桃源郷 (03/01/12)

 

俺の実家・熊本県山鹿市より南に下ること凡そ60キロ、九州山脈の中に砥用(ともち)という山里がある。

名物は状態良く保存された石橋群である。

福山家は、毎正月、ここを訪れる事を常としていた。

例年であれば、大晦日は夜半より、ここの隣町にある『日本一の石段』(3333段)に登り、初日の出を見、そのまま砥用へ流れるのであるが、今年は勝手が違う。

元旦ではなく、2日に砥用へ向かった。

福山家のお台所事情により、この期間唯一、格安航空券が設定されていた元旦に熊本へ移動したからである。

ちなみに元旦は、俺の熱が引き切っていなかった事もあり、実家でゆるりと養生し、富夫と恵美子に春を堪能させて日を終えている。

さて…。

この砥用に何があるのかというと、親友・太陽の実家がある。

それ以外には、前述の様に、寒々とした石橋しかない。

福山家は早朝より高速道路に乗り、高速を降りると緑川沿いを走り、山道を抜け、約1時間強という時間をかけて砥用に入った。

猫の額ほどの狭い盆地に砥用の繁華街らしきものは広がっている。

スーパーが一つと、200メートルほどのレトロな商店街があり、病院、学校等もここに集結している。

前後左右、どこを見ても山が間近に見え、ここに、小規模とはいえ、これだけの街を造った事が、

(人間の奇跡だ…)

大袈裟に言えば、そう思えなくもない街である。

太陽の家は、この繁華街にはない。

繁華街を抜け、街の奥に鎮座する山を登らねばならない。

丁度、車の幅いっぱいくらいの林道が太陽の家に通ずる道である。

この林道には、家が5軒ほどあるが、それも前半には事切れる。

あっさりと最後の民家を越えると、右手に小さな滝が現れ、それからは太陽の家のために存在する道である。

急に傾斜がきつくなる。

今回の訪問には、俺の弟・雅士も同行しており、雅士が車を出している。

雅士の車は、ホンダのプレリュードで、スポーツカーである。

この雅士が、太陽家専用道のあまりの傾斜に、

「うわー! ギアを1速に落とさんといかん! 止まるー、なんじゃこりゃー!」

堪らず、うろたえたほどであった。

路面は、コンクリを流しただけの簡素な舗装が施してある。

側は山を織り成す土の壁、もう一方も山を織り成す要素である崖、まさに基本に忠実な林道といえる。

視界に映るのは、人を小馬鹿にしたような激しい坂道と生い茂る木である。

とにかく暗い。

「相変わらず、凄いねー」

訪問3度目となる道子が思わずこぼした。

雅士は、ただただ笑っている。

グングン登ると、少しだけ視界が開けた。

開けたが、依然、山である。

左手に田が見える。

雅士がやっと口を開いた。

「光が見えた…」

安堵の声であった。

「ここは、仙人の住むところばい!」

雅士も、太陽を見知っているだけに、彼の性格と、この環境がイメージの中で見事に合致したのであろう、ケラケラと笑い出した。

しきりに「最高」この言葉を繰り返し、次に「堪らんばい」それを連発した。

少し進むと、左手に家が見えた。

人は住んでいない。

麓に住む猟師の猟犬小屋である。

この脇を車で通ると、猟犬は猛烈な勢いで吠え始めた。

これが、太陽家にとっては、

(ん! 誰か、山を登ってきてるぞ!)

と、いう合図になる。

何度も言うが、この道は、太陽家のための道であり、電線も、彼の家のためだけの電線である。

猟犬小屋を抜けると、奥に昔作りの家が伺える。

これが、太陽の実家である。

この日は快晴であったが、以前、ここに来ても霧(雲?)で太陽の家が見えず、本当に庭先に入るまで家が見えなかった事があった。

道を登りつめると、突然、目の前に屋敷が現れた。

(うお! まるで、ラピュタだ!)

本気で、そう思ったこともあった。

とりあえず、今日は晴天である。

麓の方を見ると、山の隙間から熊本市街が見渡され、その視線を少しでも動かすと雄大な九州山脈が、

「これでもか!」

と、噛みつかんばかりに広がっている。

林道の終点が太陽家である。

一段下の猟犬達の遠吠えを聞いてか、太陽の母は既に俺達を迎える体制をとっており、

「いらっしゃい、いらっしゃい…」

割烹着で、何ともいえない味のある笑顔を見せてくれた。

当の太陽は言うと…。

まだ、寝ていた。

「太陽ー! 起きんねー!」

太陽母に起こされると、太陽は股間をボリボリかきながら、

「おう、福山、よう来たね!」

浮浪者のていで現れた。

庭には、いつもの様に七輪と鍋があり、その脇には庭から取ってきたばかりの椎茸や自家製豆腐が用意されていた。

器の脇には、ちょこんと何かの木の実が飾りで乗せてある。

「はぁ、相変わらず風流ですねぇ…」

俺は、七輪を取り囲むように用意されている椅子に座った。

椅子といっても、木を輪切りにしたものである。

「はいはい、じゃあ、春ちゃんは預かろうたい」

太陽母は、春を抱っこすると、

「ゆっくり食べていきなっせ。春ちゃんは見とってやるけんね」

そう言って、太陽父に、

「ほら、あんたも抱きなっせ」

と、春を渡した。

太陽父は、

「おふ、おふ! ばー!」

よく意味のわからない呪文の様な何かを唱えながら、春をぎこちなく逆さまに抱いた。

「抱き方の違うたい!」

すぐに太陽母が突っ込み、抱き方を教えていたが、

「太陽を抱いてから、抱いとらんけんなー」

そう言って、春を太陽母に返していた。

(太陽を抱いて以来、子を抱いていないとなると、凡そ24年間も赤子と接する機会がなかったという事か…)

太陽父の弁解を、俺は真っ直ぐに捕らえ、

(さすが、凄まじい環境だ…)

そう思った。

太陽父は、春を太陽母に任せると、俺の横に来て、この場所の開拓秘話を幾つも話してくれた。

まず、二年程前に庭そのものを作ったらしい。

「全て、俺が手作りで作った。 むふー」

太陽父は最高の笑顔と共に、それから、

「去年は池も作ったんたい。 鯉も200匹はおるよ」

そう言って、今居るところから一段下がったところにある池を指差した。

この池、一昨年もあったが、鯉を放した瞬間にカラスに食われたらしく、今回はカラス防止対策も施されており、太陽父が言うには、

「完璧な池」

との事である。

絶えず山水がこの池に流れてくるよう設計されおり、中央には小振りの松も見える。

「近くで見る?」

不意に、太陽父にそう聞かれたので俺は二つ返事で頷き、付いて行くと池はカチンコチンに凍っていた。

その氷の下を、金魚の様な、鯉の様な、そんな魚が泳いでいる。

「小さいですね」

俺が遠慮なしに言うと、太陽父は、

「いやぁ! おっきかつもおるばい!」

そう言った。

そして、俺の方を向き、その太陽ソックリの顔をいっぱいにほころばすと、

「呼ぼうか」

そう言い、餌を池の氷が溶けている部分目掛けて、エイヤと投げた。

が…。

鯉は、寄って来るどころか、むしろ離れていった。

水面に漂う餌に見向きもしない。

太陽父は、ムッとしたのであろう。

ついには、ニワトリを呼ぶように手を叩き出した。

「おいっ、鯉、来いっ!」

その駄ジャレに、鯉はますます離れていった。

ふと、太陽父が俺の方を向き、口を開いた。

「福山君の家は、兄弟二人かね?」

瞬間、俺の中に、爆発的な笑いの波が押し寄せてきた。

話題の逸らし方が、太陽本人と全く同じだったのである。

太陽父の話を続ける。

「最近は、イノシシとか鹿が来てから大豆とかイモを掘りあさって行くけんが、それに対抗する網をはったばい」

太陽父はそう言うと、畑の上に低い高さで張ってある網を指差した。

「はぁ、イノシシが出るんですかぁ…」

俺は、街では珍しいその生き物に、素直な驚きの声を発し、

「一度、野生のやつを見てみたいですねぇ」

そう言った。

太陽父は、

(む!)

