2005春日部帰省(05/09/07)

 

なんと4月18日から日記を書いていない。

日記を「出来事シリーズ」として人様に公表し始めたのが社会人一年目だから、八年もプライベートをさらけ出す作業を続けているわけだが、こんなに空いたのは道子と付き合った時以来だろう。

(怠け過ぎている…)

それが俺の正直な告白であり、反省しなければならないと思う。

こういうものをマメに書いていない時期というのは得てして活字から離れている時期なのだ。

さて…。

8月22日から29日にかけ、福山家の女三人が関東へ帰省した。

帰省というと田舎へゆく方が大半だろうが、うちの場合、都会へゆく事になる。

本当は盆休みに帰らせる予定だったが春が三歳になった事を受け、飛行機代が一人分追加、盆という割増も加算され、ざっと計算すると俺の月給を遥かに越える額となってしまった。

「これはいかん…」

盆を外して帰省する運びとなったのは夫婦の合意であった。

盆休みは広々した阿蘇で子供達と大いに遊んだ。

それが良かったのか、春は帰省の前夜、俺と枕を並べ、こう言ってくれた。

「おっとー寂しい? はる、阿蘇におろうか?」

何とも優し気なセリフではないか。

道子がそういうセリフをこぼさなくなって久しいが、

(俺には春がいる)

その事を実感させてくれる心温まるセリフであった。

最近では八恵もメキメキ可愛くなって俺を見る度に「ばー」と言ってくれるようになった。

「ばー」の意味は分からない。

もしかしたら「馬鹿」と言っているのかもしれないが、そんな事はどうでもいい。

俺を見るや笑ってくれる、何かを言ってくれる、ハイハイで寄ってきてくれる、それがたまらないのだ。

女三人が関東へ行ってからの生活は、まさに男のそれであった。

洗わない食器は台所に高々とたまり、脱衣所や廊下には脱ぎ散らかした服が散乱、家全体に変な臭いが漂い始めた。

仕事から帰るやダラダラと飯を食い、食いながら文章を書いた。

さすがに話し相手がいないと執筆はよく進む。

澱んだ空気も「文章を書け」と言っているようで、ものを書くには最適な環境だったろう。

音のない孤独な夜にパソコンと向かい合いながら、

(文章を書いていない期間というのは浮気をしている期間なんだなぁ…)

その事を思った。

会社の人々に好評だった出来事シリーズを止めたのは道子と付き合いだしたのがキッカケだったし、日記がこうも空いたのは阿蘇の力であったり、子供の力であったりする。

元を辿れば俺の怠けが原因である事に変わりはないのだが、そういった「別に夢中になるもの」ができたという事も大きな要因の一つであろう。

さて…。

話を日記に戻すが、8月25日、木曜の夕方、俺の携帯が久々に鳴った。

むろん道子からで、俺への様子伺いか何か忘れたものを持ってこいという話だろうと思っていたら、

「八恵が入院したんだよぉ」

実に衝撃的な内容を告げられた。

一年で四回も手術をした八恵だから何があっても不思議ではなかったが、数日前の元気な八恵と「入院した」という言葉がどうもダブってくれない。

「ばー」と言いながら寄ってくる、たった三日前の八恵は元気そのものなのだ。

詳細を聞いてみると泡を吐きながら痙攣を起こし、救急車で運ばれたらしい。

「腸の手術と関係あるんや?」

聞いてみるとそれは大して関係がないらしく、とりあえず点滴を打ちながら調べてもらっているらしい。

道子と話しながら腕時計を見ると午後六時過ぎであった。

とりあえず病院の名を聞き、やりかけの仕事を捨てる事に決めた。

病院の名を聞いて、

(これは更に急がねば!)

そう思った。

その病院は義父が亡くなった病院で、どうも縁起が悪かったし、人生でも指折りの反省しなければならない出来事がその病院に関する事だったからだ。

義父が亡くなる前の晩、俺は飲み会の真っ最中であった。

当時、彼女という状態だった道子から電話があり、

「お父さんが危ない」

その一報を受けたが駆けつけられる状態になく、

「明日一番に行く!」

そう答えたものだが間に合わなかった。

その事は今でも「修正したい過去」として強烈に残っていて、

「タクシーで行けば良かった!」

たった数万円をケチった俺をグーで殴りたくなってくる。

道子は飲んでた俺が悪いというが飲み会や酒に罪はない。

すぐに駆けつけなかった俺に罪があるのだ。

尼崎の列車脱線事故で関係者が宴会を切り上げず問題になっていたが、何となく責められなかった事もここに起因する。

とりあえず、八恵に関しては命に別状がないという事だったが、子供の事だ、どう変化するかは予断を許さない。

仕事を本当にやりかけの状態(後に分かった事だが締めているネジもほったらかしの状態だった)で切り上げ、上司に、

「今から関東へ行ってきます」

そう言った後、航空各社に電話をかけた。

俺の上司はいわゆる団塊の世代ではないのだが団塊の世代の典型のような人で、たぶん「仕事命」の鉢巻がよく似合う。

俺の発言を受けると、

「明日休む? 冗談だろ?」

食ってかかってきたが、こちらは休ましてもらえねば辞めてもいいという強い覚悟がある。

「必ずや休むと思います」

強気で断言し、高速道路や航空各便の状況確認に入った。

パソコンを睨みつける俺に上司は小言を言い続けた。

何を言われたかはよく憶えていない。

とにかく聞き流す事に努めた。

「今は物よりも人を大事にせんといかん時代じゃないですか?」

そう返したように記憶しているが、さて、どうだろう。

団塊の世代が得たものは大きい。

大きいが、失ったものも大き過ぎる。

時代は今、混沌としているのだ。

何が正しいか分からない。

分からないだけに自分の方向性だけはしっかりしたものを持っていないと、あらぬ方向に流されてゆくだろう。

とにかく航空各社のホームページを調べ、高速道路の状況を調べた。

ちょうど関東直撃の台風が来ており、飛ぶか飛ばないかも微妙で、且つ時間がなかった。

(どんだけ金がかかってもいいから行けないか?)

そう思って探したが飛行機は全て欠航、高速道路も寸断している。

「む、む、むぅーん」

諦めるより他はない状況であった。

家に帰り、義母に電話を入れ、

「申し訳ないが今日は行けそうにない」

その事を伝えると、

「え、来る気だったの?」

そう言われた。

あいつなら来るだろうと期待されていなかった事が悲しくはあったが、事実行けなかったのだから何も言えなかった。

さて…。

その翌日であるが、仕事を超やりかけで切り上げたため一応出勤はしたものの気はそぞろであった。

状況を連絡してくれればいいのに道子は全く連絡してくれず何も分からぬまま航空便が空くのを待った。

が…、昨日の欠航を受け、今日は全て満席。

どの便にも空きはなく、結局、予定の便に乗る運びとなった。

夕方になっても道子は状況を告げてこない。

イライラしつつも道子の性格上仕方がないので病院に電話を入れ、八恵の状況を聞くと、

「あ、元気ですよ、ご飯も食べてますよ」

実に明るい回答を得た。

後に義母から詳細を聞くに、下痢による脱水症状、脱水症状による熱性痙攣、そういう運びだったらしく、やはり腸が本調子ではない事が根底にあったらしい。

俺が春日部に着いたのは金曜の晩、それも午前様であった。

午後10時半という遅い時間に羽田に着き、それから満員に次ぐ満員電車で春日部に向かった。

久々の満員電車は金曜の晩という事も手伝って酒臭さの絶頂でだんだん気持ちが悪くなってきた。

いきなりではあるが、

(田舎に住んでしまうと都会に住めんごつなる)

そう思った。

春日部には義姉が生まれたばかりの赤子と一緒に泊まっており、道子の従姉妹も出雲から出て来ている。

(こりゃ着いた早々飲まにゃならんね)

そう思っていたが俺を迎えてくれたのは寝かぶっている義母だけであった。

さて…。

その翌日、土曜であるが、昼から古巣の入間で飲み会が入っていた。

本来なら「次女のお披露目」がその目的であったが、八恵と道子は入院中、お披露目どころではない。

早朝から病院へゆき、八恵の様子を見に行った。

八恵はグッスリ寝ていた。

まだ点滴の針が抜けておらず、それが痛々しくはあったが医者の話によると日曜には退院できるだろうとの事であった。

病院には一時間ほどいたろうか。

そのほとんど八恵は寝ており、目覚めてくれたのは帰る間際であった。

俺と目が合うや薄い笑顔を浮かべ、

「ばー」

いつもようにそう言うやバタバタと暴れ始めた。

ベッド脇に置いてあった「姑と上手く付き合う方法」という本を八恵はビリビリ破ると、

「ばー」

もう一度そう言って今度は大きな笑顔を見せた。

(これなら心配ない)

そう思える見事な笑顔で、心からホッとした。

それからであるが…。

この日は本当に長かった。

春日部の家に戻るや急ぎ準備をし、近所のラーメン屋で飯を食い、俺と春だけ古巣の入間に向かった。

入間は春日部と同じ埼玉県に属すが極めて遠い。

電車に1時間半も乗らねばならない上、4回も乗り換えなければならない。

更に相方の春がグッスリ眠ってしまい、それを抱えて人ごみの中に立つ作業は予想以上に疲れた。

前会社の山本さんという同期が駅まで迎えに来てくれ、何と一発目の飲み会が終わるまで春を預かってくれるとの事だったので、その言葉に甘え、俺のみが飲み会の会場に向かった。

今日の飲み会は二本立てになっており、一発目は元上司の還暦・退職祝い、二発目は次女お披露目会のはずだった飲み会である。

一発目のメンバーは実に渋い。

退職した人が二人、それに退職寸前の人が一人、俺を抜かした平均年齢は63歳である。

そこに飛び込みで五十代の二人組が入って来、場は老若男女入り混じる複雑な盛り上がりを見せた。

主賓は今年60歳になる酒井さんという人で、俺の機械設計に関する師匠である。

「法事の後だからお腹はパンパン、何も食えないよぉ」

そんな事を言っていた酒井さんだが間違いなく誰よりも食べていた。

ガリガリで小柄な人なのであるが、食も度胸も超ド級で、特に服装に関する度胸はパンパじゃない。

社内旅行で北海道へ行った事があるのだが、この酒井さんは何とパジャマで現れた。

どこへゆくにもパジャマの人で、その徹底ぶりは並でなく、仕事で出張の時にもそれを通した。

前に二人で展示会へ出かけた事があるのだが、パジャマの酒井さんが「よっ」と言いながら現れた時、心から逃げ出したかった事を今更ながら告白しておく。

その酒井さんに俺は赤いチャンチャンコを用意した。

「赤けりゃ何でもいい、酒井さんだけん何でも着る」

道子にそう言って作らせた服は道子のセーターを切っただけのもので、見るからに縮んでいた。

(子供でも入らないのではないか?)

