シンチグラム (03/10/03)

 

九月の末日にシンチグラムという大掛かりな心臓の検査を受けた。

その日…。

早朝より断水断食で病院へ赴いた俺は、

「はい、服を脱いでー」

年増の看護婦が言うがままナイロン製の検査服に着替えさせられた。

次いで原子力発電所などでよく見る放射線注意(?)シールが貼られたドアを開け、奥の部屋へ通された。

早朝という事もあり、俺が一番乗りのようで、この検査のためにスタッフが四名も付けられている。

ありとあらゆるところに放射線注意シールが貼られてあり、奥には大型で真っ白な検査装置がある。

CTの検査装置に似ているが、四角いテレビのようなカメラが二つ、丸い回転部に付いている。

(高そうな機械やねぇ…)

理系出身であるから大型の機械には当然ながら興味が湧く。

まじまじとそれを眺めつつ看護婦に導かれるままペダル付きの椅子に座らされた。

ジムにある自転車のようなものである。

「ちょっと運動してもらいますからねぇー」

看護婦は極めて明るくそう言うと、半ば肌蹴ている俺の検査服に手をかけ、思いっきり広げた。

そして、下っ端の若手技師に目で合図をすると、鼓動測定用の電極を俺の前面にペタペタ貼った。

左腕には血圧測定用のチューブが巻かれた。

さながら何かの人体実験を行うような光景がそこに出来上がった。

体中に電極を貼り付けた俺が自転車を漕ぐ。

それを白衣の四人が見守る。

俺の鼓動に合わせ、部屋には「ピッピッピ…」という音が木霊し、一定時間を置いて自動的に血圧計が作動する。

白衣の一人はモニターに表示される俺の情報を定期的にメモり、

「負荷を上げてー」

などの指示を出す。

自転車のペダルは五分毎に重くなり、

「もうちょっと速度を上げよう、頑張って」

「はひっ、頑張りますっ」

俺はどんどん辛くなった。

二十分弱、この状態が続いた。

終わる頃には汗だくで、息も相当に乱れていた。

白衣四人のリーダーらしき男は、俺の呼吸が落ち着くのも待たず、

「よしっ、注射!」

看護婦に指示を与えると、看護婦は脇に置いていた黒い箱を開けた。

箱には例の放射線注意マークが貼られており、何やら鍵のようなものまで付いている。

そこから取り出された注射器の色は黒で、看護婦は素早くそれを俺の体に注入した。

針は運動を開始する前から俺の右手首に刺してあり、注射器はその針から垂れ下がったチューブにドッキングするだけであった。

注入が終わると、今度は馬の股間のような注射器が現れ、

「もう一本いきます」

と、それも全て注入された。

こちらの注射器は普通のものと変わらない透明色で、厳重な箱に入っているわけでもなかった。

何の薬剤かは分からない。

が…、前の黒い注射器で注入した薬剤は、

(ガリウム入りの薬剤だ…)

あの黒い箱がその事を教えてくれた。

医者が事前に説明してくれていた話によると、

「その注射は大変に高価なもので、その日の何時に使用しなさいと時間を決められて大阪から空輸されてくる。だから時間の遅延が許されないし、早める事もできません」

という事で、この日だけは早めに病院に着いた。

また、その高価なものこそが、

「ガリウムを含んだ注射で、それを運動後に注入して特殊なカメラで見ると内側の炎症部や癌細胞などが光って見える」

それであった。

俺は、右手首に刺された小さな針から高価な液体が注がれる時、

(冷たい…)

その温度差を感じつつ、

「副作用はないんですよね…?」

リーダーらしき白衣に確認した。

以前、CT検査を行った際、造影剤という薬剤にアレルギー反応が出たからである。

また、ガリウム、もしくは放射性物質という響きに何ともいえぬ威圧感があり、文献で副作用はほとんどないという事を知りながらも問わずにはいられなかったのである。

「うーん…、全くないとは言えませんが、三日で体からは消えますからねぇ…」

白衣はそのように言うと、何食わぬ顔で、

「はい、あちらのベットに移って下さい」

と、大型の撮影機を指した。

少々怖かったが造影剤の時と違って注入した時の変な感じもなかったので、

(ま…、大丈夫だろう…)

そう思い、電線をゾロゾロ引きずりながら場所を移した。

CTの設備と同様に、大きな輪っかの中心から細長いベットが伸びており、俺はそこへ横になった。

「手を上にお願いします」

言われるがまま両手が耳に付くように上げると、その状態で手を縛られた。

「撮影開始しまーす。少々時間がかかりますが頑張ってくださーい」

非常に他人事な声が掛かるとベットが動き出し、次いで輪っかが俺を中心にゆっくりと回り、すぐに止まった。

そして、白衣の一人がタッチパネルで二台のカメラを俺の体スレスレまで動かし、

「よし、この辺かな…」

呟いて、スタートボタンらしきスイッチを押した。

二個のカメラは一定の間隔を空けてゆっくりと回り始めた。

多分、体の中を流れている高価な液体が発する放射線を、カメラが色々な角度で捕らえているのだろうと思われるが、とにかく遅い。

撮り終るのに40分もかかった。

撮影が終わると、

「はい、ご苦労さん、次は午後一時に来てください」

次の撮影予告をされ、俺は開放された。

これにて運動後の撮影が終わった事になる。

次は昼から平常時の撮影となるわけだが、午後一時という事で丸々三時間も空き時間があった。

「うわぁ、暇やねぇ…」

そう呟きつつ、やる事を探したが特になかったので、40分も固定されていた腕を、

「ああ痛い…」

ほぐしながら病院を徘徊した。

が…、それも30分を過ぎれば飽きてくる。

幸い、本を二冊持ってきていたので院内の広場で読書をする事もできた。

が、それもそう長続きするものではない。

悶えながら、色々な人に話し掛け、時間を強引に潰した。

そして午後一時を迎えた。

例の放射線注意マークが貼られたドアを開けると、既に白衣の一人がスタンバっており、

「撮影だけですので、すぐに始めまーす」

と、先ほどのベットに寝せられた。

撮影はすぐに始められ、前と同様に腕は固定された。

前よりも苦痛であった。

先ほどと同じ状態で、今度は一時間もジッとしているのである。

脇の辺りや二の腕がピキピキしてくるし、今度は白衣の連中もすぐに離れ、俺は完璧に一人ぼっちとなった。

あまりにも苦痛だったので、俺の中には「南こうせつ」や「さだまさし」が現れたほどである。

白衣の男が思いっきり「さだまさし」に似ていた事もあるかもしれない。

とにかく、フォーク世代の連中が次々に現れ(イルカ、ビリーバンバンなど)、

「がんばれぇ、がんばれぇ、がんばれぇ…」

俺に声援を送り、俺は、

「はい、頑張ります」

心の中で彼らの声援に応えているのだ。

馬鹿らしいが、今思えばそれほどに暇だったのであろう。

検査が終わる頃には、

「はい、立ってくださーい」

そう言われても、上半身が痛くて立てないし、腕などは服も着替えられないほどに動かなかった。

ちなみに…。

この検査で俺に充てられた白衣の人数は四人。

部屋を占有した時間は二時間半。

薬剤は早朝に大阪から空輸の超高級品。

扱いはVIP並といえるのではなかろうか。

無論、この検査は通常価格10万円を超えるものらしく、三割負担でも3万強。

普通なら余裕で断るところである。

が…、俺は特定疾患、つまりは難病患者ゆえ、これを1000円で受けた。

サルコイドーシスという病気がどういうものなのか…、その事を、国は身銭を切って調べに調べあげたいらしい。

これらの結果は来月23日に出る。

ところで…。

「難病申請もおりた事だし、これからは念入りに福山さんの体を調べるわよー」

担当女医のこの掛け声からこれらの検査は始まった。

サルコイドーシスで死ぬ患者、そのほとんどが心臓に肉腫ができるというデータから、まずは心臓を念入りに調べるとの事である。

これが終われば心臓以外にも検査の範囲を広げていくとの事であるが、これだけ大掛かりな検査だと絶えず副作用を心配するようでちょっと怖い。

(できれば症状が出てから検査という事にして欲しいよなぁ…)

