第57話 死に顔と畑(2009年12月) 8KB

家族

嫁の祖父が亡くなった。「生きる醍醐味」のロゴにしている良い顔の祖父である。
享年九十七と聞いており、死因は老衰、誰もがうなる大往生であった。
祖父についての話は「生きる醍醐味」で何度か書いた。義父の葬式で始めて会い、会った瞬間に惚れこんだ。一目惚れであった。
(この魅力は何だろう?)
思春期の恋愛のように祖父の一挙一動を追った。見れば見るほど思いが募った。魅力の根源は祖父の生き様にあるようだった。隣にいた祖母が語ってくれた。
「じいさんは土いじりしか知りならん」
祖母はそう言って昔を振り返った。祖父が作る日本一の梨を祖母は売り歩いていたという。
「そりゃぁ楽しかったですよ、じいさんの梨ば売りよるとだけん」
両親よりも先に亡くなった三男(義父)を前に祖母は昔語りをしてくれた。坊さんの念仏や説教が空々しくなる昨今、この昔語りは義父にとって遺族にとって何よりも沁みる念仏に思えた。
祖父は祖母の話を横で聞き、赤く小さな顔を揺らしていた。
祖父は喋る人ではなかった。求められると一言二言喋ったが、それ以上は喋らなかった。
「わたしゃ土いじりしか知らんとです」
そう言って話の展開を許さなかった。以来、私は祖父の熱狂的ファンになった。
これを書きながら祖父と交わした言葉を指折り数えてみた。が、思い出せるものを足しても原稿用紙一枚にもならなかった。よくよく考えれば三回しか会った事がなく、三回の割には印象が強烈で、私が勝手に身近な存在と思い込んでいたらしい。ロゴへの掲載は祖父へ郵送し了承を得たものの、実は遠い存在で失礼にあたるかもしれなかった。
勝手な思いは募った。祖父は私の想念に暮らす浮世を離れた人であった。
民俗学の資料などを読んでいると、有史以来変わらぬ生活をしている人と出くわす。が、それはあくまでも活字の中の人であり、既にその営みは滅んでいた。しかし百年前の人であり、その頃までは過半数を占めた人である。
その頃の人は何らかの神様を持っていたと思われる。神様といえば今でこそ怪しい響きを持つが、そういうものではなく、人を生み育て殺してくれる超密着型の神様である。つまり神そのものが人生であり、それは人の手でどうこうできるものではなく、与えられ捨てられる命を制御するボンヤリしたものであろう。
祖父は土を神と見たのではないか。私は祖父を活字の中の人と見た。凛として浮世の何ものにも怯えず、驕る事なく付与された命を燃やしている人間らしい人間と見た。
祖父の糧は土であり、土と暮らし土に生かされ、土を作って生涯を終えた。葬儀の際、祖父の従兄弟から聞いたが、亡くなる一ヶ月前まで畑を耕していたらしい。恐ろしくなった。祖父は土と死ぬ事を私に宣言し、そして実行した。
「上に小さか畑があります、こん畑は家族の誰にも触らせん私の畑ですたい、死ぬまで耕します」
祖父という人は想念を遥かに超えていた。何という人であろうか。
忘れがたい思い出がある。
妻の祖父という関係は私にとって遠縁である。祖父にとって私など構う必要もないと思われるが、祖父は私の手を引き親族の一人一人に紹介して回った。
「孫の旦那ですたい、呑ませてやって下さいませ」
場は祖母の葬式であった。祖父は喪主であり、私に気を使っている場合ではない。更に帰る間際、祖父は私の手を引き自ら耕す畑に案内した。
「よか畑でしょう」
祖父にとって祖母は土に還ったに過ぎず、仰々しい葬式は辛かったのかもしれない。
次に会った祖父は死人であった。
12月20日一報が入り、21日葬式に出かけた。
(さぞや良い顔をしておられるだろう)
想念の中の祖父は笑顔であった。小さい顔を赤く染め、頬に泥が付いていた。鍬を持った手で汗を拭ったに違いない。
