天草一つの靴 〜小字をゆく〜
【最終日】下津深江〜通詞島
目覚めるや窓を開けた。晴天とはいえぬが雨風共に止んでいて、波の音が響いていた。気分がいい。素晴らしい朝であった。
気分が良い日は始まりのテンポがいい。跳ねるように体が動いた。布団を畳み、ジーパンと靴をドライヤーで乾かし、教育番組のテレビ体操をやった。それから地図に赤い字を走らせ昨日の記憶を文字に残した。思い出したように朝風呂にも入った。朝風呂に入らねば温泉宿に泊まったとは言えない。鈍痛引かぬ足を揉み、塩気のある湯を楽しんだ。
風呂上りに朝食を摂った。女中さんがチョコをくれた。それで気付いた。今日はバレンタインらしい。チョコを見て子供の事を思い出した。家族とは本日の目的地・通詞島で落ち合う事になっている。嫁子供は車で向かい、一つの靴は歩いて向かう。
(家族と会える、チビと会える)
そう思うだけで胸が躍った。旅人として恥ずべきだが、父親として普通である。宿を出れば旅人に戻るだろう。通詞島が見えてくれば、また父親へ返るに違いない。
宿を出た。宿を出て分かったが下田温泉も平地が狭い。下津深江川を離れると瞬く間に人の気配が消えた。
国道に出た。右は切り立った崖、左は天草灘、海岸線に沿った道が富岡まで続いている。むろん古道ではない。古道は右手の斜面を走っていて、今も杣道が残っているようだが、地図を見るに細かく切れていた。行政が観光資源と思わねば繋がる事はないだろう。
浜平、萱の木という集落を越えた。集落といっても集落の体は成しておらず、山中に民家が数軒ある程度で、国道からは何も見えない。両集落とも細い川を抱えていて、川沿いで陶石が採れるらしい。
下島の西は良い陶石が採れる事で知られている。窯としては高浜焼が有名だが、天草となれば材料屋の印象が濃い。今も豊富な陶石を日本中に売りさばいている。
材料屋というのは今も昔も加工屋を夢見るものらしい。というより、客から近い場所に一度は憧れ失敗するのが物作りの法則らしい。材料屋は加工屋に憧れ、加工屋は販売店に憧れる。前へ行くほど地味になり、後へ行くほど派手になる。どっちも苦労があって適性というものがある。天草西海岸は根っからの材料屋である。その材料屋の憧れが高浜焼であって、古い時代、長崎出島で有田焼と戦った。が、負けてしまい、今は裏方として有田焼を支えている。高浜焼は今もある。高浜焼だけでなく天草には小さな窯元が多いという事であるが、組織化しているものはない。やはり土地柄として材料屋なのだろう。
一つの靴は山を見ながら考えている。石材といい、砥石といい、陶石といい、天草という島は隙間なく石がとれる。最近の天草は宝島観光協会なるものをつくって「たからじま」を前面に出しているが、いっその事ポイントを絞り「いし」で売ったらどうか。歩けば嫌でも分かるが、天草ほど石と密着した地域はあるまい。靴個人の勝手な思い込みだが「たから」という響きにはカネの臭いが染み込んでいるように思われる。第一勧銀を筆頭に色んなところで使い古され、語感が変わってしまったのではないか。旅人も観光客もカネの臭いにはウンザリで、旅に日頃のしがらみは求めぬだろう。それに比べれば「いし」という無骨な響きは手付かずの味わいがある。旅情に沿う。
どうでもいいが海の道を歩いているのに山ばかり見ている。山育ちの弊害であろうか、分からない。天草灘は詩人が愛した夢の外海である。海を見ようと試みた。が、山に鳥居があった。奥に小さな滝もあった。妙見ヶ滝というらしい。滝を祀っているらしく、神社の名は妙見神社という。こういう風景は我慢できない。寄ってみた。
自然物を神と見るのは日本人の底流であろう。八百万の神は自然物のありとあらゆるところにいて、素朴な信仰を受けていた。それが日本的信仰の始まりだと思われ、今も底を流れている。それだけで良いと思われるが、時下り、人をまとめようと思った時、それでは足りなかったらしい。理屈というものが要るらしい。そこで祈りに理屈を与えるべく、外国から神様・仏様がやってきた。
「物事には名前と定義付けが必要です」
二人がそう言ったから、さあ大変。何かしら名前と目的が必要になった。妙見とは妙見菩薩の事だろう。菩薩といえば仏教である。が、ここは神社である。よく分からぬが「エイヤ」と名付け、鳥居を建てたらしい。日本にはこういう神社仏閣が山ほどあって細かい事を気にしてはいけない。妙見菩薩といえば国土を守護し災厄を除く。それを狙って名を付けて、縁起の良い神社風にした。それだけの事である。気にする事はない。日本的風景である。
小松という集落に入った。民家が見え始めた。雲の隙間から日も射し始め、海も青く光り始めた。視界の先に発電所が見えた。その先に小島のような黒いものが浮かんでいた。それが下島から飛び出した富岡の街であって、江戸時代は天草行政の中心であった。富岡の左には海しかない。ぼんやりした水平線が浮かんでいて、徐々に明るく鮮明になりつつあった。
発電所が近付いてきた。都呂々(とろろ)という可愛い名前の集落に入った。志岐氏の気まぐれから天草に伝道師がやってきたと前に書いたが、その際、都呂々村のほとんどが切支丹になった。現在の氏神は十五社だから、古い住民のほとんどが原城で死滅し、その後、移民を詰め込んだと思われる。
江戸幕府がやった乱後の移民政策は徹底している。乱後は島原と天草から人がゴッソリ減ってしまったので、それを補充すべく天領と九州諸藩に対し、一万石に一戸の割合で強制的に移住させた。肥後藩からは百七十人が天草に入島しており、そういう人たちがゴーストタウンと化した切支丹村に入ったのだろう。