正直そう思うが「症状が出てからだと危ない」という女医の言い分もよく分かる。

だが、今現在において極めて健康な俺は、

「めんどくせーし、病院は嫌だし、注射も副作用も怖いー!」

年頃も年頃ゆえ、叫びたくもなってくる。

それから三日後、今日に至っては眼科へゆき、

「炎症は治ったが目薬はこれからも点し続けるように」

そういった「ありがたい言葉」も頂いた。

サルコイドーシスは五年で自然治癒の確立が半分という事である。

治療法は今のところない。

ゆえに状態を見守るより他に方法はなく、今は医者の言う通りにしなければならないのだが、国の援助でこういった高級検査が続いていると、

(何だか俺…、モルモットみたい…)

そういう卑屈な思いも生まれてくるし、

「もーよかー!」

と、叫びたくもなる。

ちなみに今日、庭先で犬のウンコも踏んだ。

「わー、わー、わー!」

叫びに叫びつつ川原で平ったい石を投げてストレス発散を試みようと思っているが、靴に付いたウンコは取れないし検査が続く事も変わらない。

つまり、それは何の解決にもならないのであるが、何となくそれをやると全てが吹っ飛ぶような気がしてならない。(昔から)

ちなみに…。

今日は、前の会社における同期・中智英が熊本に転勤になったので山鹿まで飲みに来るそうな。

その事は今日という日における唯一の救いなのであるが、それがなければ「犬のウンコを踏んだ」その事が日記に刻まれる事となったであろう。

(よかった…)

涙ぐんで外を見ると、とてもとても夕日が綺麗。

そう…。

お日様が昇っちゃ沈むように、

(俺も他人も昇っちゃ沈む…)

その事なのであった。

 

 

歯痒い遠征 (03/09/29)

 

9月25日の夕方に、徳川という高専時代の友人から電話がかかってきた。

内容は、

「9月28日のダイエー対近鉄のチケットがあるけど一緒にいかんね?」

というものであった。

この時点でダイエーのマジックは2。

26日と27日のオリックス戦で優勝が決まる確立は高かったが、もし28日まで延びてくれれば地元で優勝が決まる貴重なゲームといえた。

ゆえ、

「行く! 絶対行く!」

二つ返事でこの誘いを受けた。

2位は西武である。

26日、西武が負けてダイエーが勝てばこの時点で優勝が決まる。

無論の事、28日のチケットを手に入れた俺は、優勝が決まってもらっては困るので、

「ダイエー負けろー!」

普段では考えられない声援を送るのであるが、それが通じたのか、西武は勝ち、ダイエーはヤワラちゃんの旦那・谷が延長サヨナラホームランを打ってくれ、見事に負けてくれた。

マジックは2のまま翌27日に入った。

この日…。

ダイエーの試合が決まる前に西武が負けた。

これによりマジックは風前の灯ともいえる1となり、ダイエーにしてみれば勝つか引き分ければ優勝という実にきわどいところになった。

有料チャンネル契約をしていない福山家の普通テレビはダイエー戦が写らない。

ゆえ、俺はラジオで速報を得ていたわけだが、8回裏の時点で9対11でオリックスのリード。

(よしっ! 28日が優勝決定戦だ!)

俺はその事を確信し、すぐさまチケット提供者の徳川へ電話をかけた。

「おいー、最高の展開になったじゃにゃー、明日は楽しむばい、キューキューキューサンキュー徳川ありがとー!」

最高のテンションで礼を言い、電話を切った。

が…、そこで事態は急変した。

9回の表、あろう事か絶好調の柴原がタイムリーを打ち、同点に追いついたのである。

多分、ほとんどのダイエーファンは歓喜絶叫したであろうが、28日のチケットを持っている連中は心の底から項垂れたであろう。

「打つなよー、プレミアチケットがぁー!」

その事である。

ダイエーはノリノリであった。

このまま延長戦に突入すれば、多分勝つであろう。

更に、10回の表は井口、松中、城島という最強のクリーンナップ登場である。

(駄目だー!)

思ったが、この最強三人衆、揃って綺麗に打ち取られた。

(あら、ラッキー!)

思っていると、10回裏、後藤という聞いた事もない9番バッターがサヨナラホームランを打った。

「やったー、やったー!」

その興奮を何といえばよいのだろう。

久しぶりに道子と手を取り合い、

「うれしー、うれしーじゃーん!」

東京弁で喜んだほどである。

ところで…。

この28日に優勝する可能性を25日夕刻に計算したところ「5/16」であった。

つまり、31.25%となるのであるが、前日二試合という山さえ越えれば、ほぼ28日に優勝が決まると言っても過言ではない。

西武が負けるか、ダイエーが勝つか引き分ければ優勝なのである。

ゆえ、

「今日は喉が枯れるまで応援歌を歌うばい。多分、帰ってくる時にはケイウンスクの声になっとるけんねー」

などと、上機嫌に熊本を出た。

チケットをくれた徳川という友人は佐賀県の基山というところに住んでおり、そこまでは高速を使えば1時間で着く。

午後2時くらいに徳川の家に着き、

「あら、何で一人で来たと? 家族は? 私達は福山君じゃなくて、家族を待ってたのにー」

学生の時からお世話になりっぱなしの徳川両親は遠慮なしにそう言い、

「まーいいや、茶でも飲みなさい」

と、ビールを出してくれた。

徳川家は午後3時に出た。

鹿児島本線で博多まで行き、そこからバスで福岡ドームまで行く。

野球観戦の準備としてマックに寄り、ハンバーガー(89円)を5個購入し、徳川のバックに詰めた。

福岡ドームには5時前に着いたと思う。

ちょうど近鉄のバッティング練習が終わった頃であった。

見渡すと客席に空きがあるようであるが、満員御礼との事なので、後1時間もすれば全てが埋め尽くされる事だろう。

また、テレビなどを見ていると、徹夜組も含め、開場前に800人以上の人が並んでいたらしく、外野席は完全に埋まっている。

俺は、それを一塁側内野席から眺め、

(いい席だー)

感激せずにはいられない。

この素晴らしいチケットを徳川は懸賞で取ったらしい。

二ヶ月前くらいにダイエーホークスの雑誌か何かに応募して当たったという話であるが、徳川にしてもこのチケットが優勝決定戦になろうとは思いもよらぬ事であったろう。

そもそも、この徳川という男、昔から懸賞運が凄まじい奴で、家電製品は当てまくるは、オーストラリア旅行は当てるは、

(それだけで運を使い果たしているのでは…?)

そう思うほどによく当てていた。

近いところで言うと、二年前のダイエー・巨人戦の日本シリーズチケットを第1戦第7戦と勝ち取っていたし、なんと最強の倍率を誇ったワールドカップのチケットも二度の抽選を潜り抜けて勝ち取ったのである。

ちなみにこの日のチケット、インターネットで相場を調べたのであるが、バックネット裏が75000円で売られており、買っている奴がいた。

また、ダフ屋の声に耳を傾けていると、外野席に20000円という凄まじい値が付けられていたように思う。

とにかく、そういう試合なのである。

5時半になると、スターティングメンバーの発表などが始まり、

(いよいよ始まるぞぉー…)

福岡ドームの中に、何ともいえぬ熱気が蠢き始めた。

「一番、ライト柴原」

透き通る声でそのアナウンスが流れると、いきなりライトスタンドから30本を越える旗がニョキッと飛び出した。

そして、今までにない猛烈な音量の声援が始まったではないか。

48000人が福岡ドームの定員で、多分47500人はダイエーファンであろう。

そのほとんどがメガホンを打ち付けるものだから、ドーム内には凄まじい音が響き渡る。

「すげー!」

俺は、その応援に度肝を抜かれた。

また、これに対する近鉄応援団、これも一見の価値があった。

四面楚歌、ダイエーファンに囲まれまくったレフトスタンドの片隅に牛が描かれた旗がちょこなんと立ち、ピーピープープー音楽隊が音を出している。

大規模な暴走族に囲まれたチンドン屋の態である。

試合開始の15分前になると月間MVPの表彰があったり、年増ダンサーズが登場してダイエー応援歌をバックに踊ったりと忙しくなってきた。

表彰は、西日本新聞の偉いさんがダイエーの井口に行ったのであるが、その中で、

「福岡県民を代表して言いたい、はよ決めてばーい、待ちきれんばーい」

ちょっとナヨナヨしながら言うと、ドームは、

「そうだー、今日は絶対に決めろー!」

その声で湧いた。

確かに、優勝の瞬間を追っかけている連中からすれば、前の二試合連続延長サヨナラ負けは、

(いい加減にしてくれ…)