そう思われたが伸びる素材だったのが良かったようで、意外にピッタリだった。

「奥さんの臭いがするよぉ」

酒井さんはそんな事を言いながら笑顔でチャンチャンコを着てくれ、その格好で家に帰ってくれた。

ちなみにもう一人…。

相磯さんという人を紹介しよう。

俺はこの相磯さんに電気設計を学び、前述の酒井さんに機械設計を学んだわけだが、どちらかというと相磯さんの方がキャラ的に面白い。

「お前は凄い二人に学んでいるな…、しかし…、キャラだけは真似るな」

常々そう言われたものだが、前の会社に五年以上もいて最も上達した事はこの二人のモノマネだったように思う。

相磯さんに関しては書き出すと原稿用紙百枚はいるのでここでは割愛するが、一つだけ書くとするならば、その講義が凄まじい。

週に一回、相磯さん主催の勉強会があったのだが、その第一回目の講義はパソコンの使い方であった。

相磯さんは五人の受講生を前にマウスを用意し、

「ダダッ、ダダッ」

そう言った。

何を言っているのかと思ったらダブルクリックの事を言っており、その練習を10分という長い時間をかけて行った。

更にその後の展開も凄まじい。

「パチッ、パチッ」

パソコンの電源、その立ち上げ方の練習であったり、キーボードのバネ圧がここだけ強いという事を皆で確かめ合ったり、本当に意味不明な時間が続いた。

以後、俺以外の受講生が来なくなったのは当然の運びといえば当然であった。

ああ、もう少しだけ相磯さんの伝説を書きたくなった。

お付き合い頂きたい。

自動ラインが故障したというので二人で現場に向かった事がある。

むろん相磯さんが師匠で、俺が弟子というかたちであるが、相磯さんは設備にパソコンを繋げ、

「ふむ、ふむ」

頷きながら何やらパソコンをいじくり回し、

「福山君、よぉく見ときなさい」

何やらプログラムを変更していたが、不意に、

「むっ!」

そう言って固まった。

「どうしたんですか、相磯さん」

長い間があった。

長い間を置き、相磯さんはドラえもんのような声でこう言い放った。

「プログラム、消えちゃったー」

恐ろしい話だが何も書いていないものを設備に上書きしてしまったらしい。

また、年の最後に納会というものがあり、相磯さんは設備にお神酒をあげる。

神酒をあげるのはいい。

あげるのはいいが、実際に振り撒くのは止めて欲しい。

猪口に酒をなみなみと入れ、設備にエイヤと振り撒き、

「来年は止まりませんように」

祈るわけだが、その事が原因で動かなくなってしまった。

「わっはっはっはっは! こりゃまいったねぇ!」

相磯さんは豪快に笑うが、その復帰を俺がしなければならないという事を忘れないで欲しい。

俺はこの復帰に年明け早々丸一日を要した。

他にも書きたい事が山ほどあるが前述したように原稿用紙百枚は要るのでこの辺で止めておく。

「福山君には色々教えたねぇ」

相磯さんは少しの酒で真っ赤になりながら、その日、俺にそう言った。

「ダブルクリックから教わりましたよ」

「教えたねぇ」

憶えているのか憶えていないのかよく分からぬが、相磯さんも今年で67歳になるらしい。

相磯さんに酒井さん、俺のサラリーマン生活のスタートは強烈な二人の師匠から始まったわけだが、これがガチガチのサラリーマンでなくて本当に良かったと思う。

この二人でなければ俺の人生はゴロリと変わっていただろう。

放任主義の二人が俺に与えた仕事は「マニュアルを適当に読んでて」というもので、それが耐えられず、冒頭で書いた「出来事」という書きものをメールで定期送信する日々が始まった。

仕事に関しても、

「技術屋だろぉ、自分の力でやってよぉ」

新入社員を社会の荒波にポイと投げ捨ててくれたものだから、結果を恐れずノビノビ仕事をやったように思う。

更に二人は雑務を嫌う人で、特に酒井さんは切り開く仕事は好んでも、守る仕事は露骨に嫌がった。

ゆえ、俺の中に、

「技術屋はパイオニアでなければならない」

その思いが埋め込まれたのかもしれない。

新しい事を生み出す作業や調べものは精力的にやるのだが、繰り返し作業や型の決まった書類書きなどは全くやる気が起きず、どうもげんなりしてしまう。

また、ほうれんそう(報告・連絡・相談)に関しても、社会人スタートがあのような環境だったため、相談だけはやるのだが前の二つをないがしろにしてしまう風向きがないでもない。

新しい職場で新しい社風の新しい上司になってから、

「勝手に仕事を進めるな」

頻繁にその事を怒られるが身についた仕事のやり方はなかなか消えるものではない。

(報告・連絡をしている間に次の仕事が終わっちゃうよー)

ついそう思ってしまうのだが、それでは管理職の存在価値がなくなるし、変な方向へ進んだ時の修正がやっかいなのであろう。

分かっている。

それは自分でも分かっているのだが、

「いちいち報告しなくていいよー、技術屋はチャチャッとやって結果で示してよー」

その文化が体の奥深くに染み込んでいるからどうしようもないのである。

話が長くなった。

元上司との飲み会はこの辺で切り上げ、次に移る。

次の飲み会も同じ会場で、場所の移動はない。

本来なら八恵のお披露目が次の飲み会のメインテーマなのだが、その八恵もいないため、大きくなった春と俺のお披露目がメインテーマとなるのであるが、俺は酔っているし、春は眠くて機嫌が悪いという申し訳ない状態でのスタートであった。

人数は15人くらいだったろう。

懐かしい顔ぶれと大いに盛り上がったと言いたいところであるが、飲み始めて6時間以上が経過した後半などは酔っ払って呂律が回らなかったように記憶している。

つまり、大した記憶がなく、書く事がない。

一発目の飲み会にはたっぷり触れ、次の飲み会はサラリと流す事を申し訳なく思うが、これは内容云々の問題ではなく、俺のその時点での酒量と記憶の問題である。

ただ、一つだけ、忘れようにも忘れられない悲しい話があった。

この飲み会の会場は「東屋」という小料理屋であったが、俺が埼玉にいる時、最も贔屓にした店がここであった。

海のない埼玉なのに美味い魚を出す店で、大将は飲む打つ買うの三拍子が揃った名物親父。

「馬鹿たれ福ちゃん、略して馬鹿福じゃ! そりゃ飲め飲め!」

などと可愛がってくれ、俺も家族も大いに世話になったものだが、その大将がひっそりと亡くなっていた。

この飲み会が決まった時、

「大将! 今週末行くけんね!」

その事を伝えようと、俺は熊本から電話をかけた。

「お前が来るのじゃたまらんのぉ」

その軽快な一言を大将の口からもらいたかったわけだが、「酔って寝ている」という女将さんの言葉で、大将は電話に出なかった。

一発目の飲み会の時も「酔って寝ている」という話で、

(大将らしいや…)

