祭と勢子と西野宮
2009年8月6日掲載
南郷往還という古い道が我家の上を走っている。熊本を出、俵山の脇を通り、南郷谷を横断し、日向の国へと続く道である。道の大半は消えている。もしくは消えかけている。が、南郷谷の生活圏においては舗装され、今尚生活道路として利用されている。
我家は下田という集落にある。中世、下田城があったから下田であると人は言っているが、そうではなく、もっともっと古くから下田であったと思われる。
この近辺には縄文時代から人が暮らした形跡がある。流れていた狩猟民族はこの辺りで腰を据え、山を焼き、焼畑と狩猟の二本柱で暮らし、米の到来と共に田を開いたのではないか。
米の到来は、ここカルデラにおいて阿蘇家の到来を意味する。突如現れた阿蘇家は米という魅力的な作物を引っさげて、その勢力を拡大したと思われる。阿蘇だけではない。米を持った神様が全国津々浦々に現れ、先住民をならしていった。
「米はいいぞぉ! ウロウロせんでいい!」
熊襲、隼人のような反発もあったであろうが、とにかく米というのは理屈ぬきに魅力的な作物であった。魅力の最たるは定住可能な安定感にあり、定住は村を造った。下田は早い時代、米に下った雰囲気があり、早くから村の体を成したと思われる。
日本の神様は複雑に入り組んでいる。が、背骨や根幹はあって、つまり米である。米は天皇であり、伊勢神宮であり、阿蘇神社であり、西野宮である。
米と共に阿蘇家がカルデラに入り、宮地に社を構え、宮地から方々に枝社を落とした。
下田には古くから祀られていた神がいたであろう。想像だが下田の屏風となっている夜峰の神を素朴に祀っていたと思われる。阿蘇家から派遣された稲作の民は、生活に稲を浸透させると共に神様の質も変えていったに違いない。山の神が米の神になり、西野宮になり、人を留め、下田という村が生まれた。人は増える。氏子も増える。税収も上がる。下田は郷社を抱える村になった。
日本全国津々浦々、稲作村はそういうかたちで伸び、納税による格付けで治められていった。
先住民の焼畑は牧になったと思われる。牧では田畑を耕したりモノを運搬するための牛馬が育てられ、阿蘇だけではなく、熊本平野にも牛馬を提供するようになった。これだけ広大な草原が千年以上も維持された理由は安定した牛馬の需要による。が、近年、耕耘機や車の登場で牛馬は働く場を失い、食肉専用になった。当然の流れとして牛馬の需要は減った。牛馬の需要が減れば、これも当然の流れとして草原は消えゆかねばならない。草原が消えゆく事に政治は危機感を募らせ色々手を打っているが、結局は観光資源の保護である。草原が消えるのは惜しいが、必要ないものが消えるのは世の常であり、自然の流れであろう。
集落の重要な区役として今も野焼きが続いている。前述したように野焼きの意義が失われつつあるが、それに代わる意義として観光資源や風景の維持、保水があてられている。人手不足にはボランティアもあてられているが、やはり単なるイベントになっている感は拭えない。牛馬を欲する人がやる野焼きと我々の野焼きでは決定的に迫力が違い、内側にいながら消えゆく定めを感じずにはいられない。
文明人は草原の減少を嘆き、併せて文明の拡大を望んでいる。矛盾を抱えてもがくのは人間の宿命かもしれず、阿蘇の山野は、その良い典型と言えるかもしれない。
