悲喜爛々6「道子、救急車に乗る」

 

 

1、いつもの鍋

 

2001年11月23日(金)、勤労感謝の日。

私、嫁の道子、共に仕事は休みである。

その日、私は「バトミントン合宿」という酒宴に参加すべく群馬へ。

妊婦の道子は自宅待機、身重な体を労わりながら家の掃除、及び近所の奥様衆との食事会に興じていたようである。

お互い、それぞれのお楽しみをそれぞれに味わいながら、その翌日11月24日に再会する。

時刻は夕時。

夕食時だった為、鍋でもしようかという方向へ話が進む。

当然、二人でやろうなんて話は上がるはずもなく、友人連中も招集の運びへ。

同期「和哉」と後輩「今本」、この福山家の座敷童子と皆が呼ぶお馴染みの二人、またお隣さん同期「山本夫婦」を引きずり込む。

道子は客を迎えて元気満々、白菜丸々2個買ってくるやる気ぶりである。

 

18:30、鍋スタートの時刻。

同期の和哉は床屋に行くという理由で少々遅れるとの事。

山本夫婦に至ってはデザートの時間に来るとの事なので後輩今本と福山夫婦、計3人で地味に始めることにする。

まずは、いつもの様に福山家の勝手事情を知り尽くした後輩今本が冷蔵庫からビールを持ち出し、その他セッティングも自動的にやってくれる。

揃ったところで慎ましやかに乾杯。

なんとなく鍋を食い、なんとなくビールも飲む。

ちなみに今本は、バトミントン合宿と称した群馬酒宴に私と共に参加しており、その際、酒が過ぎた様でアルコールは断固拒否する構え。

薦めるが、

「駄目です、もう、アルコールは見るだけで嫌です」

と頑なに拒否、二日酔いが醒めないようである。

そして、それを横目に見ながら自らが調理した鍋をむさぼる道子。

「おいしい、おいしいよぉー、福ちゃん」

 

変わらない元気な嫁道子が右手にいる。

左手には後輩今本、時が経てば同期和哉も来るだろう、山本夫婦も来るだろう。

全ては何も変わらない、メンバーすら変わらない、強いて変化を挙げるなら後輩今本が飲んでないのに酔っているという事くらい。

そんな飲めない後輩今本、彼が後半大活躍。

ま、今の時点ではそんな事、誰も知る由はないのであるが・・・

 

 

2、ヒキコモリ

 

鍋も2杯目に突入する頃に同期和哉が登場。

髪を切ると言っていた割には、どこを切ったのかサッパリ分からない様である。

ところで、その和哉、見るに小脇に大そうな缶を抱えている。

聞けば、我嫁へのプレゼントとの事。

先日、外での飲み会の際、うちの嫁に迎えに来て貰ったお返しとの和哉節である。

空けてみると中身は煎餅詰め合わせ、主婦の心理を心得たマダムキラー和哉らしい心遣いの一品である。

当然、道子は大喜び。

「素敵!!和哉君、ありがとぉー!!早速、食べなきゃ!!」

と、すぐにその大缶に貪りつくのである。

 

さて、道子が寄せ餌に食い付いたところで、飲み会の仕切り直しである。

私と和哉は芋焼酎お湯割を素焼きカップになみなみと注ぎ、鍋と実のない話をつまみに一気に飲み干す。

後輩今本は空いた素焼きカップを見付けると、すぐに追加の焼酎をその空いたカップに注ぐ。

美味しい酒と次第に盛り上がる話が繰り返し繰り返しその場を繋ぐ。

さあ盛り上がってきたぞ、そう思う。

道子を見る。

さっぱり冷え冷え低脂肪牛乳をガブ飲みしながら、未だ煎餅に夢中の様である。

 

20分くらい経った頃であろうか、話に興じていた私、ふと道子が見当たらないことに気付く。

「あれ、道子は?」

和哉に問うてみると、ここはさすがに気遣いで名を馳す男

「便所」

すぐに、その緻密な観察力を披露してくれる。

「さっきからおらんよな?」

和哉に更に問うてみる。

「うん、10分くらい入ってるんじゃ?」

さすが和哉、トイレ時間まで把握しているとはその気遣いSクラス、神の領域である。

私は”これはトイレで寝てるな”と確信し、すぐさまトイレに向かい、30発ほど連続ノックしてみる。

「うぉおーい、寝よっどぉー」

鍵の締まったトイレからは返事が返ってこない。

その代わり、耳を澄ますと、荒い息遣いと、苦悶の嗚咽声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

!!!