そう思っていたわけだが、会場に居合わせた諸先輩の話を聞くに、どうも亡くなったらしい。

が…、そんな事、信じられるわけがなかった。

前会社を退職し、ここ入間を離れる時、俺は大将と近場のスナックに飲みに行った。

その別れ際、汚い袋で餞別をくれ、

「手切れ金じゃ!」

そう言いながら豪快に笑う大将が今もそこにいるのである。

飲み会が終わり、フラフラの状態で女将に挨拶へゆくと、

「聞いてると思うけど…」

と、初めて上がる三階の自宅へ通された。

四畳半であろうか、小さな部屋が女将と大将の寝室だったらしいが、そこにこれまた小さな祭壇があり、大将の笑っている写真が飾ってあった。

その上には煌びやかなラメ入り袋で包まれた遺骨があり、辺りには線香の香りが漂っていた。

「去年の秋に亡くなったの…、痔の検査で病院に行ったら大腸ガンが見付かってアッという間…、ああいう人でしょ、まだそこにいるようで…」

女将はそう言いながら、

「おとうちゃん、福ちゃんが来てくれたわよ、良かったねぇ」

蝋燭に火を灯しながらそこにいるはずの大将と話し始めた。

俺はどれだけ無言でそこに座っていたろう、ほんの数分だったろうが、酔っている体がその事を現実と受け止めるまでにそれだけの時間を要した。

「信じられん、ですね」

「そう、信じられん」

女将はいつも大将に怒っていた。

「酒ばかり飲んでんじゃない、ろくでなし!」とか「どうしようもないオヤジだね、まったく!」

その女将が笑顔の大将を前に項垂れる光景は俺には痛過ぎた。

一刻も早く、場を去ろうと思った。

が…、体が動かなかった。

女将は祭壇の下からお年玉袋を取り出すと、

「これ、うちのおとうちゃんがね、福ちゃん次の子供が産まれたらしいから来たらやんなって言ってた出産祝い」

お年玉袋に書かれた字は女将の字であった。

女将の字ではあったが、お年玉袋で渡すところも、表の字だけは女将に書かせるところも、帰り際に何気なく渡すところも大将のそれであった。

「おとうちゃん、その時はもう病気が進んでガリガリだったんだけど、祝いだけはちゃぁんと渡せって言ってね」

俺はそれを受け取ると、礼も言えずに立ち尽くした。

体がガタガタ震えた。

泣いていたのか怒っていたのか無表情だったのか、よく分からない。

春が生まれた時も、俺が会社を辞める時も、

「福ちゃんには祝い事が多いから出費がたえん、まいった、付き合う人間を誤った」

そう言っていた、まさに大将からのお祝いなのである。

「福ちゃんが店に来た時、この事を言おうって思ったんだけど顔見たら言えなくてね、酒が不味くなってもいけないと思ってさ」

ふと女将が言った言葉を思い出した。

「酔っ払って寝てる」

祭壇を前に、俺もそう思った。

大将は酔っ払い、今そこで小さくなって寝ているのだろう。

「ああ酔った、俺は先に寝る」

客の深酒に付き合い、ゴロリと横になった大将がそこに見えるようであった。

さて…。

この後は情けないが「沈んでしまった」としか言いようがない。

単なる会社の同期から親族という関係に発展してしまった和哉の家に転がり込み、そのまま春と寄り添うかたちで眠ってしまった。

その後、何人かは和哉の家に来たらしく、二次会なるものをやったらしいが、俺にとってその事を伝えるものは翌朝見たポテトチップスの残骸以外に何もない。

翌朝は猛烈な二日酔いであった。

連続的な吐き気に襲われ、春が何度も「遊ぼう」と言ってきたが、和哉と今本に任せ、俺は一人孤独に苦しんだ。

和哉は朝飯を用意してくれ、何と二日酔いの薬まで買ってきてくれた。

春には飴まで買い与えてくれている。

そういえば、先日の飲み会幹事は和哉と近藤という縁深い二人に任せたが、すっかりご馳走になってしまった。

一次会もご馳走になり、俺の財布は交通費以外まったく痛んでいない。

(いかん、いかんよ、それは! 人として!)

という事で、朝飯くらいは俺が奢ると言ったのだが、和哉は譲らない。

これが親族になったという事であろうか。

和哉は春と二人、ベランダに出、

「ほらー、春ちゃん、電車が通るよー、ガタンゴトン」

などと、関東弁であやしてくれている。

和哉の子と俺の子はハトコという関係になる。

ま、元を辿れば人類皆兄弟なのだろうが、ハトコという関係は片手一本で血が追える。

その点、和哉からすれば春は親族として実感できるのかもしれない。

二人の後姿が何か血縁ぽかった。

ちなみに…。

上の飲み会で世話になった方々には阿蘇へ来られた際、じゅうぶんな接待をしようと思っているので、三ヶ月以内に来られる事をオススメしたい。(いつまで阿蘇にいるか不明のため)

「ええい、暑苦しい!」

と、俺を払い除けたくなるほどの熱烈歓迎を約束する。

さて…。

和哉の至れり尽せりの接待を受け、俺と春は入間を後にした。

昼過ぎから義姉の旦那もてちゃんという新メンバーが加わり、皆で昼飯を食ったわけだが、そのもてちゃん、オムツは換えるし、泣いてる子供もあやす。

「うわー、もてちゃんは偉いわねぇ」

明らかに俺への当付だと思われる声が四方八方から飛んだわけだが、俺の「オムツを換えない」というポリシーがそれで揺らぐわけもない。

自慢じゃないが二人も子供がいるのに一度しか換えた事がない。(道子が流産して入院した時のみ)

「ええい、うるさい、うるさい! 俺は九州男児ですばーい!」

そうこう言っているうちに道子と八恵が退院してきた。

どうやら熱も引いたようで、後は安静にしていれば問題ないらしい。

退院祝いと称し、豪勢な夕食などを食いつつ家族揃ってのんびり過ごした。

月曜は予定通り昼過ぎの飛行機で帰った。

羽田までの電車で八恵は火が点いたように泣いた。

何をしても泣き止まず、羽田に着いた瞬間ピタリと泣き止んだ。

俺に似て人ごみ嫌い、もしくは電車嫌いらしい。

飛行機からは雄大な阿蘇のカルデラが見えた。

羽田近辺とは極めて対照的な景色で、

(やっぱこっちが落ち着くなぁ…)

しみじみそう思った。

春にしても飛行機の小窓からお気に入りのギザギザの山が見えると、

「山はいいねぇ」

極めてジジ臭いセリフを吐く始末で、阿蘇という場所は大人にも子供にも魅力的な土地らしい。

「もう! ちっともゆっくりできなかった!」

道子は八恵の付き添い入院で大変だったようだが、俺は割かし楽しめたように思う。

家に着いた瞬間、

「何だよー、布団も上げてないじゃーん! ギャッ、何よ、この台所!」

俺からすれば綺麗にしていた家も道子からすれば散々の状況らしく、

「八恵ちゃんは何でも口に入れちゃうんだからー! もぉー、綺麗にしてよー!」

道子は独りごちながら掃除だの洗濯だのをした。

俺は春と八恵の世話をしている。

と…。

何かの拍子で八恵を見た。

すると、八恵の口からピロンと黒い線が飛び出しているのが見えた。

「八恵、アーンしてみろ、アーン」

口を開けさせると、それは茶羽ゴキブリ(小さいゴキブリ)であった。

埼玉での緊急入院、その原因がウイルス性腸炎による脱水症状だったため、

「うわっ、こりゃいかん!」

と、口に指を突っ込んで吐き出させ、

「おーい、うがいさせろー!」

道子を呼んだ。

道子は茶羽ゴキブリを見ると、ギャーギャー叫びながら、

「何だよー、何だよー、福ちゃんが綺麗にしてないのが悪いんだよー」

叫びながら八恵の口を開かせたものだが、まだ足の切れ端が残っていたらしい。

「ギャー! 足がー! 足がー!」

そう言って俺に八恵を投げつけたものだが、そういったものが入っている様子はない。

仕方がないので茶を飲ませる事で、その問題を片付けた。

それから約一週間が経った現在…。

春と八恵は水疱瘡に苦しんでいる。

体中に赤い斑点が出来ており、見ているだけでこちらがかゆくなりそうであるが、誰もが通る道である。

乗り越えてもらうより他はない。

春は体が真っ赤になり「かゆい、かゆい」と暴れるがどうしようもなく、気晴らしに外へ出ようとも思うが、台風直撃で出ようにも出れなかった。

「八恵が変なものを食べないように気をつけなきゃ」

道子はそう言うがゴキブリを越えるものはそうそうないだろうし、昨日も綿埃を「まんま」と言いながら食っている八恵を見た。

床に這いつつ見付けるものを食ってしまうのだからしょうがないのだ。

昨日の台風は大きい上に長かったが、幸いにも大した被害はなかった。

ただ、目の前の車庫が大きく揺れるものだから、

「ギャー! 怖いよー! 早く行ってー!」

叫ぶ道子は見物であり、それを画像で残さなかった事は俺の失敗であった。

去年は台風上陸数十個で過去最高らしいが、今年は何個上陸する事やら…。

それはよく分からぬが、毎日毎日、台風を遥かに超える確率で思わぬ出来事が去来する。

(明日は何が起こるやら?)

泣き叫ぶ春を絶叫のかたちで叱りつける道子を見、そう思うのであった。

 

 

阿蘇の春 (05/04/18)

 

「春眠暁を覚えず」というが、まさにその事であろう。

今週はむさぼるように眠りを楽しんだ。

早朝4時から文章を書くべく、夜は10時前後、遅くとも11時には寝るのであるが、今週は全く起きれなかった。

部屋の温度が0度を下回っている真冬日にちゃんと起きていた俺が、10度近くあるのに全く起きれないというのは合点がいかぬが、それが春眠の魔力であろう。

周囲の景色も春らしくなってきた。

三月下旬に野焼きが終わり、阿蘇五岳、外輪山、共に真っ黒になったわけだが、その黒味も徐々に薄れてき、裾野の方では緑が見え始めてきている。

吹く風の厳しさもなくなってきた。

福山家はカルデラのフラットな部分からちょっとばかり阿蘇五岳の方へ登ったところにあるのだが、その風の強さ、冷たさといったら冬場は並大抵のものではなかった。

俺の通勤路はその麓の緩やかな傾斜を7分ほど歩かねばならないのであるが、その7分で髪やまつ毛が凍るのである。

今では、その鋭いカミソリのような風が、頬をなでるような「でろん」とした優しげな風に変わってきた。

(春だなぁ…)

しみじみ、そう思う。

通勤路は短くはあるものの超絶景で、菜の花の咲き乱れる畑もあり、桜もある。

障害物が何もないものだから、阿蘇五岳が間近に見えるのはもちろんの事、反対側を見渡せば長大な外輪山が見えるし、その右手に目線を移せば今年話題になった凍る滝・古閑の滝が遠目に見える。

そうそう…。

俺がこの道を歩き始めたのは秋であった。

その頃はどの山を見ても茶色で、風が強い日などはススキが揺れるものだから、山が波打っているように見えた。

また、今年は雲海の当たり年で、三日に一回はカルデラに白い蓋が落とされ、通勤路は一寸先も見えない状態になってしまったわけであるが、ちょいと裏山(仙酔峡)に登ると青い空の下、白い絨毯から飛び出している外輪山を見る事ができた。

