第35話 田園の営み(2008年8月)8KB

南阿蘇

標高400メートルの南阿蘇といえども夏は暑い。理論値で3度ちょいしか変わらず、平地が35度の猛暑日であれば谷の温度は32度。やはり暑い。
仕事をやっててヤル気がなくなる瞬間といえば、やはり昼飯の後である。雇われの身であれば「ヤル気がなくなりました」は禁句だが、私は全て自己責任ゆえ、それが言える。
昼飯を食い、事務所へ戻る一歩を踏み出した瞬間、強い日差しと熱風を受け、
「今日はやめ!」
愛車のカブ50に跨り、古道へ出る日が数日あった。
愛車は南郷谷の中央、白川沿いの田園をマックス30キロでゆっくり走る。
つい最近、私の住む下田から白川の集落(白川水源で有名)まで、田園を割るかたちで走っている見事な一本道を見付けた。定規で引いたような直線で、周囲は田んぼと川しかないため、恐ろしいほど眺めがいい。
この道と併走するかたちで南阿蘇鉄道が走っており、ちょうど昼飯後にはトロッコ列車が走る。そやつと並びながら一本道をのんびり走ると、丸い夜峰が左に見え、それが三角になり、続いて阿蘇五岳が見えてくる。夜峰しか見えない下田にいると視界全てが夜峰だが、ちょいと前へ進むだけで夜峰は五岳のオマケになる。その具合が何とも滑稽で、世の仕組を教え諭してくれているようにも思える。
右手には外輪山と白川が見える。一本道に寄り添うかたちで付いてきて、離れようとしない。
道幅は狭い。狭いが、軽トラ用にアスファルト化されていて、その脇を水路が走っている。水路を流れる水は谷の至るところに湧く清らかな湧水であるから、透明この上なく、そして冷たい。
涼しげな風が外輪山から流れ、青田を優しく揺らし、阿蘇五岳に吸い取られてゆく。
何ら遮るもののない広い空には赤とんぼが舞っている。
なかなかどうして、良い道であった。
この道は唯一の古資料である明治35年の広域図には載っていない。載ってないが、その原型は農道として古くからあったと思われる。その理由として甲斐有雄の道標があった。この人は十九世紀に生きた人だが、南郷谷に生まれ石工として育ち、晩年は村会議員などをやりながら二千弱の道標を古道の辻に落とした。いずれも私財を投げ打って作ったものらしく、昔の篤志家はやる事に味と徹底性がある。
この道、真っ直ぐ整備されたのは農地整理の後だろうが、昔は田んぼの隙間を縫うグニャグニャ道だったと思われ、路面は赤土を踏み固めたものだったろう。
川沿いの低地ゆえ、公道には成り辛かったと思われる。というのも一昔前、海沿いにおいては防波堤、川沿いにおいては堤防の技術が今より格段に遅れていた。水は近い将来必ず溢れるものであり、溢れた後の修復を想えば、少々起伏があって遠回りしようとも高台を通した方が無難であった。で、海と暮らす天草において、道は山の上を走り、川と暮らす南郷谷においては谷から数十メートル上ったところを南郷往還が走っていた。
田園の風景といえば田んぼである。
八月頭の田園は青田に覆われていて、谷の底は青と緑を混ぜたような若い色で塗られている。
南郷谷というキャンバスは狭い。ちょいと上へ登れば全てを見渡す事が出来てしまうが、その絵自体も深みというより、若いエネルギーに覆われている感がある。若い色の中央を青線一本の白川が走り、道も小川も集落も、全て若い命に隠されていて発見が危うい。
上から見下ろす生命の南郷谷もいいが、下から見上げる田園の営みもいい。
青田の隅に小さな墓地がある。畦道の交差する場所に一本だけ大きな木が聳え、それを巻くように二つ三つの小さな墓石が立っている。その脇を綺麗な水がのんびり流れている。
ちょっと前まで人は土葬であった。火葬といえば疫病で死んだ人や普通じゃない死に方をした人に限定されていたようで、普通は土に還された。土の恵みを受けて生き、最後は土に還る。残された人々は先人が眠る田んぼを守り、その恵みを受けて暮らし、いずれ土になった。
