悲喜爛々9「男の春闘」

 

結婚して一年半になる美智子が出産を理由に会社を辞めた。

義男の胸は躍った。

[明日から定時で上がっても美智子が家にいる]そう思うと嬉しさがドクドクと込み上げてくるのだ。

 

「お前が裸にエプロンで送り出してくれると思うとうれしいなぁ。 あ! 妊婦じゃ裸になれねーか?」

義男は美智子の隣で寝転がりながらそう言った。

美智子は何やら忙しそうに電卓を弾いている。

表情は真剣そのものだ。

「明日の晩飯は何や? とりあえず調味料はたっぷり効かせてくれよ。 愛情という調味料。 なんちゃって…ニン」

義男の鼻の穴と妄想は膨らみっぱなしだった。

それもそのはず、結婚して息をつく間もなく美智子は働き出した。

つまり、義男の思い描いた新婚生活というものは一年半もの間、オアズケを食ったわけである。

[俺の新婚生活は明日より始まる]義男は心底そう思った。

 

美智子は義男の横で家計簿を睨んでいた。

ふと、電卓を叩いている手が止まった。

「足りない…」

溜息交じりの囁きだった。

「何が?」

義男があっけらかんとした口調で聞いた。

「あなた…お金が全然足りないの」

義男は瞬時に目を瞑った。

金の話は彼にとって体が受け付けない話なのだ。

彼は九州男児である。

「男が金の事を気にするな、小者になるぞ」そう言われて育っている。

関東に出てきて四年目、都会の絵の具にも少々染まってしまったが、根底のそれは少しも消えてはいない。

「おいおい、折角の団欒の時にそんな事言うなよぉ、明日の晩飯の話をしようぜ」

義男は気分の悪い話に作り笑いを浮かべながらそう言った。

「その明日の晩飯が買えないって事を私は言ってるの!」

美智子は義男の話を机を叩く音で吹き飛ばすと、家計簿の収入欄を指差した。

「七万五千円って何よ? これで一月どう生活するの? 大体、何で私が会社やめた途端にあなたの会社は臨時休業が始まるの? 給料二割カット、残業0! 二人で働いていた時から比べると幾ら収入が減ったか知ってる?」

「…知らない」

一気に捲し立てる美智子に義男は静かにそう答えた。

「20万減ってるのよ! 20万!」

美智子は家計簿をバンバン叩きながら、涙声で叫ぶと続けてこう言った。

「今月から貴方の小遣い、二万円減らします」

 

「え…」

 

その一言は義男の視界を一片の光も感じさせない闇色に変えた。

漆黒のカーテンがいきなりズドンと下ろされたようだった。

「聞こえない、何も聞こえないぞ」

義男は虚ろな表情で大きく(かぶり)を振っていた。

 

義男の小遣いは月四万円だった。

確かに24歳の若輩夫の中では高いほうだった。

しかし、彼には言い分がある。

工場勤務の彼にとって、午前午後各一回の休憩でコーヒーを飲み、昼は食堂で皆と席を共にする、これは必要不可欠な業務と言えた。

これにかかる経費が月に一万円。

更に工場というのは行事が多く、年に2回は慰労会という事で旅行に行く。

その積み立てで月五千円取られる。

つまり、義男の使える金というのは二万五千円で周囲の平均三万円より低いのである。

 

義男は考えただけでゾッとした。

二万円引かれたら使える金は五千円になるのだ。

「中学生でも今時分はもっと使えるぞ」

思わず義男は洩らした。

この悲痛な囁きを裏付ける出費を美智子は義男に何度も聞かされ理解している。

しかし、七万五千円という現実に彼女はセンチになれないのだ。

「分かってよ…四万円引かれたら家計はどうなるの? 子供も産まれるんだよ」

義男にもそれは痛い程よく分かる。

しかし、彼の魂が合点しないのだ。

週二回の飲み会は?大好きな宴会は?…彼の本質がそう尋ねてくるのだ。

 

そもそも義男に物欲は皆無であった。

結婚して買ったものといえばウクレレくらいしかない。

しかし、それを補うに余りある程に彼は酒の席が好きだった。

「男が酒くらい飲まんでどがんすっや!」 義男は親父に常々そう言われながら育ってきた。

彼にとって一番辛い事は誘われる飲み会を断る事なのだ。

酒こそが彼の人脈を繋げていると言っても過言ではなかった。

「頼む、頼むから3万円にしてくれ! せめて太陽と飲みに行く分だけでも残してくれ!」

義男は腕を組んで家計簿を睨みつける美智子にそう言った。

「なぁ…太陽との分だけでも…」

親友との飲み代だけでも… 痛烈に義男はそう思った。

義男の瞳に映し出されている美智子の顔は機械的に義男の方向を向いた。

閉じた目も静かに見開いた。

美智子は一気に弾けた。

「うるさーい! 無理無理無理無理、無理!」

美智子は食らい付く義男の魂を一太刀の下に切り捨てた。

義男の関東風魂は一瞬にして粉微塵となった。

そして、奥で息を潜めていた九州風魂を止めるものは、これにて何一つなくなった。

義男の喉チンコは無意識無想に力強くブルンブルン振れた。

「なんやお前、その態度はぁああああああ!」

義男は言い終わると、家計簿を美智子から取り上げ、壁に投げつけた。

「金金金金言うなや!守銭奴かお前は! だいたい貯金があっどが! それを回せ! 俺は一歩も引かんぞ、三万円た!」

義男はコタツ机をひっくり返すと足元のゴミ箱を蹴飛ばしながら台所へ向かった。

そして、焼酎の一升瓶を湯飲みに傾け、それをそのまま流し込んだ。

義男の体温がグングン上がるのが彼自身にも、そして、美智子にも分かった。

「だって、貯金の月三万円は家を建てるために絶対に手を付けんって言ったじゃない! 男が使わんと言ったらテコでも使わんって言ってたじゃない!」

美智子はついに泣き出してしまった。

義男は「男が…」という響きに弱い。

ただ、女の涙には異常なほどに厳しかった。

「泣きゃ済むってもんじゃなかろが! このボケナス! ばってん…確かにその貯金は使わんと言った様な気がする。 男の口が言ったならそれは使わん。 …今までに余っとる分があるだろ? あれを小出しに出していけや!」