そういう感じだったろう。

さて…。

6時キッカリ、優勝決定戦は始まった。

「あ・え・い・う・え・お・あ・お…」

応援歌を歌いまくる心積もりである俺は、発声練習を念入りに行い、マウンドに向かう先発の寺原を凝視した。

「コントロールさえ定まればいけると思うんばってんねぇ」

徳川に言うと、

「嫌な予感がする。寺原が何かをやってくれる予感がする」

喋る男ではないのだが、この事だけはハッキリとそう言った。

「そうはいっても五回くらいまでは持つだろう…」

徳川の妙な自信に冷や汗を垂らしながらも、俺は、

(寺原頑張れ…)

高校球児を応援する女学生のような健気な気持ち、そして潤んだ瞳で寺原を見つめた。

が…、徳川の言葉通り、寺原はやってくれた。

彼の球は浮き出すと止まらないのであるが、この日も見事に浮き出した。

二回…。

サラリと2アウトを取ったのであるが、それからヒットを打たれた後、ボールが先行し始め、フォアボール、ヒットで塁が埋まり、ついには押し出しのフォアボール。

「あー…」

大観衆が項垂れている中、あれよあれよという間に4点も取られた。

徳川は俺の方を向くと、

「ほら」

笑ったらいいのか怒ったらいいのか、複雑な表情を示した。

が…、まだいい。

その裏には柴原・井口のタイムリーヒットがあり3点を返したのだ。

「投手陣の崩壊はしょうがない、今のダイエーは打って返せる!」

俺と徳川がそう言い合ったように、応援団もそういう風に励まし合っているのであろう。

観衆のほとんどが発する熱波はとどまるところを知らず、時を追う毎に増していくようであった。

が…、ラッキーセブンの2点追加には、さすがの応援団もペースダウンせずにはいられなかった。

これにて4点差、7対3になったのであるが、

(まだまだ4点、今のダイエー打線だったら…)

思いつつもその落胆は大きく、あからさまに熱量が落ちた。

この裏、7回裏はダイエーのラッキーセブンである。

今までに見た事のない大量の風船がドーム内を乱舞し、皆で応援歌を歌った。

それは選手を応援するためではなく、熱が冷めてきた自分自身を励ますための儀式であるように思われた。

多分この時点で、徹夜した連中や馬鹿高いチケットを買った連中は魂が抜けかけていた事だろう。

が…、息の根を止められるのは8回表である。

(また打たれたねー)

唖然と思っている内に塁が埋まり、5番の吉岡にポコーンとホームランを打たれた。

これにて相手の得点は二桁得点となる10。

点差は7点となった。

(終わったな…)

俺だけでなく、皆がそう思った感じが球場の雰囲気でヒシヒシと伝わってきた。

「帰るか?」

徳川はそう言ったが、

「いや…、プレミアチケットだけん…」

と、無言の二人は内野S席から離れなかった。

が…、周りには帰る人が続出し始めた。

また、熱狂的なファンがガラスを蹴り破るなど、外の通路では大荒れとなり、優勝という二文字に向けられた熱波はそのまま乱闘という二文字に向けられそうな風向きになった。

それからダイエーは一点を返した。

しかし、7点というビハインドはどうしようもなく、そのまま優勝決定戦だと思われた試合は終息した。

「あは、あは…、あはははは…」

俺も徳川も笑うしかなかった。

ドームの外に出ると「V3グッズ販売」と書かれたテントが出ていたが、警備員と白いビニールに囲まれ悔しそうに沈黙していた。

また、ちょっと街へ出ると、あの店もこの店も「優勝した瞬間からVセール」と書いており、

(今日こそは…)

その思いであったのだろう。

肩を落とし、怨めしそうに看板などを片付けていた。

ああ…、ダイエーの残り試合数は4。

この全てをダイエーが負け、そして西部が全てを勝つとM1は消滅し、同時に優勝も西武に持っていかれる事となる。

「経済効果、経済効果!」と巷では叫ばれているが、もし逆転された時の経済効果(損害)は計り知れぬものとなろう。

ま…、それは有り得ぬ事と思うが、こんなブルーな日は、そういった心配までしてしまうのである。

「これは絶対プレミアチケットだけんが、一生とっとくばいー」

試合前にそう言っていたチケットの半券。

迷う事なくゴミ箱行きなのであった。

 

 

温泉にて (03/09/26)

 

(ふぅー…)

という感じである。

昨日の午前10時から24時間、俺の体には電極がまとわりついていたのである。

ホルター心電図という、24時間心臓の動きを見る検査だったのであるが、さすがに電極と測定器を体に付けて過ごすという事は苦痛以外の何ものでもなかった。

当然、風呂に入ることもならないし、汗をかく事もならない。

前屈みになると、再び丸みを帯びてきた腹が電極の下に食い込み、とても痛い。

何かと不自由であった。

が…、今となってみれば、

(短い間の苦痛でしかなかった…)

そう思う。

今日の午前中にはそれも外れ、

「よしよし…、自由だ、自由だ…」

俺は、不自由がなければ味わえなかった自由を体いっぱいに感じ、ご機嫌のまま温泉へ向かった。

正午ではあるが、昨晩入ってないので一刻も早く入りたかったのだ。

温泉は、福山家実家から車で10分の範囲に20くらいあろう。

ゆえ、

(今日はどこにしようかね?)

などと、毎度毎度、贅沢な悩みに耽るのであるが、今日は眺山亭という丘の上にある温泉(ホテル)を選んだ。

ここは以前、露天風呂で虫に食われ、体中に発疹ができたところであるが、泉質と眺めはとにかく良い。

ホテルだけあって室内も風呂も掃除がよく行届いており、受付の姉ちゃんも愛想がよくてなかなかのものだ。

ただ、値段は350円と山鹿の相場より50円高いし、生ビール等、風呂から上がった後にかかる値段もホテルだけあって、

(なかなかのものだ…)

そう思わずはいられない。

が…、今日の風呂は、検査上がりの一人身である事から車を運転して帰らねばならなかったので入浴後の金がかからない。

ゆえに、迷わずここを選んだ。

小奇麗な受付で350円を払い、男風呂の暖簾をくぐると脱衣所には誰もいなかった。

そういえば、いつもは人でごった返しているロビーが静まり返っていた。

(あ…、今という時は平日の昼間だ…)

その事で平日だと気付いた。

さすがに自由業という職業を三ヶ月もしていると時間の感覚がおかしくなってくる。

ちょっと前までは、こういう時に温泉になど入ろうものなら、

「はぁー、埼玉の小汚い工場で仕事をしている連中の事を思うと…、極楽、極楽…」

その優越感に浸ったものだが、今は全くない。

「ていうか、今はその自由業という肩書きのせいで…」

と、語りたい事が山ほどある。

が…、それは長くなりそうなので後の日記で書く事にする。

今日の題目は「温泉にて」なのだ。

脱衣所で脱ぎ、大浴場に入ると、そこにいたのは老人が三人であった。

平日の昼間、それも正午の事ゆえ、空いていて当然ではある。

あまりにも静かゆえ、普段であれば鼻歌などを歌いながら体を洗うところであるが、それも響き過ぎるので憚られる。

ゆえ、黙々と体を洗った。

湯に浸かり、

「よか天気ですね」

老人に話し掛けると、

「そぎゃん」

老人は怒ったようにそう言うや、以下、俺に二の句を継がせない雰囲気を醸し出した。

仕方がないので露天風呂へ身を移し、

「やっぱ、山鹿は泉質のよかですねぇ」

別の老人に言うと、

「あた、なんね?」

と、老人は訝しげな顔をするだけであった。

この老人に関しては、たぶん耳が遠いのであろう。

俺は、人と話す事を諦めた。

(この時間の老人達は孤独を愛す人が多いんでしょ…)

そのような事を思い、黙々と湯を楽しむ事にした。

三人いた老人は、一人、また一人といなくなり、ついには露天風呂にいる俺と、耳が遠い老人の二人だけとなった。

老人は、飽きる事なく意味の分からぬ独り言を発している。

老化というものは、目にきて、節々にきて、耳にきて、ついには考えている事が口に出てしまうようになるそうな。

これは、三年前に新婚旅行に出かけた際、青森の温泉で二人の老人が語った話だ。

(なるほど、この老人は思っている事を囁いているのかも…)

青森での事を思い出し、老人の方へ神経を集中した。

「☆×こ○△てー…」

小声で何か同じ事を繰り返しているようだ。

(なんだ?)