と、いう顔で俺を見ると、

「福山君、イノシシが掘った穴を見るかね?」

鼻の穴を力いっぱいに膨らまして言った。

笑顔だった。

「はい、見たいです」

俺、道子、雅士、太陽、総出で太陽父の後に付いて行き、畑に上がった。

「一発で、イノシシって分かるけんね!」

太陽父は、もったいぶり気にそう言うと、畑の奥に皆を案内した。

が…、太陽父はキョロキョロと辺りを見回し、

「うーん?」

と、声を上げながら、畑の中を行ったり来たりした。

ついには、よく分からないような土が少しだけえぐれた部分を指差し、

「これが、イノシシの跡!」

そう言った。

「見る人が見らんと、穴かどうかも分からん様な穴ですね」

俺が、えぐれた部分をマジマジと見ながら、またも遠慮なしにこぼすと、

「お、お、おう! 多分、俺しか分からん…」

太陽父は、急に挙動不審になり、そう答えた。

皆、無言で太陽父を見た。

太陽父が、結局、イノシシ穴が分からなかった事を皆が悟ったのである。

もう一つだけ、太陽父の珍事を語りたい。

それは、雅士の車を太陽父が見て、

「お! これは、よか車ねー!」

そう言いながら、運転席に乗った事に始まった。

玄人っぽくハンドルを何度か回し、出ると、

「この車は、ホンダの何ね?」

雅士に聞いた。

雅士が、

「プレリュードです」

胸を張って応えた。

太陽父はサラリと言った。

「あーあー、知っとる知っとる、プロフィールね、その車は聞いた事がある」

皆、一瞬、唖然とし、その後、爆笑の渦に場が包まれた。

ついに、あの太陽までもが突っ込んだ。

「プレリュードたい!」

「だけん、プロフィールだろ!」

この父子の真顔のやり取りに、俺、道子、雅士は腹がよじれた。

(死ぬ…)

本気で、そう思うほどに笑った。

ここで、太陽が俺達に追い撃ちをかけるべく、更なる強烈アイテムを引っ張って来た。

太陽父が山から拾ってきた物だという。

それは、『42・43週目の春』を見ていただけると画像が載っているので確実に分かって頂けると思うが、木の分岐ポイントに枝がちょこなんとついている、男体形状の木であった。

太陽父は、それを前に謙虚にこう言った。

「捨てろって言われたんばってん、捨てきらんかった…」

腹がよじれるどころではない。

山から、自然の悪戯で出来上がった木を拾ってき、家族から「そんなもの、捨てろ」と罵られたわけである。

それに対し、太陽父は、

「捨てきらん!」

と、頑固にそれを重宝がり、どれくらい保管されたのかは定かではないが、俺達に、

「どうだー!」

そう自慢しているのである。

つまり、この一瞬の笑いのために、太陽父は家族からの白い目と戦ったわけである。

俺は悶えた。

その意味のないコダワリに、である。

溢れんばかりの大自然の中をのた打ち回りながら笑い転げた。

さて…。

書きたい事は、まだまだあるが、

「長いよ…」

と、苦情が出そうなので、ブチリと話を切り、まとめに入る。

この太陽家、水は山水から引いており、野菜は一切合切を自宅の畑でとっている。

金を出して買っているものを考えると、電気以外が浮かばないほどに少ない。

限りなく自給自足に近い家なのである。

ここにあり、太陽母は言う。

「うちの水は山水の一番絞りを飲んでますけど、下(麓)の人達は私達の飲み残しば飲みよらすとですよ」

雅士は言う。

「空気を吸った、その感じが明らかに違う」

俺は言う。

「ここに居ること事態が、明らかに体に良い」

ここには、絶えずミネラルウォーターが垂れ流しに流れ、フィルターを通さずに最高の空気に満たされ、マイナスイオンを人工的に発する事なくマイナスイオンに溢れている。

出来上がる人間は、自然、ああいう風な人間である。

二世代続けて、ああいう人間である。

(いい環境だなぁ…)

来る度に思う。

都会の雑踏にもまれ、イソイソと毎日を過ごし、田舎に支えられながら慌しく生きる。

(どんな人間が出来上がるんだろう?)

考えてみたら、何となく柳沢慎吾やキリコの様な人間が浮かんだ。

(それも良いが、やはり田舎だなぁ…)

福山裕教の田舎への憧れは尽きないし、ここへ来て、増加傾向にある。

チラリと道子を見た。

道子は俺に気付くと、ピシャリと言い放った。

「ここまでの田舎には住めませんからね!」

俺の肩が、ガクリ…、力なく落ちた。

(道子を説得するには、後10回はここへ連れて来る必要がありそうだ…)

そう思わざるを得ないのであった。

 

 

発熱へ (03/01/09)

 

二日酔い抜け切らぬ12月28日、俺は、道子を実家に帰すべく、春日部に向かった。

予定では、俺だけはトンボ返りで社宅のある入間に戻り、翌29日は早朝より久しぶりの独身ライフに花を咲かせるはずであった。

が…、そうは問屋が卸さない。

春日部に着くと、道子は、

「春の出産祝いを貰った『オガ』の家に挨拶に行かなきゃ!」

そう言いだした。

オガとは道子の親友で、春日部の隣町、大凧で有名な庄和町に住んでいる。

ここの母親は酒飲みという事で有名で、以前行った時、

「あら、あんた、飲める口ね!」

と、いう流れになり、自然と盛り上がった前歴がある。

なぜ、ここで『前歴』という重々しい言葉を用いたのかというと、今日だけは留められるのが怖かったのである。

重い二日酔いゆえに、飲む気もサラサラない。

更に、翌日は一年に一度あるかないかの『独身の日』である。

(早朝からスキーに行くか? それとも、昔に戻って一日パチンコでもするか?)

夢は尽きない。

従って、オガの家で捕まり、どっぷり飲んで帰れなくなると非常にマズイのである。

「行こうよー、福ちゃんが行かないと駄目だよー」

道子の、この甘ったるい誘いを俺は断り続け、

「うるせー! 行くなら、お前一人で行け! こんちくしょー!」

怒鳴ったが、結局はすがる女の涙に負け、行く羽目になった。

「行っても飲まなきゃいいじゃん!」

道中、道子は明るく言ったが、

(お前は、酒飲みの家にお邪魔するという、その意味を知らな過ぎる…)

そう思い、冷たくあしらった。

さて…。

その、オガの家に行くと、酒豪の母は既にできあがっていた。

「あー、あんた、あんた、あんたのために高級焼酎をとって置いたのよー!」

この言葉を二十数度聞かされ、有無を言わさず注がれた。

横で、道子が、

「今日は、福ちゃんは…」

なんぞ言っているが、馬の耳に念仏である。

「ほれ見ろ…」

俺は道子に小声で言うと、その瞬間に全てを諦め、

(ようし! 飲む!)

そう決めて、飲みに走った。

この日の朝、しこたま吐いて、

(二度と酒は飲まない…)

思った矢先であったが、意外にクイクイいけた。

話は変わるが、俺が戻るべき場所・入間では、一人の男が俺の帰りを待っていた。

長嶺という男である。

彼、俺の学生時代の友人で、当然、熊本出身なのだが、今は愛知県の豊橋にいる。

その彼が、遠路遥々埼玉県は入間まで来てくれたのである。

電話で確認するに、何とか俺以外の知り合いを捕まえ、どうにか時間を潰せるということであり、すぐに帰る必要はないが、急ぎ帰らなければならなかった。

俺は、酒をピタリと止めた午後9時から、たっぷり4時間の時間を置き、午前1時に春日部を出た。

入間に着いたのは午前2時である。

幸い、長嶺氏は友人の家に泊まっており、混乱するような事態には陥らなかったが、深夜の帰宅という事もあり、早朝よりのスキーという案は潰れた。

従って、俺は愛知よりの訪問者・長嶺氏と合流すると、10時という時刻を皮切りに丸一日をパチンコに費やすという、既婚者から言わせれば、実に贅沢な時間の使い方を選択した。

思いっきり、その自由な一日を楽しんだ。

今日だけは、

「何だよー、こんな遅くまでー」

そう憤る者もいない。

「パチンコ帰りはタバコ臭いんだよー」

そう罵られる心配もない。

「俺は自由だ!」

力一杯、その無限に感じられる時間を楽しみ、そのお陰か、久しぶりに勝った。

「ようし、長嶺君、奢ってやるぞー!」

その夜、俺は大敗を喫した長嶺氏と矢内という女に酒を奢り、実に気分良く床につく事が出来た。

その翌日、30日…。

俺は、長嶺氏を連れ、道子の実家、春日部に向かった。

なぜゆえに長嶺氏を連れているのかというと、前の日記に懇々と書いたが、女の中に男が一人が嫌なのである。

道子の実家に集まる者の構成は、家主の義母を中心に義姉夫婦、それだけなのだが、義姉の夫は俺との遭遇を嫌がってか、あまり顔を出さない。

つまり、普通にいけば女四人に男が一人の構成になるのである。

そういう事で、去年は大津という、これも同郷の友人に春日部まで来てもらい、今年は長嶺氏が抜擢されたというわけである。

お陰さまで、居心地良く宴が続き、楽しく春日部での時を過ごす事が出来た。

31日、大晦日…。

この日は、義母にとって、4日間の孫との触れ合いタイム、終息の時である。

義母にとっては、よほど、この時が辛いのであろう。

「春ちゃん、また来るだわさ! 春ちゃん、来月には行くかもしれないだわさ!」

車のウインドー越しに叫んでいる。

ついでの様に、

「みっちゃん、風邪ひかない様にね。長ちゃん(長嶺氏の事)、元気でね」

そうも言っている。

(次は俺か…)

俺も義母の一言を受けるべく、運転席で受ける姿勢を作った。

が…、

「春ちゃーん!」

義母は、俺をすっ飛ばし、春に戻った。

お約束だが、少しだけ悲しかった。

さて…。

余談が長くなったが、この章の本題は、これから先の大晦日の晩にある。

長嶺氏は、まだ福山家に泊まっている。

元旦の朝、俺が熊本に発つ際、一緒に出るとの事である。

俺は、ここ入間にて、長嶺氏と紅白歌合戦を見るべく、道子の作った餃子を頬張りながら、ゆっくりと酒を飲み、テレビ鑑賞に耽っている。

「中島みゆきが出るけんが、今年の紅白は見らんといかんばい!」

みゆきファンの長嶺氏が、テレビに熱い期待を寄せ、その出番を今か今かと待っている。

俺は、そんな長嶺氏にお付き合いし、ボーっと、何も考えずにテレビを眺めていた。

手には芋焼酎のお湯割を持っているが、どうも進まない。

大好きなはずの、道子手作り餃子も進まない。

(オカシイなぁ…)

思っていると、急に眩暈がした。

鏡で、自分の顔を見た。

(おお…)

青かった。

俺は、餃子を食す事に夢中になっている道子や長嶺氏をよそに横になる事にした。

奥の部屋に布団を敷き、寝ながら紅白を見た。

と…。

ストーブの前にいるにも関わらず、体がブルブルと震え出した。

(アル中かぁ…?)

