道子の引越し (04/11/11)

 

10月23日…。

引越しの日が訪れた。

この日の起床時間は6時。

前日の夜は1時過ぎまで片付けをしていたので、かなり眠い。

玄関にはダンボールが山ほど積まれており、その中身は分からぬが、道子が四日間で詰め込んだ「福山家の四年間」である。

8時には従兄弟がトラックで現れ、それから荷積み、11時までには阿蘇へ着く予定だ。

朝飯を食い終わるや、

「よし! やるぞ!」

気合を入れて荷積みを開始した。

荷積みは順調に進んだ。

たっぷり一時間半をかけ、福山家の四年間は三台の車に詰め込まれた。

何度もいうが、その中身はよく分からない。

道子に引越しの日を告げてから四日、俺はその二日をライダーハウスで過ごしている。

仕事が長引いて山鹿まで帰るのが億劫になったという事がその主な理由であるが、

(引っ越せばライダーハウスへ泊まる事もなくなる…)

それも理由の一つである。

ライダーハウス管理人に「当分は泊まる事もないだろう」その旨を伝えると、

「じゃ、引越しのお祝いに」

と、温泉チケットをくれた。

また、その日はライダーハウスで結成されたバンド「みかん」、その発表会の日でもあった。

「みかん」は長期連泊中の客が暇つぶしに結成したコピーバンドで、全く他人だった四人が適当に楽器を持ち寄ってつくられたものらしい。

ゆえ、楽器の構成は滅茶苦茶で、琉球三味線とアコースティックギター、それにカスタネットという具合である。

最初、暇つぶしでやっていた彼らも、やっている内に本気になり、

「演奏会の日取りを決め、その日に向かって猛練習だ!」

そういう風な流れで三曲だけマスターしたらしい。

演奏は見事なもので、ボーカルの声も良かった。

ちなみに、ボーカルの役は前日まで違う奴がやっていたらしい。

が…、その前日、客として現れた現ボーカルが、

「俺にも歌わせて」

そう言ってきたらしく、前ボーカルはその声を聞き、

「負けた…、お前にボーカルの座を譲る…」

そういう流れで現ボーカルは臨時ボーカルとして抜擢されたらしい。

その辺りも自由を愛する旅人のバンドって感じがする。

明日になれば、このバンドも旅人の宿命で散り散りになるらしく、一週間という膨大な練習時間がこの場にだけ向けられたものだと思うと、何やら散りゆくものの美しさを感じるし、その散る美しさ、はかなさ、熱さこそが、

(青春だー!)

という気にもなってくる。

たった三曲ではあったが、体の芯から温まる阿蘇にピッタリの演奏会だったように思う。

また…。

聞く側にも青春が溢れていたように思う。

一人の沖縄の奴が音に合わせて踊り出せば徳島の人間も阿波踊りを披露し、北海道の人間も、

「踊るしかないっしょ」

下手だったが、

「好きでーす、札幌♪ 好きです、あなたー♪」

北海道では有名なこの歌(題名を知らない)を大声で歌い、そして踊り出した。

(うーん、俺も何か地元のものを見せつけねば…)

そう思ったが山鹿灯篭踊りでは場をしらけさせるし、何より場に合わないであろう。

仕方がないので一升瓶を両手に持って、

「おてもやーん♪」

品のないオテモヤン躍りを披露してみた。

「おお! 熊本県らしい! 肥後もっこすって感じがする!」

よく分からないが客は納得してくれたようだ。

とにかく、素晴らしい夜であった。

青春が部屋全体に満ち溢れ、

「情熱を持って生きていこう!」

その事を誓い合った夜だったように思う。

ちなみに…。

この晩は興奮冷めやらず、外へ飲みに出かけている。

ここ内牧には午後11時から開く(閉店時間は決まっていない)居酒屋があり、名を紅竹という。

カウンターしかない小さな小さな居酒屋で、午前1時にオールナイトニッポンの音楽が流れ出すのであるが、それが店によく合う。

あの演奏会の二次会としては最高の場所で、豚足とスペアリブ、それにビールを飲んでも1000円しか取られないという安さも魅力である。

さて…。

話が逸れた。

荷物を満載した三台の車は車の少ない裏道をゆっくりゆっくり走り、たっぷり二時間弱をかけて新居へ到着した。

引越しの主力であった富夫が昼から仕事(店を開ける)なので、ちょっと急がねばならなかった。

ダーッと荷物を下ろした。

それからはひたすら片付けである。

道子が梱包した荷をほどき、道子が指定する場所へ収納していった。

荷をほどきながら、

(こんな物いるのか?)

そう思わざる得ないものが多数出てきた。

それでいて、

「あ! アレを忘れたよー!」

何か色々な物を忘れたらしく、道子はそれを連発していた。

阿蘇は日が暮れると急に寒くなる。

「ちょっと寒いけん、何か服を出してくれ。ジャンバーがいい」

何気なく道子に言った事であったが、道子は恐るべき回答をした。

「冬服は山鹿に置いてきたよ」

唖然としてしまった。

11月に入ろうとしている阿蘇へ引っ越すのに冬服を置いてきているのである。

それでいて、無駄な夏服はたっぷり持ってきているのだから意味が分からない。

他にも「カーテンは社宅に住んでいた時のものがある」と言っていたので、それを取り付けようと道子に求めたのであるが、

「カーテンも忘れたよー」

との事で、交差点に建つ家なのに丸見えという事態になってしまった。

日は暮れた。

電灯は台所にしかない。(まだ買ってなかったから)

が…、その電灯を点けてしまったら、ガラス張りのオープンハウスになってしまう。

真っ暗な中、ダンボールに腰をかけ、

「道子…、お前は何の準備をしよったんや?」

問うてみた。

「知らないよっ!」

「はぁ…」

疲労もあって、非常に険悪なムードになってきた。

春も八恵も疲れてグッスリ眠っている。

春などは、

「おっぱいビョーンばーちゃん(恵美子の事)とこ帰るのー! 暗いおうち、やだー!」

泣き叫び、埃だらけのフローリングで暴れたので、顔も手も服も真っ黒になってしまっている。

が…、今から娘二人を風呂へ入れる気はしなかったし、タオルなどがどこへあるのかも分からない状態であった。

寒くもあり、服もなかったので、早くはあるが寝る事にした。

今度は布団が足りなかった。

「どこにしまってるんや?」

「山鹿に置いてきた」

ウッカリも、ここまでいけば超ド級である。

ある意味、尊敬すらする。

道子は引越しの前日、奥様クラブ「とことこ」へ出かけたらしい。

その報告を聞いた晩、

「前日に奥様クラブに行くちゃ余裕があんね」

そう言うと、

「余裕はないけどね」

道子は明るくそう答えてくれた。

俺はそれを「余裕があるゆえの余裕」だと解釈した。

が…、甘かった。

道子は引越しの準備が全く終わらないものだから開き直っていたのだ。

「また忘れもんや?」

呆れる俺に、道子が言い放った言葉がある。

「私がたった四日で準備できるわけないじゃん! 私だよ、私!」

我嫁ながら、その開き直りっぷり、大物だと思った。(見た目にも大物だが)

結局、その翌日は俺と春のみが山鹿へ戻り、道子の忘れ物を取りにいった。

パソコン用の机を買い、居間の電灯、カーテン、必要なものを買い揃え、何とかその晩には早く寝ないですむようになった。

近くにあるエビスパーナという大型スーパーで買った300円の弁当を食いながら、

「道子、次は一ヶ月前から準備をせにゃならんね」

皮肉を込めて言うと、

「日頃から引越しの準備をしておくよ」

道子はそう答えてくれた。

さすが大物、名回答であろう。

さて…。

引越しから現在(11/11)まで、約三週間が経過している。

その間にも忘れ物が次々と発覚しているのであるが、それを取りに山鹿へゆくと、次の忘れ物をしてくるから困ったものだ。

この前は八恵の哺乳瓶を忘れ、その理由を問うと、

「だって、お義母さんがチョコパイをくれるって言ったんだもん」

つまり、哺乳瓶を持っていたのだが、恵美子がチョコパイをくれたものだから哺乳瓶をテーブルに置いた。

そして、忘れたらしい。

また、ウッカリの他に、道子にはオットリという特徴もある。

「いつも遅くなるから、今日はたっぷり余裕を見て準備してるんだ!」

そう言っていた道子が、11月3日、ミカン狩りをするべく阿蘇を出ようとしたその朝、見事に20分も遅刻した。

(なぜ、こうも遅くなるのか?)

