美菜のサンナナ
2009年12月19日掲載
【12月5日:往路】
福山家では「サンナナ旅行」というのを儀式としてやっている。
いわば立志式のようなもので、これ以前を幼児と見、これ以降を児童と見ている。辞書で見ると幼児と児童には厳然たる線引きがあるけれど、その運用として、サンナナ旅行を線引きに用いている。
サンナナ旅行は単なる父子の二人旅である。が、儀式であるゆえ、それなりの制約があって、まず子が三歳七ヶ月の時にやらねばならない。更に宿泊場所は伯母の家(大阪)でなければならない。
「守らんちゃええでしょ」
今回、私はそう言ったが、嫁と娘が納得しなかった。
「三人目だけ適当じゃかわいそうじゃん!」(嫁)
「大きくなって思い出話をする時に美菜ちゃんだけかわいそう!」(長女)
「とにかく行け!」(次女)
私は仕事が忙しかった。今年の前半は恐ろしく暇だったが、夏以降、急に忙しくなった。
「年明けにならんだろうか?」
「三歳七ヶ月は待たないよ!」
家族全員に突っぱねられた。
誕生日も七五三も入学式も待ってくれない。儀式というのは時期限定だから凛として動かない。動かないから儀式として存在しうるのだろう。
嫁と娘に押されつつ、12月5日、サンナナ旅行に出た。
ところで過去二回のサンナナ旅行は船で大阪に向かった。大分まで車で行き、夕方フェリーに乗り、早朝大阪へ着く。長女の時は奈良で正倉院展を見学した。東大寺を散策し、大阪の街で遊び、その晩フェリーに乗った。次女の時は同ルートで高野山へ行き、その晩は伯母の家に泊まり、翌日遊んで帰った。
今回(三女)もフェリーで大阪へ向かうべく計画したが、フェリーの致命的なところは時間がかかり過ぎるという点である。長女同様、大阪日帰り旅行にしても丸二日は潰れる。更に大分港まで車で二時間かかる。待ち時間など考えると実にロスが多い。日頃の私なら何の問題もないが、今だけ都合が悪かった。
そういう事で移動手段として新幹線を選択した。
美菜の背には赤いキティーちゃんのリュックが装着された。三人の中でダントツに肥えている美菜はなぜかリュックが好きで、必ずリュックを装着する。善玉悪玉問わず、色んなものを体に引っ付けるのが好きなのだろう。
二人手を繋ぎ、家から四分、阿蘇下田城ふれあい温泉駅まで歩き、小さな列車に乗った。
列車は自宅の前を通る。嫁と娘はそこで見送りをしてくれるという。
主役の美菜はノリノリであった。次女は母と離れた事を瞬時に嘆き、いきなり泣き出したが、美菜に至ってはどこ吹く風。「たび」という語感の発するドキドキ感に心が躍っているらしい。よく分からぬ変な歌を大声で歌った。
ところで田舎の人は電車に乗らない。なぜなら車より圧倒的に遅く、経済性に劣り、便数が極端に少ない。乗る理由が全くなく、むろん美菜も乗っていない。今回が二度目くらいではないか。
私は大興奮の美菜に「車窓を見よ」と促した。しかし列車に大興奮の美菜はそれどころではなかった。車窓から嫁と長女が見え、大きく手を振っていた。が、美菜の目には留まらなかったと思われる。
「おっかー見えたか?」
「うん、見えた」
美菜の後頭部には目があるように思え、更には「家族の送迎など無用」と言わんばかりの強さで、「たび」の好奇心が美菜の心を食ってるように思われた。
ちなみに八恵(次女)は見送りに出なかったらしい。友達が遊びに来ていて父と妹を見送るより遊びを選んだそうな。実に八恵らしく思え、同じようなものを食い、同じような時間を過ごしても違うものができあがるというのは世の面白味である。
電車の旅が続く。立野駅でJRに乗り換え、熊本駅で特急に乗り換えた。
美菜は熊本駅に着く前、電車に飽きた。途中までは良かった。阿蘇を出るまでは知らないおばちゃんが話しかけてくれ、説明に忙しかった。
「どこに行くの?」
「おばちゃんのところにいくの」
「そう」
「やえ(次女)はないたけど、みなはなかないの」
「すごかねぇ」
得意になってるうちは良かったが、列車というものは都会に近付くほど都会的になる。車窓の緑が減り、話しかけてくるおばちゃんがいなくなった。だから飽きた。
熊本駅のホームに特急が入ってきた。九州の特急列車は超かっこいいので喜ぶかと思ったが大して喜ばず、それよりも車内販売を喜んだ。ワゴンが横を通る時、美菜は勝手にジュースを取った。嫁が行うスーパーでの試食教育によりワゴンに乗っているものは全て無料だと勘違いしているらしい。
とにかく落ち着いてくれたので私もウイスキーを注文し、モードを旅に切り替えた。
列車の旅といえばアルコールである。やりながら車窓を眺め、うつらうつら眠りにつく。最高の瞬間であるが、美菜は十秒以上父を眠らせなかった。
「おっとー、ねらんでばい!」
目ざとく見つけて叫ぶため、私の眠りを妨げるどころか周囲の眠りまで妨げた。
「お前は眠くないとや?」
「ねむくない」
美菜は電車に飽きているが興奮しており、その興奮を運動エネルギーに変えたくとも狭い列車はそれを許さなかった。どうするか。食わせるしかなかった。
奥の手として嫁がお菓子を用意していた。「どうしても駄目な場合に与えて」というものであったが、新幹線に乗る前になくなってしまった。
美菜は食べると黙り、なくなると暴れた。だからまた与える。そして太る。美菜の循環は列車においても健在であり、深刻であった。