思った瞬間に、道子が体温計を差し出した。

測ると、38度を超えていた。

「何で、いきなり熱が出るんやー! 普通、熱って、風邪ひいた時とかに徐々に出るもんだろー! こんなデジタル的に、ポンッと出る事ってあるとー?」

重度の喘息と付き合っている、病気マニアの長嶺氏に俺は涙声で問うた。

長嶺氏は、

「ある!」

根拠はないがそう言い切り、

「今すぐ、暖かくして寝せろ!」

道子に迅速な指示を出した。

熱は、それからグングン上がった。

ついに、39度を超えた。

朦朧とした意識の中で、不意に一つの思いがよぎった。

(高熱で、これから先、子供が出来なくなるんじゃ?)

精巣に強い熱が加わると、子供が出来にくい体になる、どこかで聞いた情報だった。

俺は、布団の中で、迷う事なくパンツを脱ぐと、精巣を冷却するべく、手うちわで扇いだ。

「まだまだ、俺は終われんぞー!」

フラフラだが、そこだけは譲れなかった。

結局、高熱のまま、年を越す事になった。

長嶺氏と『行く年来る年』を見ながら、

(明日は熱が引いていますように…)

本気で祈った。

俺の熱のせいで、明日、熊本に行けなかったら、実の両親、富夫と恵美子に何を言われるか分かったものではない。

(最悪、道子と春だけでも熊本に行かせよう…)

思いは、そこまでに及んだ。

しかしながら…。

この状況下において、2002年を振り返るに、

(何という年の最後だろう…)

そう思える。

「股間が立川!」

など、くだらない事を言いながら、東京都は立川市のキャバクラで飲みながらも、

「娘が問題なく産まれますように!」

通りがかりの寺に、500円もの大金を放り投げた事から始まった年であった。

それから、日記のコーナーに列記しているが、娘の出産、精力的な文筆活動、帰省、消極的な仕事、などなど、様々な出来事を交えつつ2002年が終わった。

この中で、一日たりとも病気をした日というのはない。

それが、ここに来て、である。

この事を、俺はこう受け止める事にした。

「来年は、もっともっと燃えろ、という事だろう」

年が明け、結局、翌日には熊本に帰る事になるのだが、熊本という街、そして人は、時というものがドンドンと流れている事を充分過ぎるくらい感じさせてくれた。

(去年の俺では生ぬるい…)

そう、痛感した。

最後に…。

39度を超えている、倒れそうな俺が言った、その一言を列記し、この章の終わりとしたい。

「今年は、動く!」

非常に漠然としているが、今年の貫徹すべき『行動指針』である。

 

 

嘔吐から (03/01/08)

 

前日記の『納会』を大盛況に終えると、次に待っていたのは嘔吐との戦いであった。

例年通り、日を跨ぐ時間まで飲み明かし、気が付くと社宅で、しかも、ちゃんと布団に寝ていた。

どうやって帰ったのか、はたまた誰と飲んでいたのか、10時を過ぎたあたりから、とんと記憶がない。

しかし、俺は確かに布団で寝ている。

横には、嫁の道子と娘の春もグッスリと寝ている。

「はて?」

俺は、開ききらぬ目を擦りながら、

(何時だ?)

時計を見た。

午前3時であった。

(何で俺がこんな時間に起きるんだ?)

俺が夜中に目を覚ますなんて、滅多にない。

春の夜泣きの記憶も、9ヶ月間も一緒に寝ているが2度しかない。

道子の談話によると、

「毎日夜泣きしているのに、何で福ちゃんは気付かないんだよー」

と、なる。

当然、

(不思議だ…)

そう思いが俺の中を走った。

と…、その瞬間であった。

「う!」

俺の中で、一気に未確認の熱い何かしらが喉元目掛けて突っ走ってきた。

俺は反射的に布団を飛び上がると、

(やばい!)

それだけを思い、台所への一歩を踏んだ。

台所までは、俺の寝床から、凡そ五歩である。

二歩目を踏んだ時、口の中にラッキョウをすり潰したような酸味が広がった。

三歩目の時、俺の顔はひまわりの種を咥えたハムスターの様相を呈した。(はず)

四歩目で、それらを力一杯に吐き出してしまった。

「ぐぇええええ!」

多分、洗面器満タン一杯分の量はあったであろう、その量の半分ほどが流しに届ききらず、志半ばに台所の床に散った。

辺りには、きつーい酸の香りと、高級酒の甘い香りが最高のハーモニーを織り成して広がっている。

が…、

「うーん、マンダム…」

そんな事が言える状況ではなかった。

台所の床は地獄絵図となった。

「あれは先ほど食べたイカフライ君! あちらは消化に悪い軟骨ちゃん!」

赤、白、緑、至る所に先ほど入れたばかりの食材が散らばった。

「ああ…、一年に一回しか飲めない高級酒だったのにぃ!」

気合を入れて飲んだ、久保田、八海山、それらを惜しみつつも、ふと、冷静にならざるを得ない現実がその眼下には広がっている。

(道子が起きるまでに掃除しないと大変だ!)

幸い、道子はグッスリと寝ている。

なんと言っても、午前三時である。

忍び足でフキンを取り、ソーッとその処理にかかった。

その時であった。

「何やってんだよー!」

少しだけ開けた台所ドアの隙間から、キラリと光る厳しい目が見えたと同時に、その声が響いた。

俺は、朦朧とした意識の中にあり、

「嘘だろぉー、起きてるのかよぉー」

泣く思いでそう呟き、

「起きてたの?」

つぶやきシローのアクセントで道子に聞いた。

が…、無視された。

道子は、起きて手伝うわけでもない。

何かしらの指示をするわけでもない。

布団から一歩も出ず、引き締まった厳しい目線だけをこちらに向け、微動だにしない。

ふと、

「ちゃんと拭いてよね!」

零下の声温で言い放った。

俺は、それから重い体に鞭を打ち、黙々と床を拭いた。

床だけでなく、流しの側面、脇のコンセント、その範囲は広きに及んでいた。

拭きつつも、次の温かい何かしらが溢れてき、

「ううううう…」

出ないのに口を流しに持っていき、何度も何度も悶えた。

道子からは、定期的に、

「拭けた? ちゃんと拭けた?」

その確認音が届けられ、

「大丈夫?」

その労いの声は一寸たりとも聞けなかった。

吐き気が一段落ついたのは、吐き始めから30分ほどが経過してからだった。

多少、拭き残りも目に付いたが、見えないフリをして、道子の確認に、

「最高デース!」

時代遅れの返事を返し、少々服が汚れてはいたが、そのまま倒れる様に床についた。

第二波は、午前6時に訪れた。

今度は、流しに余裕で間に合ったが、出すものがなく、酸っぱい唾液だけがトロトロと垂れた。

(くっそー、間に合った時には出ずに、間に合わんかったらビシャーかよー!)

地団太を踏んだが後の祭りである。

よく見ると、先ほどの拭き残りが、寒さのために凍り始めていた。

(おお! ゲロのスケートリンクが出来上がろうとしている。ゲロリンクとでも名付けるか!)

その様な事を思いつつも、

(くっだらない、寝よ…)

二波がおさまるのを待って、眠りについた。

布団に戻ってきた時、道子は、またもや目をパチンと開け、

「また、こぼしてないでしょうね!」

きつい一喝を放った。

(まったく、もうー)

すねざるを得ない。

子供が出来ると、女は、すぐに起きるよう、プログラムされているのであろう。

昔は、槍が降ろうが床が抜けようが寝ているような女だったくせに、春が生まれてからというもの、飲んで午前様で帰り、それはそれは無音でドアを開けようとも、

「今、何時?」

気配を察し、ピシャリ起きる女になった。

忍者のようである。

いくら生物の仕組みとはいえ、ちょっぴり、男には酷な仕組みではなかろうかと思う。

話を戻す。

道子は、8時くらいに起きた。

俺は、先ほど布団に戻った時から、激しい頭痛と内臓の悲鳴に悶えながら、眠っているようで起きていた。

従って、道子の起床に気付いた。

道子は、

「ふぁー!」

など言いながら、台所にフラリと足を運んだ。

電気をつけずとも、朝の光が燦々と差し込んでおり、台所の視界は最高潮であった。

道子は、コンタクトをつけるべく、まずは眼鏡を装備すると、流しへ向かった。

そして、流しを前にして立ち止まった。

間を置き、叫んだ。

「なんだよー、これー!」

駄々っ子の様に、手を振り回しながら、

「拭けてないじゃぁーん!」

暴れだした。

「ちゃんと拭けって言ったじゃぁーん!」

暴れ出した道子ロボの暴走は止まらない。

ある時は、お手拭用のタオルを千切らんばかりに引っ張り、

「もうー! 超むかつくー!」

叫んだり、また、ある時は、春を起こし、

「お父さんは、吐きっぱなしで掃除も出来ないんだよー、笑っちゃうよねー!」

そう言ったりしていた。

が…。

俺にとって、今の道子は、非常にうるさい蝿の如き、単なる雑音ロボでしかない。

「おい!」

まずは、暴れる道子の動きを怒鳴り声で止めると、

「頭が割れる様に痛いから黙ってくれ…」

悲痛なお願いをするに至るのである。

この日、12月28日…。

今日から長い冬休みが始まる、まさに、その日であった。

この貴重な一日を、俺、福山裕教が丸々棒に振った事は言うまでもない…。

 

 

納会への想い (02/12/26)

 

俺は、課で『幹事』という役目を仰せつかっている。

今、入社5年目だが、2年目からその役をやっている。

経緯を話せば、俺はその課における幹事業務のあまりのずさんさに驚き、一年目にして、

「幹事を俺にやらせてくれ!」

と、上司に嘆願した。

が…、上司からの応えは、

「お前には、まだ早い…」

これであった。

他課から言わせれば、こんな珍奇な事件はないであろう。

新人が頭を悩ます、その幹事という役に立候補し、落とされたのである。

当然、俺の落胆は深い。

(何でだよぉー、普通、新入社員がやるもんだろぉー!)

