悲喜爛々7「同郷と同郷」

 

 

1、東屋にて

 

結婚して半年も経ってない紅葉の頃、私は嫁の道子と二人、近所の小料理屋にいた。

この小料理屋、名を「東屋」といい、四方を陸に囲まれた埼玉には珍しく、活きの良い築地直送魚を食わせてくれる私の行付店である。

「うわぁ、この鰹の赤、堪らんですねぇ…」

目の前に出された艶やかな鰹に思わず声が出る。

「福ちゃん、今日は幾らで?」

大将が「元気?」と言うが如く自然にそう言った。

私は反射的に道子の方を向いた。

角膜は嫁の手を写し、そして中では見える指先の数を数えた。

1、2…

2本か…

私の眉は思いっきりハの字に落ちた。

「すんません…今日は二千円でお願いします…」

「あいよ!一人二千円ね!」

大将は柏手を打つと厨房に消えていった。

 

これは私と東屋のいつもの絵だった。

席に座ると何を言うともなくオススメの一品が出され、その後「今日は幾ら?」と大将からいつもの問いかけがある。

私は持ち金を探り、酒代込みの値段を付ける。

大将はその値に合わせ、「今日は焼酎しか飲むな!」とか「お新香だけ!」といった感じで制限とメニューを決める。

もちろん、今日の一人2000円という言い値だと飲み物は焼酎のみ、食は鰹と揚げ物だけと制限が付くわけだが、それから交渉が始まる。

「大将、太っ腹!お願いだからウニも付けて!」

「馬鹿言ってんじゃねー!」

「私、イクラも食べたい!」

「勘弁してくれよぉ!」

「愛してる、男前、高倉健もどき、だから鍋だけでも!」

夫婦で食い下がり、「しょうがねぇなー、鍋だけだぜ」と大将も渋々承諾。

これがいつもの東屋での始まり方だった。

私と道子は鰹に舌鼓を打ちながら、厨房で鍋が出されている事を横目で見、「勝った・・・」と一言呟くのである。

 

ところで今日の東屋には、うちらの他にもう一組お客がいた。

隣のテーブルであるが、40過ぎのガッチリとした中年男性と30過ぎの派手な姉さんという組み合わせである。

私達が叫び声ともとれる声で交渉を続けていた為、二人、話もせず、こちらをジッと見ている。

「すいません、少し騒がしかったっすね」

私は痛い視線を感じ、軽く頭を下げた。

中年男性はそれを受けると

「なんのなんの、しかし2000円とは交渉上手だねぇ」

そう言い、徳利を掲げ、私の元に寄って来た。

「大将、この若い二人に日本酒出してやって、俺がもつから」

中年男性はそう言うと、私に猪口を渡し、右手の徳利を傾けた。

私はそれを躊躇なく一気に飲み干した。

「いやぁ、奢りだと思うと五臓六腑に染み渡りますねぇ、うまい!」

そう言い、返杯した。

「いい飲みっぷりだ、負けられん」

中年男性はそう返すと、名を「杉田」と名乗り、猪口をクッと傾けた。

猪口はすぐに私の元へ返ってきた。

「自分、福山と言います」

私も名を名乗り、空にした猪口をいっぱいにして中年男性杉田さんに返した。

杉田さんはニヤリと笑った。

女二人はただそれをジッと眺めているだけだった。

 

 

2、山鹿

 

夫婦水入らず二人だけの夕食会はメニュー交渉後15秒で終わった。

東屋に来て30分、そこは四人組の小酒宴が繰り広げられていた。

いつの間にか二つあったテーブルは一つにまとめられ、鰹の皿だけだった机の上は高級な魚達で溢れ返っていた。

道子も気付けば、杉田さんから「道子ちゃん」と呼ばれ、30過ぎの派手な姉さん朱美さんからは「道子」と呼ばれていた。

酒に至っては一升瓶がカラカラに乾いて床に転がり、2本目も杉田さんの脇で底を尽きかけている様相であった。

 

私は完全に千鳥足だった。

「いや、そぎゃんこっはなかっですよ」

「なん、言よっとですか?」

「ばー、やおいかんですね!」(どうしようもないの意)

何でも「です」を付ければ敬語という熊本の弁文化が完全復活。

1時間を待たない内に理性というオブラートで包み込んでいた熊本弁が剥き出しとなる。

「福山君、君、熊本出身かい?」

杉田さんが不意にそう言った。

真剣な顔にキラリと光る金歯が目立つ。

気付けば二人の距離は肌の触れ合う寄り具合になっていた。

「はい、そうですが・・・」

私は触れ合う腕から伝わる温もりを怪訝な瞳で凝視しながらそう返した。と…杉田さんの真顔だった顔が一転、恵比須顔になった。

「うむっ!!」

強烈な柏手が小料理屋に響いた。

直後、杉田さんの喉チンコがブルンブルン揺れた。

「なつかしいなぁ!俺も熊本出身だ!」

杉田さんは私の肩を両手で掴み、その目は愛人でも見るかの如く潤んでいた。

当然、同郷なんて埼玉じゃ滅多に会えるものでもなく、私も嬉しくなる。

触れ合う腕を、今度は私の方から更に押し付けた。

「本当ですか!熊本のどこですか?」

「いやぁ、上の方でね、知らないかもしれないねぇ、山鹿っていうとこ…」

 

!!!ドキン!!!

 

私の胸がとれたての車海老の様に威勢良く跳ね上がった。

「俺も山鹿ですよ!山鹿のどこですか?!」

思わず杉田さんの腕を力一杯掴んでしまった。

その手は汗をたっぷりと含んでいる。

杉田さんは鼻を思いっきり膨らまし、酒臭いであろう息を私に思いっきり吹きかけた。

「ああ、なんて出会いだ。俺は吉田!八幡小たい!」

「俺は鍋田ですよ、うわぁあ、埼玉での会話とは思えんですね!」

熊本県は山鹿市、たった三万五千人の町の人間が一億ニ千万の日本というフィールド、それも関東は埼玉で出会った事に二人は震えた。

「いやぁ、今日の酒は、んーなこて、うまか!」

「俺もですよ、ぎゃん酒はなかなかにゃーですよ!」

「福山君!」

「ああ、杉田さん!」

二人は酒臭い吐息をお互いに思う存分吐きながら、もう一度、きつく握手と酒を交わした。

 

 

3、春日部

 