さて…。
私は自慢じゃないが娘が三人もいて、オムツを替えた事が一度しかない。嫁が緊急入院し、長女と二人っきりになったのがオムツ交換の理由で、長女一歳の時であった。一歳の長女はウンコをもらし、私にオムツ交換を求めてきた。私は長いこと無視したが、長女の熱い瞳に負け、つい折れてしまった。
人は私の事を「時代遅れの馬鹿野郎」と言い、本気で怒り出す女性も多い。が、嫁にある一面を依存し、嫁もある一面を夫に依存するというのは夫婦円満の秘訣のように思える。お互いがオールラウンドプレイヤーになってしまっては組織というものの息は続かないだろう。四番バッターだけではチームが成り立たない事と似ている。
「ウンコがしたい」
美菜が電車の中でそう言った時、私は猛烈に困った。終点の博多が近かったので「しばし待て!」と緊張の持続に期待し、博多駅でトイレにダッシュした。
私は父として何かせねばと焦ったが、子供というものは親が考えている以上に利口であって、その保護者が何もできないと察すれば何でも自分でするらしい。いつもは母を呼び仕上げをしてもらうのであるが、その場では求める事すらしなかった。私と目が合った瞬間、美菜は何かを諦めた。そして自分でやった。子供とはそういうものらしい。
新幹線は「のぞみ700系」であった。私の長距離移動は基本的に熊本・東京であるため普段は飛行機を使う。新幹線に乗るのは三度目であった。700系に乗るのは人生初であり、先頭車両の流線型に度肝を抜いた。
「爪楊枝みたいな電車やねぇ」
私が言うと、
「ちがう、トリみたい」
美菜はそう言った。どっちでもいいが、これだけ立派なトンガリはそうそう見れるものではない。先頭に並んでいたが、その権利を放棄し、過ぎ去ったトンガリを見るためホームの端に走った。
新幹線である。博多の次は小倉にとまる。凡そ20分で着くが、その間に美菜は飽きた。新幹線も特急も見た目はステキだが中に入るとただの密室である。菓子も尽き、ジュースも飲み干した美菜は、座らず椅子に立ち、遊んでくれる人を探した。誰もが寝てるか静かに車窓を眺めていて、「カモーン」という田舎のおばちゃんが発する受け入れ態勢万端の香りがない。スーツの発するシャープな香りは田舎者の美菜にとって極めて異端であり、縮こまざるを得なかった。
リュックから人形を出し、足元に座り込み、座席をテーブルにして遊び始めた。
かわいかったので私も手人形で付き合った。手人形はお父さんにされ、永遠と家族ゴッコに付き合わされた。気付けば車窓は広島であり、手人形もいつの間にか両手が出動していて、右手がお父さん、名前は「シュー」、左手がお兄さん、名前は「ピャン」、まじで疲れた。
広島で寝た美菜は神戸で起きた。その間、私も寝ていたが神戸着を知らせる放送で起きてしまった。
美菜は外を見た。暗くなっていた。それで不安になったらしい。泣き出した。
「おおさかのおばちゃんち、まだつかんとねー!」
「もう着く! 次の駅だけん!」
「くらいー、よるになってるー、つかれたー、やだー!」
「寝起きに疲れたって言うな! もうちょっとだけん!」
母親に会いたくて泣くというわけではなかったが、暗い車窓が美菜を不安にさせたらしい。何を言っても泣き止まず、新大阪まで泣き続けるかと思ったが、この一言で泣き止んだ。
「八恵に負けるぞ!」
美菜の中で一つのテーマがあるらしい。それは姉に負けないという事であり、三歳七ヶ月という同じ時期に同じ場所へ旅に出て姉が泣き崩れている。道中、泣かないという事は姉に勝つ事であり、泣かなかったという土産話こそ、美菜にとっての勝鬨らしい。
ちなみに次女は入院生活が長かった。その事でママっ子になった。だから泣いたが、長女はパパっ子であり、全く人見知りをしなかった。長女に関してはサンナナが良い例で、船で寝て起きたら隣に長女がいなかった。焦って布団を飛び出すと、隣の部屋にいた。年配の集団に混ざってお菓子を食っていた。長女は常にそういう風で、飲み屋へ行っても手がいらず、カウンターの常連と友達になった。その点、愛想で生きてる感があった。
美菜はどうか、そう思って今回のサンナナ旅行に出たが、姉二人の中間のように思える。それぞれ個性があり、成長に従って大いなる変質を遂げる。小学二年の長女は既に昔の面影はなく、川崎宗則と上地雄輔の追っかけである。諸行無常は楽しみと苦しみをくれるが、振り返ればおかしみになる。
新大阪で御堂筋線に乗り換え、伯母の待つ桃山台駅に着いた。
私は美菜という三番目の娘を一人の人間として大いに期待しているところがあって、それは根っからの田舎っぺという点である。長女と次女は幼児期に色んなところのエキスが混じったが、美菜に至っては純粋に南阿蘇村である。生まれは福岡柳川であるが、記憶は南阿蘇村から始まっている。その美菜が都会の煌きをどう思うか、非常に興味があった。
まず人ごみは疲れるらしい。これは私も同様であるが、「通行人を見てしまう」という習慣を田舎の人は持っている。つまり人ごみは眼球の休まる暇がない。二人の田舎っぺは博多で降りた瞬間、手を取り合って眼球をグルグル回した。むろん人酔いした。新大阪でも目的地の桃山台でもそれは同様であって、それを繰り返しながら美菜に一つの疑問が湧いた。
「みんな、どこにいくとね?」
