第34話 デブ、羅漢寺へゆく(2008年8月)16KB

私は太っている。太っているが運動は好きで、自分で言うのも何だが運動神経は良く、モノやボールを使う競技は人並以上にこなす自信がある。
基礎体力はない。筋力・持久力、共に人並以下であり、特に後者が覚束ない。が、体力の限界に挑戦するのは好きだ。心と体はいつも矛盾を抱えていて、それは古道と出くわした瞬間、不意に爆発する。
宇佐神宮(前話参照)を後にした私は、今日の宿泊先である福岡県行橋市を目指していた。愛車のシビックで国道10号線を上っていると「耶馬溪羅漢寺」の看板が見えた。
耶馬溪羅漢寺といえば、熊本県に縁が深い。というのも、有名な水前寺公園、これは羅漢寺から来ている。細川家が国替えで肥後へ入る際、羅漢寺の住職を引っ張り、水前寺という寺を開かせた。今、水前寺という寺は跡形もなく、水前寺公園は出水神社の境内という事になっているが、元の流れは耶馬溪羅漢寺である。寺から始まり、細川家の休憩所・御茶屋になって、明治以降、細川藩主を祀る出水神社になり、現在の姿・水前寺公園に続いている。
耶馬溪羅漢寺から流れる水前寺公園の歴史を熊本県民はあまり知らない。古今和歌集の奥義が伝授がされたとか、東海道五十三次を模してあるとか、言われても理解に苦しむ点は有名だが、始まりが知られていないのはおかしい。チータ(水前寺清子)も知らないのではなかろうか。
これには宗教的・政治的理由があるように思われる。廃仏毀釈の名残、もしくは現在が神域である事、それらにより仏のカラーを打ち消そうとした人間がいるように思われるが、これは私の勝手な想像である。
よく分からぬが大衆の認知がどうも不自然であり、地名が浮いている。水前寺という名前が消えていないため、普通は誰かが疑問に思い、いずれは知れる。現に水前寺から遠い私が図書館で知り、こうして耶馬渓羅漢寺へ行こうとしている。「知ってもいいが由緒書きには書かないよ」という出水神社の方針であろうか。よく分からない。
耶馬溪羅漢寺は羅漢寺の総本山らしい。前話で総本山に触れたが、八幡様の総本山とはその規模が違うように思われる。五百羅漢で有名なところは世に多い。多いが八幡様四万社に比べれば、その数は知れたもので、八幡様をセブンイレブンのネットワークとするならば、羅漢様はエブリワン(九州で有名なコンビニ、焼きたてパンが美味い)程度だろう。
が…、耶馬溪羅漢寺の規模は宇佐神宮に負けず劣らず大きい。宇佐神宮は丘一面が境内だったが羅漢寺は山一つを所有しており、その山の名は羅漢山という。中腹に本堂があり、本堂・山頂へ続くリフトを装備している。リフトがあるくらいなので、その参道は山道である。本堂へゆくには少々キツい坂を登らねばならず、そこが宇佐神宮と決定的に違う。
老人の集団は迷う事なくリフトを使っていたが、そんなもの若い私が使うはずもない。左手のリフト乗り場には目もくれず、真っ直ぐ仁王門目指して歩き始めた。
時刻は午後三時であった。山深いところであるが、熱線は葉の隙間をぬって突き刺さり、熱風は山肌を転げ落ちてくる。致命的な事に私は太っている。人より多く熱線に刺され、人より多く熱風を吸い、その足は鈍った。
平地より高く膝を上げ、よいしょ、よいしょ、歩を進める度に汗が落ちた。赤いティーシャツなどは隅から隅まで汗を吸い、赤というより茶色のシャツと化していた。
正直辛い。が、心は常に躍っていた。参道の古き良き味が完全に私好みであった。
木々が覆いかぶさる石段を抜けると曼荼羅石という密教的石組があった。それから先は聖域で、殿様もこれを目印に籠を降りたらしい。道沿いには古い石仏が並んでいる。それぞれの石仏がそれぞれの歴史を体現していて、朽ち果てた感じが何ともいえない。
「こりゃたまらん!」
石仏の視線を背に受けて前へ前へ進むと、見事な仁王門があった。仁王門といえば阿吽の仁王像が左右にいるわけだが、覗いてみるとこれまた見事、味のある仁王様がドンと構えてらっしゃる。石造りで良い表情をされていて、しかも顔がでかい。五頭身くらいだろうか、巨顔の私には何となく親近感が持てる。見上げると見事な扁額があり、説明書きには足利義満より贈られたとある。何といっても造りがいい。1746年に修復されたものらしいが、岩壁に寄り添うそれは歴史の香気を否応なしに放っている。