さて、下田であるが、その名は西野宮の発生と共に生まれたのではないか。阿蘇家、つまりは神様であるが、それへ捧げるための田んぼが下田に置かれ、納税の仕組を早い時代に組み込まれた稲作集落だと思われる。下田には下田城があり、阿蘇家の家臣が住んでいたが、その祖は派遣されたものではなく、村君(むらぎみ)であろう。村の長を米の政治に組み込み家臣とし、税の徴収を担当させ、中世に至って屋敷を城に改めた。乱世のならいに沿ったものだと思われる。
村人は所定の税を統治者に納め、その統治者も更に大きな統治者に税を納めねばならぬが、人間が人間に納めるというのは当然ながら納得がいかない。阿蘇家が入った当初、どういうカタチで税を取ったか知らぬが、例えば律令制を敷く際には租庸調というカタチで税を取った。米を差し出し、労力を差し出し、更に何かを求められる、そんな税制を納得させるには税の受け取り先が人間ではまずかった。
「自然という神様から米を頂き、その一部を神様にお返しする」
そういう理屈でなければ、焼畑と狩猟で暮らしていた民族に税というものを理解させる事はできなかったに違いない。
むろん、米の思想に屈せず昔ながらの焼畑と狩猟を続け、細々と生きる人々もいた。例えば山窩(さんか)であり、流れ者の漁民である。彼らは米の仕組から離れ、課税から離れ、すこぶる自由であったが定住する事は困難で、生活は苦しかった。流れ者が食うに困ると稲作村で物乞いをしたらしく、そういう人を春窮の民(しゅんきゅうのたみ)と呼んだ。
米というのは政治と税が付属する極めて厄介なものだったが、それ以上に魅力的であった。米は神になり、人を定住させ、村や国を整えた。
米に早くから従った村はナントカ田という名前が多いように思われる。ナントカ田の安定ぶりを見た春窮の民も米に従い定住を試みるようになった。その走りは土幕民と呼ばれ、ナントカ田の人から蔑視されたらしいが、村の体を成すに至って集落になった。どこで線引きされたのか分からぬが、「田」の付く付かぬで米に従った時期が分かるような気がする。
ちなみに狩猟民族である山窩は昭和の中頃までいたらしい。山中を流れ流れて生活し、拠点はあるが、その拠点にほとんどいなかったらしく、社会から遠く離れた。山窩は貧しいなりに独自の文化を培い、良い営みを繰り返していたであろうが、義務教育の徹底で定住を余儀なくされ、社会に組み込まれた。熊襲や隼人の生き残りのようで個人的に恋焦がれるものがあるが、定住後の生活は悲惨だったらしく、猛烈な差別を受けた。
中国やアフリカにおける少数民族の状況を見ても分かるが、社会における異分子の扱いというものはまことにひどい。社会を肯定させるための見せしめとなっており、集団心理の影の部分といえるだろう。
下田は稲作社会における典型的農村として栄えた。冒頭に書いた南郷往還が走っている事もあって宿場としても賑わったようで、下田の社・西野宮は郷社という高い地位を得た。それだけ税を払い、稲作社会に貢献してきたという事で、優良企業が国に表彰され、それなりの地位を得る現代社会と何ら変わりはない。人は、くれる人を褒めるようにできている。
阿蘇家の重要な行事に巻き狩りというものがある。農村の天敵である野獣を取り巻き、下野という場所へ追い込んで一網打尽にするという実益を兼ねた武家の儀式であった。その日は阿蘇家の広い所領(山都町、益城町も含む)から人が集まったらしく、集合場所は西野宮だったらしい。西野宮で何らかの儀式をやり、それから巻き狩りに出た。下田は稲作社会の一農村として鼻高々だったに違いない。