これだけの人をどこに収納するのかという素朴な疑問であった。こういう疑問は田舎っぺの骨頂だろう。
私は阿蘇高原におけるススキのように日本の平地を占拠したマンション群を指差し、
「みんな、あの家に帰るんぞ、あのドアの一つ一つがウチになっとる」
説明したわけだが、美菜にとって納得ゆかない点があるらしい。
「にわ、ないとね?」
「む!」
美菜にとって「おうち」とは密室と庭がセットになったものであり、基本、田舎はそういう風にできている。
「かわいそねぇ」
子供にとって所得差や地価の違いなど知った事ではない。ただ風景として人ごみがあり、それが吸い込まれるマンション群があり、土の見えない広々とした平野がある。「かわいそねぇ」とは無心で放った一言であるが、それだけに恐るべき一言であった。人口密度を嘆いている。
広い場所に人間が「点在」していると、人はおせっかいでノンビリしてしまうらしい。それが「密集」してしまうと、人は自分の居場所を守らねばならない。仮に都会において広大な敷地を手に入れたとしても、密集したそれを押しやって手に入れた土地は点在における土地と何かが決定的に違うのではないか。
数日前、近所のばあちゃんが遊びに来て忙しい社会を嘆かれた。戯れに「オンオフの切り替え」や「プライベート」について聞いたところ、ばあちゃんはプライベートという言葉すら知らなかった。何でもかんでも線を引き、聞き慣れぬ言葉で自己防衛をするのは(しなければならないのは)都会の習慣であり、土いじりが趣味のばあちゃんには無用であった。都会と田舎では人間の根にあたる基本的思想が違うのかもしれない。
大阪の伯母と美菜が会うのは、これが二度目である。実父(伯母から見れば弟にあたる)の還暦祝いで阿蘇に来てもらい、ウチに泊まってもらった。
伯母の熱烈歓迎に少々恥ずかしそうな美菜であったが、伯母はケーキを用意していた。むろん、それでなついた。美菜を手懐けるのは、どの哺乳類を手懐けるよりたやすい。砂糖が入った甘いものを与えればよい。
ご機嫌の美菜にとって伯母の家はテーマパークであった。我家には階段がないため、三階建ての家はそれだけで大いに遊べる空間であった。トランポリン代わりの高級ソファーもあるし、ステージ代わりの和室もある。伯母が「好きに遊ばせて良い」と言ってくれたので野放しにした。
私は酒を呑んだ。伯母が美味いつまみを用意してくれ、呑み相手の従兄弟も仕事から帰ってきた。
従兄弟と呑みながら美菜の様子を見ていると何やら美菜の様子が変わり始めた。
「おおさかのおばちゃぁーん、といれ、いきたぁーい」
美菜はトイレに一人で行ける。が、そこは子供の利口さであり、伯母の事を「甘えてよい人」「応えてくれる人」と見極めたらしい。赤ちゃん言葉になった。猛烈に甘え始めた。
むろん私は父として叱った。が、伯母は「構わない」と言ってくれた。更に美菜は、
「おばちゃんのいえに、ずっととまりたぁーい」
そのような事を言い始めた。三人娘の末っ子として日夜激しい競争の中にいる美菜は完全に浮かれた。
(たまには甘えさせるか…、旅行中だし…)
そう思った私は大阪滞在中だけ美菜に甘える事を許した。美菜は優しい伯母にたっぷり甘え、阿蘇に戻る頃には巨大な赤ん坊となった。

【12月6日:京都】
こんな旅行は初めてであった。テーマがない。
家族に押されて飛び出し、サンナナという儀式的目的は持っているが、大阪に行って何をするか全く決めていなかった。従兄弟にその事を言うと、
「それなら青不動を見に行こう!」
熱のある提案を受けた。私に否応はない。何も分からず頷いた。
従兄弟は私より六つくらい上である。正確な年齢は分からない。無駄な脂肪が一切ない筋骨隆々の剣道家で、つい先日六段になったらしい。剣道界は六段から高段者という位置付けになるそうで、その域になると心の平静を如何に保つかが重要な課題になるそうな。
「心を鍛えるのは体より難しかですね」
「うん、難しい、だから寺を巡って仏像を見ている」
従兄弟にとって、奈良と京都は心を鍛える庭らしい。
従兄弟が提案した青蓮院は天台宗である。天台宗といえば比叡山延暦寺であるが、青蓮院は延暦寺の三門跡寺院といわれるもので、よく分からぬが敷居が高いらしい。
「門跡寺院とは何?」
従兄弟に聞かれたが応えられなかった。後に調べてみると皇族が継いでいる寺院らしい。
創建は平安後期で、もとは比叡山の坊さんが住む住居だったらしく、その坊さんが皇族と繋がりを持つ事で院になったそうな。つまり青蓮院の前身は青蓮坊で、坊さんの家である。
従兄弟が一度は見たいという青不動は青蓮院が持っている国宝である。不動明王にも位があるそうで、青が最も高いそうな。どうでもいいが平安後期の創建で「初めてのご開帳」と言われれば見たいと思うのが人情である。
従兄弟は剣道の練習をやって昼から行くという事だったので、私と美菜と伯母は京都の街を散策する事にした。どこに行くかは電車の中で決めようという話だったが、伯母の提案に対し「あれも良い」「これも良い」と私が言うので伯母は混乱した。河原町という駅で降り、外に出て、おもむろにタクシーを捕まえた。伯母は目的地を「哲学の道」と告げ、「適当なところに降ろして」と言った。これで行ってしまうのがさすが京都のドライバーで、会話も適度にはずんだ。粋な事に、すぐメーターを入れないのも良かった。目的地に真っ直ぐ向いてない、そっちの方を向いてから入れるという。メーターを入れる時の言葉も良かった。
