道子、初めての土いじり♪  (03/08/24:道子執筆)

 

前に、道子の日記で、「まずは畑でもしてみようかな〜」と書いていたけど、8月20日(水)についに!畑作りを開始した。

3畳ほどの広さの土地を譲ってもらって、記念すべき最初の畑は、「春菊」と「三つ葉」を植えることにした。

なんでこの2つを選んだかというと・・・市販の種の説明書きに「抜群の成長力」「お手入れが楽」と書いていたから。。

そして、種まき時期が、夏でもOKだったから。。。

マメな仕事はかなり苦手なので、私でも出来そうな、元気に育ちそうなこの2つにしてみた。

ただ、無事成長したところで、春菊はいろいろ使えそうだけど、三つ葉はあまり使えないんじゃないか・・・とちょっと心配もしている。

丼物に乗っけたり、吸い物にいれたり・・・  他は??

そして、畑の方はというと、まずは雑草取りから初めた。

私は、カマを使って雑草を抜き、その横でお義父さんが土を耕してくれ、列を作って種を蒔いて、それらしい形へとなってきた。   

途中芋虫?も登場してかなり気持ち悪かったけど、「畑をするなら虫とは友達にならなきゃ」とお義父さんも言ってたので、少しずつなれていけばいいなあ〜と思う。

今、種を巻いてから4日がたった。  

少しだけど芽も出てきて、成長してるところが目に見えるようになった。

食べられるようになるまであとどれくらい掛かるかは分からないけど、ちゃんと水撒きを忘れないようにして、元気に育てていきたいと思う。

次は、大根を作る予定。

早く、自分で作った野菜を食卓にいっぱい並べたーい。

うふ・・・。

 

 

コロコロ事件 (03/08/21:道子執筆)

 

今日は、久しぶりの日記!

「週2回はがんばって書く!!」とか言ってたのに、ふくちゃんの入院やお盆などでバタバタして、それをいいことにずっとさぼってしまった。。

この間にいろいろとあったけど、とりあえず、きのう起きたての事件を書こうかな〜と思う。

きのう、ちょうど夕飯が終わった頃、春がう○ちをした。

もうお風呂にも入れるし、拭かずにお風呂でお尻を洗おう、と言う事になって私が浴槽にお湯を溜めて、お義母さんに春をお風呂まで連れて来てもらった。

で、お義母さんがおしめを取った瞬間!

春のう○ちがマットへ転がってしまった! 

それだけでも私とお義母さんは大慌てで大爆笑なのに、慌てたお義母さんは素手でう○ちを取ろうとするし、さらには拾ったう○ちをまた落とすしで、かなり笑えた!!

多分、実際に転がってるところを見ないと笑えないだろうけど、かなりうちらにはおかしかったので書いてみました。

子供をお持ちの方、同じような経験ないですか!?

やっぱり、子供とう○ちは付きものですよね!?

ちなみに、そのマットは今日洗いました。

それから、お義母さんについては、とてもとても面白い人なので、また是非日記に書きたいと思います。

では、、、

 

 

ミカン狩り (03/07/27:道子執筆)

 

きのう、和哉くんの実家へふくちゃんと春と3人で遊びに行ってきました。

まあ、遊びに行くと言っても、実は井上家で作っている『ハウスミカン』が本当の目的だったりするのですが・・。

ご存知の通り(?)私は大大大のミカン好きで、その事を知っているおじさんが、「今収穫の時期だからミカンを取りに来なさい」と言ってくれたのです。

これで、4年連続、貴重なハウスミカンを頂く事になりました。 (どれだけ貴重かというと、町田では6個入り590円で売っているそうです!)

おじさんに感謝!!  そして、ふくちゃんの友達、和哉くんにも感謝!!

実は、行く当日になっておじさんから「今日6時から用事が出来て、持て成す事が出来なくなったが・・・他の日にするか?」って電話が掛かってきたのです。 

でも、もうミカンで頭いっぱいの私は、「もうミカン気分になってしまってるので、今日早めに行ってもいいですか!?」とお願いして、強引に(!?)行かせてもらったのです。。

4時から2時間、バタバタとお邪魔してどうもすいませんでした。。。

でも!その2時間で、ビールやジュースをご馳走になって、ミカン狩りまでさせてもらって、しまいには大量のお土産(もちろんハウスミカン!!)まで頂いて、私にとっては本当〜に充実した時間でした♪♪

ハウスの中でも1こ食べて、井上家に戻ってからも3こ、家に帰ってからも1こ、今日もすでに2こ食べたけど、いつ食べても美味しい!! めちゃくちゃ甘い!! 

そして、玄関には、まだまだまだまだ・・・大量のミカンが残ってます!

これから当分は、ハウスミカンを満喫出来そうです♪ 

みなさん、今遊びに来たら、美味しいミカンが待ってますよ! 

 

 

春が立つ (03/07/26)

 

「春が立つ」という言葉そのものが、何となく縁起のいい言葉のように感じられる。

雪解けの冷ややかな水が山野を流れ、日の光は増し、道々にはツクシなどがちょこんと現れる。

虫や動物、それらの類もゆっくりと動き出し、大仰に言えば、

(万物における躍動の始まり…)

このようにも思われてしょうがない。

そう…。

愛娘・春が、やっとの事に立った。

捕まり立ちから捕まり歩きをするようになって丸三ヶ月ほどの月日を過ごしたろうか。

「まだ立たんとー?」

その片鱗を見せながら、なかなかに立たない春を、皆は呆れ顔に眺め、

「まぁ、ゆっくりゆっくり、ね…」

などと言っていたものであるが、1歳4ヶ月にして、やっとこさの一人立ちを見せた。

富夫と恵美子を含めた家族皆の注目を集める中、春は周りを窺いつつ、

「ぶ、ぶぶぶぶ…」

ウンチングスタイルから、何に捕まる事もなく仁王立ちを見せた。

福山家実家、その居間においてであった。

皆が、

「おぉー!」

声を上げて一斉にどよめくと、春は調子に乗り、座っては仁王立ちを繰り返した。

皆が喜べば喜ぶほど、春は調子に乗り、

「ぶぶぶぶー!」

気合を入れて、屈伸運動を続ける。

どうやら、興奮の極みに達したようだ。

春は前からお調子者の気があったのだが、これにて明白となった。

芸にしろ何にしろ、乗せれば何でもする。

その反面、人が見ていないと何もしないし、すぐにしょげる。

誰もいないのにミカンネットをかぶり、面白い顔を研究していた太陽を少しは見習って欲しいとは思うが、ああなっては困るので、この思いは打ち捨てる事にしよう。

とりあえず、春は俺の子、蛙の子は蛙であり、

(うちの子やねぇー)

俺としては「お調子者の血」を思わずにはいられないのであった。

ところで…。

興奮の極みを迎えている春であるが、その横で、もう一人だけ、興奮している男がいる。

富夫である。

「ほぉー! 立った立った!」

叫ぶように言い放つと、飯を食っている最中ではあったが飛ぶように席を立ち、

「凄い凄い、はぁー、春ちゃん、凄い凄い!」

落ち着きなく春の脇に座った。

脇といっても50センチばかり離れたところであろうか。

そこから今度は、

「はい、アンヨ、アンヨ!」

フィリピンバーでしか暴れないと噂の富夫であるが、この日は別、春に向かって両手を広げ、手を叩きながら第二ステップを要求した。

春が乗っている時に、一気に事を進めようという思惑なのであろう。

富夫を除く者達は、この光景を微笑ましげに眺めているが、

(そりゃ無理だろう…)

と、苦笑せざるを得ない。

が…、どういう事か、のっている春は、富夫の挑発を受け、仁王立ちの状態から一歩、また一歩と足を踏み出したではないか。

それも倒れない。

確かに、二足歩行で富夫に向かって歩いた。

「ほらっ、見ろっ、ほらっ、すごかろがー!」

無論、富夫は興奮の極みに陥った。

恵美子は言う。

「今、春ちゃんが五歩も歩いたばいー、五歩ばい、五歩ー!」

何歩歩いたか、恵美子カウントは怪しいものであったが、確かに歩いた。

「ほぉー、のせれば何でもすんねぇー」

俺が、しみじみ感心した事は言うまでもなく、道子にしても、

「春ちゃん、凄い凄いー」

たかが数歩歩いただけなのに、それはそれは褒め尽くし、次いで抱き締めた。

春は、

「ぶひー」

最近覚えた豚の声を上げ、皆の歓声に応えただけであった。

以上…。

春が立った、その初日の話である。

(そんな親バカな話を聞いてもしょうがにゃーばい…)