「福山君、この人がこんなに楽しそうな事ってなかなかないの。私、嬉しい…」

杉田さんの連れ、派手目の姉さん朱美さんは涙目だった。

「本当に心の優しい人なの。これからも仲良くしてやって、うぅ…」

朱美さんは杉田さんの手を握ると、声まで濡らしてそう言った。

見ると、杉田さんに至っては重ねられた朱美さんの手の甲に空いているもう一方の手を重ねていた。

二人の手は机の上で雁字搦めに絡み合った。

「年は離れているけど、君達とは仲良くやっていきたいなぁ…」

杉田さんがそう言うと、朱美さんのもう一方の手まで重なった。

そして、その四本の手達はクネクネといびつなウネリを見せ始めた。

私と道子は熟年カップルが繰り広げるハンドショーに釘付けになった。

目線を離したかったが、釘付けハンドショーの上で二人の目線はそれを許さんと言わんばかりに私と道子に向けられた。

 

「ところで、朱美さんの出身はどこですか?」

私はネットリとした空気を打破すべく、今にも泣き出しそうな朱美さんにそう聞いた。

朱美さんは泪を拭く素振りを見せると「入間」と答え、親から勘当されたので、今住んでいるココこそが地元だと言った。

聞けば、朱美さん、若い頃はレディースの頭として、気持ちよくブイブイ言わせ、口舌に尽くしがたい悪事をやってきた思い出があるとの話である。

「1つ聞かせてくださいよ」

私は軽い気持ちでそう言い、それから朱美さんの自ら語る武勇伝が始まった。

 

ここに始まる朱美さん曰く口舌に尽くしがたい話、一端始まればまさに尽きない口舌であった。

1つの話が終わり、次の話題に移ろうとするのだが「あ、もう1つあった」とふりだしへ。

次から次へと新しい武勇伝が記憶の泉から湧いてくる様なのである。

中から書く事が許されるソフトな事例を2本ほど抜粋する。

 

隣町のヤンキーにレイプされかかった。

そのお返しに両手両足の人数を引き連れて、血眼で見つけ出し、ガソリンぶっかけてお仕置きした。

 

とか・・・

 

腹立つレディースグループに出くわしたので、乗ってたバイクを飛び降り、バイクだけ集団に爆弾として突入させた。

これで3人が骨折った。

ちなみに私も骨折った。

 

等々、レベル的末端の話でこれであり、私としては全てに興味を示さずにはいられなかった。

ちなみに、どの武勇伝も最後には「この人に比べれば可愛い」と杉田さんを指す締めが付いてきた。

私はこの悪事を越えるには人殺しかハイジャックか放火しかなかろうと思ったが口にするのはやめた。

 

熱心に聞き入る私の隣で道子は寝た。

始まって一分だった。

口元にはヨダレすら垂らしていた。

 

朱美さんの武勇伝の中からよく出る単語をピックアップすると「粕壁レディース」「ロビンソン」「大塚家具」「4号線」「16号線」等々、埼玉県春日部市に縁の深いものが挙げられた。

私は道子の実家が春日部という事があったので「春日部がお好きなようですね?」と聞いた。

朱美さんは興奮して赤く染まっている頬をブンブン振った。

「違う違う、私、高校まで春日部、出身が春日部、今は行く事もないけど…」

赤い顔を手で伏せながらそう言った。

見れば、朱美さんの脇では日本酒が一升空いており、その瓶には「あけみ」とキープネームが刻まれていた。

相当酒が好きな様であり、そして、相当酔っておられるようである。

「私の青春は春日部なのよ、ウンニャッ!」

なぜか都はるみばりの掛け声を上げながら、朱美さんはシドロモドロにそう言った。

 

忘れていたが、このウンニャッ!で深い眠りから目覚めた女がいた。

それは我嫁、その名も道子、レム睡眠よりご生還である。

「え!!春日部!!本当ですか?」

今の今まで静かに鎮座していた置物とは思えない動きで騒ぎ出す。

“いたのか、こいつ?”そう思った。

「キャー、私も春日部なんです、キャー、すごい偶然!」

道子は少しだけ垂れたヨダレをさり気なく拭き取ると、ロボっぽい動きで朱美さんとの接触を求めた。

手の動きは“肘使えよ”と思わず突っ込みたくなるくらい完成度の高いロボットパンチそのものである。

朱美さんはそんな道子の一言を聞き、飛び掛からんばかりの歯茎を惜しみなく披露した。

「道子、本当?キャー!」

「朱美さん!キャー!偶然、偶然!」

そんな二人のやり取りを杉田さんと私はただジッと見つめ、そして、声を揃えてこう言った。

「山鹿、そして、春日部…こんな偶然あるか?」

時は経ったようで、まだ9時を回ったばかり。

4人組は出会って2時間目だった。

 

 

4、男気溢れる男「杉田」

 

「おい、大将、ここ勘定」

杉田さんの発言により、私と道子の夫婦で夕食会も同時に締められた。

「あいよ、福ちゃん達は一人二千円」

大将がそう言い、道子は財布を出そうとバックに手を入れた。と、その瞬間…

「何で若者から金を取るかっ!」

杉田さんの一喝が大将に飛んだ。

「俺が払うにきまっとるだろ…幾ら?」

杉田さんは眉間に皺を寄せてそう言う。

「ああ、そう…じゃあ、三万二千円」

大将が値を言うと、道子が「出します」という間もなく、杉田さんは福沢諭吉を四枚出した。

「釣りの分は福ちゃんにうまい焼酎を入れといて!」

そう言って、東屋を一番に出た。

道子は朱美さんに「悪いですよ」と言いながら、何とも微妙な四千円を渡そうとしていたが朱美さんは「男気を察してやって」と言い、その本当に微妙な四千円を跳ね返した。

私は“出すなら一万円は出せよ”と陰ながら思いつつも店を出る杉田さんの背中に得も言われぬ感動を覚えた。

「ありがとうございます!次はうちらが出しますんで!」

私は駆け足で東屋を出ると無心でそう言った。

杉田さんは斜に構えると、タバコで深呼吸した。

「若者に奢られるほど落ちぶれとらん…タクシーを呼んでくれ」

そう言った。

「俺、車で来てます。帰りくらい送らせてください…」

杉田さんの“タクシーを呼べ”という一言に、一つくらい恩返しがしたいと思っている私の心持が食らい付いた。

私の両手は杉田さんの裾を掴んでいた。

「え…そうは言っても…」

困り顔の杉田さんだったが“貴方を送りたい光線”を察してくれたらしく「しょうがねーな、朱美、甘えるぞ」と、最後は折れてくれた。

朱美さんは「はい!」と綺麗な声で返事をすると、杉田さんの腕に絡みついた。

 