「では、ここらで入れらせてもらいます、よろしいですか?」
熊本ならこうはいかない。
「ここでいれますばい、よかですか?」
土地柄ではあるが、さすが世界に誇る観光地・京都であった。表向き人が丸い。
京都は数年前じっくり歩いた事がある。次女が生まれる時、熊本から東京まで歩き、その際たっぷり時間を取った。有名所を渡り歩いた。
勝手な想像だが、京都の美は公家が動かなかった(動けなかった)事により成り立ったのではないか。そう思っている。自然美は不動であり、そこに行って眺めるというのが庶民にとって一般的だし、今もそう思っている。が、公家の世界はその自然美を学問化し、近くに造って収集した。庭園、山、川、木、それに映える建築物。全てに何かしらのモデルがあったに違いない。普通はそれを見に行き、それで終わる話だが、行く事を億劫がった権力者や資本家が手近なそれを欲しがった。創造された自然美に大いなる需要が生まれ、次第に産業となった。必然、職人が生まれ、技術が生まれ、京都はそういう街になった。
京都や奈良の神社仏閣に使っている木は、そのサイズが桁違いにでかい。この豪勢な社会を実現するには、地場の材料や能力では到底足りず、材料は近隣の山から引いてくるし、田舎に人物が出ればそれも引っ張った。ある時期の京や奈良という社会を実現するため、幾つもの田舎が犠牲になったであろう。色んなものを犠牲にする事で成り立つのが文明というもので、その構図は今も全く変わらない。
哲学の道を歩いた。タクシーは法然院と永観堂の間に私たちを降ろした。
哲学の道は哲学者の散歩道だったらしい。「思索の小径」と呼ばれていたらしいが、分かり易さと呼び易さに配慮し、哲学の道になったと思われる。
道として特に変わったところはない。単なる道である。私たちは永観堂に向かって歩いたが、左手に小さな流れがあった。北白川疏水道というらしく、琵琶湖から引いているらしい。都会の貴重な土道で流れがあって緑がある。それだけで詩情をかきたてるのかもしれぬが田舎者には単なる道で、哲学的になれなかった。
幾つか寄り道しながら永観堂に着いた。永観堂といえば「もみじの寺」として有名だが、永観堂は別名らしい。禅林寺というのが正式名らしく、元は真言宗の寺らしい。この寺の永観さんが立派な人で、「永観さんの寺」と人が呼んでるうちに永観堂になったと思われる。
この寺が真言宗から浄土宗に変わる瞬間が面白い。鎌倉時代の住職が浄土宗の粗を突いてやろうと「選択本願念仏集」という本を読んだらしい。すると、あまりにも素晴らしい事が書いてあったので浄土宗に帰依したという。何とピュアな住職であろうか。それを認めた信徒も凄い。十中八九、別の真相があると思われ、たぶん政治であろう。
永観堂の代名詞である赤い椛が残っていた。超有名な見返り阿弥陀も見たかったので入場料を払って境内に入った。
ところで、京という観光地は古来からカネが飛ぶようにできている。有史以来、田舎から搾取する事で成り立ったこの街は現在においても至るところで入場料を取る。租庸調、年貢、税、名前を色々変えながら我々はこれらを造り、維持し、そしてそれが見たいと思ったら入場料まで払わねばならない。
ちなみに永観堂には千円を払った。次に行く南禅寺では「絶景かな」の三門に登るため五百円を払った。青蓮院でも千円を払った。
タクシーの運転手に聞いたが、青蓮院の秘仏・青不動の開帳に関し、次のような話があるらしい。
「世の中が不景気でしょ、だからね、秘仏を開帳して世に元気を与えたいという思いがあるんですって」
確かにその思いは素晴らしい。であれば千円が払えない元気なき者はどうすれば良いのか。延々続く長蛇の列は次々と千円を落としていく。私も落とした一人であるが、上の言葉を素直に受け取れない。
私はひねくれているのかもしれない。が、京という街の宗教地区には何ともいえぬ商業主義がはびこっているように思える。ニッポンという国の形而上的心臓はこの周辺に違いない。そう思ってこの風景を眺めると無性に悲しくなる。この国の心は病んでいるのだろう。
永観堂の展示物は良かった。曼荼羅があるかと思うと、念仏が仏になって口から飛び出してる絵もあり、真言・浄土の混ぜご飯は実に見応えがあった。
手元にその時頂いたパンフレットがある。それを見ながら豪勢な造りを思い返しているが、笑えるほどに浄土宗的ではなかった。浄土宗は言わずと知れた南無阿弥陀仏の親分である。法然が開いた。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けますよ、戒律や造寺造仏は要りませんよ。それが教義のはずだ。であれば、私が歩いた広々とした御堂は何なのか。
境内に経は響いていない。その代わり売店と湯豆腐屋が発する売り子の声は響いていた。それの意図するところは何なのか。
京という街は時代に合わせて変化してきた。目の前にある風景も京という街の歴史的柔軟性であり、一つ一つが社会の雫であろう。つまり我のなす事である。
有名な見返り阿弥陀の前は凄まじい人だかりであった。幸い美菜は伯母に引っ付いて離れず、伯母も「気にせず見て回りなさい」と言ってくれたので、その言葉に甘えた。勝手気ままに色んな角度から見返り阿弥陀を見た。説明板も読んだ。見返っている理由は永観に言葉を投げているらしい。有名な「永観おそし」であり、永観を先導しているそうな。