しばし乾いた柱に寄り添い、至るところに自らの汗を残し、動物的マーキング作業を行った。続いて門下で寝転がった。が、いかんせん蚊が多い。蚊は汗と体温、そして二酸化炭素に寄ってくる。太り身は格好の的である。後ろ髪を引かれつつも逃げるように仁王門を去った。
上り坂は更に続く。さすがリフトの併走する参道である。行けば行くほど傾斜はきつくなり、岩壁に沿うように作られた参道はついに遮光物を寄せ付けない剥き出しの領域に突入した。太り身は七月後半のブ厚い熱線に串刺しにされた。血の代わりに阿蘇の湧水の如き大量の汗が至るところから噴き出し、スネ毛の部分に至ってはマングローブの森みたいになってしまった。靴下も、首に巻いているタオルも乾いている部分が全くない。体力の消耗と共に呼吸は荒くなり、次いで前傾姿勢になった。頭の中ではもっと前傾姿勢になるよう指示が出ているが、腹がつかえて物理的にそれ以上の前傾が困難で、押さえつけられた腹がかゆくなった。続いて首と腕、それに尻や手足もかゆくなった。
これぞまさに、デブの登山であった。
岩壁に寄り添う千体地蔵が左に見えた。それを朦朧とした状態で眺めつつ真っ直ぐ進むと、これまた見事な山門が現れた。羅漢寺は昭和十八年に燃えたらしいが、山門と仁王門は難を逃れたらしく、確かにこの二つは別格の味がある。山門は足利義満が建立したものらしい。岩壁と一心同体の佇まいはウットリを通り越し、失神してしまいそうになる見事さで、よく見ると柱の傷一つ一つからヨロシク哀愁が滲み出ている。
宇佐神宮には悪いが、私の好みとしては圧倒的に羅漢寺であった。
山門を抜けると無漏窟(むろくつ)という岩屋があった。この中に五百羅漢が安置されており、一つ一つの状態が素晴らしくいい。熊本で有名な五百羅漢は宮本武蔵がこもったといわれる雲巌禅寺(霊厳洞)だが、それは野外にあって風化が酷く、首がないのも多いため、見ていて何となく悲しくなる。が、こちらは岩屋内にあって直射日光を免れているため、気落ちせず眺める事ができる。休憩がてらジックリと、汗をポタポタ落としつつ、自分に似ている羅漢様を探した。
耶馬溪羅漢寺は本当に見所が多い。五百羅漢を出、本堂へ向かうと竜の石造がある。これの説明書きが面白い。キリシタン大名・大友宗麟が宇佐神宮同様、羅漢寺も焼き討とうと攻めてきたらしい。すると竜の目から光が発され、兵の力を奪い取ったそうな。それで焼き討ちが免れたのだという。
疲れた時にはこういった話がよく沁みる。本当は住職が土下座したか人質を出したか、真相はよく分からぬが、こういう風に後世に伝えようとした人間の心、その模様が私は好きだ。こういう説明書きを見ると、私と嫁の馴れ初めも神話っぽく子供たちに伝えたいと思ってしまう。
ある晩、不思議な物体が枕元に現れ、「汝、難波の外れにて巨神の種を拾うであろう。其の種、遠方にて育ち、大きな宮にて汝を食す。汝、その命に逆らい難し」そのお告げを聞く。汗だくで目覚めた私の前には冷めた顔をした嫁が立っていて、「汝の魂、ここにあり」消えそうな声で囁く。よく見ると嫁の手には私の心臓が動いている状態で握られていて、「さあ、どうする? どうします?」弄る調子で私に問うてくる。嫁は何度も何度も問いながら、私の心臓を徐々に握り潰そうとする。
「だからお父さんとお母さんは結婚したんだよ」って、子供たちに伝えたら、いずれ話が捻じ曲がり、百年後には全く違った神話として説明書きになってるんじゃないかと思うが、さて、どうだろう。やはり神話になるには始まりが神話っぽくなくては軌道に乗らない。
要らぬ空想をしつつ、もう一歩を踏み出すとそこは本堂であった。やはり燃え残った仁王門と山門に比べれば味に欠けるところはあるが、素晴らしい場所に建ってるため、何となく有難味を感じてしまう。
本堂は崖に食い込むかたちでそこにあった。二階建てで奥に短く横に長い造りで、釈迦如来像が中央にある。目線を本堂脇へ移すと長年そこで働いておられるのだろう、違和感を全く感じさせない置物のようなオバチャンが座っていて、
「お疲れさん、凄い汗やねぇ、水を飲んでいきぃ」
笑顔で湧水をすすめてくれた。喉はカラカラだったので、それをグビグビ飲んでいると、本堂二階と庭園へ行くのは有料だと申し訳なさそうに説明してくれた。
「入場料三百円を払おうが払うまいが、羅漢寺とても良いところぉ~♪ はぁ~、良いところぉ~♪」
