この不景気、飲み会が減ってしまい本気で困っている。むろん収入減にも困っているが、そういうものは「皆同じ」と思っていればどうにかなる。飲み会はどうにもならない。心が悶えてしょうがない。
たまに役人が来る。好きな音楽を流し、普段着でモノづくりをしている私を見、
「うらやましいっすねぇ」
しみじみ言ってくれる。これは自ら選んだ道であり、確かに役人よりは恵まれていると思っている。が、次の言葉がいけない。
「自由っすねぇ、飲み会にも参加せんでいいんでしょ、自営業は幸せですよ」
そう言われると、
「違う!」
ムキになって反論したくなる。現に反論した。
私は飲み会に行きたいのだ。日暮れ前は一人でいいが、その後は誰かと語りたいのだ。私は自由に焦がれている。そのくせ無類の寂しがり屋なのだ。
「分かるでしょ! だから僕は飲み会に行きたいのっ!」
役人は分かってくれなかった。が、飲み会の素晴らしさは言葉で語れるものではない。説明に困った。
サラリーマンを辞めた後、私は飲み会の減少に苦しんだ。が、モノづくりの仕事が入っていれば、かなりの頻度で出張が入る。出先で呑めた。何とか我慢できていたが今はいけない。不景気である。出張が減るというよりゼロになった。
出張以外の飲み会といえば「夢挑戦プラザ」というベンチャー企業の飲み会がある。創業当初、私はこの団体に入ったが、約二ヶ月で脱退した。当時の気持ちとして、団体からは離れても飲み会からは離れたくなかった。
「飲み会だけは呼んで下さい!」
強く言い残し、団体を去った。団体とは一年ほど離れなかった。が、幹事の代替わりや人の入れ替わりもあり、今年は見放された。併せて出張が消えた。
「だけん寂しかとです!」
心の叫びを赤裸々に披露すると、
「飲み会の大半は意味がないじゃないですか、行かんでいいなら行かんに越した事はないですよ」
役人は「意味」という言葉を使い、静かに反論した。
正論である。飲み会は意味がないからこそ、モノづくりという常に理屈を追う作業の癒しになってくれる。役人が日頃何をしているかは知らぬ。知らぬが理屈を追う生活はしていないのだろう。理屈から離れた政治や建前ばかりを相手にしているのではないか。
飲み会は意味や目的を持つとつまらなくなる。人間の大半は目的がなければ集まらないので、人を集めるために目的がいる。が、その目的を鵜呑みにした人や目的を信じた人は飲み会が楽しめまい。飲み会の楽しみは飲み会自身が発している「あの雰囲気」にある。意味や目的はグリコのオマケにも遠い。
人はどんな環境にあろうとも無聊を抱えて生きねばならない。この無聊を慰めるパーツは理屈から離れた形而上の世界に転がっていて、それを人間が掴んだ時点で形而下の世界に落ちてくる。飲み会というボンヤリしたものは上に置いた方が良いように思え、上に置いてるから意味や目的を必要とせず、たまに掴むと身震いするほど楽しいのだろう。その点、役人と私が合うはずなかった。仏像について造形屋と宗教屋が論じ合うようなもので、いかにも着地点が難しい。
日常的に与えられる呑みの場として消防団がある。同じ場所で同じ顔を見ながら長い時間呑む。が、こちらは同じ顔の連続で刺激が薄く、「会」としては捉え辛い。日常の晩酌に類するだろう。いずれ愛しい存在になってくれるだろうが、それにはたっぷり時間が要る。十年も二十年も小さな会合を繰り返し、ふとした瞬間、
「はぁ~、落ちつくぅ~」
そう思えるのだろう。団員の顔にはそういう雰囲気が滲み出ている。が、今の私には時間の蓄積が足りない。
毎日夕刻、午後六時を回った頃、子供たちが事務所に走ってくる。
「おっとー、ごはんだよー!」
作業を中止し、子供に手を引かれ隣の自宅に戻る。ビールと焼酎を呑み、飯を食う。それから子供と風呂に入り、事務所に戻る。仕事をする時もあれば、本を読んだり文章を書いたりする時もある。
この流れは日常として悪くない。理想に近い。が、理不尽だと知りつつも、「たまには乱れてくれよ」という三十路青年の真っ当な心がある。乱れ過ぎては困るが、ベタなぎは苦しい。
「最高の生活ですね! うらやましい!」
ある役人、ある友達(サラリーマン)、声を揃えてそう言うが、彼らは飲み会を失ってないからそう言えるのかもしれない。
会は社会が発するものらしく、社会から一歩離れた瞬間、飲み会が逃げていく。
「社会とは距離を置きたい」「飲み会とは離れたくない」
池波正太郎が言うように人間とは矛盾の塊であり、矛盾こそ人間の本質かもしれない。
「あんなもの、なけりゃいいのに!」
方々から届けられる飲み会の悪評に私は苛立っている。
「なくせば分かる、この辛さ」
三十路の心、父親の心、いずれにしても賑やかな場のちょっとした緊張に焦がれつつ不況の今が過ぎている。
アルコールは呑めばいいというわけではない。青年は手頃な飲み会を欲し、今日も田舎で悶えている。