思われた方も多いと思うし、俺だったら、

(苦情のメールを打つかもしれない)

とも思う。

が…、親としては、皆に伝えなくては気がすまないのである。

どうしようもない親心と思い、この日記、勘弁して欲しい。

とにかく…。

冒頭のように、この事が躍動の始まりとなって、福山家は更に賑やかになるはずである。

俺は、静かな山村にありながら、壁一枚隔てたところから響いてくる、

「ビャービューベボビー!」

わけの分からぬ宇宙語を聞き取りつつ、

(子持ちとなった数年には、落ち着ける時間というものはない…)

その事を痛烈に思うのである。

窓の外に、燦々と日が差している。

熊本も、やっと梅雨が明けたようである。

 

 

失業保険を貰うまで (03/07/24)

 

昨日、夫婦揃って失業保険の説明会を受けに行った。

前に職安へ行った際、

「これを受けないと金が貰えません」

そう言われた説明会で、欠席するわけにはいかなかったのだ。

水曜日で、実家が営むプラモ屋が休みだったため、春を預け、若夫婦の俺達は山鹿の職安へ向かった。

午後1時である。

この説明会の主旨は、

「失業保険というものの意図と、保険を貰うためにやらねばならない事の詳細を理解する」

というもので、最初に重要な書類を幾つか貰い、その後、説明が行われた。

(寝てしまうかも…)

そう思っていた俺ではあったが、聞く事が目新しく、且つ、自分に直接関係のある話だったため、2時間という長丁場を尻の痛みという軽傷のみで乗り切った。

隣にいる道子は、他の誰も寝ていないのに、前後左右、小型の頭を絶え間なく揺らし、猛烈に目立っていた。

ゆえに、旦那としては、

「おい」

と、起こすより他はなかったが、

「駄目だよー、うー…、むにゃむにゃ…」

言いながら目の線が細くなり、次第に頭を振り出したため、

(こりゃ、駄目だ…)

と、諦めたのである。

道子の話によると、

「私、就職説明会の時も眠くてねー、足をつねったりしたんだけど起きれなくて、本当にまいったよー」

との事で、今日のように猛烈に揺れていた事が想像される。

無論、道子はその会社に落ちた。

さて…。

説明会が終わると、2時間半が経過していた。

その内容であるが、簡単に説明させてもらうに…。

今年の5月、つまりは二ヶ月前から、自己都合で辞めるものに対して条件が厳しくなっているらしい。

年齢による条件というものがあるみたいだが、若手の自己都合は、有無を言わさず貰える日数が90日となる。

俺にしてみれば、ここが痛いところで、5年以上働いていれば120日貰えるはずであったのが90日となった事になる。

(三ヶ月前に辞めていれば…)

思ったものであるが、三ヶ月前だと勤続がぴったり5年で、これも危ういところだったといえよう。

また、貰える金額というものは、辞める前六ヶ月間の収入、その平均を基準に算出されるらしく、何も知らなかった俺は、

(あっちゃー、俺が最も残業をしてなかった時の平均だ、まいったー!)

思ったものであるが、ま、貰えるだけありがたい。

次に、貰い始める時期であるが、道子の退社理由は自己都合になっておらず、なにやら妊娠による延長の手続きをとっていたとの話で、すぐに貰えるようだ。

が…、俺は、これまた自己都合という理由で三ヶ月という間を置いてからしか貰えないという事である。

(あらあら…)

思うが、福山家にすれば丁度よい。

道子の後に俺がきて、来年1月までは、その額の多い少ないは別にして収入があるという事になる。

(うんうん…、なんとも便利な制度よなぁ…)

その事を思わずにはいられない。

ふと、これと合わせて、この制度を利用して文筆活動に勤しんでいる知り合いの話を思い出した。

名は伏せておき、その者の名を「メガネ君」と呼ぶ事にする。

メガネ君は、俺よりも相当に年が上の男であるが、大学を卒業した22の頃から、働いては辞め、しばらく失業保険で生活をし、また働いては辞めを繰り返す生活をしているらしい。

ものを書いたり、取材に勤しむのは失業時で、働いている時というものは、寝る間も惜しまず働くらしい。

職場を選ぶ基準は、

「多忙に多忙を極めてもいいから、金が凄まじく良いところ」

という話で、

「その期間の俺は、趣味も娯楽も捨てている!」

そこまで言うほど仕事に燃えるらしい。

それで、ある期間を越えると、パタリ仕事を辞めるという。

止められようが脅されようが、何が何でもスパリと辞め、そこから失業保険の生活に入るらしい。

メガネ君が言うには、

「一切働かずとも、前の素晴らしい収入による蓄えと、それから計算される素晴らしい額の失業保険がある。ゆえに、生活の質を一切落とす事なく、その期間、趣味に没頭できる」

との事で、

「このメリハリのある生活がやめられん」

と言う。

この事は、見ようによっては、

「凄い…」

ともいえるが、一方、

「法律を巧く利用した姑息な奴め…」

とも言え、人によって取り方は千差万別であろう。

法律は、人間が作ったものゆえ、得てして穴が多い。

メガネ君は、その穴を見極めて利用した数多い賢者の一人であろう。

失業保険…。

俺達夫婦もそれを利用し、

「便利だ、便利だ!」

喜んでいる者の二人なので、あまり声高に言える事ではないが、

「とても税金を有効に使っている代物とは思えん…」

今回の説明会を受け、そう思ったのであった。

ちなみに…。

説明会の会場に入った道子は、

「福ちゃん見てー、初老ばっかりだよー」

そう言って暴れた。

俺から見ると、初老まではいかないが、確かに脂の乗った年頃の人々が多い。

日本の景気、九州の景気、熊本の景気が、そこに垣間見えた気がした。

 

 

やる気! (03/07/23:道子執筆)

 

日記を書き始めてまだ4回目だけど、すでに「何を書こうかな〜、週2回は多すぎるな〜」という状態になってきてしまった。。 この前書いたばっかりなのに、もう私の順番が来てしまった!という感じで。。

今までも、あれだけの分量なのに1〜2時間は掛かってるし、盛り上がるような内容も書けないし、とにかく物書きは私に向いてないとつくづく思ってしまった・・

でも、せっかく始めた事なので、がんばって続けようとは思うけど、「今日は何があったかな?」とか考えてみても、わざわざ日記にするような事もなくて、ちょとした事でもあんだけおもしろおかしく書けるふくちゃんはすごいな〜とか思った。。

まあ、私があんまり物事を深く考えないで日常を送ってるからなんだろうけど、もっと人や物や自然に興味を持って毎日を過ごしていきたいな〜と思う。  今までにしても、趣味という趣味を持たず、なんでも飽きっぽい性格だったから、何か1つでもハマレるものを見つけたい!!

私の性格がなんでこう、やる気のないものかな?とかよく思うけど、それは遺伝なのか、やっぱりただの怠け者なのか、いろいろ思うけど、平山家と福山家をちょっと比べたりすると、やっぱり環境の違いかな?とか思ったりもする・・。

うちのお母さんは結構多趣味というか、いろいろ手を出したりはしてたけど、まあやる期間も短かったりして、「これだー」っていうのは無い気がするし、お父さんは本はいっぱい読んでたけど休みの日は庭をいじって10時になったらパチンコ行って、それしかしてなかった気がするし、お姉ちゃんはただ寝てるのが好きなだけだし・・・ 本当によく寝る。 (平山家、すいません。。。) 見るテレビもバラエティー系。。

それに比べて福山家は、お父さんもお母さんも勉強家で、何かするにしてもはまってる気がするし、テレビは常にNHK! 雅士くんも服や音楽にこだわりがありそうだし、ふくちゃんはご存知の通りで、、、家のせいにしてはいけないけど、やっぱり環境の違いだ!と思いたくなってしまう・・  

(ごめんなさいね、お母さん、お姉ちゃん!)