歌っているのか馬鹿にしているのかオバチャンの姿勢に商売っ気が微塵も感じられなかったので、迷う事なく三百円を払い奥へ進んだ。本堂の二階へは建物の左側から裏へ回ってゆかねばならない。岩壁と本堂に囲まれた道は暗くて狭い。裸電球が離れたところに点在しているが、ピッチが広過ぎ闇の世界と化している。足元が全く見えず手探りで進んでいると、ご丁寧にコウモリの声まで聞こえてきた。
「さすが耶馬溪羅漢寺、演出が凝ってる、やるではないか」
ニヤリ笑って幾つかの角を曲がると本堂二階に出た。二階には金色の釈迦如来像があり、釈迦如来の見つめる先には耶馬渓の山々が濃い緑を日に照らし、キラキラ輝いている。蚊も人もいないため、休憩するには打ってつけで、しばし横になった。
本堂を下りると木製の橋があった。橋を渡り、案内に沿って歩いてゆくと庭園へ出た。以前は様々な建物が建ち、賑わっていたのだろう。指月庵、水雲館、馬溪文庫というものがあったらしいが、火災で燃えてしまったらしく、今は石組だけが残る寂しい庭園になっていた。そこをゆるり散策した後、下山の途についた。
オバチャンが言うに下山は別ルートがオススメだという。老の坂という上級者向けコースと、ぐるり回ってゆく安心コースがあるらしい。老の坂は通る人が稀で、たまに足を滑らせ崖下に落ちて死ぬ人がいるらしく、危険極まりないが皇族も通った由緒ある道らしい。安心コースはオバチャンが常道としている整備された道で「普通はそっち」らしい。
皇族とオバチャン、危険と普通、比較するまでもない。老の坂を選んだ。
五百羅漢の方へ戻り、山門を出、千体地蔵の脇を抜け、細い道に入った。前へ進むと崖に沿った道があり、確かに危険極まりない。何となく足元が崩れそうで、崩れてしまえば一巻の終わり、崖下へサヨウナラである。私は高所恐怖症ではないが、長男ゆえの怖がりである。牛歩の歩みで緩々進み、たっぷり時間をかけて通過した。危険ゾーンを通過すると、今度は草ぼうぼうゾーンであった。人が通らないだけに除草が適当で、腰ぐらいまで雑草が伸びていた。汗だくなだけに雑草がベタベタ引っ付き、下りた時には見るも無残な姿になってしまった。
駐車場へ戻ると、売店のオバサンが冷たい麦茶をくれた。リフトは使わず歩いて登り、老の坂を下ってきた事を言うと、オバサンは私の体型を上から下まで舐めるように眺め、
「はぁー、そりゃ頑張りなさった、さぞや辛かったでしょう」
特に腹部を見ながらそう言った。ちょっとムッとしたので、
「私はこう見えて動けるんですよ。サムハンキンポーを目指してますから」
テンポ良く返すと、
「サムハンキンポーって燃えよデブゴン? プヒッ! プハー! フィフィフィッ!」
何が面白いのか、オバサン変な声を出しながら七転八倒の体で笑い始めた。
それからのオバサン、計四杯の麦茶をご馳走してくれたが、私が何か言う毎に「プヒッ」「ペヒッ」と、我慢している笑いを漏らし、ついにはどこかへ引っ込み、奥から恐ろしい声量の咽せた笑い声を届けてくれた。
ところで羅漢寺の近所に青の洞門がある。
昔、この近辺の観光といえば羅漢寺がメインであり、羅漢寺やその近辺の集落へゆくための道として洞門が掘られた。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で有名になった洞門であるが、約250年前までは川沿いの崖道を通らねばならず、鎖に掴まり恐る恐る通ったらしい。当然、落下する旅人が後を絶たず、それを見ていた放浪の和尚・禅海さんがノミと槌と人を使い、三十年かけて342メートルの洞門を通した。
普通に羅漢寺へ行こうと思えば、まずこの洞門を通らねばならず、羅漢寺参拝と青の洞門はセットになる。当然、私もオマケとして立ち寄ったわけだが、洞門の広さがどう考えてもおかしい。車が通るほど広いのである。昔の道がこんなに広いわけがなく、手掘りであれば必要最小限にとどめたはずである。そう思っていると、ツアー旅行のガイドが目の前で説明を始めた。それとなく耳を傾けていると、やはり昔のカタチとはだいぶ違っているようだ。また、このガイド、驚く事も言っていた。そのツアーであるが、青の洞門と奥耶馬渓の景色をメインにしているらしい。この集団、青の洞門を見た後、羅漢寺へゆくそうな。が、羅漢寺はオマケなので本堂、山門、仁王門へは行かず、リフト乗り場の入口にある禅海堂へ行き、そこから引き返して耶馬溪の宿泊先に移動するという。禅海堂には禅海和尚が使っていたとされるノミや槌が展示してある。それを見たら羅漢寺は用無し、引き返すというのだ。
