事例:福山裕教のプロポーズ
2007年12月28日執筆
その頃の私は熱かった。
八年前の12月24日、午前中で仕事を切り上げた私は六畳一間・寮の部屋に200球の電飾を据え付けていた。
ここ数日、仕事よりもコレの準備に追われていて、仕事中も旋盤で削り出したステンレス(SUS304)の指輪磨きが忙しい。むろん何度も叱られてしまったが、人生の一大事に小言など聞いていられない。
「お前は仕事というものを何と心得てるのかっ!」
「はぁ、すんません」
ペコリ頭を下げ、別の場所で研磨や刻印を続けた。
午前中で仕事を切り上げた当日に関しても生産準備会議が午後から入っており、上司から解雇をほのめかす勧告を受けてしまったが、
(勝手にしろ…)
その思いで逃げるように会社を出た。クビになろうが後ろ指をさされようがどうでも良かった。
そう…。
この日はプロポーズ決行日、至上最も熱い日であった。
たかだか22年しか生きていない私であったが、失恋経験だけは年の数以上に重ねていて、それだけアタックを乱発すればたまに当たるため、付き合った数も人よりは多い。しかし全く長持ちせず、最高が二ヶ月と25日。なんと三ヶ月以上続いた事がなかった。
ゆえ、今の嫁とのお付き合いが三ヶ月以上続いたその日、
(俺はコイツと結婚する! 間違いない!)
その確信を持ち、自ら友人を招いてパーティーを開いた。
さて、その日12月24日はちょうど交際半年を迎える節目であった。
三ヶ月で結婚の確信を持ったのだから、よくぞ三ヶ月も待ったという感じであったが、待っただけに準備をする時間はあった。
昔から女性に電話をかけるにも告白するにも入念な脚本を書くほうだったので、かなり気合を入れて脚本を書き、必要なものの一覧を作成し、スケジュールを引いて入念な準備を重ねてきた。
準備の詳細としては素晴らしいタイミングで音楽を鳴らすため、ラジカセを分解し、トリガー信号(スタート信号)を与えるための改造を行った。また、本格的な制御盤も設け、中には小型のシーケンサと電源、モータのコントロールパック、リレーなどを据え付けた。
部材は買ったものが大半だったが頂いたものも多い。
事情を話し、多くの方に協力頂いた。
今もそうであるが、私は極めて不器用であるため配線や加工の類がお世辞にも上手いといえない。定時後、工場の端っこで作業をしていると、
「見とられん!」
熟練の作業者が集まってきて私の配線に手直しを入れてくれた。また、モーター等の現地据付に関しても、私の事を心配した先輩が仕事の合間、寮を訪れてくれ、
「これじゃいかん!」
直前に手を入れ、見事なカタチに修正してくれた。
その後も先輩は試運転に付き合ってくれ、プログラムが正しく動作する事を確認すると、
「間違っても先輩に手伝ってもらったなんて言うなよ。全てお前がやったというところに意味がある。いらん事を言ってブチ壊すな」
優しい目でそう言ってくれ、現にその事は嫁にも伝えていない。もう時効なのでこうやって書くが、その頃の私の技術は真から心細く、そういった多くの人の善意によりメカトロプロポーズが成り立った。
後輩も使った。
用事があると言うのを強引に呼び出し、嫁の役をさせた。
「すごーい、しびれるー、抱いてー」
叫ばせたが雰囲気は出ず、かなり気持ち悪かった。
気持ち悪かったといえば人生初の料理もした。
高級なシャンパンを買ったので、温かい鍋でも作ろうと気合を入れて準備した。嫁が好きなものは何だろうと考え、「アンコが好き」と言っていたのを思い出し、モツ鍋にアンコを入れた。途中、味見をすると一口で鳥肌が立ち、続いて吐き気を覚えた。