説明板には現代風の解釈も書いてあった。「見返り阿弥陀の伝えるところ」だそうな。
・遅れる者を待つ姿勢
・思いやり深く周りを見つめる姿勢
・自分自身を省み、人々と共に正しく前へ進む姿勢
解釈は色々であるが、私はそう思えなかった。見れば見るほど、この阿弥陀如来はそっぽを向いているように思えた。これを造った仏師は人間社会に嫌気がさしていたのではないか。その点、無限の優しさを持ち誰でも救ってくれる阿弥陀如来が呆れてものが言えず横を向いたとしても現代に通用する教訓がある。むしろ当時より迫りくるものがあるのではないか。
哲学の道は私に思考を与えなかった。が、京の寺は実に意味深であった。その点、千円を払うという行為は色んな事を考える上で極めて重要なのかもしれず、それそのものが商業行為でなく宗教行為なのかもしれない。考え過ぎかもしれぬが。
さて、境内が広いので永観堂から出れないでいる。
山際に多宝塔がある。伯母が言うに、そこから眺める京都が絶景との事で行ってみた。確かに絶景であった。が、函館や長崎と大した違いはなく、上から見下ろす都会であった。
歴史的に搾取され続けた田舎の人は、その血として古都・京都に憧れ、京都で起業することを夢見、九州からはオムロンや京セラが出た。眼下の風景のどこかにオムロンや京セラがあると思われるが、京の町も巨大な文明に服従し、その遠景はどの都市も変わらぬようになってしまった。文明とは価値観の標準化であるが、どこへ行っても同じ景色であるとすれば旅が霞む。いずれ「たび」という言葉が消え、「かんこう」という言葉に標準化されてしまうかもしれない。旅人として心底恐ろしい。
多宝塔であるが多宝如来を安置する塔というより展望台になっていた。何か面白いものはないかと山をゴソゴソ探していると奥に小さな社があった。倒木多く、道なき道であったが突き進み覗いてみると「天照大神」と書かれていた。本地垂迹、神仏混交の名残であろうが、あまりに扱いがひどい。ボロボロに朽ち果てていたため簡単に掃除をした。
社の上に石を重ねたものが立っていた。文字を探したが分からず、その朽ち果て方はいかにも追いやられたという感じで社と対になるものかもしれなかった。とりあえず拍手を打ち、「頑張って下さい」と祈った。
社に対する特別扱いは寺の仕返しであろう。廃仏毀釈の仕返しであるが、こういうところは見事なまでに人間臭い。政治と宗教は極めて似ていて日夜権力闘争をしている。それがあまりに醜いので、緩衝材として敗者に対する温情がある。が、資本主義の蔓延で、それすら薄れてしまった。勝者が敗者を蹴落とし、いずれ勝者も蹴落とされる。恐ろしい循環だが、生物として自然な循環かもしれない。
話が脱線した。主役は美菜である。
お気に入りの仏像を見つけたらしく、私の手を引いた。感心し、指先を追うと薬師如来であった。「おいしそう」と言うので何のことか聞いてみると「まんじゅう」と言った。これは笑った。薬師如来が持っている薬壷を美菜は饅頭と言った。
美菜の思考の九割は食に関するものらしい。常に「おなかすいた」と言っている。歩けば「おなかすいた」、仏様を見ては「まんじゅうたべたい」、水の流れを見ては「ジュースのみたい」、伯母はお菓子を持ってきたが、歩いては餌をあげ、また歩いては餌をあげ、休まる暇がなかった。
隣の南禅寺に行った。その前にどこかで飯を食おうという事になったが、近辺に湯豆腐屋しかなかった。湯豆腐の需要がそんなにあるのだろうか。伯母は休みたいらしく、「どこでもいいから寄ろう」と言ったが湯豆腐に惹かれる二人ではなく、まずは南禅寺を見る事にした。
南禅寺は臨済宗の大本山である。大本山というものは宗に一つかと思ったが、ホームページを見ると十五もあるらしく、南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山らしい。政党と派閥みたいなものでどうでもよいが、それを巡って喧嘩をするくらいなら勝手気ままにナントカ派を立ち上げ本山を名乗った方が傍目に良い。
宗教は本当に分からない。意味不明に複雑である。人間が千年以上も理屈をこね、切った張ったを繰り返しているから細糸が千切れて絡み、凄まじい事になっている。むろん我々に分かるはずがない。分かっても何の得にもならない。
南禅寺といえば三門である。石川五右衛門の「絶景かな」が有名なので登ってみたが、傾斜きつく、人も多く、三歳児もいて実に苦しかった。考えてみればこの三門は石川五右衛門が死んだ後に建てられている。藤堂高虎とは縁があっても石川五右衛門とは関係なく、色んな意味で五百円を払うのは複雑であった。が、見てしまえば登りたくなるのが人情で、情の対価として五百円はそう高くない。
「絶景かな!」
言わねば損と叫ぶのは自分だけかと思ったが隣のオッサンも叫んでいた。安心した。地球はまだ平和で、意味なき五百円を払う余裕がある。
南禅寺も広かった。奥には滝も御陵もあり、有料の庭園などもあるらしいが、伯母の体力と美菜の空腹に限界が見え始めた。特に美菜の空腹は絶頂に達しているらしく、伯母への甘えも混じってウダウダ言い出した。