こうして人のせいにばかりしてるからいけないのよね・・

春がおっきくなったときに、「お母さんがそんなんだから私がこうなった」って言われたらやっぱりショックだし、ちゃんと子供のお手本になれるようにがんばってる姿は見せたいから、簡単な事でも難しい事でも、途中で投げ出す事だけはしないようにしたいと思う。 何か新しい事を始めてみよう!!

・・まずは、お義父さんに勧められた「一畳分の畑」に大根でも育ててみようかな。。

 

 

田舎の蚊 (03/07/21)

 

入間に蚊がいなかったというわけではないが、「本物の蚊」というものはいなかったのではなかろうか。

もしくは、ここ山鹿の蚊が特別なのか。

それは定かではないが、明らかに入間と山鹿で、蚊のパワーが違う。

入間で刺された春の状態を見るに、赤く腫れるだけであった。

が…、山鹿へ来てすぐの道子に言わせれば、

「なんだよ、これー!」

仰天も仰天、直径4センチにもなる赤みを帯びた丘が現れ、その中心には小さな水ぶくれができあがったのである。

それは、道子と春、二人にのみ現れた。

「凄いよー、田舎の蚊は何かが違うよー」

道子はうろたえ、防護策として蚊取り線香を用いるが、そもそもの数が入間と違う。

「なんだよー、また刺されたよー」

道子はその「しつこさ」に嘆き、春の惨状を目の当たりにした恵美子にしても、

「山瀬マミのアレば買うよ、もう、こうなったら山瀬マミのアレしかなかよー」

そう言いながら、田舎にすればハイテク機器ともいえる「水性キンチョウリキッド」を購入してきた。

余談となるが、富夫と恵美子は昔から「試してガッテン」(NHK)を見ているため、山瀬マミの大ファンである。

山瀬マミが出るたびに、

「あらっ、山瀬マミ!」

と、テレビに食いつく。

あの鼻にかかる声が、田舎者の二人に言わせれば、

(たまらんばい…)

らしい。

とにかく…。

その、山瀬マミが宣伝する「水性キンチョウリキッド」の効果は顕著に表れた。

寝てる時に、二人が刺されなくなったのだ。

が…、都会と違い、田舎における蚊というものは、リキッドの隙間を見ては現れる。

また、一瞬でも春が家を出ようものなら、ここぞとばかりに集団で食いついてくる。

都会の子と田舎の子に大いなる体力の差があるように、蚊の体力も大いに違うのだ。

ゆえに、痛々しい春の斑点は一つが消えれば一つが現れ、完璧にイタチゴッコとなった。

が…、確実に「よい方向」に向かっているものが一つだけある。

免疫力である。

道子は言う。

「今じゃ田舎の蚊も都会の蚊と変わらないよ。ちょっと腫れるだけだよ」

この言葉のように、あれだけ腫れていた都会肌が、赤みを帯びる事なく、単に腫れるだけにとどまっている。

春にしても、道子まではいかないが、刺された痕から猛烈に汁が出るという事がなくなった。

赤い斑点だけが猛烈に残って見苦しいものの、痛々しさはなくなってきたのである。

(うんうん、そうやって二人とも逞しくなってゆく…)

さすがに、この成長には感動を隠せない俺であった。

ちなみに、逞しいといえば…。

うちのばあちゃんの家は三加和という超田舎町にあるくせに網戸が緩いものだから、蚊の無法地帯で、俺は、ばあちゃんの家に行くたびに何十箇所も蚊に刺されていたものであるが、ばあちゃんは平然としていた。

まず、刺されない。

仮に刺されたとしても腫れない。

「かゆい」とも言わない。

そして、無数に刺され、悶えている俺に、

「あら、蚊に刺されたね、今日はそぎゃん蚊の多かろか?」

言いながら蚊取り線香を焚く。

日頃から、蚊と共に生活しているゆえ、蚊取り線香などは客人用なのだ。

「ばあちゃんは凄い…」

俺はそう呟きながら、目に見えて飛び交う蚊を見つめ、

(極めれば、どこまでもゆける…)

その事を思うのであった。

 

 

ふくちゃん (03/07/20:道子執筆)

 

ふくちゃんについて・・いろいろ思う事を書こうと思う。 

まず最初の第一印象は、4年前の3月、友達の飲み会に着いて行ったときである。その時は、初めて体験する九州男児(熊本人)にただただ圧倒されまくりだった。 

はっきり言って、熊本弁は何を言ってるのか分からなかったけど、異様なテンション・動き、すべてが今までの友達にないタイプで物珍しさを感じた。 

正直、悔しいけど「また会ってみたい」と思った。

それから、付き合いが始まって、いろいろな場所へ連れて行ってもらい、いろんな友達とも会ってきたけど、本当に思うのが、「ふくちゃんはすごいな〜」という事である。

すごいと言うと大袈裟かもしれないけど(嫁バカでもない!!)、とにかくなんでこんなに友達がいるんだ!ってほど、全国に知り合いがいて、情に厚いし人好き・世話好きで、子供相手でもおばちゃん相手でもその場を盛り上げてしまうし、とにかく私には真似出来ない「すごさ」があるのである。

まあ、今ではそれが日常、当たり前となってしまったので、こんなことは思わないが、ちょっとこの頃のことを思い出して、ふくちゃんを大切にしようかと思う。 「すごい人」と改めて感じてみようかな。。  最近、扱いが悪かったしね。   

とりあえず、これからもよろしく。

 

 

ヒキコモリの心 (03/07/16)

 

一日一日が飛ぶ様に過ぎてゆく。

辛うじて、その日なにをしたか、なにを読んだか、その事を手帳に書き残しているため、

(ああ…、あの日はこれをやったんだった…)

その事を思い出せるが、

(うわぁ…、時間が経つのはえぇーなぁー…)

その思いは日毎に増している。

俺の執筆日程を説明する。

まず、朝5時に起きる。

そして、1時間半あまりのウォーキングを道子と行う。

それからシャワーを浴び、ちょろりと本を読んで飯を食うと午前9時。

その後、春と遊びつつ、10時に富夫を仕事に送り出し、また読書に入る。

昼飯は12時に食べ、13時を回った頃から、

「さ…、書こうかな…」

と、執筆に入る。

無論、それは、はかどる時もあれば全く進まぬ時もあり、

「ええい、進まん! 今日は読書の日だ!」

と、内容を切り替える事も多々ある。

19時には春を風呂へ入れ、それから帰って来た富夫を交えて飯を食い、酒を飲む。

これが終わると、時は21時を回っている。

そこから、文を書いたり、本を読んだり、このホームページの日記を書いたりもする。

12時には就寝。

このリズムで執筆日というものが過ごされる。

「いっぱい書けて満足でしょ?」

問われれば、あの日程なので、もちろん「うん」と言う。

「集中できるでしょ」

言われれば、女3人の声が厚い壁をものともせず響いて来るものの、社宅の環境と比べれば雲泥の差で、これも「うん」と言うより他はない。

周りも静かで、更に、帰って来た事を地元友人の誰にも言ってないので飲みの誘惑もない。

環境は、書くには最高である。

が…。

俺の中の何かが、申し訳なさそうに遠慮気味に、誰かしらに言うのである。

「家から出ちゃー…」

もう一つ、

「酒飲みに行きちゃー…」

更にもう一つ、

「パチンコに行きちゃー…」

歴史ものの小説などを書きながら、読書などをしながら、この思いに囚われる事が多々ある。

気付けば、無心のうちに熊本の居酒屋サイトを開いていたり、パチンコメーカーのホームページを開いていたり…、俺の中のもう一人の俺は、なかなかに執念深い。

開き直ってもの申せば、そもそも俺というものが、家に引き篭もれる性格ではなかったようだ。

書くばっかりでなく、取材(広い意味での)、書く、書く、こういったペースが丁度いいのではなかろうか。

これは、よく道子に言う言葉であるが、ラマーズ法こそが生命の呼吸、生命のベストリズムだと思う。

二回頑張って一回抜く、二回頑張って一回抜く…。

俺が恵美子のラマーズで生まれたように、おおよその人間がラマーズで生まれている。

さすがに、7時間とか10時間とか、受験生のような執筆を続けていては集中力も持たず、酒とかパチンコなどという雑念の入る余地を生む。

が…、俺は、

「鬼のように書く!」

この事を宣言し、山鹿へ飛んでいるため、

(駄目だ、書け書けぇー!)

