天草一つの靴 〜小字をゆく〜
【序文】
天草という島ほど政治に振り回された場所はなかろう。島というには陸(おか)に近過ぎ、陸というには無理があった。
天草には地平線がない。政治が米を求めた時代、天草の農は土木であった。山林を囲むように石が組まれ、僅かに生まれた狭い隙間に穂が実った。斜面を覆った石垣は天候を許容できる代物ではなく、むろん政治の荒れを許容する体力もない。天草の営みは終始過酷であったと思われる。
天草には外洋に面した海がある。その点、想像する余地はあった。過酷な環境は多くのポエムを生んだ。潮風が運ぶ想像は時として大きく日常を離れ、眩いばかりに輝いたであろう。詩は山で育った匂いが濃い。ポエムは水平線の匂いがする。天草はまさにポエムであり、伴天連という想像は島民が抱えるギリギリの思想に死の彩を添えた。
近年、天草の政治はカネを求めた。競争力のない石垣農業は打ち捨てられ、天草の風景は一変した。橋が通った。道が通った。産業が変わった。天草は公共事業の島になった。
天草に流れ込んだ車の列は島に生産性や普遍性を与えた。大量投下された資本は車の流れをスムーズにし、島のハンデを払拭した。島民は陸の民と同じ「文明舞台」に乗ってしまった。
カネと文明は集落のかたちを瞬時に変えた。モノの価値が変わり、人が変わり、若者が流れ、金持ちがやってきた。手付かずの森や浜には別荘という名の休日集落が生まれ、その集落も景気の浮沈で打ち捨てられた。天草の風景は日に日に変わり、今後も変わってゆくだろう。天草はどこへゆくのか。
天草は美しい。美しいが、その天草自体、目まぐるしさに唖然としているのではないか。翻弄されているのは人ではない。天草という響きであろう。髪乱れ、着衣破れた少女が岸壁に立ち、一筋の涙を流し夕日を眺めている。そういう絵が天草の響きに伴っている。
(天草は離島たるべき土地ではなかったか)
通称一号橋・天門橋を渡りながらそのような事を思ったが、5日間200キロを歩き終え、まだその思いが消えていない。

【初日】三角駅〜教良木
旅はJR三角駅から始まった。最寄の駅(阿蘇下田城ふれあい温泉駅)を始発で出、高森線、豊肥線、三角線と乗り継ぎ、8時17分、天草の入口に立った。
風がぬるい。阿蘇の山風に比べれば、こちらの潮風は頬を撫でるように過ぎてゆく。実に優しい。
格好は冬の普段着である。ジーパンにトレーナー、それに黄色い合羽を着ている。真冬であるが、防寒はそれで足りる。心配なのは体力・気力である。背には巨大なリュックを背負っていて、どうも歩きにくい。この旅に出る前、当然ながら体力づくりはしてきた。たった2週間ではあるが3日に1度、20キロを歩いた。が、リュックは背負っていない。こやつと旅に出るのは4年ぶりであり、その違和感はどうしようもない。自身の体も確かに重くなっている。毎年1キロ着実に太っているので以前と違う事は明白であった。
駅を降り、右へ曲がった瞬間、三角の街が背後に去った。国道は駅の裏を登るような格好で一号橋へ向かうが、古い道はしばし海沿いを進む。左の景色は三角港から続く埋立地で、錆びた地金が高々と積み重ねられている。とても旅情に沿うような景色ではないが、時代の景色ではある。ここで船積みされた地金は中国へ運ばれた後、再利用され、また一つのカタチになって日本へ戻ってくるだろう。
道は小さな集落を抜け、右に曲がった。しばし登りである。トンビ、潮騒、汽笛に風、海の音に混じって地金が弾ける甲高い音が聞こえた。この集落は雑多な音に囲まれ生きている。集落の上を国道266号線が走っている。陸路で天草へ行こうとすれば、この道を通るより他はなく、交通量は多い。騒音も凄まじい。
古来、人は音に関し敏感だったと思われる。が、近年、旺盛な文明と接した事で鈍感になり、ついには一定の明るさと騒音がなければ生きていけないようになったのかもしれない。天草の山深い集落は見るも無残に枯れていて、どうやら音と光の薄いところから人間の営みは枯れつつある。
一号橋を渡ると左手に飛岳(229メートル)が見えた。海の方は採石場になっていて原形を留めていない。この山は古代、3年交代の防人が置かれ、烽火台があったらしい。が、人が住む場所ではなかったようで、近辺に集落はない。山を挟んだ反対側に三年ヶ浦(さねがうら)という小さな集落があるが、それは防人が暮らした名残だと思われる。
一つの靴は小字(こあざ)を愛している。小字、つまりは集落の名である。合併合併で地名がよく分からなくなっている時代であるが、小字は集落の看板であり、時代や地勢、それに人間が見え隠れする。人が住んでは小字が現れ、人が消えれば消えてゆく。地に足つけた人間の営み、その看板が小字であり、地元への愛は小字で昇華する。極論かもしれぬが、小字(集落)を愛せない人間は大字も市町村も都道府県も国も愛せないだろう。地元愛の仕組として、大きいものから小さいものへ移るにつれ、虫眼鏡の焦点の如く、熱く激しくなってゆく。
一号橋を渡った後、しばし集落がない。ゆえ小字がない。幾つかの建物と道はある。土産物屋と飲食店、コンビニなどがそれであり、一号橋ができた後に建ったものであろう。一号橋の入口には大掛かりな宿泊施設もあって昭和後期は賑わったに違いない。が、今は廃墟と化している。打ち捨てるというのはこういう事であり、田舎の場合、撤去費用を捻出するぐらいなら新たに土地を購入し、整地した方が安い。そのため、この循環が罷り通り、結果、一風景がゴミ捨て場のようになってしまう。恐ろしい事だが、それが田舎の現実であり、使い捨てこそ文明の理屈である。
足元にある国道だが、集落がない以上、歩道を欲さない。間道もない。しかもこの道は天草に入る唯一の道であり、大小凄まじい数の車が通る。駆動を人力に頼る小さな旅人にとって、天草で最も危険な場所はここだと言える。気を引き締め、三角の瀬戸を右手に見ながら全力疾走、岩谷という集落に逃げ込んだ。
この国道は「天草パールライン」という名が付けられている。人間は小癪にもトンネルという荒業を編み出してしまったため、パールラインは地形に沿わず大矢野島の真ん中を真っ直ぐ走っている。開通は昭和後期、天草五橋に合わせてつくられたものだと思われるが、旅人を満足させる代物ではない。そもそもパールラインというが、此度の不況で沿線の真珠業者が撤退するという。次にどういう名が付けられるか分からぬが、移り気な道に文化を繋ぐ役目は重く、やはり近代の道は文明を運ぶ通路でしかない。
一つの靴は古い旅人の気持ちでいる。手元に1/25000の地図を持って歩いているが、それに記した予定路は一度もトンネルを通らない。本来なら橋も使うべきではないが、それは予算の都合で文明のご相伴に与っている。道も極力国道を通らず古道を通るようにしている。
パールラインを右に逸れた。岩谷という集落である。岩谷は柴尾山(225メートル)の麓にある。古くから三角との渡しを担った集落であり、天草の玄関口にあたる。港から柴尾山の斜面にかけて民家が点在し、中央には熊野流れであろうか、牛王社が鎮座していた。
柴尾山には明治20年、三角西港が築港された際、熊本で初めて洋式灯台が置かれた。三角西港は熊本の海運、その中心を担う港として開港したが、土木技術の躍進で熊本に大きな港ができると急速に衰え、潔く消えた。岩谷の集落から三角の瀬戸を挟み、復元された西港が小さく見える。が、今は博物館のような公園のような、変なものになっている。
一つの靴は歴史が残したものに関し、保存と説明は必要だが復元する必要はないと思っていて、やたらめったら復元という名で税金を撒き散らす事に怒りすら覚えている。西港はその必要性が失われ潔く消えた。その出現に理由があるように、消えるにも理由がある。それ即ち歴史であって、公金使って過去をプレビューしたがるのは粘度高い政治の理屈に思える。
岩谷の古道は、柴尾山を右手に見、西へ進む。道沿いに幾つかの墓を見た。岩谷姓が多かった。
靴の住む阿蘇下田もそうだが、過去に滅びた城下村は維新後、集落の名を姓にした人が多いように思われる。この岩谷も地の豪族・大矢野氏の手勢、岩屋五郎高正という人物が治めていたように思われ、その大矢野氏は秀吉の時代に滅ぼされている。勝手な想像であるが、維新後、農民も姓を付けよと言われた時、その城跡、もしくは城跡近くに住んでいた農民は遠慮する事なく土地の名を付けたのではなかろうか。農民は士族に遠慮をし、士族が冠する姓を避けるべきであったが、古くに滅び、伝説となった武将に関しては何一つ遠慮する事はなかったろう。