道子を観察していると、

「間に合わないよー!」

口ではそう言いつつ壁をボーっと眺めていたり、首を傾げたまま10秒ほど静止したり、実に無駄な時間が多い事に気付いた。

「それが遅くなる原因ぞ」

道子に言うと「そんな覚えはない」という。

10月31日には一の宮町で合併50周年を記念する祭りがあり、そこに、阿蘇を活動の拠点としている「ビエント」というプロバンドが来た。

ビエントはライダーハウスの管理人が大ファンで、何度も何度も聞かされていたから、

「よし、行くぞ!」

家族総出で行ったのであるが、予想をはるかに越える素晴らしさで、涙が止まらなくなった。

その感動を語るべく、チラリ道子の方を向くと、

「な、なんと!」

熟睡しているではないか。

それも席はスピーカーの前、最前列である。

(凄い女だ…)

心底そう思ったし、後に道子が発した言葉、

「私ねぇ、あんまり感動しないんだよねぇ」

これもある意味凄いと思った。

ちなみに…。

俺はこの日記を出勤前に書いている。

現在、7時20分を回った時刻であるが、道子はまだ起きてこない。

多分、後数分もすれば、

「寝坊したよー」

そう言いながら起きてきて、いそいそと朝飯をつくり始めるはずだ。

(大物の嫁が、今日は何を見せてくれるのか…?)

恐ろしくもあり、ちょっと楽しみでもある阿蘇の冷たい朝であった。

 

 

新居まで (04/11/10)

 

ダラダラと時系列で追っており、読み苦しいだろうが許して欲しい。

これは日記。

あくまでも福山家の記録なので、こういう書き方をとっている。(まとめて一気に書いているのが悪いのだが)

さて…。

手帳をパラパラめくりつつ、記録は前日の日記で10月11日まで進んでいる。

11日が前述の義母を伴った阿蘇めぐりで、今日は12日以降を書きたい。

とは言っても、平日は何て事のない普通のサラリーマン生活で、特に書くべき事はない。

手帳にも残業をした事しか書いてなく、何も足跡が残っていない五日間を虚しく思うだけである。

ただ、パラパラと二ヶ月ほど昔に戻ると、その手帳には平日であってもギッシリ何かしらが書かれており、

(無職時代は良かったなぁ…)

当たり前であったその生活が、なんと豊かな生活だったのか、そう思えるという事はサラリーマン生活の恩恵ではなかろうか。

後、今まで「休日」という観念がなかったぶん、現在は週末のありがた味が違う。

その事もサラリーマン生活の恩恵といえるのではなかろうか。

事実、手帳には如実にそれが現れており、無職期間の土日は「平日より人が多い」という理由で大して出歩いていない。

が…、サラリーマンともなれば土日しか出歩けないものだから、混雑具合などは気にしてられない。

「気合を入れて遊ばねば!」

何やら、そのエネルギーに溢れている感じがする。

やはり、毎日やりたい事がやれるという自由な環境も魅力ではあるが、ある制限の中に身を置いてこそ人は燃えるのではなかろうか。

手帳をパラリとめくって得た感想である。

さて…。

10月16日(土)であるが、その日は丸一日をかけて家探しをしている。

平日のうちに不動産屋から物件情報を得、それを元に一件一件を丁寧に見て回った。

(風景が良くて、飲み屋に歩いていけるところがいい…)

それが俺の思いであったが、この事で道子との間に亀裂ができても嫌なので、

(ほどほどに押し、風景以外のところは妥協せねば…)

そう思いつつ車のハンドルを握った。

事前に得た不動産屋の情報によると、

・ 会社から徒歩7分、一戸建て、2DK50000円

・ 国道沿いの一戸建て、2DK45000円

・ 街中にある一戸建て、3DK45000円

・ かなり郊外にはあるが安くて広い一戸建て、6DK35000円

この四件が候補として有力で、ま、値段を見れば分かるように、前の3件が平成5年〜10年くらいに建っているもので、近代的、且つ綺麗な建物である。

その中にあって、最後の物件は昭和33年築(かなりリフォームしてあるが)と極めて古い。

が…、広くて安い。

そして掛軸を置けるような客間や書斎もあり、なんと書庫まである。

ただ、道子や義母、それに実弟・雅士に言わせると、

「便所がポットンなのは論外だよー」

らしく、即却下されたのであるが、

「ま、見てから判断するぞ」

と、俺が保留した一件である。

ちなみにアパートも幾つか紹介してもらったが、阿蘇らしくなくて嫌だったし、不動産屋の人も、

「阿蘇のアパートは基本的に独身や単身赴任の方をターゲットにしたつくりですからねぇ、それにアパートよりも一戸建ての貸し出しが多いんですよ、阿蘇は」

そう言っていたので候補から外した。

さて…。

朝飯を食うや山鹿を飛び出した福山家、まずは国道沿いの物件へ向かった。

値段は45000円。

本当に国道(57号線)沿いに位置し、パチンコ屋が隣にある。

国道に出、グルリ周りを見渡すと、良さそうな居酒屋もある。

「うむ、うむ…」

その点、合格ではあるが国道沿いゆえ騒音が凄い。

それに、これは致命的な欠点であるが、周りを建物に囲まれているため、肝心の山が見えない。

道子も、

「うーん、もうちょっとだね」

何が「もうちょっと」かは分からぬが、乗り気でなかったようだ。

次は一の宮町の中心街にある物件へ向かってみた。

そこは阿蘇の中心・阿蘇神社から徒歩10分ぐらいのところで、何となく鎌倉みたいな古い景色が広がっていた。

それもそのはず、この一の宮町は豪族・阿蘇氏の拠点であったから、鎌倉に負けず劣らずの歴史は持っているはずだ。

ゆえ、その町のつくりも何か昔的で、道は細く、袋小路が多い。

物件はそんな中の水路で囲まれた場所にあり、そこへゆくには車一台がやっと通れる道を通らねばならない。

「買い物に出るのも大変だねぇ」

道子の第一印象は悪かったようだが、家の中に入るや、

「いいよー」

そう言い出した。

何が良いって街中という環境がいいらしく、それでいて広く(3DK)綺麗なのもいいらしい。

目の前を流れる水路の水も異様に綺麗で、徒歩一分のところには水が湧いている。

細い道も見ようによっては味があり、交通量が少ないのもいい。(滞在20分で車が一台も通らなかった)

が…、肝心の山が見えなかった。

これは道子の欲する、

「人の気配」

「町でなく、街の雰囲気」

これと相反するところにあるらしく、上の条件には必ず山への障害物を伴う。

「いいよー、ここに決めちゃおうか?」

道子はそう言っていたが、

「とりあえず、候補を全て回ってから決めよう」

保留というかたちで次の物件へ向かった。

次は俺がお待ちかねの「6DK書庫付き物件」である。

こちらの所在地は一の宮町でなく阿蘇町になる。

コンビニやスーパーも近く、国道からもそう離れていない。

ただ、道が先ほどの街中を上回る狭さで、周辺の雰囲気も何となくドンヨリとしている。

裏手が背の高い杉林で、ちょっと暗いのだ。

「やだよー!」

車が物件に着いた瞬間、道子は叫び、春までもが、

「怖い」

そう言い出した。

「とりあえず中へ入ってみよう」

という事で、古い玄関を開けてみると、玄関は土間であった。

多分、農家の持ち家なのであろう。

「土間は便利だけん、うんうん、ポイント高し」

俺一人が頷きながら奥へ進むと、なんと縁側まである。

「こりゃ良かぞー!」

昭和33年築という話であったが何度も何度もリフォームされているらしく、中はしっかりしたものだ。

部屋は小ぶりではあるが確かに六つあり、掛軸の付いた客間まで用意されている。

二畳ほどの書庫もあり、書斎に適した三畳ほどの部屋もある。

景色はドーンとこそ見えないが、木々の隙間から外輪山が見渡せる。

ちょっと外に出れば、掴めそうな位置で中岳と高岳が見えるはずだ。

「こりゃー、よか物件ぞ!」

俺はかなり気に入った。

が…、道子は台所を見るや、

「古いよー、古過ぎるよー!」

それを連発し、春は、

「このおうち臭い! はむ、やだー!」

そう言って、家に入ろうともしない。

(む! むむむむむ!)

多数決で負ける確率は濃厚であった。

ちなみに、道子が心配していた便所は洋式にリフォームしてあり、仕組はポットンであるが水洗式になっている。

「どこで手を洗うんや?」

便所の近くを見回してみると、そこに木製の扉があり、押入れのようなところから真新しい洗面台が現れた。

「凄いー! ちょー笑えるー!」

初めて道子がご機嫌になったので、ここぞとばかりに、

「ほらー、秘密基地っぽくて最高じゃにゃー! ここに決めるぞー! 何よりも家賃が安いけん、お前が好きなお金も貯まるぞ!」

押したものであったが、

「絶対にやだ!」

道子の中では既に「却下物件」の烙印が押されていたようだ。

その後、飯を食った後、会社に最も近い物件へ足を運んだ。

ここは会社から徒歩7分、国道の抜け道沿いにあり、ちょうど信号付き交差点(二キロ四方ではここだけ)に位置する。

道子の求める綺麗という点でゆけば、ここが最高なのではなかろうか。

景色もいい。

根子岳が一望でき、台所からは外輪山が見渡せる。

それに倉庫と屋根付き車庫が付いていて、日当たりもいい。

ただ街中でなく別荘地で、家賃は他より高く、それでいて騒音(交差点に位置するから)がある。

「うーん、綺麗だけど車が多いのが気になるよー。それに、この玄関の位置は変だよー。これじゃ使えないよー」

確かに使えない玄関で、そこへゆくのに車庫を通り、家の裏手に回らなくてはならない。

「どうしたもんかね、福ちゃん?」

道子は困った顔で問うてくるが、俺が意見を言っても文句しか言われないので、

「知らん、お前が決めろ」

そう返した。

女っていうのは意見を求めていないくせに何で求めるフリをするのだろうか。

「福ちゃん、この赤いのと青いの、どっちの服が私に合うと思う?」

「青いの」

「でも、私は赤が好きなんだよねー」

(だったら聞くな…)