興味津々の俺は、一歩、老人に近寄った。

老人は、真っ青に晴れ渡った空をぼんやりと眺めながら、口をパクパクしている。

ちょっとボケもきているのであろう。

俺は、耳に全神経を集中した。

すると、確かに聞こえた。

老人は、こう繰り返していたのだ。

「あんこ食いてー…」

なんと、晴天の露天風呂の下、老人はあんこが食いたいと念じているのである。

あんこに俺の想像がつかない思い入れがあるのかもしれないが、何やら凄まじいものを感じずにはいられなかった。

つい、

「あんこぐらい俺が奢ってあげますよ」

言いたくなったのだが、俺の財布には、木枯らしではなくブリザードが吹き荒れている。

(くっそー!)

地団太を踏みながら、老人にもう一歩近付き、

「あんこが…、あんこがお好きなんですねぇ…」

大き目の声でそう言った。

俺の目は悔し涙で湿っているが、その顔は作り笑いで満たされている。

(何ゆえ話し掛けたのか?)

それは今でも分からぬが、無意識無想のうちに俺の体は動いていた。

すると、耳が遠いはずの老人が、俺の方を向いた。

(あ…、何かありがたい言葉が頂ける!)

なぜか、あんこの呟きを聞いた後から、俺の中で老人が神仏化され始めた。

拝むが如く、老人の言葉に耳を傾けた。

すると、

「しょんべん…、出たかも…」

老人は呟くが如くではあるがはっきりと、その思いを解き放ったのである。

老人は、ゆっくりゆっくり露天を出、ゆっくりゆっくり洗い場へ行き、ゆっくりゆっくり体を拭いて脱衣所へ行った。

俺は、その神の挙動を一言も発する事なく無心で眺め続けた。

老人が見えなくなると、

(今…、この風呂には聖水が流れている…)

俺の思考が動き出した。

が…、露天から出ようとはなぜだか思わなかった。

むしろ、あの時の俺は、この風呂を特別なものと感じていたきらいがある。

抜けるような青空の下、

「俺は金色(こんじき)の湯に浸かっている…」

あの時の俺は、そう呟いたのだ。

ああ…。

青森の老人が三年前に語ってくれた、

「年をとると思った事が口に出る」

その事は真実のようだ。

俺が思うに、聖水を放った生き神は、自分の胸中を俺に語ったなど夢にも思っていないだろう。

誰もが通る道とはいえ、見るに辛い光景であった。

 

 

かわいい春 (03/09/24:道子執筆)

 

かわいい小娘、春は今日で1歳6ヶ月と8日目になった。 3日前にあった健診では、

身長76,9cm 体重9,450g だった。

かなりの食欲で、「ガサッ」と音がしただけで、「まんま、まんま!!」と近寄ってきては、物欲しそうに引っ付いてきて、最近一日4食食べてるんじゃないか、って言うくらい食べまくってるから、絶対に10キロの大台にいってると思ったけど、意外にも1ヶ月前よりちょっと軽くなっていた。

身長は、一応2ミリ伸びた。 (こんなの赤ちゃんの測定にしては誤差だろうけど・・)

私に似ておっきくなったらどうしよ〜と思ってたけど、どうやらその心配はなさそうかな?

とにかく、今、かわいくてかわいくて仕方がないくらいに、かわいく成長している!

ふくちゃん仕込みの芸もいっぱいするし、歌や踊りもたくさん覚えてきたし、数字の5「ごー」と10「ぢゅー」が言えるようになった! 賢い!!

「春ちゃんチュー」って言ったら、口を尖がらせてチューしてくれる。 「ベロベロチュー」って言ったら、更に濃厚なベッタリチューをしてくれる。

じいちゃんは、照れやさんで春のチューを恥ずかしがってあんまりしないけど、春はじいちゃんが大好き。 仕事に行く時なんて、玄関まで見送りして「行かないでー」って泣いて悲しむ。

基本的に人は大好きで、特に、人に見られるのはもっと好き。 これは絶対ふくちゃん似!

なので! 春に会いに、みなさん遊びに来て下さいね!

きっと、大喜びでお出迎えしますよ!

ではでは、最近の春を親バカでお伝えしたところで、今日の日記はおしまい。。

 

 

昔の話 (03/09/22)

 

秋らしくなってきた。

昨晩などは、

(寒い…)

そう思って夜中に起きると、道子が布団を巻き取っており、掛け布団なしで寝ている状態だった。

夏であればその事も気にならぬのであろうが、これからはそうはいかない。

道子を転がすかたちで布団を取り返し、それから実に安らかな眠りについた。

ところで…。

昨晩、NHKから封書が届いた。

すぐさま開封しつつ、

(書類選考で落としたのは嘘だよーん)

そういう類の報告ではないかと期待したものだが、読んでみるとビックリ。

「あなたは確かに落ちました。でも、気を悪くしないでね」

そういった、確認とフォローの手紙であった。

多分、これにより受信料を払わなくなる事を恐れての手紙だろうと思うが、実に念の入った事ではある。

当然ではあるが、

「えーい、こういう手紙は腹立つだけだー!」

見た瞬間に破り捨てたのである。

さて…。

話は日記の自由さゆえ、コロリと変わる。

一昨日の晩、小学校からの友人と酒を飲んだ。

「えいちん」という友人で、小学校が同じだけでなく地区も同じという事で、付き合いの歴史は非常に古い。

「あそこで飲むばい」

と、申し合わせ、共通の友人が出している小さな喫茶店で飲む事にした。

店が閉まる頃を狙って乗り込み、シャッターを閉めて気兼ねなく飲んだ。

喫茶店なので、

「焼酎!」

重要なそれを頼んでもなかったため、ここの家の人が飲む分の焼酎(白岳しろ)を持って来てもらい、ずうずうしくはあるが飲み干した。

ここの店は、「すー君」と呼ばれる幼馴染と、その母親でやっている。

店を閉めた後という事もあり、この母親も飲みに参加し、昔話に花を咲かせた。

昔から、この「すー君」の家が溜まり場になっていたため、母親も俺達の事情を熟知しているのだ。

あの頃はこの辺も竹薮ばかりだったとか、俺がどうしようもない悪ガキだったとか…。

話は過去の紐を手繰り手繰って、その幅をグイグイ広げてゆく。

ところで…。

俺は小学校6年の10月、つまり卒業する5ヶ月前となるのであるが、親が一戸建てを建てたため、この地区を離れている。

それから住んでいるのが現在の実家となるわけだが、6キロほど移動したため、小学校も移る事になった。

ゆえに、もし小学校の同窓会などが開かれ、卒業アルバムを元に集められたとすれば、ほとんどをこの小学校で過ごしたのに俺は呼ばれない事になる。

遠足などの思い出の写真には載っていても肝心の顔写真・集合写真には載ってないのだ。

「それだけで五年八ヶ月もいたのに呼ばれんのは悲しゃーね…」

嘆いていると、焼酎を薄くして飲んでいる「えいちん」が、

「なら、忘れられんように色々な人と会っとくたい、会っとけば、そいつらが呼ぶけんが忘れられる事もなかろぉ」

サラリと言うではないか。

(えいちんが必ず俺の事を呼ぶと約束すればええたい…)