幾つか坂を上り、幾つか下ると白涛(しらと)という集落に出た。幅300メートルばかりの入江に沿って家があり、そこを見下ろす斜面に大規模な別荘地が展開されていた。別荘地に人の気配はない。入江は海水浴場として整備されており、民宿らしき建物もある。が、徹底的に静かである。夏はそれなりに人が集まるのだろうが、冬の海水浴場は鳥肌が立つほど寂しい景色であった。
白涛という地名を熊本県の地名辞典で調べてみた。載っていなかった。それに「涛」という字は「トウ」「なみ」と読むらしいが、常用漢字ではなく、普通は用いない。昭和の後期から平成にかけ、経済がノッてる時に生まれた集落だと思われ、古くはここから1キロばかり下った成合津(なろうず)という集落の外れではなかろうかと推測する。取って付けたように簡単な神社が海岸端にあったが、集落の体を成しているようには思えなかった。
道は海水浴場を抜けると左に曲がり、成合津へゆく。道沿いに生活感のある豪邸が幾つかあった。土地を開発業者に売って栄えた地元の人だと思われ、ゆく末の無事を祈った。
田舎において、ひょんな事から大金を得た人の行動は常に似ていて、まずは豪邸を建てられる。それも判で捺したように石垣が立派な純和風建築である。即ち城っぽい造りで屋根に鯱が乗る。土地成金というのは大抵が農家さんや木こりなので、その性質として嗜好が古く、城に憧れを持たれているのかもしれない。
築城の後も典型的パターンというものがある。土地を片っ端から売り払った後、農家をやめ、資産運用や新たな事業で生計を立てようとされる。十中八九それが失敗する。城にかかる大きな固定資産税も土地成金を苦しめる。落城の兆しとして自慢の日本庭園が荒れ始め、家庭が崩壊する。税務署、前妻、借金取り、それから逃げる生活が続き、ついには城を捨て夜逃げという結末に至る。集落に残るのは開発の名で乱された故郷の寒い風景と朽ちた城である。元に戻すのは容易ではない。大抵、放置され、集落の悲しい記念碑と化す。
白涛から成合津へ向かう途中、一人の小さな老人に会った。三角から歩いている事を言うと、
「こぎゃん汚か海ば見にきなさったか」
そう言って笑われた。老人は小さな家に吸い込まれていった。家の周りを豪邸と別荘が囲っていた。老人には斜面に続く別荘も護岸が進んだ白涛海岸も見えていないのだろう。全てはつい先日、怒濤の如く現れた夢幻であり、老人の描く成合津の外れという場所は手付かずの入江に違いない。自らの住む世界を「こぎゃん汚か」と言わざるを得ない老人の魂は涙も枯れ果て、うなだれているように思われた。
成合津に着いた。古い集落である。集落から5世紀後半の古墳群が出ている。古い時代から津口(港)として栄えたようで、土地は天然の良港、その典型である。
地名において「津」というのは港を指す。「成合」は「なろう」という読みの当て字だと思うが、その意味は分からない。深い入江の最も奥に集落の中心があり、立派な神社があった。古来、築港の技術が未熟だった頃、天然の良港は重宝された。成合津は古から続く海人の集落であろう。
集落に入り最初に靴を迎えてくれたのは生首のカカシであった。マネキンの顔であろうか、リアルな顔が幾つも畑に刺さっていて、野鳥に睨みをきかせていた。畑の隣は墓であり、夜の絵を想像しながら笑っているとエホバの証人に会った。例の冊子を持ち、民家へ訪問したが断られたようで靴と目が合うと調子悪そうに頭を下げられた。エホバはイスラエル人の信仰する天地万物の神であるが、具体的にキリスト教のどういう部類に属すのか、よく分からない。キリスト教は大別してカトリックとプロテスタントがあるらしいが、その教義を遠望し、違いを見ても分かったようで分からない。分かろうとしていないのかもしれず、大して興味がないのかもしれない。
一つの靴は宗教やオカルトの世界に関し、観察はしても首は突っ込まない。否定も肯定もしないと決めていて、その点、いいとこ取りの日本人でいたいと思っている。エホバの証人に友人がいる関係で例の冊子を熟読した事もある。創価学会に知り合いがいるので聖教新聞を通読した事もある。呑み友達に共産党支持者がいたから新聞赤旗を熟読した事もある。小林多喜二を読みながら三島由紀夫を読んだ事もある。無料なら何でも読み、考え、すぐに忘れる。それが思想と接する流儀のようになっていて、今のところ日本人である事に満足している。
エホバの証人は女性二人組であった。生首の畑から海沿いの別荘地へ向かっていたが、思想の及ぼす力は侮れない。彼女らは毎週布教活動に出る。例の冊子を有償で買い求め、多くの時間を割き、断られるであろう家を一軒一軒回ってゆく。この無償の活動に証人たちは大儀を見出していると思われるが、いいとこ取りの靴には布教に関する無償の大儀が掴み辛い。無償といえば、後に大江天主堂でガルニエ神父の余韻と接したが、こちらは何となく理解でき、感動できた。ガルニエ神父は布教というよりも地の声に共鳴し、ポエムと化したキリストのツールを用い、民心に安らぎを与えたように思われる。その点、宗教家というよりも人間として質の高さを感じてしまった。
何にせよ今のボランティアもそうだが、無償というものは組織っ気があると輝きを失うように思われる。仮に組織の存在が否めなかったとしても、組織的な目的を失うほど滅私奉公すればその無償は輝きを増し、後世は正しく評価する。その点、人間の目は曇っているようで、ちゃっかり本質を見るのかもしれない。
余談が過ぎた。一つの靴は賤之女(しずのめ)という集落に入った。
明治40年、東京を出た五足の靴は賑やかに天草西海岸に上陸した。が、一つの靴は一つゆえ、悲しいほど静かである。更に五足は詩人であったが、一つの靴は詩が詠めない。馬鹿馬鹿しい川柳を詠むのが精一杯で、賤之女という集落に低俗な関心を寄せている。
「賤之女よ からゆきさんの 名残かな?」
賤女(せんじょ)という今は使わない言葉がある。辞書によると卑しい女と書いてあり、「しずのめ」とも言う。他に同義語として、賤婦(せんぷ)という言葉もあるが、どちらにせよ良い言葉ではない。
天草は唐行(からゆき)さんを多く輩出した。からゆきさんとは、口減らしと出稼ぎのため、女子が貨物船に潜り込み、海外へ出てゆく事を言うが、島原と天草に多かったらしい。
地元の人に賤之女の由来を聞きたいが、ストレートに聞くのは失礼にあたると思われ、躊躇せざるを得ない。もし靴が思っているような由来であれば、過去の傷をえぐるような事になりかねない。が、地名というのは得てして音から始まり、字は後世の当て字が多い。もしかすると「しずのめ」に関する爽やかな話が聞けるかもしれない。
賤之女の中心に小学校があった。小学校の隣に八坂社と書かれた鳥居があり、その奥には岩壁を掘り込んで作られた祠があった。祠はレンガ造りで何となく隠された匂いがし、天草らしい雰囲気が漂っていた。豊後竹田でこれと同じような隠れキリシタンの祭壇を見た事があり、気は昂ぶった。が、説明書きも何もない。その辺にいた老人にも聞いてみたが、
「そりゃ八坂さんですたい」
繰り返されるばかりで埒が明かない。せめて賤之女の由来を聞いておこうと思ったが、
「そこん豆腐がうまか、もうすぐ来っですたい」
意味の分からぬ事を連発された。が、その意味だけは分かった。凄まじい音量の豆腐ソング(たぶん自作であろう)を流し、「豆腐」とペイントされた車がやってきた。静かな集落に「トウフ♪ トウフ♪」という、けたたましい音が響き、続いて暴走族がやってきた。暴走族もなかなかの騒音を放つが、豆腐屋には叶わないようで、騒音負けして去って行った。
海辺の町にはパープーという古い豆腐売りが似合うように思われた。が、そこに不似合いな豆腐ソングと暴走族、このアンマッチな風景は靴から賤之女と八坂社を忘れさせた。
靴のポケットには、1/25000の地図が入っている。気になる点があると地図を取り出し、そのポイントに赤い字を走らせ、記憶の栞としている。今、その栞を見ながらこの文章を書いているが、その地図に「豆腐屋の歌」「暴走族去る」この二つしか書かれていない。
(アンマッチで面白い景色、むふふ・・・)
そんな事を思いながら歩を進め、気付けば次の集落に入っていたと思われる。