その事である。

が…、それが女という生きものなのであろう。

重々しい疲労を感じつつ、会社近くの物件を後にした。

それから阿蘇で最も栄えている内牧へ向かった。

不動産屋の紹介に内牧はなかったが、ライダーハウスに泊まっている関係上、最も馴染みの深い街で、

(この家に住めたらいいなぁ…)

飲み歩いている時、そう思った物件があったからだ。

その物件は外輪山の凹みに位置する。

周りには何も障害物もなく、外輪山がその家の囲いのように見える。

それでいて、内牧の中心街(飲み屋街)までは徒歩5分。

最高のロケーションである。

ただ、内牧に住むとなると会社まで10キロ以上あるので、車をもう一台購入しなければならない。

その点だけが難儀ではあった。

「最高のロケーションぞ!」

紹介する俺に、道子は、

「そうね…」

頷いた後、グルリ辺りを見回し、

「福ちゃんが好きそうなところ」

そう呟き、他には何も感想を漏らさなかった。

道子は冷めていた。

が…、その冷めた道子に対し、俺は体が火照るほど、ここに住みたくなっていた。

早速、空きがあるか様子を窺ってみた。

平屋五棟が集まっている住宅で、その一つからは人の気配がしていない。

念のため住民に確認してみると、

「そこは熊本市に住む人が別荘として住んどんなはるとですよ」

という話で埋まっているそうだが、別の棟が今月中に空くらしい。

管理している不動産屋も俺が世話になっている不動産屋で何かと都合がいい。

「道子! 帰ったらすぐに不動産屋へ電話して間取りと家賃の情報をもらうぞ! 三週間も待てば、ここに住めるぞ!」

「間取りを見てからの話だけどね…」

道子が乗り気なのか乗り気じゃないのか分からないが、昭和33年築物件のように即反対はされなかった。

が…。

その翌日、情報がファックスで寄せられてきて、

「やっぱ、やだよー!」

道子がそう言いだした。

家賃は50000円で会社近くと変わらないのであるが、家が微妙に狭かったのだ。

「狭くとも、広い庭と雄大な景色が目の前にある!」

「雄大な景色はいらないよー! 家の中が狭いもーん!」

「来てくれる客もあの景色には癒されるぞ! 飲み屋が近くて客も大喜びだ!」

「何で客の事を考えて家を選ぶ必要があるんだよー!」

「お客様が喜んでの福山家じゃにゃー!」

「意味が分かんない! ていうか、家に長い時間いるのは私と娘なんだからねー!」

「あそこに決めるぞー!」

「やだー!」

「もー! だったら、お前が決めろー! 決めてから不動産屋へ電話してしまえー!」

「分かった、そうするよ! ぷんっ!」

結局、決断権を道子に与えたかたちで話は収束してしまった。

が…、今思えば、これで良かったように思う。

俺が強引に決め、住んだ後に道子がウダウダ言い始めれば、また喧嘩が始まるだけである。

それに住む時間だけで考えれば、道子が言うように嫁や子供の方が長い。

ただ、この日記の冒頭でも書いているが、

(景色だけは捨てないでくれよ!)

それだけを祈った。

道子が決断を下したのは、その二日後、10月18日である。

仕事をしている俺に道子が電話をかけてき、

「会社近くに決めたからね! もう電話もしたからね!」

そう言ってきた。

どうやら、迷い迷った末、会社近くの物件(2DK50000円)に決まったようだ。

俺の第三希望で、ま、景色はいいから結果オーライというところであろうか。

「会社帰りに不動産屋へ寄ってくれって言われたよ」

との事だったので、早速、会社を定時で切り上げ、不動産屋へ向かった。

「やっと決められたみたいですね」

不動産屋はニヤニヤしながら、

「迷った人間ってのは最初に戻るものですよ」

そう言った。

確かに、この会社近くの物件ってのは俺が最初に目を付けた物件で、家探しはそこからスタートしている。

道子が迷いに迷い、ここを選んだのは確かに不動産屋の言うように「人間の仕組」なのかもしれない。

「いつから住まれますか?」

契約の説明の中で入居時期を問われた。

俺は60キロの通勤が非常に辛く、今日からでも住みたかったので、

「今週末、何とかなりませんか?」

そう言ったものだが「それは厳しい」という返答であった。

人が住むためには「色々な準備がある」という。

「そこを何とか」

「うーん、何とかなるなら何とかするのですが…」

「お願いしますよー、一刻も早く住みたいんですよー」

「うーん、とりあえず頑張ってみますよぉ」

「ありがとうございます!」

そういう流れで、その週の土曜日・10月23日に引越しという運びになった。

その日の晩、家(山鹿)に戻り、

「今週、引越しだけんね」

その事を伝えると、

「準備ができないよー!」

道子は慌て、恵美子は建設業をやっている伯母の家に連絡を入れ、トラックを借りる手続きをとった。

期間は四日もある。

(食器やら何やらを箱に詰めるくらい、二日もあればできるだろう…)

それが俺の思いで、そこに何の疑いも持ちはしなかった。

が…、引越し当日、蓋を開ければ驚くべき展開となる。

「道子ー、しっかりしてくれよー」

「だって時間がなかったじゃん!」

その話は次の日記へと続くのである。

 

 

福山家の秋 (04/11/08)

 

今年の秋は実に目まぐるしかった。

前回、日記を書いた9月28日からダイジェスト風に福山家の出来事を追ってみたい。

まず…。

この9月28日という日は、俺がサラリーマンになって約一ヶ月という時期である。

会社には実家である山鹿から通っており、その距離は裏道を用いて約60キロ。

一時間半という時間を要す。

道子と娘二人は里帰り出産の流れで遠い春日部にいる。

(山鹿から通う必要はにゃーばい)

当然、そういう結論に達し、平日は阿蘇内牧にあるライダーハウス、そこへ宿泊するようになった。

ライダーハウスの宿泊費は一泊900円、連泊すれば一泊700円まで下がる。

つまり、月曜900円、火曜800円、水曜700円、木曜700円、計3100円。

四泊で3100円は芯から安い。

ガソリン代の値上がりにより、阿蘇から山鹿までの四日分(480キロ)は約5000円かかる。

それを優に下回るお得っぷりである。

道子は「お得」という言葉に弱い。

最初、

「宿から通う」

その事を言った時、

「何だよ、それー!」

暴れていた道子であったが、このお得っぷりを説明すると、

「いいじゃーん! それ、いいじゃーん!」

素晴らしい変貌ぶりで納得してくれた。

が…、実際はそうはいかない。

いや、いかなかった。

3100円の宿泊費に含まれるものは、

「寝る部屋を与える」

それだけの事で、風呂や飯は自分で用意しなければならない。

まず、毎晩300円の温泉代がこれに加算された。

これにて3100円は4300円となる。

それに飯代が加算される。

ライダーハウスのハングリー野郎の中には袋ラーメンしか食わず、食費を月2000円に抑えている連中もいるにはいるが、サラリーマンをやっている身ともなれば、ちゃんとしたものを食いたい。

基本はホカ弁で、たまぁに居酒屋で食った。

酒代はなるべく抑えようという事で、ビールを箱買いし、焼酎も一升瓶で買ってライダーハウスにストックした。

当然の流れで、だんだんと談話室の顔になっていった。

日が経つにつれて、

「平日の福山さん」

その名がライダーハウスに定着してきたように思う。

なぜゆえ「福山さん」なのか…。

それは周りが若いから。

ライダーハウスは基本的に旅人ばかりで入れ代わりが激しい。

が…、定員30人の内10人程度は一ヶ月以上も住み込んでいる連中で、昼間はバイトをして過ごしている。

当然、そういう生活をする人間は若く、そして基本的に貧乏である。

朝から袋ラーメンを食ってるし、夜も袋ラーメンを食っている。

極めつけは商店街の人が残りものを持ってきてくれるのだが、それに群がる様。

「今日は肉があるよー!」

「うひょー!」

「たまらんー!」

周りの目も気にせず、豪快にむさぼる様が芯から逞しい。

さすが旅人、旅の恥はかき捨てというが、彼らは数ヶ月という時間を要して日本を渡り歩いている連中なので、基本的に羞恥心というものが薄い。

ハングリーさには自信のあった俺が唖然としてしまった。

そういえば、この旅人達と年がら年中接しているライダーハウス管理人・Y氏が見せる「鼻のほじくり方」も実に豪快で旅人らしい。

そこに女がいようといまいと第二関節まで人差し指を鼻の奥へ奥へと突っ込み、容赦なくこねくり回す。

そして、それで得たものを隠す事もせず、豪快に指で弾いてゴミ箱へ送り込む。

(うーん、男らしい!)