「狭いですが乗ってください」

私は当時の愛車だったホンダライフ(軽)を表に回し、後部座席のドアを開けた。

「本当に狭めーな…何年ぶりか?軽なんて…」

杉田さんは楽しそうにそう言い、10秒後には朱美さんと密着しながら、

「いや…意外と狭いのも悪くないな…」

そう言った。

そして…

「やん…どこ触ってんの!」

「ええではないか…むふふ…」

後部座席から届けられる大人の会話に新婚ほやほやウブな二人は後ろも振り向けず赤面するのであった。

 

「家、どこですか?」

私は杉田さんにそう聞くと東屋前から車を出した。

「まだ帰るわけなかろぉ、もう一軒行く」

“元気な人だ、あれだけ飲んだのに”私は心底そう思ったが、何も言わず、言われるがまま指定のスナックまで二人を送った。

スナックには3分もかからない内に着いた。が…嫁はその間に熟睡していた。

「本当によく寝る子だねぇ。大きくなるはずね…」

朱美さんは感心と呆れの混じった溜息声で173cmの道子を眺めた。

「いつもの事ですから…」

私はそう言うと車をスナック入り口ギリギリまで突っ込み、二人を降ろした。

「それじゃ、また飲みましょう、電話します」

杉田さんの携帯番号が書かれた紙切れを振りながら、私はギアをバックに入れてそう言った。

「おいおい、ちょっ…」

車が後ろにピクリと動くと、杉田さんは強い語勢でそう言いながら、車の尻を抱きしめた。

「まだ帰るなよぉ。皆で飲もう、奢ってやるから!」

エンジン音に混じってそう聞こえ、バックミラーには最高の笑顔をした杉田さんが映っていた。

テールランプが杉田さんの金歯で反射し、赤く光っているのが眩しかった。

「いや…もう、うちらは…」

私はシドロモドロの断り文句を空いた窓の隙間から発した。

しかし、その勢いの無い声を掻き消すかのように窓の隙間から朱美さんの透き通る声が入ってきた。

「今日は若者が連れなのぉ!」

四本の指を立て、スナックのママらしき人物と話している、その声であった。

「4人…空いてる?オッケー?」

朱美さんはピカ一の笑顔を保ちながら右手で丸を作って私を見た。

「福ちゃーん、オッケーよ!」

杉田さんの大きな手が私の頭に触れた。

「よし!行くぞ!」

私は無言でパワーウィンドーの[UP]を押し、窓の隙間を塞いだ。

道子は隣で安らかに、それはもう安らかに眠っていた。

「起きろ、道子…もう一軒行くぞ」

私の固まった表情からは、ただその言葉だけが繰り返し繰り返し発されるのであった。

 

 

5、謎多き男「杉田」

 

そこは息苦しくなるほどゴージャスなスナックだった。

シャンデリア、フカフカの足元、煌びやかな宝飾品に包まれたママ…豪華絢爛とはこの事を言う、心底そう思った。

「初めてスナックに入るぅ…むにゃ」

起きたばかりの道子は眼を力一杯擦りながらソファに座った。

「これはこれは、お久し振りです」

不意にどっからどう見ても山城新伍としか思えない風のオヤジが杉田さんにそう言った。

耳元には金のピアスを3個、首元にはこれまた金のネックレス、髪色も金という全身金尽くしの親父がカウンターに座っていた。

「お、長!久しぶり!テメーの裕次郎、最近、聞いてねーな」

長と呼ばれるこのオヤジ、それを聞くと懐の財布をイソイソと取り出した。

「この前はすいません。これ借りてた分。足りんかったら言って下さい」

そう言うと、どう見ても持ち歩く金額じゃないだろうと思われる諭吉20枚ほどを杉田さんに渡した。

「ああ、あれか」

杉田さんはそう言うと、それを懐に収めた。

「福ちゃん、座って…おう、お前も来い」

私は言われるがまま杉田さんの隣に座り、長と呼ばれる親父も言われるがまま私の隣に座った。

親父二人に挟まれる青年の絵、出来上がりだった。

テーブルを挟んで反対側には、道子と朱美さん、二人で熱弁中の絵があった。

「この若い兄ちゃんは福山、俺の同郷の人間だ。こいつは長。福ちゃん、長って呼び捨てでいいぞ」

杉田さんは座るとそう言って脇に来たママを見た。

「杉ちゃん、久しぶりねぇ、長ちゃんも寂しがってたわよ。それにしても、珍しく若いお兄ちゃんを連れてるのね?新人?」

ママはウイスキーの水割りを作りながら、早口でそう言い、私の顔を見た。

年は30後半の様に思われ、容姿は典型的お水系の美人だった。

「いや、今、杉田さんに会ったばかりの人間です」

私が引き攣り顔でそういうと、対してママは驚き顔で言った。

「それは怖い人と知り合ったわねぇ。でも見かけによらずいい人だから」

「見かけによらずはねーだろ!」

杉田さんは笑いながら突っ込むと、私の背を思いっきり叩いた。

「心行くまで飲め!」

杉田さんはそう言って、豪快に笑った。

 

出される酒はヘネシーという名の洋酒だった。

私は典型的日本人の為、飲むアルコールは日本酒、焼酎など、日本名の酒であり、ウイスキーとかブランデーとかの横文字酒は全くもって免疫がなく、胸を張って苦手ですと言えた。

横文字飲酒店「スナック」でも大抵は甲類焼酎が置いてあり、うまいとは思わずとも横文字酒をかわす事が出来た。

しかし、この高級スナックは一味違う様でボトルコストから違うんだぞ!と言わんばかりの紋章入り洋風エレガントボトルしか置いてない。

「ヘネシーって何?ワインですか?」

握ったグラスの中身を不思議顔で見、小声でママに聞いた。

色は麦茶そのものだった。

ママはなぜか大爆笑し、「飲めば分かる」そう言った。

しかし、飲んでもさっぱり分からなかった。

胸がカーッと焼けた。

「焼酎、ありますか?」

一杯のグラスを空け、ついに耐えきれずそう聞いた。

“無いだろう”そう思っていたが、案の定「無い」の返答がママから帰ってきた。

「福ちゃん、やっぱ、洋酒は合わんかったか!」

杉田さんが私の肩を抱きかかえながら言ってきた。

「いやぁ、これ、何か分からんばってんが九州の人間には合わんですね…」

私はグラスを逆さにしてそう言った。

瞬間、杉田さんの眉はハの字、眉間には皺が所狭しと寄ってきた。

大魔人の様だった。

「すまん、すぐ買いに行かせる!長、コンビニで焼酎買って来い!」

杉田さんは長の頭を思いっきり叩いた。

「悪いなぁ、福ちゃん、気が利かんで…」

私はどう見てもヤクザ風情の長をパシリに行かせるわけにはいかないと思い、

「あ、俺が買ってきます!」

言いながら、立つ長の手を掴んだ。

「ぬぁっ…」

不意に長が苦悶の声を上げた。

 