草葉の陰で地団駄を踏み、そして泣いた。

さて…。

この課が、いかにずさんな幹事業務を行っていたのかというと、まず、俺の歓迎会を2ヶ月も先送りにした。

「もう少ししたら、新しい人が入ってくるから、それと一緒にやるな」

先輩は、優しく東京弁で言うと、

「会費もないしね…」

呟いたのである。

(うそだろぉー? 歓迎会を先延ばしにする課があるのかよぉー?)

俺は、その時、極めてイジケた。

これだけではない。

年末、忘年会があるものかと思ったら、何事もなく年末を終え、

「どうして忘年会をやらないんですか?」

俺が涙ながらの質問をしたところ、

「あ、うちの課はね、忘新年会で兼ねてるから」

サラリと返されたのである。

これには、さすがの俺も怒った。

当時の課長に、ものものしい『嘆願書』なる書類を差し出し、

「忘年会と、新年会では、意図が全く違う! これでは課員の士気が上がらん!」

叫び立てた。

上司は、

「士気が上がらんのはお前だけだろぉ…」

寂しげに呟きつつも、

「来年はお前が幹事だから我慢してくれよぉ…」

言い置いて逃げた。

春を迎え、会社の年度が変わる4月を迎えた。

俺は、待ち望んだ幹事をやるに当たり、一つの目標を打ち立てた。

『会費を変えず、年間6回以上の全体飲み会を開催する』

これに付随する具体的なスケジュールもひいた。

(ようし…、燃えてきたぞ…)

計画書を持って、この年から変わった課長に、燃える思いを伝えた。

が…。

その翌日に、たまらない一言が言い渡された。

「やはり、お前に幹事はまだ早い…」

上層部の皆で話し合った、その結論だと言う。

プチン!

俺はキレた。

すぐに、大久保利通ばりの裏工作に走った。

俺を後押ししてくれる課員達に協力を求めたのだ。

「権力に屈するわけにはいかん!」

俺は、その言葉をスローガンに後援者を引き連れ、団体抗議運動に突入した。

上司に仕事をさせなかった。

ついには、

「もう、いいや、福山、やっていいよ…」

上司に、投げやりではあるが、そう言わせる事に成功した。

それから…。

春には花見、工場の運動大会後には打ち上げ、歓迎会、送別会、忘年会、新年会…、変わったものなると、『夏だ、冷えたビールを飲もう会』『秋だ、キノコをつまみに飲もう会』それらを断行した。

この中でも、一番実行に移すのに難儀したのが納会の企画だった。

納会というと、一年の最後の日に工場を上げてやる飲み会であるが、以前は慎ましやかに鍋を食って終わりという感じであった。

当然、やる気がないのだから他課に比べて開始時刻も遅い。

(年の締めに、手抜きをするようでは来年からの仕事に差し障る…)

そう思った俺は、どこの課よりも手の込んだ納会にするべく、極めて張り切った。

まず、開始時間はどこよりも早い午後2時に設定した。

場所の飾りつけは電飾をふんだんに用い、上座(課長席後ろ)には『お疲れ様』、この文字を白いシーツに書き込んで貼った。

食べ物も妥協を許さず朝から煮込み、その料理は台所に立つ事30余年、ベテラン主婦の庶務にお願いした。

更に、盛り上がるイベントが要るという事で、前もって皆から金を集め、豪華景品が当たる抽選会を催した。

他にも案は多々あったのだが、大いなる権力にそのほとんどが潰され、生き残ったのがこれらだった。

抽選会の景品は、年を追うごとに豪華なものになっていき、今年は『プレステU』が出せる程の規模となった。

さて…。

明日は、その、納会の日である。

俺の一年で、一番忙しい日とも言えるだろう。

今日の内から抽選会の資金集めで工場中を走り回った。

時には周囲から、

「お前、今日は本当に忙しそうだなぁ。いつもと気合が違う…」

お褒めの言葉を頂いた。

明日は朝一番に掃除を終え、会場準備等諸々の作業に入り、昼からは一気に買出しである。

(こりゃ、明日は目の回る忙しさだぞ…)

思うと、ブルリ…、武者震いがした。

俺は、今年で幹事の任期を終える。

(俺が幹事になってから、課の雰囲気は果たして良くなったのだろうか…?)

酒席を設けるだけでなく、雰囲気調整という任も、幹事は請け負うべきであろう。

疑念は尽きないが、

(明日は力一杯、その任を果たしたい…)

そう思うのであった。

ちなみに、本音。

(明日は仕事をせんでええばい! やったー!)

福山裕教は…。

極めて燃えている。

 

 

ピロリが消えた日 (02/12/24)

 

今日ではないが、先週の月曜、ついにピロリ菌が俺の中から消えた。

前の日記でも書いたが、

「これを飲むと腹をこわしますが、血でも吐かない限り服用を止めないで下さい」

医者がそう言うほどの強烈な薬剤を一週間も飲み、死ぬ目を見て、ピロリ菌駆除を試みた。

(これでピロリ菌が死んでなきゃ、やっとれんわ!)

そう思ってしまう『地獄の一週間』であった。

肛門が、それこそ燃えるような下痢が続き、それに伴う脱力感が俺を征服した。

(これで駄目だったら医療訴訟モノだぞ…)

そうまで思いつつ服用を続け、その二ヵ月後、12月6日に検査を受けた。

検査前には絶食をせねばならず、更には仕事との折り合いの関係から、24時間以上の絶食を強いられた。

結果はその翌週に出た。

その日…。

混まない事で有名な病院なのに1時間半も待たされた。

軽い文庫本を読み終わってしまった。

(あー、まだかよー!)

怒りで目が血走ってきた。

(これで陽性と言われた日にはどうしてくれよう…)

手に汗かき、歯にギリギリと力が入ったところで、俺の名が呼ばれた。

「もぉー、本当に待ちましたよー」

俺は重いドアを開けると、不満ブリブリで言い放ち、続けて、

「ピロリの結果、どうでした?」

身を乗り出して聞いた。

医者は、

「むーん…」

言い難そうな顔をすると、

「はぁ…」

溜息を一つ、思いっきり吐いた。

ガビーン!

俺は、その様子に、言語に尽くしがたい脱力感をおぼえ、

「は、は、はっきり言ってください…」

ガンの患者か何かの様に狼狽した。

と…、俺の後ろの看護婦がクスリと笑った。

続けて、目の前の医者も顔を崩すと、

「陰性ですよ、陰性」

笑い声と共に言った。

「おめでとうございます」

横から看護婦が笑いながら言ってきた。

が…、俺に、それを笑い飛ばせる器量はなかった。

「くっそー、だまひたなー!」

少し声を裏返らせながら叫んだ。

看護婦は、これで更なる爆笑領域に突入した。

胃カメラのフレキシブルな部分を握り締め、ひーひー笑った。

医者は言った。

「これで、福山さんがうちに来る事がなくなりますなぁ」

眼鏡をクイと持ち上げ、続けてカルテを見ながら、

「次に来る時は、小説家ですかな?」

そう言った。

俺は、未だ憤りが収まらずプリプリしていたが、『小説家』という一言に、

(何を言ってるんだ、この馬鹿医者は…)

眉間に皺を寄せ、医者を凝視した。

医者は、カルテらしきファイルの中から一枚の紙切れを取り出すと、何やら音読を始めた。

見た事ある紙だった。

だが、思い出せない。

「えー、二ヵ月間の胃の症状を聞く質問に、福山さんはこう答えてますね」

「あ!」

俺は、思わず医者を指差してしまった。

(しまったー!)

中で、そう叫んだ。

その紙は、一週間前の検査の際、看護婦が、

「その後の胃の調子はどういった感じですか?」

俺にそう聞くや、別件で呼ばれて場を離れる事になったため、

「その紙に書いてください」

去り際に渡された紙だった。

ピロリ菌の検査は結構な時間を要す。

従って俺は、持ち前の速い筆を用い、胃の調子を長々と書きまくった。

その中に、

「胃は、絶好調です。痛みもありません。しかし、今は小説家になるべく、体全体が燃えているため、胃が痛くても気付いていないのかもしれません。云々云々…」

と、あり、最後には、

「ストマックの問題なだけに、ストイック(禁欲的)な生活をしたいと思います」

聞かれてもいない事まで書いているのである。

(は! 恥ずかしー!)

俺は顔に火がつく思いを持ちつつ、先ほどの看護婦や医者の不敵な笑いを理解した。

(そのメモは、看護婦がちょっと見るだけだと思ってたんだよー!)

内で悶絶しながら弁解すると共に、

(あの時の俺、24時間以上も飯を食ってなかったから、それでおかしかったんだよー!)