毎日が驚きの連続であった。

そういう環境であるから、ホカ弁を食っている俺は何となく社会人らしいゴージャス野郎という位置付けになり、それこそ何となく、

「ビール飲むか?」

そういう事を言わねばならない立場となってきた。

当初、道子とは、

「ライダーハウスに泊まり、そこで一部屋を宛がってもらって文章を書く。だけん、ノートパソコンば買って」

そういう話になっていたが、とても文章を書ける雰囲気ではない。

そもそも平日なのに人が多くて空いてる部屋がないのだ。

酒宴は毎晩行われた。

メンバーは固定メンバーの他に毎日変わる新メンバーが10人弱。

前述したように宿泊費と風呂代で週4300円なのであるが、それに加算される食費(宴会代)が意外にかかるのであった。

ちなみに…。

メンバーの中で熊本出身は俺一人。

「福山さん、熊本を案内して下さいよー」

当然、そういう風な流れとなり、東京出身の25歳を山鹿へ連れて行った事がある。

彼は東京出身ではあるが東京が最も嫌いらしく、

「安住の地を求めて彷徨っています」

という話で、北海道から東北、北陸、中部、関西、四国、そして阿蘇へ下ってきたらしい。

移動手段は原付。

「どこが良かった?」

という俺の問いに、

「熊本に決まってるじゃないすか、だから二ヶ月以上も居座ってるんすよ」

そう答えてくれた。(だから連れて行った)

彼の旅は既に七ヶ月目を迎えているらしい。

「バイトをしながら、のんびりと旅を楽しんでます」

彼は阿蘇を出たら、次は沖縄へゆくらしい。

それから鹿児島へ戻ってき、今度は南から日本を上ってゆくのだそうな。

「どれくらいの予定なん?」

その壮大な計画に、思わずその事を問うてしまったが、彼が言うに、

「予定なんかありません。それを決めてしまうと旅の面白味が半減しますよ」

らしい。

確かに、娑婆に出てしまえば時間的制約の中で動かねばならないから、旅の時くらいはゆるりゆるりと思うがままに動くべきかもしれない。

話はどんどん本筋から脱線してゆくが、彼はこの後、俺の見送りを受けて沖縄へゆく。

が…、行った瞬間、強烈な台風に見舞われたらしい。

唯一の手持ち財産であったテントが強烈な風で海の彼方へ運ばれたらしく、

「寝るところがなくて民家の納屋を借りて寝てますよー」

そういう報告をしてくれた。

(若い健康な内に、二度や三度こういう経験があっていいのかもしれない…)

旅慣れた俺も何か考えさせられる連中ではあった。

さて…。

そういうわけで、彼らに馬刺しを食わせたりする特別予算も計上せねばならず、当初の予定通りにはいかなかった。

日記が「道子への言い訳」みたいになって申し訳なく思うが、事実、そういう意味を多分に含んでいるので許して欲しい。

「もらったノートパソコン代を使い切った理由」

つまりは、それを言いたいわけである。

ま…、ノートパソコン代といっても、他には一銭も貰っていないわけだから、その金は俺の生活費という事になり、

「なぜゆえに、それだけの金がかかったのか?」

その理由、その報告という事にもなろうが…。

さ…、サッサと話を変えよう。

平日はそんな感じで日を過ごし、学生時代の寮生活を彷彿とさせるものがあったわけだが、土日も土日で忙しい。

まず、10月9日に同級生の結婚式を控えており、その出しもの作りをせねばならなかった。

俺はそんなに気合の入ったものを作るつもりはなかったのであるが、相方の浦部という男が気合入りまくりで、

「はまって作るぞ!」

そう言っては土曜に現れ、一日だけで終わるはずの準備が二日もかかってしまった。

ちなみに、春日部にいる家族がこの結婚式の日に戻ってくるという話が、その一週間ほど前に決まっている。

阿蘇で住む家も、急ぎ見付けなければならない。

慌しく不動産屋へゆき、慌しく出しものの準備をして10月の第一週が暮れた。

第二週の週末は三連休である。

その一発目が9日、結婚式と家族が帰ってくる日にあたる。

本来であれば、結婚式後の三次会、四次会も出る俺ではあるが、久々に会う家族が戻ってくるともなれば、そっちを優先せずにはいられない。

二次会で祝いを切り上げ、急ぎ山鹿へ帰った。

実に慌しい家族との再会ではあった。

春は久々に会う俺よりも、俺が手に持っている引き出物の方が気になるらしく。

「おっとー!」

呼んではくれたものの、

「なに、それ?」

すぐ、引き出物に食い付き、以後、俺を見向きもせず、中に入っていたチョコケーキに夢中となった。

それから続く残りの三連休も慌しい。

この期間、ダイエー対西武のプレーオフがあっており、この翌日はそれを見に、さっそく家族で福岡ドームへ出かけた。

さすがに生まれたばかりの八恵は連れて行けないので、義母と恵美子に預け、家族三人で久々のドームを楽しんだ。

ちなみに義母は春日部から付き添い、山鹿まで出てきてくれている。

ドームにも誘ったのであるが、どうも興味がないらしく、恵美子と留守番という運びになった。

恵美子と義母は前にも書いたが二人でラスベガスへ行った仲で、ぜんぜん性格が違うから相性は良いのではなかろうか。

よく分からぬが、俺の人間観察によると、一番合わないのは中途半端に似ている人間、一番合うのが前述の全く違うタイプとなっている。

ま、それはどうでもいいが、とりあえず久々(開幕戦以来)にダイエー戦を見に行った。

この翌日も慌しい。

「八恵の部屋」に写真を載せているが、八恵の宮参りと春の七五三をやろうという事で、富夫の知り合いの神社へ足を運んだ。

この先々週、恵美子の父、つまりは俺の祖父が亡くなっているので、

「子は四十九日まで神社へ入ったらいかん」

という田舎のしきたりで、恵美子こそ参加しなかったものの、他は全員参加した。

富夫の知り合いの神社は隣町の鹿央町にある。

県道沿いではあるものの、地元の人も存在を知らないようなマニアックな山城跡に赤い鳥居を構えている。

駐車場からは徒歩五分。

山城跡ゆえ、きつい上り坂を登らねばならない。

皆、黙々と登った。

ただ一人、騒いでいるのは義母のみ。

「この上り坂、きついだわー!」

確かにキツい。

だが、騒ぐほどではない。

義母はその後も落ち着きのない様子を見せ付けてくれた。

神主が富夫の知り合いという事もあり、念入りにやってくれたのだろうか、宮参りと七五三の儀式は長々と続いたのであるが、その間中、

「ふわっ! ぎゃっ!」

義母のみが奇声を発し続けていた。

何事かと思い、義母の方を見てみると蚊と格闘している。

確かに蚊は多かった。

が…、それは山ゆえしょうがない。

義母の格闘は、この山にいる間中続いた。

ありがたい儀式が執り行われているので、それに集中しようと神主の方へ意識を寄せるのだが、どうしても義母の発する奇声が耳に入ってき、集中できない。

儀式が終わった後、義母に、

「お義母さんの声が耳に入ってきて集中できんかったですよー」

苦情を言うと、横にいた富夫が、

「むほっ!」

思いっきり噴出していた。

多分、富夫も俺と同じように集中しようと努力したのであるが義母の奇声に勝てなかった口であろう。

しかしながら…。

春の宮参りの時は埼玉川越の有名な神社でやったのであるが、その時は五人ぐらいをまとめてやり、更に儀式も短かったのであるが、今回の念入りな事にはビックリした。

一人あたりに神主がかける時間は20倍くらい違うのではなかろうか。

更に手土産もたっぷりくれ、なんと酒までくれた。

「ありがたいですねぇ」

義母にそう言うと、

「あーもっ! 早く終わって欲しかっただわっ! 暑いし、蚊が多過ぎるだわっ!」

義母という人格の面白さは、この辺りの「ストレートなところ」にあるような気がする。

ちなみに、義母に関しては埼玉に2週間以上もいたものだから、かなり面白い場面に(頻繁に)出くわしている。

現在、長々と書いている悲喜爛々44で少しずつ触れてゆこうと思っているが、ある面、前述の旅人に勝る豪快さがあって面白い。

さて…、その後であるが…。

昼前には富夫と恵美子が仕事へ出たので、義母と福山家のみで阿蘇へ出かけた。

うちらがこれから住むところを義母に見せ、

「安心させておこう」

という企みで、ハンドルを握っている俺はなるべく都会なところを通るよう心掛けた。

まずは古い古い歴史を持つ阿蘇の中心部・一の宮町の市街地を見せ、次は栄えているではトップの内牧を見せた。

雄大な山々も一々説明を入れ、水が綺麗である事も実際に湧水を飲ませる事で体感してもらった。

が…、ゆけばゆくほど道子と義母の顔は沈んでゆき、

「山鹿の方がいいよー」

「凄い田舎だわぁ」

「買い物ってどこでやるんだよー?」

「デパートもないだわぁ」

後部座席からは、そのような会話が聞こえ始めた。

次第に俺の発する山や歴史の説明に対する反応がなくなり、あからさまに、

「そんな説明はいらん! 生活するのに必要な情報だけを言え!」

そんな雰囲気が漂い出した。

(しまった! 義母を阿蘇へ連れてきたのは失敗だった!)