私の散策は実にしつこい。まだ始まりすら見ていなかったが、従兄弟がそろそろ来るようだし、美菜がそういう具合なので南禅寺を出る運びとなった。
出ると決まってから美菜はご機嫌であった。やはり子供に寺はつまらんようで、その意思表示をしていたわけだが、あまりに露骨で少々笑えた。「出る」と言った瞬間、鼻歌を歌い始めた。曲は「かえるの歌」であった。日曜という事もあって人は多かった。旅の恥はかき捨てなので勝手に歌わせた。すると歌詞を間違えた。
「かえるのうたが、きこえてきくよ、ぐわっ、ぐえっ、ぐわっ、ぐえっ…」
美菜はこれを大声量・エンドレスに繰り返した。もちろん突っ込み大好き関西人は突っ込みたくなった。色んな人が美菜を見、ウズウズした。私は親として止めるべきであったが面白かったので止めなかった。伯母も同様らしく、勝手にさせた。先頭を行く美菜を誰もが気にし、知らないオッサンはミカンをくれた。
これを書きながら美菜にカエルの歌を歌わせた。相変わらず上のままであり、面白いのでこのまま成長させてみたい。
昼食は喫茶店に入った。大通りに出るまで湯豆腐屋しかなく、最初に見えた喫茶店に飛び込んだ。メニューはカレーとオムライスとサンドイッチであった。店内にカレーの匂いが満ちていた。自動的にカレーを三つ頼んだ。が、そのカレーが激辛で美菜の食事は又もお預けになった。
喫茶店を出た後、従兄弟と合流し、青蓮院に向かった。伯母も美菜も歩き疲れているようで何やら元気がなかったが、私はすこぶる元気だった。京都という場所は地名を見るだけで心躍るものがある。京都で最も楽しめるのは地名かもしれない。祇園に車を停め、知恩院の境内を抜け、青蓮院に達した。
青蓮院はさすがの混み具合であった。一枚の青不動が後世これだけの人を集めるとは絵師も思ってなかったに違いない。が、この行列は絵の重さというより時間の重さに並んでいて、時間を基準に考えれば二十分の行列も千数百年の秘密に霞んでしまう。秘仏とは時間を加勢に価値を増す極めてズルいテクニックである。
ちなみに、タクシーで聞いたが青不動の開帳は青蓮院では初めてだが他の場所では過去にあるという。それも近年に三度も開帳されていて出し惜しみがない。まず大阪万博で披露したらしい。その後、企画展で二度開帳された。むろんビラにそういう記述はなく、「創建以来初の大開帳」を大々的にうたっている。
「うまいなぁ」
悔しいが、ここまで来たら並ぶしかなかった。
中の混雑は想像以上に凄まじかった。ありがたい事に伯母と従兄弟が美菜を見てくれ、「先に行きなさい」と言ってくれた。又もお言葉に甘え一人気ままに突き進んだが、進もうにも進めなかった。特に青不動の前は黒山の人だかりで、ぜんぜん前に進まなかった。進んで最前列に達しても後ろの圧力が凄いから早く立ち退かねばならない。二往復したが全く見た気がしなかった。
伯母と従兄弟に至っては更に難渋したらしい。美菜が潰されそうになり、それを守ることに必死で青不動見学どころではなかったそうな。申し訳ない事をした。
青蓮院の庭はなかなか良かった。真っ赤に染まった巨大な椛があり、池にふたをするかの如く葉を落としていた。椛の枝ぶりもよく、庭園に咲く巨大な花のように見えた。紅葉植物をいじくる事に限定すれば京都の職人に敵うものはなく、また競おうとするものもおらず、それだけに京都の紅葉は異彩なのであろう。
青蓮院を出た後も京都を歩いた。
知恩院の御堂で経を聞き、巨大な柱の一本一本を触って歩いた。この柱は中国地方のものなのか、紀伊地方のものなのか、よく分からぬが御堂不要の浄土宗が恐ろしく立派な御堂を持っている事は、知恩院の七不思議よりも不思議に思える。が、そうせねば食えず、必ず廃れていくというのは政治も宗教も同じで、分かるが空しい。人は派手と威圧に服従し、服従する事を心地よく思う生き物なのだろう。
知恩院の隣は円山公園である。円山と聞くだけで遊郭の風を感じてしまうが、長崎のそれとは何の関係もなく、古くは八坂神社の境内だったらしい。明治以降、国に分離されたらしく、京都市で最も古い公園だそうな。
美菜にとっての小さな幸せは、この円山公園に大道芸人がいた。芸人は、
「どんな動物でも風船で作りまっせ!」
そう言っていたので美菜はペンギンを求めた。が、修行不足でペンギンが犬になった。美菜にとって京都で楽しめる貴重な瞬間だったが、それすら中途半端で申し訳なく、以後、美菜の記憶は大阪に戻った。
京都からは従兄弟の車で帰った。「日曜は混む」という従兄弟の言であったが、まさかこれほど混んでいるとは想定外であった。高速へ達するまでに一時間以上かかった。更に高速も混んでいた。
伯母と美菜は車に乗った瞬間から夢の中であり、私も眠くなった。従兄弟には悪いが、途中全滅の中、一人で運転してもらった。
「どこ行きたい?」
従兄弟は私と美菜を気にしてくれた。関西の思い出をプレゼントすべくマメに問うてくれるが、美菜も私も特に返す言葉がなかった。強いて言うなら大阪らしい食い物を美菜に与えようと思った。そういう流れでお好み焼き屋で飯を食い、伯母の家に帰った。
美菜は今日も伯母と寝るそうな。風呂だけ私と入ったが、他の時間は伯母にベッタリで離れなかった。父子二人旅で父と娘が離れていくというのも変な話であるが、ついには、
「おっとー、むこういって! くさい! おっちゃんとおばちゃんがいい!」