は!!・・・

 

見れば、長の手からは小指と薬指がなくなっていた。

傷跡は痛々しいと言うよりも生々しいと思われる水気溢れるモノだった。

ジュクジュクとした手には包帯も何も巻かれておらず、赤い肉の中に白い何かが見え隠れしている。

新鮮な現場だった。

私は、ふと己が手に不思議な温かさを感じ、見ると、そこには長の体液がベットリと付着していた。

「ああっ…すいません…」

私はおしぼりで手に付いた液を拭き取りながらそう言った。

液は拭いても拭いても取れないように思われる温かさを残していた。

「いや…いいよ…ちょっと待っててくれ。焼酎、すぐ買ってくる」

長はそう言い、固まった私を残してスナックを出て行った。

 

「福ちゃん、焼酎、ちょい待てな」

杉田さんが何も見なかったようにそう言った。

「杉田さん、長さんの手、白いの見えてましたよ。あれ、骨じゃないですか?手当てせんと!」

早口で捲し立てながら私は杉田さんとママさんに言った。

杉田さんとママさんは静かにヘネシーを一口飲んだ。

「福ちゃん、この年になると病院に行けん事情ってのもある。気にせんこった…」

杉田さんは真顔でそう言った。

初めて見る杉田さんの真の顔だった。

私は何も言えなかった。

正直、足が震えていた。

 

嫁、道子は酔ってきたようで饒舌になっていた。

同郷者という事もあり、朱美さんとかなり仲良くなっているようである。

私は長が買ってきた700円の焼酎をクッと飲むと、長のカラオケに合わせ、手を叩いていた。

長は杉田さんの命で石原裕次郎の歌を歌っている。

5本の指が揃った右手でマイクを握り、対の手はポケットに入れていた。

「去年はこの歌を聞きながら、新宿で100万円分飲んだ」

杉田さんが間奏の間を縫ってそう言った。

「100万?」

額に驚き、繰り返す私に杉田さんは続けた。

「あいつ、どうしようもない野郎でな…何度、命を助けた事か」

「命をですか?」

「手で済んで良かったんじゃねーか…」

「手で済んで!」

私は杉田さんの一つ一つに一々大きな震えを覚えながらも、その全てに食いついた。

そして、ふと一つの疑問が浮かび、無意識無想に口が動いた。

「杉田さん、仕事、何やってるんすか?」

 

“はっ!!俺は何を…“

 

言った後に私の中から“ソレハ、シツゲンデス”という警告が発された。

冷や汗がドッと出て、私の視線は杉田さんから離す事が出来なかった。

杉田さんは目をパチクリさせると、考える仕草をした。

ママは相変わらず無表情で私の焼酎をジョッキに注いでいた。

「仕事ねぇ…」

私は息を飲んで、呟いている杉田さんを見た。

「強いて言うなら人助けが仕事だな」

杉田さんは笑いながらそう言うと、長と共に石原裕次郎を大声で歌い始めた。

ママはジョッキ焼酎を私に渡すと「飲みなさい」、一言そう言った。

邪魔なエンブレムの付いたヘネシーに比べれば、下町のナポレオンは美味かった。

私は手の震えを酒で抑えるべく、それを一気に飲み干した。

 

 

6、再会と記憶

 

「山鹿と春日部のカップルが一億二千万人の日本で出会う確立を計算すると0.000024%、つまりは24/1億になる。どうだ参ったか!!」

私は朝礼で同僚にそう自慢した。

私にとっては、杉田さん、朱美さんとの出会いの日は奇跡と喜びの日、そして誇れるネタだった。

 

そんな奇跡の日から1ヶ月後のある日、一本の電話が私に届いた。

杉田さんからである。

所沢でもう一度飲もうという誘いの電話だった。

当然、二つ返事で返すと、道子にそのまま伝える。

「杉田さんからだ!所沢で飲むぞ!」

道子も快く受け入れた。

 

ところで奇跡の日翌日、酔いから覚めた私は杉田さんの生業が怪しいと思った終盤の出来事が頭から完全に消え失せていた。

残っていたのは“奢ってもらった”“超確立の出会いだ”“ネタになる”等の東屋で得た情報、これだけだった。

生々しい長の手、杉田さんの不敵な笑い等々は道子に伝える事無く今日という日を迎えていたわけである。

記憶消去の原因はもちろんアルコール過多、これだった。

私の記憶は飲酒代行の車が来た事をうる覚えで記録しているのみで、スナック後半部分はほとんど真っ白だった。

それでは、なぜ前述のものが書けたのかと言うと、このお誘いの飲み会で私の醜態を杉田さんが赤裸々に語ってくれたのである。

赤裸々話のキーワードは私に一部の記憶を蘇らせた。

同時に決して表沙汰には出来ない醜態と呼ぶに相応しい私の泥酔話も聞かせてもらえた。(この記憶は蘇ってない)

…と、一月前の話で盛り上がりながら杉田、朱美、私、道子の4人組は所沢で再会を祝う飲み会を繰り広げていた。

「福ちゃん、今日は朝まで付き合うだろ?」

杉田さんは日本酒を水の様に飲りながら言った。

私は同じペースで行くと二の舞になるという反省が頭を過ぎり、ペースを落として飲みながら言った。

「はい、今日は醜態晒さず、クールに朝までお付き合いします」

「えっ!!」

道子は私の朝まで発言に感嘆の声を上げた後、私のやる気を表す全開鼻の穴を見、ふーっと観念の溜息を吐いた。

「よし、じゃあ、今日は所沢巡りだ!」

杉田さんは私が発した覚悟の一声を大きな胸で受け止めると、机上の伝票を朱美さんに預けた。

「一円も払わせんぞ!」

「なんて、素敵…」

私と道子は小声でそう言った。

 

 

6、入曽のスナック

 

入曽、そこは所沢から三駅離れた所沢市街の外れだった。

なぜ故に杉田さんがそこを選んだのかは謎だったが、奢ってもらう身分なので、黙って言われるがままにタクシーに乗った。

杉田さんからの誘いの裏には次の約束事があった。

・電車賃しか持って来るな

・気合を入れて来い

・店は俺に任せろ

この約束、もちろん道子には伝えていない。

酒を嗜む程度しか飲まない道子に伝えるのは酷な約束事だと思い、更に言ったら来ないだろうと思ってあえて言わなかった。

その道子、流れで仕方なくスナックに付いて来るものの、着くや否や深い眠りについた。

あっという間に私、杉田さん、朱美さん、計3人のテーブルが出来上がる。

さすがに杉田さん達も今回は驚きもせず、むしろ予想通りといった風に道子を端で寝せた。

 