自らの頭を押さえつけ、強引に机へ向かい、かえって能率を損なっていた感がある。

今日…。

俺は、初めて道子に思いの丈というか、裸の欲求をぶつけた。

「3000円だけ、パチンコをやらせてくれ…」

朝10時の事である。

道子は渋々ながらも承諾し、俺は飛ぶようにしてパチンコ屋へ向かい、結果、20分で負けきった。

負けた後、俺は迷った。

速攻で家へ帰り、

「うっひょー、シューマッハの負けっぷり、さすがに福ちゃん!」

などと、道子から馬鹿にされるのが癪だったのである。

結局、本屋や富夫の営む塩崎模型店で時間を潰し、正午に帰った。

それからは、いつもの時間に飯を食い、書く気が完璧に消え失せていたため、

「よし、道子、小説の取材に行くぞ!」

そう言って、玉東という近場の町へ、小説の取材に出かけた。

ま…、取材といっても、ここは今書いているものとは関係がなく、書き終わってしまった小説の舞台で、

(文献で書き上げた場面が、実際はどういうところなのか?)

その事を確かめに行ったのである。

行った場所の名を「横平山」「半高山」といい、どれも西南戦争の激戦地である。

これらは「田原坂」と盆地を挟んだ向かいにある。

無論、田原坂は超有名で道が良いため、小説を書く前に訪れたのであるが、上2つの山は奥深い秘境で悪路という事もあり、時間の都合で見合わせていたのであった。

役場で場所を聞き、

「うまく説明できんですね、なんといってもミカン畑の中にありますけんなぁ…」

そのような素晴らしい説明を受け、俺は道子と春を連れて山深くへ入っていった。

確かに、奥深くへ行けば行くほどミカン畑しかない。

だが、「横平山」や「半高山」の看板はあり、車一台がやっと通れる道へ俺達を誘ってくれる。

が…、その看板も、役場の人に言わせると、

「看板は立っとる事には立っとりますが、草で覆われて見えんかもしれませんなぁ」

その言葉のように、減速に減速を重ねねば見つける事のできないものもあった。

とりあえず、なんとか横平山に着く事ができた。

ところで…。

横平山と半高山というところは、田原坂と並び、

「血の海ができたところ…」

だったようで、この三箇所による死者だけで、西南戦争における死者の半数近くを占める。

現在は、田原坂も綺麗に整備されて公園になっており、横平・半高山も、小さな見晴台があり、説明板も添えられ、簡単ではあるが整えられている。

ちなみに、半高山の脇を通る峠を吉次峠という。

ここは地獄峠と呼ばれ、その名に相応しい激戦が繰り広げられたのであるが、ここから少し下がったところに有名な篠原国幹の墓がある。

篠原は薩摩軍3の将で、ここの部隊の大隊長として守備兵を率いていたのであるが、ある日、政府軍の凄まじい銃撃に兵が逃げ出し、部隊は総崩れとなった。

篠原は、軍服に赤いマントという奇抜な格好で前線へ踊りだし、

「逃げっと斬るぞ、向かえー!」

自ら激剣をふるい、兵を叱咤した。

猛烈な剣捌きだったという。

薩摩示現流は、第一刀にその全てをかける。

空をも切り裂く振り下ろしをもって、官軍兵をバッタバッタと斬り倒した。

が…、一発の銃弾でその命も尽きた。

薩軍3としては、あまりにも呆気ない幕切れではあるが、人の死というものは得てしてこのようのものであろう。

その後、指揮官を失った薩軍守備隊は、

「篠原大隊長の弔い合戦だ!」

と、その意気を取り戻し、官軍を追い払っている。

なんとも凄まじい話であり、昭和も終わりかけの頃に生まれた俺からすれば、明治10年のそれは遠い昔の話のように思われるが、数えるとほんの130年しか経っていない。

(静かで、鳥の声しかしないこの峠が、ほんの一世紀ちょい前には、怒号と血に覆われていた…)

その事を思うと、ここから見渡せる素晴らしい景色が何やら複雑なものに思われてくる。

ちなみに道子は…。

西南戦争の史跡などは興味なく、その全神経は、道々にあるミカン畑に注がれた。

「あー、凄いよ、福ちゃんー、ミカンだらけだよー!」

「まだ青いけど、これがミカン色になったらたまらないねー、その時期に来ようよー」

「これだけあれば、取ってもばれないよねー!」

感動している俺からすれば、完全に雑音の源となっているのであった。

さて…。

そういう事で、色々な検証を行い、

(やはり、家に籠もっていてばかりでは能率が上がらない…)

その事が分かったと仮定する事にしよう。

無論、執筆日と銘打たれた日にパチンコへ行くのは、今日が最初で最後である。

だが、取材はいい。

気分転換になる上、家族にも優しく、見たものが文章に臨場感となって表れてくる。

今日の取材も、書いてしまった後なので、悔しいといえば悔しいのであるが、

(これを見て書いていれば、もっと違う風に書けたかもしれない…)

その思いは尽きない。

しかしながら、熊本に帰ってからの二週間…。

多分、人生最長となる「家に籠もっていた期間」であろう。

後2週間続けていたら、きっと俺は半狂乱となったはずである。

引き篭もっている時の俺は、

(飲み友達にメールば打とう…)

とか、

(春と遊ぼう…)

などと、なんだか人寂しくなり、籠もった時間の割には筆の進みが遅い。

当然、

(社会現象ともなっているヒキコモリの人達は、一体、どうやって退屈な時間を潰しているのだろう?)

その疑問が否応なしに流れたし、

(俺に合う執筆法を模索せねば…)

その事も思った。

今日の外出は、その点、有益であった。

そういう事で…。

明日は、俺より先に会社を辞め、大分の佐伯で働いている由井野という先輩のところへ伺い、美味い寿司をご馳走になってくる。(家族で)

その翌日は、宮崎・延岡から南阿蘇を抜けるコースで史跡探索である。

心は躍る。

踊ったついでに、送別の時に頂いた図書券で、2300円もする万能九州地図を購入してしまった。

これにて今後、九州をバンバン回れる運びとなった。

ふと、偉い哲学者の言葉(名は知らん)を思い出した。

「人生とは、己を知ってゆく事である」

哲学者の考えというものは深すぎてよく分からんが、よく言ったものだとは思う。

(今日、俺は少しだけ己を知ったと思うから…)

その事なのであった。

 

 

埼玉を離れて・・ (03/07/15:道子執筆)

 

山鹿へ来てから、今日で2週間ちょっとたった。

来るまでは、やっぱり埼玉を離れることがとにかく嫌で、社宅を出ること(奥さん達と遠くなること)も嫌で、お母さんとお姉ちゃんとも遠くなるし、あとは、山鹿へ行ってお友達が出来るかな〜とか、春と同じくらいの子はいるかな〜とかいろいろ不安な事もあって、熊本行きを決めた事を結構後悔したりもしてた。。。 

普段、あんまり物事を深く考えない私だけど、さすがに最後1〜2週間は、一人でウルウルしたりもして・・・短いかな??

ちょっとだけブルーになったりもしてしまった。。。

ふくちゃんが盛大に企画してくれた誕生日会でも、奥さま達にもらった手紙を見て泣いちゃったし、空港までお母さんが見送りに来てくれた時も必至で堪えたけど、やっぱり涙ぐんでしまった。。

とにかく、行くまでは寂しくて寂しくて、仕方がなかった。。

けど・・・さすが私?!と思うのが、今はとても楽しく山鹿ライフを過ごしているのである!!

『とことこ』という親子の集いでお友達もたくさん出来そうだし、赤ちゃんも思ったよりたくさんいたし、社宅の奥さまとはメールでだけど、いつでも近況報告が出来るし、蚊がちょっと多いけど・・・大自然の中生活するのも結構いいもんである!