都呂々の中心をぼんやり歩いた。風景から察するに半農半漁の村である。都呂々川の下流に港と田んぼが共存していた。珍しい景色ではない。が、他の村と比べ、風景が硬いように思われた。道のつくりが広々していて一つ一つが新しい。ダム、発電所、産廃処理場、そういうものを受け入れ、一時的に潤った村というのは独特の雰囲気があって、その類であろう。
都呂々の響きがあまりにチャーミングなので、その語源を調べてみた。図書館、ネットを駆使したが見付けられなかった。仕方がないので勝手に想像してみた。漢字は後世の当て字だから気にしないとして、「とろろ」を考えてみた。都呂々川がとろっとしているのか、それともとろとろ流れているのか、昆布っぽいのか、分からないので地図を用い、川を追った。上流へ行き、気が滅入った。都呂々川は行政に可愛がられている。上流にダムがあり、河口に発電所がある。政治に板挟みの都呂々川はもしかすると天草の涙ではないか。
「おじちゃん、助けてよぉ」
とろろと流れる涙を拭いてあげたいが、旅人には拭く術がない。濁った川を横切り、先を急いだ。
発電所を越え、海を離れた。内田という集落から国道も離れ、国照寺と城山を目指した。
内田村で「右・皿山」という看板を発見した。この村も陶石が採れる。山際に皿山という集落があって、内田皿山焼という窯があるらしく、窯としては高浜焼より古いらしい。村の氏神は山王権現とある。山王権現は近江の日吉大社、もしくは江戸の日枝神社の祭神で、いずれにしても他所から勧請したものである。内田という村は富岡が賑わい始めた頃に中央の職人を呼び、職人町として育てようとしたのではないか。根拠はないが、そういう想像が許される雰囲気であった。
山際の細い道を北へ向かって歩きながら、久しぶりに当たり前の田んぼを見た。平地が広い。広いといってもたかが知れてるが、天草を五日も歩いた靴の目には広く見える。グルッと一周走ったら疲れるだろう。今までに疲れそうな平地があったか。思い出せない。
この平地は三会川と志岐川が下島の北西に流れ込み、うまい具合に土砂が溜まってできたのだろう。河口の前に島があり、それが海流を複雑にし、土砂を沖へ運ばせなかったと思われる。平地が生まれた事で島との距離が縮まり砂州ができた。砂州ができた事で島は陸と繋がり海の流れを堰き止めた。行き場を失った海流は島を削り砂嘴をつくった。
地図を見ながら地形ができるまでのロマンを感じている。こうなるまでに気が遠くなるほどの時間を要すのだろうが、人間の一生はこの変化を微塵も感じる事ができない。与えられた地形をありがたく受け、感謝し、少しだけ抗いながら生きてゆく。たまに噴火、地震など瞬間的な変化もあるが、そういうものは事故であって、その場に居合わせた生物は生きていられない。
先に日本人の底流として八百万の神に触れた。こういう事を考えていると、なるほど「自然物は神である」という昔の雰囲気が感覚として捉えられる。併せて現代人の気持ちも分かる。重機を手にした今となっては悠久の時を待たず、生きてるうちに地球をこねくり回せる。思想の雰囲気はこの二百年で明らかに変わってしまった。変わらざるを得ない。道具と人間の膨張はどこまで続くのか。恐ろしい。
国照寺に着いた。四ヶ本寺の一つで曹洞宗である。開基は鈴木正三となっているが開山は一庭融頓と書いてある。禅宗では開基と開山が分けられていて、開基は金を出した人、いわゆるスポンサーらしい。
手元の資料を読みながら驚いた。この寺も禅宗でありながら弘法大師祭をやっている。裏山は「新四国八十八箇所霊場」になっていて、その点も教良木の金性寺とダブる。曹洞宗と真言宗に何か密な関係があるのだろうか。よく分からない。
庭園は禅庭園といわれるものらしく町の指定文化財と書いてあった。池が境内を囲っていて味のある石橋が架かっていた。境内は傾斜が緩く奥に広い。本堂へ辿り着くまで幾つかの門を潜らねばならなかった。
参道を歩いた。歩きながら白壁が目に付いた。大江天主堂のように白光を放っているように見えた。寺は基本的に暗い。国照寺も少しだけ暗いため、新庄の歯みたいに白壁が浮いて見えた。
本堂に着いた。斜め前に保育園があった。寺の経営らしいが、境内の真ん中はマズいように思われた。やはり境内にカラフルな遊具は合わない。賽銭に気がこもらなかった。
本堂に入った。閉め切ると何ともいえない不思議な気分になった。崎津や大江とは趣が違うものの、ありがたい空気が満ちていた。新庄の想像が一気に吹っ飛び、寺に詫びた。
本堂の奥が別館みたいになっていた。新しい建物に年代物の仏像が並んでいた。中央にキンピカの阿弥陀如来がいて、その左右に二十五の菩薩が並んでいた。ただ事じゃない雰囲気があったので後に調べてみると、鈴木重成が天草へ持ち込んだ一佛二十五菩薩像らしい。
鈴木重成の前身は大阪の上方代官であった。その時、脱税で捕まった領民がいたらしく、見せしめとして処刑されてしまった。鈴木重成は処刑された領民の菩提を弔うため、一佛二十五菩薩像を作った。そして天草へ移る際、土地の祈願仏にすべく持ち込んだ。
鈴木重成は四ヶ本寺とは別に祈願仏を入れるための祈願寺も作ったらしい。円通寺といい、今も国照寺のそばにある。寺領も健全に保たれていて、海沿いのこんもりした丘が緑で覆われている。が、今となっては本堂がなく、継ぐ者もいない。ゆえ、国照寺が二十六体の仏像を管理している。
一つの靴は仏像が好きである。細かい理屈は分からぬが好き嫌いはいえる。両脇に広がる二十五菩薩がいい。モロに好みである。が、中央の一佛が眩し過ぎる。金箔を貼ったばかりと思われ、思いっきり浮いている。この感じは田舎のスナックに銀座のママがいるようなもので、どうもしっくりこない。本堂は暗いくせに、この部屋だけ明るいのもいけない。キンピカの一佛が外光を反射し、変な風に陰影が出ている。飲み屋の女も仏像も闇に映える存在だろう。これだけ明るいと昼の公園で馴染みのママと会ったみたいに何となくバツが悪い。暗い風景を想像しながら菩薩の顔をじっくり眺めた。