ちなみに賤之女の事を地名辞典で調べているが載っていない。靴は学者じゃないので、分からない事は分からないで放置する。世の中分からん事だらけ、分からんからこそ歩く楽しみがある。学者じゃ旅は進まない。
一つの靴は小川に沿って南西の方角に進んだ。
天草という土地は海が終われば陸が始まる。陸と同時に山が始まり、大した盆地を見る事もなく山が終わる。それから先はまた海である。天草の土地は平地が乏しく、平地といえば川に沿った僅かな隙間である。
賤之女の小学校を越えた辺りから、やっと田んぼらしい田んぼが見え始めた。むろん今は冬真っ盛りなので、田んぼといってもその姿は静かであるが、川の両脇に広がる狭い田んぼは集落の宝、天草の宝であったろう。が、それにしても狭い。阿蘇の区画整理された田畑から見れば猫の額みたいな田であり、整理したがる行政も、この狭さでは整理の甲斐がないのだろう。おかげで天草の田んぼは、この時代考えられぬほど旧態を留めている。ただし、そのほとんどが機械化農業の生産性に負け、荒れ果てている。
道は果樹園に入った。馴染みのミカン畑ではない。黄色いのはパール柑、オレンジ色はデコポンであろうか、大き目の果実がたわわに実っていた。側溝には傷物であろうか、生産調整の痕跡であろうか、柑橘類が山ほど転がっていて流れを塞いでいた。
斜面で果物を作るというのは全国の農協が一斉にやった過去の農業改革である。平地は区画整理と機械化で効率を上げ、山林は細かな道と道具・機械の整備で生産性の向上に努めた。時代は高度経済成長期にあり、金銭的な余力はある。公金が途切れる事なく注ぎ込まれた。
山林の農業は突如現れたカネの成る実に驚いたであろう。誰もが食い付いた。果実が市場に溢れ始めた。値段が急激に落ちた。更なる補助金を求め、旺盛な政治力が必要になった。過去への回帰は誰も考えなかっただろう。果実の発した文明の輝きが先祖代々の農業を打ち消してしまった。
今現在、田舎の農業は選挙になると血眼である。感覚として、最も政治から離れ、地に足つけて生きてゆけるであろう人々が政治から離れては生きていけない立場になった。カネの魔力、カネの呪縛である。
一つの靴が踏みしめているのは広域農道である。広域農道は田舎という田舎に無数に走る立派な道で、農道というが二車線歩道付きの立派過ぎる道である。田舎の政治が求めるところはつまりがこれであり、この道は一つの典型といえる。外部の資本を凄まじい理屈で引っ張り込み、カタチとして何か立派なモノ、分かりやすいモノを落とし、後世に政治の名を残さねばならない。広域農道には立派な記念碑が付きもので、それは政治の印鑑である。農村や山林は印鑑と典型だらけになっていき、代わりに人が減っている。
大半の広域農道は1キロ歩いて1台の車しかすれ違わない。それでも道は広々、途中に公園まであるというのは政治の主張による。産業の乏しい農村で一定の文明水準、カネを引き込むにはそういう方法が手っ取り早く、大儀らしきものが立てやすい。更に言えば細かいものを百言うより、大きなものを一言う方が出す側、受け取る側、共に簡単で分かりやすい。投資対効果はどうでもいい。どのくらいのカネを引っ張ったかが政治の勲章である。分かりやすさのため、変なところにカネが使われ、変な具合になっている。分かりやすさは民主党の材料になり、政争の具になり、故郷の景色を壊している。その余波として、集落の人や仕組も変わらざるを得ない。
文明、つまりはカネである。それは麻薬みたいなもので、一度注入されたら手放す事はできない。何としても手に入れなければならない。回帰は許されない。小さな政治はそう思い、確信している。だからこそ不気味なほど立派な記念碑が誇らしげに畑へ落ちる。国としても農村をカネに依存させたわけだから、それを元へ戻すに過渡期がいるのは当然で、短兵急なやり方は激しい暴動を生む。お互いの政治は現状を面倒臭く思っているだろう。カネの流れはシビアに変わる。が、人の心はなかなか変わるものではない。何ともいえぬ倦怠感が山村には漂っている。振り回された集落はどこへ向かおうとしているのか。よく分からぬが、少なくとも広域農道を見る限り、枯れてゆくように思われてならない。
広域農道を左に折れた。井川之下という集落に入った。緩やかな坂を登り、急な坂を下ると左手眼下に豊後谷という美しい集落が見えた。白い梅ノ木が至るところに点在し、適度な間を保ちつつ民家が寄っている。無味空疎なコンクリートの固まりも見えず、文明が機能美の段階で休んでいる。集落の名前もいい。またも由来は分からぬが、島流しの罪人が開いた村ではなかろうかと勝手な想像をしている。
天草は五島、壱岐、対馬と並ぶ島流しのメッカであった。天草の場合、行政の中心・富岡が流人を受け取った後、各地の大庄屋に振り分け、大庄屋は配下の村に預けるかたちとなる。末端の村はその扱いに難儀したであろう。流人が逃げれば責められるし、集落には入れたくない。想像だが適当な空き地を流人の寄せ場として割り振り、監視役を設け、距離を置いて暮らしたのではないか。むろん勝手な想像だが、豊後の流人に人物がいて、市民権を得たと思えば、話として興に入る。
坂を下ると海に出た。島原湾である。右手の高台に慈育観音堂という俗っぽい建物が見えた。新興宗教の拠点っぽい臭いがしたが、調べると天草五橋建設に功があった地元の政治家・森慈秀がつくった観音堂らしい。二号橋の入口に巨大な像が建ち、天草を救った英雄として今なお愛されているという事であったが、果たしてこの五橋が天草にとって良かったのか悪かったのか、何とも言えない。
一つの靴は江樋戸(えびど)という変わった名前の集落にいる。古い時代からの津口であり、今も人工的な港を抱えている。港の背後は斜面であり、その丘陵は天草砥石の採掘地で、長崎オランダ坂の石畳にも使われたらしい。
江樋戸の近辺では車海老の養殖が盛んであり、小字はその影響かと思ったが、どうも違うようで、地名辞典によると干拓地における堤防を横断する排水路(樋門)を「海老戸」と呼ぶらしく、それが小字になっている。
道はパールライン(国道)に合流した。この合流点に道の駅があり、国道を挟めば「天草四郎メモリアルホール」というハイカラな建物がある。最近の観光地は横文字使えばナウいと思っているらしいが、どうも理解に苦しむ。この箱物ができる前は「天草四郎聖堂跡」と記載されていた。四郎はこの場所を起点に一揆の組織化を図ったらしいが、メモリアルと記してしまえば、悲愴感漂う現場もメイド喫茶の雰囲気になってしまう。メモリアルという外来語を「トキメキメモリアル」で知った世代としては、この違和感どうしようもない。
天草四郎メモリアルホールは随分前だが入った事がある。こういう箱物はどこも似ていて、他のこういった施設と大差ない。カネをたっぷりかけたであろう豪勢な模型が並び、分かりやすい動画が流れている。どこもかしこも二度行く必要はない。一つ斬新な点があるとすれば、瞑想の部屋があり、静かな音楽を聴きながらリラックスする空間が設けられている。それは天草四郎と何の関係もない。その点、聖堂跡というよりメモリアルホールの方がしっくりくるのかもしれない。
何にせよ政治が箱物を欲すのは前に書いた広域農道と大差ない。これからも欲し続け、人は来ず、維持費に苦しみ、打ち捨てられてゆくだろう。
さて、この集落を宮津という。ここから少し北へゆくと、大矢野の中心街に入る。天草五人衆の一人、大矢野氏の拠点はそこにあったらしく、中学校が城跡を揉み消している。
「大矢野は蒙古襲来で鎌倉を救った」
ある友人の父親がそう言っていたのを思い出した。父親が言うに、カミカゼを呼んだのは大矢野にある金毘羅さんで、鎌倉幕府が負けなかったのは大矢野によるものらしい。友人の父親は歩けぬほどに酔っていて、当時、鼻で笑った憶えがあるが、少なくとも活躍したのは本当らしい。有名な蒙古襲来絵詞に大矢野氏が兄弟で載っている。
手元に「天草の歴史」というシンプルながらもよくできた教材がある。昭和37年、本渡市教育委員会が作ったもので実に面白い。役所が出すものは市史なども含め、睡眠誘発薬がタップリ含まれているが、これは本当に天草を愛した人が書いたのだろう。文章に気がこもっていて眠くならない。他に眠くならない通史といえば郡誌が熱い。火傷するほど表現がいい。郡誌は明治から大正にかけ全国的に発行されたと聞いているが、今のところハズレがない。手元にある愛読書・阿蘇郡誌は大正15年の刊行であるが、これにある観光地の記述などは酒に酔った詩人が書いたような文章で必ず笑える。