これは感動した。

雲を上から見るというのは飛行機においては退屈千万であるが、阿蘇の雲海は違う。

足元から白いそれがスゥーッと数十キロ離れた外輪山まで続いており、その外輪山の向こうにもう一つ白いのが見え、その先に久住連山が見える。(ダブル雲海というらしい)

景色で泣けるという事はなかなかないが、これには思わず涙してしまった。

ちなみに、前の日記や悲喜爛々でライダーハウスの事を書いたが、この広島出身の宿主は阿蘇の雲海を見た時、足が震えてどうしようもなかったらしい。

そして、それがキッカケで阿蘇に住む事を決めたらしく、現在は内牧温泉街の顔として、ラジオやテレビに出まくっている。

さて…。

そういった素晴らしい秋を経て、厳しい冬になった。

この日記の冒頭で書いたように起きた瞬間から氷点下、寒さとの戦いは寝起きから始まるわけであるが、通勤路には寒さの他に「滑り」という大敵がいる。

至るところに氷が張っており、白い帽子をかぶった山に見とれていると間違いなく滑って転んで失神という運びになる。

現に、俺はこの冬だけで十回はこけた。

膝まで雪が積もっている日も三日ほどあったし、吹雪いている日もあった。

が…、それは俺にとって、過酷というよりも新鮮で、

「うひょー、すげぇー!」

楽しみながら一冬を越えた感が強い。

また、雪が降っていなくとも霜柱が立っているので、アスファルトの道は歩かずに畑のあぜ道を歩き、足元からザクザク鳴らすのも楽しみの一つであった。

こちらは小学校時代の通学路を想わせる懐かしさがあった。

冬の山も素晴らしかった。

雪が降る度、周囲の山、その全てが純白になり数日をかけて溶けてゆく。

草原の部分が早く溶け、岩肌の部分はなかなか溶けない。

それは標高によっても前後し、最も近い山である高岳(1592メートル、憶え方は肥後の国)の雪は、それこそ最近になるまで溶けなかった。

同じ姿を一度たりとも見せない山に、俺は心底酔った。

また、この冬を通して二度だけであるが、阿蘇五岳が超間近に見える事があった。

阿蘇の景色にうるさい近所のスナック、そのママに聞いてみると、

「夕立で空気中のゴミが綺麗に洗われた後、山がハッキリクッキリ見える。でも一時間くらいすると普通の景色に戻る」

なるほど、二度しか目にしてないのも頷ける貴重な絵だったらしい。

阿蘇を象徴している山、根子岳もなかなか感動的な絵を見せてくれる。

この山は俺が向かっているパソコンの先にあるものだから、最も身近で観察しやすい山なのであるが、日の出と共にシルエットが浮かび上がる様はなかなかのものだ。

また、子供にもこの山が特殊だという事は分かるらしく、「ギザギザの山」という愛称で長女の春が愛してやまない。

また、「阿蘇の水が美味いのは裏山があるから」と教えていたところ、

「山ー! 美味しい水、あんがとー!」

娘が山に向かって叫んでいたのは感動した。

そうそう、叫んでいたといえば、

「おっとー、ギザギザのところが白いよー」

ある日、春がそう言うので外に出て見てみると、流れる雲がギザギザの部分で両断されているという珍しい絵がそこにあった。

それは熊手を雲に突っ込んだような絵で奇妙奇天烈、たった数分で雲は流れていったわけだが、なかなか見れるものではなく、以後、そういう雲は一度も見た事がない。

また、ギザギザであるという事は鳴門の海峡や西海橋と同じようなもので、流れる幅が急に狭まるものだから、その近辺では複雑な流れが起こっているようだ。

ギザギザに漂う変な雲を何度も見たし、登山者に聞くところ、ギザギザ付近では変な突風が吹くらしく、それで何百人という人が帰らぬ人になっているらしい。

そういった発見だらけの冬を経て春を迎えた。

山の色は秋の茶から冬の白に変わり、もう一度茶が見えたかと思うと、今度は春の訪れを告げる野焼きで真っ黒に変わった。

野焼きの時、それこそ雨霰のように黒い灰が降ってき、道子は、

「洗濯ができないよぉー」

そう愚痴っていたが、どの方向を見ても山がチロチロ燃えているというのは野焼き面積日本一の阿蘇ならではであろう。

また、この野焼きの前に火文字焼を広大な草原で行うのであるが、雨上がりで草が濡れいて思うように火がつかなかったらしく、「人」という字になったらしい。

世の中に足りない、もっと育ててねばならないものを阿蘇という大自然がさり気なく教えてくれたのではなかろうか。

さて…。

今日という日は四月の中旬にあたる。

野焼きを終えてから既に二十日以上が経過しており、山は低いところから緑色に変わりつつある。

冒頭で書いたように通勤路には春の匂いがいっぱいだし、風も生温い。

もうちょっとすれば山は真緑になり、避暑を求めた観光客が嫌になるほど阿蘇を訪れる事だろう。

そうそう、その前にミヤマキリシマが咲き乱れる。(五月)

俺は今年初めて見る事になるが、山の斜面がピンクに染まるらしい。

美味い水道水を飲んだ後、窓から根子岳を眺め、娘の声に耳を澄ます。

「おっとー、山が真っ黒になるのは緑になるためなんだよねー」

人は閉鎖的だが景色は開放的、そんな阿蘇生活も今月で七ヶ月目になる。

娘の中に見事な原風景が残ればいい。

(来年はどこにいるか…?)

それは俺にも分からないが、景色にだけはこだわりたいものである。

 

 

悶絶家族 (05/04/01)

 

「お腹が痛くて熱があるんだよー、早く帰って来てー」

道子からその電話があったのは3月23日の事である。

この時、俺は会社にいた。

残業をするべく申請書を出していたのであるが、急遽引っ込め、

「家族に不測の事態が起こりました!」

と、駆け足で帰った。

家までは徒歩7分。

歩きながら、

(そういえば、春も腹くだしてたな…)

その事を思い出した。

日頃は絶対に糞尿を漏らさない春であるが、この日は腹の調子が悪かったらしく、寝ている時に下痢便をたっぷりと漏らしたらしい。

「何やってんだよー、あんたはー!」

道子が鼻をつまんで掃除していた事も思い出した。

春はそれから腹痛が延々と続いたらしく、便所で大泣きしながら長い時間をトイレで過ごしていた。

俺はその騒がしい横で朝食を食い、その騒がしさから逃げる格好で会社へ出た。

道子は春にこう言っていた。

「ごっちゃんから貰ったアイスの食い過ぎよっ!」

数日前、関東から遊びに来てくれた後藤夫婦が持ってきた土産はアイスであった。

それもパーティーパックの高級アイスで、アイス好きの二人には小出しに食べるという事ができなかったらしい。

腹を壊す前日、むさぼり合うかたちで食べたそうな。

(ふふふ…、アイスで腹を壊す馬鹿母子め…)

どう馬鹿にしてやろうかとニヤニヤしながら家に帰ると、女三人は居間に布団を敷いて寝ているところであった。

「人生最強の下痢だよ」

道子は力ない声でそう言うと、

「う…、ううう…」

フラフラと蛇行しながら俺の前を通り過ぎ、便所へ駆け込んでいった。

春はどうやら復活したようで、

「おっかー、ずっとお腹いたいのよー」

俺がいない間、道子が唸っていた様を懇切丁寧に語ってくれた。

「人生最強の下痢」

道子がそう言うように、確かに、見た目にも辛そうであった。

ちなみに…。

道子の下痢症状は三日ほど続く。

まともに飯が食えなくなり、

「福ちゃん、見てよー! この辺がガリガリになっちゃったよー!」

人様に見せたくなるほど痩せてしまったらしい。

(アイスの食い過ぎで、こんな下痢になるものか?)

疑わしくはあったが、週末になると二人とも復活したので気にしない事にした。

が…。

その症状が俺に現れては気にしないわけにはいかない。

道子から遅れる事五日…。

猛烈な腹痛が俺を襲った。

ただ、道子と違うところは俺にだけ予兆があった。

二日くらい前から体調が崩れ始めた。

日曜にソフトバンクホークス開幕第二戦を見るべく、土曜から福岡入り(前会社同期の家に宿泊)した福山家であったが、俺だけどうも体調が優れない。

アルコールを控え、早めに寝る事で翌日はいい感じで野球観戦ができたのであるが、何か感じが違う。

疲れやすいし、手足や内臓の感覚が変なのだ。

野球観戦後、阿蘇まで帰るつもりで車を出したのであるが、上記の理由で運転が辛く、阿蘇まで帰る事を断念し、その晩は山鹿に泊まった。

翌日・月曜日は仕事なので朝は6時に山鹿を出なければならない。

「起きれるかねぇ?」

そのような事を言っていたのであるが、俺だけ、嫌でも起きなければならない事態となった。

その理由が猛烈な腹痛である。

「む!」

飛び起きた俺の形相は、夜討ちをかけられた武士のそれであったろう。

突発的な便意が闇夜に光るクセモノの刀、その光りを想わせた。

強烈な一刀であった。

が…、辛うじてそれをかわすと、次は反撃の番である。

「便所まで行けば俺の勝ちだ!」

尻を押さえ、忍者の如き摺り足で便所を目指した。

(遠い…)