手元の地図に「中島みゆきを歌う」と書いてあった。これで思い出したが二十五体の顔を眺めつつ、中島みゆきの「わかれうた」を口ずさんだ。一つの靴は自慢じゃないがフラレ話には事欠かぬ。数あるフラレ話の中で高校一年のアレを思い出した。すると菩薩の顔が何となく高校一年のあの人に見えてきた。次の菩薩に移った。次は中学二年のあの人に見えてきた。
二十五体をじっくり見終わるまでに何度「わかれうた」を歌ったであろう。歌い終わった後、中央の一佛が視界に割り込んできた。厚い金箔に覆われ、現実的な光を放っていた。それはまさに嫁。現実感の塊であった。二十五体の思い出を従え、嫁が威風堂々と光っていた。眩しかった。楽しかった。泣けてきた。そして一つの事に気付いた。仏像は失恋に合う。
「元気が出てきた! 頑張ります!」
それは救いの風景であった。併せて崎津と大江を思い出した。教会は熱々の二人が行けば火傷するほど燃えるだろう。頭を垂れ、ありとあらゆるものに感謝の祈りを捧げてしまうに違いない。
「ありがとう! 幸せになります!」
過去に対する救いの風景と今に対する感謝の風景、どちらも良くて、どちらも要る。詩とポエムのコントラストに何となく似ているように思われた。
妄想と国照寺から離れた。この近辺を城山という。国照寺の裏手が低い山になっていて、この山の端っこに城跡がある。志岐氏が拠点としていた志岐城である。
古くからあった道であろう。起伏に沿った道を歩き、城跡へと続く遊歩道の看板を見付けた。
城跡付近の集落を城下という。手元の地図を見ているが、歴史が新しい富岡に城の名残が見えず、志岐城周辺にそれが濃い。時間に価値を置く日本人らしい風景に思える。富岡に城と街が移っても城下といえば志岐城の麓であって、地の人も譲らず、領民も感覚として「城は志岐にある」そう思っていたのではないか。古くから住む住人にとって富岡の城は新城であり城ではない。
これに対し富岡城は志岐城を過去の遺物と見ていただろう。富岡は天領となった後、多くの人が越してき、街になった。つまり新興地である。彼らからすれば城は富岡にあって、志岐城は単なる山に過ぎない。気にする事なく、城下・城山の名を移そうとしたかもしれぬが、地の猛反発を食らったと思われる。
「そっちは新城下って付けなっせ! わしらは昔っから城下ですけんな!」
城下、城山、本屋敷、志岐氏から続く古い古い地名が時代を貫いて今も地図に残っている。
ちなみに行政によって地名が変えられた場所もある。富岡である。志岐氏の時代、富岡は留岡という漁村であった。海の中に岡が留まっているように見えたから留岡だと勝手に想像している。そうだとすれば実に素朴で味がある。が、行政が行政らしい名前に塗り変えてしまった。留岡を天草の中心に据えると決まった後、地名が留岡では格好悪いと役人が思ったらしい。今も昔も変わらぬが、縁起が良くてハッピーな名前に変えられた。それが富岡である。留岡に袋浦という天然の良港を引っ付けて富岡とし、港を見下ろす高台に城を築いた。行政に引っ付いて新たな街が形成され、よそ者が流れ込み、富岡は一気に栄えただろう。
留岡の改称は十七世紀初めである。古い話であるが現在の風景と何も変わらないので実感がある。都市計画の名に置いて古くからあった地名が捨てられ、ハイカラな名前に変えられるのは今も昔も変わらない。取り巻きの住人が少しの利を与えられ、ぼんやり眺めているのも恒例の風景である。
一つの靴は阿蘇というブランド化された田舎に住んでいる。見上げた先に次々と新しい別荘ができ、集落の人はそれを眺めている。少しの反発はあるが、馴染みの顔に説得され、ぼんやり眺めるしかない。
(やだなぁ、でも、どうしようもねぇや)
政治は巨大であり、立ち向かうには莫大なエネルギーがいる。露骨な被害を受ければ立ち上がりもするだろうが、露骨でなければ酒呑んで愚痴で発散させている。政治もそれを知っているから、小金をバラ撒き適当にあしらっている。
志岐の古い中心は新興地・富岡を苦々しく眺めたであろう。今も苦々しく思っているかもしれない。京都が堺を馬鹿にし、今も鼻で笑っているように、時間に価値を置く日本人の感覚は時として猛烈にしつこい。が、それが抑止力となって、少なくとも志岐城周辺や寺領の緑は守られている。これがなければ日本の山河は全て固まってしまうだろう。変化もいるが抑止力もいる。何事もバランスである。
志岐城跡へ続く遊歩道を登りながら、
「何が富岡じゃ! いくら飾ったっちゃ留岡の漁村じゃにゃーか!」
そう言って舌打ちする古い住人の姿を想像した。綿々と続く日本人の感情は旅の可笑しみである。止められない。
一つの靴は城跡に登っている。もちろん大した期待はしていない。河内浦城もそうだったが、発掘調査の後、公園化されているだろう。遊歩道がある時点でその雰囲気があり、登ればやはり芝生の公園であった。屋根付きベンチに座って富岡と志岐の街を眺めた。山城に登った目的はこれに尽きる。地形変化という悠久のロマンを歴史の山城で感じたかった。馬鹿と煙は登りたがるというが、一つの靴は実によく登っている。旅が終わっても登る事を止めないだろう。
城跡の奥に小さな社があった。志岐氏を祀っているらしい。建物に風情があるとはいえなかったが鳥居が古く、手触りが良かった。近辺の住人からすれば、この山城を祀る事が何か大きな主張であり、歴史の伝言であるに違いない。公園化されてはいるが、とりあえず今のところ文明の歯止めとなっている。