恐ろしくマズかった。
修正しようと醤油を入れたり、味噌を入れたり、砂糖を入れたり、ラー油を入れたり、コーヒーを入れたり、味のサシスセソを入れまくったが入れれば入れるほど驚天動地の味になり、最終的には泣きながら寮の庭に埋めた。
ちなみにこの鍋の証言者として寮の後輩がいる。彼は臭いだけ嗅いだ。臭いだけしか味わってないが、
「なんすかそれ? ゲロですか?」
恐ろしい台詞を吐いてくれた。
嫁は東京八丁堀で仕事を終えると午後七時には最寄の武蔵藤沢という駅に着く。鍋を捨てたのは午後六時。時間的にギリギリになってしまった。
窓を開けて換気をし、電飾の最終チェックを行い、スーパーへ鍋の代わりとなる食い物を買いに行った。こんなに焦ったのは修学旅行で14時を午後三時と認識し、飛行機を待たせた以来である。
とにかくプロポーズは人生の一大イベントである。手抜きも許されないが失敗も許されない。仕事の代わりはあっても嫁の代わりはそういない。ましてやその時は恋だ愛だに侵されて完璧に盲目の状態である。今、八年後にこれを書いている私の状態では想像し辛い。
熱くなったり冷たくなったりしながら、体だけはイソイソと嫁を迎えに行ったと思う。
時間通りに来た嫁、そして、それをいつもと同じように迎える私、違うのはアドレナリンの分泌量くらいではなかったか。
ところで会社の寮は名目上「女人禁制」であったから、いつものように寮母の注意を私に引き付けねばならない。とりあえず寮母の前で私が踊る。その隙に横の非常口から嫁が突入する。寮母に隙が見当たらない時は、裏手の金網をよじ登り、ゴミ捨て場から進入するという軍人染みた行動も日常茶飯事の嫁であった。
何はともあれ嫁は非常口からの侵入に成功した。非常口は普段全く使われていないため開かずの扉であるが、週末は嫁が来るという事で誰かしらが気を利かして鍵を開けてくれている。
男子寮での恋愛というものは、寮生の協力なしでは成立し得ないものがある。
寮母が近くを通ると誰かしらが合図を発してくれるし、嫁がトイレや洗面所を使っている時には男衆全員が外で順番を待つ。その代わり男衆が使っている時、嫁は待たない。容赦なく小便男性の背後を通るし、洗面所では混み合った男の隙間に滑り込み、威風堂々と歯を磨く。身長が172センチもあるものだから、後輩の一人がその性格も含め「和田アキコ」と呼んでいたのも、
「なるほど」
頷けるわけである。
ちなみに何度も私を救ってくれた隣人が女性を連れ込んでいる時、寮母とすれ違った。しかし私は通報しなかった。なぜなら、その隣人はマジメで通っており、事実マジメで、寮母に見つかった時どういうリアクションをするか見たかったからだ。彼は「あうっ」という変な声を発した後、寮母と見つめ合い、その後「すんません」と苦笑いで頭を下げた。その陰で私が手を叩いて爆笑していたのを彼は知らない。
彼はその後、私の従姉妹と付き合い、そして結婚した。私が意図的に離れようとしても必ず隣に来る隣人の名は井上和哉という。彼は私が埼玉を離れた後、三年ほど待って埼玉を離れ、当時、私が住んでいた福岡県の隣、山口県に越してきた。これから逃げるべく私は熊本へ行ったため、また数年後には福岡、もしくは宮崎、鹿児島辺りへ越してくるのではなかろうか。
永延の隣人である。
さて…。
何はともあれ嫁が私の部屋にやってきた。
高鳴る鼓動を押さえ押さえて冷静を装い、脚本を頭の中で反芻した。
部屋に入る嫁。暗い部屋。電気を点けない私。
嫁:何で電気点けないの?