そうも思い、まさに、穴があったら入りたい、その状態となった。

医者は、取り出した紙をもう一度眺めると、

「ストマックとストイックをかけるとは…、うまい!」

俺に追い撃ちをかけるべく言い、

「センスがあるよー、小説家になれるよー」

ニヤニヤを崩さずに言った。

この間、僅かに20秒くらいである。

俺は、一刻も早く場を立ち去ろうと、

「結果が分かったら良いです! ありがとうございました!」

ペコリ頭を下げ、席を立った。

医者は、

「おー、おー」

俺を両手で制すマネをすると、続けて、

「半年後、胃カメラで確認したほうがいいなぁ」

そう言ってきたが、

「もう、胃カメラはいいです! 失礼します!」

と、走り去った。

ドアを閉めると、中から、

「小説家、頑張ってよー」

看護婦の笑い声が聞こえた。

俺は顔の熱を冷ますべく、便所で顔を洗い、その後、支払いを待ちながら、

(もう、この病院には行けんな…)

そう思った。

料金は500円とちょっとだった。

(20秒で、更に笑われまくって500円か…。高いなぁ…)

思いながら、500円を差し出した時、事務の女までもが笑顔を見せた。

(む!)

俺の中に、警戒の電撃が走った。

と、その瞬間…、事務の女の口が動いた。

「あの名文、先生がコピーして配ってたんで見ましたよー。小説家、頑張ってくださいね」

顔に火がつくどころの話ではなかった。

(うわぁあああああ!)

俺は領収証を受け取ると、それこそ逃げるように病院を去った。

(あの馬鹿文が病院の職員全員に渡ってるなんてー!)

ピロリが消えた喜びなんて、その時、微塵も感じる事が出来なかった。

(こんな事、誰にも言えないー!)

その事でいっぱいいっぱいだったのである。

しかし…。

時間がそれを忘れさせた。

『ピロリ菌が俺の体から去った』、この事が現実として認識できるようになり、それに付随する恥ずべき事件も、

(オイシイ話やん…)

そう思えるようになったのである。

「ピロリ菌がいなくなった福山裕教をよろしくー!」

会社で、声高らかに『脱・ピロリ宣言』をしながら、

(これで、実際に小説家になったら凄いよなー)

そう思ったりもした。

プロポーズをやった記念すべき12月24日…。

あれから丸三年経ったこの日、満を持して、

「もの書きになる!」

その漠然とした目標を打ち立てたいと思う。

(どうなるかは分からんが、5年くらいは不退転の決意でこの事に臨みたい…)

プロポーズに使用した300球の温かい電飾が、燃えるハートを一層かきたてるのであった。

メリークリスマス!

 

 

ポチッとな (02/12/23)

 

自分…。

会社では、設備の設計をしているのだが、つい先日、冷や汗タラタラの思いをしたので、その事を報告したい。

定時後の事である。

設備のプログラムをちょっとばかり書き換え、それを流し込もうとしたのであるが、その流し込みのコマンドに、

『一括転送』

『個別転送』

この二つがあった。

一括転送にしても、個別転送にしても、流し込むプログラムを選択して流す仕組みで、

(この二つのコマンド、どう違うんや、サッパリ分からん…)

俺は気にする事なく、何となく豪快な感じのする『一括転送』で、書き換えたプログラムを流し込んだ。

それは3分ほどで終わり、俺はいつもの様に、

(さ…、定時を10分ほど過ぎた事だし帰るか…)

帰路につこうとしたのであるが、転送終了と同時に現れた操作画面を見て、魂が抜ける思いがした。

この設備はNC旋盤のモノマネみたいな、ガリガリとアルミを削る設備なのだが、雑多な機種が流れ、その数は優に100を超える。

その100種以上を切削するための『データ』が綺麗さっぱり消えてなくなっているのである。

「あ…」

俺は叫ぶわけでもなく、うろたえるわけでもなく、ただただ無言で操作パネルを操り、全てのデータが消えている事を冷静に確認した。

走馬灯の様に、これを立ち上げた時の苦い思い出が浮かんだ。

(あの時、一週間くらいかかったなぁ…)

冷や汗が流れた。

俺は足音をたてることなく、人気が薄い場所の電話に向かうと、設計の連中に小声で尋ねた。

「一括転送って、どういう意味?」

設計は元気いっぱいに返してくれた。

「全てを消して、選んだものを流し込むという意味です!」

この一言で全てが終わった。

無論、バックアップなどとっていない。

ワラにもすがる思いで聞いてみた。

「消えたデータを元に戻す方法は?」

「ないっすね」

即答…、だった。

俺はトボリトボリと設備に戻り、あの一週間を少しでも取り戻すべく、地道に復旧作業に入った。

一時間くらいしてからであろうか、

(こりゃ、終わらん…)

その思いが陽気に脳裏を駆け抜けた。

同時に、失態を隠そうとする初々しい気持ちがバラバラに弾けた。

俺は、現場の職長席に軽いステップを踏みながら走り寄り、

「明日、明後日くらい、設備止めてもよかですかー?」

首を傾げ、可愛い素振りをつくりつつ聞いた。

声は、サリーちゃんに出てくる『よっちゃんの声』である。

「何だ、どういう意味だ?」

瞬間、職長は眉間に皺をビッと寄せた。

(駄目だこりゃ…)

その皺で全てを悟ったが、

「データを全部、消しちゃったのね…」

続いて、つぶやきシローを彷彿とさせる言い草で言うと、職長は間髪入れずに返した。

「徹夜でやれ!」

それから、夜を徹しての復旧作業が始まったわけだが、一時の間、見物人が絶える事がなかった。

「おー、福山ー、やっちゃったらしいなぁー」

「プフッー! 最高!」

皆、口々に言いながら、俺を指差して笑った。

職長に報告してから3分も経っていない、その時であった。

俺は、この人伝い情報転送のスピードに、

(ADSL、光通信だの何だのかんだの言ってるが、これも捨てたものではないなぁ…)

感心すらした。

結局…。

この事態を見かねた上司が手伝ってくれ、朝を迎えることなく復旧を終えたわけだが、その晩、つくづくこう思った。

(ボタン一個ポチッとな、これで全てが消去…、パソコンって怖いなぁ…)

その事であった。

俺は、その翌週も同じ様な『ポチッとな』の過ちを犯し、その翌々週にはパソコンが返すデータを信用したばかりに手痛いミスを犯した。

パソコンが切っても切り離せない、そんな環境になった今、これは危惧される事柄の中の、ほんの一事例であろう。

「凄いぞ、パソコン! 早いぞ、パソコン!」

時代の喝采通り、確かに凄いが、膨大な部品の中の、どれか一つでも壊れればただのゴミだし、下手すると暴走すらしかねない。

(俺達は、綱渡りの仕事をしている…)

そう思った。

話は変わるが、以前、猛烈な台風で道は寸断され、町が全停電になった時、

「水が来ないー」

「便所が流れないー」

「火がつかないー」

「腹減ったー」

庶民が、一斉に叫びたてている中、ある山の頂に住む男だけは、

(下界が餓鬼道の極みを見せている…)

と、鍬を片手に悠々と通常通りの生活を送っていた。

この家は、山水を生活用水としており、食料は自給自足、肉類だけが購入という仙人みたいな生活をしている家だった。

停電したところで、

(灯りがつかんだけじゃ!)

それだけだったという事である。

俺は、彼の家の『その話』を聞いた時、つくづく思った。

(強い…、これこそが真の強さだろう…)

この日記で触れたいのは、この『強さ』である。(触れられてないが…)

社会がパソコンの上に乗っかって、それこそ一本綱の上をフラフラと歩いている、この中において…、

(一体、何が強いのか…)

ついつい、考えてしまう。

人類だけでなく、地球上の全生物を一瞬にして滅亡させる『核ミサイル』のタズナも、コンピューターと、何人かの肥えた人間が握っている。

(コンピューターの部品がポロリと落ちて誤動作したら…)

(タズナを握っている人間が、間違えて、ポチッとやってしまったら…)

間違えていなくても、

(北朝鮮が本気になったら!)

と、余計なところまで考えが及ぶ。

俺ほどの優秀な人間でも『うっかり』がある…。

その現実が、パソコン社会の不安を否応なしに煽るのである。

(これで良いのか地球人?)

その思いは、止め処なく流れるし、先の失敗も、

(現代人への警笛さ!)

明るく、前向きに、都合の良いようにとられるのであった。(責任感なし)

とにかく…。

この話、極めて根が深く、今の俺で語れるところではないので、触れるだけ触れて止めておく事にする。

話の筋が大きく逸れて…、御免!

 

 

福山家スポーツ宣言 (02/12/15)

 

「学生時代はバスケット部かバレー部ですか?」

道子を初めて見た者は大抵そう聞く。

その上背、173cmもあるからだ。

それは、俺と同等で、詳細に言えば、俺よりも1ミリ低い、その上背である。

俺と並ぶと、その肩の高さは道子の方が圧倒的に高い。

が…、驚異的な俺のラストスパート(顔長さ)により、1ミリの勝利を得るに至っている。

つまり…。

道子は、小顔の長身という事であり、

(むむ…、こいつ、運動が出来そうな感じだぞ…)

人から見れば、そう評されるのである。

俺も、付き合い出した頃はそう思っていた。

が…、蓋を開けると、それは丸っきりの嘘っぱち、つまりは『見掛け倒し』である事が分かった。

最初、テニスをやらせてみた。

(気合を入れて教え込み、俺と道子、二人で組んで試合に出ようではないか!)