文明の歯止めについて一つの靴は旅をしながら悩んでいる。歴史教育は歯止めに対し、極めて有効なツールとなる。が、それが高まると街は大なり小なり京都になる。
「この水は下へゆくほどゲスになります」
ゲスという言葉を初めて聞いたのは京都であった。旅の途中、京の酒場で重厚な紳士がそう言われた。賀茂川の事を言われていたが、賀茂川は桂川になり、淀川になり、大阪湾に流れてゆく。紳士が言うに桂川の時点で駄目だという。雅な雰囲気は桂川で消え失せ、その後は見てられないらしい。
歴史を時間で煮詰めると今という奇跡的瞬間が煌き始める。歴史は循環物であるため、過去あっての今、他あってのそこであるが、そこの価値を劇的に高めるには他を馬鹿にし、遮断し、場合によっては蹴落とす必要があるらしい。何事もバランスであるが、今の時代、地元愛が足りねば文明のゴミ捨て場にされてしまう。過不足なきよう歴史を与え、地への愛着を保たねばならぬが、その度合いが何ともいえず難しい。とりあえず今は歴史が暗記勝負になり、全国的に歴史が不足しているように思われる。丸暗記教育は文明の策略かもしれない。
余談が続くが、増えてきたナチュラリストも歴史同様、文明の歯止めになっている。彼らは植物の名前を徹底的に暗記し、絶滅危惧種を分類し、それをもって一部の山河を守ろうとしているが、やはり高まると潔癖になり、物事の循環を遮断する傾向があるようだ。ある植物を守りたい。それが自生する山を守りたい。そこには指一本触れさせない。
「地球を守るのは私よ!」
そう言っているが、車に乗り、別荘地に住み、優雅な生活を送っているのも潔癖のナチュラリストである。視野というのは集光レンズであって、狭くなるほど熱くなり、時に発火を伴うが、その花も、その山も一つの循環である事を知らねば何の解決にもならないように思われる。
我が身の事も踏まえ、文明との付き合い方は本当に難しい。誰もが「このままじゃいかん」と思っているが、離れる術が分からないでいる。滅ぶべくして滅ぶのも自然の摂理かもしれず、そうならば足掻いて足掻いて滅びたい。
城山を下った後、田んぼの中を真っ直ぐ西へ歩いた。海の手前にある緑の丘が円通寺である。先に書いたが、鈴木重成が建てた祈願寺である。本堂はないが山門、白壁はあるらしい。立ち寄る予定はなかったが、農作業中の古老と話した折、
「国照寺には行きまっせん。なんかあるときゃ円通寺の鈴木さまですたい」
不思議な言葉を頂いたため、寄ってみる事にした。
国道を横切り、坂道を登ると赤い門があった。門の先に石造りの巨大な阿弥陀如来があった。白壁も整えてあったが、全てが味気なく、賽銭を投げる気になれなかった。鈴木さまはどこにいるのだろう。掃除をしている女性がいたので聞いてみると山上に立派な祠があるという。日が照ってきた。既に汗だくで登りたくなかったが、古老の祈りを確かめたい気持ちが勝った。
土の道に入った。左手に歴代住職の墓地があり、暗く雰囲気が良かった。古老は円通寺の門前に軽トラを停め、この道を歩くのだろう。少し登った先に小さな祠があった。掃除の女性が「立派な祠」と言っていたので大きなそれを想像していたが、田舎の家にある荒神様と何ら変わらなかった。小さな石造りの祠であった。ただし、コンクリ製の土台に乗っていた。土台に鈴木神社と書いてあって、それがなければ何が何だか分からない小ぢんまりとした風景であった。
歴史ある国照寺が近くにあるにも関わらず、古老の足を山上へ運ばせる鈴木さまの力は並大抵ではない。掃除の女性も「立派な祠」と言ったが、それは規模云々ではなく風格の話であろう。
日本人の祈りには地形を活かした小振りなそれがよく似合う。古代への回帰かもしれず、広大な建造物に人が飽きてきたのかもしれない。歴史の結晶もこういうかたちであれば悪さをしないだろう。それが社を持ち、本山となり、世界遺産となり、重々しくなる事で素朴さが吹っ飛び、行政に担がれ、変なカタチの地元愛になる。
海に出た。農業用の道であろう。細い道を北へ進み、砂州の根元で国道に乗った。右手に富岡切支丹供養碑があった。元は首塚らしい。天草島原の乱で死んだ領民、約三千の首が埋まっているらしく、それを慰めるため鈴木重成が建てたそうな。
砂州が細くなった。最も細いところは幅百メートルくらいであろう。海岸の遊歩道が両側に整備されていたので、そちらを歩いた。それにしても今日は天気がいい。昼を回って空が真っ青になった。雲一つない。春一番が吹っ飛ばしたと思われる。バレンタインとは思えぬ暑さに苦しんだ。
砂州の上に街があった。富岡の城下町であるが風景として恐ろしい。障害物が何もない。台風が来ても津波が来ても、ここには逃げ場がない。こういうところを好むのは狩猟文化の人であろう。運を天に任せて生きる。カッコいいがマネできない。臆病は稲作文化の賜物である。
腹が減った。食堂を探しているとチャンポン屋があった。天草はチャンポン屋が多い。天草チャンポン街道というイベントをやっていて、派手な幟が目立った。チャンポンを頼んだ。腹が減っていたので大盛を頼んだ。
「うちの大盛はハンパじゃないよ、食べれる?」
店主が挑戦的な言葉を投げてきたので喜んで受けた。が、そのチャンポンが出てきた時、少しだけ後悔した。運ぶ店主が重量に耐え切れずフラフラしていた。野菜が多くて麺が見えなかった。混ぜて麺の存在を確かめたいが汁も多く表面張力で堪えていた。汁を飲み、野菜をしこたま食って麺へ到達した。この時点で腹いっぱいになった。店主が嬉しそうに見詰めていた。残した瞬間、
「やっぱりね、だから言ったろ」
そう言って勝ち誇るに違いない。靴はチャンポン屋に一時間も滞在してしまった。何とか食べ切ったが、それから動けず冷汗と戦わねばならなかった。