そう思ったが、もう遅い。

義母の道子を見る目が、

「かわいそうに…、こんなところへ連れてゆかれるなんて…」

その目になってしまっている。

そして、俺を見る目が、

「孫と娘を、こんな田舎へ連れていくなんて!」

強く厳しく、その事を言い放っている。

とりあえず、その激しい風当たりの防波堤として、大型スーパーや格安ドラックストアがある事を説明したが、どんどん泥沼へはまってゆき、

「それだけ? それだけなの?」

「う…、それだけと言えば、それだけだが…」

俺の立場は見る見る苦しくなっていった。

「温泉もあるし、子供が遊ぶテーマパークもある、空気も水も美味い…」

そんな事は道子や義母、いや女全般にとって興味の薄いもののようであった。

車内がこんなにも息苦しかったのは、多分、初めての経験であろう。

危うく窒息死するところであった。

さて…。

書きたい事をかいつまんではいるが、まだまだ書くべき事が山ほどある。

ゆえ、三回に分ける事としよう。

次回は引越しの事を書く事にする。

今日はこの辺で…。

 

 

二人の娘 (04/09/28)

 

先週末、俺は春日部に飛んだ。

理由は家族に会うためだけで、他には何の雑念もない。

生まれたばかりの八恵、それに道子とは一ヶ月以上会っておらず、春とも二十日以上会っていなかった。

「会いたい!」

その思いが爆発したかたちであった。

先々週の金曜、9月17日の昼休み、

「行こう!」

思い立った俺は道子に電話を入れ、

「今日そっちへ行く」

その事を伝えた。

「え、今日…?」

道子は少々うろたえたが、すぐに、

「わ…、分かった…」

気のない返事をしてくれた。

「よし!」

俺は電話を切ると、すぐに航空券を手配すべく会社のパソコンを立ち上げた。

JALだのANAだのを正規料金で買っていては馬鹿をみるので、SNA(スカイネットアジア航空)のホームページを見た。

満席であった。

仕方なくJALやANAも見てみた。

こちらも満席であった。

さすがに三連休前の金曜、その最終便ではある。

(空席待ちをするか…、それとも土曜の朝に出るか…?)

その事で迷った。

(片道三万円の正規料金でもいい! とにかく家族に会いたい!)

気持ちはその方向に傾いている。

と…、その時、道子からの電話が鳴った。

すぐに現状を説明し、

「行けるように頑張る!」

その事を伝えると、

「えー、そんなに高いんだったら来週でいいよー」

乾いた声でそう言われてしまった。

「そ…、そうや…」

この温度差はどうしようもなく、泣きながら春日部行きを翌週に延ばしたのであった。

さて…。

それから一週間が経ち、日は9月25日に移る。

午前5時前に起きた俺は鼻歌を歌いながら簡単な準備をし、午前6時には家を出た。

家族に会えると思うと空港までの30キロ強が不思議と楽しげな道になる。

「今日も渋谷で五時ー♪」

実に懐かしい歌が俺の口からは飛び出していた。

目的地の春日部は埼玉県に属し、渋谷からは遠いのであるが、熊本から見れば春日部も渋谷も似たようなもの。

四捨五入すれば二つは同じ東京である。

「有楽町で会いましょう」とか「神田川」そういった東京の歌が次から次に出てきた。

飛行機のチケットはJALの「一週間前割引」というものを買った。

値段は19000円弱で、「クラスJ」という昔でいうならスーパーシート料金も含んでいる。

一昔前まで5000円もした国内線のスーパーシートも、今では低価格競争の煽りを受け、なんと1000円まで下がっている。

これなら乗れる、そして乗ってみたいという事で乗ってみた。

キャンペーン中という事で朝からビールが出た。

ツマミとしてピーナッツも出た。

実にいい気分であった。

午前9時にもならぬうちから1万メートル上空で酒を飲む。

俺を中心に地球が回っているような錯覚を覚える瞬間であった。

春日部には正午に着いた。

東京の天気は小雨であったが春日部は曇り空で、ちょっと肌寒いくらいの温度だったが、義母だけが「暑いだわー」と扇風機を全開で回していた。

春は三週間ぶりに会う俺を笑顔で迎えてくれた。

「オットーだぁ!」

そう言って抱きついてくれた。

それから俺がいない三週間の間に起こった事を語り聞かせてくれたのであるが、それを伝える言葉がままならず、半分程度しか分からなかった。

それでも見違えるように言葉がうまくなっており、

「うんうん、偉いぞ」

娘の成長が嬉しくて、つい求められるがままにジュースを与えてしまった。

ちなみに「言葉がままならない」といえば道子もままならない。

春と同時に道子も何かを言っていたのであるが、こやつは自分が知っている事を皆が知っていると勘違いしている節がある。

ゆえ、よく分からない個人名などを連発し、さっぱり意味が分からなかった。

これは道子が言うに、

「遺伝だよー」

だそうだが、義母の話を聞くに、

(なるほど…)

そう思える節もあるにはあった。

ところで…。

23日に退院した八恵であるが、春の部屋に写真を載せているようにソファーにコロリと転がっていた。

細かい間隔でヒンヒン泣きながら抱っこを求め、それ以外は何をするともなく寝ていた。

生まれてから一ヶ月以上も入院生活を続けていたものだから、そのぶんまで抱いてもらおうと思っているのであろう。

むろん、俺はそれに応えた。

応えたが、首が座っていないので何だか怖く、長く抱いていると、

「オットー遊ぼ!」

春がそう言ってくるので、どうしても八恵と接する時間は短くなる。

やはり新生児と触れ合う機会は「遊び」より「世話」で、その点、俺の出る幕は少ないのであろう。

「母親は(生まれる)半年前に母になり、父親は半年後に父になる」

その言葉通りであった。

午後になると前会社の同期である山本一家が現れた。

昼からチョロリと酒を飲み、それに飽きると子連れで公園へ出かけた。

実に平和な一日であった。

夜は久々に家族で寝た。

ていうか、八恵と一緒に寝るのは初めてであったが、

(道子は大変だ…)

そう思った。

春は鬼のように寝相が悪い。

グルグル回転しながら上へゆくものだから何度も布団へ戻さねばならないし、八恵は八恵でちょこちょこ泣く。

道子が子供と一緒に昼寝する理由が何となく分かった。

「福ちゃん、賑やかに寝るのは久しぶりでしょ?」

道子がニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。

「私はこんなに苦労をしている」というのを言いたかったのだろうし、寂しがり屋の俺に気を使ってもいるのだろう。

が…、

「俺のほうも賑やかぞ」

それだけは俺も胸を張って言えた。

俺の平日は基本的にライダーハウスに泊まっている。

ゆえ、八畳の部屋に六人で寝ている。

その賑やかさといったら半端でない。

鼾、歯軋り、携帯電話、色々な音の嵐である。

寝返りを打った隣の奴の足が俺の股間を直撃した事もあるし、その点、賑やかさでは道子の夜に負けないし、寂しいと思った事もない。

さて…。

その翌日であるが、その日は朝から雨であった。

晴れていれば春が好きな動物園に行こうと話していたのであるが、この天気ではどうしようもない。

家から出ず、家族でまったりと過ごした。

春とは本当によく遊んだ。

座布団で家を作ったり、ママゴトの相手をしたりした。

(春は見てないようで親の姿をよく見ている…)