さて、このスナック、実に辺鄙な場所にあった。

駅からかなり離れ、茶畑の脇にポツンとある。

道の舗装もされておらず、周りには当然何もない。

看板もなく、玄関すら暗い、しかし、ドアを開けると客は所狭しと入っており、その活気は早朝の市場を思わせる程だった。

「杉ちゃん、いらっしゃい、席、取ってあるわよ」

ボーンレスハムのような腕をしたママが私達4人を角の席に通し、自らも中心に座り込んだ。

席には既に焼酎の水割りが用意されており、簡単な料理まで広げられていた。

「はい、乾杯!!」

ママは私達が座ると、グラスを持つように目で指示し、そのまま乾杯を告げた。

息をつく暇も無い乾杯までの流れだった。

ママの敏腕さがよく分かる素晴らしい段取りである。

「杉ちゃん、朱美ちゃんと一緒なんて珍しいわね?」

乾杯の後、開口一番、ママはそう言った。

「まさか、その二人の若者は貴方達の隠し子じゃないわよね!」

何か言おうとした朱美さんを制す様にママは続けてそう言った。

「何言ってんのよ…杉ちゃんと私は結ばれない恋なのよぉ…」

朱美さんがママの喋りの隙を打って発した一言に私は驚嘆した。

杉田さんと朱美さん、二人は夫婦だと完全に思いきってたからだ。

「え、うちらてっきり二人は夫婦かと…なぁ、道子…」

言いながら隣の道子を見た。

「はふぃ…」

その返事は魂が抜けかけている事を露呈していた。

“早い!いくらなんでも早すぎる!”そう思った。

そして、その数秒後、道子は本当に深い眠りについた。

「夫婦だなんて、ねぇ…」

朱美さんは杉田さんの腕に絡みつき、その目は杉田さんの目を直視した。

杉田さんは微笑でそれを受け止めた。

「あらあら、今日は楽しくなりそうねぇ…」

ママはそう言うと、道子以外全てのグラスに焼酎を注ぎ足した。

 

 

7、激情の女「朱美」

 

一時間も経つと、焼酎が二升空いていた。

私はペースを落としていたので、誰かしらが鯨飲したに違いない。

杉田さんか?いや…私と同ペースで楽しく飲んでいるようだ。

道子か?いや…完璧に夢見てる、それも横になって。

残るは…そう、朱美さんだった。

 

ママに「二人、幸せそうだわぁ」とか「お似合い」などと言われる度に朱美さんはグラスを空けた。

「もう、ママったら!」

「やん!!嬉しい!!」

「福ちゃん、聞いちゃ駄目ー!!」

言いながら、手に持ち続けている焼酎を自らに流し込み、そして止めるママを跳ね除け、手酌で空いたグラスに次の焼酎を注ぎ足した。

私は朱美さんが照れる毎に殴られ続けたので、その回数をカウント。

その数は12を数えた。

カクテル用大グラスにその数、約5分に一杯の飲みっぷりだった。

「潰れますよ朱美さん」

私もママ同様、朱美さんを止めた。

「杉田さん、大丈夫なんですか朱美さんは?」

私は朱美さんがトイレに行った隙に杉田さんに言った。

「もう、止められん…」

それが杉田さんの答えだった。

なぜか杉田さんの顔は青白くなっていた。

 

トイレから出てきた朱美さんはなぜか泣いていた。

スナック中央通路に仁王立ちしている。

ママはそれを誰よりも早く見つけると、跳ねる様に立ち上がり、お絞りで朱美さんの顔を拭いた。

「あらあら、何?どうしたの?」

その姿にカラオケで大いに盛り上がっている隣の団体さんも[シン…]と静まりかえった。

朱美さんはその一瞬の静寂の時間を計算していたようにボソリと呟いた。

「この人、奥さんと別れてくれないの…私は全てを捨てたのに…」

その指は杉田さんを差し、涙は拭いても拭いても溢れ出てくるようだった。

朱美さんの感情は一変していた。

隣の団体さんは泣きじゃくる朱美さんの声を暫く聞くと、ハッとしたように慌ててカラオケ大会を続けた。

話の続きが気になるようで、手拍子が止み、内輪の話も止んだ。が…カラオケだけは止めるわけにはいかず無理に歌っているように見えた。

朱美さんは貰ったお絞りを杉田さんに投げつけ、強烈な声量で泣き出した。

私は何が何だか分からなくなり、ただただオロオロとしてしまった。

杉田さんは朱美さんと目を合わせないように下を向いていた。

隣の団体はついに歌を止めた。

曲が中島みゆきの歌だったからだ。

曲を入れようとしてた人も、トイレに行こうとして立ち上がった人も固まった。

他人の団体さんでさえも、体裁を繕わず、その空気に凍りついた。

「あんた、私と結婚するって言ったじゃない!それはいつよ、いつよ、いつ?」

朱美さんは大きな歩幅で杉田さんの前まで駆け寄ると、襟を力一杯両手で掴み、そう叫んだ。

杉田さんは朱美さんを力ずくで持ち上げ、ソファーに座らせると

「落ち着け!お前は酔ってる!」

そう言い、朱美さんの肩を両手で強く握った。が…朱美さんはその肩にかかる手を跳ね除け、カッと目を見開き、直後、杉田さんの頬を思いっきり叩いた。

「あんたが私の旦那を殴って“俺が世話する”と言ってくれたのは何だったの?“少しだけ待て”は後どれだけ?私はあんたの何なの!!」

朱美さんは杉田さんの胸を両手で和太鼓の如く叩き、そして、両手で顔を抑えたまま更に大声で泣き出した。

 

私の頭はフル回転だった。

結婚していたと思った二人が実は夫婦じゃなくて、杉田さんには嫁がいた。

全てをなくしたという事は、朱美さんにも旦那がいて、杉田さんのために別れた。

杉田さんは別れるとか別れないとか、それで旦那を杉田さんが殴った?

ちょっと待て、杉田さんにも奥さんがいるという事?

なんだ?

あああああああ、さっぱりわからん!!