阿蘇の家ならすぐそこの便所が、実家だと果てしなく遠い。

更に、便所へゆくまで「開ける」という動作が四回も必要で、そちらに力をもっていくと、腹に込めている力が分散され、隙を窺っているクセモノが、

「てやー!」

見事な一刀を打ち下ろしてくる。

気を抜くと春の二の舞・大噴射であった。

「むむむむむむむ!」

脂汗を垂らしながら便器に座り、一気に力を緩めた。

と、その瞬間、内臓までが飛び出すのではなかろうかという勢いで、全てが便所に飛び出した。

いつもと違う高い音で飛び出したそれは便器に穴をあけんばかりの鋭さで真っ直ぐ真っ直ぐ突き進み、ぶつかるや四方へ飛び散った。

「あぁー」

汗を拭いながらグッタリし、まずは堪えた自分を褒めたわけであるが、すぐに次の波が訪れた。

それからは地獄であった。

クセモノの登場、その時刻は午前四時。

それから便所に座り込む事約一時間。

ちょっとだけ布団に戻ったが、とんぼ返りでトイレへゴー。

後半は水しか出なくなり、肛門が燃えるように熱くなった。

道子が病中にあった頃、「人生最強の下痢」と語っていたが、

(確かに…)

そう思わざるを得ない下痢であった。

午前六時に下痢止めを飲み、山鹿を出た。

運転していた方が気が紛れるだろうと思い、俺がハンドルを握ったが、腹痛に気を取られて事故りそうになり、道子と運転を代わった。

後部座席で八恵の顔を見ながら悶えた。

辛過ぎる阿蘇までのドライブであった。

阿蘇へ着いたのは七時半くらいだったろう。

出社までは40分ほどあり、その時間を便所や布団で過ごしたわけだが、腹痛は時間と共に勢いを増し、下痢の色も変になっていった。

「駄目だ…」

こんな状態で出社しても何の役にも立つまい。

仕方なく出社を諦めたわけだが、道子は横で、

「会社休むにしても、その状態を見せないと駄目だよー! 福ちゃんは信用がないんだから電話で腹が痛いって言っても仮病だと思われるよー!」

そう言っている。

確かに、俺と上司の間にある信頼関係は極めて薄い。

俺の挙動が社風(社会?)に合わず浮いているのが問題だという事は分かっているが、痛いものは痛いのだからしょうがない。

仕方なく欠勤申請の電話をかけた。

「すんません。ジョイフルの看板みたいな色の下痢が止まらんとです。午前四時から止まらんとです。下痢は勢いが良過ぎて便器にあたって跳ね返り、外に飛び出してくるほどです。だから、本当に休ませてください」

涙交じりの嘆願をした。

ちょうど仕事が忙しい時期で、更に今月は娘の手術で二日ほど休んでもいる。

電話の向こう側は明らかに怒っている風であったが、

「仕方ない。きちんと病院へ行き、その原因を報告するように」

明らかに信用されてない了解をもらった。

電話後、俺は崩れ落ちた。

(寝なければ…)

そう思い布団へ潜り込んだが、腹の痛みは引かないし、子供らはうるさい。

「春ー! オットーの上に乗っちゃ駄目! おっとーは病気だからねー!」

叫ぶだけで暴れる娘を止めようとしない道子の声もうるさかった。

「おっとー遊ぼうよー」

「今日は、だ、だめ…」

「じゃ、おっとーのお腹で寝よー」

「ぐえっ、やめて…」

心も体も休まる暇はなかった。

とりあえず道子の流れでいくと、この下痢が三日以上続く事になり、それは困るので、近くの大阿蘇病院というところに予約を入れた。

月曜で混んでいて三時間以上待つという。

家で待っていても良いという事だったので時間まで待ち、ギリギリの時間に病院へ足を運んだ。

病院では採血をし、その間、結果が出るまで点滴をうった。

家では37度ちょいしかなかった熱が、いつの間にか39度近くまで上がっていた。

「下痢で水分が不足しているから熱が上がっている、フラフラするのも水分が足りないから」

医者はそう説明してくれた。

点滴は二本、二時間弱をかけ、ゆっくりと流し込んだ。

点滴は効果覿面で、それが流れ終えると明らかに気分が良くなった。

診断はウイルス性の腸炎で、それが食べものからきたものか伝染病(風邪など)からきたものかは分からないらしい。

とにかく、悪性の菌が腸にゆき、体がそれを出そうとして猛烈な下痢になったそうな。

「綺麗な台所でつくった消化の良いものを食べてください」

医者は「消化に良い食べもの一覧表」を俺に渡すと、

「アルコールは今週いっぱい控えて」

そう言い残し、次の患者のところへ行った。

さて…。

家へ戻ると時刻は午後4時を回っていた。

「遅いよ、福ちゃーん!」

プリプリしながら診断結果を聞く道子にウイルス性の腸炎だと説明し、

「台所が汚くて家族全員下痢になった可能性もある」

そう言うと、

「それは絶対ないよー! 間違いなく風邪だよー!」

道子はそう言いながらも俺の目を避けるように台所を掃除していた。

何か思い当たる節でもあったのだろう。

ちなみに…。

この翌日から俺は普通に飯が食えるようになった。

道子は三日も飯が食えず4キロ近く痩せたらしいが、俺の体重には何の変化もない。

むろん、酒もその翌日から飲み始めている。

会社は今、歓送迎会の真っ最中である。

腸の次は肝臓に気をつけねばなるまい。

 

 

八恵の入院 (05/03/21)

 

3月7日から次女の八恵が入院している。

その詳しい内容に関しては半年以上書き続けている悲喜爛々44、そのクライマックスで書きたいと思うが、とりあえず二度目の入院をした。

期間は、

「一ヶ月くらい」

という話で、その内容は前一週間が手術のための準備、後三週間が術後の経過観察という話であった。

が…、3月15日、

「大幅に方針を変更する」

手術の前日であるが、担当医からその話があった。

病状を詳しく書いてしまうと悲喜爛々44で書く事がなくなってしまうので割愛するが、どうも生後数日の八恵と七ヶ月目の八恵では病気の感じが違うらしい。

入院している間、色々と調べていくうちに、

「ハッキリとは言えないが、そう感じた」

らしく、

「次の手術では新たに診断を出すための材料を取ってきたい」

そう言うのだ。

担当医はこの病気に関しては名医と呼ばれる人物で、九州で彼の右に出る者はいないらしい。

また、

「広く意見を聞きながら判断していく」

それが担当医の方針らしく、八恵の事に関しても、前のデータと今回のデータを友人の医者達に送り、話し合って今回の決断をしたらしい。

「生まれてすぐの状態ではどうしようもなかった事が七ヶ月という時を経て何とかなりそうな状態に近付いているのかも?」

という話で、こういう事例は極めて稀だがあるにあるらしく、その事を確信に変えるため、今回の手術内容を変更したいというのだ。

むろん、親である俺と道子は担当医に全てを任せているわけだから二つ返事で了承した。

ちなみに…。

道子は「八恵の付き添い」という事で入院しなければならない。

現在、全国の小児病棟のほとんどが、

「生後一ヶ月以上の子供には親が付き添わねばならない」

そういう流れになっているらしく、その発端は親がうるさ過ぎるという事にあるらしい。

確かに…。

八恵の一度目の入院は埼玉の総合病院だったのであるが、そこは付き添う必要がなく、俺と道子からすれば楽だったのであるが、ある親は、

「俺達がいない間、うちの息子を泣かせっぱなしじゃなかろーな? 手荒く扱ってないだろーな?」

看護婦を怒鳴っていた。

あれじゃ病院はたまらないだろう。

こういうご時世、人様の子供の扱いというものは非常に難しく、病院の言い分、

「終日付き添いをお願いします」

これはもっともなように思われた。

そういうわけで、3月7日から道子と八恵は入院、俺は阿蘇で仕事、春は山鹿の実家に預けるという流れになった。

久々に一人暮らしをした。

毎朝、起きるや冷凍飯を食い、インスタントラーメンをすすった。

茶碗は洗わず使い回すようにしたが、次第に茶碗と接触している部分だけ変な味がするようになり、家ではカップラーメン以外食わないようになっていった。

洗濯もするわけがない。

週末、実家へ持っていく事で対応した。

風呂は近くの温泉。

残業で遅くなった晩は入らなかった。

布団は敷きっ放し、徐々に湿っぽくなっていくのが分かった。

カーテンも開けたら閉めねばならないので一度も開ける事はなかった。

近所の人は俺が嫁子供に逃げられたと思ったらしく、

「福山さん、最近静かですね」

聞き難いが聞きたい、その姿勢を全面に押し出しながら詳細を聞いてくる始末。

目線を移すと強風で転がった子供の滑り台が家の前で埃をかぶって転がっていた。

(嫁がいない家というものはこんなに荒れるものなのか…)

まさにその事で、散らかっているわけではないのだが、何となく荒れた感じが漂ってきた。

が…、そういったものはオマケみたいなもので、最も困ったのは、

(寂しい…)

その事である。

思春期の少女以上に寂しがり屋だと自負する俺は、まず会社の行き帰り、その寂しさに身悶えた。

「おっとー、早く帰ってねー!」

春の声に後ろ髪を引かれつつ出社というのが常だったのに、誰の声もしない。

また、静かな静かな阿蘇の夜、会社から帰ると家に灯はなく、

「おかえり、おっとー!」

迎えてくれる声もない。

ただ静かな家に無言で上がり、無言で電気を点け、無言でパソコンに向かい、無言で冷凍食品を食う。

寂しがり屋には耐えられない音のない世界であった。

耐え切れず家を飛び出し、泊りがけで酒を飲んだ事もあった。

するとどうだろう、寂しさから開放された俺は午前四時まで深酒をし、うっかり遅刻してしまったではないか。

「どうした、福山ぁ?」

上司から問い質された俺は、

「健全な精神は健全な家庭が与えてくれるという事を知りました」

そう答えるより他はないのであった。

さて…。

荒んだ生活一週間半が過ぎたその日、手術があった。

むろん、会社は休み、その翌日も休みをもらっている。

手術前日、冒頭で書いた方針変更の説明を受けた俺は春の待つ山鹿へゆき、春と風呂へ入り、春と二人で寝た。

「オットーがおらんで寂しかろ?」

聞いてみると、

「寂しないよー、オッパイビョーンばーちゃん(恵美子の事)と遊んでるのー」

春は最も親を恋しがる時期にも関わらず、親が恋しくないという。

恵美子に聞いてみても、

「ぜんぜん親ば恋しがらんけん楽よー」

ちょっとは俺や道子に気を使えと思うが、事実、寂しがる事はなかったらしい。

春と話そうと阿蘇から電話をかけた事もあったが、

「話さんよー!」

電話に出ないと叫ばれた。

(親とは何ぞや?)