渋滞なんてほとんどなくてお出掛けが楽ー!!

最近早朝ウォーキングを初めたけど、起きる時だけ我慢すれば、まだ涼しい田舎道を歩くのはかなり気持ちがいい!!

がんばって続ければ締まった体もGET出来そうかな・・?!

それから!周りの人が一番気になっているみたいなので触れると、ドロドロ嫁姑問題もなく、 お義母さんとも仲良くやっていますよ!(と私は思っているが。。。。)

もともと、春日部の田舎育ちなので、山鹿という場所は合っていたのかもしれません。

埼玉にいても、都内へ出ることもほとんどなかったし、逆に、山鹿にいる方が都会(熊本市・・)へ出たりもするので、いい環境なのかな〜

とにかく、今はまだ2週間ちょっとしか山鹿での生活をしてないので、これからもっと楽しんでいこうと思います!! そして・・・これから先、またふくちゃんがどこへ行くのかも分からないけど、新しい土地で新しい出会いを求めて、楽しく過ごしていきたいと思います。 

まずは、みなさん、山鹿へ遊びに来てくださいね!

その際には一緒に山鹿を楽しみましょう!!

 

 

読書をせよ (03/07/14)

 

多分、俺は小学校6年間の間に、3冊くらいしか本を読んでいないと思う。

読んだものの題目を覚えているのは、読書感想文を書くため強引に読まされた「走れメロス」くらいのもので、他の2冊は内容を覚えているのみである。

中学に入ると「ぼくらの七日間戦争」に七転八倒の笑撃を受け、宗田理の「ぼくらシリーズ」を制覇すべく読み始めたが、他のものはパッとせず、これも3冊くらいで止めたように記憶している。

高校になると、地元の友人に「パラサイトイブ」やシドニーシェルダンの本を数冊借り、

「おもしろかねー」

家族でハマった時期があったが、それもただの吹きぬけてゆく風に過ぎない。

その熱はすぐに冷め、ここで俺の極めて薄い読書歴は休止期を迎えたわけである。

あれから、6年弱の年月が経った。

気が付くと、俺は入社4年目を迎えており、どう血迷ったのか文章学校などにも通い始め、沸々と、

(ものを書く仕事がしたい…)

そう思い始めた。

が…、文章学校の連中と話し、先生と語り合うにつけ、俺に足りない決定的なものを感じ取る事になる。

それは、教養である。

先生に言わせれば、俺の文体は個性と熱があり、力で読者をねじ伏せる新手の文体という話だが、いかんせん、

「教養がまるで感じられない」

との事(致命的…)で、猛烈な溜息を遠慮なく吐き、そして、

「もったいない…」

そう言われたのだ。

教養を支えるものとはなんぞや…、それは知識であろう。

知識がないくせに、それを着眼点とエネルギーだけで乗り切ろうとしている俺の小説には、無論、実が見出せない。

先生は、酔いながら言う。

「本を読むことよ、それが知識をつける最も近道だから」

それから、俺の眠っていた読書歴が動き出した。

読み慣れていないゆえ、読書速度は極めて遅いのであるが、売れ筋の推理小説を読んだり、歴史小説を読んだりした。

無論、小遣い制ゆえ買う事はできず、知人から借りたり貰ったりの連続ではあるが、着実にその数を重ね、その速度も少しづつではあるが上がってきた。

が…、やはり遅い。

毛も生えぬうちから読書小僧だった長さんなどは、300ページ近くある小説を漫画でも読むかのようにペロンと読んでゆく。

(ああいう風になりたい…)

そう思いながら読んでいると、仕事的だった読書が、次第に、

(楽しい…)

そういう風になってきた。

そうなると、寝ても覚めても本を手放さぬ事になる。

特に、時代小説は俺のツボにはまったらしく、池波正太郎、司馬遼太郎、海王寺潮五郎など、適当に古本屋で買い漁って読む毎日が始まった。

(よし、一度、時代小説を書いてやろう…)

そう思い、西郷隆盛の影武者の話や忍城下の人情話なども書いてみた。

何事も、

(勉強、勉強…)

その事である。

さて…。

あれから既に、1年強が経とうか。

(読んだ数は何冊になったか…?)

そんな事、几帳面に数えているわけもないが、俺にしては相当な数を読んだと思う。

熊本でも、その風向きは変わっていない。

(空っぽの脳味噌に中身を入れねば!)

その熱を帯びた思いは今も変わらないし、お奨めの本があれば紹介して欲しいと痛烈に願う。

ちなみに…。

今の俺は、

「すくねぇーなぁー」

と、小馬鹿にされた、その小遣い銭すら貰っていない。(無職ゆえ)

無論、新書は買えないので、古本屋に置いてある『手頃な本』を紹介してもらえるとありがたい。

さて…。

今、俺は書斎でこれを書いているのであるが、春は寝ており、道子は隣でネーミングの公募に夢中である。

こやつも最近は「九州温泉大図鑑」「じゃらん」「タウン情報誌・熊本」などなど、読書に夢中のようである。

一見…。

福山家は熊本において、文化的な一家に変貌を遂げているかのように見える。

が…、道子の声に耳を傾けてみると、

「絵とか写真が付いていないと本を開く気にもならないよぉー」

その、たわけた叫びがハッキリと聞こえてくる。

そう…。

福山家の本質は何も変らないのであった。

 

 

道子の生活 (03/07/12)

 

埼玉でも言われた事であるが、こちらへ来てからも、

「お前の話はどうでもいい、道子が熊本へ行ってどうしてるか、そこが知りたい」

その声を受ける。

無論、この声の裏側には、

(嫁姑問題が気になるー!)

その思いが大なり小なりあろうし、

(都会の女が田舎へ行き、どのような拒絶反応を示すか?)

その事も興味の尽きないところであろう。

単に実家に帰る俺よりも、道子の動向に興味を持つ皆の気持ちが、俺にはよく分かるのである。

ゆえに、報告文を書く事を、道子に何度も薦めた。

が…、道子の反応は、

「馬鹿だから駄目だよー」

この一言に終始していたのだ。

しかし…。

どういう風の吹き回しであろうか、3日ほど前に、

「私、熊本日記を書こうかなー」

そのような事を道子が言い出したのである。

無論、俺が書いている日記のようにウダウダと書くわけでなく、

「写真と一文を載せるだけの簡単な日記でね、更新毎に消すの!」

そういう考えらしいが、書くと言っただけでも大いなる前進で、皆の望むところであろう。

ちなみに…。

あまり関係ないが、一つ二つ伯母の話をしたい。

この伯母、「福山家の広告塔」と呼ばれている女史だけあって、

(息をしてるのか?)

そう思ってしまうほどによく喋るのであるが、その無限に溢れ出てくるネタの源は、類稀に見ぬ好奇心と尋常ならぬ頭の回転である。

この伯母、俺達家族3人が山鹿に越して来るや、伯父と共に引越しの手伝いに駆けつけてくれた。

その際、まったりとした笑顔を道子と恵美子に向け、

「仲良くね…」

そのような事を、猛烈な会話の節々にちょろんと言った。

その後、会うたびに、

「嫁姑の関係はどうね?」

あの時と同じように、まったりとした笑顔で聞いてくる。

俺や恵美子が、

「いや、別に何てことはないんじゃないかね…」

そのような事を言うと、

「そぎゃんねぇー、それは良かったねぇー」

言いながらも、残念がる内面はその顔にハッキリと表れており、落胆を隠せないでいる。

確かに、義母にしても「嫁姑・恐怖の雑話」そのような本を買い漁っていたし、周りを見回してみると、嫁姑問題を背骨に描かれた「渡る世間は鬼ばかり」を、女のみが結構見ている。

この事は、嫁姑という言葉に、女を引き寄せずにはいられない何らかのドラマ性があるからであろう。

事実、道子は山鹿の奥様クラブに行き始めたのであるが、その際、旦那の実家にいる事を告げたら、

「えー、本当ー、大変ねー」

何も言っていないのに憐みの目を向けられ、その詳細を聞かれたらしい。

(まったく女っていう生きものは…)