もろ隣、アリーナで繰り広げられる実写版地獄絵図に私は居ても立ってもいられなくなった。

我慢出来ず、つい、隣の団体さんに逃げ道を求めた。

「すいません、そこ、空いてます?そこ、行ってよかですか?行かせて下さい。」

「あ…あ、あ…はい、どうぞ。」

隣のおじさんも言われて時が動き始めたらしく、シドロモドロにそう言った。

私は地獄絵図の中でさえも眠る道子を“末恐ろしい女だ”と心底思いながら隣の団体のテーブルに移った。

道子の寝顔は修羅場にてそれはそれは安らかだった。

対して、朱美さんの顔は名に違わず朱に染まっているのだった。

 

 

8、踊る女「朱美」

 

私は団体さんの場中でも地獄絵図に最も近い杉田さんの後方を選び、裏から流れる挙動言動に細心の注意を計っていた。

団体さんも楽しそうに話してはいるが、二人に向けてアンテナを立てているのが伺える。

杉田さんの一声が二人の時を動かした。

「嫁と別れる。本当だ。ちゃんと話もしている」

「それは前も言った…いつ別れるかを私は知りたいわけ…」

朱美さんは涙声で言った。

今度は小さな声だった。

団体さんの一人が私に話し掛けてきたが、「シッ」私はそう言ってテーブルに静寂を促した。

「お前も別れる時に相当もめたじゃないか。分かるだろ、説得には時間がかかる。お前の旦那が俺に殴りかかってきたように、俺の嫁も一筋縄じゃいかん」

「じゃあ、私が貴方の嫁と話をつける」

「男と女は違う!お前が出ても更にもめるだけだろ!」

朱美さんは杉田さんが喋れば喋るほど泣きじゃくった。

「俺が丸くおさめる。なるべく早く別れるから」

杉田さんはそう言うと朱美さんを抱きしめた。

朱美さんはくしゃくしゃの顔を杉田さんの胸に預けると蚊の泣くような声で言った。

「いつ?それを言って。もう待てない…」

杉田さんは観念した様に上を一時向くと、朱美さんの頭を撫でた。

顔は真剣そのものだった。

杉田さんの閉じた目がパッと開いた。

「一年後には絶対に別れる!」

杉田さんはハッキリとそう言った。

朱美さんの顔は上下左右に杉田さんの胸元で揺れていた。

それが何を意味しているのか分からなかったが、杉田さんは怪訝な顔でそれを眺めていた。

「なんでお前はワガママばっかり言うんだ!」

杉田さんは急に怒鳴り声を上げた。

私は手を耳に当て、聴覚以外の五感を殺し、朱美さんの声に集中した。

「待てない、待てない、待てない…」

本当に小さな声でそう言い続けていた。

杉田さんは目を瞑っている。

本当に疲れている様だった。

「分かったよ…半年でどうにかするよ」

杉田さんの初めて聞く沈んだ声だった。

朱美さんの方からは「絶対…絶対だよ…」そう聞こえた。

 

「汚い顔を洗って来い!」

杉田さんがハンカチを渡すと朱美さんはトイレに駆け込んだ。

私は朱美さんの背中を目で追うと、フーッと息を吐いた。

あまりの緊迫感に呼吸が出来なかったのである。

杉田さんは朱美さんが席を立った後も下を向いたままだった。

背中に私がいるのを知っていたのだろう。

「福ちゃん、戻って来いよ」

私の方を見ずに言った。

私は「お騒がせしました」と団体さんにお礼を言うと、杉田さんの前に戻った。

「悪いな…嫌な思いさせて」

杉田さんは下を向いたまま言うと、ママにも謝った。

「私は慣れてるから大丈夫だけど、杉ちゃん、貴方こそ大丈夫なの?あんな約束して」

ママは目を細ませ、杉田さんにお絞りを渡してそう言った。

「そうだよなぁ…どうしよう?」

杉田さんはママに問うた。

びっしょりの汗をお絞りはグングン吸っていた。

「だいたい杉ちゃんが結婚してるなんて嘘を付くのがいけないんじゃない。刺されるわよ、遊び半分で付き合ってると…」

ママは杉田さんが返すお絞りを受け取ると小声でそう言った。

 

杉田さんの結婚が嘘?何それ?…

 

仰天としか言い様がなかった。

私の思い描いていた二人の関係が今日だけで二転三転したのだ。

何が本当で何が嘘か、サッパリ分からなくなった。

 

夫婦だと思っていた。

実は二人は不倫の関係だった。

朱美さんは杉田さんの出現で離婚した。

杉田さんには実は嫁がいない。

いると思っているのは朱美さんだけ。

 

次から次に与えられる情報に私の頭はパンク寸前だった。

田舎から出て、初めて渋谷スクランブル交差点に行った時の様だった。

「朱美、あの性格だろ。福ちゃん、どうしたらいいと思う?別れたくないといえばそれも本音だし…ていうか、朱美には言うなよ!」

「言えませんよ!」

私は反射的にそう返した。

脳は生きていない、脊髄だけが生きていた。

“ドラマだ。本当にドラマだ。ドラマドラマ…”私の中ではただそれだけが繰り返された。

旋毛からは煙が出ている様に思えた。

 

 

9、真相

 

「朱美!お前のせいで折角の福ちゃんとの飲み会がぶち壊しだ!」

トイレから戻り、冷静さを取り戻した朱美さんは杉田さんに「ゴメン…」と言うと、上目使いに私を見た。

「いやいや、いーっすよ。気にしないで下さい。慣れっこですから」

こんなの初めてのくせに、ていうか慣れてたら怖いぞと思うが、私の口は極めて焦り口調でそう言った。

「福ちゃん、カウンターで飲み直すぞ!朱美、お前はママと二人で飲んでろ!」

杉田さんは焼酎のグラスを二つカウンターに移すと、私を見、顎をクイッとカウンター方向に振った。

朱美さんの顔は寂しさに溢れていたが、一語半句も文句を言わず、ただ「はい」とだけ言った。

朱美さんの今にも泣き出しそうな顔が私を責めているように思われた。

 

「福ちゃん、重ねて悪いなぁ。飲みなおそうや」

杉田さんと私はカウンターに二人で向かい合い、2度目の乾杯をした。

杉田さん越しに朱美さんとママが何やら真剣に話している姿が見えた。

後ろで眠る道子もおまけで見えた。

 

「福ちゃん、俺はあんたをただの同郷の人間とは思ってない」

不意に杉田さんが言った。

「どういう事ですか?」

突然の事に私は驚き顔で聞いた。

「俺は福ちゃんを親友だと思っている。会うのも2回目だが、心底福ちゃんを気に入っている。今日は本気で語りたいと思うが…」

私は杉田さんの言葉に少々驚いた。が…本気で語るというフレーズが堪らなく大好きだったので思わず「光栄です」と答えてしまった。

「俺の事どう思う?訳分からんと思うだろ」

杉田さんは焼酎を混ぜながら言った。

私は本気で語るなら…という事で現状の思いを全てぶちまけた。

「俺は杉田さんが少々怖いです。得体が知れないというか…さっきの朱美さんの件にしても、指の切れたオヤジさんにしてもビックリの連続です。しかし、男らしいとは心から思うし、仲良くしたいとも思います」