パッパカパーの春を見ていると、春との思い出が走馬灯のように思い出され、異様に悲しくなるのであった。

手術の朝は春と二人で山鹿を出た。

手術は午前九時からで、俺と春が病院に着いたのは十分前。

病室に走っていくと八恵も道子もおらず、既に手術室へ行ったという。

「しまったー!」

春を抱えたままダッシュで階段を下り、手術室前で白衣を着た若造を捕まえ、

「八恵の父親です。まだ手術は始まってないはず。会わせて下さい」

お願いした。

若造は八恵の名をフルネームで確認すると手術室へ入り、困った顔で帰ってきた。

「確かに九時から手術になってますが、まだ来てませんねぇ」

「そんな事はない…、はずですが…」

病室は既に出ているのだ。

いくら熊本で一番大きな病院だといっても、迷う事はなかろう。

どうしようもないので手術室の前で立ち尽くしていると次から次に患者が通ってゆく。

「頑張ってね! 頑張ってね!」

親族であろう付き添いの人達が大きな声で患者に向かって叫んでいる。

(これをしたい! これをせねばならないのだ!)

目頭熱くそういう光景を眺めていると八恵が現れた。

大きなベッドに寝かされており、その横に道子が付き添っている。

「何で、ぎゃん遅かったっや?」

「エレベーターの順番待ちだったの」

手術室は幾つもあり、その手術の時間が重なるのは朝一だけ。

その事によりベッド用エレベータに待ちが発生したらしく、それで遅れたらしい。

八恵はパンツ一枚になっていて、薄い布がかけてあった。

俺は春を抱きかかえ、

「ほら、八恵が頑張るぞ」

八恵の姿を見せてやった。

春は最近、八恵の写真を見るたびに、

「ちっちゃいのに手術、かわいそねー」

顔をしかめつつ、そう言う。

この日もそれを言った後、

「八恵ちゃん、がんばれー」

元気な声で妹を送り出していた。

むろん、俺と道子も、

「八恵ー、頑張れー」

エールで送り出したわけだが、八恵が白い顔をこちらに向け、透ける様な笑顔を見せたのはまいった。

今回は大手術ではない。

大手術ではないが、手術という響き、そして手術室の雰囲気、それらは俺や道子の気持ちを異様に盛り上げた。

暗い暗い闇の中へ吸い込まれていく娘が放った極めて透明度の高い笑顔。

俺と道子は崩れ落ちるしかなかった。

「君の笑顔は百万ボルト♪ 地上に降りた最後の天使ー♪」

場に合わないアリスの歌が頭の中に流れた。

ちなみに…。

娘が見えなくなった瞬間、漂っていた緊張感は風に舞う塵のように吹き飛んだ。

「お菓子ちょうだーい!」

春が暴れ出したのだ。

「お菓子はない」

道子が言うと、

「あるー! あるよー! どこかにあるよー! ギャー! 」

春は転がって泣き始めた。

(二歳児というのはなぜこうも切り換えが速いのだろう?)

ふと、その事を思った。

「オットーがいないと寂しいよー」

そう言っていたかと思えば実家へ一週間預けても「オットー」の「オ」の字も出ないし、八恵の事を心配していたかと思えば、その次の瞬間、猛烈に菓子を求め出すし…。

感情や欲望が口や体に直結されていて、思った事を何のフィルターも通さないまま表に出してしまうのだろう。

さて…。

手術時間は二時間ちょいだったろうか。

手術室に呼ばれ、道子と共に行ってみると切り取った八恵の腸が見せられ、細々とした説明があった。

説明はありがたいが、今はどうでもいいし、よく分からない。

「結局、手術は成功だったのですか?」

聞きたかったその事をダイレクトに聞くと、

「成功か失敗かと言われれば成功です」

そういう返事であった。

これから何度この緊張感を味あわねばならないかは分からないが、とりえず二回目を無事終えた事は正直嬉しい。

山鹿から富夫と恵美子も駆けつけていたので皆で喜び、皆で八恵を迎えた。

八恵は麻酔が残っているのだろう、目がとろりとしており、最初はギャーギャー泣いていたが、すぐに眠ってしまった。

安らかな、実に安らかな寝顔を見届けた後、道子と八恵を残し、俺達は病院を去った。

さて…。

次に道子から連絡があったのは手術の二日後である。

「土曜に退院だって」

道子はそう言った。

手術の方針が変わったので退院が早くなるとは言われていたが、こんなに早いとは思わなかった。

(荒んだ生活から数日後には抜け出せる!)

その喜びに打ち震え、

(阿蘇の家に音が戻ってくる!)

そう思うとスキップせずにはいられなかった。

「土曜の昼には迎えに行くけんね」

そう言って電話を切ると、今度は春から電話があった。

春の声は涙に濡れていた。

「オットー寂しいよー、阿蘇に行きたいよー、迎えにきてよー」

手術中ずっと遊んであげたのが効いたらしく、「阿蘇に帰りたい」と泣いているのだ。

困り果てた恵美子が電話をかけてきたのだが、これが逆効果だったらしく、その後も泣きじゃくったらしい。

「オットー寂しいよー、オットーと遊びたいよー」

感情直結・娘の言葉は俺を泣かすにじゅうぶん過ぎるエネルギーを持っていた。

飾り気のない真っ直ぐな言葉というものは色こそないが重く鋭く、奥までよく突き刺さる。

(子供に学ぶ事は多い…)

月並みではあるがまさにその事で、つい枕を濡らしてしまった。

さて…。

道子と八恵の退院の日、俺は仕事であった。

八恵の手術で二日ほど会社を休んだ事が効いて、前日には午前様まで仕事をしたのであるが間に合わず、結局、休日出勤になった。

「申し訳ないが」

という事で、急遽、恵美子へ病院に行ってもらい、山鹿へ連れ帰ってもらうようお願いしたところ、春が「阿蘇へ帰る」とダダをこねているらしい。

しかも、そのダダのこね方がなかなかどうしてツウなこね方で、山鹿の水を飲み、

「阿蘇の水の方が美味しいよー」

そう言ったらしい。

結局、俺が仕事をしている間に恵美子が阿蘇へ家族を運んできてくれた。

仕事が終わるや、

「オットー!」

叫ぶ春を抱きかかえ、ご近所の人たちに、

「家族に逃げられたんじゃありませんからねー」

アピールするべく庭で遊び、夜は道子手製の鍋を食べた。

本来ならすぐにでも退院祝いの旅行に行きたいところであるが、術後の八恵がいてはそれもなるまい。

阿蘇近辺でゆるりと休日を過ごした。

さて…。

八恵と道子の入院は今後も続く。

俺が一番辛いと思っているが、親族にも負担をかける。

申し訳ないがどうしようもないので甘える事にし、家族の難を色々な人の力を借りて乗り越えていきたい。

ちなみに…。

入院生活で母親に甘え続けた八恵は完璧に母っ子になっており、道子がいないと泣き出すようになった。

今回の事は家族の絆を深める絶好の機会であったが、八恵が母オンリーになってもらっては困る。

俺は父親として面白い踊りや芸を模索し、

(父親の存在を示さねば…)

そう思った連休明けの朝であった。

今日は会社から片道四時間弱、天草は苓北に出張。

恐ろしい事に日帰りで、七時前に会社を出るのだが戻りが何時になるのやら。

裏山の阿蘇五岳に目を移すと、雪がやっと溶けた。

昨日は野焼きで山が燃え、今日の朝は五度もあった。

福山家にも春が戻ってきたが、阿蘇にも春が訪れたようである。

 

 

大寒波到来 (05/02/03)

 

1月31日から2月1日にかけ、日本は大寒波に覆われたようだ。

鹿児島より南の島々でも雪が降ったらしい。

それで、俺が住む阿蘇はどうだったのかというと…。

猛吹雪であった。

俺が目覚めたのは2月1日の午前四時半だったが、目覚ましの音でなく、風の音で目覚めた。

阿蘇五岳から吹き降ろされる風は狭い平地で渦を巻き、福山家の外壁に容赦なくぶつかってきたようだ。

カーテンをチラリ開けてみると、窓一面に白いものがこべり付いており、その窓はカチカチに凍っていて開かない。

(外はどぎゃんなっとるとか…?)

かなり気になったが、時刻は午前五時前である。

強引に窓を開けたとしても暗くて何も見えないだろう。

日が出るまでのお楽しみという事にし、パソコンに向かった。

が…、俺の脳ミソは一つの事しか集中できない性質らしい。

外乱に気を取られ、執筆は全く進まなかった。

ブンブン、ゴゴー!