 

「おいっ!!おいっ!!」

私は道子の異常を感じ取ると、続けざまにドアを叩いた。

「開けろ、おいっ、ドアば開けー!!」

しかし、ピクリともしない。

苦悶の声だけが虚しくドア越しに響いてくる。

”これは危険だ”私はそう確信すると、強く「開けろ!!」と叫び、ドアを叩く。

しかし、中で蹲る道子から動きは見られない。

”これはイケナイ!!蹴り破って突入するか?”

そう思った刹那。

ギーッという鈍い音と共に、築35年社宅の木製ドアはゆっくりと口を開ける。

「道子!!」

嫁の名を叫び、思いっきりドアを開ける、そして、ハッとし、すぐにドアを閉める。

後ろを見る。

今本と和哉は雑談中でこちらを見てない。

一安心。

ドア奥の道子は下半身スッポンポンで便座に腰掛けて項垂れていた。

思わず旦那も赤面のその姿、他人に提供するわけにはいかない。

私はとりあえず、ドア全開にしても道子が見られない様に垣根のセッティングを施すと、静かにドアを開ける。

落ち着いて見てみれば、道子の顔色が尋常じゃない。

そして、その横、手洗い場には溢れ出さんばかりのゲロの山。

私は道子の下半身裸体に赤面している場合ではないと、自らを叱咤しつつ、大丈夫なわけがない道子の安否を問う。

「おい、どうしたんや、大丈夫や?」

「ん・・・、お腹痛い・・・」

「他に症状は?」

「吐いた、それと下痢がひどい・・・・」

道子から出る言葉に生が見えない、その代わり、私の思考は大忙し。

元旦の明治神宮に江頭2:50が100人ほど裸で現れた様な慌しさである。

「ああ・・・上からも下からもか・・・それは辛いな」

そう言った刹那、ふと腹の中にいる子供の事が思われる。

「おい、血は出てないや?」

「出てない・・・」

青白い道子がボソリとそう答える。

壁越しには和哉の「おーい、大丈夫や?」という、これまた彼らしい気遣いの声があがっている。

「ね・・・ドア、閉めて・・・」

道子が力なくそう言うと、私はふと裸なのを思い出し、「悪い」と言いドアを閉める。

道子の苦悶の声はそれからもドア越しに続く。

私はすぐさま居間に戻ると、唯一の妊娠関係資料「たまごクラブ」を手に取り、ツワリから妊娠中毒症まで、ありとあらゆる情報を漁る。

「違う、これも違う!!」

どの症状も今の道子と合致しない。

キーワードは嘔吐と下痢、強い腹痛、妊娠六ヶ月半、この4つである。

道子が食べたものを考える。

「道子が食べたもので俺達と違うものといえば、煎餅と牛乳くらいか・・・」

すぐに和哉が賞味期限をチェックする。

一番疑わしい牛乳、期限OK。

そして、今日買ってきて貰ったのに早速疑われる羽目になった可哀想な煎餅、これも期限OK。

一体、何が原因?

謎が謎を呼ぶ、頭を垂らす男三人・・・そんな最中に道子が便所からフラリとご帰還。

「大丈夫や!」

皆が揃って声をかける中、道子はただ一言、

「駄目・・・寝る・・・布団敷いて」

それだけ言い、虚ろ眼を携えて寝室に向かう。

 

「そうだ、そうだ、気持ち悪い時は寝るが一番」

男三人、またもや声を揃えてそう言った。

そして、そんな皆の温かい声を受け、道子は静かに寝床へ意識を消した。

 

 

3、横浜銀蝿

 

男三人は我嫁道子の容態が心配で酒も鍋も喉を通らなかった。

カーテン1枚越しの寝室で苦しんでいると思うと、とても会話をする気にもなれなかった。

皆、道子の容態を自分の事の様に思ってくれているようで、その席には重苦しい静かな沈黙が続いた。

ただし・・・

 

2分だけ。

 

道子を思う沈黙は3分すら続かない、嫁はカップラーメンに負けた。

今本は2次元の映像を映し出す箱型映写機に魂を奪われ、一喜一憂。

私と和哉は焼酎と会話が織り成す螺旋にただただ巻かれていた。

いつもの福山家の夜席は、瞬く間に戻ってきた。

一時すると山本夫妻が追加焼酎とスナック菓子を持参して登場。

私は道子が苦悶の様でカーテン越しに眠りについている事を思い出し、酒の席に相応しくない内容だけれどもそれを包み隠さず伝えた。

山本夫妻も和哉と今本同様、我親族の事の様に同情し、そして、落胆の声を洩らした。

しかし、この夫妻も3分後には酒が織り成す馬鹿話の渦中にいた。

 