正直、本当に正直な思いだった。

「ウンウン…そうだな。福ちゃんからすれば謎が多いよな」

杉田さんは私の話を相槌と共に聞き終わると「うん!」という掛け声と共に私の肩を抱き寄せた。

「これから言う事は全て俺とお前との話だ。もし、どこかで長とか朱美と会う事があっても絶対に触れるな」

頬と頬が当たりそうな距離で杉田さんは言った。

私の頭はカクンと折れた。

「はい」

それしか言えなかった。

言い様がなかった。

 

「まず…」

杉田さんは言葉を止めた。

中では物凄い葛藤が生じているようだった。

間がそれを切実に物語っていた。

「俺の職業はお前が予想している様にコレモンだ」

杉田さんの人差し指は頬の横を二往復した。

ヤクザという事だった。

「付き合うのを考えるか?」

「いや全然…ヤクザよりもチンピラの方が性質悪いし…関係ないっすよ」

うまく言えなかった。

しかし、杉田さんはニヤリと笑った。

「自分と同じサラリーマンと思って付き合います。誰でも付き合い方は変えませんよ。タメ口だってきくかもしれんけど勘弁してください」

私は続けてそう言った。

杉田さんは声を出して笑った。

「さすが同郷人だな」

杉田さんは話を続けた。

「福ちゃんの話からすれば、俺の不審だと思う点は2点。1つは長。もう1つは朱美の事だな」

私は深く相槌を打った。

少し、体が震えていた。

「この二人、実は深い関係があるんだ。長と朱美、この前、スナックで一言もしゃべらなかかっただろ。何でかっていうとな…知りたい?」

杉田さんは笑顔で私の顔を覗き込んだ。

私は「知りたい」と言おうとしたが、杉田さんはそれを待たずに続きを語った。

「朱美の別れた旦那が長。つまり、あいつら元夫婦なんだ」

「は?」

それは、私にとって聞くのも痛い不条理の極みだった。

「長さんは杉田さんの部下でしょ?部下の奥さんを寝取ったって事ですか?」

「違う違う!んー…違うとも言えんか…」

「長さんとは仲良かったじゃないですか。もめなかったんですか?」

「もめるに決まってるだろ!俺は朱美が長の嫁なんて知らんかったわけだ。当然、長の嫁って分かった時は時既に遅し。修羅場よ…」

杉田さんは腕の古傷を見せて、そう言った。

「もめたって…それ刺し傷でしょ。刺されたんですか?」

私は盛り上がった傷を恐る恐る触りながら、乾いた喉を焼酎で潤した。

手の平は依然汗でジュクジュクだった。

「あのなぁ…実、言うとな、その時期、長は朱美と別れたかったらしいんだ。まぁ、別れたいと言えば語弊があるが…つまり、長はヤクザを辞めたかったわけだ」

「え!じゃあ、呼び出されて“ありがとう”って言われた訳ですか?あれ?それだと何で刺されたんですか?辞めるのと朱美さんと何の関係があるんですか?」

私は思いつく限りの質問を間髪入れず浴びせた。

「まぁ、まぁ、福ちゃん、ゆっくり聞いてくれや」

杉田さんは前のめりになった私の肩を叩いた。

「すいません、なんか興奮してからですね…」

鼻息の荒い私はやっと自分が焦っている事に気付いた。

杉田さんの声は低く、そして、ゆっくりだった為、“次を!早く次の話を!”と知らず知らずに体が持ち上がっていたのだ。

杉田さんは続けた。

「俺が朱美と長の関係を知った後、長に呼び出されたんだ。この世界、上が下に頭を下げる事は許されない。俺は長の出方次第では刺し違える覚悟だった。しかしなぁ…会うと長はこう言うんだ。“すいません、さぞや気分悪かった事でしょう”ってな。長は怒るどころか俺に気遣ってるんだ。俺はつい裏があると思ってな、“どういう意味だ?”ってドスを効かせて言った訳だ。すると、長が朱美と別れたかったと言うわけだ」

私は全てに相槌を打った。

どんな一流の小説やドラマよりも固唾を飲んで展開を待った。

「足洗う時、福ちゃんは指切りゃ終わりと思ってるかもしれんが実際はそんなもんじゃない。上下の繋がり、恨みつらみ、そして女、一年も組にいやぁ全てが生半可じゃない絡み方をしている訳だ。それを全て断ち斬らんと足は洗えん。ま、大体、この世界を出て行く人間てのは破門になったか、死んで出て行くかだ」

「それが朱美さんとどう関係あるんですか?足を洗いたければ、杉田さんが破門すれば良いだけじゃないですか」

私は我慢出来ずに口を挟んだ。

杉田さんは“フ…”と、本当に活字で表すと一文字で終わる程度の微笑を見せた。

“この甘ちゃん、世間を知らねーな”まさにその意を含んだ笑いだった。

「あのなぁ…破門された人間ってのは一月も生きちゃいられないってのがこの世界の定石なんだよ。大体、破門される奴は小者ばっかりだ。組織に属してた小者が一人もんになったらどうなるか分かるだろ?小せい奴だけにチンケな悪事も働いてる。組を出た瞬間にブスッて例もあるくらいだ」

杉田さんは頭をポリポリと掻いた。

私は瞬きする事も忘れ、杉田さんの目を見続けた。

「話を元に戻すが、この世界を出る時、長の足枷となるのが次の三つだ。一つは上、つまりは俺を含め幹部連中。もう一つは長が恨みをかってる連中。そして、最後が朱美という訳だ」

杉田さんは右手の指を三本立ててそう言うと、左手の焼酎で口を濡らしながら横目でチラリと朱美さんを見た。

朱美さんはママと未だ真剣に何かを話していた。

「長がこう言うわけだ。“杉田さん、私を堅気にしてください”ってな。そりゃ、俺も朱美を抱いた引け目もあるし、長に命張ってもらった恩もある。しかし、それは無理な頼みだ。俺が動きゃ上への抑えにはなるだろう。しかし、長は恨みを買いすぎている。どうにかしてやりたいのは山々なんだが、そればっかりはどうにもならん。それが組織を離れる、後ろ盾を捨てるというもんだからな」

「杉田さんはそれで何て言ったとですか?」

私は杉田さんの焼酎を作りながら言った。

手元を見てなかったので水が入る隙間がない程に焼酎を入れてしまった。

興奮していた。

「お前、俺に破門しろって言ってるのか?って言ったんだ。すると、長はコクリと頷きやがる。死ぬって言ってんだ。何かよっぽどの理由がある。なけりゃ、そうは言えねぇ。俺は無い頭を振り絞って考えたよ。長と俺の関係はそんなに安くない。死なれちゃ困るからな。そして、チーン、閃いたわけよ」