青田と墓地の寄り添った絵は何となく感動的で、昨今の直線的で立派な墓が林立する街中の墓地群とは良いコントラストを成すように思われた。
墓の脇を流れる湧水は私を水源地へ誘った。
水源地は南郷谷に数え切れぬほどある。最近では水汲み場として整備されており、ポリタンクを持った村外の人で溢れかえっている。
水源の水は青田を潤し、村民の口へ入り、その残りは川へ流れてゆく。一昔前、憩いの場であった水源は上水道の整備により憩いの場としての役割を終えた。その代わり村外の客が賑わいを与えてくれている。これらの人は客であるから駐車場もいるし、それなりの整備もしなければならない。アスファルトで固められた。
人が寄れば店も出る。金も落ちる。自治体も宣伝する。
ほんの一握りだろうが、この顛末の末に大金を得た人もいただろう。
青田に寄り添う循環は大してカネを必要としない。カネを得た田園の人はどうしたか。愛車カブ50から眺めるに、とりあえず豪邸を建てたと思われる。
先人から伝わる田畑はどうなかったか。荒れ果てた末、人の手に渡ったと思われる。
地元の民俗学者が言うに、ムラというものはポッと出の富豪を生まない仕組になっていたらしい。その代わり突出した貧乏人も生まないようになっていたらしく、それを調整したのが祭であり、氏神様、そして長者どんらしい。
農業というのは実入りが見て取れる。儲かったところは祭において大きな出費を伴わねばならず、結局は例年とそう変わらぬ実入りに落ちついたらしい。これに対し、自然災害などにより大きな損害を受けたところには氏神の名において救済が行われたそうな。生かさず殺さず、集落みんなで仲良くやろうじゃないかというのがムラの仕組で、長者どんはいつまでも長者どん、農民はいつまでも農民、変わらないのがムラの美徳であった。
冒頭に書いた甲斐有雄という人がいる。この人は石工で成功し村議会議員になったが、併せて根っからのムラ人だったと思われる。得たカネを道標に変え、カネが懐に残る事を嫌った。ムラの目を意識したのだろう。ムラというものは文明の産物であるカネが一箇所に留まる事を嫌い、水の流るる如く循環する事を善しとした。その点、甲斐有雄は自らの首を絞めない良いカネの使い方をし、後世に名を残す英雄となった。
田園の中を走っていると、愛車カブ50が前に進めない光景に出くわす。例えば近代的豪邸が見てくれは綺麗だが、どこか荒れすさんで見えた時、一等地のお屋敷が廃墟と化している時、有刺鉄線を張ったり看板を立ててまで自分の財産を守ろうとされている時…。
ムラの仕組を壊すのは簡単である。変わらない営みに多量のカネを与えてしまえばいいのだ。微妙なバランスで成り立っている世の中の仕組というものは、それだけでいとも簡単に崩れる。現に南郷谷を鉄道が走ってからムラというものは凄まじい勢いで変わりつつある。
田園の一本道から、こんもりとした森が見えた。八坂神社の森であり、久木野神社の森であり、西野宮の森であった。
青田に寄り添った先人の循環は美しい。美しいが、それは既に風景であって、森を中心に繰り広げられた田園の営みはカネの中に消えつつあるのかもしれない。
行動範囲が広がり過ぎた。情報が増え過ぎた。人間の視野が狭過ぎた。詰めてゆけば、それは私自身が繰り返している何気ない営みの中にある。
一本道は家路へ続く。行きはよいよい帰りは怖い。景色はいいが、どうも心が晴れない。
(大きくなった子供たち…、俺に何て言うだろか…?)
田園は美し過ぎて心に痛い。山際に落ちる夕日も痛い。満天の星空も痛い。靄に射す明けの光もまた痛い。蛍の乱舞、これまた痛い。
目を閉じよう。それが田園においては賢明かもしれない。
田園は美しい。憎らしいほどに美しい。ああ美しい。
目と心は開くためにある。痛いが閉じてられない。