第31話 百式螺旋(2008年7月)

初めてラッカーというものを使った。言わずと知れた塗装用のスプレー缶だが、プラモ屋の息子でこれを使った事がないとは何とも悲しい現実である。
ホームセンターでそれを手に取り、
(幼少の影響は死ぬまで残る・・・、怖い・・・)
その事を思った。
というのも、生まれた時からプラモ屋の息子だから作るものと塗るものはふんだんにあった。ガンプラなどは倉庫に山積みされており、売れ筋以外のものであれば回してもらえ、頻繁に作った。私の記憶によるとガンダム(主役)は売れるから作った記憶がなく、グフ、ザグ、ズゴックなど、脇役のそれをよく作った。
プラモ作りの手順は塗装後に組み立てるのが普通である。塗装こそプラモ作りの要諦であり、その良し悪しが出来栄えの九割を決めるらしく、親父は塗装にうるさかった。
「下地に銀を塗れ。塗った後たっぷり一晩置き、魂込めて塗装せよ。組み立ては塗装のオマケだ。ちゃちゃっと済ませ仕上げに入る。継ぎ目が見えなくなるまで工夫しろ。工夫には一晩が要る。その後、サンドペーパーでそれとなく擦り、下地の銀を薄っすら見せる。どこの銀を見せるかがリアリティーの分かれ目だ。分かったか、馬鹿息子」
そうは言わなかったが、子供心にうるさく感じた記憶があり、これに沿えば三日も寝かせる必要がある。
私がプラモ製作を拒否し始めたのは「百式」という黄色いロボットのせいである。今でも鮮明に憶えているが、こやつを作る際、面倒臭くて下地の銀を塗らなかった。このせいで親父から激しい叱責と体罰を受けた。
幼少の私は工藤静香の名曲・慟哭に倣い、一晩中泣いた。泣いて泣いて、気が付いたのが、
「塗装なんて糞っ食らえ!」
その事であり、以後、着色という作業を毛嫌いするようになった。
青春時代、私は美術が嫌いであった。下絵を描くのは好きだったが、着色の作業になると倦怠感に襲われるのが常で、いつも中途半端な絵を提出した。長期休みの宿題に関しても色のない絵ばかりを描いていて、その点、子供ながら拗ねっぷりが徹底している。
子供心というのは桃のように敏感で弱々しく、百式のトラウマは三十路を超えた今の今まで黒い痣として心のどこかに残っているようで、避け続け逃げ続け、今に至っているようだった。が・・・、お客さんが「塗ってくれ」と言えば塗らねばならない。
ホームセンターは三日に一度は通っている第二の家みたいなものであるが、塗装コーナーに入るのは初めてだった。踏み込み、グルリ見渡した。塗装缶やスプレー管、それに薄め液を見るだけで苦い思い出が体の隅々を疾駆した。逃げ出したいが目的のモノを探さねばならない。よりによって指定の色は銀。思い出の色である。
銀・・・、つまりシルバーであるが色々あった。艶があったりなかったり、暗めだったり明るかったり、微妙なところで分けられていたが、何でもいいやとエナメルシルバーを買った。理由は名前に力があったから、それだけである。イメージとしてバフ研磨を施したニッケルメッキを想像したが、塗ってみるとラメが随所に光るマツケンサンバの色であった。
ラッカー塗布のコツは親父の作業を見ているので何となく分かっている。適度な距離を保ちながら定速でシューッ、均一に塗るのがポイントだ。記憶を頼りにシューッとやった。果たしてどうか。見事な出来栄えであった。
外の作業台に塗装物を置き、炎天下の中、汗ダラダラになって作業をやった。可笑しかったのはスプレーも「シューッ」というが、その口も「シューッ」と言っており、口先は尖がりっぱなしである。
二十年ぶりの塗装作業であったが、なかなかどうして、やれば楽しい。仕事の一件だけでは飽き足りず、続いて手作り台車の塗装をしたり、子供用机の塗装をしたり、一生分の塗るという作業を半日使ってノリノリやった。
(うむ、これで私のトラウマも消えた)
目の前に広がる塗装物のあれやこれに満足気な笑みを見せる私であったが、ふと見ると客先に納めねばならない塗装物にアブがとまっている。
(まだ乾いてないのに!)