こんな事まで言い出す始末で私はすねざる得なかった。「勝手にしろ」としか言えず、美菜は伯母に甘え続けた。
美菜の寝付きは旅先でも早かった。母親がいないと寝れない子供をたまに見るが、美菜に至っては電池が切れたように寝る。それも一人で布団へ行き、勝手に寝る。それは場所が変わっても変わる事なく、横になるところを見付け、勝手に寝た。
「手がいらんねぇ」
伯母は驚いたが三人とも似たようなもので、子供はそういうものだと思っていた。言われて娘の特技だと気付いた。この特技は私も嫁も持っている。
私は従兄弟と一杯やり、古い時代における剣豪の映像を楽しんだ。従兄弟が言うに、明治、大正、昭和初期の剣豪は平成にいないという。高段者が心の勝負であるならば、この世界にも心の衰退が忍び寄っているのかもしれない。
従兄弟の頭は剣道でいっぱいらしい。剣道の話になると力がこもった。私もそれくらい熱中できる事を探さねばと思うが、書く事もモノを作る事も旅も家庭も全てが好きで、選ぼうにも選べなかった。全てが横一線に全力で走っている。
青蓮院で入場記念としてお札を貰った。「青蓮院は気が利く」と感心し、寝る前に開けてみた。安っぽい紙製で味も素っ気もなかった。何でもそうだが形而上にある煌びやかな世界は形而下の肉眼で見ない方がいい。
青不動の紙不動を枕頭に置き、夢に溶けた。

【12月7日:復路】
朝の五時半に起きた。
七時の新幹線に乗る予定であり、起きねば間に合わなかった。昼過ぎには阿蘇でお客さんと会う約束があり、本来なら昨日の晩に帰る予定であった。が、嫁の反発を受け、こういう日程になった。
「深夜に三歳児を連れ回さんでよ!」
ごもっともではあるが五時半に三歳児を叩き起こし、七時の新幹線に放り込むというのも少々過酷である。
五時半の美菜は案の定泣いた。「帰らない、大阪に残る」と駄々をこねたが、食い物を与える事で何とかなだめ、伯母がくれた土産でご機嫌になった。
土産はケーキであった。従兄弟が買ってきてくれたもので、食べず冷蔵庫に入っていたものを「新幹線で食べなさい」と持たせてくれた。
六時半の電車は意外に混雑していた。都会は遅寝遅起きというイメージだったが御堂筋線も新大阪駅も人でごった返していた。
遠景としてスーツの群れにリュックを背負った父子が混じっている。田舎なら間違いなく話しかけられるが、都市部の機能美は個を尊重する事により成り立っている。浮いてはいるが、あくまでそれは風景であり、誰も話しかけてはくれなかった。
美菜は子供らしい子供であった。ホームで新幹線を待っていると、「新幹線の家はどこにあるのか?」「夜はどこで眠るのか?」その事を気にし出した。無機物を有機物に変え、生命体としてモノを見るのは子供の子供たるゆえんである。
「どこだろう? 探そう!」
そう言ってホームの端まで歩くと寝ている新幹線が見えた。屋根付き車庫に二人の新幹線が寝ていて、いかにも美菜の世界に沿う。
「おうちがあった!」
新幹線の家を発見した美菜は喜び、「どっちに乗るのか?」と大いにはしゃいだ。美菜は右、私は左を選択し、当たった方がジュースを飲めるとした。が、乗る新幹線は東京方面から現れ、二人はピクリとも動かなかった。
「ともだちがきたね」
乗った新幹線は美菜に言わせると「二人の友達」らしい。子供の発想は限りなく豊かで、それでいて温かな血が通っているように思われた。
子供の発想について一つの挿話がある。数ヶ月前、実父の還暦祝いをやった。お祝いとしてコンプレッサーをプレゼントし、併せて近所の地獄温泉で宴を開いた。その際、動画を流した。私が行うべき準備は脚本を書き、それに沿って動画を撮り、編集という流れであったが、長女の鼻歌があまりに良く、書いていた脚本を破り捨てた。
長女はブランコに乗り、何気なく歌っていた。何も考えていないのだろうが、考えていないだけに「考える」という事の浅さを痛感せずにはいられなかった。というより、考えている時点で弱い。直感こそ、反射こそ魂への最短距離であった。
 いつも、こころがやさしいじいちゃんだよ♪
 じいちゃんはながいきするよ♪ ながいきするよ♪
 いつも、げんきなじいちゃん♪ じいちゃん♪
書けない。思いつかない。実父のために何かしようと企てる小さな脚本家はうなだれるしかなかった。
さて、美菜である。
早起きしたのですぐに寝るかと思ったが、全く寝なかった。往路と変わらず暇に悶え、人形を取り出し、家族ゴッコを始めた。当然ながら私の手人形にも出動要請が入った。今度は名前が変わっていた。ナントカゴッコというものは名付けをする事が重要で、名前自体はどうでもいいらしい。
復路は家族が増えていた。円山公園の大道芸人にもらった風船のイヌで、名前は「ピョン」であった。どうでもいい感じが如実に現れていて、イヌなのに「ニャー」と鳴いた。ピョンは遊ぶごとに崩れていき、イヌがキリンになり、ついには単なる風船になった。それでもピョンはイヌで、ニャーと鳴いた。
家族ゴッコは本当に疲れた。終わりが見えず展開がないというのはもちろんだが、美菜のこだわりを探す作業が難しかった。適当なくせに芯だけは強いものがあり、手人形がジャンプすると、
「それはだめ」