それからの西野宮がよく分からない。天正の合戦で阿蘇家は島津に屈するのであるが、その際、下田城も滅びている。下田城が滅び、山城が下田の屋敷に戻った。そこに住む人も阿蘇家の家臣から元の村君に戻ったのではないか。もしくは別の人が村君として入ったのではないか。
西野宮の場所も変わっている。いつ変わったのか定かでないが、下田にオゴモリという組があり、その近辺に古い時代の墓がある。下田家の墓らしい。今は公民館が建っているが、その近辺こそ古い時代の西野宮であろう。現在の西野宮はそこから二キロほど東へ行ったところであるが、想像するに、天正の合戦で焼かれ、新たな社を再建する時に移したのではないか。色んなものが大きく変わった時代、氏神の場所を移すというのはありえるように思われる。また、西野宮の境内には樹齢四百数十年のケヤキがあり、植樹の時期がほぼ天正である。
秀吉の統一以降、阿蘇家は政治から離れ、肥後一の宮としてのみ残った。阿蘇家は西野宮との繋がりを残したが、氏子との政治的関係は切れてしまった。この時代、どこもかしこも土豪は同じような状況になり、食えなくなった。むろんゴタゴタが頻発した。秀吉は肥後藩主として佐々成政を派遣したが地の暴発(国衆一揆)を招き、それが元で佐々成政は処刑された。次に来たのが加藤清正であるが、清正は見事に肥後を治めた。清正の手腕もあろうが、佐々成政が武力をもって土豪を駆逐したお陰といえるかもしれない。そういう意味で、佐々成政を肥後に投げ込み殺したのは秀吉の策ではないか。そういう気がしないでもない。
阿蘇家と西野宮の関係は稲作の隆盛が続いている限り蜜月であったと思われる。稲作社会、つまり神道であるが、それは稲を祀っている段階において、社会を安定される妙薬であったに違いない。が、次第に劇薬と化した。政治の産物が更なる政治に担がれた。まず幕末に担がれ、明治維新が成功した。明治政府は他の思想を切り捨てる廃仏毀釈を強行し、思想の一本化を図った。昭和初期になると政治を軍部が握るようになった。こうなると稲作神道から稲の匂いが消え、天皇陛下万歳になった。
これはつい先日、高森在住の宮司さんから聞いた話であるが、GHQは日本中の神社をぶっ潰そうとしたらしい。それを阻止し、昭和21年、神社本庁を設立し、日本の神社を守ったのが宮川さんという人で、その人、その血が西野宮の宮司らしい。が、その血が絶え、今現在、西野宮は宮司不在になっている。
何にせよ、西野宮の鳥居の脇にはロケット弾のモニュメントがあり、ニッポンの狂った時代がカタチとして残っている。
狂った時代に失ったものの一つに若衆組(若者組ともいう)がある。集落は若衆組を持ち、若衆組は若衆宿を持った。一定の年齢を超えた男衆は若衆組に入り、若衆頭の指示を受けた。大人になるための階段として、若衆組はどの集落にもあったもので、青年教育、婚姻の斡旋、防災、勢子などなど、地域における若衆組の役割は実に大きかった。
これを利用したのが軍部である。若衆組は青年団と名を変え、政府に奨励され、そのカタチを大きく乱した。戦後、若衆組は本来のカタチに戻ったが、高度経済成長による都市、農村の変貌によって衰退し、今では風前の灯になっている。
(若衆組に代わるものが消防団ではないか?)