その事を思わずにはいられないし、三世代が多かった昔日から、現在に至っては核家族主流になり、付き合い下手が目に見えて多くなった昨今の惨状を嘆かずにはいられない。

また、この事は、テレビ・雑誌の影響が非常に強く、徹底的に嫁姑の不和を取り上げてきたマスコミによる影響も大きいと思う。

無論、そのような展開にしないと、

「なにこれー、嫁姑の話じゃないじゃーん」

間違った認識をしている世間からは、そのようなブーイングが上がり、視聴率・発行部数に厳し過ぎる影響が出るのであろうが、嫁姑という言葉のイメージを腐ったものにした責任はキチンと果たして欲しいと思う。

そうしないと、日本に何百万人といる同居を望む男達が、

(つ…、辛い…)

草葉の陰で泣く事になろう。

嫁姑という言葉のネチョーンとしたイメージの裏に、実に楽しげな事もあるという真実を、道子と恵美子は実践により伝えてくれるものと期待する。(切望)

さて…。

話は、伯母の話から逸れたように見せかけて、実は逸れていない。

伯母に関して、

(いずれ特集を組んで書こう…)

そう思っていたが、最近は、

「髭が伸びてるから剃らせなさい」

とか、

「甚平はオヤジ臭いから着せるな」

など、無限の好奇心が、無類のおせっかいに変わってきたものだから、今日、この場を借り、微妙な反論をしようと思っているのである。

無論、おせっかいというものは暖かさの過剰形をいうもので、煙たくても感謝の意を失ってはならぬという事は重々承知している。

それに、現代の無関心・都会っ子に伯母の爪の垢を煎じて飲ませねば、日本という国が凍えた国になるという念もある。

ゆえに、伯母の「灼熱の感情」というものには、尊敬の念を抱いているところも少しだけだがある。

が…。

お茶でも、ブクブク沸騰中の熱過ぎるものより少し冷ましたものが美味いように、適温というものがある。

これは、人によりバラツキを見せるものの、間違いなく全ての物事に存在する。

俺にしろ伯母にしろ、熱さが信条の者は、そのウリの熱さと方向性を見失わぬよう気を使い、過ぎる方向においては適温を模索せねばならぬだろう。

と…。

その事を自らにも言い聞かせ、そして書く事で、反論に代えたいと思う。

ちなみに、表現がぼけているのは意図的である。

意味がよく分からなくても、それは狙ったものなので気にしないで頂きたい。

さて…。

前置きが長くなってしまった。

以後は皆、お待ちかねの「道子の日記」を載せたいと思う。

ガラリと文体が変わるが、そこも楽しんでいただければ幸いである。

 

〜 以後、道子執筆 〜

 

7日月曜日に、健康福祉センターで行われている『親子で遊ぼう・とことこ』という集まりに行って来ました。  

最初は「山鹿には同じくらいの赤ちゃんがいないんじゃないかなあ・・」とか思ってたけど、他に8人くらいのお母さんと赤ちゃんが来てて、みんなよくしゃべるいい人たちだし、春もすごく楽しそうで、行って良かったな〜って思った。 (熊本の女性はみんな『松野明美』って聞いてたけど、そんな事はない! 結構おっとりしてる人もいたよ〜  奥様達は「松野明美の印象最悪〜」と言ってました。)

それから、そのセンター内には温泉があって、とことこに行った人は無料で入れるらしく、かなりいい環境!!  。。もうちょっとダイエットしたら、入って帰ろう!! (他の奥様はみんな細い!!)

早く山鹿の奥様達と仲良くなって、社宅にいた時のように、「これからお茶しない?」って言えるような関係になりたいなー   

ではでは、本当にくだらない日記ですいませんでした。  私の文才はこんなものと分かっていただいたところで終わりにします。 さようなら。。。

 

 

職安へゆく (03/07/10)

 

日記といいながらも、既に日記の雰囲気は薄く、今日も2日前の話を書くのであるが、その日、俺は職安へ行った。

無論、初めての事である。

道子も手続きをせねばならぬ身ゆえ、家族3人で赴いた。

「職安」と書いてなく、可愛げに「ハローワーク」と書かれたそこは、小奇麗だが重々しい雰囲気を醸し出している建物であった。

自動ドアを潜ると、奥の部屋では老若男女を問わず、真剣な眼差しで薄いファイルを眺めている光景があった。

ファイルには、求人情報が多くもなく少なくもなく入っているのであろう。

(はぁ…、独特の雰囲気やねぇ…)

俺は、その何ともいえぬ雰囲気をまじまじと見回しながら知り合いを捜した。

が…、誰もいない。

その代わり、猛烈に鼻毛を抜き、それをしおり代わりにファイルへ投げ入れている捻り鉢巻のオヤジを発見した。

その事は、何も役に立たない。

道子は、春をベビーカーに乗せると、たっぷり持ってきた書類を整理し始め、

「福ちゃん、それ書いて…」

と、何やら小さな紙を書くように指示した。

さすがに道子は職安に慣れている。

なぜなら道子は、今までに2回も会社を辞めているし、出産による失業保険の受給をストップさせるやら何やらで、所沢の職安に通い詰めていた実績があるからだ。

俺は、一切を道子に任せた。

道子の言うがままに「書け」と言われた紙を書き、

「これと、今書いた紙を持って受付に行って」

そう言われれば、

「はいよ」

メカ的に受付へと向かった。

道子も、俺と同様の手続きをせねばならない。

が…、春の元を離れると大泣きするがゆえ、交代で処理を行う事になった。

俺は、受付で道子指定の一式を渡すと、

「はい、よろしくお願い致します」

これより後は職安職員に任せた。

職員は、若いといっても30代中盤くらいであろうか、黒々とした、実に愛想のよい男であった。

(若いと思う世代が上へ上へと上がっていっているなぁ…)

思うが、それは付き合う世代が上へ上へと上がっているから仕方のない事であろう。

「福山さん、幾つか質問ばしますけん、正直に答えてください」

職員は、隠し切れない熊本弁でそう言うと、

「会社を辞めてからアルバイトとかしとらんですか?」

とか、

「ぶっちゃけた話、山鹿周辺で出版関係の職はなかですけん、ここの希望の欄、山鹿か植木というのは書き直します」

などと、気軽な会話を交え、書類に手を加えてゆく。

希望月収のところなどは、俺が年収と間違えて350万と書いていたものだから、

「福山さん…、東京では相当稼ぎよらしたごたっばってんがですね、この辺で350万は市長さんでも貰いよらんですよ…」

と、恐縮し、忠告してくれた。

ちなみに、前に働いていたところを聞かれ、何度も「埼玉」と言ったものであるが、

「東京と比べるとですねぇ…」

「東京から来られた方は、給料の安かて愚痴らすですもんね」

などと、職員は埼玉に触れることもない。

俺も昔はそうだったが、あの関東のゴチャゴチャした辺りは、全てが東京なのだ。

無論、何度か、

「埼玉です」

そう突っ込んだ俺であったが、

「ああ、そうですか…、それで東京からはUターンば狙って帰られたんですか?」

と、そこに埼玉の入り込む余地が窺えなかったため、東京で通す事にした。

ちなみに道子は、希望年収を15万円と書いていたところ、

「そぎゃん払うところは山鹿になかです。せいぜい12万円がよかところです」

そう断言されたらしい。

が…、なぜか、

「じゃ、14万円って書いときまっしょ」

たった1万円減の修正にとどまり、次いで、子を預かる人の有無を詳細に聞かれたらしい。

二人の失業申請が終わるのは約1時間後となる。

結局、俺は、

「月収20万以上、通勤1時間以内の出版関係」

と、希望のところに書き込まれ、スキルの欄には、

「機械設計、電気設計ができる」

全く希望と関係のないものが堂々と書き込まれた。

(これじゃ、就職口はなかろう…)

その思いは、俺も職員も同じであったに違いない。

ちなみに…。

失業保険を貰うためには職安に定期的に通わねばならないようで、次は7月23日に「失業保険のいろいろ」という題目の講義を聞かねばならないようだ。

また、俺は自己都合退社ゆえ、4ヶ月後からしか保険を貰えないようで、その貰える期間も今年5月から3ヶ月間に縮められたという事である。

(ああー、通うのがめんどくせー…)