誰かの雑学漫談が披露されている時であったろうか、忘れられたカーテンの奥から一人の女が動き出した。

そう、道子である。

酒の席は一瞬にして、その微妙な動きに奪われた。

皆が皆、何も言わず、カーテンの揺れに目をやった。

道子はその揺れるカーテンを思うがままに開け放つと、鬼の形相で表れた。

それは皆の酔いを一気に消し飛ばす、まさしく悪鬼羅刹の形相であった。

酒の席に、その全てを預けていた面々は、凍りついたかの様に沈黙し、そして、一時すると思いだしたかの様に無理に喋りだした。

「大丈夫?みっちゃん?」

「おい、どうしたんや?」

「らしくないぞ!!」

道子はそんな言葉、聞こえてもいないのだろう、形相を固定し、一目散に居間を後にする。

行き先は、もちろん厠、現代風に言えばトイレである。

酒の席は道子の帰りを待つべく沈黙を守った。

皆が皆、道子の形相が後光差す仏になって帰って来る事を期待しているようである。

しかし、出てきた道子、それは苦悶の絵の極みともいえる”ムンクの叫び”、まさにその形相であった。

青い、そして、虚ろ、生きているようで生きていない、半生人のくせに苦しみだけは強く心の底に訴えてくる、そういう顔だった。

私達は思った。

”これは酒を飲んでる場合じゃないのでは?”

和哉が堪りかねた様に言った。

「もう11時だし帰るか?みっちゃんも調子悪いし・・・」

私は返した。

「そんな気にせんでええぞ」

皆、慎として考える。

そして、

「じゃあ、もう一杯だけ飲んで帰るか」

「そうしよう、そうしよう」

皆の意見は一致した。

しかし、皆が一杯を飲み干す時、当たり前の様に二杯目を注ぐ一升瓶は傾けられていたのだが・・・

 

道子は一度目を覚ますと、それからは頻繁に居間に現れた。

その形相は決まったリズムで羅刹とムンクを繰り返し、その身は寝床とトイレを行ったり来たりしていた。

そして、その形相は回を重ねる毎に迫力を増してくる。

時は午前0時を半刻も回った。

この時の道子の顔は”ムンクの叫び”というには軽すぎた。

なんと言ったらいいのだろう?とにかく、言葉にならないほどの至極苦悶の表情を浮かべていた。

それを見ると、私も悲しきかな人の子、つい堪えられずに飲み会の最中ではあるが、枕元に駆け寄ってしまう。

「大丈夫か、道子?」

「はぁ、はぁ、苦しいよぉ・・・」

「全然、治まらんとや?」

「うん、全然、治まらない、むしろ、ひどくなってるよぉ・・・」

道子の手は汗にびっしょりと濡れていた。

”普通の腹痛だったら、こんなに長く続かんだろ?まさか、重い病気では?”

この汗を手の甲にたっぷりと感じると、否応なしにマイナス思考に突入する。

そして、その思考は飛び飛びに散らばった単語達を集め、それらに手を繋ぐ様指示。

”走り出したら止まらない、腹痛、今日は土曜、はっ!!”

一曲の歌が私の心の宴会場を占拠した。

そして、ついに、偉大なる詩が警笛を鳴らす。

 

走り出したら止まらないぜ、土曜の夜の天使さ!!

 

横浜銀蝿!!

今日は土曜、そして、天使とは死ぬということ???

私は道子の手を強く握り締めると、汗だらけの顔を両手で掴み、こう尋ねた。

「救急車、呼ぶか?」

道子は、その汗を枕にびっしょりと滴らせながら静かに頷いた。

 

私は居間にすぐさま戻る。

そして、その左手は受話器を握り締め、そして、その右手は”119”をダイヤルしていた。

 

 

4、救急車

 