そう思い、手で払おうと一歩を踏み出した時、アクシデントが発生した。
足元はゴム製の便所サンダルであった。踏みしめている大地は舗装されておらず、砂利が敷いてある。で、思いっきり小石に躓いた。重い体は前に倒れる。どこか支えなければ作業台に顎を痛打してしまうだろう。手は前に出た。行き着く先は塗装物である。
アブは巨体のダイブに驚き、猛烈な勢いで飛び去った。その代わり塗装物には平手の跡がクッキリ残った。
(しまった・・・)
思うが、もう遅い。よりによって汚してはいけないものを派手に汚してしまった。が、それは物事の宿命だろう。大事なモノから壊れてゆく。大事な皿から割られてゆく。大事な服から雑巾代わりにされてゆく。人生は涙と感動の連続である。
頭を切り替え修正に入った。
最初は更なる塗装で誤魔化そうと試みた。無理だった。
次に手形のところだけ拭き取り、そこに再塗装する方法を試みた。境界線がバッチリ見え、見苦しかった。
仕方がないので親父に電話を入れ、修正の方法を聞いた。ヤスリで擦った後に塗装し、境界部には薄め液を吹きかければ良いという。あいにく私はスプレーガンを持っていなかったし買う気もなかったので、とりあえず目の細かいヤスリで塗装を削った後、再塗装してみた。
(うーん、なかなか良い)
距離を置いた上にメガネを外せば何となく良い感じに見える。
(よしっ、OKという事にしよう!)
後ろめたい気持ちはあったが、とにかく乾くのを待つことにした。が・・・、一昨日から昨日の午前にかけ、阿蘇は150ミリの超豪雨であった。塗装物は屋根付き壁なしのところに置いていた。通常の雨なら塗れないが超豪雨に対しては無力であり、塗装物はビショビショに濡れていた。恐る恐る塗装面に目を向けた。最悪。乾かぬ内に水を浴び、蚊に刺されたようにプクプクしていた。
塗装に関し私は素人だから、この作業は仕事ではない。ビタ一文にもならない試練であり、勉強であり、乗り越えねばならない一過性のアクシデントであった。が・・・、本当にマイッタ。
(塗装よ、二十年後も私を苦しめるか!)
その事であり、時間は増水時の川の如く、私の隣を轟々と流れてゆく。早朝の貴重な時間をたっぷり使い、ヤスリで丁寧に塗装をはがし、雨が上がったところで再度シューッとやった。
午後からは晴れだった。お日様の下で乾かし、やっと別件の仕事に着手できた。
事務所で仕事をやっていると足音が近付いてきた。運送屋か嫁であろうと思ったが、よく聞くとイクラちゃんの足音に似ている。
「しまった!」
勝手気ままな二歳児・美菜ちゃん(三女)登場であった。
「おっとー、いっしょ、あそぼー」
その小さな手はためらう事なく塗装物へ向かっている。
「勘弁してくれー!」
叫び、裸足で事務所を飛び出したが、時既に遅し。またも手形が付いてしまった。幸い生乾きの状態で傷は浅い。更に小さい手だったため、「星の模様を付けました」と言えばそう思ってもらえなくもない。小さな指紋は超積極的に見れば唐草模様にも見える。
一歩、二歩、三歩、大股で離れ、念入りにチェックした。粗が見えるのでもう一歩離れ、そして薄目でチェックした。メガネも外した。
「うん・・・。見えない・・・。何も見えない」
消えかけた百式が又も私の中に現れ、そして居座った。今度は大幅にスケールアップしており、テコでも動きそうにない。彼は私の螺旋に組み込まれ、私の死と共に消え失せる存在になった。
「塗装はやらない」
誓う目は、既に明後日の方向を見ている。
雨の後・・・、嗚呼、夜峰山が美しい。(現実逃避)
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