弱かったり強かったり九州男児はどうにかこうにか虚勢を張りつつ怒鳴った。

「そんなの…貴方が次から次に家に呼んでくる人達の胃にとっくに消えてます! あなたが大好きな太陽君の胃にも!」

美智子はそう叫ぶと、泣きながらキッチンに向かい皿洗いを始めた。

それからは義男が何を言っても一言も返って来なかった。

 

一時間後、義男は行き付けの居酒屋に親友の太陽と肩を並べていた。

義男が呼び出したのである。

二人は先ほどの経緯をつまみに焼酎を呷っている様だった。

「どう思うや?」

学生時代からの親友に義男は心底問うた。

太陽は長い間「むーん」という声を発しながら考えると、頭を垂らしてこう言った。

「やっぱ男は現実ば見きらん。 だけん、あんまり現実的な事ば言われると腹ん立つ。 俺も言われたら絶対ふざくんなって言うもん。」

太陽はそう言うと義男に焼酎を注いだ。

義男もすぐさま返杯した。

しばしの沈黙が二人を繋いでいた。

が、太陽の「あ!」という声にそれは打ち払われた。

「そう言えば、学生の時、お前が彼女にいつも言いよった名文句があったよな?」

義男は[閃いた]と顔に書いてある太陽の表情をマジマジと見た。

瞬間、温かいものがドッと込み上げてきた。

「あああ…懐かしゃーね、あれか?」

二人は記憶を辿り、口を揃えた。

『男はずっとピーターパン、俺たちゃ夢を見よくけん、アンタは足元見ときなさい』

二人の目はキラキラと昔に戻って輝いた。

太陽は腹を抱えて笑い出した。

ふと一昔前の映像が鮮明に浮かんだのだ。

「しかし、お前、あれを言ってやった女から、夢見すぎて現実見れずに野垂れ死ぬとか言われよったよな。 当たってるんじゃにゃー?」

義男も腹の底から笑った。

「そうよなぁ、死なずに夢見れるってのはありがたいかもしれんねぇ」

居酒屋の大将は二人の会話を黙って聞いていた。

気付くとブリ大根が目の前に置かれていた。

「義ちゃん、一時来れなくなりそうだね。それ、サービスだから」

大将はブリ大根を指差しながらそう言った。

 

翌日…

義男は美智子よりも早く起きた。

結婚して初めての事だった。

飯すら炊いた事のない義男は慣れない手付きで卵を2個、フライパンに落とした。

「料理なんて何年ぶりかね…」

義男は呟きながら、フライパンの中身を大皿に移した。

美智子は義男が盗人の様にそっと布団を出るのを横目で見、その後、卵の焼ける音を聞くと笑いがドクドクと込み上げてきた。

声が出そうだった。

布団を頭から被り、必死で声を押し殺した。

義男のあからさま過ぎる機嫌の取り方が滑稽で滑稽でしょうがないのだ。

「美智子ぉお! 朝だぞぉ!」

義男は叫ぶと、寝床の美智子に駆け寄った。

「何?」

美智子はわざと怪訝な表情を作りながら、ぶっきらぼうに答えた。

「じゃじゃっじゃーん、目玉焼きセット!」

美智子は義男の手に乗った大皿をチラリと見た。

「何なの、今日は? ていうか、それ、焦げてるじゃない!」

美智子は笑い涙をそっと拭き取りながら、そう答えた。

「いやぁ、いつもお疲れ様という意味を込めて、たまにはな」

「目玉焼きだけ?」

美智子は又もやぶっきらぼうにそう聞いた。

見ると、目玉焼き以外、何も用意されていない。

「だって、お前は知っとるどばってんが、俺、何もしきらんもん」

美智子のタコメーターがレッドゾーンに突入した。

エマジェンシー、エマージェンシー… 警告音が美智子の中で鳴り響いた。

我慢の限界だった。

「駄目! ぷひぃいいいいいいいいいいい!」

美智子は溜め込んだ空気を力一杯噴出すと、続いて大声で笑い始めた。

咳をし、涙を流す節すら見受けられた。

「何、なんや…」

義男は意味が分からず、ただ、美智子を驚き顔で見続けた。

美智子はゼイゼイ言いながら、バックを漁ると財布を取り出した。

そして、おもむろに札束を掴むと義男に渡した。

「はい、これ、今月の小遣い」

見ると、義男の手には二万三千円、全部千円札で乗っていた。

「あれ? 三千円、多いぞ!」

数え終わった義男は、思わずそう言った。

微妙に声が裏返った。

「要らないの?」

美智子は笑顔のまま義男を見た。

「いやいや、要ります」

義男は慌てて笑顔を作り、金をポケットにしまった。

「千円札で貰うと多く感じるでしょ! それと、たまには飲み行かないと、太陽君が寂しがるから、その分の三千円追加ね」

美智子は焦げた目玉焼きをつまみながらそう言った。