飯は動くために食うものだろう。食って動けなくなるなど愚の骨頂であるが、どうも男という生き物はいけない。分かっちゃいるが勝負となっては負けられない。勝ったか負けたか分からぬが、店を出た後も海岸のベンチで休憩し、休憩しながら前へ進んだ。
砂州を渡りきると目の前に幾つか寺が見えた。その中の一つは鎮道寺といい天草真宗の親玉みたいな寺である。古くは勝海舟も立ち寄ったらしく、今も落書きが残っているらしい。寄るつもりであったが、腹の都合で寄らなかった。素通りし、左に折れた。西側の道はこのままゆけば春之迫という小さな集落にいく。観光客が行かない裏手の道というのは靴の好みであるが、どうも文明のゴミ捨て場になっている感じがした。道は緩やかな登りで、その下の海岸に大きな旅館が捨てられていた。行政は富岡城を再現するのに夢中だったと思われる。足元がゴミ捨て場になっているのに山上のヘアスタイルを固めても、富岡の風景は輝くまい。他にやる事があったのではないか。
西の道から山へ逸れた。見ないようにしているが山上にある真新しい富岡城が目に入ってきた。なぜ、ここに箱物を造ったのか、旅人として理解に苦しむ。十年ほど前に訪れた富岡城跡は実に良かった。良かったから、その残像を追って富岡に来た。公園化の話はニュースで知った。この時点で恋人は散ったが、残像からあの頃を思い出したいと願うのは、男というものの悲しい性かもしれない。行かなきゃいいのに足が向いている。風の便りで聞いたのに、あえてその目に焼き付けて、名残を惜しんで苦しみたい、そんなもの、演歌の世界でじゅうぶんである。見なきゃいいのに見てしまう富岡城と男の心が腹立たしい。「富岡ビジターセンター」という横書きの名前も腹立たしい。なぜ借金して史跡を壊すのか。名護屋城といい富岡城といい、古い恋人が次から次に消えてゆく。
突然だが、山中の小道を歩きながら大きい方がしたくなった。大盛チャンポンと怒りによるが、こういう時は新しい公園が頼もしい。清潔なトイレがあるだろう。せめて巨大な土産を残してやろうと我慢し、ジリジリしながら前に進んだが、変な汗が止まらなかった。城までは袋池を挟むだけ。後一歩のところであるが前に進めなくなった。
「むっ!」
唸り声と共に腹が悲鳴を上げた。一つの靴は道を離れ、坂道を駆け上がった。そして富岡城がハッキリ見える草むらで白い尻を突き出した。
「食らえ! 富岡ビジターセンター!」
巨大なそれが唸りを上げて飛び出した。見事な一本に靴の怒りが込められていた。富岡城は悪くない。人の心の総和が悪いのだ。ビジターセンターという富岡城を復元した箱物は政治の産物というより人の心の総和であろう。そう思うと更に腹が立った。
「なぜ人はこういうものを許すのか!」
野外排出の礼儀として、土を厚く盛り、枝を立て、後々人が踏まぬよう配慮せねばならない。が、草むらという事もあって、そのままにして場を去った。去ったが怒り覚めやらず、また舞い戻った。周辺の草をむしり、目立つように整え、「この事忘れるべからず」と言い聞かせ、失恋の風景を写真に撮った。
歩きながら尻が痛かった。変な草で拭いたからだが、胸の痛みが尻の痛みに変わっても失恋は失恋。今も昔も花火のように弾けた後、残ったものを涙が洗ってくれる。足取りが軽くなった。「あばよ!」と言えた爽快感が微かにあった。
道は袋池の南側を通った後、鳥居の続く石段になった。稲荷神社である。十年前は稲荷神社を越えた後、崩れた石垣が現れたように記憶している。が、どうも曖昧である。今回、新たな富岡城に触れ、それらの記憶が呼び覚まされる事を期待したが、違うものに塗り潰されていた。稲荷神社を越えた直後、美々しい城風の建築物が現れた。白い壁、乳白色と黄土色の石垣、人工的な竹矢来、城というより、土地成金の豪邸に近かった。
唖然とした。事前に涙を枯らしたつもりであったが、予想以上の変わりっぷりに体中の力が抜けてしまった。
「大好きなあの子が濃い化粧で変わり果て、誰が誰だか分かりませんでした」
それなら想定内である。しかし、この変わりっぷりは性別も種別も超越しているように思われた。思い出のあの子が魔法をかけられ便器になった。それくらい靴の記憶を無視している。
登ってみた。よくできた像が海を見ながら並んでいた。勝海舟、頼山陽、鈴木重成、鈴木正三らしい。天草の恩人、日本の恩人と書いてあった。富岡城と微かに繋がる有名どころを集めたのだろう。
更に進んだ。資料館みたいなものがあった。パネルが飾ってあったのでそれを眺めていると、鈴木重成のやった事は「公共投資による地域浮揚である」と書いてあった。前段にその説明があった。天草島原の乱で神社仏閣が壊され、幕府の金で神社仏閣を復旧した。神社仏閣は維持費もかかるので寺社領が認められた。これにより島民の維持費負担がなくなった。逆に神社仏閣は寺社領で得た金を用い建設工事をやるので、領民は小金が入って喜んだ。そういう理屈が「公共投資による地域浮揚」らしい。突っ込みどころ満載であるが、要は天草という島が公共投資に依存していて、長年の既得権を守ろうと叫んでいるのだろう。「橋が通った。便利になった。これで市場と戦えますよ。さあ、どうぞ戦って下さい。市場原理に放り投げられた時、公共投資に依存していた人が慌てているに過ぎない。このパネルは人によって千差万別だろうが、少なくとも一つの靴はうなだれた。強引過ぎる。
更に先へゆくと休憩所があった。むろん造りは城である。箱を作ったが入れるものがなく、自販機を入れ、無造作に解放したのだろう。ここで飲む缶ジュースは実に贅沢である。建設費と維持費を缶ジュースに盛り込めば、いったい幾らになるのか。銀座の喫茶店もここのリッチさには脱帽だろう。