脱線して申し訳ないが写真について考えている。今の観光案内は写真が多い。文字列は写真の説明であって、いわばオマケである。読み手は瞬時にその観光地を知る事ができるが、それ以上は膨らまない。更に写真はベストショットである。悪いものは使わない。ゆえ、ガッカリする事が多い。文字列は書き手・読み手によって違う風景が与えられる。膨らむ人は大いに膨らみ、見えぬ人にはただの文字列である。膨らみ過ぎればガッカリし、期待をせねばビックリする。それは官能小説とエロビデオの違いに何となく似ている。文化と文明、独自性と普遍性、個別と均一。どちらが良いかよく分からぬが、少なくとも靴にとって無上の楽しみは想像にある。その点、官能小説を鷲掴みである。
さて・・・。
一つの靴の太い腰には万歩計が付いている。この旅のために買った新品であるが、賑やかな国道へ出た瞬間、腰から外れた。海沿いの整備された公園であった。足元には石が敷き詰められていた。万歩計はその隙間に吸い込まれていった。石の隙間から黒い万歩計が微かに見えた。指を差し込むが届かない。転がっている枝を差し込んでみた。触る事はできるがツルンとした万歩計に引っ掛けどころがない。石を動かすべく、力を込めてみた。ビクともしない。ベンチで寝ている暇そうなサラリーマンに助けを求め、二人掛かりで石を持ち上げてみた。ビクともしない。何度かやったが駄目だった。暇そうなサラリーマンがムキになり始めた。「ちょっと待て」と言い残し、車でどこかへ出かけた。が、何が何でも取りたいモノではなかったので申し訳ないが場を去った。
島原湾を右に見て国道を歩いた。
万歩計はその機能を発揮する事なく岩の隙間で眠る事になった。あるいは暇なサラリーマンが粘着テープを買い求め、拾い上げ、自らの腰に付けているかもしれない。いずれにしても古い旅人に万歩計はいらない。興味本位で買ってはみたが、テーマに沿わずそういう運命になったと諦め、広い海を眺めている。
国道は手短に去った。江後という集落から間道に逃げ、次いで国道を横切り、瀬高という集落へ続く暗い道に入った。何という竹であろうか、水辺に細い緑が群生していた。それが道を覆って太陽を遮断している。道は古いものであろう。地形の隙間を縫うように蛇行し、南へ伸びている。なかなかどうして好きな道であった。国道とは山一つ挟んで並行に走っており、騒音は全く聞こえない。聞こえるのは「ピーヒョロヒョロ」というトンビの鳴き声だけであり、その空は限りなく青い。人っ子一人いない。民家もない。車もこない。携帯は意図的に電池が切れている。目線の先に海が見えた。これぞ旅、完全に日常から離れた一人旅であった。
満越ノ瀬戸に出た。海である。瀬高、満越、静かな集落をテクテク歩き、実に気持ちが良かった。が、雑音もあった。期末という事で公共工事が多い。期末の工事は田舎道に集中しているように思われる。この先、嫌というほど工事に出くわした。
国道に戻った。旅館と飲食店が立ち並ぶ五杷浦(ごわうら)に出た。ここのヒライで昼飯を食い、長めの休憩を取った。
一つの靴は学生の頃からヒライの弁当を愛している。大分の外食チェーンにジョイフルがあり、長崎にリンガーハットがあり、熊本にはヒライがある。学生の頃、ヒライのうどんは120円であった。これを2杯食う事が呑んだ後のシメであり、1日の終わりであった。15年も前、悪友と地元(山鹿)で呑めば、必ず4時まで粘った。4時半くらいに温泉が開く。湯に浸かり、酔いを醒まし、うどんを食って解散というのがいつもの流れであった。
今、ヒライのうどんは200円になった。大盛券という俗なものも出て、「いつもの一杯」は大盛うどん300円に昇格した。今日は頑張ったご褒美として、大盛うどんにイナリを一つ、気持ち贅沢な昼食を楽しんだ。手元の地図に昼食の事が書いてある。赤字で「幸せイナリ」、そう記してある。自ら書いた筆ながら実に微笑ましい。庶民の、庶民たる幸せであろう。
五杷浦を出れば、以後、合津(あいつ)まで橋の連続である。通称二号橋、大矢野橋で永浦島に渡る。次に三号橋、中の橋で大池島・池島に渡り、四号橋、前島橋で前島に渡る。最後は五号橋、松島橋で上島上陸であった。
橋の左右には小島が点在している。道自体は旅情の欠片もないが、景色は変化に富んでいて飽きない。旧町村区分は二号橋を渡った時点で大矢野町から松島町になる。今は平成の大合併で上天草市となっている。
松島という旧町名には観光で町を興そうという政治的決意が滲み出ている。小島の点在を「天草松島」と誰かが呼んだ。著名な詩人、与謝野晶子も「天草松島」を詠み、その美しさを宣伝した。小島を見慣れた島民からすれば、これらに価値を見出す事は困難だったに違いない。価値というものは客観視される事で初めて芽が生まれる。
日本三景の松島においても、「松島や、ああ松島や、松島や」言葉にならぬ美しさと言われても、地元は「馬鹿じゃなかろか?」と、首をひねったに違いない。が、その後、日本三景の名誉に輝き、人が押し寄せカネが落ちるようになり、これは凄いものだと価値を認めた。天草松島も同じである。凄いと言われ称えられ、カネが落ちる可能性を感じた。
松島町の前身は今津村、教良木河内村、阿村である。合併に際し、松島のマの字もない。が、民衆が選んだ政治は地域を挙げて観光へ舵を切った。そしてヨソモノが言ってる松島という名を全面的に受け入れ、猛アピールした。
「観光といえば温泉たい、温泉ば掘らにゃん」
上島の入口は大字合津という。合津の政治家が温泉の言いだしっぺであろう。
「合津に松島温泉を!」
政治家の声は色んな修飾語を塗し、地域の声と発展したに違いない。観光といえば温泉である。今も昔も日本にある「観光の公式」に基づき、松島町は動き始めた。
合津は石の都である。至るところに石があり、ボーリングは困難を極めたであろう。が、それでも掘った。掘り込む先に煌びやかな世界が待っている。1979年であった。
「出たっ! 出たぞ!」
民衆はその一発目に歓喜した。が、温度が低く、温泉とは認められなかった。
「こうなりゃ掘れ! 意地でも掘れ!」
政治の恐ろしいところは引けないところにある。当時最高の技術を駆使し、なんと700メートル掘った。1981年であった。今度は36度、温泉が出た。
松島は賑わった。ドンチャン騒ぎが連日続き、一夜の夢が二夜三夜、1998年には1330メートルも掘って44度の温泉を引いた。町は美酒とバブルに酔った。
合津の街、松島温泉は稲戸、馬建という小字から成っている。集落の真ん中に上島における海の玄関口・合津港がある。五橋を渡り終えた一つの靴は合津の街に入った。
今となってはどこの温泉街もそうだが、何事もなかったように黙り込んでいる。空き店舗が目立つ。廃屋のような店舗もある。明々しているのは葬儀屋ぐらいのもので、気忙しい文明の末路が風景としてそこにあった。
たいてい温泉街というものは街を見下ろす格好で神社がある。その点、この松島温泉は徹底しており、小高いところは神社が占めていた。参道には過去の栄光が寄付名として並んでいた。片っ端から参道を登り、賽銭を投げ、お悔やみを申し上げた。
「色んな集落がいいところで落ちつきますように」
温泉街から旧道沿いに民家が並び、右手は千巌山へと続く急な斜面であった。斜面に神社が並んでいた。天満様、八幡様、清正公、色々並んだ末、氏神である合津社へ辿り着いた。小字でゆけば志賀間、古園、松葉と抜けるかたちで旧道が走り、その間、民家が多い。地形は金毘羅山と千巌山に挟まれた狭い谷で、中央を合津川が流れている。
天草は島原の乱後、一気に人が減った。減った分を政治が補った。それから先は近代まで増え続けた。江戸時代、公然と間引き(生まれた子を殺す事)が行われていたらしいが、天草においては伴天連の名残かどうか分からぬが、捨て子、間引きがなかったらしい。乱後2万人いなかった島民が、150年後には20万人になった。
天草の農はその大半が土木であった。山にあっては斜面を削り、海にあっては浅瀬を埋めた。食わねば死ぬ。その理屈がある以上、土木は身近な営みであったに違いない。
近代、土木の質が政治の粘りを持った。どこの田舎も変わらぬ事だが、バブルに浮かれ、バブルに乗り、それが弾けて黙っている。営みと人の間に力を持ったカネがある。そやつを求め、そやつに食われ、素の営みが遠くなりつつある。