私:今日はそこにあるボタンば押して。
脚本通りの展開にそのボタンを押すと電飾200球が一斉に点滅を始める。六畳一間に200球というと、かなり見応えのある光量であり、
「いやーん! 家の中なのに夜の新宿みたーい!」
筋書きでは嫁がそう叫ぶようになっている。
果たしてどうか…。
それは忘れたが嫁はそれに近い事を叫んだのではなかろうか。少なくとも無反応ではなかったし、笑いもしなかった。電飾は今でこそ値段が下がってきたが八年前はかなり高かった。安いで有名なホームセンターで買ったが、3万円くらいしたように記憶している。
当時、私は隣人から借金する事で何とか暮らしていたような状態だったが、プロポーズには惜しみなく財を投じている。プレゼントにはビタ一文使っていないが、演出のために総額30万円を投じた。
「ま、上がれ」
感動する嫁を部屋に上げ、コタツに入れた。
嫁がコートを脱ぎ、コタツへ入り、ちょいと落ち着くまでに三分はかかるであろう。その事を想定し、三分後にクリスマスソングが流れるはずだ。
嫁と幾つか会話を交わしたが、そんなもの耳に入らなかった。
(シーケンサーへ、ちゃんとトリガーは行ってるだろうか?)
(CDチェンジャーは指定のところになっているだろうか?)
前段取りが気になるのだ。
プログラム通り、三分後にクリスマスソングが流れた。
暗い部屋、大量の電飾、そして池袋駅で買ったオーケストラ風クリスマスソング。書いても想像しにくいが、狭い部屋にその雰囲気は若い二人を一気にキリスト教の幻想的な世界へ誘う。
二人とも紐をたどれば庶民の宗教・浄土真宗であるが、そんなものどこ吹く風、日本人らしく「いいとこ取り」で瞬間鞍替えするのである。
むろん、ローソクも用意している。雑貨屋に売っている「キャンドル」ではなく、仏壇にピッタリの100本入りお徳用ローソクであるが、そんなものどうでもいい。炎が灯れば何でも一緒である。
「き・れ・い」
ほら、嫁はそれがお徳用だとは露知らず、完全に酔っているではないか。そして私も自分の仕掛けに自己陶酔するのである。
予定ではこの後、特製鍋をツマミに洒落たシャンパンを飲む予定であったが、その鍋が猛烈な失敗に終わってしまったため、スーパーから買ってきた「冬のおつまみセット」になってしまった。シャンパンに至っても、かなり良いものを買ったのだが、私はペロリ舐めただけで口に合わず、すぐさま焼酎に移る始末で、嫁に至っては「胸いっぱい」などと言って飲もうとしない。
高級シャンパンは非の打ち所がない無駄銭となってしまった。
ちなみに、この後の展開は1時間後にクライマックスカラクリが始まるようになっており、かなりの時間が空く。
(もうちょっと短く設定しとけば良かった…)
そう思ったが、嫁の前でプログラムをいじくるわけにはいかず、のんびりダラダラ酒を楽しんだ。
で…、飲んでるうちに一時間が経った。
急に隠していたスポットライトが光ったものだから、かなり慌てた。予定では電気が消えてからスポットライトが点くはずだったが、だいぶ焼酎を飲んだため消すのを忘れたのだ。
慌てて電気を消した。
「まだ何かあるのー?」
自然な感じでクライマックスに移るはずだったが超不自然になってしまい、脚本からズレてしまったが、それは物事の宿命。アドリブで戻してやらねばならない。
「今日はプレゼントがあるけん、ちょっと壁ば見よって」
そういう感じで嫁に壁を見るよう促したのではなかろうか。
スポットライトの先にはアサヒスーパードライの垂れ幕が下がっている。垂れ幕はモーターで制御されるフックに引っ掛かっていて、それが一分後に落ちる。当初、モーターがモロに見えていて、いかにも何かありますという感じだったが、今は先輩が手を加えたためにモーターは見えないところに隠され、そしてフックは釣り糸で操られる。垂れ幕が勝手に落ちる事は嫁の想定外だったはずだ。
垂れ幕は落ちた。そしてその下、築35年の薄汚れた壁に黒々とした太い文字で、
「結婚しよう」
その文字が見えた。