俺は、その思いに燃えた。

スイングのフォームを丁寧に伝授し、何度も何度も刷り込むかの如く教えた。

が…、駄目だった。

道子は、運動をやる前の問題として、教えて貰った事を瞬時に忘れる特技を持っていたのである。

更に、漫画の如き内股で、足が極めて遅く、

「いやーん、足がからまるよー」

頻繁にコケた。

「なんしよっとや、馬鹿チンがー! 今、教えたじゃにゃー!」

俺は何度も何度も血の涙を流しながら叫んだ。

結局、道子はテニスを投げだし、吐き捨てる様に、

「駄目なものに、何をやらせても駄目なんだよー」

そう言った。

能力に重ね、闘志もなかった。

俺は、ついにさじを投げた。

が…、一緒に試合に出るという夢は捨てきれず、粘り強い教え方に定評がある玉城さんという会社の女性(お局)に道子を預けた。

玉城さんは快く引き受けてくれた。

1時間も付きっ切りになって道子に球出しをしてくれた。

(玉城さんは我慢強いなぁ…)

俺が思っていると、汗だくの玉城さんが帰って来た。

俺の横に座り、汗を拭き、一つ溜息をつくとこう言った。

「駄目…」

この1時間で、玉城さんは明らかに老けた。

道子に教えるというのは、それほどに体力を要す事だった。

ほどなくすると、俺と道子はテニスを諦め、バトミントンを始めた。

これは、毎週水曜と決め、定期的にグループでやっているもののため、意外に続いた。

俺は道子に教える事を最初からせず、周りの根気者達に任せた。

周りの者達は、

「失敗しても大丈夫。素人だからねー」

笑顔で言いながらも、

(ああー、今、教えたのに…)

その深い落胆の色は隠せない様であった。

が…、これが根気者の本分なのだろう、懲りずに付き合ってくれ、1年ほどでラケットに当たるレベルに成長した。

(おお、道子が人っぽく運動している)

俺はその事に甚く感動し、そして震えた。

それまでの道子の運動はサル並であった。(サルの運動を見た事はないが…)

今の道子は、道具を使う事をおぼえた類人猿になったと言える。

が…、その天性の鈍さというものは変わらない。

なぜか、自らの関節を難しい方向へ、難しい方向へと誘い、

「あー、取れないー」

正面のゆっくり球でも、ノロン…と空振りしていた。

足も極めて遅く、一歩目が出ず、冒頭のとおり、よくコケていた。

(やっと、道子が少しだけ人間になった。 だが、試合は無理だ…)

バトミントンの試合に夫婦で出るという、小さな夢は捨てざるを得なかった。

そんな時!

バトミントン仲間がやっている『ミニテニス』なるスポーツと巡りあった。

試しに俺がやってみた。

ブヨブヨの大き目ボールを用い、体育館の中でやるテニスだった。

大きくて軽いボールのため、空気抵抗が極めて高く、スピードが出ず、更にはコートも狭い。

(これは!)

思ったところで、このスポーツの冒頭にあるテーマを聞いた。

『生涯スポーツ』

これであった。

つまりは60を超えた人達にも気軽に出来る、年配者向けのスポーツである。

足が遅くても出来ますよ。

体にガタがきても出来ますよ。

安全ですよ。

簡単ですよ。

その『生涯スポーツ』という響きは、明に暗にそれらを語っている。

「これしかない!」

俺は思ったが吉日、練習を二回しかやってない状態でいきなり試合に出た。

結果、いきなり市で二位になった。

(道子とでも、このスポーツなら勝てる!)

俺の思いが確信に変わった。

とにかく、競技人数が少ない。

更に、やっている人達の年代が生涯スポーツだけに極めて高い。

「道子に参入する事が出来るスポーツといえばココしかない!」

俺は、道子を半ば強制的にミニテニスに誘い込むと、

「うまい、うますぎる!」

それこそ十万石饅頭(埼玉銘菓)のCMの様に道子のプレイを褒めちぎった。

「そうかなぁ…、でも、私、これならやれるかも…」

道子もノッた。

それから一月ほど、週一回のペースで練習を重ね、ついに夫婦でスポーツの試合に出る夢が叶った。

待ちに待った、夫婦でのスポーツ大会出場である。

俺と道子は燃えた。

が…、結果はリーグ戦で四試合やり、一勝三敗という散々な成績だった。

しかし、一点だけ、

(おお!)

感動せざるを得ない点があった。

あれだけスポーツにやる気のなかった道子が、

「ああ、悔しいー!」

地団駄を踏んでいるのである。

道子なりに、そのミニテニスという世界に勝てる要素を見出したのであろう。

一時前までの、

「私に運動やらせても無駄だよー」

そう言い放っていた道子はそこにはいない。

「ようし! 福山家は今からエネルギッシュに活動するぞ!」

待ちに待った『福山家スポーツ宣言』の発令である。

ふと、春を見た。

(お前は俺の血をひいてるから少しは…)

思ったが、9ヶ月を迎えようとしているにも関わらず、寝返りもせず、ハイハイもせず、ただただ座ったままで、

「だーだー、どぅびどぅばぁー」

宇宙語をひたすら喋ったり、

「ふんっ、ふんっ」

言ってるかと思ったらウンコしてたり、

「うんにゃっ!」

不意に尻を上げ出したかと思ったら豪快に屁をふったりと、春に運動神経の欠片すら見出す事が出来ないのであった。

「あびづぢけ☆ししぽおぴ×ぶぶぶー」

少しもその場を動かないくせに、口だけは黒柳徹子の様に動いている春を見、

(俺達の子だなぁ…)

つくづく思うのであった。

 

 

意志薄弱 (02/12/9)

 

先週の月曜に計画表をつくった。

小説の執筆計画表を…、である。

今、西郷隆盛の影武者の話を書いており、これが予定よりも大幅に遅れていた。

完成を危惧する『その念』は俺の中で日を追うごとに増した。

その対応として、

「今週末は小説を書くぞ!」

俺は週末毎にそう宣言していた。

が…、蓋を開ければ、

「春ー、飛行機だー、ブンブンブンー」

日曜のサラリーマンのお手本とも言うべき『子育て』でその日を終えたりしており、

(しまったー! これじゃ年内に終わらないぞー!)

毎週、毎週、地団駄を踏む結果に終わっていた。

(どうにかせねば!)

当然、その思いがユラリと浮上する。

そこに文章学校の課題提出日12月10日が偶然に重なった。

(ようし! この日までに第二章くらいまで一気に書き上げるぞ!)

この思いから『計画表』が出来上がったというわけである。

さて…。

この小説の原稿量として、400字詰め原稿用紙500枚程度を考えている。

西南戦争が勃発し、西郷が死ぬまでをその影武者を軸として描く予定なのだが、まだ、この筆の段階では勃発すらしていないところで、

「一蔵(大久保利通)め! 我慢ならぬ!」

やっと、鹿児島士族が怒りだしたところである。

はっきりいって、入口である。

(まずい、まず過ぎるぞ…)

この思いは当然であり、計画表の冒頭には、

「来週頭、文章学校課題提出日までに田原坂あたりまで書き上げる!」

この決意が大きく書いてある。

田原坂というと、西南戦争で惨状を極めた『戦の山場』であるが、多分、そこまでの分量として200枚程度にはなるであろう。

以後、計画表の執筆予定時間をそのまま載せる。

 

12月3日(火曜):午前3時〜7時、午後8時〜10時30分

12月4日(水曜):午前3時〜7時

12月5日(木曜):午前3時〜7時

12月6日(金曜):午前3時〜7時、午後8時〜10時30分

12月7日(土曜):午後7時〜翌午前1時

12月8日(日曜):午後8時〜10時30分

12月9日(月曜):午前3時〜7時、午後8時〜10時30分

 

これであり、この計画表の題目は『魔の小説週間』と付けた。

(むむむ…、何と素晴らしい出来…)

俺は興奮状態を保ったまま、その計画表に酔いしれた。

(これなら、200枚くらい書けるだろう…)

そう思った。

水曜は恒例のバトミントンがあり、木曜は仕事で遅くなる事が分かっており、日曜にはミニテニスの試合がある。

それを考慮しての、『無理の無い計画表』であった。

無論、それを迷う事なく、一番の伴侶である道子に見せた。

「また、こんなもん作ったのー。その時間を執筆に回せばいいじゃーん。どうせ無理だよー。それに朝書くのー。起こすの私じゃーん。面倒臭いじゃーん」

道子は俺の『熱意』を、一つの賛同を示す事もなく、それも腹立つ事二倍の東京弁で痛罵した。

「うるしゃーった!」

俺は冷徹・道子を一喝すると、計画表を一番目立つところに貼った。

(春は分かってくれるよな、俺の燃える心が…)

ふと、春を見たが、

「あぶでぃばどぅべー」

わけの分からない宇宙語寝言を発しながら、スヤスヤ寝ていた。

さて…、それから『魔の文章週間』が始まった。

火曜、水曜と午前3時に起床し、眠い目を擦り擦りパソコンに向かった。

なぜ朝か?というと、それは実父・富夫の名言による。

「人間ってのは、朝が一番冴えるもんだ。人間はフクロウではない。ニワトリだ」

これを10年くらい耳元で言われ続けたため、俺の中に、

(本気の時は朝に限る…)