合津の氏神も集落を見下ろす高台にある。味のある古い石段が見事な傾斜で登っていて、登り切ると安心して見られる素朴な社殿があった。登りがきつい。ゆえ、登り口に立派な社殿ができているが、そちらに賽銭を投げても霊験は得られないように思われた。
前に観光案内の写真について書いたが、現代人は簡単・手早いものを求めている。祈りも道も農も工も、全てがそこはかとなく早い。
神社の先に向陽寺という寺があった。ここの寺はギター説法が有名で、歌いながら分かりやすい説法をするらしい。マスコミが取り上げ、行政が観光名所にし、住職が書くものは本になったり焼酎のラベルになったりした。
宗教家が放つ説法というものは実に分かりにくい。分かりにくい話を「ある代わり」を用いて説明し、望むべき方向へ導くのが宗教であるが、「代わり」の存在が本質をぼかしてしまうため、どうも理解に苦しむ。が、聞き手は歴史と伝統、それに意味不明な宗教語に屈服し、沈黙を続けねばならない。古来、宗教はそうであり、今も得てしてそうである。聞き手は聞くのではなく、聞かされる。むろん正座で静聴し、お礼を渡し、頭を下げねばならない。
時代には普遍性が溢れている。神社仏閣は集落の民に半ば強制的な光を発し続けたが、人の質が変わってしまった。光が届かない。強制力もなくなった。人は寺へ寄り付かなくなった。その時、ギター和尚が現れた。説法の内容は色々だろうが、言いたい事は明快な主題に達する。
「人生楽しまなきゃ」
これらしい。和尚は文明のハートを捉えた。実に手早い。一つの靴も焼酎のラベルにしびれた一人であるが、「愛ある仕事に不況なし」「仕事のできる人は遊び心が並じゃない」そのラベルを捨てずに持っている。
靴は向陽寺の本堂にいる。仏像に頭を下げ、振り向くと説法館なるコンクリートの建物があった。行政が立てたのか自前で建てたのか、よく分からぬが、寺に不似合いな硬い造りで悲しくなった。が、この時代、話をするにも風習で縛る事はできず、こういったカタチで人を集め、集めた上で正しいかたちを説いていくしか方法はないようにも思える。
昭和の中期、24万人もいた天草の人口は現在13万人になっている。その点、天草五橋は様々なものを受け入れ、様々なものを吐き出したといえる。江戸時代、異様に増えた天草人も少子高齢化に悩んでいる。向陽寺は静かな通りに突如光った松島の希望であろうが、その住職も悩んでいるに違いない。時代が変わり人が変わり、導く先が難しくなった。これから更に難しくなるだろう。
さて・・・。
太り身の靴は松の本峠という緩やかな坂を登っている。思ったよりもペースが早い。今晩の宿は教良木というところで目の前に聳えている山の向こう側になる。
峠の場所は合の丸という小字である。地名辞典で調べてみると、古くは大矢野氏に与力した合津氏の城があったらしい。辞典によると、この合の丸まで入江が迫っていたようで、そうだとすれば松島温泉から歩いた谷、その全てが失われてしまう。地図を見ると確かにそれもあるように思える。そうだったに違いない。入江全てを血の滲む干拓で埋めたのではないか。
合の丸の低い頂に小さな山城があり、そこから見下ろす格好で合津の津口があったのだろう。松の本峠から古い合津を想像すると何ともいえない美しい風景が広がった。右手の丘に土臭い山城が見え、その先に天然の良港が広がっている。濃い緑の中央に真っ青なV字が迫っていて、天はどこまでも青い。
靴が描く美しさは天草において忘れたい風景かもしれない。天然の良港を埋めねばならぬほど、天草の事情は厳しかったに違いない。
旧入江から陸が始まったであろう地点に天草池田電機という会社がある。前身はオムロン天草といい、熊本出身のオムロン創業者・立石一真が1972年、ここに落とした。立石一真はなかなか地元愛が強い人で、九州の広い範囲に満遍なく工場を落としている。熊本では山鹿、阿蘇、天草、人吉と、県北から県南まで隙がない。
手元に立石一真と稲盛和夫(京セラ創業者)の年表がある。それを見ながら封建時代の名残を感じている。二人とも九州出身の技術者で、縁のある土地に資本を落とし続けた。その落としっぷりは徹底しており、採算性の欠片もない。採算を地元愛が超越し、それが当たり前の時代だったと思われる。二人が起業した場所も面白い。揃って京都である。京都を起点に成功し、そこで得た利を惜しみなく地元へ振り撒いている。
京への憧れというのは今でこそ旅情に寄っているが、天皇が東京へ移るまでは権利への憧れであった。「京都から」という響きは当時の人を大いに奮わせたであろう。大きな夢は京に始まり京に散った。それが日本の歴史であり、夢が大きければ大きいほど京への執着も大きい。その点、オムロンと京セラは貴重な文化財のようにも思える。移り気な世の中にあって、今も本社を京へ置き、お互い高い地位にいる。何となく幕末の志士が生き残っているようで歴史好きにはたまらない。が、生き残っている背景には合理化への方針転換と数え切れない涙がある。
「選択と集中」という言葉がある。バブルが弾けた後、色々なものの合理性が問われた。創業者が振り撒いた地元愛は合理化の対象として目立ち過ぎた。真っ先に整理された。創業者は愛を問うたであろう。地に感謝され、地に恨まれ、愛はどの場面においても難しい。
松の本峠を下り切る前、左に折れた。小さな集落へと続く道で、小学生が列を成し下校していた。怪しげな一つの靴が現れると子供たちは無言になり、固唾を呑んで靴が去るのを待った。「知らぬ人に声を掛けるな」と指導してあるのだろう。変な空気だったので、こちらから挨拶すると小さな挨拶が返ってきた。教育が軋んでいるように思われた。
蔵江、須の上、上の浦と小字が続いた後、寺にぶつかった。寺の隣に空き地があり、政治臭の薄い石碑があったので軽い休憩をとった。道はこれから登りになる。硬くなった足を揉みながら説明書きを眺めていると、なかなか面白い事が書いてあった。
近所に山口という集落がある。そこに喜佐衛門という男がいて、近所で噂の孝行息子だったと石碑は言う。凶作で苦しい時、喜佐衛門は率先して我慢した。親を食わせるためらしい。親が寺に行きたいと言えば背負って山を下り、共に祈り、背負って帰った。それが当時天草を治めていた島原藩主に聞こえ、褒美として白銀が与えられたそうな。
石碑から涼やかな風を感じた。喜佐衛門という人物が本当にいたかどうかは分からない。分からないが、そんなものはどうでもよく、この出来事を伝えるため、皆で身銭を切った集落の歴史に拍手を送りたい。確かな教育が見え隠れしており、何となく安らぎを覚えた。
寺は西運寺という。真宗である。天草の乱後、合津種元を開基として再建されている。真宗に寺領はない。信徒が起こし維持するという仕組であるが、仕組が仕組なだけに葬儀のための寺ではなく、学校や集会場を兼ねた幅広い場所だったろう。
天草の真宗は、乱後、飛躍的に伸びた。江戸時代、天草の伴天連は転宗するよう命じられた。「宗門改めの制」といい、全ての日本人は仏教徒であるというのが前提になっている。寺ごとに宗門帳を備え、檀徒の名簿をつくった。名簿は人の管理に利用されたらしく、田舎では今もその名残がある。
天草には伴天連が多かった。伴天連は必ず転ぶ(転宗の意)よう命じられ、転び先も決められていた。それが真宗であった。
真宗といえば庶民の宗教である。むろん靴も真宗に属している。江戸時代、宗教や思想に関心がなく、伝統として氏神や地の神を拝んでいた人は宗門改めの制で、
「あなたは真宗です」
そう宣言されたのだろう。宣言された人は、
「分かりました、何でんよかです」
そう言ったに違いない。が、そういった人は真宗に属しながらも阿弥陀如来に酔えなかったのではないか。神仏混交クリスマス、何でもありの日本人は強制力に愛想笑いを振り撒いて、「何でもあり」を思想として保ってきた。諸外国はこの思想を「無宗教」と馬鹿にするが、これだけ歴史を重ねてしまえば立派な宗教といえるのではないか。大小様々な宗教抗争がある。靴はそれは横目で見、日本の庶民である事を誇らしく思っている。