そうも思ったが、保険として色々な人と会っとく事は確かに得策である。

ゆえに、

「その口ぶりは、今もこの辺の連中と付き合いがあるという事やね…」

「うん、あるばい…」

「確かに色々会っとけば誘われる事は間違いなかろけんねぇ…」

「じゃあ、いつ会う?」

「今からにしよう」

そういう運びで、えいちんは俺が知っている友人に携帯で連絡をとるという次第になった。

今、時刻は午後9時前。

遅くはあるが、

「今から飲むばい」

えいちんは、手当たり次第にそういう出だしで電話をかけた。

が…、土曜という最も多忙な時である事と、今からというのが人々には受け入れ難いものらしく、どれもこれもが、

「悪ぃー、今からはちょっとねぇー」

断ってきた。

ちなみに誤解されぬよう言っておくが、俺の名を出したから断られたわけではない。

俺の名は断られた後に出し、

「うわー、福山という名そのものが懐かしゃー、近いうちに飲みちゃー」

そういった「ありがたい言葉」を皆に頂いている。

「そんなのは社交辞令じゃん」

関東界隈の人々からはそう言われるかもしれない。

「近いうちに」というその言葉が関東ではモロに社交辞令である事を、俺は五年三ヶ月の埼玉生活で過ぎるほどに知っているからだ。

が…、こちら熊本では違う。

「ちかい内に」の後には、

「じゃ、いつにしようか?」

これが続く。

この「いつ」が二ヶ月も三ヶ月も先になる事はない。

現に、俺達の問答も、

「じゃ、一月以内にプチ同窓会をやろう」

そういう事で決まり、日にちは「えいちん」が皆と相談して決めるという事になった。

実にスピーディーで、そこに社交辞令の入り込む余地はない。

ところで…。

関東と熊本との違いに関する余談だが、義母と義姉がこちらへ来て、

「文化が違うよー」

そう言った点がある。

それは、人様の家に訪問した際、

「お茶をどうぞ」

飲み物を出されるわけだが、熊本、それも田舎の方では、まず酒を出す事が多いようだ。

義母と義姉は、これを「文化が違う」と言った。

確かにそう言われると、俺が関東へ上ってから上司の家などに呼ばれた時、

「お茶を…」

と、本当に緑茶が出てきた時は、

(うそーん!)

ビックリしたものである。

熊本の田舎は夏にはビール、冬には熱燗、もしくは焼酎のお湯割と惜しげもなくアルコールを出すのだ。

ま…、今となっては、飲酒取締りが厳しくなった煽りを受け、そういう家も少なくなってきたという話であるが…。

話を戻そう。

「えいちん」の突然の誘いに応じた懐かしの友人は二人であった。

仏壇店の娘・仏壇屋(仮名)と、走りの速かったイメージが鮮明なブルマ(仮名)である。

両方とも女で、中学は同じだったのであるが、マンモス中(全校生徒1000人)だったので、目も合わせた事がなかった二人である。

ゆえに、俺からすれば小学校のイメージが全く抜けておらず、そのものは年頃のギャルへと変貌していたのに、

「おー、仏壇屋とブルマ、久しぶりねぇー!」

思わず、そう呼んでしまった。

これがいけなかった。

この事が、俺のイメージを二人の中に鮮明に呼び戻したらしい。

「仏壇屋て言わんでよー、福山君に言われたきり、誰にも言われとらんとよー」

「あ、悪い悪い、じゃあ、俺の事もプラモ屋と呼べ、それで相子だ」

「もぉーよかぁー」

仏壇屋は仏頂面になりながら、

「変わらんねー、昔っからイジメっ子だったもんー」

と、項垂れた。

もう一方、ブルマは、

「ブルマなんて言わんでよー、今時、小学生もはいてないんだから」

「いやいや、俺の目に焼きついた、あのブルマ姿は離れんよ。あんたがリレーで俺を追い抜いていく時、俺はあんたのブルマーを憎い奴と思って追っかけた、が、追いつかんかった。あの時の黒いブルマは今でも忘れられん」

「私のイメージはブルマのみねー?」

「うん」

「あーもぉー、相変わらず口が悪いもんー」

こやつも俺で浮かぶイメージはイジメっ子らしい。

とにかく…。

昔話のみで大いに盛り上がった。

話を聞き進めると、俺が小学校を転校していく時、一部は大いに泣き、一部は大いに喜んだという話である。

この理由は、

「ガキ大将でイジメっ子だったから」

二人に言わせると、そういう風に結論付けられるらしい。

が…、俺に言わせれば、イジメっ子という点では法明(のりあき)という最強のキャラが身近にいたため、

(俺がやった事はイジメていた内に入らん…)

そうなるのであるが、婦女子に言わせると、

「法明君は怖すぎて近寄り難かったイメージしかない」

との事で、俺は、

「明るいイジメっ子」

だったらしい。

どっちが良いかという点は疑問が残るところであるが、今話しているのは小学校の時の話で、法明は中学で登場するキャラなので、ここでは伏せておく事にする。

とりあえず、この場でも、

「やっぱ、皆を集めるのは大変だけん、プチ同窓会をしよう」

そういう事で話がまとまり、一ヶ月以内の開催を「えいちん」主導の元に実施しようと決まったわけであるが、ブルマも仏壇屋もこれに関し真顔で言う。

「そういえば、昔いじめられた腹いせに同窓会で毒を盛るという事件があったたい。ああいうの、福山君は気を付けた方がよかと思うよ」

「そんな事、あるわけにゃーじゃにゃー」

俺は、その事を笑い飛ばしたものであるが、内々では、

(あり得る事かも…)

そうも思われてならない。

ちなみに…。

現在、問題の法明が山鹿に戻って来ている。(普段は東京・池袋に在住)

飲むと約束していた晩、急に、

「悪いっ、人妻38歳4人とコンパが入った、コンパ優先は昔からゆえ、なっ」

という、実に歯切れよい断りの電話が入った。

俺にしてみれば腹が立つところではあるが、変わらない法明に、

「こういう奴ばかりだと困るばってん、ま…、一人くらいはいても…」

と、許すに至った。

電話を切った後、ふと、二年前の事を思い出した。

法明の事を悲喜爛々で書いていて、その掲示板に、

「それ以上書くと、あなたの身が案じらるし、法明さん自身の危険にも関わる」

匿名さんから、そういう書き込みがあったのである。

俺は法明と相談し、渋々書きものを下げたのであるが、未だに誰が書き込んだのか分からない。

とにかく、法明は強い味方も多いが、手強い敵も多いという事だろう。

彼自身この環境を、

「波乱万丈の人生を生き抜いてきた証よ…」

胸を張ってそう言っている。

確かに、ビクビクしている奴よりはその姿勢、カッコ良いと思う。

が…、死んでは元も子もあるまい。

(俺ではない…、殺されるのは、ああいうタイプだろ…)

彼という存在がある事に安心し、間違いなく同窓会に出席する事は言うまでもない。

ああ…。

風が、冷たくなってきた。

明日は秋分の日である。

 

 

ウォーキングの土産?! (03/09/19:道子執筆)

 

9月の13日〜15日まで、埼玉からお母さんとお姉ちゃんが遊びにきた。

その間、例の事故のあったダイアモンドシティへ行ったり、佐賀へ行ったりと、たくさん出かけたけど、その中でもかなり笑えた出来事があったので、書きたいと思う。

それは、私とふくちゃんで毎朝(の予定で)している早朝ウォーキングにお母さんを誘って一緒に行った時の事である。

前から、すいか畑や緑一色の田んぼ道を歩いていて、ほんとに自然は気持ちいいなあ〜と思ってたので、お母さん達が来たら絶対に一緒に行こう、この道を見て欲しいなあ〜と思っていた。

そして6時前、2人を起こしに行ったら、お母さんはすぐに起きたけど、お姉ちゃんは案の定、「ムニャムニャ。。。オネエチャンハマダネテル。。。」と言って、全くやる気を見せてくれなかった。

まあ、仕事を遅くまでしてて疲れてるんだろうけど、せっかく山鹿まで来たんだから、ちょっとはがんばって起きてもらいたかったな〜と思う。

けど、もう起こすだけ無駄そうな気がしたので、3人で出発することにした。

家を出てちょっと行ったら、早速山道に入る。

古墳があったり、わらぶき屋根の古い家があったりと、埼玉ではなかなか見られない光景に、「ほんと歩いてるとなんでもゆっくり見れていいわよねえ〜」とか言いながら歩いて行った。

実は、この母、埼玉でも毎朝ウォーキングをしているらしい。

ただ、いつもは住宅街を、アスファルトの片隅に咲いてる花を見てきれいだなあ〜とか思いながら歩いてるみたいだから、山鹿の自然は気に入ってくれたのかな?と思う。

多少、山道にバテ気味だったけど、その後は、ふくちゃんが腹痛を起こした田んぼ道を歩いたりして、50分くらい、のんびりのんびりウォーキングした。

帰り、家のすぐ側のオブサン古墳に寄って石棺を見たり、サイクリングセンター内の公園に寄ったりした。

その公園で!である。

そこには、ちょっと長めのすべり台があり、私も何度か滑った事がある。

それで、お母さんにも「これやってみなよー!」と進めてみた。

最初は、「やーよ、そんなのやんないだわよ」とか言ってたけど、いつの間にか気付いたら、階段を登って、てっぺんまで来ていた。 ちょっとやる気マンマンである。

「濡れてるしすっごい滑るから気を付けてよー!! タオルでもお尻に敷いたら〜?」

「そうだね、よいしょっと・・・・」

と、タオルを敷き準備が整った途端!! 