私は住所と名前と道子の容態を冷静に告げ、くれぐれも深夜なのでサイレンは消して来てくれと念を押した。

レスキュー受付は確かにこう言った。

「分かりました、サイレンは消して、すぐ行きます」

10分後、時は午前1時過ぎ。

救急車はけたたましいサイレン音と見るに痛い赤ランプを力一杯回しながら、社宅の前にそれはそれは派手に突入して来た。

誰からも一発で分かる派手な登場、お前は小林幸子か?と言ってやりたい心持である。

私は道子にジャンバーを着せ、手を取り、階段をゆっくり下りる。

案の定、周りを見渡すと”何事だ?”と言わんばかりに、真っ暗だった社宅に明かりが灯り、少しだけ襖が開くのが分かる。

皆さん、深夜の派手な来客に興味津々な様である。

もういっその事、救急車の屋根に上がって一発芸でも披露してやりたい心境である。

レスキュー隊員が三人、慌しく救急車から降りてきた。

「歩けますか?」

そう言いながら担架を用意する。

道子は、声虚ろに

「はい、歩けます・・・」

と言い、その担架に自ら腰をかけた。

隊員は、

「あ、歩けるんですか・・・」

と差し出した手を引き、悲しげに言うと、それを黙って見守っている男4人、女1人の酒臭い集団に目をやった。

そして、不思議そうに見回し、開口一番こう言った。

「旦那は誰ですか?」

私は吉本バリに心の中でズッコケながら、心底では、”俺が肩貸して降りて来たの見ろよ”とか思ったが、心静かに

「はい、自分です」

と、最高の挙手で名乗りを挙げた。

その後、レスキュー隊員は有無を言わさず、私を救急車に乗せると、それこそ荷物でも詰め込むかのように、ドアをイソイソと閉めた。

秒殺の連れ込み炸裂である。

これがヤクザまがいの風貌だったら、確実に東南アジアに売られる事を覚悟する風向きである。

カーテンの隙間から和哉の顔が見える。

彼の顔、インド人に見える、そして、私を誘ってる、そう思える。

彼は実際オリエンタルな顔立ち、それは否めない事実、しかし、この救急車から見える彼の顔は普段以上にオリエンタルに見える。

もはや日本人とは誰も思うまい、と私の心底が唸る。

その横には、ミスター後輩今本、彼の盛り上がった頬骨と油顔は、この隙間から見るに、人間の成せるビジュアルとはとても思われない。

宇宙人!!俺をさらって行くのか?

こうも思える。

更に、その奥で黒の服に身を包み、遠い目でこちらを見つめる山本夫、その横にはダボダボのドレスを身にまとい、不敵な笑みを惜しみなく晒すその嫁。

アダムスファミリー?

そうも思えた。

どこか遠くに連れて行かれる様な、それでいて、落ち着かない、救急車の中というのは、まさにそういった環境だった。

 

隊員は私に道子の詳細等を細かく聞くと、それをメモした。

そして、道子の通う産婦人科を聞くと、

「診察券を出して!!」

と怒鳴り声とも取れるような激しい声で私に診察券を求めた。

私が道子の母子手帳入れを渡すと、隊員はすぐにそれを広げ、一枚の診察券を取り出した。

そして、車内の電話口にそれを持っていき、受話器を取り、その後、ハッとした面持でこちらを振り向いた。

”なんだ?”そう私が思った瞬間に、隊員は、はにかみ顔でこう言った。

「これ、歯医者の診察券・・・」

道子は痛いのか可笑しいのか分からないがピクピクと身悶えている。

私に至っても笑っちゃマズイとは思うのだが、どうしても、頬肉がここぞとばかりに盛り上がらずにはいられない。

隊員は赤ら顔で、今度こそ正しい診察券を掴むと、電話をかけ、道子の状態を産婦人科に伝え、最後にこう締めた。

「それでは、今から10分後に向かいます!!」

隊員はそう叫ぶと、電話を切り、運転手に病院名を告げた。

私も運転手にソッとこう告げた。

「サイレンは消してください」

運転手はこちらを見、確かにコクリと頷くと、その直後、けたたましいサイレンを鳴らしながら車を出した。

私は心の中で”ギャフン”と呟いた。

カーテンの隙間から、一時前まで共に飲んだ友人達が見える。

彼らは一瞬にして、小さな虫程の大きさになる。

そして、すぐに見えなくなった。

真っ暗闇。

けたたましいサイレンと赤い光の去った後には、寂とした暗い闇だけが残っているように思えた。

 

救急車は私と苦しむ道子を乗せ、国道299号線バイパスを走り始めた。

 

 

5、恐怖の産婦人科

 

車中、道子は軽い人間ドックにかけられた。

「血圧?」「110-60!!」

「心拍数、心電図?」「異常なし!!」

「熱?」「36度4分!!」

隊員はそれらを読み上げると、私の前でこう洩らした。

「うむ、絵に描いた様な健康体だ」

私は顔から火が出る思いだった。

”なぜ故に救急車の中で絵に描いた様な健康体と言われなければ・・・”