私は地元下田の消防団に身を置き、防災だけでなく、祭の勢子、イベントの準備、人探し、その他雑事に追われながら、ふと、その事を思った。が、詳しい人に聞いてみると消防団と青年団は出所も成り立ちも全く違うらしい。現に近辺の集落を見ていると消防団とは別に青年団に代わる組織を抱えている。が、そのメンバーは消防団と同じで、防災はそれ、祭(イベント)はあれと組織を分けてるだけに過ぎない。つまり、全てを消防団でやっている下田の事情と何ら変わりはなく、ウンチクを言えば色々違うのだろうが、下田消防団は実質若衆組といえるだろう。
ところで阿蘇神社には今も雑多な祭が残っている。手元の資料を見てみると32回も祭があり、全て米に関する祭である。生活に稲作が浸透していた名残であろうが、32回は凄まじい。11日に1回も祭がある。
これら阿蘇神社の行事も一時は簡素化された、もしくは簡素化しようとしたに違いない。が、国の重要無形民俗文化財という指定を受けた事で今も続くに至った。幾つか見に行ったが農耕に関する祭というより観光のための祭になっていて、そういう風にしなければ残っていかない時代であろう。その点、前述した牛馬を必要としない牧野と同じようなもので、祈りを必要としない祭は現実問題として萎むしかない。二者に共通しているのは観光にすがっているところで、観光は凄まじい勢いで文明化しつつある。文明に追われ、文明にすがり、文明の破綻と共に人は我に返るのだろうか。分からない。
阿蘇下田・西野宮神社である。
阿蘇神社と比較すべき材料として、西野宮の立場は見事である。神社として阿蘇神社に負けず劣らず立派だが全く観光地化されていない。従って、そこで行われる祭も文化財に指定されず、世の流れをモロに受け、簡素化の一途を辿った。どちらが自然かというと、間違いなく西野宮神社であろう。文化財指定や観光地化というのはサプリメントや化学肥料であり、営みとして自然じゃないように思える。
例えば明治、例えば大正、西野宮は阿蘇神社と同じだけの祭をやっていたであろう。どういう風に簡素化されたか知らぬが、今残っている祭は夏祭りのみである。同じ時期にある阿蘇神社の祭を見てみると御田祭(おんだまつり)がある。最も規模が大きく賑わう祭が残ったものと思われる。
前に書いたが、下田消防団は若衆組であるから時として勢子になる。祭の三日前から現代版若衆宿である消防詰所に集まり、「歌ならし」という儀式をやる。何をやるのかというと祭の歌をテープで聞きながら呑む。私は消防二年目なので今が全てであるが、数年前までは一週間集まり、徹底的に憶えさせられたらしい。下っ端は先輩の前で歌わされ、歌えなければ帰れなかったそうな。
たった数年で祭は変わりつつある。方々で古い祭が消え、よく分からぬ祭が次々に生まれている。稲作民俗が日本に食い込んだのが弥生時代とすれば、二千年も農耕祭は続いている。その間、姿カタチは色々変わり、原型を見出す事は困難であるが、とりあえず今まで続いた。この時代のように打ち捨てられる事はなかったであろう。
文明は意味や理屈を徹底的に追求する事で出現した。その文明から見れば、年32回の農耕祭は全くもって意味不明であり、農機具や自然科学の発達がそれに拍車をかけた。当然の流れとして、全国津々浦々の集落から農耕祭が消えていった。
そういう過程を想う時、下田という集落は古い農村だけに健闘しているように思える。簡素化されつつあるとはいえ、観光地化に頼らず祭を維持している。自力で祭を維持するには集落の心以外に頼るべきものがない。米をつくっている者も、トマトをつくっている者も、自動車部品工場で働いている者も、私みたいな自営業も、全てが文明に乗っかって、それでいて祭を維持するというのは並大抵の心意気ではない。すがるものは一つ、
「昔からやってきたものを絶やしてはならぬ」
つまり、時間に対する愛着である。