「ウギャアァアアアアアアアアアアアーー!!!」

という悲鳴と共に猛スピードで滑り落ちていった。

そして、ズドーン!っと地響きがしてきそうな勢いで、尻餅をついて仰向けに倒れていった。

「大丈夫ー?!」とか言いながらも、ハッキリ言ってトドが転がってるみたいなその姿に私もふくちゃんも大爆笑である。

さすがに、何秒たっても起き上がってこないから心配したけど、「お尻が・・お尻が・・・痛いよお〜・・・」とぶつけた所を擦っていたので、とりあえずは頭も打ってないみたいだし、一安心、一安心。。

でも、もうおかしくておかしくて、心配どころではない、といった感じである。

ちょうど、この時間にすれ違う、よく見かけるオバチャンも、「大丈夫ですか!?」と寄ってはきてくれたけど、顔は完全に笑っている。

タオルもしたのになんで・・と思ってみたら、最初に準備した場所に、まったく動いた気配もなく、残っていた。

そういえば、私も前に滑った時、かなりの勢いで落ちていって、両膝擦ってしまった。その時は春を抱っこしてたから、とにかく春だけは落とさないように!って気合を入れてたからまだよかったけど、何も考えず、オバチャンが滑るなら、かなり危険だったかも、と今更思ったりもした。

とにかく、大事には至らなかったけど、その後も中腰になるたびに尾てい骨が痛み、座る・立つの動作が辛いようであった。

3日目に、公園で草ソリーを楽しもうとした時も、「お母さん、こういうの好き!」と言ってやろうとしたけど、結局お尻が痛くて、ソリに座ることも出来なかった。

なんだかかわいそうな気もしたけど、かなり笑わせてもらったし、熊本のいいお土産が出来たと思って、治るまでがんばって耐えて欲しいと思う。

お母さん、山鹿の朝は楽しんでもらえた?

もうお尻の痛みはとれた??

またこっちへ来たら、すべり台チャレンジしてみてね!!

 

 

とことこ友達 (03/09/12:道子執筆)

 

週2回通っている「とことこ」で、だいぶ仲の良いお友達が出来てきた。

多いときでは20人くらいの母子が集まり、下は18歳から上は30代後半?くらいまで、個性ゆたかなお母さん達が集まってくる。

その中でも私は、毎回来てて春と同じくらいの月齢の子供がいるお母さん達と話をする事が多い。

今まではとことこでしか会わなかったけど、先週は福山家で、プールに入って遊び、きのうは「ゆうかちゃん宅」へお邪魔して、外でも会うようになってきた。

まあ、何をするのかというと、ただただ子供達を遊ばせて、それを見守り、おしゃべりをする、ということだけだけど。。 

でもそれが楽しい。

今は、まだ暑いから室内で遊んでるけど、もうちょっと涼しくなってきたら、お弁当を持って公園へ行ったりもしたい。

山鹿は、緑いっぱいの広々した公園が多くて、比較的きれいに整備されてるから、子供達を連れて行くにはちょうどいい。(お母さんにもかな?)

それから、もうちょっと子供達が大きくなってきたら、一緒に旅行とかにも行けたらいいなあ〜と思っている。

その前にお父さんたちの交流会かな?

 

 

変遷 (03/09/10)

 

先週末は前会社の本拠地である北九州へ行って来た。

台湾に川原さんという兄貴的同期がいるのだが、その家族がSARS騒動で帰国しており、翌週には台湾へ戻るという事で、

「会いにいかなきゃ!」

道子がそう言いだしたためである。

川原家は台湾へ移る前に埼玉県の和光にいた。

そのため福山家はちょくちょく川原家に遊びに行っていたし、何といっても、俺と道子が付き合い始める時、川原家からペアリングを貰ったという深い縁もある。

ゆえに道子と川原嫁も比較的に仲が良く、

「春ちゃんを見せなきゃいけないし、ひまりちゃん(川原家長女)にも会いたいよー」

川原家帰国期を狙い、道子がそう言い出す運びとなったのである。

さて…。

その川原家であるが、現在、福岡県行橋市にいる。

行橋は川原嫁の実家である。

ちなみに大黒柱の川原靖生氏は、この時、埼玉におり、二家の会合という名目ではあるが、彼だけが外れている。

朝10時過ぎに山鹿を出発し、高速を用いて小倉東まで一気に行く。

それから九州の右側を鹿児島まで下っている国道10号線を南へ下る。

目的地・行橋へは午後1時前に着いた。

家に上がるや妹さんの手作り料理を皆で頂き、それからは、ひたすら子供と遊ぶ事に専念した。

ちなみに、妹さんというのは川原嫁のそれであるが、彼女には川原家結婚式の時に痛烈な罵声を浴びせられている。

詳しくは出来事のどれかを見てもらえば分かってもらえるが、その時の俺は22歳であった。

その22歳に向かって妹は、

「35歳?」

そう聞いてきたのである。

結婚式事態は派手に酔えたし、川原嫁の友人を送る時に素晴らしい出来事(ホテル引き込み事件)もあったりしたので、

「良かったぁ」

心底そう言えるのだが、妹の一件だけが脳裏に焼き付き、どうも調子が悪い。

また、妹は現在も独身で家にいるらしく、俺達の事を、

「どういう人が来るん?」

川原嫁にそう聞いてきたらしい。

川原嫁はこう答えたそうな。

「式で暴れてた熊本出身の人」

実に聞こえが悪い説明だが、それを聞いた妹は、

「ああ、あの太っちょった人!」

俺という人物をそのような辛口で納得し、あろう事か、川原嫁に至っても、

「そう、それそれー」

笑って頷いたらしい。

まったくもって心外な話であるし、

(熊本に帰ったら痩せねばなるまい!)

それを決意するに至るのである。

さて…。

俺が奮闘している子供達との遊びであるが、はっきり言って猛烈につまらなくなってきた。

内容は、主に川原家長男・冬偉とサッカーなどして遊んだわけだが、無論、長続きするわけでもなく、1時間もすればクタクタに疲れ、

「早くー、次やろうよー!」

せがまれてからのアクションが段々と鈍くなってゆく。

女衆は茶など飲みながら、

「もぉー、本当にひまりちゃんは可愛いよぉー」

「春ちゃんこそー」

首根っ子が痒くなりそうな「のほほんとした時間」を過ごしている。

よくよく考えれば、道子の日中は茶会の嵐といえる。

毎日毎日をこのように「のほほん」と過ごせること事態が、

「奇跡だ…」

としか言いようがない。

「おっちゃん、遊んでよー」

口が達者になってきた冬偉は言う。

女衆は絶対にこういった体力を用いる遊びに付き合おうとしない。

極力、玩具系を用い、静かに時を消費しようとしている。

俺は、息を乱しまくりながら冬偉と戯れた。

ついにはガソリンが切れ、その身がどうしようもなくビールを欲し始めた。

ちょうど川原嫁の実家は酒屋である。

「道子、ビールを買うぞ、そして、どっか外に行くぞ」

ちょうど良い機会だと思い、俺は事態の打開を図った。

子供と遊ぶ事が苦痛なわけではないが、子供達と日中を過ごし尽くしてしまう事に違和感を感じたのである。

結局、俺を乗せた車は、夢タウンというショッピングモールへ向かった。

そして、着いた瞬間、俺だけはパチンコ屋へ逃げた。

道子は軍資金として1000円をくれた。

その1000円を握り締め、俺はファインプレーという平台を打ちながら、

(学生の時みたい…)