普段なら嬉しい隊員のこの言葉も、この環境では救急車を呼んだ私を責めているとしか思えなかった。

”何か1つでも悪いところがあれば、面目も立つのに・・・”

と思うが、いかんせん、腹が痛いは数値に表れない。

道子の頭でも振ってもらえれば”カラーン、コローン”とかいう、脳味噌の転がる音で、隊員を驚かせる事が出来るのに!!とか思ったりしつつ、苦渋の時を過ごす。

ときに隊員が小声で

「君・・・」

と言ってきたので、

「はいっ!!」

と体育会系的に最高の返事をしたのだが、

「酒臭いよ、嫁さんがこんな風になっているのに」

と叱られたのも苦渋に拍車をかけた要因として挙げておこう。

 

とにかく苦渋の時とは言いながらも、そこはさすがの救急車、あっと言う間に産婦人科に着く。

救急車を降りると、そこには看護婦が2人、腕捲りして待ち構えていた。

看護婦は息をつく暇も与えず道子を下ろすと、隊員に移動の指示を与える。

私は道子の荷物持ちとなり、慌しく移動する集団の最後尾で、なるべく目立たない様に爪先立ちで付いて行く。

道子は担架のまま一足早く分娩室に連れて行かれ、その後、方向転換すると、その脇の陣痛室という小さな小部屋に運ばれた。

看護婦は道子を寝せると、イソイソと診察器具を運んできた。

どうやら腹の中にいる子供の様子を見るようである。

私は興味津々でベッドの横に立つと、その様子を穴が開くほどに眺めていたのだが、看護婦は私が気に入らないらしく、カーテンをすごい勢いで締め、同時に若い看護婦に目で合図をおくる。

若い看護婦はそれを受けると私の袂を掴み、無言で別室へ移すのである。

俺の嫁なのに・・・そう思うが、看護婦の目が異様に冷静で怖かったし、それでいて分娩室は頑として男人禁制な雰囲気をつくっていたので逆らう気も起きないのである。

 

私は連れられるがままに分娩室外の待合室に1人残された。

さて、この別室、この世のものとは思えない程に寂とした空間だった。

見えるのは暗い廊下と自動販売機くらいなもので、他には何も見えない。

ただ、闇の中から赤ん坊の泣き声と心電図の音が交互に聞こえてくるだけなのだ。

「寂しい・・・そして、怖い」

思わず、そう洩らしてしまう。

気温すら寒く感じてきたので、唯一の明かりである自販機からコーヒーを買う。

”ガタン”という音が静かな廊下に響き渡り、ビクッと体が跳ねるほど驚く。

鳥肌が立つ、そして、ほんの一時前の看護婦の対応を思い出す。

”なんという対応の悪さ、更にこんな所に1人残しやがって・・・”思い出すに、段々、腹が立ってくる。

「何か復讐をしなくては・・・」

廊下に出て、まずは屁をふってみる。

高音域の実が出そうな音が廊下いっぱいに響き、そして、ほのかに臭う。

「ざまあみろ・・・」

そう呟いてみるものの、やればやるほど虚しくなる。

備え付けの漫画を読んでみたりもしてみるが、なぜか置いてあるのは怪談モノばかり、何か私に恨みでもあるのか?と思わざるをえない。

 

30分くらい待たされたであろうか、若い方の看護婦がこの待合室に現れ、愛想なしに

「下に行ってください」

と言って颯爽と消えていった。

私はこの部屋には一秒たりともいたくなかったので、すぐさま、荷物をまとめると、近くの階段から一階へ下りた。

はて?

そこには闇しかなかった。

一寸の光すら見受けられない。

ココは違う!!私はそう確信し、後ろを見ないように階段を一気に駆け上がる。

そして、あの待合室へ向かった。

待合室の電気は消えていた。

これに伴い、二階も真っ暗だった。

”どこに?どこに行けば良いのぉおおお!!”

心の声は冷静さを失い、震えながらそう叫んだ。

その時・・・

「旦那さん・・・」

!!!

