり言って馬鹿であった。

ちなみに…。

ビール二リットルを飲み干した後、この酒宴にも耐えられなくなり、犬山の街へ飲みに出ようと試みた。

その時、受付でこう言われてしまった。

「歩いて行かれるんですか? そりゃ馬鹿ですよ、一時間くらいかかりますもん」

それでやる気をなくした。

「一緒に飲んでくれますか?」

「仕事中なので無理です」

受付にも断られ、この後、更に一リットルのビールを一人で飲む事になる。

明日は級友の梢という女の彼氏宅に泊まる事になっている。

その翌日は太陽と国民宿舎へ泊まり、たっぷり飲む予定だ。

その後は豊橋で級友達と飲み会。

(これを乗り切れば、この孤独感からも開放される!)

分かってはいるものの、飲めば飲むほど人恋しくなるのであった。

河島英吾の名曲、その一節を下に引用し、十五日目の章を終わる事にする。

人恋しさに飲んだ酒が♪ また人恋しくさせる♪

年がら年中恋こがれ♪ 人生、旅の途上♪

今回の旅のテーマソングであった。