最後はビジターセンターである。阿蘇にもあってナチュラリストの集会場となっているので植物専門の博物館と思っていたが、そうではないらしい。ネットで調べると日本全国色んなところにナントカビジターセンターがある。ビジターとは辞書で調べるに訪問者、外来者という意味である。つまり観光客に地元を説明する場所らしいが、なぜ日本語で書かないのか。「富岡説明所」「南阿蘇説明所」ではいけないのか。観光案内所とどう違うのか。横文字表記によって意図的に分かり辛くしているように思えるが、それは英語ができない者の僻みかもしれない。
ビジターセンターに入った。入って駆け抜け、印象を得る間もなく出てしまった。人間の顔が違うように博物館の顔も違う。顔は違うが、中身はどこも似たり寄ったりで個性が押さえ付けてあるように思えた。
不意に恐ろしくなった。政治の象徴がこうである以上、人間もいずれこういう風になってしまうのではないか。現代はマスコミが目付となって色んなものを見張っている。人間がどんどん潔癖症になってゆとりがないものだから、潔癖なマスコミも粗を探し、徹底的に叩く。だから行政は当たり障りのないものしか採用できない。が、膨大な金を使い、右も左も同じでは何のために造るのか分からない。主たる目的は例の地域浮揚であろうか。それじゃ悲しい。多くの日本人が地域浮揚と称する既得権を守るため、未来永劫まで続く巨大な借金を背負わねばならないのか。とてもじゃないが子供に胸が張れない。
そもそも、富岡城は政治が意図的に壊した。「戸田の破城」といって、
「平和な時代に城など要らぬ、維持、改修の負担を考えれば領民のために壊したほうがいい」
そういう判断で戸田氏が壊した。それを三百年以上経った今、借金して復元するというのは如何なものか。怒りの脱糞にはそういう思いが込められている。
山を下り、振り返り、また溜息を吐いた。富岡ビジターセンターが見ている。可愛いあの子はもういない。一つの靴、怒りのウンコはもう出ない。
また砂州を歩いた。今度は富岡湾側を歩いた。富岡湾の先に薄っすらと小島が浮いていた。通詞島である。あそこに嫁子供がいると思うと心が父親に戻ろうとした。父親の心は草むらの脱糞を許さない。もうちょっと旅は続く。通詞島を見ないように歩いた。
三会川を渡り、志岐の集落に入った。ここは集落というより街といった方がいいかもしれない。バス停を見ていると、城下に多い地名の連続で、古い時代の賑わいが滲み出ていた。富岡城から志岐へ至る道は天草の商業幹線だったであろう。
明治以降、天草の中心は本渡に移った。志岐の街から見れば行政への恨み節もあろうが、おかげで旅情に沿う風景が残っていて、旅人としてはありがたかった。
小道を入ったところに志岐八幡宮があった。志岐村の氏神であり、戦の神・八幡様を祀っているところに志岐氏という戦国武将の名残があった。志岐氏が一番に切支丹を取り込み、その後、思った通りの利が得られない事に腹を立て、伝道師を追放し、弾圧を行った事は前に書いた。志岐村はお膝元だから大した数の切支丹を残さなかったであろう。ただ、切支丹と無縁ではいられなかったと思われる。天草島原の乱では四郎の率いる農民が富岡城を攻めた。当然、飛び火があったと思われるし、拉致された者や略奪を受けた者もいたであろう。切支丹に対する見せしめも最前列で見ている。アダム荒川という天草初の殉教者は富岡で処刑された。
切支丹が村にどういう歴史を落としたか、同じ下島でも崎津・大江と志岐・富岡では全く違うように思われた。八幡宮の境内から志岐の街を眺めたが、どうも日本的風景を主張しているように思えた。
「うちは絶対に切支丹じゃありません!」
唱え続けた歴史の余波かもしれない。
細い路地を右へ左へ動きながら海へ出た。この街は海へ引っ付くように家がある。猫もいて、あちこちの堤防で日向ぼっこをしている。子供に見せてやりたい日本の風景であった。
歩けば歩くほど通詞島が近付いてきた。三人娘の声が聞こえるようでどうもいけない。
しばらく国道を歩くと、上津深江の港に達した。港から国道を逸れ、旧道に入った。飛竜宮という神社があった。上津深江の氏神らしい。富岡の氏神も飛竜宮となっていたが何を祀っているのだろうか。調べてみたがハッキリした事は分からなかった。ただ、それに通じるものはあった。富岡の記述で「飛竜大権現宮の正しい名が富岡伊邪那岐神社」と書いてあった。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は天照大神など様々な神を生んだ国うみの男神らしく、神様の大元である。ややこしいが、とにかく飛竜宮なるものは、根深い神様を祀っているらしい。
神社で人に会った。ものを知っていそうな老人だったので飛竜宮の事を聞いてみた。が、「知らん」と言われた。祈りとはそういうもので理屈は無用の長物かもしれない。飛竜という今にも飛び出しそうな躍動感だけあればいい。
この老人と少し話した。ここは下向という集落で、上津深江村には四つの集落が集まっているらしい。川を上ると的場という集落があって、そこに古い窯跡があるそうな。後に調べたが上津深江焼というものがあるらしく、江戸時代に始まり、竹割式登窯という聞き慣れない窯でガンガン焼いていたようだ。陶石は売るほど採れたから、下島全体として焼物ブームが興ったのだろう。
少しゆくと、また神社があった。宮地嶽のようであったが、石段を登るのが億劫で先を急いだ。通詞島が見えているのがよくない。躍る心が抑えられていない。
国道と山に挟まれた細長い集落を抜けると、また国道に乗った。乗ったと思うと、また旧道に逸れた。坂瀬川村に入った。上津深江も坂瀬川も平地が少ない割に民家が多かった。漁業で食った村かもしれぬが、稲作文化においては米の取高が村の格である。天草は全体的に貧しいが、ここは特に貧しかったのではないか。