三日間の歌ならしはテープを聞きながらウチワを見る。ウチワには勢子の歌がカタカナで書かれていて、それを見ながら呑みながら、ゆっくり時間を過ごす。数年前はこれを憶えなければならなかった。更に前は歌えなければならなかった。その更に前は曲目が多かった。簡素化というのはこういう風に進むらしく、十年一昔は別世界である。
そんな中にあって、少なくとも下田の消防団(若衆組)は祭を継ぐべきだと考えている。
「継ぐ、継ぎたい」
そう考えた時、致命的なのは歌を歌える人がいない。頼りは手元のテープであって、その歌い手の老人も病床に臥しておられる。
「まずいんじゃないですか?」
「まずいな」
そういう事で、テープをCDに落とした。ウチワに書いてある歌は五曲ある。が、テープは二曲だけであり、この時点で三曲の節回が闇に消えている。現に祭自体が二曲だけに簡素化されていて、テープの命が祭の命といえるかもしれない。
カタカナで書かれた歌の意味を色んな人に聞いてみた。誰一人として知る人がいなかった。言葉の意味など知る必要はなく、阿蘇神社で歌われているそれもカタカナで書かれていて、歌えれば良いというのが稲作祭の伝統であった。が、現代人のいらん癖で調べた方が良いようにも思われた。意味なきものを除外する社会にあって、意味を知る事は文化の存続に繋がるかもしれない。
とりあえず阿蘇神社に走った。歌が阿蘇神社から流れてきたなら阿蘇神社に聞けばいいと思った。思ったが最後、仕事が手に付かなくなり、ウチワを持って走った。
阿蘇神社は実に親切だった。「西野宮の勢子である」と告げると応接室に通してくれ、資料を紹介してくれた。村崎さん(故人)という人が阿蘇研究の権威らしく、その方が書かれた「阿蘇神社祭祀の研究」という本であった。阿蘇神社祭祀の歌を細かく調べられていて、実に心強かった。似た歌詞がある事を期待し、図書館にこもると、意外にも同じ歌詞が多かった。ただ、口伝であるから変化や付け加えも多く、一部に至っては、全くもって意味不明であった。修験道、もしくは密教の文言が混ざっているように思われ、こういうものは学者の解析を待ちたい。
とりあえず分かる範囲で調べ、分からないところは勝手に想像した。学者はこういう仕事を痛烈に批判するが、私は学者でなくカラクリ屋なので、気ままに突き進み、楽しくまとめた。(調べた結果はこちらを参照、詳しい方はご教授願います)
現在行われている西野宮の祭では神輿が出る時に「田の神起」(たのかみおこし)、祭の最後に「ガクオサメ」を歌う。他はどこで歌うのか分からず、節回の消滅と共に消え果ててしまった。
「田の神起」がいい。半分は文献にないから想像であるが、基本、謡って神に参ると言っている。植えれば神(阿蘇家)も田主(下田家)も歓ぶという。それから先は勝手な想像だが、「稲を植えなければ元の狩猟民族に戻るよ」と脅している。集まって細々と生活し、住む場所がなくて山中を流れる。落ちぶれるのは目に見えているから、植えて実を取り、税を払いなさい、そう言っているのではないか。
「ガクオサメ」は耳が痛い。これは阿蘇神社のそれと同じであるが、来年も祭をやれよ、楽を絶やすなという事であろう。勢子は意味が分からず、カタカナのそれをテープと共に歌っているが、意味を知ると歌いにくくなる。祭は年々簡素化され、風前の灯火となっている。農業のカタチが変わり、就労のカタチが変わってしまったから、自然な流れであるが、それを見越した先人が「絶やすな!」と言っているのは耳が痛い。耳の痛さこそ日本人であり、時間に対する愛情である。
ところで今年の祭は準備万端で臨んだ。昨年、何も知らずに参加したところ、神輿が重く、肩が腫れ上がってしまった。その後、打ち上げがありコンパニオンが来たのであるが、それと戯れたくとも腕が上がらず、猛烈に後悔した。だから今年はバスタオルを用意した。バスタオルを肩に敷き、神輿を担ぐつもりであった。が、雨であった。雨は神輿を傷める。更に太鼓がいけない。太鼓は濡れると裂けてしまう。
「今年は神輿を出しません!」
総代と宮司さんの決定が出た。密かに勢子は喜んだ。残念そうにしているが、その裏では胸と肩を撫で下ろした。次いで呑み会モードになった。