ちなみに天草では、乱後、四ヶ本寺という国策の寺ができた。今も天草神として崇められている鈴木重成の策で、大きな寺領が与えられた。これらの寺は曹洞宗と浄土宗である。四ヶ本寺以外にも寺領を与えられた寺はあるが、真宗には何も与えられていない。真宗は門徒が起こし維持するという仕組がある。認められたものがあるとすれば在家説教の権限であり、つまり食いたくば庶民からむしりとれという事である。
真宗は祈れば救う大乗仏教、その極みにある。これに対し、公金で生きた宗派には微かながら解脱を求める小乗の香りがある。庶民は祈れ、上に立つものは身を制し下々に応えよ。そういう区分けかもしれないと思っているが、勘違いかもしれない。
さて、ここの大字を今泉という。ここも合津同様、入江を干拓で殺し、辛うじて狭い平地を生み出している。豊富に取れるのは岩であり、それを割って石に変え、産業とした。長崎大浦の外国人居留地は今泉の石でできている。風景からも察する事ができるが山の大半は岩である。松は育っても大根は育たない。急な斜面を豊富な石で固め上げ、僅かな隙間をつくり、唐芋を植えたであろう。長雨は組んだ石を流してしまい、乾燥は固い山を瞬時に枯らす。村人の生活が何となく想像でき、風景が痛々しかった。入江という入江を埋め、それでも食うに困った人の心は喜佐衛門の孝行話に泣けたであろう。過酷な環境は確かに豊潤なポエムを生む。熱を帯びたポエムは伴天連の風に乗り、島原・原城で昇華した。
島原の乱について一つの靴は冷めている。先ほど歩いてきた大矢野、合津などは、ほぼ全ての村民が乱に参加し、村ごと人が消えてしまった。今泉では半数の人が島原に渡った。渡った人は一人の裏切り者を除き、全員死んだ。もし死にゆく村人全てが伴天連だったなら、詩的映像として、これ以上のものはない。伴天連には死後訪れる煌びやかな世界が待っている。殉死という詩的大義である。が、この乱に参加した半分以上は止むに止まれず海を渡った普通の農民だったろう。乱の前、不穏な空気が村を覆い出すと大矢野の庄屋は肥後に向かって逃げ出した。そういう雰囲気の中、一般的な農民に拒否権があるわけなかった。政治的な盛り上がりの中で、異分子は殺されてしまう。伴天連のフリをしていると、あれよあれよ連れ出され、籠城したが最期、死ぬより他に道がなかった。
そもそも農民の不満は無理のある年貢にあった。無理な年貢に凶作が追い討ちをかけ、仕組が変わらねば進むも引くも死んでしまう状況に追いやられた。当然、人は死ぬ前に立ち上がる。が、それは一揆であって、その処理も数名・数十名の命で方が付く。そう思っていただろう。
どの時代もそうだが、世の乱れに便乗したがる政治好きがいる。つまり革命家である。大抵、政治的事情で不遇になった者が多い。明治維新という革命は長州と薩摩、つまり関ヶ原の負組が仕掛けた。天草の乱を目論んだのは小西行長の家臣である。小西行長は関ヶ原で死んだ。家も取り潰された。小西行長はキリシタン大名であった。乱を目論んだ小西浪人もキリシタンであろう。キリシタンの詩的性質を知っているがゆえに、それで革命が成ると信じた。
シナリオ通りに天草の政治が荒れた。シナリオ以上に島原の政治が乱れた。凶作が続いた。暴発の下地は完璧にできあがった。民衆の不満が方々で噴出し始めた。これを組織化するにはキリシタンの発する詩的世界が打ってつけであった。小西浪人は「ママコス上人の予言」を創作した。
「美しい童子が一人現れ、習わぬに諸字を極め、天にしるしを現すであろう。野山には白旗なびき、緒人の上にクルスを立て、東西に雲の焼ける事があろう。緒人の住所も野も山も、草も木も皆焼けるであろう」
マルコス上人は立ち上がるべき瞬間を今だと教えてくれた、その証拠に伝説の童子が現れたという。宣伝活動は旺盛を極めた。創作した小西浪人も叫んでいるうちに信じてしまったのではないか。暴発の機は熟した。浪人は自らの息子を天草四郎に仕立て上げ、ポエムの先頭に差し出した。
何度も言うが一つの靴は乱について冷めている。天草四郎の魔術とか、大矢野から掘り込んだ地下道とか、乱について色々な名所・伝説があるが、小西浪人が描いたにしても後世が描いたにしても多分に政治である。政治と営みは切り離せない。切り離せないが、一つの靴が歩きたい道は天草の営みである。政治は営みを振り回し、営みは与えられた世界でもがいている。ポエムに酔い、ポエムを信じた人々は政治のポエムに殉じたが、その脇で首根っこを捕まれ嫌々ながら死んだ人がいる。散った人、残された人、無人の集落に送り込まれた人、彼らに共通するのは苛酷な環境であり、その営みは僅かながら地に残っている。
西運寺から今泉川に沿って登った。道添、山口という小字があり、それを過ぎると民家が消えた。なかなかどうして田んぼがしぶとい。平地なくとも石垣に依ってしがみ付き、離れようとしない。狭い田んぼは行けば行くほど狭くなり、ついには荒れ果て、川と共に消えた。
営みのしつこさには、ただただ呆れる。水さえあれば山拓き、どこまでも追い、水がなくなると細い入江を埋めたてた。食うに困った人の心が重機となり、天草という大地をこねくり回した。
右手に次郎丸嶽が聳えていた。岩の塊に濃い緑が生していた。緑は木であるが苔の様でもあり、巨大な盆栽を見ているようでもあった。
この道を小鳥越という。次郎丸嶽を見るためにあるような道で、進む毎に表情が変わった。隣にいた今泉川が終わると地形に沿った湾曲道が始まった。道は立派な舗装路だが通る車は稀で、そのほとんどが工事車両であった。土砂崩れの対策をしていた。
道が下り始めた。また川が現れた。地図によると内野河内川の支流だが、名前は分からない。
右手に降りた。立派な舗装路から昔気質な道になった。日は届かず暗い。少し歩くと小さな集落に出た。地図に中月と書いてあった。細く美しい流れに沿って幾つかの民家が点在していた。背後を例の盆栽みたいな次郎丸嶽が塞いでいた。満月の夜に映える村だと思われた。真ん丸の月が次郎丸嶽を照らし、月も次郎丸も流れの緩い小さな川に浮かぶだろう。時期も時期なら蛍も舞うに違いない。そういう時、小川の縁にぶらりと足を垂らし、月を相手に一杯やれば次郎丸の声が聞けるかもしれない。集落の名は中月。美しい山村であった。
一つの靴は天草の古い幹線を歩いているつもりである。
古い時代の幹線は、水に近い場所を嫌い、なるべく高いところを通った。護岸工事の技術が進んでいない時代、低い道は流されやすく幹線には適さなかった。
天草に幹線というものがあるとすれば、それは海の道である。陸の道はそう必要とされず発達しなかった。が、あるにはあって、高いところを背骨のように走っている道がある。天草街道と銘打たれている県道34号線がそれだと思われる。
日本全国、古い道は分からなくなりつつある。天草も例外ではない。事前にたっぷり時間をかけて地図を見、古い道を探してきた。目印は神社仏閣と地形である。それらを考え、地図に赤線を引いている。赤線は県道34号線と離合を繰り返しながら上島を進む。
内野河内川にぶつかった。ここを下春山といい、川向こうを船倉という。狭い盆地である。三本の川が集まって星型の平地を成している。ここのほぼ中央が船倉で、そこから内野河内川を使い、木や石を海へ吐き出したのだろう。
盆地の脇に中世の山城があるらしい。石垣が残っているそうだが詳しい事は分かっていない。一つ言える事は古くから人の住んだ気配があり、確かに天草において真水が豊富な盆地といえば狭くとも楽園に感じる。
盆地を背に内野河内川を下った。道は広々している。川幅を測ってつくったかのように、同じ幅で同じ曲がりで進んでいる。地図を見ると二本の川が寄り添って進んでいるように見える。
もみじマークを付けた爺様が軽トラで中央線を跨ぎながら進んでいた。速度は遅いが対向車が来ている。田舎にはこういう爺様が多い。実に危ない。危険を感じ眺めていると、対向車が路側帯の端へ逃げ、急ブレーキをかけた。辛うじてすれ違った。爺様はプルプルしながら先へゆく。対向車が道を譲った事も気付いていないようだ。止まった車は、すれ違いながら人を見、諦めた感じで動き始めた。知り合いの爺様なのだろう。
農村の広い道は、農村出身の身でありながら無駄だと思っている。が、高齢化が進む田舎の村では譲り合う余裕がいるようで、こういった現実を見せられると何とも言えなくなる。そもそも、ああいう状態で車に乗る事が変だと思うが、農村には車を取られると隣の家にも行けない人がいる。あの老人はそういう環境かもしれない。
(免許を取り上げるべきだが、それは生甲斐を奪う事にならないか?)