長く遊んだおかげで、その事がよく分かった。

ママゴトの時、小分けに盛らずに大皿にドーンと盛るのは道子流だし、ビールを先に出し、それから焼酎を出すところなんてなかなかのものだ。

「これ、トォフねぇ」

飯の前、つまみに冷奴まで出してくれた。

また、俺が缶ビールよりも生ビールが好きだという事を知っていて、ビアサーバーからジョッキに注ぐマネをして持ってきてくれる。

そして、俺が飲むマネをすると、

「ハムもちょうだい」

そう言って架空のグラスを俺の手から取り、一気にそれを飲み干してしまう。

「春ー、オットーのを飲んだなー!」

「ごめん、オットー」

「待てー、バイキンマンはお前を逃がさないぞー!」

「キャー!」

春との遊びは永延と続いた。

さて、さて…。

その夜には高専時代の友人である後藤が嫁さんを連れて遊びに来てくれた。

手には持ちきれんばかりの土産を携え、そのどれもが子供への土産であった。

春への土産はお菓子の詰め合わせであった。

春は夕飯を食ったばかりで、

「もぉ食えんよー」

そう言っていたのであるが、菓子を見るや目の色が変わった。

「ちょーだーい!」

駄目だと言う道子の言葉に耳を塞ぎ、俺や後藤夫婦のところへ了解を求めて歩き回った。

「駄目、駄目、駄目ー!」

俺も最初は突っぱねたが、

「オットー、ちょうだい、オットー!」

泣きながら抱きついてくる春を見ていると、だんだんだんだん、あげたくなってくる。

ついラムネをあげてしまった。

「何やってんだよー、もぉー!」

道子は本気で怒ったが、

「ありがと、オットー」

娘の笑顔は何ものにも代えられない。

俺にとって最大の喜びのように思われた。

27日、熊本へ帰る日…。

この日は出勤日であったが有給休暇をとっていた。

天気は雨で、予報では「今日いっぱい雨」と言っていた。

全く外に出れず、春には申し訳なかったが、八恵もいるのでしょうがない。

時間いっぱいまで遊び、別れの時を迎えた。

大した荷物はないが適当にまとめ、それを抱えると春が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

「帰るの?」

と、言う。

「先に帰るけん、お前はもうちょっと後にオッカーと八恵と帰っておいで」

そう言うと春は火がついたように泣き出した。

「一緒に帰るー! おうちに帰るー!」

玄関には山鹿で撮った写真が飾ってあった。

「ここに行くのー! オットー、一緒に行くのー!」

暴れる春を道子が抱きかかえ、

「福ちゃん、早く行きなよ」

俺の背を押した。

玄関が閉まった。

その黒い玄関の内側から、

「オットー! オットー! 一緒に行くのー! 一緒に行くのー!」

泣声に混じって、ハッキリとその声が聞こえてくる。

たまらなくなった。

泣きたくなった。

何と言えばいいのだろう…、体がカッカしてき、喉の辺りがカーッと熱くなった。

気が付いたら黒いドアを開け、俺は部屋へ戻っていた。

時間に余裕があるわけではなかった。

余裕があるわけではなかったが、道子から春を取り上げ、

「帰らん、帰らん! オットーが春ば置いて帰るわけにゃーた!」

俺は春の頭を大きく撫でていた。

春は泣き過ぎて疲れたのであろう、10分もするとグッスリ寝てしまった。

道子がネットで羽田に着く時間を調べてくれ、

「ギリギリ間に合いそうだよ」

そう言って送り出してくれた。

駅までの道すがら、

(俺は嘘つき親父だ…)

ひどい自己嫌悪に陥った。

(数時間後、目覚めた春は隣に俺がいないのを見て何と思うであろうか…)

その事を考えると気が重くなった。

が…、翌日は朝一番から仕事である。

仕事に出ねば、入社直後の俺などは即日クビになろう。

が…、この足で春日部の家に戻り、

「オットーは嘘つかんかったぞー」

そう言いたがってる俺もいる。

が…、そんな事をすれば、

「馬鹿ー! 春は約束なんか憶えちゃいないよー! それよりもクビになったら大変じゃーん! アホー!」

道子が暴れる事は必至である。

俺はそんな道子を横目に見、

「春と交わした約束を反故にするわけにはいかん」

胸を張って言う。

カッコイイ…。

カッコイイとは思うが、道子の方が圧倒的に正論だとも思う。

二人目が生まれた今、俺の背に圧しかかっているものは非常に重い。

当面、道子の言うように「安定した生活」をせねばならないであろう。

その理由は書きかけている悲喜爛々44で少しずつ明らかにしていくが、とにかく現在の俺は「えい、やぁ、とぉ!」で行動するわけにはいかない。

サラリーマンらしく、ちゃんと明日の午前8時にはデスクに座り、ソツなく仕事をこなさねばならないのだ。

ああ、書いてて悲しいし、俺らしくないし、馬鹿らしいと思う…。

そうそう、サラリーマンに返り咲いて約一ヶ月が経った。

(俺はつくづくサラリーマンに向かないなぁ…)

その事を再認識した。

再認識したが、もう一方で、

(俺が本気を出せば社長になれる…)

そう思っている自信過剰な俺もいる。

(馬鹿か、俺は…)

そう思うが、

(俺という人間は意外にイケる)

その事を確信しているのだから世話はない。

ところで春日部に滞在中、義母の友人が、

「世の中は金よ、金が全てよ」

茶飲み話の中でそう言い、俺は思いっきり食い付いてしまった。

「それは悲し過ぎるじゃなかですか! 金で買えんものの中にこそ尊いものがあっとじゃなかですか!」

「あんた、若いわねぇ」

義母の友人達は俺の発言を笑い飛ばしてしまったが、俺は間違った事を言ったとは今だに思っていない。

ただ、義母の友人の発言が的外れだとも思っていない。

(春と交わした感動の一齣が金で買えるであろうか…?)

それは絶対に買えない。

買えないが、その感動の一齣に至るまで、時間の積み重ねの段階で、ある程度の金がかかっているのは事実だ。

「世の中は金」

その言い回しは悪意に満ち満ちているが、ある面、非常に的確でもある。

二人目の娘が生まれ、「生きる」という事に張りが出たぶん、そういった金銭的な部分に重い責任が伴い始めた。

その事が日を追う毎に切実さを増してくる。

時間を積み重ねるためには金がいる。

その程度に俺と道子で差はあろうが、安定的に、もしくはピンポイントでも確実に、金銭供給する「仕組」を俺は確立せねばならないのであろう。

「そうは言っても…」

「いや、ウダウダ言っても始まらない」

「うーん…」

苦しい問答は永延と続く。

当分の間はこういったモヤモヤが続くに違いない。

(生き方というのは真剣に考えるものではない)

そう思うが、それを考えないと夢というものが壊れてしまいそうで怖い臆病者な俺なのであった。

家族は10月9日に戻ってくる。

 

 

その傷痕 (04/09/07)

 

「悲喜爛々44」を書いている途中であるが、強烈な台風が来たため、臨時で日記を書きたい。

今日、俺は午前7時に起きた。

起きた時、既に鋭い風の音が木霊しており、

(今日のはちょいと違うんでないかい!)

そう思った。

会社は前日の時点で「休み」というのが決定していた。

朝飯を食い、ゴロリと横になり本を読んだ。

次第に風の音は強くなってきた。

読書に飽きた俺は書きかけの文章に手を付けたり、道子とチャットをしたりして過ごした。

雨が降り始め、その線はほとんど横線になった。

暴風圏には既に入っている。

25メートル以上の風が吹くはずで、確かにそれくらいの風が吹いていた。

が…、20メートル代では恐れるほどではない。

何か問題が起き始めるのは30メートルを超えてからである。

チャット相手の道子が、

「今日はお父さんの月命日だから墓参りに行ってくるね」

そう言って画面上から消えた。

それが何かの合図だったように思う。

ヒュン!

「ビュン」という音が「ヒュン」に変わった。

これは音が高くなったのであるが、これが鳴った後に家の色々なところから「ガゴゴゴ!」という唸り声が聞こえ始めた。

ヒュン、ヒュン、ヒュン!

一度「ヒュン」に変わると、次は台風の目がくるか通り過ぎ去るまでは「ビュン」に戻らない。

「さ、勝負だ!」

家がもつか潰れるか、その勝負の始まりであった。

時刻は11時前頃であったろう。

雨は依然、定規で引いたように真横に降り、「バババババ」と窓に当たる。

庭の景色は霞んで見え、全てのものが風の方向に傾いている。

ドゥン!

「ヒュン」が「ドゥン」に変わった。

昔の有名な書きもので風の音を「どっどどどどー」と表しているものがあったが、たぶん、それはこのレベルをいっているのだろう。

40メートル級である。

(そろそろ停電になるな…)

思っていると、すぐ停電になった。

窓ガラスは内側に緩やかなカーブを描いて曲がっている。

この曲がりが一定のラインを超えるとガラスは割れ、家の中は修羅場となる。

「割れないで下さい」

祈るより他はなかった。

家の前の銀杏の木が根っ子から倒れた。

白いものが飛んでいると思ったら、富夫の自信作・農機用車庫のトタン屋根であった。

家の前は杉林で、杉の枝が庭を縦横無尽に舞っている。

その中に俺の愛車・シビックはちょこなんと鎮座している。

(傷は付いてもいい! お願いだからガラスだけは割れんでくれ!)

祈りつつ暴風雨に身を任せている愛車に熱い視線を送った。

家の中では雨漏りも始まった。

瓦が浮いたか飛んだのは明白で、事実、俺の部屋から見える隣の家の屋根は穴だらけになっていた。

風は更に強くなった。

家の軋む音が響き、恵美子は、

「怖い、怖い!」

と、騒ぎながら寝室に走った。

風の音以外に色々な音がした。

何かが当たる音が大半で、その中に何かが壊れる音も混じっていた。

が…、家を出ると自分も吹き飛ばされるため、確認するわけにもいかない。

ひたすら台風が過ぎるのを待った。

(これは凄い台風だ…)

と、思った。

が…、

(平成三年の伝説的な台風に比べればマシだ…)