八年という歳月はその時の嫁の挙動をすっかり忘れさせてしまっているが、唯一記憶しているのは嫁が泣いたという事である。名作「蛍の墓」を見ても泣かない嫁が泣いたという事が今更ながら凄いと思え、恋だ愛だの力に感心してしまうわけだが、とにかく泣いた。
続いて泣いている嫁のところへマッキー極太(油性ペン)がコロコロ転がってゆくカラクリであったが、それは失敗した。理由はくだらない事で、ペンが転がる軌道に私の焼酎カップが置いてあった。このカラクリに数万円をかけていたため、
「しまったぁぁぁぁ!」
と、叫びたいところであったが、それは雰囲気をブチ壊すため、できるだけ自然に、そして静かにペンを取り、嫁に手渡した。
「返事…、書けよ…」
嫁は泣きながら返事を書いた。何と書いたかは現状から察するに分かって頂けると思うが、実に感動的な瞬間だった。寒イボがブワァーッと粟立ち、続いて胸の辺りがカァーッと熱くなった。
その高揚した状態で、手作りの指輪を渡し、幾つかの言葉を交わしたような、交わさなかったような…。
ちなみに…。
その晩は二人っきりになれなかった。
寂しがり屋の悪い癖で友人を三人ほど呼んでいた。プロポーズの後、呼びつけた事を悔やんだが遠方より駆けつけているため、来た瞬間「帰って」とは言えない。
結局、徹夜気味で桃太郎電鉄をやった。
さて…。
プロポーズより一年経過した後になるが、嫁が「スプリングママ」というラジオネームでプロポーズの話を投稿した。ナックファイブという埼玉では知らぬ人がいない有名ラジオ番組であるが、それに採用され、ラジオで放送するという。わざわざ電話をかけ、私たちの了承を得て放送するのだから、よほど大きな関心を持って頂いたのだろうと思ったが、放送を聞いて唖然とし、そして放心した。
まず、聞いていて猛烈に恥ずかしかった。今これを書いていても恥ずかしいが、ラジオで聞くそれは書き物の比ではない。更にDJが上記のプロポーズを読んでいる最中、後ろで、
「いるのかよー、そんな奴ー」
「いねーよー」
「これは嘘だろー」
「聞いてて恥ずかしー」
様々な声が飛ぶ。ここにいるし嘘じゃないし恥ずかしいのはDJじゃなく私である。
ラジオを前に身悶えた。
更に極めつけは、読み終った時、
「ありえませんね。こんな人は絶対にいません。さ…、次の話題…」
流されてしまった。
私たち夫婦はラジオを前に顔を紅くし、そしてズッコケてしまったわけだが、それを聞いた時、そして今これを書く時、人の結婚式に出た時、プロポーズという文字列を見た時、やはり、この出来事を付箋にあの頃の高揚した気持ちを思い出す。
人生八十年は短いようで長い。
一日を一頁とするなら29200ページもあり、百科事典みたいな本になってしまう。
人は…、特に女は、環境に合わせて刻々と変化し、別人になってゆく。
そして憶えるべきは忘れ、忘れるべきは憶えている。
「くだらない事を憶えていないで、昔のお前を思い出せ!」
「思い出せなーい!」
毎夜のように叫べ叫べど印象的な付箋がなくてはなかなか思い出せない、それが思い出というものだろう。
昨今、結婚式も出産祝いも七五三も葬式も、節目節目に発行されやすい付箋が簡素化されて久しい。久しいが、それは後々自分の身を苦しめる。
過去にすがるのはよくないが、振り返ろうにも振り返れず今しか見えないのはあまりにも悲しいではないか。
付箋を頼りに昔を思い出し、今と昔を照らし合わせ、明日や一年後を考える。
それは実に楽しく、そして前向きな作業ではあるまいか。
人間は自分が考える以上に忘れやすい。
節目節目の付箋に気合を入れねば思い出の事典は厚いばかり。読みたくとも一瞬で終わる。
だから、私はその節目をメカトロ技術で応援できないかと思っている。
私が使った経済的に苦しい時代の30万。
今思うに無駄ではなかったと思うのだが…、さて、どうだろうか…。
少なくとも嫁はこれを思い出した瞬間、ちょっとだけあの頃に戻る。
それだけでも価値ある30万ではなかったか。
よく分からぬが個人的には満ち足りている。