坂瀬川村の資料を見ながら溜息が出た。この村は「銀主の土地を踏まねば村に入れない」と言われていたらしい。つまり村民のほとんどが借金をし、銀主に田畑を取り上げられ、小作人に落ちていたという事である。
貧しいところには神話や伝説が多い。この旅の風景として何度も触れざるを得なかったが、豊かな想像は赤貧の痛みを和らげてくれるらしい。
坂瀬川村には財宝の伝説があった。富岡攻めに窮した一揆勢が島原へ退却する際、村のどこかに金銀を隠したらしい。本当かもしれない。しかし嘘だろう。不作に悩んだ農民に銀主と政治の圧力がかかり、豊かな想像が膨らんだと思われる。
「この固い土を掘れば金銀財宝が出てくるんじゃなかろうか」
天災に悩み、耕しても無駄だと分かっていながら、それでも鍬を入れねばならぬ地獄の瞬間があったはずだ。そういう時、希望がなければ人は生きていられない。土の中の金銀財宝はそういう類ではないか。
この旅は要らぬ想像の連続だったが、そろそろそれも尽きようとしている。坂瀬川の中心を抜け、和田、西川内という外れの集落を抜けると通詞島が目の前に見えた。
手元の地図に走り続けた赤い字が坂瀬川村で消えていた。以後、
「田舎の家、その匂いがある」
その一文しか書かれていない。一つの靴は普通の父親に戻ったと思われる。
通詞の集落で国道を離れ、島に向かった。通詞島という名前がいい。この島は古来から遠洋漁業が盛んだったようで、異国の言葉を喋れる人が多かったらしい。ゆえ、明と貿易をやっていた時代、通訳としてこの島の人が借り出され、以後、通詞島になった。嘘か真か、それは分からぬ。ただ古い時代から続いている天草の漁村である事は間違いない。
我慢できず嫁と連絡を取った。凡その到着時間を告げていたので、家族が橋で待っているかもしれない。
通詞島には橋が架かっている。通詞大橋といい昭和五十年に開通した。天草五橋が昭和四十一年開通だから、その九年後になる。千年も待てば、この島は橋を架けずとも陸続きになったかもしれない。二百メートルくらいしか陸と離れておらず、そういう想像が許される。だが、文明は地形の変化を待てるほど悠長にはできていない。
「目の前だけん橋ば架けちゃえ」
そういう流れで通詞島は陸になった。この島は橋が通された後、五和町という旧行政の観光拠点になった。イルカウォッチングの拠点が置かれ、歴史民族資料館が置かれ、温泉施設も置かれた。
通詞大橋を静かに渡りきった。嫁子供が待っている事を期待したが、どこにもいなかった。待つのも格好悪いので、なるべく古い道を歩き、宿を目指した。現実は甘くない。
通詞島は右半分に微かな平地と干拓地があり、人の気配がある。左に人の気配はない。古くからの住人は橋の左右に広がる小さな漁村に寄り添って暮らしたのだろう。
一つの靴は集落を散策しながら家族と遭遇する事を期待した。が、集落は短く、すぐに通り過ぎ、別荘地らしきものが現れた。別荘地と集落は明らかに香りが違う。集落には集団の意識があるが、別荘地は個人の集まりに過ぎない。家のつくりや風景云々の前に、そういった思想の違いがどうしても前面に出るらしく、風の香りがガラリと変わった。
別荘地や新興地が集落になるには、時間を積み重ね、見慣れた風景に価値を置くところから始めねばならない。風景に価値を置いた後、外乱からその文化的価値を守るため横の繋がりとして集団化する。そういう過程を経て集落の香りが放たれる。つまり気の長い時間がいる。気の短い文明人には集落化という作業は難しいだろう。アメリカのように、これから街や村の使い捨てが進むに違いない。
通詞島に橋が架かった事で地元の生活がどう変わったのか。古老に話が聞ければ天草の縮図が分かるかもしれないと思った。巨大な橋やトンネルは文明の荒業である。地球を物ともしないため、何か根本的なものを劇的に壊してしまう。
阿蘇に久木野という村がある。河陰と呼ばれたその地区は電車も走らず道も狭かったため、実に素朴な生活が近代まで残っていたらしい。探検途中に会った古老の話を思い出した。
「竹の子生活だったばってん、まぁ、今に比べりゃ楽しかったですよ」
竹の子生活とは生活が苦しくなると着ているものを売って食料に換える生活らしい。何とも味のある地生の言葉で気に入ってしまったが、その内容も天草を考える縁(よすが)になるんじゃないか。
近年、久木野村に巨大なトンネルが通った。このトンネルが劇的に何かを変えたらしい。集落を囲むように別荘地が生まれ、この不景気にも別荘だけは増え続けている。次々に宿も生まれ、観光地ができ、知らない人が古い集落を歩くようになった。
「昔はね、知らん人と会わんかったですよ」
知らん人が歩いていない世界に、靴を含め知らん人が山のように押し寄せてきた。
「気が付きゃこぎゃんですたい」
古老は「久木野を見てくれ」と言われる。全くもって意味が分からないらしい。地形に寄り添い、地形を歩き、耕せるところだけ耕した昔の人から見れば文明は魔法のようなものであろう。分からない世界に翻弄されるより、分かる世界で苦しんだ方がいいという古老の話は考え深いものがあった。
久木野村は人口減少に悩んでいた。が、それを補うように街から人が移住してきた。移住者が半数を超えるのは時間の問題で、そうなった時、集落は過去の遺産となる。重宝されればいいが、文明の理屈で整理・変更を迫られる可能性もある。
通詞島や久木野の話を大きくしたのが天草であり、天草を大きくしたのが熊本の話となるだろう。文明は循環している以上、いずれやってくる。どこを伝ってやってくるかというと、文明自身が造った交通網を伝ってやってくる。これが狭くて困難なら、地場の社会と経済が長い時間回せたであろう。商店街もやっていけたし、癖のある集落文化も守られた。