歩きながらくだらぬ事を考えた。が、それは旅情に沿うものではない。広域農道といい、この道といい、人の少ない広い道は変な事を色々考えてしまう。歩くべきではない。
金山という小字から左に曲がった。内野河内川を渡り、これまた立派な道を進んだ。共にゆく川は教良木川である。岩が多く、渓谷の様相である。右手は川、左は急な斜面、山は変わらず岩っぽい。斜面からは山水が滴っている。
しばらくゆくと下校中の子供とすれ違った。老人数人に手を引かれていた。大人がいる安心感もあるのだろう。子が元気な挨拶をしてくれたので、こちらも負けじと全力で返した。子は靴の反応に目を丸くした。続いて、
「変なオッサン」
そう言った。老人が慌てて子の無礼をたしなめ、頭を下げた。が、こちらとしては久々に元気な子と会え、足取りが軽くなった。ただ、元気過ぎる子・通称クソガキは10分遊ぶとお腹いっぱいになり、20分遊ぶと胃痛を覚える。30分遊べば間違いなく筋肉痛になる。そのため、うちあう事は控えた。
老人が通学路に立つようになって何年くらい経つのだろう。都会でも田舎でも当たり前の景色になってしまったが、子供にとって、これほど迷惑な話はなかろうと思う。過去を振り返れば下校は冒険の時間であった。川で遊んだり、墓のお供え物を食ったり、田んぼの水を飲んだり、河川敷で決闘したり、限りなく自由で胸熱くなる瞬間が下校であった。FBIに捕まった宇宙人の如く、両サイドをガッチリ固められての下校であれば、熱くなりようがない。全てはマスコミが騒ぎ過ぎた事と、人の変化によるものだが、クソガキが大人に向かって叫びたくなるのも頷ける。子供なりにストレスを感じているに違いない。少なくとも少年時代の靴ならば、老人から離れ山へ逃げ込み、追ってきたならウンコを投げるであろう。
教良木(きょうらぎ)に入った。内野河内と同じように幾つかの川が流れ込み、豊潤な盆地を成していた。ここも古くから人が住んだ場所だと思われる。古い天草人の地形的憧れにはまるように思われ、風景に人の匂いが染み込んでいる。
中央を教良木川が流れている。教良木川は内野河内川と合流し、倉江川になる。倉江川は島原湾に流れ込み、海の道へと繋がる。
陸である。教良木川に沿って街並が広がっている。古くは上島における陸の幹線、その拠点だと思われ、現在の中心部は辛うじて街の体を成している。が、ここも少子高齢化・過疎化が進んでいる。どこの山村も同じだが豊富な老人で囲んであげたくなるほど子供が少ない。
教良木の名は「清ら木」が転訛したものらしい。教良木の薪炭生産量は天草屈指だったらしく、古くから木と縁の深い村だったのだろう。内野河内には山方役人という山林を管理する役人が置かれた。竹、木、薪などの税は山方役人が取立て管理したらしく、近代に至るまで教良木とその周辺は林業に依った。
「最近の林業は補助金がなきゃ赤字、補助金貰ってトントンですたい」
そう言ったのは知り合いの木こりであるが、詳細はよく分からない。外国産の木材がムチャクチャ安いらしく、それと戦う事が馬鹿みたいで「友達みんな止めちゃった」らしい。グローバル化と効率化は世の流れだから止めようがない。車はバンバン売るけれど、米や木は買わんというわけにはいかないから、同じ土俵で頑張ってもらわねばならない。が、それにしても木こりの話は暗い。後ろ向きでもある。業界の努力が足りないのか、消費者が悪いのか、よく分からぬが、木材というものの需要はある。遠いところから莫大なガソリンを使って届けられる木材には負けないように思うが、それは素人の考えだろうか。業界が政治ありきで突き進まず、自動車並にコストとモノを追求したら、それなりに食えるようになるのではないか。何にせよ教良木が過疎化で悩むのは林業の衰退と無縁ではない。
教良木には金性寺がある。曹洞宗である。前に触れた四ヶ本寺の一つ、東向寺の末として創建されたらしい。
日はまだまだ高い。今晩の宿は目と鼻の先だが、その家主は働いている最中で、六時過ぎに行くと言ってある。手元の時計は四時半である。休憩を兼ねて、舐めるように金性寺を見た。
教良木で最も賑わう祭は弘法大師祭である。ここ金性寺が中心らしい。
(曹洞宗で弘法大師?)
弘法大師は空海で、空海は真言宗である。曹洞宗は道元である。道元祭なら話は分かるが、なぜ空海なのか。
苔むした石垣を左に見ながら石段を登り、古い門をくぐると白い説明板が落ちていた。足が痛い。ちょうど良い。寝転がって読んでみた。笑えた。なんと、この祭は庄屋の趣味で始まったらしい。
教良木村の古い庄屋・植村豊左衛門は空海の熱狂的ファンだったという。庄屋は空海に入れあげ、四国霊場を三度も回った。村民から広く金を徴収し、ノリノリで回ったと思われる。江戸時代、集落で金を集め、代表者が四国霊場を回ったり伊勢神宮に参拝する公金旅行が流行った。真面目な代表者もいたかと思うが、大半は現代における議員研修と似た感じではなかったか。そもそも村の代表者とは言っても農民が選ばれる事はなく、文句なしに不公平であった。農民は忙しい。暇な役人が路銀豊かに出て行ったに違いない。彼らは村に戻ってくるや、旅の記念碑を寺や神社に建てた。むろん、それも公金であり、農民はそれに手を合わせ、四国や伊勢を感じるという流れで旅は終息する。
旅の記念碑を探した。阿蘇で幾つか見た事があるので、あれば分かるだろうが、そういったものが見当たらなかった。が、よくよく考えれば、その記念碑の代わりに祭が始まったと言えなくもない。祭こそ庄屋が発した空海への思い、そして旅の記念碑であろう。
三度目の旅行から帰って来た庄屋は金性寺の山林を開拓した。そして持ち帰ってきた四国の砂をばら撒いた上で88体の石仏を安置した。これには身銭を切ったらしい。記念碑の名は「天草新四国88箇所本霊場」で、何となく勢いがある。こうして曹洞宗の寺に全く畑違いな空海的観光スポットができてしまった。
曹洞宗としての悲劇はこれだけではない。風化すべき空海が民衆に受け、爆発的に流行ってしまった。これが今に続く弘法大師祭で、曹洞宗の禅的雰囲気が木っ端微塵に吹き飛んでしまった。看板によると「遠近老少の別なく、万に及ぶ参詣者で広大な境内(二万坪)を埋め尽くすほど盛大な祭として今に受け継がれている」らしい。禅寺は民衆に愛される空海ワールドになった。
一つの靴は境内を隙間なく歩いた。変な事を色々書いてしまったが、旅人が楽しめる見事な寺である事は間違いない。特に石の具合がいい。何でもかんでも要塞のようにコンクリで固めてしまう近代工事が入っていない。石も石仏も永い星霜に耐えた味がある。風景として、じゅうぶん旅情に沿う。ただし禅寺マニアはお気に召さないかもしれない。禅でなければならないなら、この風景は厳しい批判を受けるだろう。が、何度も言うが、日本人の誇るべき点は思想の許容力にある。このぐらい何て事ない。むしろ風景として日本的ですらある。苔に寄り添い、民に愛され、公共事業に囲まれた小さな盆地の石寺は、低回趣味の外し難いスポットに思われた。
さて・・・。
時間が余ってしまった。一つの靴を知る人は、
「なぜこうも暇が潰せんのか?」
そう言って笑うが性分である。どうしようもない。一時間あったので教良木ダムへ足を向けた。
金性寺の裏はダムである。裏山がダムの堰になっていて、祝口川の流れを止めている。左に天面山、右には名もなき山がある。ダムがなければこの谷の真ん中を透き通った水が流れているに違いない。
一つの靴は坂を登り、ダムの前に立った。緑の水が不気味な静けさを保ち、どっしり鎮座していた。人も水も流れていれば清涼だが、止まってしまえば濁ってしまう。この緑は無気力な大人の霞んだ瞳によく似ていた。