駄目出しが出た。風船のイヌは「ニャー」と鳴くから「モー」や「チュー」でも良いはずだが、それもいけないらしい。美菜の家族ゴッコに全力で応えたいが、やはり大人には難しかった。
嫁には「時間を決めて菓子をやれ」と言われていた。が、六時間列車の旅、とてもじゃないが守れない。土産のケーキを先に先に引っ張りながら飴玉でごまかしつつ何とか新幹線を乗り切った。が、次の特急は引っ張れなかった。本気で暴れ始めたので、久留米でケーキを出した。
ケーキは「小さくてかわいい」と従兄弟が言ってたので一口で食えるものかと思っていたが、ちゃんとしたケーキが六個も入っていた。
箱を開けた瞬間、美菜は興奮の極みに陥った。興奮し過ぎて屁をふった。臭かった。美菜の失態を笑い、
「やったな」
小声で言うと、
「おっとー、おならせんでばい!」
なんと美菜は社内に響く声でそう叫んだ。我子ながら極めて性格が悪い。臭いが地を這い、車内に充満した。この状況でこの叫びは赤面を通り越し致命傷であり、一つの事件であった。美菜と同じ声量をもって弁解したいが、それは大人として見苦しく、言った者勝ちであった。
美菜は父をおとしめ、瞬時に忘れ、ケーキに集中した。ケーキの登場は旅の記憶が吹き飛ぶほど嬉しかったらしい。後の話になるが、嫁が旅の感想を聞いた。美菜はこう応えた。
「ケーキたべた、ろっこもたべた」
同行者として悲しいが、美菜のサンナナ旅行はそれに集約されるらしい。
ところでケーキを食うためのスプーンがなかった。車内販売にもらおうと待ったが、特急有明には車内販売がないらしい。車掌も持ってないと言ったので、ケーキの箱をビリビリやぶってスプーンを作った。
「ありがと! おっとーすきー!」
この旅で初めて感謝された。
美菜は本当に幸せそうであった。ペロリと平らげ次を求め、またペロリと平らげ次を求めた。美菜の健康を考え、私も協力した。が、あまりの甘さにムナヤケした。焼酎派で辛党の私にケーキは罰ゲームであった。
(美菜の前世は何であろう?)
その事を考えてしまうほど美菜は動物らしくケーキを食った。包装紙のクリームまで綺麗に舐め、舐めるものがなくなると燃え尽きるように寝た。
(やっと寝た)
外を見ると熊本駅であった。なぜこやつは着く寸前に寝るのか。
寝顔も丸かった。よだれが白かった。クリームが舞い戻っているように思え、美菜の前世は牛だろうと思った。ケーキを反芻しているように思えた。
美菜と嫁の再会は全くもって普通であった。八恵の時はギューギュー抱き締めていたが、今回はお互いに自立している感があり、特にこれといった盛り上がりもなかった。
昼飯時だったためラーメン屋で飯を食った。嫁は美菜に質問を浴びせたが、美菜はケーキを食べた事と新幹線の家を見た事、大阪のおばちゃんが優しかった事しか言わなかった。嫁はガッカリすると同時に「美菜、気持ち悪い」と言った。美菜の言葉が赤ちゃん言葉になっていた。
優しい伯母に甘え続けた美菜の言葉は完全に角がなくなっていた。しっかりしていると評判の美菜は甘えん坊の三歳児になってしまった。
「気持ち悪いけど笑えるね」
最初は笑っていた嫁であったが、だんだんイライラしたらしく、
「ちゃんと喋りなさい!」
渇を飛ばした。
すぐに戻るだろうと思われた美菜の赤ちゃん言葉は三日ほど続き、いつの間にか消えた。
美菜が発する姉への自慢は「ケーキ六個」それのみであった。ケーキ六個を看板に美菜におけるサンナナ旅行が構築され、唯一であろう姉と同じ基準を持つ各々の思い出ができあがった。長女の言葉を借りるなら、大きくなって父の墓前でサンナナの話をするらしく、だからサンナナ旅行は重要らしい。
美菜は児童になった。来春には保育園に行き始める。福山家唯一の幼児が消え、これからは児童が三人、大人二人という構成になる。が、嫁や娘にとって私も一人の子供らしい。私はその事を長女の手紙で知った。
子は親の鑑である。長女の手紙は嫁と娘の総意であろう。
美菜とのサンナナ旅行に際し、長女が伯母宛に手紙を書いた。私が預かったが絶対に読んではいけないと言われた。厳重にシールされ、何度も読むなと念押された。だから気になり、伯母に渡した後、その内容を聞いた。内容は姉として美菜を心配する手紙であった。「美菜をよろしく」と何度も書いてあり、
「父親は何もできません、本当に何もできません、だから心配なんです」
そう訴えていた。美菜のトイレに関する細かな指示なども書いてあり、それは姉というより母であった。嫁も長女も次女も美菜を心配するというより、その保護者である父の不甲斐なさを嘆き、
「だから、よろしくお願いします!」
伯母に叫んでいた。
サンナナ旅行中の私は気ままに旅行を楽しんだ。それは伯母がいたからだが、もう一つは「父が楽しめず子が楽しめるか!」という強い思いがあった。
「旅とは何ぞや? 旅を楽しむ父を見て学べ!」
それも一つの教育だと言い聞かせ、娘を放り出し、楽しむ事の正当化に努めた。
自由こそ旅の醍醐味であり、束縛を望む人は観光を選ぶ。旅をしたいと思っても、こればかりは定年後じゃ遅い。完全に手遅れで、旅をするにはそれなりの下地がいる。
嫁子供には今後も心配と迷惑をかける。既に迷惑かけっぱなしであるが、それでも「サンナナ旅行に行け」と言った家族の声は父親のそういうところに期待したのではないか。
サンナナ旅行はひとまずこれで完結する。次があるかは分からぬが、父の旅はまだまだ続く。