「ハウッ!!」

私は思わず、振り向きざま、声を上げてしまった。

寂とした廊下に私発恐怖の叫び声が響き渡る。

声を掛けてきたのは看護婦だった。

彼女は怯える私を捕まえると

「お静かに」

そう一喝し、降り口を教えてくれた。

私は、正直こう思った、産婦人科で死んでいった水子の霊かと・・・

 

道子は一階で未だ苦痛な顔をしながら佇んでいた。

手には薬を抱えている。

もちろん、真っ先に検査の結果を聞く。

「どぎゃんだった?」

道子は苦痛に歪んだ顔ながら、一生懸命、その中で笑顔を作り、

「うん、子供には異常なかった」

と言う。

まずは心から一安心。

母体の安否も問うてみる。

「入院とかせんで良いんや?」

「入院しますか?って聞かれたけど、トイレが遠いからやめた」

とりあえず、話を聞くに大した事はないようなので帰ることにする。

私は、まず電話を取ると、今本がアルコールを入れなかった事を考え、迎えに来てと一報入れる。

今本は快く了解。

午前2時過ぎという時間なのにありがたい話である。

 

やっとの事で悪夢の産婦人科から脱出。

私的には心から”ホッ”という声が漏れる一瞬である。

しかし、道子に至っては、この刹那、急にしゃがみこむ始末。

「うー、トイレ行きたい・・・」

発作が始まったようである。

私は今出たばかりのドアのノブを回してみた。

開かない。

どうやら、オートロック式の様である。

「おい、近くのコンビニでやれ、開かんぞ」

そう言い、肩を貸し、道子を30メートル先のコンビニまで連れて行こうと試みる。

しかし、道子、

「やだ、動けない動けない!!一歩も動けない、漏れるぅ!!」

騒ぎ出す始末、デパートでゴネル子供の如し、ちなみに彼女の身長、173センチ。

私は仕方ないので、インターホンを押し、

「すいません、今、救急車で運ばれたものですが、嫁がもよおしてきた様なのでトイレを貸してください」

と嘆願。

すると、インターホンからは

「あん・・・」

とだけ返って来、その直後”カチャン”とドアの開く音がした。

道子はそれを聞くと、一歩も歩けないとか言っていた割には、猛ダッシュでトイレへ駆け込んだ。

 

トイレから出てきた道子の顔には疲労の痕がクッキリと浮き出ていた。

”早く寝せてやりたい・・・”

道子の表情はそう思うには十分過ぎる様だった。

そこには久し振りに嫁を心底労わる夫がいた。

初冬の寒さが痛い。

私は道子の肩を抱くと、真っ暗な闇の中、迎えの今本を待つのだった。

 

 

6、原因

 

今本の車はすぐに現れた。

私は道子を担ぎ上げ、車に乗せると丁重に礼を言い、社宅まで向かってもらった。

その帰りの車中で、道子に聞き忘れていた重大な事を思い出した。

早速、問うてみる。

「おい、道子、ところで腹痛の原因はなんや?」

道子はすぐには答えなかった。

私はその様子を見、原因は分からなかったものと判断。

道子をリラックスさすべく、待合室が怖かった話や看護婦の対応の悪かった話をして聞かせ、そして、最後にこう付け加えた。

「しかし、ここまで大騒動して原因が分からんというのも嫌よなぁ」

運転手の今本もウンウンと深く頷いた。

「先生は何も言わんかったんや?」

私が続け様に聞くと、道子は口をモゴモゴさせながら露骨に言いにくそうな顔をした。

その顕著な表情の変化を目の当たりにし、一筋の凍る思いが私の頭をよぎった。

”まさか・・・母体に影響を及ぼす重病の発覚?”

確かに子供は大丈夫とは言ったが、母体が大丈夫とは道子は一言も言ってない。

冷や汗が出る、それと同じタイミングであったろうか、道子が重い口を開いた。

 

「あのね・・・あれ、単なる下痢だった・・・」

 

え?

私の全生命活動が一瞬停止したかのように思われた。

そして、すぐに情報の整理が始まる。

腹痛・救急車・単なる下痢、嫁の名は道子。

まとめると「単なる下痢で救急車を使う女、道子」活字にすると更に威力抜群である。

見れない、午前2時過ぎに快く迎えに来てくれた今本の目が見れない。

帰れば皆が口を揃え、こう聞いてくるだろう。

「みっちゃんは大丈夫?原因は?原因は?」

嫌だ!!帰りたくない!!

現実を直視できない私の目は虚ろだった。

そして、その瞳の奥では強い念が運転手今本に向けて発射されていた。

 

お願い、二人を産婦人科に戻して。

道子は入院、私は幽霊部屋へ。

このまま帰ったら、二人のメンツはどうなるのぉおおおおおお!!!

 

今本の車はそんな念知る由もなく、深夜のバイパスを社宅目指して突き進むのだった。