猛烈な風の音は絶え間なく続いていて、

「早く外に出てごらん! 凄いよー、凄い事になってるよー!」

風がそう言っているようにも聞こえてくる。

旅行が趣味なので吹雪が初めてというわけではないのだが、自分の家でそれが見れるとは夢にも思っていない。

「しょうがないなー」

凍っている玄関を強引にこじ開け、ちょいと外に出てみた。

玄関が開いた瞬間、猛烈な風が吹き込んできた。

その風に白いものがたっぷり混じっている。

「むーん! たまらん!」

外に出てみた。

足元にはフカフカの雪が30センチほど積っており、その雪は上から下でなく、真横に流れている。

家の前は信号のある交差点で、夜だから点滅信号なのであるが、その目の前の光さえも吹雪に阻まれボンヤリとしか見えない。

20秒ほど外にいただろうか。

明るいところへ戻ると、体の右半分に雪がこべり付いていた。

(こりゃ会社は休みになるぞ…)

熊本県の常識として、凍結の日や大雪の日は交通機関が麻痺する。

会社の人間の八割くらいは阿蘇外の人間だから出勤できなくなるだろう。

(今日の仕事は春と遊ぶ事になりそうやね…)

そう思うと執筆が手に付かなくなり、結局、それからの時間もダラダラ過ごした。

日は午前7時くらいに昇った。

期待に胸を躍らせつつカーテンを開け、窓にこべり付いている氷を削ってみると、そこには白銀の世界が広がっていた。

が…、俺の知る白銀の世界とは違うもので、横に積もっているし、積雪のバラツキが多いように思われる。

すぐそこに倉庫が見えるのだが、その倉庫の側面に20センチくらいの厚みで雪がこべり付いている。

また、障害物のない場所には大して積もっていないのだが、風のぶつかる場所には見事な風紋を描いた白いものがこんもりと積もっている。

「ほう、ほう、ほう」

その物珍しさに興奮していると家族が起きてきた。

「春ー、今日は遊べるぞー!」

「雪だるま作れるの?」

「作れる、作れる!」

「やったー!」

俺の中では「会社はない」という事で決定している。

「こんな吹雪の中、熊本の人間が車を運転できるわけがない」というのが俺の定説であった。

遅くとも7時半くらいには電話があり、

「今日は臨時休業」

その連絡があるはずだ。

が…、待てど暮らせど電話はない。

ふと、耳を澄ますと、少なくはあるが前の道を車が通り始めた。

凍った窓から仙酔峡道路に目線を移してみると、雪で路肩が分からなくなっているのだが、その道をシャンシャンいわせながらチェーンを巻いた車が通っている。

なんと小学生も普通に通学しているではないか。

長靴をズボズボ雪の中にぶち込みながら楽しそうに歩いている。

(そりゃ楽しかろう…)

こういう時の通学路は小学生にとって天国に違いない。

それは俺の通勤路にとってもいえる事なのだが、社会人で長靴通勤はどうかと思われる。

ネクタイと長靴という組み合わせも極めて不自然である。

だが、臨時休業の連絡がない以上、行かねばならない。

普通の格好で家を出た。

歩いてみて分かったのだが、雪は北海道のそれのようにサラサラであった。

(これなら汚れずに歩ける)

そう思ったのだが、膝上まで雪が積もっていて、そこに足を踏み入れると何の抵抗もなく突き刺さり、ズボズボズボズボ歩いてみると、あっという間に足元はビショビショになった。

通常、通勤にかかる時間は7分だが、この日は10分強かかった。

ちなみに、側溝に2度も落ちた。

全てが雪で覆われている以上、記憶を頼りに歩くしかないのであるが、いかにその記憶が曖昧であるか、その事であろう。

職場へゆくと、阿蘇に住んでいる者以外、誰も出勤していなかった。

案の定、国道は大渋滞だったようで、人によっては坂を登りきれず、車を乗り捨て電車で来たそうである。

遅刻者続出であった。

この日…。

俺は図面を書き上げるのが仕事であった。

モニターの先に外輪山を眺める窓があり、そこには外輪山こそ映っていないが猛烈な吹雪が映っている。

目の前は障害のない草原のため、その凄まじさがハッキリと分かるのだ。

職場である生産事務所は工場の離れになっていて、工場へゆく際は屋根のない渡り廊下を歩かねばならない。

その廊下に厚い雪が積もり、雪かきをしてもアッという間にまた積もる。

来る人、来る人が転びそうになったり、本当に転んだりするものだから、そちらも見なければならない。

頭の中は大忙し、図面を書いているどころではなかった。

事務所へ来る人は声を揃えて言う。

「ここへ来るにはカンジキがいるばい」

まさにその事で、話す話題は雪の事ばかり。

俺だけでなく会社全体が仕事をやるような雰囲気ではなかったように思う。

北国では当たり前の雪も、九州でこれだけ降れば大事件。

「目の前で殺人事件があったと考えてみろ? 死体の横で仕事ができるか?」

皆、その事であったろう。

吹雪は午前11時くらいがピークだったと思う。

昼になると弱くなっていったのだが、午後からも吹雪くという。

「帰れるのか?」

遠方から来ている人は口々にそう言っていたが、それは会社の上層部の思いでもあったようだ。

昼飯を食い、少しばかり仕事をした後、

「1時45分で今日の仕事は終わり! 帰りなさい!」

その通告があった。

明日の出勤は午後1時45分で、つまり丸一日を臨時休業とし、その振り替えとして今週土曜を出勤日とするらしい。

俺の家は会社から誰よりも近かったが、一番に帰った。

1時50分には正門を出、2時前には家に着いた。

「春ー! 遊ぶどー!」

靴にビニールを巻いて雪対策をし、ソリを持ち出した。

春は生意気にも、

「しゅん君と遊ぶー!」

俺と二人で遊ぶより、近所に住むボーイフレンドと遊びたいと言い出したため、一緒に迎えにゆき、三人で遊んだ。

20分くらい遊んだ頃であろうか、

「寒いー! 寒いよー!」

突然、春が暴れ出し、親である俺とボーイフレンドであるしゅん君を残して家の中へ入っていった。

さすがにしゅん君は男の子、春とは段違いの強さを見せ、果敢に雪の中へ突っ込んでいたが、そのしゅん君も、

「寒いよー!」

それから数十分後には暴れ出し、結局、一人で遊ぶハメになってしまった。

もうすぐ28になろうとしている大人が一人で雪遊びは寂しい。

孤独感に耐えられず、結局、俺も家へ戻る運びとなるのであるが、

「子供は風の子だろ?」

軟弱な子供達に「喝」であった。

ちなみにこの晩…。

「外にテーブルを出し、雪見酒をしよう」と提案するも、道子により却下。

近所に住む同僚・山本君と鍋などを突っつきながら静かな夜を過ごした。

翌朝は春と一緒に雪を掻き分け温泉へゆき、ゆるりと過ごした後に出勤。

温泉へ入ってから仕事というのも乙なもので、

(今度は忙しい時に半休をとってやってみよう…)

そう思った。

雪は昨日の昼から溶け始め、夕方にはガチガチに固まっている状態であった。

徒歩通勤からすれば、この状態が最も怖い。

(カンジキ、もしくはスノーシューズを買わねば!)

その事で、2月2日の夜もかなりの雪が降ったようだ。

窓を開けるとそこは銀世界。

まいった。

今日も仕事をする気が起きないだろう。

 

 

2005年の福山家 (05/01/12)

 

道子の倹約がだんだんと手荒くなってきた。

今日は夫の嘆きを聞いて欲しいと思う。

俺が「小遣いなし」になって、既に一年半以上が経過している。

「無職の間はしょうがない」という理由であったが、職に就いてもそれは変わっていない。

「削るのは簡単だが増やすのは困難」

どうもそれが理由のようで、

「残業代を俺の小遣いとするってのはどうや?」

提案したが無視された。

その代わり、

「これ以上、貯金が減るのは見てられないよー! 貯金ってのは増えるもんだよー!」

道子はそう言っている。

意味が分からない。

ま、嫁が浪費家では困るので、かなり前向きに考えれば良い方向なのかもしれぬが、

「倹約のメスが、ちょっと違うところに入っているのではないか?」

その事を疑わざるを得ない。

道子が入れるメスは、まず夫から入る。

俺の小遣いはスタートの四万円から一年後には二万円、子供が産まれて一万円、その後なしという流れを辿り、それから回復の兆しを見せない。

それでも飲み会などがある時にドーンとくれるのであれば、何の文句もないのであるが、

「えー、二次会まで行くのー、じゃあ四千円ね」

二次会まで含め四千円では納得できない。

そもそも俺は物欲が薄く、

「金は思い出に昇華させたい」

それが基本姿勢のため、服などは一切買わず(弟のお古を着ている)、全てを酒や旅行に使いたいのであるが、それらはかたちとして残らないため、道子に言わせればもったいないらしい。

もったいないといえば、つい先日、近所の旦那さんとも話したのであるが、

「日常的に使うものを切り詰めればいい! 嫁はもっと足元を見るべきだ! もったいないは足元にこそ多い!」

その事で、夫にばかり大胆なメスが入っているが、足元を見れば灯油が垂れ流しである。

湯はごいごい使っているし、ストーブも点きっ放し。

今日だって八恵が泣いていたので、

「おい、道子」

隣で寝ているはずの道子に声をかけたがおらず、隣の部屋でストーブ、コタツ、テレビを点けた状態でゴロリ熟睡中であった。(午前1時)

「節約、節約」

そう言われても、言ってる本人がこれでは、

「メスの入れ方が違うのではないか?」

夫の不満も仕方なかろう。

ちなみに、うちの嫁の凄いところは俺だけでなく、俺の友人にも節約を求めるところにある。

遊びに来た友人が、

「寒い、ストーブを点けてくれ」

そう言ったのであるが、

「まだ大丈夫」

そう切り返し、

「それは俺達が言うセリフだろー」

突っ込まれていた。

これには友人達も唖然としたようだ。

また、つい先日、ホームセンターに行った際、道子が広告の品のミルクを穴が開くほど眺めていたので、

「まさかと思うが、義母さんが来る日を考え、自分で買うべきかどうか迷っているわけじゃなかろうな?」

今月は埼玉から義母さんが来る予定なので、もしやと思い、その事を聞いてみると、

「何で分かるんだよー? 福ちゃん、エスパー?」

そう言われてしまった。

ちなみに道子は前述のようにケチではあるが、食に関してはパーッと使う傾向があるようだ。

休日の昼飯は当然のように外食か弁当と思っているようだし、近所の焼肉屋に行けば高い肉ばかりを頼む。

使うところには使う、ケジメのあるケチなのだ。

その事を踏まえ、

「節約するのはありがたい。ありがたいが、酒だけはその対象から外してくれ」

昨晩、懇願してみた。

すると、

「焼酎もビールもちゃんと飲ませてるじゃーん! 発泡酒じゃなくてビールだよー!」

道子は口を尖がらせ、そう言ってきた。

確かにそう、俺は現在、発泡酒でなくビールを飲んでいる。

が…、それは、

(うちで買ったものでなく、貰い物だろ…)