私は葬儀に参加するつもりはなかった。私と祖父の関係はあくまで遠縁であり、儀式的な事は何も必要としなかった。ただ、こちらの希望として惚れた人の死に顔をとくと眺めたかった。
子供たちにもちゃんと見るよう念を押し、家族で祖父と対面した。
言葉にならなかった。祖父は会うたびに期待を超え、そのまま逝ってしまった。理想として想念に描いていた死に顔を祖父は遥かに超越していた。その証拠として子供たちが棺を離れなかった。
「ひぃじぃちゃん、わらっとるね」
三女が放った一言に私は涙が止まらなかった。確かに笑っていた。
子は勝手に成長するというが、肉体の成長は見えても心の成長はなかなか見えにくい。棺桶の横を陣取り、ひぃじぃちゃんの顔を何度も見た子供たちは、仏壇へ移動し、何やらブツブツ言い始めた。
「ありがとうございます」
心の成長が見え、父として嬉しかった。
祖父がいなければ嫁がおらず子供たちもいない。祖父はたまたま与えられた命を精一杯生き、土を耕し子を育てた。その余波が嫁であり子供たちである。
噂話や雑談も良かった。普通は葬式に行くと聞きたくない俗な雑談を耳にする。しかし祖父は別格であった。近所の噂話で泣けたのは祖父が最初で最後であろう。
「サクッ、サクッ」
この音がなくなる、それが寂しいと近所の婆様が言った。祖父が畑を耕す音らしく、それを聞いて散歩するのが当たり前だっただけに同じ道でも違う道になってしまうという。
葬式組で御斎(おとき)を担当されていた家の話も良かった。祖父は過疎化の進む小さな集落の象徴らしい。最年長というのもあったが、老若男女隅々まで知っている爺様というのは祖父ぐらいであり、ここの娘さん(高校生ぐらいであろうか)も本気で悲しんだという。
「えっ、かわいいじいちゃん亡くなったの!」
八十も離れた他人に「かわいいじいちゃん」と呼ばれるには、それなりのものがいる。うちの三人娘が死に顔に釘付けとなったのもそういう力だと思われ、その力は筋トレでは育たない。生き様である。三人娘に限っていえば、葬儀が終わった後もひぃじぃちゃんの顔が消えないらしく、我家の庭に墓をつくり花を添えていた。
葬儀が始まった。私は庭の端っこ、坊さんから最も離れた場所にいた。嫁子供は中にいたが子供衆は飽きて出てきた。
次女が「おしっこしたい」と言い出した。葬儀の場を脇から離れ上の畑に連れてった。祖父の畑であった。豊かな実りがある見事な畑が広がっていた。祖父が営みとして耕した素晴らしい仕事が見え、何だか嬉しくなった。次女は畦道に放尿した。祖父が教えてくれた自然の循環であった。
畑の奥に墓があった。字を追うとこの家の墓であった。江戸時代のものもあった。庭に墓を持つ風景は如何にも山の集落で、ここに還れる祖父が羨ましく思えた。
この集落を駒鳴という。近辺に駒鳴峠があり、名の由来は荷を運ぶ馬が重さに耐え切れず泣いてしまったとあるが、別に駒石という奇岩があり、それが夜ごと泣いたという説もある。どっちでもいいが古くから峠があるのは事実で、唐津と長崎を結んだ峠の集落らしい。
氏神は熊野権現である。嫁子供は火葬場へ行ったが私は残り、熊野権現に向かった。境内は熊野の神を主に色んな神様が寄り添っていた。雑多な具合は山の集落っぽくて好きであり、お約束として境内にゲートボール場があった。
駒鳴という集落はそのかたちとして山であった。田より畑の匂いが濃く、律令制の時代は単なる山だったと思われる。放浪の山人が居付いて集落化したか、中世になって他の集落の次男三男が拓いたか、とにかく土の匂いに満ちた集落であった。
次女の放尿が長い。寒いからキュッと終わらないらしい。耳を澄ますと畑の下から真宗の経が聞こえてきた。祖父の体は祭壇にあるが、魂はそこになく、今日もこの畑を耕しているに違いない。
祖父ほどの人格者を私は知らない。波風立てず何も壊さず祖父は畑に還った。