こういう事を言ってはいけないのであろうが、細々した雑務嫌いの俺は、その思いが何よりも強いのである。

ちなみに、市役所へ届ける書類、諸々の住所変更、それらは道子が精力的にこなしており、

「私の元職業は、総務と経理だからねー」

道子のそういった自慢の声が聞こえてきそうである。

さて…。

昨日は、庭に春のプール用テントを張り、実弟の雅士も加え、家族揃ってバーベキューを催した。

春は、蚊に刺されながらも大き目のプールで大いにはしゃぎ、

「ティキティキアーアートテトテブー…」

わけの分からぬ呪文を飽く事なく発している。

俺と道子は今日の朝5時に起き、10キロもの距離を2時間掛けてウォーキングしている。

段々と、空には雲の隙間というものが見え始めてきたようだ。

福山家も、ようやく落ち着いてきたようである。

 

 

運動方針 (03/07/08)

 

こちら熊本の主・富夫がマラソンに狂っているという事は前の日記で書いた。

5時を過ぎるとムクリと起き出し、まだ日も昇らぬ内から走り出す。

それは、俺らが実家へ越して来てからも続けられている。

富夫は言う。

「裕教、道子さん、お前達も走れ! 気持ちよかぞぉー、朝飯のうまかぞぉー!」

これを、道子は、

「無理です」

キッパリと刎ねつけた。

後援として、執拗な富夫の誘いを、

「寝たいけん!」

この一言で刎ねつけた恵美子がいるゆえ、そこは強い。

が…、俺は、悲喜爛々27「退職」でも述べたように、少々太ってきた事もあり、また、執筆計画表の中で5時起き(読書時間)としていたゆえ、

「ええばい」

富夫の誘いを軽く受けた。

最初のお付き合いは、7月2日であった。

富夫は50を越えた身とはいえ、走り出して4年近くなるベテランである。

「よし、毎日10キロ走るぞ」

そのような事を気負う事なく言っているし、俺が見る限り、多少小降りの日でも毎日走っているように見える。

さすがに、これに付き合っていては、

「一ヶ月で体重30キロ減なんていう不自然な現象も、あり得ない事ではない…」

と、健康的な運動量とは思えなかったため、俺は、得意の自転車で富夫のコースを付き合う事にした。

初日は、コースを覚えるために富夫の後をフラリフラリと付き従い、翌日からは自分のペースで走った。

自転車とはいえ、運動不足の体に全速力での10キロ強は辛い。

特に、丘陵地帯ゆえにアップダウンが多く、坂道などは、

「ぶべぇー、死ぬー、死ぬー…」

顔面蒼白で、ランニング富夫に抜かれるザマなのである。

俺は、富夫に言った。

「父ちゃんが10キロコースを走り終わる間に、俺は自転車で2周走るけん」

が…、坂道と疲労の現実に、翌日には、

「10キロコースば1周と、5キロコースば1周回る事にする」

そのように変え、更に、その翌日には、

「やっぱ、ウォーキングにするわ…」

と、素早く方向を転換した。

チャリンコを捨てた要因として、執筆中に強烈な睡魔が襲ってくるほど体力を要すくせに、大して痩せない事が挙げられる。

15キロの丘陵地チャリンコは、非常に疲れるくせに、50分弱の時間で終わる。

ウォーキングでこの距離を歩こうと思うなら3時間を要す。

インターネットは、こう言っている。

「痩せるためには緩やかでも長い時間の運動をしなければならない」

そういう事で、俺は運動方針を、

「疲れなくて、長い時間のものに!」

という、老人じみたものに変え、初日、10キロ近くを2時間弱の時間をかけて歩き切った。

また、富夫は「多少、小雨でも行く」という方針であるが、俺は、

「ちょっとでも降れば中止!」

そういう方針にした。

(無理は禁物、無理は禁物…)

ダイエットに関する、俺の気持ちに熱さはない。

(健康的に、飲んで食べて痩せれたらラッキー)

そういう事にした。

ちなみに、もう一人、

「痩せなきゃ駄目だよー、痩せなきゃー」

そのような事を暇さえあれば言っている女がいる。

熊本県名産のスイカを、恵美子と春と三人で、毎日モリモリ食っている道子である。

「私もウォーキングならやるよぉー!」

道子は、最近変な具合に別れてきた腹を掴みながら、

「これじゃ…、みっともないよ…、ねぇ…」

真剣な表情で呟くと、早い時間に床へついた。

翌早朝のウォーキングに備えての事であろう。

が…。

その早朝に、この俺が…、この意志の弱さに定評のある俺様が起こしているにも関わらず、

「もぉー、今日は駄目、諦めるよぉー」

道子は、初日から布団を離れずに言う。

「おいおいー、今日が初日ぞ、行くぞー」

「もう行かないったら行かないったら、行かないよぉー」

「そぎゃんこっ言うなよぉー」

俺は、道子を起こすべく、脇腹を軽くこそぐった。

と…、その瞬間であった。

道子は立ち上がり、俺の目をキッと見据えると、

「もぉー、行かんっていっとるでしょー! 触らんでー!」

微妙な熊本弁で怒鳴り、そして布団を頭からかぶって寝てしまったのである。

俺は、歩きながら思った。

(俺も意志が惰弱な方だと思っていたが、道子には到底かなわん…)

日は、昇ったばかりである。

さて…。

実家周辺の散歩道は、一面を深緑に覆われた山道あり、菊池川沿いの堤防道あり、上から集落を見渡せる絶景ポイントありで、車の気配など無論ない。

出会うものといえば、畑で作業に従事している農民か、突然に現れて心臓に悪い獣か、道に転がる一本グソのみである。

そこをゆるりゆるりと歩きながら、富夫の兄、つまりは伯父が言った言葉を思い出した。

「小説家は必ず散歩道を持っている。お前も持たにゃーいかんなぁー」

車には見えなかったものが自転車には見え、自転車には見えなかったものが走る人に見え、走る人に見えなかったものが歩く人には見えるという。

(歩きこそ…、俺にピッタリの早朝運動だ…)

強引だが、その確信をもった。

家の周りは丘陵地ゆえ、アップダウンこそ厳しいが、豊かな自然の中を縫うようにして道が通っている。

その全てを歩き尽くし、

(俺にピッタリの散歩道を見つけてやろうではないか…)

今は、その想いに燃え、早朝5時に起きている福山裕教なのである。

ちなみに富夫は、

「朝からチンタラ歩いてられるかぁー!」

そう言わんがばかりに、いつもの道を、ただひたすら走り続けている。

徒歩の素晴らしさを教えてあげたいものである。

 

 

引継ぎ (03/06/16)

 

はっきりいって、俺は気が早い。

気だけでなく、色々な面で早いと有名な俺であるが、今回の引き際に関しては、フライング気味に早いと思う。

既に、俺のデスクは完璧に片付けられているし、大量に抱え込んでいた電用品も、ある程度は整理、処分した。

そして、この処分の際、つくづく、

(俺…、サラリーマン生活をエンジョイしてたんだなぁ…)

その事を思わずにはいられなかった。

机の奥深くや、電用品入れの深くから出てくるものは、5年間の思い出をたっぷり含んでいる『仕事に全く関係のないもの』ばかりだったのである。

例えば以前、俺、和哉、大津という九州三馬鹿を見事に叩きのめしてくれた薩摩おごじょの中山真紀嬢から貰ったバレンタインチョコの箱や、納会の時に用いた女装セット、設備お清め用の日本酒などがそれに該当する。