その事を思った。

学生時は1500円だけ握り締め、まずはスロットのモーニングを狙い、外れたら500円で平台を打ち、再起を図ったものだ。

結局、この日の結果としては、かかっちゃ打ち込み、かかっちゃ打ち込み、これを繰り返し、一時間後に1000円を使い切った。

「あー、もったいない…」

道子は当然の如く俺を罵ったが、一昔前までパチンコにはまっていた川原嫁は何も言わなかった。

多分、

(1000円で行く方も凄いけど、1000円しかあげない方も凄い…)

とでも思ってくれたのではなかろうか。

さて…。

その後であるが、夕刻より「唐仁さん」という同期と飲む約束をしていた俺は、道子達と夢タウンで別れ、行橋の市街地へ向かった。

行橋は新入社員研修の時に工場実習で来ていた事から、おぼろげながら飲み屋街の印象がある。

こじんまりとした居酒屋が何軒か並び、スナックビルが二つか三つ建っていたような。

それでいて、ラーメンが安くて美味かったような。

同期の唐仁さんにその話をすると、

「あー」

すぐにその場所を察してくれたらしく、

「飲みに行くのもその辺だよ」

ノロンノロンとそう言ってくれた。

唐仁さんは鹿児島出身の28歳で、体も小さければ声も小さい。

結婚は去年したばかりで、住居は行橋勤務なのに30キロ離れた小倉。

人は極めて善く、ギャグは凍るほどに寒い。

俺は、そんな唐仁さんと彼が薦める居酒屋のカウンターで飲んだ。

居酒屋の感じは非常に良い。

飲み屋街の雰囲気も、俺の好みで大変に良い。

それにカウンターで男飲みするのも久しぶりだったので、何だか雰囲気に流され、

(高くてもいい…、美味いものを食いたい…)

そういう気分になってきた。

「おすすめの魚」と銘打たれた看板には関アジがある。

値段はなんと4800円であった。

(これだ!)

思った俺は、唐仁さんに佐伯で食った関アジの素晴らしさを懇々と説明し、

「ものは試しで食ってみよう」

投げかけると、唐仁さんは、

「秋刀魚が10匹食えるね…」

隣に書いてあった秋刀魚480円を指差し、次いで、

「でも…、食った事ないから食おう…」

相変わらずノロンとした口調で決断してくれた。

その関アジであるが…。

まず、大きさがアジとは思えぬ巨大さで、それだけで腹いっぱいになる量であった。

また、生簀からピンピンに活きているものをまな板に乗せ、すぐ料ってくるだけに、カウンターの時点ではまだ魚が呼吸をしている。

乗せてある皿も粋だ。

小石原焼きであろうか、重圧でしぶい大皿の上に氷の皿が置かれ、その上に竹製のゴザみたいなものがひかれている。

アジはその上にシソやツマなどを従えて鎮座しているのである。

無論、味は言うまでもなく極上で、

「このコリコリ感はなんだー!」

二人で言い合ったものである。

これだけ美味いものが口に運ばれると、自然に会話も豊かになる。

唐仁さんの結婚一年目で見えてきたマンネリへの恐怖、それから日本史の話、また日本男児のあるべき姿。

若造が語るにしては重過ぎる題材も、酒と美味い魚があれば妙にはまり、二人を実に心地よい世界へと導いてくれる。

(こういうのもいい…)

唐仁さんの内面は知らぬが、俺は心底そう思った。

さて…。

道子と合流したのは、午後8時である。

俺と唐仁さんは居酒屋を出た後に思い出のラーメンを食い、それから待ち合わせ場所へ向かっている。

道子は二人の酔っ払いを拾うと北九州へ走り出す。

唐仁さんは初めて見る春の可愛さにウットリしたようだ。

前座席から何度も何度も春を見ては、

「可愛い…、俺も欲しい…」

その本音を漏らしていた。

途中、小林という同期を拾い、次いで唐仁さんの嫁も拾って今日の宿泊場所となっている唐仁宅に着いた。

ちなみに、唐仁さんと呼んでいるが、本名は唐仁原といい、実に長くてややこしい。

ゆえに、唐仁という略称を用いて呼んでいるし書いている。

さて…。

唐仁さんの家では軽く飲んだ。

唐仁嫁は結婚式以来であったが、実にざっくばらんに接してくれ、極めて印象が良かった。

同期三人は、誰が子を産んだ、誰が家を建てたなど、共通する友人の話に興じ、

「変わりゆくねぇ…」

その移りゆくものに、しみじみとした感慨を覚えた。

自分の変化というものは自分で分かり辛いものだ。

だが、人の変化は小さくても顕著に感じる事ができる。

一昔まで「夜の修羅」と恐れられていた小林は言う。

「結婚した連中が大人しくなってねぇ、それが嘆かわしい…」

だが、俺から言わせると、その小林こそ、明らかに後ろにあるものを恐れており、その動きに昔の精彩が見当たらない。

俺も含め、皆、時々刻々と変化しているのだ。

翌朝には小倉の社宅へ乗り込み、

「同期集合! 朝飯を一緒に食うぞー!」

その号令をかけ、有江夫妻、善ちゃん、小林父子とジョイフルに行った。

皆、容姿こそ変化はないものの、その環境も内側も緩やかな変化を見せつつある。

あの気忙しい有江氏が、

「今日は清らかな山水を酌みに大分の方へ行く」

そんな事を言っているし、来月に出産を迎えている善ちゃんは、

「俺は夜遊びをやめた」

小林を含め、同期衆にそう宣言したらしい。

夜の修羅と恐れられていた小林が子を抱く絵というのも笑えるものがある。

また、ここにはいないが、森本という俺と同じ年の同期が、なんと一戸建ての家を建てたという話もある。

俺は、歩くようになった春を、

「おいおい、そっちは行くな、車が来るぞ!」

と、捕まえ、

「高い高いー」

などと、人前であっても全力であやす。

(福山も変わったと思われているだろうな…)

人の変化を見ていると、分かり難い自分の変化まで見え始める。

それが良い事か悪い事かは分からぬが、多分、あんまり良い事ではあるまい。

さて…。

時の流れによる移り変わり、それを「変遷」(へんせん)という。

先週末の小旅行は、その変遷を自他共にひしひしと感じさせてくれた。

ちなみに…。

この小旅行で多少太った。

これは変遷でない。

多分、

「へんしーん」

変身であろう。

…。

…。

…。

唐仁さんのせいで、冷たいダジャレ感覚が身に付いてしまったようだ。

 

 

春とお出掛け (03/09/04:道子執筆)

 

今日は、春と2人、バスに乗って熊本市へ遊びに行って来ました。 

(ふくちゃんは2千円分のパチンコと家で執筆活動??)

市内には春のはとこ、ほのかちゃんとママ(スミヨさん)がいるので、おうちで一緒にお昼ご飯を食べて、その後、街をフラフラしてきました。

久しぶりに行く都会は(!?)、人がいっぱいで、おしゃれなお店もあり、デパートもいくつかあってとても楽しかったけど、子供と一緒に行くと、やっぱり何かと気を使うので、ちょっと大変でした。。

今までは、ベビーカーに乗っておとなしくしてた春も、最近歩くのを覚えたもんだから、自分で歩きたがって暴れるし、靴を履かせて歩かせたら、好き勝手に動きまわって商品の靴を片っ端から投げては履こうとするし、追いかけっこ状態でゆっくり洋服を見ることも出来ませんでした。。

前だったら「早く一人で歩いてくれないかな〜 そしたら楽だろうな〜」とか思ってたけど、これはこれで大変・・・というか、歩かない方が楽?とか思えるくらいでした。。

でも、自分の足で好きなところへ行ってる春を見たら、かなりいきいきしてて、あ〜すごく楽しそうだなあ〜と、成長ぶりを嬉しく思えました。

結局、3時間くらいウインドウショッピングを楽しんで、得た収穫は、安売りしてた秋物の服と美味しいパンのお土産と、好きな子供服ブランドがデパート(くまもと阪神)に入ってた!、という事だけ。。

ふくちゃんがいたら「無駄な時間。」とか言われそうだけど、私にとったらこのフラフラ〜もとっても有意義な時間で、いい運動にもなっただろうし、また1ヶ月くらいしたら行きたいな〜と思ったりしている。。。

今度は、のんびりと甘〜いケーキでも食べながらお茶する時間も作りたいなあ〜〜

帰りのバスでは、乗ってすぐに春が「プリプリプリ〜」と音を立てたもんだから、『まさか!降りたくないよー!!』って焦ったけど、実は出てないみたいだったからほんと安心して、これで出てたら、、、、とか思うとかなり恐ろしくなってしまった。。

やっぱりそんな時はバスを降りるべきなのかな・・・

で、1時間次来るのを待たないといけないのかな・・・

ま、そんなこともあったけどパンを食べながら帰る春はご機嫌で、特にグズル事もなく、

家を出てから9時間! 春とのお出掛けはもう暗〜くなった午後7時に、無事終了しました。  

春ちゃん、お疲れ様でした!