その思いが根付いたのであろう。

完璧に、富夫の『刷り込み成功』といえる。

道子に至っては、ぶつぶつ言いながらも俺を起こし、コーヒーを入れるなどして、涙ぐましい協力をしてくれた。

が…、それは一日で終わった。

二日目からは、

「もう、目覚ましがうるさいよー。春の夜泣き、福ちゃんの目覚まし、これじゃ寝れないよー」

道子の最重要項目である『睡眠』にかかってくる問題であるだけに、本気で怒り始める始末となった。

これを受けてか、木曜あたりから予定が狂い始めた。

その日…。

後の日記で書こうと思っているが、設備のプログラムを修正する仕事があり、それを定時後にやったのであるが、あろう事か、

「ポチッとな」

指先一つでプログラムの中に混在する数値データを消してしまったのである。

パソコン時代の最も恐るべき失策であろう。

「うぉー! やってもーたー!」

それから俺は深夜に至るまで復旧作業を行う事になった。

これで完璧に狂った。

翌朝、起きれなくなり、木曜日が空白の一日となった。

翌金曜、この日は会社を午後から上がり、ピロリ菌の検査に走った。

この検査を行うためには12時間以上の絶食、絶水が必要とされる。

俺は金曜の朝に検査を受けるつもりで木曜の夕方から水と食料を断ったのだが、例の「ポチッとな」の一件で、午前中の出勤を余儀なくされた。

これにより、『23時間の絶食・絶水に突入』となった。

(辛い…)

それは、その一言に尽きた。

食いたいというより、水が欲しいのである。

喉がカラカラであった。

ピロリ菌の検査を行う際、水に溶かした薬剤を飲むのだが、俺はそれを瞬間で飲み干し、

「ぷはー、うまい!」

思わず洩らした。

「青汁のCMじゃないんだから!」

看護婦に電光石火でそう突っ込まれた。

家に帰るや道子の出す料理にガブついた。

食いに食い、そして、ビールを飲みまくった。

「うまい! たまらんねー!」

それからは、

「酔いが覚めるまで!」

そう言い訳しつつ、ダラダラと過ごした。

結局、その日も何も書く事なく寝た。

土曜…。

軽く夫婦で運動した後、

「たまには美味しいものでも食べに行こうよー」

道子が言い出したため、東屋という魚の美味い料理屋に寄った。

「天ぷらを食って、サッと帰ろう」

これが二人の取り決めであった。

が…、極上のウニが出るわ、ぷりぷりのヒラマサ刺身が出るわで、つい、

「一杯だけ」

と、焼酎を頼んだ。

東屋の大将は、大ジョッキでいっぱいいっぱい、芋焼酎をオンザロックでくれた。

「一杯はいっぱいだろぉ!」

大将の豪快な一言が俺には泣けるように嬉しく、俺はそのまま酒宴に突入した。

常連の人も交え、大いに盛り上がり、気付くと五合瓶が空になっていた。

「もう、福ちゃん、文章書かなきゃー」

道子がしきりに俺の腕をひっぱり、

「焼酎はうまかー」

俺が笑顔で返す、その問答が長々と続いた。

家に帰った。

当然、その晩もグッスリ寝た。

何人かに酔っ払って、

「今から飲むばい!」

電話したらしいが、それも記憶が曖昧な程に飲んでしまった。

「不覚…」

その一言に尽きるであろう。

日曜…。

これも後の日記であげようと思っているが、ミニテニスという体育館でやるテニスの試合があった。

それに、道子と組んで出場した。

リーグ戦で、一勝三敗という惨々たる成績であったが、道子にとっては初めてとなる運動系の試合出場で、よほどに興奮したらしく、

「次は絶対に勝つよー! ああ、くやしー!」

珍しく燃えていた。

俺は、というと、何やらそれで燃え尽きたらしく、ファミコンしたり、春の世話したり、月に一度の皿洗いをしたりと、雑務に奮闘し、そして寝てしまった。

翌朝、起きるや、これを書いている。

(俺のやる気はなくなってしまったのか?)

そう思わざるを得ない。

今日の晩は、会社きっての酔っ払いぶりを見せてくれる白根という先輩達と忘年会である。

提出は明日である。

「ま、勃発するところまで書ければいいか」

今に至り、その掲げる目標はミューンと低空飛行をし始め、その言動からもスゥーッと熱が引いたようでもある。

(いかん! いかんぞー!)

この『計画好き、実行力弱し』という、福山裕教精神体制は極めて根強く、此度もこれに苦しむ事になっているのである。

学生時代の、

「朝やろう…」

これで、朝は起きれない、この事を何度も何度も確認しているのに、富夫の言った、

「朝が最高」

この刷り込みを未だ信じきっている俺、

「馬鹿だなぁ…」

そう呟くより他はないのである。

ちなみに…。

「こんな日記書いている暇があったら小説書けよー」

その鋭いご意見が出るのはごもっともだが、俺もそう思っているのであえて言わないで欲しい。

分かっているけど、脱線してしまいたい時期なのである。

「お…」

窓を開けるとこの時期には珍しく雪が降り積もっていた。

一面、真っ白である。

しばし眺めた。

そして、ふと、溜息が洩れた。

「俺の原稿と一緒だ…」

その事であった。

雪は、今も降り続けている。

 

 

道子の子育て (02/11/28)

 

半年ほど前の『俺が道子に言った言葉』を取り上げる。

「お前は春に構い過ぎなんて!」

寝ても覚めても春に構っている道子に、

(明らかに過保護だ…)

俺はそう思ったのである。

大して寒くもないのに動き辛くなるほどの服を着せられ、ちょっと泣くと義母、義姉、道子、友人、それら総動員で春をあやす。

服、玩具は貰い物で溢れ、毎日違う服がお目見えする。

タンスは俺の所から次々と撤去され、急速な勢いで春のその陣地は拡大している。

春が泣けば誰もが寄り添い、春が笑えば誰もがもろ手をあげて喜んだ。

とにかく…。

そんな感じで、春は至れり尽せり『お嬢様風子育て』で育ったのだ。

(このままでは『神田うの』みたいな女になってしまう…)

俺は強い危機感をそこに覚えた。

ちなみに、この危機感を煽るものとして、社宅隣の山本家の存在も否めない。

山本家は福山家のお嬢様風子育てに対し、その逆ともいえる徹底的スパルタ教育を強行している家であった。

まず…。

『泣け、喚け、叫べ』を教育方針としているか如く、泣き出した赤子をしばし放置するのだ。

「うんぎゃぁぁぁあああ!」

ここの子の泣声は鶏の様な声で、極めて特徴的という事もあるのだが、とにかく山本家の泣声は社宅によく響いており、有名であった。

響くたびに、

「お、道子、また山本家だ…」

何度もその会話を交わした。

これに対し、福山家は正反対といえるだろう。

泣けば道子が飛んできて、

「あー、春ちゃん春ちゃん」

自ら抱くか、俺に強制的に抱かせるものだから、連続で泣いても3分がいいところである。

また、山本家の抱き方というのが特徴的で、猫を持つかの様にその頭を鷲掴みに持ち、ズルズルと引っ張ったり、ブンブンと振り回したりもした。

ボーリングの様にゴロンと転がした事もある。

キチンと胸元で抱きかかえている道子、延いては福山家とはえらい違いであった。

山本家の子育てに関しては、他からの便りもある。

ある日、同期の田邊という男が街中で山本家を見たらしい。

田邊は顔を引き攣らせ、その状況をこう語った。

「あれは絶対に虐待だ、虐待以外のなにものでもない、見てて鳥肌が立った」

が…、後に山本家の談を聞くと、

「別に…。普通に抱いてた気がするけど…」

これであり、結局は山本家のライオン的教育方針が客観的に証明された事になる。

これを受け、山本家の子はハングリーにグングン育った。

驚異的なスピードで首が座り、歯が生え、寝返りをし、とっとと捕まり歩きまでも始めた。

この山本家の子は春より一ヶ月だけ早く生まれただけである。

が…、その春との成長の差は歴然といえた。

山本家が捕まり歩きをしている時に福山家は寝返りもしていないのである。

(過保護とスパルタ、その違いが顕著に出た)

如何しがたい『育て方の差』だと思った。

冒頭での道子への訴えは、

(このままだと中身は神田うの、外見は山田花子(幼児体型)の様な子になってしまう…)

それを思っての事であった。

これが半年ほど前の事である。

さて…。

過去の話を終えたところで本題となる現在の福山家を紹介する事にしよう。

例により、『俺が道子に言った言葉』を数例挙げ、その状況を簡単に説明する事で紹介に変えたい。

「おーい、春が泣き喚きよるぞー」

春の真横にいる道子へ言った言葉だが、道子はこう返している。

「知らないよー、ほっとけばー」

はい…、もう一つ…。

「おーい、春ー、腹が減ってるみたいだぞー」

台所にいる道子に言うと、道子は振り返りもせず、

「まだ死にゃしないよ…」

はい…。

更にもう一つ、これは出来事。

俺が風呂に入っていると、春の泣声が聞こえた。

3分ぐらい経つと断末魔の叫び声みたいな声に変わった。

(おいおい…、道子は何をしよるんか…?)