そう、お歳暮として貰ったもので、更に焼酎も貰い物であった。

書いていて悲しくなってきた。

夫の嘆き、その、もう一点であるが、道子の遅さに磨きがかかってきた。

この「遅い」という点に関しては、引越しの時の日記にも書いたし、道子を知る人は「あー」と言ってくれるのであるが、最近は凄まじいものがある。

つい先日、近所でどんどや(火を燃やして餅を食う、冬の行事)があったのだが、

「11時に火があがるんだって」

道子は役場に電話をかけて調べ、

「じゃ、煙が上がったら行くぞ」

窓から煙の上がるのを待ち、上がるや家を飛び出したのであるが、道子はそれから十五分も準備に時間を要した。

当然、着いた時には火も弱々しくなっており、春でさえも、

「なにやってるかー!」

怒りを露わにしていた。

11時という時間を調べたのは道子であるにも関わらず、11時過ぎに準備を始める道子。

何を考えているのかよく分からぬが、本人が言うに、

「しょうがないよー、私だもーん」

らしい。

とにかく、

「間に合わないよー! 待ってよー! もー女には色々と仕事があるんだからねー!」

これが家を出る前、道子が必ず発する言葉で、これがために何か対策を打とうという気は毛頭ないらしい。

もう一点。

長女の春が可愛い盛りを迎えている。

これ以上の可愛さはありえないと思うので、あえて「盛り」と書くが、本当に可愛い。

「おっとー仕事行くの寂しいなー、仕事辞めていいよー」

そう言われると、

「いらん事を言うんじゃないの! おっとーは本当に辞めちゃうんだから!」

隣で叫ぶ道子の声など聞こえなくなり、本当に辞めたくもなる。

そうそう…。

怒鳴る道子の声に昔の面影はない。(知ってる人は知ってるが、付き合いたての頃、道子はおしとやかだった)

「何やってんのー、馬鹿ー!」

「春っ! あんた食い物のことばっかり言ってると外に出すからねー!」

この怒鳴り声、最近は俺にも飛んでくるようになった。

「焼酎ばっか飲んでないで八恵ちゃんを抱っこしてよー、もー!」

「子供が三人いるみたいー、もー!」

おかげで春の口癖が「なにやってるかー!」になり、何かあると「もー」と叫ぶようになった。

この道子の熱を受け、八恵の泣声にも力が出てきたように思う。

当然、女三人が騒ぎ出すと、家の中は凄まじい状態となる。

会社が終わり、歩いて帰っていると、仙酔峡道路にこの女三人の声が響き渡っている。

幸せとはこの賑わいを指すのかもしれないが、渦中にいると分かり辛いものだ。

ただ、近所の人に、

「いつも賑やかで羨ましいです」

そう言われた時、

(うんうん、俺はいい家に住んでいる…)

少しだけその事が実感できたように思われる。

大黒柱が小遣いなしの福山家は今日も賑やかにゆく。

ビールの残りは後一本、明後日からは発泡酒になるだろう。

道子がこの日記をどう捕らえてくれるか、少しだけ楽しみであり、恐ろしくもある。

 

 

2004年から2005年 (05/01/05)

 

阿蘇への引越しを終えたところで日記が終わっている。

それからの事をたらりと書き、2004年を振り返ってみたい。

10月23日…。

この日が引越しの日である。

その翌週、10月30日には徒歩旅行の時に世話になった波野村のやすらぎ交流館に家族で礼を言いにゆき、その翌日は地元の祭りを見に行っている。

波野村はニュースというものによほど飢えているのであろう。

挨拶へ行っただけなのに、

「徒歩旅行の青年・完歩の報告に来る!」

そういう見出しで地元の新聞に載せてくれ、うちの家にも郵送してくれた。

それから…。

たらりたらりと客を迎える週末が年末まで続いている。

手帳を見てみると、引越し前と後で、明らかに出来事の密度が違う。

また、就職前と後でもその密度の違いは明らかである。

まず、(当たり前の事だろうが)ウィークデーにサラリーマン的な仕事が入ったため、平日があっという間に過ぎてゆくようになった。

朝は早くに起き、文を書いたりして早々に出社。

帰りは早い事も遅い事もあるが、飯を食い、少しばかりの酒を飲み、子供二人を風呂に入れたら寝る時間になってしまう。

この繰り返し。

(早い…、人生が駆け足で進んでいる…)

まさにその感じで、就職してからの四ヶ月間は、時間の感覚が無職期間の一ヶ月にも満たないのではなかろうか。

が…、家族と長い時間離れていた事もあり、この四ヶ月、それを取り返すべく、たっぷり触れ合えたとは思う。

ほぼ毎週、裏山の仙酔峡に登ったし、近所の農場にも頻繁に出かけている。

ご近所の観光地・イベントには、ほとんど顔を出したのではなかろうか。

そうそう、遅い報告になってしまうが、今年選んだ「阿蘇」という居住地には大変満足している。

風光明媚は言うまでもなく、また、観光地であるため遊ぶところに困らず、年中、何かしらのイベントをやってもいる。

食い物が(特に肉)美味いのも魅力の一つで、大好きな温泉も数え切れぬほどある。

住むには最高の環境ではなかろうか。

ただ、鬼のように寒い。

こんなにも早起きするのが辛い環境はなかろう。

ちなみに…。

平日を預けている会社であるが、規模は200人くらいの会社で、そのほとんどが熊本の人間である。

驚くほどマジメな会社で、

「会社には早く来て長く居よう」

そのような風土が培われており、現場(工場)は昼以外の休憩時間がない。

体操や掃除の時間が定時外に設定されているのも特殊な一例ではなかろうか。

ただ、景気はいいようで、残業代はきちんと払ってくれる。

服装はネクタイ着用の上に作業着という格好で、それでフライスやら何やらの加工機も扱わねばならない。

また、以前の会社では配線やら加工やらは他の人がやるという仕組であったが、さすがに所帯が20分の1にもなれば、やる幅がグッと広がる。

設計、加工、配線、立ち上げ、

「何でもやる!」

というスタンスが定着しており、これは勉強になった。

また、前会社の時、中途で入ってきた人や派遣社員の人が、

「途中から入るってのは大変よ…、特に人付き合いが…」

そう言っていたが、

(なるほど…、この事か…)

それがよく分かったのも貴重な経験の一つであろう。

話が脱線した。

今年の正月であるが、うちの会社は29日から休みで、その日に中部・関東からの客を四人迎えている。

ちょうど前の日に大雪が降り、たっぷり10センチ積もってくれた日に訪れた四人は、子供と大いに遊んでくれ、疲れるだけ疲れて帰っていった。

その中に中川太陽という男がいたのだが、その男、酒の飲み過ぎでなく、肉の食い過ぎで吐いた。

(大人か? こいつ?)

その事を疑わざるを得ない非常に珍しい絵であった。

数日前に長女の春がケーキの食い過ぎで吐いたばかりだったので、

「たいよーしゃん、はむといっしょ」

娘がそう言っていたのも笑えた。

ちなみに、この正月休みの間、もう一度、大雪が降っている。

大晦日31日で、山鹿は積もらなかったが阿蘇や山間部では大いに積もったようだ。

元旦には毎年恒例の日本一の石段(3333段)を登り、粉雪の舞う中、初詣をしている。

今年は(たぶん二月くらいになるだろうが)次女・八恵の手術がある。

念入りに参り、賽銭には100円を投じた。

毎年恒例といえば、石段の後に太陽の家でやる小宴会も毎年恒例行事で、石段には登らず、友人宅で寝ていた家族も太陽の家で世話になった。

雪道で車が登らず、車を乗り捨て、歩いて太陽の家に登るなどは初めての経験で、春も大いに喜んでくれた。

そうそう、日本一の石段もほとんどが凍り付いてて、普段の倍近い時間がかかった事を報告しておく。

ちなみに…。

俺が生まれてから一度も変わらず続けられていた元旦の年始会が今年は取り止めになった。

理由は特にない。

ただ、今年は俺の同期と従姉妹が結婚式を挙げるという話で、本家のほうは同期の実家に呼ばれている。(二日に)

従姉妹は同期の姓になり、来年の正月は一人欠けた年始会が開かれる事だろう。

そうやって一人抜け二人抜け、祖母の場所に集まるかたちだった年始会の場所が、今度は俺の親、つまりは春や八恵の祖父母の場所に移り変わり、かたちを変えて続けられるのだろう。

何か「福山家の転換期」が感じられる正月であり、やはり、こういうの(親族による年始会)を消してはいけないと考えさせられる正月でもあった。

さて…。

今年は去年後半の流れを引き継いでサラリーマンとしてスタートするわけだが、家族へ重石を置いた去年の姿勢をちょいとばかり執筆へ移し、

(執筆が主という姿勢で進んでいきたい)

そう思っている。

前半にはイベントも多い。

前に書いた八恵の手術もあれば、同期と従姉妹の結婚式もある。

真っ白な手帳にそれらの予定を書き込みつつ、

(今年はこの手帳が真っ黒になるような濃い一年にせねば…)

そう思った。

今日の起床時、室内気温は−1度。

寒いが何やら熱い出勤一日目の朝である。