文明の中心が田舎へ資本を投入するというのは、競争の範囲を広げてゆかねば文明自体が続かないという基本構造にある。何度も言うが文明の基本構造は使い捨てと膨張にある。慣れない大金に田舎は一瞬喜ぶが、その後の顛末はどこも同じ。寂れ、ゴミ捨て場の役目を担っている。
(天草は離島たるべき土地ではなかったか)
この旅はそれを想って歩いたようなもので、最後が通詞島というのは運命的である。
宿が見えた。結局、家族とは会えなかった。「俺がいなきゃ」と思っているのはいつの時代も男ばかり。夢見て突っ走るのが男の仕事であって、今日は肩透かし、明日はうっちゃり、死ぬときゃ家族が泣いてくれる、それを想って生きるのが男処世の道だろう。
上二人の娘と会った。名を叫んだが宿に同い年の子供がいて、遊びに忙しいらしい。
「後でね」
そう言われ、突き放されてしまった。末っ子と嫁がいなかった。宿の人に聞くと一つの靴を探すため外に出たらしい。リュックを置き、宿を飛び出した。マニアな小道を歩いたため、すれ違ってしまった。
嫁と末っ子がいた。一つの靴、いや父親は全力疾走した。娘の名を叫び、駆け寄った。末っ子が抱き付いてくれた。嫁も笑顔であった。再会が嬉しいらしい。そう思った。が、笑顔の行方は違うらしい。
「五日も歩いたのに全然痩せてないね」
家族とはそういうもので、だから男は走り続ける必要がある。父が走り、涙を流さねば家庭は乾いてしまうだろう。
まずは風呂に入りたかった。宿に風呂はなく、目の前の日帰り温泉に行くらしい。チケットを貰い、子供と行こうと思ったが、子供同士の遊びに夢中で誰も付いてこなかった。
脱衣所に体重計があった。嫁の言葉が気になったので乗ってみた。体重は痩せていた。五日間二百キロを歩き、二百グラム痩せていた。嫁に言おうか迷ったが、馬鹿にされるのは明白だったので通詞の湯に流した。
夜は旅の思い出を話した。嫁が聞きたいと言ってきたのに話せば興味はないらしく、相槌すら打ってくれなかった。その代わり、子供たちから手作りクッキーを貰った。バレンタインのプレゼントらしい。嬉しかったがそれを食べたのは子供たちで、気付いたらなくなっていた。
この翌日、行くつもりで行けなかった四ヶ本寺の東光寺に寄った。夫婦は似てくるというが、好みは永遠に寄らないものらしい。
「これ、何神社?」
寺でそう聞かれ、唖然とした。
「お前は寺と神社の区別もつかんのか!」
言い返そうと思ったが、眠そうな嫁の顔が「興味なし」を告げていた。どちらか一つがのめり込んだ場合、片方は思いっきり冷めてる方がバランスは取れるらしい。結婚十年目、意外にうまくいっているのは、このおかげかもしれない。
普段の生活に戻った数日後、テレビをつけると笑えないニュースがやっていた。通詞島の温泉が営業停止処分になったらしい。レジオネラ菌が基準の五百倍もありながら営業を続けていたという。家族全員、五百倍の湯に浸かってしまった。それも二月十五日から営業停止という事だから、靴が浸かった十四日はレジオネラピークの瞬間だろう。
「誰か病人はおらんか?」
嫁に聞くと、末っ子が腹痛を起こしていた。食ったものを聞いた。大人並に食っていて、単なる食べ過ぎだと思われたが、嫁は保健所に確認の電話を入れたらしい。
「いっぱい食べた後、うちの子が腹痛を起こしまして、レジオネラ菌と関係ありますか?」
「関係ありません、単なる食べ過ぎです」
問答を説明する嫁に、一つの靴は思いっきり笑ってしまった。地球は平和である。こういうのを本当の幸せというのかもしれない。
一つの靴は歩いて想い、これを書きながらまた想い、想像に想像を重ね、天草という陸に近い島を勝手に描き、大いに楽しんだ。描き過ぎて疲れてしまい、何度も挫折を思ったが、とにかく最後まで書いたという事に今は満足している。
これを書いている間、四六時中天草の事を考えていたので、描いた天草が人格を持って旅人の前に現れてくれた。先に書いた久木野村の老人のように、
「気が付きゃこぎゃんですたい」
そう言っている。
天草はどこへ向かうのか。天草だけじゃない。文明の中にある田舎はどこへ向かうのか。膨張の循環は幸せの価値も変えていき、何かが尽きるまで膨張を続けるだろう。家族の幸せは大型ショッピングセンターへゆき、車に乗って遠出し、飛行機に乗って海外へゆく。さあ、次はどこへ行こうか、カネ、カネ、カネ、カネがいる。
古い天草は貧乏だから唐芋の尽きる日があったかもしれない。そんな晩、家族五人は石に座り、月を眺めたであろう。月が川面に浮いていて、吹く風に潮の匂いがある。足元は小さな流れに濡れていて、小川の音が涼を呼ぶ。家族五人、空腹を紛らわせねば夜が越せない。
「父ちゃん、腹減った」
「言うな、月ば見れ」
「・・・」
「こっば見ながら外で寝る、こぎゃん贅沢っかことの他にあっか」
「父ちゃん、ごめん」
幸せとは何か。少なくとも膨らみ続けるものではない。
古い天草は過酷であった。一つの靴は過酷を見つめ、過酷を通じて今を喜ぶべきであったが、どうしても喜べなかった。天草は過酷な時代に人が増え、橋が架かって人が減り、大地を固め、道を広くして尚、人が減り続けている。なぜ人が減るのか。これは全ての田舎にいえるかもしれぬが、ビルの谷間で故郷を想い、泣ける人が少なくなってきたからではないか。
「気が付きゃこぎゃんですたい」
こぎゃん田舎に人は戻らないのかもしれない。
一つの靴は通詞島で海に溶け、風に乗って山にかえった。
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