思い、風呂のドアを開けて見渡すと、居間の中央に春が一人ぼっちで転がっていた。

「グギャァアア、グゥギャアアア!」

泣いているというよりも、もがき苦しんでいる様な声だった。

(そういえば、ちょっと前に道子がドタドタと玄関を出て行った音を聞いたな)

そう思った。

道子は灯油売りの声がしたため、社宅の下へ灯油缶を持って走り出たのである。

が…、それにしては帰りが遅い。

既に10分は経過している。

俺は春の濁った叫び声を聞いているといたたまれなくなった。

そもそも、湯温を適温にし、春と一緒に風呂に入るべく、ぬるい浴槽に入っていたのだが、この状態では春と一緒に風呂へ入るどころではない。

俺はスッポンポンのまま駆け上がると春を抱き、

「おー、春ー、泣くな泣くな!」

あやした。

3分くらいすると道子が帰ってきた。

「あれ、風呂に福ちゃんがいない」

玄関でのその声が第一声だった。

その後、スッポンポンで春を抱いている俺を見つけると、

「何してるの?」

あっけらかんとそう言った。

俺は道子の長時間放置を一喝し、続けて、

「森進一みたいな声で春は泣いてたんぞ」

そう状況を報告すると、道子は、

「なんだよー、泣かせとけばいいじゃん」

そう言い切った。

その時の道子の背には放置の神・山本家の像がハッキリと見えるようであった。

(出来ん…、俺には出来ん…)

スパルタ教育を望んではいたが、この一件で俺には絶対に出来ない事が分かった。

(道子は変わったなぁ…)

俺は道子をマジマジと見つめた。

よくよく考えると、子供が出来てからの8ヶ月で道子は母の階段を一気に駆け登っている。

過保護でオロオロしていた新米の母が、いつの間にか貫禄を持ち、

「なる様になるわよー!」

豪快な母に変貌していた。

今になってみると俺の方が、

「おい、道子ー、春は大丈夫かー?」

眉をへの字に折って心配し、

「なーに細かい事を言ってるのよ! ほっとけ、ほっとけ、エイヤー!」

道子は豪快に己が道を突き進む。

ここから半年前の道子を感じ取る事は微塵もできない。

何でもかんでも、

「消毒、消毒…」

言いながら、咥える物の煮沸消毒はもちろんの事、自らの乳首までも専用のシートで消毒してたり、

「母乳のために無添加、高タンパクな食事をとらなきゃ」

自らの食事を徹底的に制限していた『その影』は今の道子には一切ない。

今…。

春が床を舐めようとも、転がっている埃を食おうとも、

「もう、気にしだすとキリがないから見てない事にするのが一番よー!」

道子は声高らかに『その名言』を吐いている。

(母は強しというが、確かに強い。道子…、お前は確かに強くなった…)

夜泣きにも屈せず、臭いウンコにもめげず、ご機嫌斜めも何のその…。

毎日の『弛まぬ子育て』でこそ培える『母は強しの的確な像』、確かに見せてもらった気がするのである。

(いつもいつも、感謝感謝…)

つい、心底そう思った。

が…。

風呂上りにスッポンポンで居間に現れ、

「どうせオッパイをやらなきゃいけないからねー。一石二鳥、一石二鳥…」

言う道子に、

(いくら母が強いと言っても『恥じらい』は別ものだろぉ…)

陰で泣いている夫・福山裕教がいる事を道子は知らない…。

 

 

福山雅士のとある瞬間 (02/11/26)

 

11月23日から25日にかけて、実弟の雅士が埼玉に来ていた。

無論、雅士は故郷・熊本から来ており、何かしらの用事を携えて来ている。

その用事を雅士の言葉を借りて紹介する。

「野口英世の故郷に行きたかー!」

これであった。

雅士は漫画・野口英世を読み、なぜか、

(野口英世って奴はなんて素晴らしい人物なんだー)

ヤンキー上がりのくせに甚く感動し、その漫画を何十回も読み返したらしい。

そして、読み返している内に、

(ああ…、彼の故郷、猪苗代に行ってみたい…)

その思いが溢れ出し、ついには我慢出来ず、

「兄ちゃん、11月に埼玉に来るけんが、猪苗代まで連れて行って!」

その運びとなった。

雅士は23日の昼過ぎに入間に着いた。

着くや、道子の実家である春日部に移動し、その晩はそこへ泊まり、翌朝一番に高速道路を駆使して猪苗代を目指した。

5時30分の出発であった。

車中、雅士は何をとち狂ったのか、

「兄ちゃん、俺に幕末の話を教えて」

俺に日本史の教授を請うてきた。

聞けばここ最近、雅士は歴史モノにはまっているらしく、時代劇やNHKの『その時、歴史は動いた』を欠かさず見ている状況らしい。

俺も『その時、歴史は動いた』は毎回見ていた。

従って、話は合う。

雅士の求めに、

「よし来た!」

俺は熱っぽく応えた。

雅士の求める『幕末の話』は俺にとって得意分野でもあった。(たまたま、ここ最近で猛烈に勉強した時代だった)

雅士は、俺の歴史話に、

「なるほど」

「はぁー」

「歴史は面白かねー」

いちいち頷き、更に先の話を求めた。

昔の雅士と俺では考えられない『兄弟の会話』であった。

過去の雅士は典型的田舎ヤンキーで、口を開ければ、

「タバコはうみゃー」

「バイクに乗りちゃー」

「車はシャコタン、マフラー変えてパンパンいくばい」

などと、たわけた事ばかりを言っていた男であったが、それが、

「はぁ、勝海舟はさすがばい」

そんな事を口走っているのだ。

(時は人を変えるなぁ…)

そう痛感した。

雅士の過去にもう少しだけ触れてみる。

彼は、俺がホンダライフに乗っている頃、学生上がりの分際でセルシオを購入した。

「兄ちゃん、男はやっぱ、こういう車に乗らんといかんばい!」

親達の反対を押し切ってそれを購入し、意気揚々と運転していたのだが、一ヶ月ぐらいで単身事故を起こした。

これにより、自慢のセルシオは大破した。

これが引き金で雅士の人生はユラユラと揺らぎ出す事になる。

その後、雅士は努めていた大手の会社を辞め、何やら地元でフラフラしているかと思ったら熊本市のブティックで働き出した。

昔から兄と違いオシャレマンで、周囲にもそれは似合いの職だと思われ、俺も道子もその恩恵に多少はあずかった。

が…、それも一年くらいで辞めた。

それから雅士はいわゆるフリーター生活を続け、ついには、

「兄ちゃん、俺は東京に出てバンドマンを目指す! 田舎に縮こまっていちゃ何にも出来んばい!」

夢物語の典型みたいな事を言い出した。

が…、俺はそれにもろ手をあげて賛成した。

「色々やっとけ。若い間はお互いに色々やらにゃー」

そう言った。

が…、次に俺が熊本へ帰った時、雅士はこう言っていた。

「兄ちゃん、やっぱり田舎の良さがしみじみと分かった。田舎って素晴らしゃーね」

内情はさっぱり分からないが、180度、その考えが変わっていた。

それから雅士は実家を出、一人暮らしを始めた。

フリーターの間には色々な職を経験したようでもある。

「兄ちゃん、俺はここ数年でたいが(とても)良か経験ばしたばい…」

猪苗代までの車中で雅士はそう洩らすと、

「俺、春から就職が決まったけん」

そう言った。

聞けば、アメリカ流れの服を小売に卸す仕事らしい。

少し余談になるが、俺は雅士の話に出てくる『アメカジ』という言葉を知らず、その時、拭いようの無い大恥をかいた。

「兄ちゃん、知ってて当たり前の言葉ばい!」

突っ込む雅士に、

「ふざけんな! そんな服飾関係者しか知らん言葉を出されても知るかー!」

怒鳴ったが、のち、色々な人に聞いて確認すると、俺以外全ての人がその言葉を知っていた。

俺は、雅士が言った「アメカジを中心に売る」という言葉を、「雨か地を中心に売る」と捕らえ、

(何とスケールが大きな仕事をするのか…)

そう思ってしまった。

(反省、反省…)

である。

さて…。

猪苗代に着くと、気温は3度で風が轟々と吹き荒れていた。

雅士たっての願いで猪苗代湖畔へ行き、その後、野口英世記念館に行った。

雅士は、

「うわー、野口英世の生家があるー、すげー、うおー!」

はしゃぎ回り、開館と同時に駆け込んだ。

俺と道子は行った事があったので、近くのガラス館やお菓子館で時間を潰した。

雅士は一時間半も記念館にいた。

出てきた時には、

「最高だった。良かった、良かった、最高ー!」

上機嫌であり、手には『写真で語る野口英世』とかいう本を持っていた。

身銭を切って買ったらしい。

雅士は言う。

「俺は野口英世にこれからもハマるばい!」

手に持った本を抱き締め、

「ああ、もうこれで思い残す事は何もない!」

そうまで言った。

(何ゆえに雅士はそこまで野口英世を愛せるのか?)

熊本からわざわざ飛行機を使って記念館に訪れ、そこで資料を買い求め、

「さあ、勉強するぞー」

言う雅士の『その気持ち』が俺には全く理解できなかった。

が…、

(その抱き締められている野口英世が雅士の人生を大きく変える事になるかもしれない…)

それは思えた。

なぜなら…。

人は皆、小さなキッカケを境にその揺らぎを反転させている。

偉人はそれを教えてくれる良い前例であり、だからこそ歴史が身近に感じられ、面白くも感じるのであろう。

偉人を我流にまね、自己を研鑚し、来るべき小さなキッカケを待つ。

これは、俺が前に想った『裕教流・偉人物真似自己研鑽法』であるが、雅士もこれを導き出したのかもしれない。

(あいつは野口英世に何かを見出したか…)

その思いが俺の中で浮かんでは消えている。

続けて、

(俺も雅士も親父に似てきたかなぁ…)

ふと、濃い血の繋がりを感じ、苦笑いをこぼしてしまった。

娘の春は横でぐっすりと眠っている。

底冷えのする夜ではあったが、こいつに同じ血が流れていると思うと、何だか温かい気持ちになるのであった。