段取りは神輿担ぎをすっ飛ばし、「ガクオサメ」という終わりの歌になった。勢子が宮前に集合し、歌う準備が整った。が、一部ギャラリーから苦情が出た。
「一基でいいけん神輿ば出さんですか!」
若者はいざ知らず、老人たちは半世紀以上も祭を見ている。神輿を出さずに終了するなど考えられないらしい。又もや総代と宮司の話し合いが始まり、一基だけ神輿を出す事になった。宮前に神輿を引き出し、稲投げ、賽銭、神輿くぐりをやるらしい。
神輿を引き出した。すると一部ギャラリーの血が騒ぎ始めた。
「回れ! 回れ!」
お宮の周りを回れと言っているが、総代の指示はお宮の前で停止である。停止した。が、「回れ」と叫ぶギャラリーが大勢である。神輿は自然と動き始めた。すると勢子の一人が「田の神起」のテープを流し始めた。
「ほい! 法被ば着らんか!」
神輿が動き出すと担ぎ手に法被が着せられた。ギャラリーは稲を持ち、神輿に向かって投げる。神輿に稲が乗れば今年も豊作らしい。
「ストップ! ストップ!」
神輿は民衆の中で一時停止させられた。停止した神輿は賽銭を受ける。賽銭を置いた老若男女は神輿をくぐる。これら挙動に何の意味があるかは分からない。とにかく伝統らしい。ギャラリーは稲を投げ、賽銭を置き、神輿をくぐらねば納得しなかった。むろん、そこには「田の神起」というBGMがあり、担ぎ手は法被を着ていなければならない。
太鼓の湿りを恐れていた総代もいつの間にかノリノリで太鼓を叩いており、お宮三周は意外に盛り上がった。勢子も勢子で中止を望んでいたが、神輿を見ると担ぎたくなるらしい。
「やっぱ、こればせんと酒が美味くにゃーね!」
我先に担いだ。
ちなみに、この祭は三つの集落で運営されている。加勢、下田、東下田であるが、元は一つの村であった。まず、下田と東下田が別れ、次に加勢が下田の分村として生まれた。分割の歴史に人口の伸びが見て取れるが、今となっては人が減ってしまった。特に若者が少なく、消防団も定員割れし、高齢化が進んでいる。
神輿は三つある。一の宮が下田、二の宮が東下田、三の宮が加勢である。村の発生順位であろうが、イチニノサンを付けるのは稲作民俗の得意技で、そこでもめるのも稲作民俗の特徴である。
阿蘇神社周辺は平成の大合併前まで一の宮という行政区であった。それは「肥後一の宮を持っている町」という稲作民俗の強烈な主張であり、そういう地名がニッポンにはごまんとあった。
何にせよ日本人の大半が該当する稲作民族の文化は、イチニノサンの格付け文化であり、それをもって色んなものを蔑視する事で社会の安定を図った。一部の稲作民のために泣いた人も多かったと思われるが、社会というのは、それをやらねば数年で破綻する弱き存在である。
弥生時代からの二千年というのは人の歴史としては極めて浅い。が、社会の歴史としては気が遠くなるほど長く、これを支えたのは間違いなく米である。車やパソコンは米に代われず神になれず、いずれ消えるか消えきれず、代わりに人が消えるかもしれない。
西野宮の境内は今日も静かに美しい。老人会がマメに掃除をやり、祭の存続を叫び、昔を語ってくれている。だから朽ちず、そこにあり、堂々としている。
(十年後、どうなるか?)
考えるに恐ろしいが、少なくとも次代の勢子が西野宮と祭を愛している。簡素化が進んだとしても消える事はないだろう。
難しい時代である。社会に神がいない。望むべき方向に光がない。過去に戻れない。米は美味い。車は欲しい。コンバインは便利。さあ、どうしよう。どうしようもないが、車も米も捨てきれず私は西野宮に立っている。
世の流れは過酷だが、集団生活に神は要る。誰が考えた知らぬが稲作社会の仕組は実に精巧で、その一端がこの西野宮であり、祭であり、境内を守る老人の心である。我々の代で絶やしちゃいかんと思っているが、世の流れは総意であり、今のところ総意が土から離れている。風前の灯火は風の向きが変わらねば、いつか必ず消える。
西野宮は今日も静かに美しい。我々は静かにもがくしかない。