とも思った。

何がマシって、今回の台風は昼の台風のため、恐怖感が薄い。

見えるぶん、何がどうなっているか何となく分かる。

更に、伝説の台風は60メートルを超えていたため、今回のものより10メートルは強い。

とにかく、俺の唯一の財産である車の安否を祈りながら風が収まるのを待った。

午後1時過ぎに台風は弱まった。

俺も富夫もすぐに外へ出たが、弱まったといってもまだまだ強い風が吹いてもおり、細かい何かが舞っていて目が痛くなった。

とりあえず、農機用車庫の屋根が吹っ飛んでいるのと雨漏りの原因を突き止め、裏手に回って塀が壊れているのを確認した。

俺は家に対する愛着が薄い。

すぐに家に戻ったが、富夫にしてみればローンが終わっていない可愛い家である。

念入りに念入りに確認し、続いて店(模型店)の様子を見るために軽トラで出て行った。

俺は周りの状況が気になった。

どうせ停電中で文章も書けないので、風が収まるや被害見物に出かけた。

どうにか無事でいてくれた車に乗り、家の周辺二キロばかりを見て回った。

どこも瓦が飛んでいたり車庫が吹っ飛んでいたりと何かしら損害が出ている。

中には家そのものが潰れているところもあった。

川の水は大して増水していなかった。

国道以外の脇道に入ると、木が倒れていたり家の壁が崩れていたりしていて、通れないところが実に多かった。

何度も行っては戻るを繰り返した。

二件隣に同級生の友人がいる。

彼の家では買ったばかりの物置が転がって、隣の畑に見るも無残な姿をさらしていた。

申し訳ないが笑ってしまった。

また、四軒ほど隣の家に、俺と同じ消防に入っている三十路の人がいる。

その家は前の台風の時に、

「万全の態勢を整える」

そう宣言し、窓には全て罰点の補強をし、車庫には「これでもか!」というほどの重石を乗せ、今回もその備えを継続していた。

が…、無駄だったようで、周辺でも一際目立つ惨状を呈していた。

これに対し、日頃から手入れや備えをしない隣の家が何の被害も受けていなかった。

(人生いろいろ、生きるという事は大いなる皮肉を受け止める事かもしれない)

そう思わざるを得ない、悲しき結末であった。

ちなみに、今回の最大瞬間風速の発表を見ていると、県内でも50メートルを超えているところが多々あったようだ。

例えば天草、例えば阿蘇…。

やはり障害物が少ないところは吹く風もパンチがあるようだ。

が…、今回は都会でも結構なものが吹いている。

熊本市では観測史上二番目の48メートルが吹いたらしい。

色々な建物があるぶん、田舎の比にならないほど色々なものが飛んだに違いない。

さて…。

時刻は午後4時前。

風はすっかり収まり、現在、台風の馬鹿野郎は山陰地方の北側を北上しているであろう。

が…、台風というものは九州を出るとガクンと勢いが弱まるし、速度も速まる。

山陰を抜けた時には雨を降らすだけの軟弱な熱帯低気圧に成り下がっているのではなかろうか。

それにしても…。

今年は本当に台風が多い。

上陸回数は観測史上最大の7回を数えるというし、四国の人に至っては避難しっぱなしの生活ではなかろうか。

ところで、台風が去った後、富夫は我家についてこう言った。

「馬鹿でかい窓ガラスが自慢の家だったばってん、今になって思えば、これが失敗だった。やっぱ、家はデザイン云々でなく災害に強くなきゃいかん」

その反省も分かるが、それを追っていては全く味のない核シェルターに住まねばならなくなってくる。

結局は、

「自然には勝てん」

その事で、くるものがきたなら甘んじて受けねばならないのであろう。

今日は久々に野次馬根性に火が点いた。

こんなに燃えたのは埼玉にいる時、自衛隊の飛行機が落ちて送電線を打ち切り、関東が停電になった事件以来だろう。

あの時も我慢ができず仕事中ではあったが有給休暇をとり、自転車で現場を見に行ってしまった。

今日も恵美子に止められたものの、ついつい車に乗ってしまい、30分ばかり街を見て回っている。

災害は自分に起こると嫌なものだが、周りで起こると覗いてみたくなる。

それは人情であろうし、野次馬というものは必ず湧いて出るものである。

(なぜか?)

それは人間に好奇心があるから。

そして、「素の人間」が見れる貴重な瞬間だから。

俺はそう思っている。

車で回っている時、一人の立ち尽くす中年を見かけた。

いつも笑顔を欠かさない人で、景気がいいと評判の生花栽培をしている人だった。

潰れた大型ビニールハウスを前に、ピクリともせず立ち尽くしてた。

いい顔だった。

ああいう表情はなかなか見れるものではない。

素の人間の顔だと思った。

また、前に書いたが、家が潰れているところもあった。

綺麗に中央部分だけがグシャリと潰れており、とても生活ができる状態ではなかった。

そこの住人とすれ違った。

住人は家の前にいたが家を見ず、前を流れる菊池川を呆然と眺めていた。

思わず写真におさめたくなる見事な絵で、素の人間のいる絵でもあった。

さて…。

今日という貴重な一日(休みだから)が暮れようとしている。

明日は出勤日で阿蘇へゆかねばならない。

50メートル強の風が吹いたという阿蘇。

(その山や工場がどういう風になっているか?)

怖くもあるが、ちょっと楽しみでもある。

最近は地球のクシャミが多い。

熱もあるようだし、このまま体を壊して死んでしまうという事にならなければいいが…。

ま、何にしても、何かが起こる場合には、

(せめて家族が揃っていたい…)

その事だけは切に思う。

金を嫁に握られたままの悲しき独身生活はまだまだ続くのであった。

 

 

出産 (04/08/24:道子執筆)

 

春日部より、久しぶりに日記を書きたいと思います。

何を書こうか・・と思ったけど、やっぱり「出産」、これしかないだろうと思い、私の安産話でもお話します。

私の出産予定日は8月8日。

7月からずっと「安静にしていなさい」と先生に言われ、ふくちゃんもまだ歩いているし、胎児も2,500gもなかったので、本当〜に家でのんびりと安静生活を送っていました。

その甲斐もあってか、7月下旬まで絶対もたない、と言われたお産は8月になってもその気配すらなく、ふくちゃんも到着して「早く産め」とまで言われるようになっていました。

あれだけ安静生活を送っていた私も、今度は動いたり歩いたりと、早く出すことに専念するようになっていました・・・。

 

1、おしるし

春の出産の時は、ふくちゃん・長さん・お母さんと近くの居酒屋で飲んでいる時に破水をして、それから朝まで待って病院へ行き、陣痛促進剤を使っての出産となりました。

だから、2人目の時に破水じゃなくて陣痛が最初に始まったらちゃんと自分でも分かるかな?とちょっと不安になっていました。

けど、今回は「おしるし」なるものが出産の合図として最初に始まったので、私も心の準備がちゃんと出来た状態で出産を迎えることが出来ました。

まず、この「おしるし」が何かというと「下からの軽い出血」。

それが、8月7日、夜11時。予定日の1日前に訪れたのです。

ちょうどその日は土曜日で、この日も「冬のソナタ」を見ようかな〜とこの時間まで起きていたけど、いつ陣痛が始まるかも分からないので、ちゃんと寝ておこうと思い、もう寝ることにしました。

 

2、陣痛

それから、何時間か寝たときに、「あれ?ちょっと痛いかな・・?」という感じがして目が覚めました。

時計を見てみると午前3時8分。

お!これは予定日通りに生まれるかな?とそんな事を思ったりしました。

でも、これが本当に陣痛なのかまだ分からなかったし、ちゃんと寝ておいた方がいいだろうな〜と思いまた寝ることにしました。

けど、ウトウトしたところで「強い張り」を感じ、時計を見ると3時18分。

またしばらくして張りを感じ、時計を見ると3時28分。

その後も38分、48分・・と、面白い程正確に、10分間隔の張りを感じたのです。

これは陣痛に間違いない!と思い、ドキドキしながら「いつぐらいに生まれるかな〜、また日曜出産で休日料金になる〜」とかいろいろ考えていました。

でも、いつの間にかちょっと寝ていたみたいで、また張ってきた!と思った時には5時半くらいになっていました。

そして、6時くらいから今度は5分間隔での陣痛が始まり、これが1時間続いたら病院へ行くんだ・・と少し緊張し始めていました。

その内、お母さんやお姉ちゃんも起きてきて事情を説明すると、何となく家中も緊張した感じになってきました。

ふくちゃんにも、7時くらいには病院へ行くからと言って支度をさせ始め、いよいよ出産の時が近づいてきたのです。

 

3、病院へ

「陣痛が5分間隔で1時間続いたら連絡するように」と先生に言われていたので、8月8日午前7時、病院へ電話を掛け、家を出発することになりました。

日曜の早朝という事もあって、病院には婦長さん1人しかおらず、慌しく分娩の準備をしていました。

早速内診してもらうと「もう子宮がしっかり開いているから分娩室へ入りましょう。」との事で、着いていきなり分娩室へと行く事になりました。

荷物を置き、着替えをして、タオルを握り締め、午前7時30分、分娩室へと入って行きました。

 

4、出産

分娩室へ入ってからは、分娩台の上で寝ながら準備が出来るのを待っていました。

陣痛の間は痛みもほとんど無かったけど、7時くらいから強い痛みを感じるようになり、この時は痛みもピークに達していました。

婦長さんに「ズシッと出したい感じになったら言って」と言われ痛みに耐えながらその時を待っていました。

すると、「来た!これだ!」という春の時にも味わった感覚が来て、婦長さんに「来ました!」と伝えました。

それから「もう生まれそうだから上に来て!」という婦長さんの電話で先生たちも部屋に入って来て、いよいよお産へと進んでいったのです。

男性には味わえない(耐えられない!?)、頭の血管が切れるんじゃないかと思う位のあの力み!!

裂けるー!!と感じるくらいのあの痛み!!