たった今、羅漢寺の素晴らしさを見てきた身として何か物申してやりたいが、いかんせんツアーというのは自由を犠牲にするから安い。ツアー客は関東から来ているように思われ、メインディッシュを楽しまず、前菜で帰るというのは何とも勿体なく、引っ張ってでも連れて行きたい思いだったが、それが時代の流れであり、知名度重視のツアーというものだろう。羅漢寺へゆかぬツアー客に紛れながら、羅漢寺を目指した古い人の古い旅を想い、何となく合掌した。
宿泊先の行橋に着いたのは日が落ちる寸前だったと思われる。
泊まる先はホテルでなく人様の家である。七年くらい前に知り合った関係会社の部長さんで、名をSさんという。Sさんのお宅が今日の宿であり、この近辺で仕事をする際は必ず泊めてもらっている。Sさんとは最初の会社を辞めた後、完全に音信不通であったが、三社目に勤めながら福岡の展示会に出展している時、偶然会って呑むようになった。歳はウチの親父と同じで、大分類は親分肌である。ギャンブルを愛し愚痴を言わず、どこか颯爽としている。呑むには打ってつけの良き先輩である。
「おぉ、こっち、こっち」
冷たいビールがあるから座れと促されたが、今日の私はどうもいけない。昼間が昼間であるから、密室に入れば人を卒倒させるほど強烈な臭いを放つだろう。真っ直ぐ風呂を借り、サッパリした状態で一杯目を頂いた。
で…。
「ちょっと見らん間に肥えたなぁ」
Sさん、直球でそう言われた。続いて奥様に、
「ちょっと丸くなられたみたいですね」
やんわり、そう言われた。
温泉でたまぁに体重計に乗るが、そう体重は変わっていない。結婚して15キロ太ったが、それからは現状維持。ここ五年ぐらいは何も変わってないつもりだが、上半身の筋力が明らかに落ちている。筋肉は重く脂肪は軽い。つまり筋肉が落ちて脂肪が増えれば、体重は変わってなくとも太っている事になる。
そもそも私の体型というのは嫁に言わせれば超アンバランスらしく、下半身は締まっているくせに上半身は恐ろしく弛んでいるらしい。他人の上下が繋がっているかのようであり、極めつけは足が長くて顔がデカいという骨格の成せるアンバランス、これが最悪だと言う。
しばしSさんと呑んでいると、Sさんの娘さんが帰ってきた。
「あら、福山さん、お久しぶりです。あら、あらら、また豊かになられました?」
デブ、丸い、肥えた、様々な表現に免疫を持っている私であるが、「豊か」は初体験であった。その瞬間、羅漢様の姿が頭をよぎった。
羅漢様とは小乗仏教の最高位に達した聖者を指す。小乗仏教とは釈迦から始まる古い仏教のカタチであり、祈れば救いますよという大乗仏教に対し、激しい修行をもって自己の得脱(煩悩を断って迷いの苦を逃れる事)を図らねばならない。
羅漢寺内、五百羅漢は誰もが豊かな表情をしておられ、丸顔の肥えた方が多かった。
「豊か…、そう…、豊かですか…」
娘さんの一言で考えさせられるところはあったが、ダイエットをしようとは全く思わなかった。が、昨日、近所の温泉へ行き、地元の爺様が発した一言で久しぶりにダイエットをしようと思った。
「おたくの腹は恵比寿さんのごつしとんなはるなぁ。豊か、豊か、よか時代じゃ」
この数日で二度も豊かと言われ、更に「時代すらその腹から窺える」と言われては逃げ場がない。
あの日、小乗仏教・羅漢様に会いたいと汗水垂らして登山した。それにはちゃんとした理由があったに違いない。祈れば救う大乗仏教なら、誰もダイエットなんてやらない。
羅漢様は厳しい修行の末、羅漢様になった。
「お前もちょっとは何かやり、ちょっとはまともな体型になれ!」
つまりそういう事だろうが、夏だ、暑いぞ、ビールが美味い、続く赤牛バーベキュー。八月は豊かなイベントが目白押し、本当に豊かな時期である。
私は今、火照った体にビールを流し、真剣にダイエットの事を考えている。
「羅漢様、涼しくなったら始めます」
日本人が羅漢山に寄らず、小乗仏教に寄らず、大乗仏教に走った。その理由を今、私は身をもって感じている。
デブは羅漢寺へゆくべきである。