杉田さんは特濃焼酎を「濃いなぁ」と言いながら一口飲んで続けた。

「表向きには長が組に籍を置いてる様にしてやろうってな。組の重要プロジェクトで遠方に飛ばされたって感じだ。どうだ、いい案だろ?しかし、条件は付くわなぁ。この辺で堂々と堅気の仕事をやられちゃ話にならねぇし、秘密は絶対に守らないといけねぇ。こんな事、例がねぇ事だし、知れたら下に示しがつかない。ま、これくらいの条件で足を洗えりゃ安いもんだ。俺はこれを飲めと言った。明日にでも動いてやるってな。すると、あの一本気の馬鹿野郎は“こそ泥みたいで嫌だ、地元を離れるわけにはいかん”と抜かしやがった。恨みつらみの事は自分でどうにかするから、朱美の事だけは手を貸してくれって言ってきたんだよ」

「長さんは半端じゃなく男らしいっすね…」

私は条件を飲まない長の姿になぜか感動を覚え、そう言った。

長の山城新伍っぽい顔が高倉健に変換された。

杉田さんは感心する私を呆れ顔で眺めた。

「やっぱり福ちゃんはそう思ったか。つくづく同郷人だなぁ。俺もな、何かその時、感動しちまって、さすがは俺の弟子!なんて言っちまったんだよ。死ねと言った様なもんだぜ」

「そうですね…」

私も杉田さんの反省顔につられ、眉を落とした。

「それでな…後日、俺、朱美、長、三人で会って、茶番を演じたわけだ。俺が長を殴って”朱美は俺が貰う”ってな具合に。朱美はこの世界にトコトン浸かっている女だから、付き合ってちゃ足は洗えん。長にとっては朱美が一番難しい問題だったんだろう。朱美、あの性格だし。それで出来た傷が腕のこれだ。かすり傷だがな…」

杉田さんの金歯が久し振りに見えた。

本当に久し振りの笑顔だった。

 

次から次に謎は解明されていった。その中で、長の怪我と彼の行末、それと朱美さんの結末だけが手付かずのまま残っていた。

「この前、長さんの薬指と小指が切れてたのはケジメをつけたって事なんですか?」

一つ目の謎をそのまま杉田さんに問うた。

「俺は知らんよ。ただ、筋は通すとあいつは言ってたけどな。えーと…新宿で飲んだ時だから半年も前だ。傷は一月前だからな…誰かにやられたのかもしれん。本当に分からん。それを聞かんのもこの世界の掟だ。しかしなぁ、長はああ見えても本当にマメな奴だよ。足を洗うと決めた日から八方手を尽くして生きるための手を打ってる。土下座もすれば、体も張ってる。俺が裏で手を回そうとした時にはどこも長の手が回っててやる事なかったよ。あいつの体は傷だらけだ。死んでないのがありがたいって自分で言ってる。笑えるよな…」

笑えなかった。

恐ろしい世界だとつくづく思った。

いつもの“サラリーマンは辛いね”という愚痴が凄まじく贅沢な愚痴である事に気付いた。

 

もう一つの謎を解かねばならなかった。

もう、ここまで知ったら何から何まで知りたかった。

嫉妬深い恋人の様だった。

「朱美さんとは今後どうするんですか?」

私と杉田さん、二人の関係は全てが直球勝負になっていた。

質問も直球である。

「朱美か…そうだなぁ…福ちゃん、貰ってくれんか?長から俺、俺から福ちゃんってな感じで。駅伝みたいで良いだろ?」

「止めて下さいよ!」

思わず、鋭く突っ込んだ。

私の手の甲が杉田さんの胸にクリーンヒットした。

「冗談冗談。そうだな…この問題はゆっくり考えていくよ。後、半年ある」

杉田さんはそう言うと豪快に笑った。

A型の私には合点いかない結末だった。

しかし、杉田さんの曇りない笑顔には何も言えなかった。

こういう風に朱美さんも流されているのだろうと思った。

「福ちゃん、これで俺への不信感は拭えたかい?」

杉田さんの質問に、私はわざと時間を置いた。

心は杉田さんを本当に認めていた。

しかし、朱美さんの答えが聞けていない、それがこの間を生んだ。

「私の事も詳細に語りましょうか?2時間はかかりますが」

「いや、次の機会に取っておこう」

杉田さんはそう言うと、二つのグラスを持ち、朱美さんの元へ帰って行った。

道子は3時間、寝っぱなしだった。

 

 

10、それから

 

道子が目覚める時、それはスナックを出る時だった。

「朱美、タクシーを呼べ」

「…はい」

二人のやり取りを初めて見る道子は目が点になっていた。

「福ちゃん…あの二人喧嘩でもしたの?」

小声で私に聞いてきたが、私はあえて教えなかった。

聞こえた杉田さんは声を殺して笑っていた。

 

私と道子はタクシーで家まで送ってもらった。

道中、杉田さんは石原裕次郎の歌を口ずさんでいた。

前に長と二人で熱唱していたあの歌だった。

「福ちゃん、朝まで飲るつもりだったけど悪いね。朱美がスネたままだから…」

朱美さんはタクシーを降りた私と道子にペコリと会釈した。

道子は起きてからずっと目が点だった。

「次は親友として誘うからな!また、電話する!」

杉田さんは別れ際にタクシーの中からそう言った。

私が聞いた杉田さん最後の言葉だった。

 

あれから2年。

一度も親友からの電話はない。

電話しても繋がらない。

もしかすると、半年後に朱美さんに殺されたのかもしれないし、偉くなって私と飲める環境じゃなくなったのかもしれない。

ただ分かる事は、あの人達は一寸先はバラ色でもあるし、闇でもあるという事だ。

弱肉強食、義理、人情を基本理念に打ち立てる極道という世界はそういうところだと思うし、その人達はその「激動」にこそ生きる意味を見出しているのであろう。

 

いつ音信不通になってもおかしくない人達だ。

切にそう思う。

 

私は入間のスナックに行き、親友のその後を聞いた。

ママは話を一生懸命逸らそうとし、更に食らい付くと口を固く結んだ。

何か大変な事があったのは伺える。

しかし、それを知ろうとしてはいけない、そう思われた。

 

親友が愛した石原裕次郎が流れ、そしてママからはヘネシーが振舞われた。

私は遠慮なく、それを頂いた。

相変わらず、麦茶の色で、更に臭い。

そして、不味い。

カーッ!!おまけに胸まで焼き焦がす。

私はそんな親友をクッと飲み干した。

一滴残らず飲み干した。

 

よく見ると、ボトルには「杉田」と書かれたネームプレートが下げられていた。