でも、これをがんばったら赤ちゃんが出てくる、あとちょっと!赤ちゃんも今がんばってるんだ!と自分に言い聞かせて、力を振り絞りました。

先生も「あとちょっと!ほら頭見えてきたよ!」と言ってくれ、私も出すー!!と最後に思いっきりいきみ、「はい、後は力を抜いてフーッ、フーッ、フーッ・・」と言われた通りにしたところで、「ニュルン。」と出たー!!

ちょっと間があってから「ふんぎゃ〜ふんぎゃ〜」と泣き声がしたのです!

この瞬間、生まれたーと実感がこみ上げて来ました。

第一声、婦長さんが「おめでとう、男の子よー」と言ったので、「え!男の子?」と言おうとした瞬間、先生たちが「いやいや、女の子だよ!」と訂正してきました。

一体、何が男の子に見えたんだろうか・・?

とにかく、ここに福山家第二子誕生!

2,884gの女の子が生まれてきたのです!!

 

5、後産

とにかく、赤ちゃんは無事出ては来たけど、こっちにはまだ仕事が残っている!

後産といって子宮内に残っている胎盤を出さなくてはいけないのです。

これも結構な大仕事で、赤ちゃんと同じようにいきみ、力を入れるので、私ももう1度がんばってみました。

けど、この胎盤かなりしつこくて、どんなに力を入れても出て来ない!

しまいには、先生がお腹をグイグイ押すし、手を入れて引っ張り出そうとするし、もう出産どころの痛みではない!!

本当にやめてー死ぬー!!という位の強烈な痛みだったのです!

結局、点滴で麻酔をして、痛みをごまかしながらの後産。

終わった頃にはフラフラになってしまいました。

先生に、今回のお産は「超〜安産」と言われました。

これだけ苦しい思いをしても安産なのです。

これから出産を控えてる人、痛みはその内忘れてしまうので怖がらずに頑張って下さい!

そして男性方!お産は簡単だと思わないで、本当にスゴイ事だと、奥さんを尊敬してください!!

 

6、八恵

こんな感じで生まれて来た娘を「八恵」と名付けました。

生まれてから今日で17日目。

今はまだ病院のベッドで寝ていますが、9月になったら無事退院し、お家へ帰ってくる予定です。

ふくちゃんが「八恵の部屋」にこう書いていました。

「八恵の人生はこれからグーンと広がるのだ」

本当にその通り!これからいっぱい辛いことや楽しい事を経験して、元気に大きくなってもらいたいと思います。

そして、私も子供と一緒に、もっともっと成長していきたいと思います。

 

 

出発前に (04/07/01)

 

現在、旅行出発の1時間前である。

「私も、初日だけ付き合おうかしら…」

そんな事を言っていた恵美子も既にやる気は満々で、準備に余念がないようだ。

一時間後には、その恵美子と熊本城へゆき、そこから一ヶ月間の徒歩旅行がスタートする。

今日は大津町まで歩き、夜は宮村という酒豪の家に泊めてもらう予定だ。(恵美子はバスで熊本城に帰る)

恵美子は言う。

「あんたと一緒に歩くなんて、今後、絶対にないけんね」

確かにない。

ていうか、25キロ以上歩こうと思うオバサンがそういない。

毎日5キロのウォーキングをし、

「行ける!」

そう確信してのお供らしいが、足手まといになるようなら斬り捨ててゆくつもりだ。

ところで…。

「節目の続々報」という題目で、阿蘇の会社を受けた事を書いたが、その結果が届いた。

合格らしい。

実家に電話があり、「折り返し電話をして欲しい」との事だったので、その翌日に電話をすると、非常に高慢ちきな調子で、

「いつから働けますぅ?」

そう聞いてきた。

この電話の相手は「昼食を出す」と言っておきながら出さなかった張本人で、更に俺はこの男に、

「働けるのは八月下旬か九月からです」

この事を伝えてもいた。

ゆえ、

(何や、こいつ!)

つい、そういった態度になってしまい、

「詳しくは分からんばってんがですね、多分、九月からじゃないですか?」

他人事のような反応を示してしまった。

食い物の恨みとは恐ろしい。

昼食を出さなかったという事が、こういった余波を生むのだ。

(俺も食い物に関しては気を使わねば…)

そう思うし、俺が春の父親である事も痛感した。

ちなみに…。

京都の会社からは、まだ結果が届いていない。

当然、両方の結果を見て今後の進路を判断する事になろうが、どうなるかよく分からないし、この事に関しても、

「昼飯を出さなかった」

この事が選別の要因となる事は間違いない。

さて…。

話はどんどん変わり、6月27日から30日までの話に移る。

この期間、俺は春日部にいた。

今本という後輩と城倉という前会社の同期が羽田まで迎えに来てくれた。

今本はそのまま春日部に泊まり、夜は道子が破水した居酒屋「とり田」に男二人で呑みに行った。

ここの看板メニューは鳥刺で最高に美味かったのであるが、鳥インフルエンザの影響で、半年ほど前メニューから姿を消したらしい。

仕方がないので今本の浮いた話でも聞こうと思ったのであるが、

「楽しみといえば月一回のキャバクラです!」

その今本に浮いた話などあろうはずがない。

芯から低空飛行の飲み会となってしまった。

それから…。

6月28日は一泊二日で鬼怒川温泉に行った。

交通費から何から義母の奢りで、道子と俺への「誕生日プレゼント」という事らしい。

豪華なホテルに凄い料理、それはそれは最高だったのであるが、義母、道子、春、その三世代は、

「満腹ー!」

そう言うや、すぐ眠りについた。

その時刻、午後9時前だったように思う。

(寝てばっかりなら安旅館でも構わんかったのでは…)

そう思ったが気持ち良く寝ている三人を起こすのは悪いので、一人でビールを飲みながらナツメロの番組を見続けた。

海援隊、かぐや姫、ジローズ、そこに嘉門達夫が入るという豪勢なキャスティングで繰り広げられる番組に俺は釘付けとなった。

その翌日、29日は級友である後藤と大さっ君と飲んだ。

場所は越谷で、6時半から飲み始め12時近くまで場所も変えずに永延と飲んだ。

後藤の先輩も来ており、歴史の話や男の生きる道、それらの話に盛り上がっていると、つい飲み過ぎてしまい、この翌日は完璧な二日酔いとなった。

朝から一発、ゴミ箱に水分のみのゲロを吐き、フラフラの状態で羽田へ向かう電車に飛び乗った。

東武伊勢崎線に揺られる事40分、あまりの気持ち悪さに乗り換えの場所である北千住で20分のインターバル。

しゃがみ込んでビックウェーブが去るのを待っていると、

「大丈夫ですか?」

奇特な女性が俺に声を掛けてくれた。

朦朧とした意識の中だったので、はっきりとは記憶していないが若い女性だったように思う。

「二日酔いなんです…」

かすれた声でそう答えると、

「あっそう」

そう言われ、「フン」と鼻で笑われたのだけはハッキリと記憶している。

(こんな事が徒歩旅行中にあってはならない!)

越谷での飲み会は、いい教訓となってくれた。

さて…。

この日記を30分で書き上げ、出発時刻は後30分と迫った。

この旅行、どういった旅行になるかは分からぬが、思い出に残る旅行となる事は間違いない。

・ 熊本から大阪(自転車)

・ 九州一周(自転車)

・ 日本縦断(自転車)

・ 阿蘇横断(ホッピング)

・ 四国一周(自転車)

これに次ぐ交通機関を用いない大型旅行であるが、徒歩はまた、自転車とは違う景色を俺に見せてくれる事だろう。

久々に都会に出て思った。

(人の流れが速い…)

田舎の農道を歩く人と、東京駅を歩く人の目線には、電車と自転車ほどの差があるに違いない。

遅くなればなるほど見えるものもある。

道ばたに咲く小さな花…。

そういったものに気付く旅もいいではないか。

花鳥風月は、ゆったりとした目線にのみ映えるものであろう。

さあ、出発だ。

 

 

埼玉へ (04/06/26:道子執筆

 

いよいよ明日、埼玉へと旅立ち(?)ます。 

荷物もすでに送り終えて、あとは飛行機に乗るだけ。

だいぶ先の事だと思ってたけど、あっという間にこの日が来てしまいました。

春日部に帰るのは楽しみだけど、それと同時に出産も近付いてるのかと思うと、ちょっと気が重いような・・・面倒くさいような・・・複雑な気分。

まあ、誰に聞いても2人目の子育ては適当になるって言うので、私も適当に育てようとは思うけど。。

それより7月中、パパもいなくて、山鹿のじいちゃん・ばあちゃんにも会わなくなって、春はどうなるのかがちょっと心配。

最近は週4回も親子の集いに参加してたし、大好きなしぇんしぇい(先生)や友達にも会えなくなるから春にはちょっとかわいそうな思いをさせちゃうかなあ・・・。

あとは、ふくちゃんがちゃんと無事春日部まで辿り着いてくれれば一安心。

私もふくちゃんが着くまでは、何がなんでも産気付かないようにしないと。

ちゃんと、生まれたての我が子を見てもらうために。。

それでは、みなさん行ってきます!