また今度、女だけでウインドウショッピングに出かけましょうね〜♪

 

 

悶絶 (03/09/04)

 

久しく日記を書いてない。

が…、この期間の全ては、悲喜爛々29「島原をゆく」、悲喜爛々30「突然」、悲喜爛々31「駄目人間」に書いた。

つまり、7月末の島原旅行を終えてから8月中旬まで、俺の生活は「闘病」と「安永さんの相手」のみで終わっているといってもよい。

それから、上記の悲喜爛々を書くために時間を潰した。

思い出は新鮮な内に書き留めておかないと風化してしまうからだ。

それから先週になると、NHKの願書を取りにゆき、その願書が意外にも結構な長さの論文を添えねばならなかったため、それを書く事に奮闘したり、また、水曜などは富夫と昼から飲み歩いたりして過ごした。

週末は関東より岡島氏という実に幅広い趣味を持つ中年男性を客として迎えたため、九州を駆けずり回っている。

この事は岡島氏が送ってくる写真が届き次第、書く。

とにかく…。

そんな風に、日々発生する何事かに対応していたらアッという間に九月となっていた。

今日の日記は、そんな中、

(病気も落ち着いてきたし、そろそろウォーキングを再開するか…)

そう思って家を出た、8月20日に触れる。

この日…。

道子は起こしても起きる気配さえ見せなかったため、一人で早朝の家を出た。

やっと明けてきた田舎道を、俺はゆるりゆるり病後の体調を確かめつつ、

(うん、健康、健康…)

思いつつ、ズンズン歩いた。

いつものようにサイクリングセンターを抜け、博物館より「古代の道」と呼ばれている暗い道に入り、田畑が広がる細道へと抜ける。

そこで、

(あれ…)

と、思った。

軽い腹痛が俺を襲ったのである。

(これはいかん…、引き返そう…)

病後で用心深くなっている俺は、すぐにそう決めたが、同じ道を歩くのは癪なので、ちょっとだけ遠回りの道を選んだ。

が…、すぐにその事を後悔する運びとなった。

ズンズンズンズンズン…。

歩く音と同じように響いている静かで単調な腹部のリズムが、ある瞬間、

ゴンッ!

何かが外れたかのような響きをもった。

同時に、猛烈な便意が俺を襲ってきた。

無論、大のそれである。

「む、むぅーん…」

俺は悶えつつ、ちょうど民家の石垣があったので、そこを全力で掴んだ。

何かを掴んでいないと実が「ピョロッ」と出てしまいそうなのだ。

全身は一瞬にして、どう見ても健康的でない油汗で覆われた。

ここまで歩いてきた距離は凡そ2キロ、公衆便所までは凡そ1.5キロある。

(無理だ…)

思った俺は、民家に駆け込む事を考えたが、現在午前6時、あまりにも突撃し辛い時間である。

また、田舎の特権として野に座り込む事も考えた。

が…、無職とはいえ多感な青年期の大人、また、周りに生えている雑草が尻を拭き難そうなものばかりであった事が俺を迷わせた。

雑草は「ポンポン草」という九州では最もメジャーなそれである。

葉は大きく、拭く広さとしては手頃なのであるが、小さな毛がたっぷりと付着しているため、うっかり拭くと三日は肛門が熱をもつ。

余談となるが、九州一周自転車旅行をした際、我慢できずにそれで拭いてしまい、サドルで擦れるわチクチクするわで最悪だった思い出がある。

これを、田舎人・富夫に言わせると、

「よぉく草を揉んでから拭かんけんそういう風になる」

との事で、あれにはあれで使用法があるようではあるが、痛い目にあっている俺に使う度胸はない。

ゆえに我慢し、歩く事にした。

こうなると、戻るルートで遠回りを選んでしまった事を後悔するより他はない。

「はぁー、はぁー」

息づかい荒く、歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返した。

途中、スイカ畑があり、そこで悶えていた時などは、

「あた、大丈夫かい?」

農家の方が声を掛けてくれたものであったが、もう声を発する気分でなかったため、

「んぱんっん…」

うっかり、サザエさんが喉に何かを詰まらせた時のような声を出してしまった。

とにかく辛かった。

1.5キロという最寄の公衆便所まで歩くのに、40分くらい要したのではあるまいか。

途中、何度も、

(駄目だ!)

そう思って腰を下ろそうとしたのであるが、白い軽トラックがブーンと通ってゆき、悶える俺を横目に見てゆく。

それが牽制となって、開放の一歩を踏み出す事ができず、結局は地道に歩く事となった。

その甲斐あって、なんとか公衆便所に辿り着きそうな地点まできた。

が…、そのドアを開けるまで、気を緩めるわけにはいかない。

人というのは不思議なもので、

「出せる!」

そう思うと、全身の筋力が緩むらしく、その苦痛は何倍にもなるようだ。

公衆便所は200メートル先くらいから見る事ができる。

その200メートルが辛い辛い。

「殺せー! もういっそ殺してくれー!」

何度そう叫んだ事であろうか。

俺は急ぎたいが急ぐ事もできず、一歩、また一歩とその距離を縮め、最後には痙攣しながら便所のドアを開ける事となった。

が…、

「ぎゃああああああああああああ!」

俺は、またしても身悶える事となる。

田舎の公衆便所にありがちな事ではあるが、本当に見事なかたちで、

「こんもり♪」

と、下が見えぬほど詰まっている上に、猛烈な数の蝿がたかって、その便器が何色か分からない惨状を呈しているのである。

「この際!」

という事で、俺は恥も外聞も捨て、女子便所も覗いた。

ところが、

「びゃああああああああああああ!」

またもや、悶絶する事態となった。

こちら、蝿はいない。

いないが、わけの分からぬ毛がたっぷりと便器の前に散乱しているのである。

それは黒ではなかったようなので、犬の毛かもしれないし、もしかすると毛じゃないのかもしれない。

俺は恐れおののき、すぐ、ドアを閉めた。

なぜか俺の中には小説で読んだ「リング」「螺旋」その類の映像が浮かんだ。

あの小説に出てくるオバケを貞子という。

(貞子…、あれは貞子の毛だ…)

元々、俺は無類の怖がりである。

それを思うと一時も早く便所を離れねばならず、尻を押さえながら、チンガチンガと家に向かって歩いた。

とにかく…。

そういう事で、俺が悪の根源を吐き出したのは午後7時。

歩き出して1時間半が経過した時であった。

25分で行き、戻りは1時間5分かかっている。

つまり、その道すがら、半分以上を悶えていた事になる。

「はぁー…」

俺は隠し様のない安堵の息を、綺麗に清掃された福山家のトイレで吐くや、

(内視鏡の時より辛かったかも…)

その事を思った。

この時、俺の顔色は限りなくホワイトに近いブルー。

まさに死相を呈していたといってもよかろうと思う。

ちなみに…。

これより先、俺はトイレに行ってから歩くというウォーキングの約束を設けた。

道子はそんな俺を、

「笑っちゃうよ」

などと、小馬鹿にしていたものだが、こやつも数日後には同様の惨事を味わう事となり、

「私もそうするよぉー」

泣きつくようにそう言い、結局、この保険的行動を二人共がやる運びとなった。

また、早朝ランニングのベテラン・富夫であるが、さすがにベテランの常で、それらの苦渋を何度も味わっているらしく、俺が言わずとも保険的行動をとっているようだ。

ところで保険といえば…。

俺は生命保険の類に入れない。

無論、サルコイドーシスと診断されたからである。

「経験が保険的行動を生む」

それは前述の事例からも分かるが、こればかりは経験した後ではどうしようもないのであった。