名刺などは、仕事に関係あるものはほんの20枚程度で、文章学校関係者や飲み屋関係のものになると、その10倍はストックされていた。

俺は、それらを一つ一つゴミ箱に投げやりながら、

「これはあの時の、あぁ、これはあの時の…」

などと、もの思いに耽るのである。

さて…。

これだけを書いてしまうと、まったく仕事をせず、単に『遊び納め』に狂っているように思われてしまうが、意外に仕事らしきものもこなしている。

最後の月に突入してからの8日間、猛烈な勢いで100枚以上の機械図面を書いているし、合わせて仕事の引継ぎも行っている。

また、

「福ちゃん、最後にビラを作ってよ、ジュース奢るから」

などと、自称ブラインドタッチ達人の元へ、プライベートな作業が割り込みで入ってきたりもしている。

ゆえに、意外に定時内は多忙なのである。

特に、引継ぎには力を入れざるを得ない。

二ヶ月前より宛がわれた引継ぎの青年に、

「電気関係のノウハウを叩き込んでくれ」

そう指示された俺は、例の計画好きが昂じて、

「この青年を、こういう風なレベルまで育て上げます!」

そういう計画書を作成するや、座学、実地を繰り返し、青年に技術の伝承を図っている。

俺の教え方は、自分で言うのも何だが、スパルタなくせに的を得ていると思う。

事前準備をたっぷり施し、座学で基礎知識を与え、必要なマニュアルを渡すと、後は聞かれた事だけに答える。

取り様によっては手抜きの放任主義だが、俺に言わせると、

「自主性を重んじた前向きな教育法」

となる。

これは、学生時代、これでもかと言わんばかりに家庭教師をやって培った教育法である。

一番多かった時は、同時に10人以上もっていた時もある。

「とりあえず、前向きに攻めろ」

俺は、彼ら全員にその事を言い聞かせ、高校受験を控えた4人ほどの生徒が、

「俺のレベルだと、この学校が精一杯ですよ…」

なぞ言いやがった時には、

「ふざけんな、そんなにネガティブで社会の荒波を渡っていけるか! この受験という一節目で守っていたら、これからの人生、ずっと守る事になるぞ! 攻めろ、攻め続けるんだ! 志望校は一ランク上を目指せ、俺と一緒に夢を勝ち取ろうじゃないか!」

俺も学生のくせに、親御さんを交えてそのような事を熱く語り、結果、一ランク上を受けさせ、見事(?)4人中1人が受かった。

この時に思った。

(結局、駄目な奴は駄目で、いい奴はいい)

これは、能力の話ではない。

やる気、もしくは熱の話である。

現に、俺が教えはじめた時、一番馬鹿だった生徒が約半年でグングン成績を上げ、攻めろと言った俺が、

「それは攻め過ぎだろー」

つい忠告してしまうほどの学校に、そやつは受かった。

俺の口車にのせられ、

(俺は無限の可能性を秘めている!)

そういう気持ちで燃えてくれたのである。

が…、他三人は俺にのせられたにも関わらず、いまいち行動が燃えなかった。

ゆえに落ちた。

俺から見れば、どの生徒も頭のキレはどっこいどっこいだったのだ。

後は、単純さと集中力、そして熱さの勝負だったのである。

無論、落ちたところの家からは、

「あんたのせいで…」

直接は言わないが、間接的にそのような事を言われた。

そういった時、俺は必ずこう返した。

「受験だけが人生じゃない。この経験が彼を大きく羽ばたかせる事でしょう」

うわー、今思えば何とも責任のない発言ではあるが、

「息子さんのやる気がなかったらから駄目だった」

とは言えないため、しょうがなかろうかと思う。

さて…。

そういう事で、引継ぎも多分順調に進んだし、身辺整理も完了した。

図面は以後受け付けられないよう、マニュアル、カタログ全て捨てるなりあげるなりした。

後は、卒業論文を書くだけである。

つい最近見つかった入社論文(98年)の一文から抜粋するに、入社当時、俺は次のような目標を立てていたようである。

「釣り馬鹿日誌の浜ちゃんのような、生き生きとしたサラリーマンになりたい」

何とも新入社員らしい熱のある目標ではないか。

それが、5年間を経て、どのような採点になっているか…。

ゆっくりゆっくり噛み砕き、ゆっくりゆっくり文字にしたためてゆこうと思う。

退職日まで、後3.5日。

それは、短いようで長いようで短い。

 

 

手帳より (03/06/15)

 

現在、午前2時を少しだけ過ぎた時刻である。

この前日…。

午後2時半より『関東親族会』と銘打たれて始まった池袋での飲み会を6時前に終えるや、

「ラーメン屋に寄ってから帰ろう」

と、福山家は美味いと評判のラーメン屋に立ち寄っている。

春がいる事ゆえ、

「交替で食べんといかんけん、この、でっかいどうラーメンというやつを一杯だけ頼むぞ」

などと言いながら、なんとも頼もしいネーミングのものを頼んだ。

凄まじいボリュームであった。

店を出る時には、二人ともはちきれんばかりの腹をさすりつつ、

「お前は妊婦か?」

「福ちゃんこそ、何だよ、そのポッコリ!」

そのような会話を交わし、重い足取りで社宅へ向かっている。

こういった状態ゆえ、帰ると、

「もー動けん…」

家族三人、転がるように横になり、すぐさま深い眠りについた。

そして、現在に至っている。

(ホームページでも更新しよう…)

俺は、おもむろにパソコンを立ち上げると、春の写真を載せ、この日記に着手した。

(さて、何を書こう…)

深夜ゆえ、春も道子もぐっすりと眠っており、時間はたっぷりある。

ゆるりと手帳を開いた。

前回は10日火曜日、野球観戦のところまでを書いている。

それから先の手帳に目を通そう。

11日は『下4会』といって、ボーナスの下四桁を出し合って飲む会で、俺は9965円という最後に相応しい金額を叩き出し、これに参加している。

12日は、道子が元会社の飲み会でいなかったため、留守番がてら飲み同僚の柴山氏らを家に招待し、貰い物の高い酒をゆるりと飲んでいる。

13日は、黒部という東京在住の女が、

「福ちゃんが関東を離れる前にどうしても飲みたいの!」

などと瞳を潤ませながら言ってきたため、和哉を交えて所沢で飲み、その後、後輩の今本と社宅で合流し、3時前まで飲んでいる。

14日は、文章学校の友人と新宿で飲み、昨日は関東親族会というわけだ。

(はぁ…、書く事はあり過ぎるほどにあるな…)

手帳をまじまじと眺め、その事をしみじみ思いつつ、

(が…、いちいち書いていたらキリがない…)

とも思う。

20日の退社日まで、『送別』の名の元に飲む(飲んだ)回数は25回に及ぶのだ。

目線を過去でなく、先へ移してみる。

すると、

(あ…)

俺の出勤日が後4日しかない、その事に気付いた。

急に、卒業間近の時に感じたような、何とも切ない思いに満たされた。

5年前、高専を卒業する時に感じたものと全く同じである。

あの時、俺のマイブームは山口百恵であった。

「一期一会、幾つかの出逢いの中で、それぞれに心を知りました」

この台詞から始まる有名過ぎる歌・一恵が、あの時と同じように俺の中に流れ始める。

無論、この歌は百恵ちゃんが芸能生活から身を引く時に歌った歌である。

「私の胸によせる波は、あなたの、あなたの心にひいてゆく」

俺は、この歌のこのフレーズが最も好きなのであるが、今、じっくり聞けば、この『あなた』は三浦友和を指しており、なんだか腹がたつ。

が…、流れ始めたついでに最後まで耳を傾けてみると、何とも味がある歌詞という事に気付く。

サビを書き上げてみる。

現(うつつ)の心、届かぬままの、不知火のような不思議さを、

背負いきれずに呟いた、私は女

最後の「私は女」を置き、更に三浦友和を考えずにこの歌詞だけを読めば、人生の局面を見事に言い切った素晴らしい歌詞だと思う。(かなり強引)

不思議に感動した。

俺も「不知火のような不思議な思い」に駆られ、この局面を迎えているからであろうか…。

ちなみに、不知火(しらぬい)という言葉に対し、俺は「海に浮かぶ怪しげな光」という風に認識していたが、辞書で見るに、

「九州の八代海や有明海に夜半点々と見られる怪火」

とあり、九州の海限定という事らしい。

俺は、それに誘われるように九州へ身を移してゆくのであろう。

さて…。

とりとめのない話になってしまったが、残り4日、飲みに行っているのか仕事に行っているのか、だんだん俺も分からなくなってきたが、

(こういった局面を楽しんでいきたい…)

その事だけは強く思う。

退職日は6月20日。

その日は近い。