ダムの周りを公共事業が囲っていた。山深いところの道というのは大抵ダムに近付けば広くなる。二車線歩道付きの道がダム沿いを南へ走っていて、ダムが見えなくなると細くなる。何のための道か、ダムのための道である。
「ダムができれば道が広くなるよ、公園もできるよ、橋ができるよ、地元も賑わうよ」
今も昔も同じ事を言っているが、結局、政治は祭が好きなのである。政(まつりごと)がいつの間にか祭事になってしまった。ダムほど派手な大盤振る舞いはない。むろん、その振舞い酒に酔える人は限られていて、祭の担い手は何も知らぬ国民である。積み重なった国債の額が祭の後の恐ろしさを数字で示している。
吉田拓郎ではないが「祭の後の侘しさ」も教良木ダムには横たわっている。竣工は昭和51年である。当時は憩う人もいたろうが今は誰もいない。
ダムを一周する遊歩道も整備されていた。歩いてみた。人目につくところは普通に歩けたが、車道から一歩離れると大自然が歩道にのしかかっていて、それを掻き分けながら進まねばならない。匍匐前進を要す場所もあった。遊歩道というにはあまりにも挑戦的なように思えた。個人的には嫌いじゃないが行政の意図するところではないだろう。つまり政治が好きな放置プレイ、その典型がこの侘しさを演出している。休憩所らしきものもあった。幾つもあった。むろん朽ち果てており、風景を壊していた。人を寄せるためのものが人を遠ざける要因になっていて、何とも侘しい。
遊歩道を半周回ると祝口観音滝にぶつかった。皮肉な事に、人工物は暗いが自然物は悠久の魅力を放っていた。岩に入った一筋の切れ目を清水が流れていて、なかなか水量がある。透明な水は艶のある岩で乱反射し、キラキラ輝いている。真っ直ぐなキラキラがダイヤの棒みたいに見え、山の緑がそれを抱きかかえていた。
滝に沿って登る細い道があった。登った先に観音様が祀られていた。滝の守り神という位置付けのようで、ここの水は枯れた事がないらしい。
観音堂の風景に違和感を覚えた。修験道の跡がない。地元・阿蘇における岩っぽい地形は、十中八九修験道の印が置かれている。不動明王があったり、梵字が刻まれていたりと、何となく物々しい。この滝も岩と水で構成されているが、風景にそういったものが全く感じられない。修験道が人々の営みにとって非日常であるのに対し、この滝は生活の匂いがあるからかもしれない。地元の人も旅人も、この水を愛し、重宝し、大いに活用したであろう。その点、湧水そのものが絶えず救いの手を差し伸べていて、優しげな観音様がピッタリはまる。生活から遠い修験道の荒行とは雰囲気が違って当然かもしれず、感じた違和感は適切であろう。
観音様が差し出す透明な水はダムに落ちた瞬間、巨大な緑になる。一つの靴は緑に沿って北へ歩き、コンクリで固められた吐き出し口を左に見、教良木ダムを後にした。くたびれる散歩であった。
今晩の宿に着いた。家主はMさんという。歳は親と子ほど離れているが、友人という位置付けで宿を請うた。Mさんとは一つの靴がサラリーマンをやっていた頃、研修先で知り合った。知り合った後、この人が悪友の伯父である事を知った。悪友からすれば、この接触は不気味なものを感じるだろうが意気投合にそういうものは関係ない。悪友の知らぬところで友人として宿を請い、了解を受け、遠慮なく風呂を頂いた。
Mさんの帰りは予定より30分ほど遅かった。荷物を降ろし、近所の氏神を見学し、コーヒーを頂き、それでも時間を持て余していたところで風呂を勧められた。家主より先に入るのは本意ではないが、汗だくで居座るのもどうかと思われ、遠慮なく頂いた。湯船で鼻歌を歌っているとMさんが帰って来た。Mさんの声が聞こえた瞬間、ビールの音が脳裏で弾けた。併せて笑みも弾けた。酒を呑むに最適な人というのが世の中に僅かながらいる。Mさんは研修中一緒に呑み、実に心地良かった人で、Mさんという人格そのものがアルコールとゴッチャになってしまっている。
「よぉ歩いてきた!」
風呂上りの靴を笑顔で迎えたMさんの顔を見た瞬間、靴の全身がアルコールを欲した。頭の先から爪先まで、毛穴の一つ一つまでもがMさんの笑顔にアルコールを感じてしまった。Mさんの甥っ子と16歳から飲み歩き、そやつの血を遡るかたちでMさんと向かい合ったからであろうか。よく分からぬがMさんに不思議な力を感じている。適度な吸引力と心地良さが場に充満していて、どうも「待て」ができない。呑みたい。
座るや宴は始まった。宴は深夜まで続いた。テーブルには凄まじい量のご馳走が乗った。一つの靴とMさん、二人で始まった宴であるが、途中Mさんの奥さんが入り、続いて地元の郵便局長が入った。奥の台所では娘さんが彼氏にバレンタインチョコを作っていた。そのチョコもお裾分けという事でテーブルに乗った。テーブルが賑やかになった。と、同時にMさんが寝た。Mさんの不思議な点は寝ても何かが残っているところにある。存在感抜群の鼾が響いているが、そういうものではない。そういうのではなしに、何となくアルコールが進む空気がMさんから発されている。おかげで二日酔いになるほど呑んだ。
宴の後半はMさんがゲストとして呼んだ郵便局長と語り合った。局長さんは地元・教良木の過疎化を嘆いておられた。過疎化を防ぐため道の整備が必要だとも言われていた。むろん一つの靴も持論を展開したが、そういうものは酒のつまみにしかならない。村や心のゆく末は住人自らが決め、行動する事でしか変わらない。行動以外は全て想像であり、何の現象も起こらない。局長と繰り返した想像の擦り合いは、適度な熱を発しつつ、そこそこ味も出て、良いつまみになった。
ちなみに想像の擦り合いは、ごく稀に発火する。経験上、学者肌・政治肌に酒を入れると発火の危険性が増すように思われる。発火した場合、靴は即座に逃げる。逃げ足には定評があり、その後は知らん顔をしている。
酒は楽しく平和に呑みたい。基本的に根っからの酒好きは笑えない議論が嫌いで、どんな真面目な話も途中で我に返り、笑いの場へ戻そうとする。そうでなければ宴は続かず、次にも繋がらない。
時計を見た。日を跨いでかなりの時間が経過していた。一つの靴も眠くなった。局長も帰った。Mさんの奥さんはこれから洗いものをされるらしい。いつ寝られるのか分からぬが、この日は早朝から福岡へ三社参りに行かれるそうで、寝る時間はないだろう。奥さんを手伝うべきだと思ったが、体は動かず、そのまま布団に溶けてしまった。
眠りながら局長の願いを反芻した。
「教良木の過疎化をどうにかしたい!」
誰もが車を持ち、島には橋が通り、福岡へも日帰りで行けるようになった。教良木の金性寺は明日も寂しかろうが、福岡の有名三社は明日も田舎者で賑わうだろう。
一般的な観光客を呼び込むには普遍的価値を示す必要がある。金性寺に普遍的価値はあるのだろうか。ないような、あるような。そもそも普遍的価値が教良木に存在するのか。交通に関しても大きな道ができ、空港ができたところで教良木は教良木、山村は山村、何の足しにもならんだろう。むしろ普遍的価値を度外視し、文化的価値をアピールする方が人によってビビッとくるんじゃないか。人の流出も減るんじゃないか。しかし産業がない事には若者が定着せんし、カネも落ちん。カネに依存しない生活をすればいいが、こうなってしまっては無理だろう。そもそも過疎化をどうにかしたい村民が他所でカネを使いたがるのは矛盾しているような、していないような…。むにゃむにゃ…、ああ眠い…、駄目…。
初日も靴も、心地よい酒の彼方に消え果てた。
山村の闇は、そこはかとなく静かである。
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